悪い欲望の力を認める
『人が誘惑に陥るのは,それぞれ,欲に引かれ,さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み,罪が熟して死を生み出す。』― ヤコブ 1:14,15,新口。
1,2 アカンとは誰でしたか。どんな仕方で彼は不従順でしたか。
光りかがやく金の棒,目もまばゆい銀,そして美しい衣服のために,ひとりの人は自分の生命を払いました。その出来事は,キリスト前15世紀にイスラエルの国民がエリコの邑を征服した時に起りました。その人の名前はアカンです。彼はイスラエルの軍隊の一兵士でした。その軍隊は,邑の中のすべてのものを亡すようにと命ぜられていました。邑の中で見出される金,銀,そして他の金属以外のものは,何一つとして掠奪してはならず,またそれらのものも,兵士の所有物にはならないものでした。それらは,ヱホバ神に棒げられていたイスラエル人の宝物所に納められるべきものでした。
2 その昔にさかのぼつて,エリコの家宅捜査のときに起きた事柄に気をつけてごらんなさい。アカンひとりだけ1軒の家にいます。彼は金の棒や,いくらかの銀や,そして美しいカルデヤの衣服を見つけました。その衣服を手ざわりしている中に,そのような美しい衣服を焼いてしまうのはなんと遺憾なことだと,彼は考えます。それを見つめて,その布地の良い手ざわりを感ずれば感ずる程,それを自分のものにしたいと欲します。金と銀を持ち上げて手の中で重みを測るときにも,同じように欲します。彼は,これらの禁ぜられた物に対する欲望を生ぜしめます。その家のうす暗い内部の部屋では,誰にも見られていないので,彼は自分の欲望をしとげようと勇気ずきます。彼がこれらのものを取つたことなどは,とうてい知られることはないだろうと,アカンは考えます。邑がそれらの物を惜しく思うようなことは決してないでしよう。この考えに力ずけられたアカンは,品物をかくしてその亡びの邑から自分の天幕に持ち去ります。人知れぬように床覆いの隅を開けて,地中に穴を堀り,掠奪したものを埋めます。床覆いを元通りにして後には,アカンは満足の気持で顔を背けます。何人も彼に上廻る智恵を持つことのないような賢明さで,彼は自分の欲望を充しました。
3 アカンの悪い行は,なぜ隠し通すことができませんでしたか。
3 アカンは悪い欲望を頭に抱いて,その欲望を成しとげました。しかし,大丈夫と考えていたにもかかわらず,その行いは知られてしまつたのです。たしかに人間の目は彼の不従順な行を見ませんでしたが,神の目は見ました。イスラエルの神は,神の選民を腐敗するそのような者のいることを許しません。それで,故意の不従順と盗みの行の故に,イスラエルは神の目の前に汚れていると,神はヨシユアに知らせました。『ヱホバ,ヨシユアに言たまいけるは,立てよ,なんじ何とてかくはひれ伏すや。イスラエルすでに罪を犯しわが彼らに命じおける契約を破れり。すなわち彼らは詛われし物を取りぬすみ,かつ詐りてこれを己のもちものの中にいれたり。是をもてイスラエルの人々は敵に当ること能わず,敵に背を見す。是は彼らも詛わる者となりたればなり。なんじら其の詛われし物を汝らの中より絶つにあらざれば我ふたたび汝らと偕におらじ。』― ヨシユア 7:10-12。
4 彼はどのように見出されて罰せられましたか。
4 それで,ヨシユアは各支族を自分の前に進み行かせました。有罪の男はユダの支族にいると,神はヨシユアに示しました。その支族からゼラの家族がひかれ,その家族のすべての男が進んで,そしてアカンの番が来ました。彼がヨシユアの前に来たとき,神はこの男が有罪の者であると示しました。『ヨシユア,アカンに言けるは,吾が子よ,イスラエルの神ヱホバに誉を帰し,これにむかいて懺悔し,なんじの為たることを我に告げる。そのことを我に隠すなかれ。』(ヨシユア 7:19)アカンがその悪行を告白したとき,人々は彼の天幕に行つてその掠奪品を堀り出し,ヨシユアのところに持つて来ました。それからアカンは天幕の外に連れ出されて石打ちの死刑を受けました。それですから,罪にみちびいた欲望は,彼の死をもたらしたのです。
5 アカンの経験から私たちは何を学ぶことができますか。
5 アカンの経験は,悪しき欲望の力と,それの結果が何であるかをはつきり示しています。また,人目に知られぬように悪い欲望を行おうとも,それは知られるものであるとも,示しています。宇宙の主権者であるヱホバ神は,それを見ます。しかし,アカンのような悪しき者は,この事実を認めようとしません。『彼は心の中に言う。神は忘れたり。神はその面をかくせり。神は見ることなかるべしと』(詩 10:11)しかし,ヱホバはそれを必らず見て忘れません。それですから,人は自分のつちかう欲望については十分の注意を払い,その欲望が悪いものでないようにしなければなりません。
6 何を心に銘記すべきですか。
6 聖書を書いたヤコブが,悪い欲望とその結果ついて述べた言葉を心に銘記すべきです。『人が誘惑に陥るのは,それぞれ,欲に引かれ,さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み,罪が熟して死を生み出す。』(ヤコブ 1:14,15,新口)アカンの場合がそうでした。金の棒,いくらかの銀,そして衣服に対する彼の欲望は,罪にみちびき,そしてその罪は死にみちびきました。それですから,欲望の強力な誘引力が,聖書的に見て悪い事柄にあなたを引いていると感ずるならば,欲望についての聖書の言葉を想い起しなさい。アカンに生じたことを思い出しなさい。それから意思の力を用いて,その誘引をしりぞけなさい。もし,強くしりぞけることができないなら,欲望はだんだんと強くなつて,遂には欲がはらんであなたに罪を犯させます。すると,今度は亡びの裁きを神から受けます。
多数の者は悪い欲望に屈した
7 或る人々は,どんな間ちがいをしましたか。
7 昔からいままで献身したクリスチャンの中で,悪い欲望をもてあそんでも自分に害を受けることはないと考えた人がいました。それらの人は,その欲望に用心深くしなかつたため,それにさそわれると,頭からそれを取り除くことをしませんでした。かえつて,その欲望を心に抱きました。そのことに考えをめぐらしている中に,それに対する反抗は弱まつて行き,ついに欲望にすつかり圧倒され,そして,欲のはらむのを許すようになつたのです。そのような悪い行をなした彼らは,神の御前で汚れた者となり,ちようどアカンが神の神権制度に居ることの不適当であつたように,彼らも神権制度に居ることが不適当になりました。それで,神は彼らを排斥して,もはや自分の僕として受け入れませんでした。時たつ間,これらの中の少数の者だけが心からの悔い改めを示し,神の過分の御親切によつてその罪はゆるされました。それで,神権制度に入ることが許されたのです。しかし,神の恵みに戻ることは,ほんとうに難しい道でした。最初にその悪い欲望を斥けた方が,はるかに良かつたでしよう。
8 悔い改めの気持を示さないで悪い欲望を充した者たちについて,ペテロは何と述べましたか。
8 真心からの悔い改めを示そうとしなかつた人々は,永遠の亡びに面しています。それらの者たちについて使徒ペテロはこう述べています,『また,大ぜいの人が彼らの放縦を見習い,そのために,真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは,貧欲のために,甘言をもつてあなたがたをあざむき,利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ,彼らの滅亡も滞ることはない。』(ペテロ後 2:2,3,新口)それですから,悪い欲望を頭の中でもてあそんではなりません。むしろ,心からすつかり追い出しなさい。悪い欲望を根ずかせてはなりません。
9 エバはどんな間ちがいをしましたか。
9 聖書には,この事実を認識しなかつたアカンのような人々の例がたくさん記録されています。いずれの場合でも,その結果は何時も同じで,悪い欲望は罪にみちびき,罪は死にみちびきました。最初の女であるエバにもそのことが生じました。エデンの園にある禁ぜられた木の実を食べるなら,賢い者になつて神のごとくになり,そして自分自身で善と悪を判断し得ると告げられたとき,彼女はその実に対する欲望を持ち始めました。考えれば考える程,その実はますます目に好ましいものとなり,ますます欲しくなりました。『女木を見れば,食らうに善く,目に美わしく,かつ智慧からんが為に慕わしき木なるによりてついに其の実を取りて食い』(創世 3:6)そのようにして,彼女の悪い欲望は罪をはらみました。先ず最初にその欲望を心から出す代りに,彼女はその欲望を心に抱くという間ちがいをいたしたのです。時たつ中に,この罪はエバに永遠の死をもたらしました。
10 アダムが心に抱いた悪い欲望は何でしたか。
10 アダムの場合,彼は,ヱホバに従うよりもエバをよろこばせたいという欲望を抱いたために,罪にひかれました。園の別の場所から戻つてきてエバのしたことを見たとき,アダムは彼女を矯正しようともしなければ,彼女の罪に与ることを拒絶しようともしなかつたのです。それどころか,彼はエバの手から実を受け取つて,神に対する意識的な不従順に加わつてしまいました。エバをよろこばしたいという彼の欲望の結果は,神に反逆することになりました,『(ヱホバは)アダムに,言いたまいけるは,なんじその妻の言葉を聴きて我が汝に命じて食らうべからずと言いたる木の実を食いしによりて土は汝のために詛わる。』もしこの実を食べるなら死ぬであろうと,アダムは前もつて警告されていました,それですから,不従順であることは彼をつくりあげた生命のない塵に戻ることです。『汝は塵なれば,塵に帰るべきなりと』(創世 3:17-19)それで,アダムの悪しき欲望は罪にみちびき,彼の罪は死に導びきました。
11 人は,悪い欲望を持てば自分自身を害すると,どうして確信できますか。
11 悪い欲望は,完全な男と完全な女を罪と死にひく力を持つていました。それであるなら,不完全な人間が悪しき欲望を心に抱いても,その欲望が遂行されることはない,などと軽卒な言葉を言える人は一人もいないはずです。イエスが次のように語られたのも,まつたくこの事実によるものでした,『しかし,私はあなた方に言う。だれでも,情欲をいだいて女を見る者は,心の中ですでに姦淫をしたのである。』(マタイ 5:28,新口)そのような者は心の中で姦淫をしたと言うことができます。もし機会があるなら,その悪い欲望は姦淫を実際にせしめるでしよう。また独身者の場合なら,淫行を行わせるでしよう。
12 ダビデは,どのように罪にみちびかれましたか。彼の経験は,私たちに何を教えますか。
12 ダビデ王の場合に,この原則は真実であると証明されました。ダビデ王が宮殿の屋根の上を歩いているとき,沐浴しているバテシバを見ました。そして,彼は欲情を抱いて彼女を見守つたのです。その欲望に打ち負かされたダビデ王は,バテシバが他の男の妻であつたにもかかわらず,その欲望を充たそうと図り,実際に欲望を充たしました。彼女の夫を戦闘の最前線に配置して,戦死は必至なものにするようにダビデは手筈しました。彼女の夫が殺されて後もダビデは,悪い欲望を持ちつづけて,バテシバを自分の妻にしたのです。それで,バテシバを見たときに身内に生ずるのを許した欲望は,ダビデをして神の御前に罪を犯せしめたのです。予言者ナタンが彼の悪行を指摘したときに彼が誠実な心から悔い改めなかつたなら,この罪を犯したダビデは生命を失つたことでしよう。それですから,悪い欲望を最初に見定めて,そして心からその欲望を取り除くためにいろいろの努力をつくさねばなりません。
13 (イ)御使は悪い欲望の力に屈すると,どうして知りますか。(ロ)罪を犯した最初の御使の欲望は何でしたか。
13 このことは,絶対に必要なことです。御使でさえも悪い欲望の力に屈したということを想い起すとき,そのことについての認識を更に深めることができます。力のあるこれらの天の被造物は,人間よりも遙かに勝れたものですが,それでもその力からは自由でなく,その多くは悪い欲望の犠牲者になりました。堕落した最初のものは,宇宙の主権者ヱホバのごとくなろうとのほこりと欲望でいつぱいになりました。彼は,最初の男と女によつて,自分の欲望をなしとげる機会を見ました。両人はついには人間種族でもつて地を充たすということを彼は知つていました。それで,自分が全地の支配者になり,地上に充ちる人間がみな彼を崇拝して彼に仕えるという幻を,彼は抱きました。おそらく,彼の野心はそこで止まらなかつたのでしよう。次には,自分が全宇宙を支配して,ヱホバ神御自身の持つ地位を有する者との幻を抱きました。この大胆不敵な野心は,彼を焼きつくす欲望になりました。その欲望を抱いたため,それは大きくなり,彼をして神に反逆させるようにみちびいたのです。この霊者の反逆者が,ヱホバに対する誹りと反対の道を選んだため,彼は悪魔サタンと呼ばれています。
14,15 (イ)ノアの日の御使たちが,どのように罪にみちびかれたかを説明しなさい。(ロ)彼らの罪は,彼らに何をもたらしますか。
14 後になつて,ノアの日には,他の御使たちが罪を犯しました。これらの御使たちも,悪い欲望を心の中でいろいろと考えめぐらして遂にその欲望に屈するという間ちがいをしたのです。御使たちは性別なしに創造されましたが,彼らは,性交を行う際の人間のよろこびを見て,自分でもそれを持ちたいと欲しました。その欲望を心に抱いたため,人間の娘に情欲をもつて見たとき,その性欲はだんだん大きくなりました。そのような考えを抱くのは悪いと知つていながら,彼らはその考えを抱きました。また,自分たちの地位は天にあるのであつて,人間と交わることを欲する代りに神により与えられた天の地位に満足すべきであるとも,彼らは知つていました。彼らは一種類の生物であり,人類は別種類の生物です。二つの種類の交わりは,神の律法に反することです。それで,人間の性のよろこびを自分のものにしようなどの考えを,彼らは念頭から無くすべきでありました。それが欲望として根ずいて成長し,その欲望で身が焦がされるようになる以前に,彼らはその欲望を取りのぞくべきでした。たしかに,そうすべきだつたのですが,実際にはそうしなかつたのです。
15 自分の情慾を充たすために,これらの御使たちは不従順にも天の地位を棄て,肉なる人間の体に化身して人間の娘と結婚しました。この罪の故に,彼らはヱホバから不利の判決を招いたのです。ヱホバは,予定のときにその判決を執行するでしよう。『主は,自分たちの地位を守ろうとはせず,そのおるべき所を捨て去つた御使たちを,大いなる日のさばきのために,永久にしばりつけたまま,暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ 6,新口)人間の場合と同じく,彼らの場合でも,悪い欲望は罪にみちびき,そして罪は彼らの亡びを意味します。それで,悪い欲望が御使たちをも罪と亡びに引く力を持つているなら,不完全な人間が悪い欲望を抱いて,しかも害を受けることがないなどということは,まつたく不可能のことでしよう。
16 ユダを亡した悪い欲望は何でしたか。彼の受けた経験は,どんな真実性を表わし示していますか。
16 ユダは,その不可能なことを示した者です。彼は金を持ちたいとの欲望を抱いて,その欲望を成長せしめたため,彼は盗人になると共に,神の御子を裏切る者になりました。ユダに生じたことは,テモテ前書 6章9,10節(新口)に書かれていることの真実性を良く表わし示しています,『富むことを願い求める者は,誘惑と,わなとに陥り,また,人を亡びと破壊とに沈ませる,無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは,すべての悪の根である。ある人々は,欲ばつて金銭を求めたため,信仰から迷い出て,多くの苦痛をもつて自分自身を刺しとおした。』まつたくその通りの事柄がユダに生じました。彼は金銭を愛したために,信仰から迷い出て亡びに陥りました。ユダの受けた運命は,富を求めたいという間ちがつた欲望を抱く献身したすべてのクリスチャンたちに対する警告となるべきであります。
17 金銭に対する欲望を制御しつづけるように,なぜ気をつけねばなりませんか。
17 ところが,かつては献身したクリスチャンの或る者も,ユダの受けた運命を自分の益にしそこねました。彼らは,金銭に対する欲望で一杯になり,ユダのように信仰から迷い出ました。富に対して愛を抱いたために,神権制度から外れるようになり,いまではその愛を充たすことに全く没頭しきつています。もう生命の道を歩むことにはすつかり興味を失いました。このことは,或る人々に生じたのですから,他の人々にも生じないでしようか。あなたに生じないでしようか。富に対する欺きの欲望に対して,気をひきしめてしりぞけないなら,それはあなたに生ずるのです。その欲望にとらわれるようなことがあつてはなりません。それですから,魅惑的な事業の申し出にはよくよく注意を払いなさい。そのようなものは,新しい世の社会との定期的な交わりからあなたを引き離してしまい,またあなたの時間を多く取つてしまうため,聖書を定期的に研究することもできなければ,クリスチャン奉仕に定期的に参加することもできなくなるでしよう。献身したクリスチャンは,聖書研究や神の奉仕にますます多くの時間を与えるように為すべきであつて,その時間を減らすというようなことがあつてはなりません。
物質に対する愛
18,19 この世の物質の誘惑において,どんな危険がクリスチャンに面していますか。クリスチャンは,なぜ自分の欲望を制御しなければなりませんか。
18 自分は金に対する愛で罠に陥つていないと,或るクリスチャンは考えるかも知れません。しかし,そのクリスチャンは物質に対する愛で罠に陥つているかも知れないのです。近代工業によつてつくり出されて来る消費者用生産物の目もまばゆいばかりの陳列を見ます。このような物に対する欲望を更にあおり立てる魅惑的な広告を見たり聞いたりします。この品物もあの品物も,手に入れたいものだと考えます。たとえば,代金がみな支払つてある自動車を持つていますが,一番最新の自動車についての魅惑的な広告を見ます。そして,自分の庭の中の車道にその自動車を駐車させるなら,どんなにすばらしく見えるだろうと頭に思いめぐらします。とうてい入手することはできないのですが,それについて夢をえがいても何の害にもならないと見ます。それで,その素敵な自動車に乗つて大道を走ることを夢にえがきます。それを操縦する際の安楽さを感ずることができます。エンジンの快適な音を聞いたり,また絞り弁に触るときにその力を感ずることができます。日ごとにそのことを夢にえがきつづけている中,それに対する欲望は大きくなつて,程ない中にはその自動車の展示室のところで立ち止まるようになります。販売人と語り合つてから,家に帰つてその資金入手についての方法をあれこれ考えます。そして,そのために借金までもします。その借金を返済する為には,時間外の仕事をして余分に金を稼ごうとも考えます。自分の収入以上の生活をするのには乗気であつて,研究と神の奉仕に捧げることのできる貴重な時間を犠牲にしてしまいます。それは,この新しい自動車に対する燃えつくすような欲望を充たすためです。もちろん,別の人はそれとは違うものに対して欲望を抱くでしよう。いずれにしても,その人は霊的なものを犠牲にして物質を求めているのです。この利己的な欲望の道をつづけて神に捧げるべき時間と注意を無くしてしまうなら,間もない中にその物質主義の熱は彼を霊的に殺してしまうでしよう。そして,つぎにはこの物質的な世界を愛する者と共々に身体的にも殺されるようになるでしよう。
19 物質の便利品やぜいたく品を入手する資産もあり,しかもそれらを正しく制御するなら,物質の便利品やぜいたく品を持つのに悪いことはすこしもありません。それらのものは,あなたに仕えるべきものであつて,あなたはそれらの奴隷になつてはなりません。それで,あなたの欲望に気をつけて,それらによつて支配されないようあなたの欲望を支配しなさい。いまあなたがクリスチャンでも,その欲望通りにさせるならば,その欲望は霊的な思いからあなたを引き離すでしよう。それは,物質主義の流沙にあなたを引きずりこんで,あなたは次第次第に沈んで影が見えなくなり,ついには新しい世の社会の遂伍から消えてしまいます。そのわけで,永遠の生命に通ずる狭い道からあなたと引き離したことになります,『狭い門からはいれ。亡びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいつて行く者が多い。生命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない。』(マタイ 7:13,14,新口)或る人々は,その細くて狭い道に足を踏み入れて,おそらく長い年月のあいだその道を歩みます。しかし,悪い欲望の強い力に引かれてしまい,この物質的な世界の動いて行く広い道に入つてしまいます。それですから,クリスチャンは物質に対する愛でもつて罠にかかつてはならないのです。それは,悲しみのみをもたらす悪い欲望をつちかうことです。金を愛したユダに災がのぞんだように,物質を愛する人にも災がきます。
性欲を制御しなさい
20,21 (イ)この世は,聖書的な制限内に性欲を保つことについて,どう失敗しましたか。その結果は何でしたか。(ロ)クリスチャンは,なぜ自分自身を強く保たねばなりませんか。
20 肉欲を制御することは,物質に対する強い欲望を制御することよりも更に難しいものでしよう。肉欲を助長させると,それは身を焼きつくす火焔となり,道徳の律法は何の意味もありません。広範囲にひろがつているこの古い世の不道徳は,そのことを明白に証するものです。この世は,不道徳を禁ずる聖書のいましめに従おうとはせず,そのいましめを無視すると共に性欲の自由奔放を許します。性欲そのものが悪いのではありません。創造者によつて,それは人間の中に置かれたからです。悪いことは,性欲を制御することができなくなり,人をして神の定めた合法の制限を越さしめることです。それで,クリスチャンはこの世の従つている悪い道に従つてはならず,自分の欲望を制御しなければなりません。このためには,意思の力の行使が必要です。悪い性欲を心に抱くまいとかたく決意するかたわらその努力をしなければなりません。悪い性欲は,クリスチャンをかならず罪にみちびきます。
21 この世の欲望が聖書的な制限を越えることは,この世によつて許されています。そのため,この世には堕落した好色の人々が充ちています。それらの人々について,聖書は次のように語つているのです,『ゆえに,神は,彼らが心の欲情にかられ,自分のからだを互にはずかしめて,汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし,創造者の代りに被造物を拝み,これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである。アアメン。それゆえ,神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち,彼らの中の女は,その自然の関係を不自然なものに代え,男もまた同じように女との自然の関係を捨てて,互にその情欲の炎を燃やし,男は男に対して恥ずべきことをなし,そしてその乱行の当然の報いを,身に受けたのである。』(ロマ 1:24-27,新口)この聖句の言葉どおり,この世は姦淫者,淫行者,淫売婦,そして同性性欲を行う者で堕落しています。それで,クリスチャンのまわりは,このような悪い影響で取りかこまれているのですから,クリスチャンは自分を強く引きしめ,悪い欲望に引かれて嫌悪すべき同じ行をするようなことがあつてはなりません。彼は自分の肉の弱さを認めるべきです,また聖書的に定められたギリギリの線のところまで性欲に従つて,そしてそのところで止まるなどと考えてはなりません。たとえ,しばらくの間そうすることができても,ついにはその線を越えて罪を犯してしまうでしよう。これは必らず起ることです。欲情を育成して行けば,それはだんだん強いものとなり,人をしつかりつかむからです。そうなると,その欲情を心から取りのぞくことはたいへん難しくなります。最善の守りとは,最初の中にその欲情に反抗することです。
22 亡びがこの世にのぞむのは,なぜたしかですか。
22 現代のこの世は,ノアの日の世のようです。当時の人々は,人間の欲望に課せられた神の制限にすこしの注意も払いませんでした。彼らはその欲望を制御せず,かえつてその欲望を充たし,情欲をほしいままにしたのです。このような悪い欲望は,彼らを罪にみちびき,その結果として彼らは神の御手から亡びを受けました。『古い世界をそのままにしておかないで,その不信仰な世界に洪水をきたらせ,ただ義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。また,ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し,不信仰に走ろうとする人々の見せしめとした。』(ペテロ後 2:5,6,新口)ノアの日の堕落した人々や,ソドムとゴモラの邑の人々が受けた運命は,同じく悪い欲望を追い求めている現在の世に必らず来る事柄の模型でした。
23 クリスチャンは,なぜ危険な立場にいますか。クリスチャンは何をしなければなりませんか。
23 この古い世は,神からの亡びの裁きに面しています。それで,クリスチャンは極めて危険な立場にいるのです。この世の好色の欲望,金銭に対する愛,また物質の獲得欲など,あらゆるところでクリスチャンに直面します。彼はこの世の誘い,誘惑,そして悪い考えをいつも受けます。そのような悪い影響に絶えず取りかこまれているため,生命に通ずる狭い道を歩むことは,たいへんむずかしいものになります。これらの事柄に思をめぐらして,それらのものに対する欲望を建て起すなら,その狭い道に止まることはできません。悪い欲望の力を認めることができないなら,そしてその欲望をしりぞけるためのいろいろな努力をしないなら,必らずやその餌にかかつて,罪と死にみちびかれるでしよう。それですから,献身したどのクリスチャンも,悪い欲望の力がアカンになしたこと,ユダになしたこと,最初の人間夫婦になしたこと,そして罪を犯した御使たちになしたことを記憶しなさい。各人は,その力を認めて,それをしりぞけるためにあらゆる努力を払いなさい,なぜなら,その道は罪と永遠の死にみちびく道だからです。