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神を知るようになるものみの塔 1975 | 6月15日
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弟子ヤコブの次のことばが自分の場合に当てはまることを再三経験するでしょう。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求めつづけなさい。神はすべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです」― ヤコブ 1:5。
21 神を知り,神の是認される道を歩み続けるとき,どんな結果が生じますか。
21 わたしたちが,神のことば聖書や,わたしたちの祈りに対する答えの中で明らかにされている神の知恵に従って行動しつづけるとき,どんな結果が生ずるでしょうか。エホバ神はご自分の霊により,わたしたちが敬虔な性格を育てることにおいて進歩するよう,わたしたちを助けつづけてくださいます。「力」,つまり『わたしたちの思いを活動させる』原動力は,神の義の規準に一層よく従うようにわたしたちを動かすでしょう。(エフェソス 4:20-24)神の命令は,一冊の本に印刷された単なることばとはならないでしょう。むしろそれは,わたしたちの思いと心に印されて,わたしたちの本性の一部となるでしょう。わたしたちはその命令に従うことから得られる益を経験してその命令の意味を知り,それらの極めて高い価値を認識するでしょう。(詩 119:1-16,74-77,164-168)そして使徒パウロが述べたように,「神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知る」ことができるでしょう。―ローマ 12:2。
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敬神の専念を追い求めることにより,どのような益にあずかれるかものみの塔 1975 | 6月15日
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敬神の専念を追い求めることにより,どのような益にあずかれるか
「確かに,自ら足りて敬神の専念を守ること,これは大きな利得の手段です」― テモテ第一 6:6。
1 敬神の専念の道を追い求めるのはなどんな人だけですか。どんな結果が生じますか。
神を正確に知っていて,その知識に従って行動する人,そのような人だけが,神を正しく崇拝することのできる立場にあります。そのような人だけが,「敬神の専念」,つまり敬虔の道を歩んでいると言えるでしょう。この道を追い求めるなら,永続的な益を受ける結果になります。使徒パウロは,クリスチャンの若い監督テモテに,「確かに,自ら足りて敬神の専念を守ること,これは大きな利得の手段です」と,書き送りました。(テモテ第一 6:6)「敬神の専念はすべての事に益があ(ります)。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。(テモテ第一 4:8)敬神の専念は,将来の報いだけでなく,現在においても「大きな利得」と「益」とをもたらす,とパウロが述べていることに注意してください。
2 テモテ第一 3章16節は,敬神の専念について,何にわたしたちの注意を引きますか。
2 「敬神の専念」,または崇敬の念を表わすとは,いったいどういうことでしょうか。この質問に対しては,敬神の専念を完全に保たれたかたの模範に勝る答えはありません。聖書はその模範としてひとりの人を指摘しています。テモテ第一 3章16節には次のように書かれています。「明らかなことですが,この敬神の専念[文通りには,こうしてよく尊崇すること]に関する神聖な奥義はまことに偉大です。『彼は肉において明らかにされ,霊において義と宣せられ,み使いたちに現われ,諸国民の中で宣べ伝えられ,世で信じられ,栄光のうちに迎え上げられた』のです」。この人はだれでしたか。そしてこの神聖な奥義はこの人に関連してどのように成就しましたか。
3 (イ)6,000年ほど前,敬神の専念についてどんな疑問が生じましたか。なぜですか。(ロ)その疑問に対する答えは,どんな意味で「神聖な奥義」でしたか。
3 約6,000年の昔,どの人間が敬神の専念を完全に保つか,という疑問が生じました。この疑問は,最初の人間アダムが,崇敬心のない行ないをしたために生じました。完全なアダムは,すべてのことにおいて創造者から恩を受けていたにもかかわらず,神の律法を犯し,神がお受けになってしかるべき愛と尊敬と献身を神に示すことをしませんでした。不従順によって完全性を失ったために,アダムは,敬神の専念を完全に保つことができない,罪深い子孫しか生み出すことができませんでした。それにもかかわらず,エホバ神は,それができる完全な人間をご自分が地上に置きうることをご存じでした。その人物が地上に出現するまで,だれが専心の献身を完全に保つことができるかについての答えは,神聖な奥義,すなわち神だけが知っておられる奥義,となっていました。他の聖句がはっきり示しているように,この奥義の中心となっていた人物は,人間イエスとして「肉において明らかにされた」神のみ子です。(ヨハネ 1:14。ヨハネ第一 4:2,3)したがって,父なる神にあくまでも忠誠を尽くされた人間としてのイエス・キリストの全生涯は,敬神の専念もしくは崇敬の念の明確な表示でした。この「神聖な奥義」に包含されている教訓を心に銘記することは,現在においても将来においても,すばらしい益となる可能性があります。
4 アダムの歩んだ道は,敬神の専念を保たない場合の結果について,どんなことを明らかにしていますか。
4 アダムがどうなったかを考えると,敬神の専念の道を捨てることには何の得もないということが,はっきり分かります。アダムは父なる神を崇敬しなかったために,完全な人間の命を,そのすべての権利や見込みもろとも失ってしまいました。かつて持っていた天の父との密接な関係はなくなりました。もはや神の指示と導きを受けることができません。彼の良心は汚されてしまいました。子どもに譲ってやれるものといえば,不完全さと死だけでした。完全な住みかであった美しいパラダイスから強制的に出されたのですから,再びそこに入ることは禁じられました。―創世 3:8,17-19,24。
5 イエス・キリストは,敬神の専念を保つことによって利得を得られましたか。
5 しかしイエス・キリストはどうでしょうか。敬神の専念を保つことによって損をされましたか。敬神の専念を保つことがイエスにとって容易な道でなかったことは事実です。イエスがそれを保たれたために世はイエスを憎みました。イエスはののしられ,肉体的に虐待され,ついには極悪の犯罪者のように刑柱にはりつけられました。(ヨハネ 15:18。ペテロ第一 2:23,24)それでも,イエスの歩まれた道はやはり利得の道でした。イエスは清い良心を維持されましたし,引き続きみ父の援助や導きや激励から益を受けられました。イエス・キリストは三回も,ご自分が歩んでいる道を是認するみ父の声を聞かれました。(マタイ 3:17; 17:5。ヨハネ 12:28,29)また,奇跡やしるしや異兆を行なう力を授けられて,ご自分がみ父の後ろだてを得ていることを経験されました。(使徒 2:22)悪魔の誘惑を首尾よく退けられた時には,「み使いたちが来て彼に仕えはじめ」ました。(マタイ 4:11)また,イエスの死の前の最後の晩にも,ひとりのみ使いが「現われて彼を強め」ました。(ルカ 22:43)死に至るまで忠実であられたので,エホバ神はみ子を復活させられ,天における不滅の命というすばらしい賞をお与えになりました。使徒パウロは霊感を受けて次のように書いています。「神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名にまさる名をすすんでお与えになったのです。それは天にあるもの,地にあるもの,[死んだ状態にあるけれども復活を待っている]地の下にあるものすべてがイエスの名においてかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした」― フィリピ 2:9-11。
6 パウロがテモテ第一 6章6節で用いている「利得」という語について説明しなさい。
6 わたしたちは,イエス・キリストのように,
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