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年老いた親に気遣いを示す ― どのように?ものみの塔 1981 | 4月1日
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を教え,そのおかげで年老いた母親はずっと幸福に日々を送れるようになりました。お年寄りがある程度上手に物事を行なえるなら,自分が行なった方がもっときちんとできると思える場合でも,“母親のように”世話をしてはなりません。
お年寄りにとって,子供と交わることほど1日を楽しくするものはありません。そして,子供たちの多くもお年寄りと遊ぶのが大好きです。おそらくおじいちゃんおばあちゃん以上に,幼い子供たちに多くの時間を割き,興味深い物語や経験を話してあげられる人はいないでしょう。
年老いた親が歩けなくなるなら,車いすを使用するのがよいでしょう。おじいちゃんやおばあちゃんは初めこれに難色を示すかもしれません。(「人はどう思うだろうか」と心配します。)しかし,これに乗ると家の外にもっと出やすくなることを知るなら,異存は全くなくなるものです。
しかし,親が独りで住むことを望んだり,結局養護施設に入ったりする場合,困っている親のために何ができるでしょうか。そのような事情の時,体が弱っていたり孤独な生活を送っていたりする親の近くに移り住んだクリスチャンもいます。そして,孫が祖父母の所で一晩過ごせるかもしれません。養護施設にいるような場合,定期的な訪問を行なえるでしょう。近くに移り住むことができなくても,自分の親の様子を定期的に見てもらうよう近所のだれかに頼めるかもしれません。
さらに,年老いた父母や祖父母を時々訪問して,簡単に“様子を見る”のはふさわしいことです。食べ物や暖房など,必要な物をすべて得ているでしょうか。すべてが清潔ですか。修理を必要としている物はないでしょうか。孤独感をつのらせてはいませんか。健康状態はどうでしょうか。きちんと世話を受けられるよう見届ける責任があることを忘れないでください。
何よりも年老いた親が望んでいるのは,自分が深く愛されていて,お荷物とは思われていないという確信です。時々親し気に腕を回して,温かく抱き締めてあげてください。お年寄りは愛のこもった温かい関心や接触を大いに必要としているのです。また,以前に聞いたことであっても,親が何かを話す場合,その話を真面目に聞いてあげましょう。自分の話す事柄にもうだれも注意を払ってくれないのを知るのは,お年寄りにとってとてもつらいことなのです。自分が望まれていないという感情は沈んだ気持ちを引き起こし,最終的には死を早めます。
会衆は多くのことを行なえる
しかし,信者となった子供が一人もいない,年を取った忠実なクリスチャンは,愛ある援助を一切受けることができないのでしょうか。そのようなことはありません。神の真理の道を歩み年老いて体が弱くなった,これらの忠実なクリスチャンに対して,クリスチャン会衆すなわち「神の家の者たち」が愛ある世話を施すのはふさわしいことです。―テモテ第一 3:15; 5:16。
これに関連して,クリスチャンの一姉妹は次のように書きました。「主人は真理にいませんが,主人の許しを得て6年以上にわたり高齢の霊的な姉妹(86歳)の世話をしています。この姉妹に対する愛に動かされたのです。この姉妹を自分の“おばあちゃん”のように考えています。この姉妹が私の子供を含めだれかれかまわず命令口調で話したので,初めはとても重荷でしたが,エホバは本当によく助けてくださいました。子供たちも年取った人たちと仲良くやっていく方法を学びました」。
別の老齢の姉妹に関して,クリスチャンの一兄弟は次のように書いています。「この姉妹はつらい孤独な人生を送った後,76歳でバプテスマを受けました。心臓を患い,歩行も困難になったため,それまで以上に世話を受ける必要が生じました。当時,この姉妹は81歳でしたが,私たちはまだ年若く,結婚して2年もたっていませんでした。ここ何年かの間,たとえ短い時間であっても姉妹を毎日訪問して,その生活をより楽しいものにするよう心掛けています。私たちは姉妹の必要とする仕事をしてあげ,妻が洗濯と炊事を行なっています。姉妹に対する最大の贈り物は彼女にちなんだ名を息子に付けたことでした。その時姉妹は,『私は本当のおばあちゃんなんだね』と言って涙を流しました」。
クリスチャン会衆内の他の人々は,自分たちの間の年老いた人たちが,エホバ神の望んでおられる通りの世話を受けられるよう配慮していく上で多くのことを行なえます。この点であなたにも他の人を助ける機会があるでしょうか。
神の祝福を受ける取決め
言うまでもなく,年老いた親を引き取るのはささいなことではありません。しかし,そのようにした人たちの次の言葉を考慮してみるとよいでしょう。
「非常に優れた証言となっています。年老いた母がいることは確かに家族の一致に役立っています」とある人は語りました。
別のクリスチャンは次のように書きました。「夫婦として互いの価値をより一層認められるようになったことは,私たちの受けた祝福の一つです。また,耐え忍ぶことも学びました」。
さらに別の人はこう書きました。「私たちと一緒に住むようになった時,母は自分の身の回りのこともできない病人でした。でも,母は少しずつ家庭の中で果たす仕事の範囲を広げていきました。すると,それに伴って体力が回復し,健康になっていきました」。
あなたのご両親のどちらかまたは双方の体が弱ってきたとしたらどうしますか。静かに腰を下ろして,年少の時分に,またその後でさえ,親が自分のためにしてくれたすべての事柄を「思い返してみる」のはどうでしょうか。こう自問なさってみてください。父母がいなければ自分はどうなっていただろうか。自分の親を愛をこめて世話するなら,子供にどんな模範を示すことができるだろうか。また,神はわたしにどうすることを望んでおられるだろうか。それに対する神の答えは次の通りです。「善を行なうことがあなたの手の力の中にあるのに,それを返すべき人から控えてはならない」― 箴 3:27,新。
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賢明な格言ものみの塔 1981 | 4月1日
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賢明な格言
「賢い者たちは誉れを得るが,愚鈍な者たちは不名誉を高めているのである」― 箴 3:35,新。
真の知恵をしばしば示す人は,自分が求めていなかった誉れを受けます。他の人は,その人が洞察力を持ち,知識に基づいて行動していることを,またその人が模範的な人物であることを見て取ります。そのゆえに,求めることもなかった誉れがその人にもたらされるのです。(箴 12:8; 22:29)これは,その人が神の知恵を探し求め,それに付き従っているからにほかなりません。(ヤコブ 3:13,17)「愚鈍な者たち」とは何という違いでしょう。この者たちは,真の誉れまた永続する誉れをもたらすものではなく,最終的に自分の身に恥辱を招くようなものを最優先の事柄とみなします。その愚鈍さゆえに,結果がどうなるかを予測することをしないのです。「賢い者」と「愚鈍な者」とは確かに大いに異なっています。
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