魂を得るために信仰を保ちなさい
1 とくにヘブル書 11章1,2節によれば,信仰とは何ですか。
「信仰」? 信仰とは何か,と「ものみの塔」の新しい読者は問うかも知れません。読者の手許に辞書があれば,「信仰」という言葉の意味をしらべてごらんなさい。しかしここにあげるのはヘブル書 11章1,2節(新世)に述べられた信仰の定義です。西暦紀元前の昔の神の人のわざは,このような信仰をあらわしたものとして,そこに列挙されています。「信仰は望む事柄を確信して期待することであり,見えない実体の明白な表明である。昔の人々はこれによって証された」。エホバ神は,この人々がわざによって示した信仰のゆえに御自分を喜ばせたことを証しました。
2 これらの人,たとえばアベルはなぜ希望を持ちましたか。
2 これらの人々は希望を抱きました。すなわち望みを心に抱きました。神の言われたこと,神の約束を知ったので,希望を抱いたのです。たとえばエデンの園の外でアダムとエバに生まれた二番目の息子アベルは,希望を抱きました。なぜですか。それはエホバ神がエデンの園において誘惑者の蛇に言われ,アベルの父母も聞いた言葉のゆえでした。創世記 3章14,15節は次のように述べています,「エホバ神蛇に言たまひけるは汝是をなしたるによりて……我汝と婦の間および汝の苗裔と婦の苗裔の間にうらみをおかん彼は汝の頭を砕き汝は彼の踵を砕かん」。ゆえにアベルは神の「婦」の約束のすえが来ること,またこのすえが誘惑者のかしらを砕くことを待ち望みました。
3 アブラハムはどんな希望を抱きましたか。そしてなぜ?
3 ほかにもヘブル人の族長アブラハムがいます。アブラハムは自分の国を出て親族に別れるようにと召されました。「ここにエホバ アブラハムに言たまひけるは……我汝を大なる国民となし汝をめぐみ汝の名を大ならしめん汝は福祉の基となるべし我は汝を祝する者を祝し汝をのろふ者をのろはん天下のもろもろの宗族汝によりてさひわひを獲んと」。(創世 12:1-3)それで子供のなかったこのヘブル人アブラハムは,子供をもうけて大いなる民となり,名を大きくする望みを持ちました。そしてアブラハムは他の人々に祝福となり,地のすべての家族がアブラハムによって祝福を得ます。
4 アベルとアブラハムは何と一致して行動しましたか。その行いは何を意味しましたか。
4 アベルとアブラハムは望みのかなえられることを期待しました。それで望むものを得たいという期待に応じて行動したのです。その行いをするには信仰が必要でした。信仰には希望と同じく基礎があります。希望は何かをほしいと願うだけでなく,その実現を期待することです。さて信仰は単なる期待ではありません。さもなければ信仰は希望と同じものになってしまうか,あるいは少なくとも希望の中に含まれてしまいます。しかし神の言葉の中で,信仰と希望は密接に関連してはいますが別々のものとして扱われています。
5 (イ)ヘブル書 11章1節は,信仰のどんな定義をまず述べていますか。(ロ)そこに使われているギリシャ語hypóstasisによれば,信仰を物質的なものと理解すべきですか。
5 新世界訳のヘブル書 11章1節にある通り,信仰は望むことを単に期待することではなく,望むことを「確信して」期待することです。ヘブル書 11章1節のギリシャ語原文はhypóstasis<ヒポタシス>という語を使っており,この言葉は文中にある他の語に応じていろいろな意味を伝えます。たとえば(イ)基礎,土台,確信,勇気,決意,確固さ,企て,約束あるいは(ロ)本質,本体,実体,現実,(考えの)表明を意味します。a 信仰は物質的なものではなく,従って重さを測ったり,五感で感知することのできないものです。ロマ章 10章10節(新口)に「人は心に信じて義とされ」とある通り,信仰は心に抱くものです。
6 hypóstasisは,望む事柄に関して何を意味しますか。
6 そこで信仰を意味するときのhypóstasis<ヒポタシス>は,希望の基礎となるものであり,同時にまた人を行動に動かす力のあるものです。ゆえに新世界訳のヘブル書 11章1節にある通り,信仰は,十分に根拠があり,従って人を行動に動かす期待であると言えます。それは確実な期待です。信仰のある人は確固としており,決意を持っています。それでhypóstasisは「確信して」期待することです。
7,8 望む事柄に対するアベルの確信には,なぜ根拠がありましたか。
7 ではアベルが「確信して期待」したのはなぜでしたか。神がエデンで誘惑者に言われた言葉から,アベルは希望を抱きました。しかし神が御自分の約束を成就させるという確信も確かなものとされ,その実現には十分の根拠がありました。どうしてですか。
8 蛇がどうなったかを見たアベルは,神の言葉の真実を知りました。「おまえは,この事を,したので,すべての家畜,野のすべての獣のうち,最ものろわれる。おまえは腹で,這いあるき,一生,ちりを食べるであろう」。アベルはまた自分の両親の上に神の裁きが臨んだのを見ました。二人はエデンの園を追われ,アダムは家族を養うため,額に汗して労苦しました。エバは夫の支配に服しつつ,産みの苦しみを味わってアダムに息子,娘を生みました。(創世 3:14,16-19,新口)アベルはまた自分の両親が死に定められていること,その子である自分もやがて死ぬことを知っていました。それは神がアベルの父に言われた言葉の通りでした,「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると,きっと死ぬであろう」。(創世 2:16,17,新口)神の警告また神の約束が必ずその通りになるのを,アベルは見たのです。
9 アベルは信仰によって何をしましたか。どんな結果になりましたか。
9 そこでアベルは神の真実を証明する事実を知り,それに基づいて信仰を抱きました。アベルは神の「婦」のすえに関する約束の成就を信じました。誘惑者は死の原因を作りましたが,女のすえはこの誘惑者を滅ぼして,死を相続した人々を生命に回復させるでしょう。アベルは信仰をもって何をしましたか。自分の群れから羊をとってその血を流し,動物の犠牲を神にささげたのです。アベルは肉を食べるために羊を殺したのではなく,犠牲の羊の生命を模型的な意味において,自分の生命の代りにしました。その兄カインは土を耕して育てた生命のないものを神にささげました。神はカインの野菜のささげ物を顧みませんでしたが,アベルの犠牲を受け入れました。神はアベルが神の是認を受けたことを証しました。―創世 4:1-8。
10 ヘブル書 11章4節に述べられているように,アベルは何によって神に是認されましたか。
10 それはなぜでしたか。アベルはエホバ神に信仰を持ち,自分の信仰に従って犠牲をささげたからです。信仰とは何かを示す最初の例として,ヘブル書 11章4節(新口)はこう述べています,「信仰によって,アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ,信仰によって義なる者と認められた。神が,彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが,信仰によって今もなお語っている」。
11 アベルは死んでも,今なおどのように語っていますか。どんな「そそがれた血」は,アベルの血よりも力強く語っていますか。
11 しっとにかられた兄カインの手にかかってアベルは殺されました。(創世 4:8-12)アベルはキリストの4000年前に死にましたが,その信仰は聖書に記録され,アベルは最初のエホバの証者として語っています。アベルの血はだれをも贖いませんでした。それはアベルの犠牲にした羊の血が何をも贖い得なかったのと同様です。アベルの血は暗殺者カインに対する報復を求めて神に叫んでいます。しかしアベルがその到来に信仰をおいた神の「婦」のすえの血は,アベルや,またアベルのような信仰を持つすべての人のために神に叫び,あわれみを求めています。この理由でヘブル書 12章24節(新口)は,「新しい契約の仲保者イエス,ならびに,アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」と述べています。このようにアベルは信仰を抱いて神に近づき,神を喜ばせました。いまアベルは新しい世において神から報われるのを待っています。―ヘブル 11:6。
見えない実体の明白な表明
12 ヘブル書 11章1節は,そのほかにも信仰を何と述べていますか。そこに使われているギリシャ語élengkhosは,見えない実体に関して言えば,なぜ適切な言葉ですか。
12 しかし信仰は「望む事柄を確信して期待する」ことだけでなく,「見えない実体の明白な表明」と言われています。ヘブル書 11章1節はélengkhos<エレンホス>という言葉を使っていますが,前述の希英辞典によればこの言葉は,(イ)反論するための議論。(ロ)とくに反論の目的で行なう反対尋問,調べ,吟味,(ハ)目録を意味します。このギリシャ語の言葉は,あるもの,とくに外見と実際とが違う場合,その実体を示す証拠を提出することと関連しています。それは以前には明らかでなかったものを明白にし,外見上まちがって伝えられていた事柄を反論することです。このようにして見ることのできない,しかし考究しなければならない実体が理解の目に映じてくるのです。
13 どのようにコロンブスはこの事を示すよい例ですか。
13 たとえとしてクリストファー・コロンブスを考えてごらんなさい。もしコロンブスが当時,聖書を読むことを禁ぜられていたカトリック教徒ではなくて,多くの人の考えているようにユダヤ人であったとすれば,地球のまるいことを述べたイザヤ書 40章22節を読んだかも知れません。「主は地球のはるか上に座して,地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ,これを住むべき天幕のように帳り」。またヨブ記 26章7節(新口)にも,「彼は北の天を空間に張り,地を何もない所に掛けられる」とあります。さてコロンブスは今日の宇宙飛行士のように地球の回りを飛行して地球の円いことを実際に見たわけではありません。しかしコロンブスは(1)自然の道理,(2)地理学者の理論,(3)船乗りの見聞と言い伝えから推論した3つの考えに基づいて,地球はまるいに違いないと考えました。たとえば月のまるいこと,月食は円形に欠けること,船が遠い水平線上に見えてくるとき,まずマスト,そして最後に船体が見えてくることなどです。このようにしてコロンブスには,たとえ見なくても,地球に関する真の事実がはっきり示されたのです。この明白に示された事柄を実地に行なうためコロンブスは西にむかって航海し,西インド諸島と南アメリカを発見しました。コロンブスの信仰は勝利を得ました。
14 コロンブスの信仰はどんな種類のものでしたか。しかしヘブル書 11章に述べられているのは,どんな信仰ですか。
14 しかしコロンブスの信仰は,霊的な信仰ではありませんでした。それは科学的なものに過ぎません。それによりコロンブスはこの物質的な世とその神に仕えました。(コリント後 4:4)それと異なり,ヘブル書 11章に歴史的な例として述べられている人々は,聖書に基づく信仰により,新しい世の神エホバを喜ばせました。その人々はいわゆる新世界アメリカではなく,神の「婦」の約束のすえが治める新しい世の来ることに信仰を持っていました。ヘブル書 11章3節(新口)は,「信仰によって,わたしたちは,この世界が神の言葉で造られたのであり,したがって,見えるものは現れているものから出てきたのでないことを,悟るのである」と述べています。
15 この世の物質主義的な人は,信仰のないことをどのように示していますか。しかしなぜ私たちは信仰を持っていますか。
15 物質主義の考えを持つこの世の人は,神が常に存在していたこと,神が無から宇宙を創造したことを信じるのは不可能であると論じます。それで望遠鏡または電子顕微鏡を通して見るものが「現われているものから出てきたのでない」,すなわち無から創造されたことを信じません。しかし聖書を学ぶ私たちは実際に即した信仰を持つゆえに,「事物」つまり肉眼で「見えるもの」が,測り知れないエネルギーと知恵を持つ,理知ある全能の神によらないで,どうして無から生じ得るのかを理解できません。私たちは盲目ではありません。それで全能の神エホバが存在し,また常に存在してきたことを示す「明白な表明」を見ます。従って「この世界が神の言葉で造られた」ことを悟るのです。―ロマ 1:20-23。
16,17 (イ)ペテロ後書 3章13節によれば,私たちは何を待ち望んでいますか。そしてなぜ?(ロ)これに関連して,ヘブル書 11章8-10節は,ヘブル人アブラハムのことを何と述べていますか。
16 私たちの信仰は,不十分な弱い証拠だけを知って,盲目に信ずることではありません。私たちの信仰は理知的なものであり,間違うことのない,書かれた神の言葉に基づいています。信仰によって私たちは,新しい組織制度の創造を神に俟ちます。これは栄光を受けた御子イエス・キリストの下にある「きたるべき世界」をともなうものです。神はこの「御子によって,もろもろの世界を造られ」ました。(ヘブル 2:5-9; 1:2,新口)ペテロ後書 3章13節(新口)は,「義の住む新しい天と新しい地」があると述べています。義の住むこの新しい組織制度の来ることを待ち望んでいた昔の人々の中に,ヘブル人の族長アブラハムがいたと,ヘブル書 11章は述べています。アブラハムのことをしるしたヘブル書 11章8-10節の言葉はこうです。
17 「信仰によって,アブラハムは,受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時,それに従い,行く先を知らないで出て行った。信仰によって,他国にいるようにして約束の地に宿り,同じ約束を継ぐイサク,ヤコブと共に,幕屋に住んだ。彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」。
18 アブラハムはどこを去りましたか。どこに宿り,誰と一緒に暮らしましたか。なぜエサウはアブラハムと共に述べられていないのですか。
18 創世記 11章31節および使徒行伝 7章2-5節によれば,はじめアブラムと呼ばれたアブラハムは,カルデヤ人の地すなわちそれより約200年前にバベルの塔の建てられたシナルの平野にあったウルの町を出立ちました。エホバ神がアブラハムを導いた「約束の地」は「カナンの地」でした。(創世 12:1-9)ここで息子と孫が生まれ,その中にイサクとヤコブもいたのです。ヘブル書 11章9節によれば,アブラハムは息子のイサク,孫のヤコブと天幕に住み,このようにしてヤコブとは15年を共に過しました。ヤコブにはエサウと呼ばれた双子の兄弟がありましたが,注意すべきことにアブラハムがイサク,ヤコブおよびエサウと共に,あるいはイサクおよび双子の兄エサウと共に天幕に住んだとはしるされていません。信仰の人のわざを短かくしるしたヘブル書 11章に長子のエサウが出てこないのは,明らかにエサウが信仰の人でなかったためです。事実はその事を示しています。
19,20 (イ)エサウはだれをめとり,また何処に行きましたか。(ロ)エサウ(すなわちエドム)の子孫は,曽祖父アブラハムの信仰を持っていないことを,どのように示しましたか。
19 エホバを恐れた,祖父アブラハムの親族の内で婚姻関係を結ぶかわりに,エサウは40歳のとき,二人の異教徒の女,カナンの土地の二人のヘテ人を妻にめとりました。(創世 26:34)しかしそれより何年ものち,双子の兄弟ヤコブはアブラハムの親族の中から妻をめとるため,父イサクの指図で北方のシリアに行きました。(創世 28:1-8)ヤコブの留守中に双子の兄弟エサウは父イサクを残して「セイルの地,エドムの野」に行き,そこに住みました。―創世 28:8,9; 32:3; 33:16,新口。
20 ヤコブが父イサクのもとに戻ってのち,エサウは「セイルの山地」を含めてセイルの地に定住することをたしかに定めました。(創世 36:1-9,新口)神はヤコブ(すなわちイスラエル)に対し,その腰より王たちの出ることをすでに告げていましたが,そのことの起こる前にエサウ(すなわちエドム)の子孫は自分たちを治める王を立て,町を建てて永久的な住居にしました。それで次のように書かれいます,「イスラエルの人々を治める王がまだなかった時,エドムの地を治めた王たちは次のとおりである。ベオルの子ベラはエドムを治め,その都の名はデナバであった」。そのほか王の都アビテおよびパウがありました。(創世 36:31-39,新口。35:9-11)エサウは,アブラハムの子孫に関する神の言葉の成就に与って苦しみを受けることを望まなかったのです。「あなたの子孫は他の国に旅びととなって,その人々に仕え,その人々は彼らを四百年の間,悩ますでしょう」。(創世 15:13,新口)エサウの子孫は,神の建てる将来の都を待ち望まず,天幕を離れて町に住みました。
21 (イ)ヘブル書 12:15-17節は,なぜエサウを警告の例としてあげているのですか。(ロ)ヘブル書11章9節は,エサウのかわりになぜヤコブの名を述べているのですか。
21 イサクの長子エサウは長子の権を軽んじ,双子の弟ヤコブにそれを売りました。エサウは信仰のない人で,神がアブラハムに与えた約束の如き聖なるものに対する認識に欠けていました。(創世 25:29-34)この理由で,ヘブル書 12章15-17節は,物質的なエサウをあげて警告しています,「気をつけて,[エサウのように]神の恵みからもれることがないように,また苦い根がはえ出て,あなたがたを悩まし,それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また,一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように,不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように,彼はその後,祝福を受け継ごうと願ったけれども,捨てられてしまい,涙を流してそれを求めたが,悔改めの機会を得なかったのである」。ゆえに当然のこととして,ヘブル書 11章9節はエサウを省き,アブラハムが「同じ約束を継ぐイサク,ヤコブと共に,幕屋に住んだ」と述べているのです。ヤコブはシリアにおいて大家族となってのち,そこを去って父イサクのもとに帰り,イサクの死ぬまでその間近かに住みました。またその後にも,ヤコブは町を建てていません。―創世 31:17,18。35:27-29。
22 アブラハム,イサク,ヤコブは何年間,約束の地に住みましたか。そしてなぜ?
22 250年のあいだ(キリスト前1943年から1728年まで),アブラハム,イサク,ヤコブは外国にいるように約束の地に寄留者として宿り,天幕に住みました。なぜですか。神が基をすえ,また建てる永遠の都すなわち天にある政府を待ち望んでいたからです。彼らはその政府の下に住みます。それでヘブル書 11章10節(新口)は,アブラハムについてこう述べています,「彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」。
23 各人は外国にいるようにして,どれだけのあいだ天幕生活を送りましたか。そのように長い間,天幕生活を送ってのち,神から約束のものを受けましたか。
23 アブラハムはカナンの地に寄留者として100年間の天幕生活を送り,イサクは180年間,ヤコブはエジプトの総理大臣となった息子ヨセフに呼ばれてエジプトに下るまで110年のあいだ天幕に住みました。アブラハムのかつて住んだ町,カルデヤのウルは当時,文明の栄えた都で,落着いた,快適な生活のできるところでした。アブラハムは,天幕に住んでここかしこと移動する遊牧生活を外国で送る必要はなかったのです。なぜヤコブはシリアの町ハランを去り,異教の土地カナンで天幕生活を送るため,父ヤコブのもとに戻って行ったのですか。なぜアブラハム,イサク,ヤコブは物質的な生活観を持たず,カルデヤの文明都市ウルにあった慰安と機会を考えなかったのですか。なぜ外国における苦しい天幕生活をやめて,ウルに戻らなかったのですか。アブラハムに対する神の召しを守り通して,遂にみな外国で死んだのはいったいなぜでしたか。ヘブル書 11章13-16節(新口)はその理由を述べています,
24 ヘブル書 11章13-16節は,彼らがカナンを去ってウルに帰らなかった理由を何と述べていますか。
24 「これらの人はみな,信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが,はるかにそれを望み見て喜び,そして,地上では旅人であり寄留者であることを,自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって,彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら,帰る機会はあったであろう。しかし実際,彼らが望んでいたのは,もっと良い,天にある[天に属する,新世]ふるさとであった。だから神は,彼らの神と呼ばれても,それを恥とはされなかった。事実,神は彼らのために,都を用意されていたのである」。
25 (イ)ウルに戻ったとすれば,どういう事になりましたか。(ロ)彼らが求めていた「都」は何ですか。近い将来彼らはどのようにしてその下に生きますか。
25 彼らがカルデヤの都市ウルに帰って,再びその一部になったとすればどうでしょうか。エホバから与えられた約束を失ったに違いありません。それはエホバとの関係を断つことになり,魂を滅ぼすことになったでしょう。その信仰のゆえに彼らはウルの町から離れて二度と戻らず,エホバの召しと導きに従順に従いました。彼らは振り返ることをせず,前途を望み見ました。地上の町ウルよりもまさったところ,天に属する都すなわち神の「婦」のすえ,メシヤによる神の国を待ち望んでいたのです。今日,カルデヤのウルはどうなっていますか。最近,考古学者がその遺跡を発掘したばかりです。しかしアブラハム,イサク,ヤコブのために用意された神の国は,1914年以来,天で支配しています。神の国が間もなくこの古い世の組織制度を滅ぼして全地を完全に治めるとき,アブラハム,イサク,ヤコブは死人の中からよみがえされて,天の御国の下で生きるでしょう。神は彼らを恥とされなかったからです。―ルカ 20:37,38。
私たちはどんな者ですか
26 前述の昔の人とくらべて,私たちは何を自問しますか。またなぜヘブル書 10章38,39節の言葉を私たちの答えにすることを望みますか。
26 私たちは今日どんな種類の者ですか。エホバのクリスチャン証者ならば,神聖を汚したエサウ(エドム)に似る者ですか。そうであってはなりません! ではヘブル人アブラハム,イサク,ヤコブのような不退転のエホバの証者ですか。そうであれば,はじめ信じてからここまで進んだいま,たとえそれがどんなに前のことであっても,物質主義の古い世と偽りの宗教に後戻りしてはなりません。ヘブル書 10章38,39節(新口)の確信の言葉が私たちについても言えるようにしましょう,「『わが義人は,信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら,わたしのたましいはこれを喜ばない』。しかしわたしたちは,信仰を捨てて滅びる者ではなく,信仰に立って,いのちを得る者である」。
27 ゆえに私たちは何に関心を持ちますか。退くことは意味しますか。
27 私たちの願いは神に喜ばれることであり,神の前に正しい立場を保ち,信仰によって生きるにふさわしい者となることです。信仰があれば退くことはできません。人が退くのは,苦痛を与えるもの,不快なものを見てそれを避けるため,本能的に後ずさりすることです。退くのは恐れのためです。ヘブル書 10章38,39節にある,退くという言葉は,昔のギリシャ語の書物の中で恐れる,ひきさがる,恐れのためにかくれるという意味にも使われています。b 私たちにとって退くことは魂の永遠の滅びとなります。―マタイ 10:28。
28,29 (イ)退くことの危険はどこにありますか。それはどのように始まりますか。(ロ)そうする者に対して,ヘブル書 5章11節から6章3節までは何と述べていますか。
28 退くことは,しわを生じさせる僅かの縮みかも知れません。この事に実は危険があります。魂の永遠の滅びに向かって足を踏み出したことに殆んど気づかないからです。努力をいとうために進歩しようとしないのは,退くことの表われかも知れません。それは成長して責任をになうことを望まず,他の人の責任におぶさって何時までも苦労のない子供のままでいたいと言うのと同じです。たとえば,ヘブル書の筆者は,罪の悔改め,神に対する信仰,バプテスマ,選ばれた者に手をおくこと,復活,神の永遠の裁きなどの聖書の初歩の教えよりも,進んだ事柄を教えるのに,なぜ多大の説明を要したのですか。それはこれらヘルブ人のクリスチャンが霊的な赤ん坊のままでいることを望んだからです。彼らは教えの点で乳を用いる者で,聞くに鈍く,聞いたこと,教えられたことを理解しませんでした。それでヘルブ書 5章11節から6章3節(新口)はこう語っています,
29 「このことについては,言いたいことがたくさんあるが,あなたがたの耳が鈍くなっているので,それを説き明かすことはむずかしい。あなたがたは,久しい以前からすでに教師となっているはずなのに,もう一度神の言の初歩を,人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく,乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は,幼な子なのだから,義の言葉を味わうことができない。しかし,堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,わたしたちは,キリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。今さら,死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごとについてのその教と按手,死人の復活と永遠のさばき,などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て,そうすることにしよう」。
30 私たちがそうすることを,神はどのように許されていますか。従って霊的な幼な子は何をすべきですか。
30 私たちを生きながらえさせ,この古い世を滅ぼすのをさしひかえている神は,たしかにこの事をする許しを与えています。神のあわれみある許しを得た以上,私たちは「完成を目ざして進」みますか。この時を利用して霊的に成長し,「キリストの教の初歩」すなわち「基本の教」のみならず,難しい事柄をも説き明かせるようになりますか。真理を知って以来の時を考えるならば,聖書の教えの「乳」以上のことを知らず,理解していないのを恥ずかしく思いますか。あるいは今なお「感覚を…訓練され」ておらず,会衆内で,あるいは会衆にまだ属していない善意者の家で他の人々を教える者となっていないのを恥じていますか。今なお霊的に成長していないことを正直に恥じるならば,神の許し給うかぎり,是非ともなんとかしなければなりません。積極的な行動が必要です。そうすることは生命につながっています。
31,32 (イ)霊的な幼な子にとって,積極的に行動するとは何をすることですか。(ロ)ヘブル書 10章23-27節は,悪い習慣を警告して何を告げていますか。
31 霊的な進歩をこれ以上おそくしたり,前途にある困難を克服するのにたゆまない努力と働きが必要なのを見てひきさがるのは,積極的に行動することではありません。積極的に行動する人は,個人的な聖書の勉強に励むばかりでなく,集会に出席してエホバの証者の新世社会と共に学び,他の人のことも考えます。エホバの現代クリスチャン証者と共に集まることをあえて怠るのは,退く第一歩になります。つづけるうちに,それは遂に習慣となるでしょう。ヘブル書 10章23-27節(新口)は,そのことをいましめ,集まりを怠ってはならない理由を述べています,
32 「愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。もしわたしたちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら,罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを,恐れつつ待つことだけがある」。
33 ことさらに集会を休むならば,ヘブル書 2章1節に関して何をしていることになりますか。どのようにすれば押し流されるのを防ぐことができますか。
33 愛と善行を励ますための集まりをことさらに休むならば,それは何をすることですか。それはヘブル書 2章1節の命ずること即ち神の御子から聞いた事柄に普通以上の注意を払うことですか。あるいはそれ以下の注意しか払わないことになりますか。たとえ家でどれほど聖書を勉強しても,それでは普通以上の注意を払っていることにはなりません。滅びにむかって押し流されないため,神の御子に聞き従うことが必要です。御子はすぐれて重要な方だからです。
34 信仰を全きものにするため,だれを仰ぎ見なければなりませんか。したがって昔のヘブル人はなぜ信仰を完成することができませんでしたか。
34 永遠の生命を得るに至る信仰を保ち,かつ全うすることを望むならば,神の御子イエスに全く聞き従わなければなりません。「信仰の完成者」であるイエスを仰ぎ見ることが必要です。イエスは19世紀前に来ましたが,その時まで昔のヘブル人はメシヤの来ることに信仰を持ち,それを待ち望んでいました。しかしメシヤに対するその信仰は多くの面で不完全でした。当時まだ成就していなかったメシヤにかかわる預言を理解できなかったためです。メシヤすなわちキリストに関する預言がどのように成就するかについては,天使でさえもうかがい見たいと願っていました。(ペテロ前 1:10-12)従って彼らの信仰はいまだ全うされていませんでした。
35,36 だれが来たとき,真の信仰が表われましたか。なぜそうでしたか。
35 しかしイエス・キリストが来て伝道し,死ののち天の生命に復活して,御父である神のもとに戻り,天において神の右に坐したとき,当時まで理解できなかったキリストに関する預言が成就しました。そのとき,メシヤすなわちキリストに関する信仰は歴史的な事実で満たされるようになりました。このようにしてキリストと共に真の信仰があらわれたのです。つまりキリストおよびキリストと神との関係を正しく理解したうえでの信仰です。そこで以前はモーセの律法の下にあり,いまはクリスチャンとなったヘブル人に対して,ガラテヤ書 3章23-25節(新口)は次のように述べています,
36 「しかし,信仰が現れる前には,わたしたちは律法の下で監視されており,やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は,信仰によって義とされるために,わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし,いったん信仰が現われた以上,わたしたちは,もはや養育掛[モーセの律法]のもとにはいない」。
37 ゆえに私たちの信仰に関して言えば,イエスはどんなかたですか。本当の意味においてイエスと共に何が始まりましたか。
37 この事実のゆえに,イエスは真に私たちの信仰の指導者にして先駆者,君となったかたです。このイエスは神の御心を行なって,メシヤに関する預言の成就をもたらしました。それを知って,私たちはこれら聖書の預言に信仰をおくことができるのです。正しい信仰は,19世紀前にイエス・キリストと共にあらわれました。
38 その当時以来,イエスはどのように弟子たちの信仰を完成に導いてきましたか。
38 復活して50日後,西暦33年の五旬節にイエスは天にあって神の右の座から,エルサレムにいたヘブル人の弟子たちの上に聖霊をそそぎました。その時に至るまで,イエスは御自分に対する弟子たちの信仰を完全にすることを目ざして働いてこられました。西暦36年,無割礼で非ヘブル人の信者にはじめて聖霊をそそいだとき,イエスは御自分に対する弟子たちの信仰を,更に完成の域に高めました。(ヘブル 2:4)使徒ヨハネがその福音書,手紙とヨハネへの黙示録を書くまで,イエスは天から地上の弟子たちとかかわりを持たれ,その間に弟子たちの信仰を,救われるために十分なものとなるまで完全にしました。さて過去90年ほどの間に,地上の弟子たちに対して預言の成就となる事柄を行なってきたイエスは,この時代の必要に対処するため,私たちの信仰を完全なものにしてきました。それは私たちの永遠の救いのためです。
馳場を走りなさい!
39 では私たちの為すべき肝要なことは何ですか。それと一致してヘブル書 12章1-4節は,何をすることを私たちに告げていますか。
39 ゆえに,なすべき肝要なことは,退いたり,振り返ることではありません。魂を得るためになすべきことは,前途を望み,馳場を走ることです! 「こういうわけで」とヘブル書 12章1-4節(新口)は述べています,「わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競争を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか。彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで十字架[苦しみの杭,新世]を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは,弱り果てて意気そそうしないために,罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを,思いみるべきである。あなたがたは,罪と取り組んで戦う時,まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」。そうです,エホバの忠実な証者として生命の血を流したことはありません。
40 これらクリスチャン以前の昔のヘブル人の証者のなかで,だれを心に留めるべきですか。そしてなぜ?
40 信仰のゆえに神を喜ばせたクリスチャン以前の「多くの証人」の中でも,忠実な族長アブラハムのことを心に留めて下さい。アブラハムは町に定住せず,この古い組織制度に永遠の住みかを求めて町を建設することをしませんでした。それは永遠の基を持つ都,当時から見れば将来において神の建て,創造する都を待ち望んだからです。それゆえにアブラハムは地上のどの都の住人ともならず,ここかしこで天幕生活を送りました。―ヘブル 11:9,10,15,16。
41 この点でイエスについては何が言えますか。ヘブル書 13章12-15節に従い,私たちは何をすることを決意しますか。
41 神の御子もまた,永遠の都とする町を持たず,宮の祭壇のあった地上のエルサレムをさえ,そのような都とはしませんでした。イエスを仰ぎ見る私たちは,ヘブル書 13章12-15節(新口)に述べられた事柄を私たち自身の行いとすることを決意しましょう,「だから,イエスもまた,ご自分の血で民をきよめるために,門の外で苦難を受けられたのである。したがって,わたしたちも,彼のはずかしめを身に負い,営所の外に出て,みもとに行こうではないか。この地上には,永遠の都はない。きたらんとする都こそ,わたしたちの求めているものである。だから,わたしたちはイエスによって,さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげようではないか」。
42 私たちは何に近づいたゆえに,今ますますこの事に努めるべきですか。
42 私たちはいま,この事をますますしようではありませんか。この「きたらんとする都」,「永遠の都」は近づいたのです! それは異邦人の時の終りにあたる1914年に設立された天のエルサレム,神の御国です。ゆえに19世紀前の次の言葉は,なおのこと私たちにとって真実です,「しかしあなたがたが近づいているのは,シオンの山,生ける神の都,天にあるエルサレム,無数の天使の祝会,天に登録されている長子たちの教会,万民の審判者なる神……新しい契約の仲保者イエス,ならびに,アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」。(ヘブル 12:22-24,新口)私たちの近づいた,この天の御国は「震われない国」です。エホバ神がこの古い無信仰の秩序を取り除くために天と地を震うあいだ,すなわちこの世の「終りの時」を経て,それは存続します。―ヘブル 12:26-28,新口。
43 マタイ伝 24章14節に関し,私たちはどのようにいま神の御子の言葉をいっそう固く心に留めることができますか。
43 設立されたこの御国の良いたよりは,諸国家がこなごなに震われ,永遠に取り除かれる前,全国民への証となるため,全地に伝道されています。これはイエス御自身の預言の成就です。(マタイ 24:4。マルコ 13:10)神の御子の語ったこの預言を,しっかり心に留めましょう。そのためには,あるだけの力をつくしてその成就に直接に与ることが必要です。信仰を抱いてそのことをしなさい。伝道しなさい!
44 とくに今は何を持つべき時ですか。それは永続するどんな益をもたらしますか。
44 どの時にもまして今こそ信仰を持ち,知識と理解を増し加えてその信仰を円熟させる時です。またそれを他の人々に教えて,自分の信仰を証明するときです。完成されつつある信仰を持つゆえに,私たちが退いて永遠の滅び,魂の滅びに至ることは決してありません。全うされた私たちの信仰のゆえに,神は私たちの魂を保ち,永遠に生きながらえさせるでしょう。その場所はどこですか。それは単なる天使にではなく,神の子たちの中でもすぐれてまさった御子,私たちの信仰の君にして完成者であるイエス・キリストの支配下におかれた,「きたるべき世界」と「新しい天」をともなう万物の新しい秩序です。
[脚注]
a リデル・スコット共編ギリシャ語・英語辞典,2巻,改訂増補版。1948年再版。
b ジョン・パークハースト著新約の希英辞典。1845年ロンドン版644頁b。