幸福な家庭を築く
1 (イ)家族はどうして社会の基礎的な単位ですか。(ロ)家族の存在をおびやかす,どんな力が働いていますか。
家庭が人間社会の基盤であることは,専門家も一般人も等しくこれを認めてきました。家族が集まって村となり,町となり,都市となり,県そしてやがては一国を形成します。健全な家庭のあるところに健全な社会があることは,一般に認められていますが,近頃の家庭は内からも外からもひどく圧迫されています。家庭生活そのものをなくしてしまおうとする力が働いています。産業革命,ナショナリズムの勃興,独立運動,性および生活に対する新しい見方など,このすべてが家庭生活をおびやかしてきました。家庭が社会の基礎であったのは,もはや昔のことのように思えます。
2 昔の家族を説明しなさい。
2 農業を生活の主体とした古代社会においては,家長である父親が家族の支配者で,絶対の服従を要求しました。家族の者は一緒に成長し,一緒に暮し,力を合わせて働き,また戦いました。家庭は宗教的な教えを授ける場所でした。離婚はきらわれ,離婚する者は神の律法を破る者とされました。これらの事が家庭生活から全くなくなったわけではありませんが,その全部を一緒にしても前と同じ影響力はもはやありません。世の中は変りました。家庭生活というものの影はうすくなる一方と見る人もあります。
3 ある権威者によれば,昔の文明の没落を招いた要因は何でしたか。
3 ギリシャおよびローマ文明の衰滅を招いた第一の要因が家庭の破壊にあったと論ずる学者も少なくありません。ハーバード大学の有名な社会学者は最近次のことを書いていました,「過去の世紀を振り返ってみると,不道徳は数多くの強国の滅亡を早めた。今日それはアメリカ合衆国をさえおびやかしている。……犯罪,自殺,青少年の非行,精神病の増加を不安定な性道徳と結びつけて考える者も多い」。これらの観察に照らしてみるとき,家庭を救い,社会の基礎としての正しい位置にそれを再びおくには何が必要ですか。根本的に言って,家庭の幸福はどのようにして得られますか。家族とは何であり,なぜ存在するようになったのですか。
4 「家族」という言葉はどう定義されますか。
4 家族とは「親密なつながりを持つ個人あるいはグループの集団あるいは直接に血のつながる人々ことに両親と子供から成るグループ」といわれ,別の定義によれば「慣習または法律に従って成立した正式の共同体で,婚姻関係を結んだ者,出生または養子縁組による子供,およびその他の者でも家族の一員と認められ,権利,義務を負わされている者全部の結合」とあります。子供はたいてい家族の中で忘れることのできない存在です。
5 (イ)最初の人間家族はどうして存在するようになりましたか。(ロ)幸福とは何ですか。なぜそれはクリスチャンの家庭に不可欠ですか。
5 そもそものはじめからエホバ神は,アダムが忠実な家庭の人となることを目論まれました。創世紀にこうしるされています,「神は彼らを祝福して言われた,『生めよ,ふえよ,地に満ちよ,地を従わせよ。また海の魚と,空の鳥と,地に動くすべての生き物とを治めよ』」。(創世 1:28,新口)神のこの命令から明らかなように,結婚の基本的な目的は子供を生み出し,家族を作ることであると定められました。そのうえ親は神を崇拝し,創造主をたたえることを子供に教えることができます。崇拝が神の求め給うことであってみれば,人間はもともと家庭生活を送り,そこに幸福を見出すように意図されていることが明らかです。(出エジプト 20:5)けれども幸福とは何ですか。それは潤おった,楽しい,満足の状態です。この楽しいふんい気があってこそ,家庭生活は満足で安らぎのあるものとなり,神にほまれをもたらすものとなります。
6 人間の家族は何に型どって作られましたか。
6 ひとつのたとえとして,エホバ神は宇宙大家族のかしらであり,夫と呼ばれています。その事を知るのは益となるでしょう。エホバ神の妻すなわちこの大家族の母はこの宇宙組織内のすべての者の母であり,子供たちは神の忠実な民です。「なんぢを造り給へる者はなんぢの夫なり,その名は万軍のエホバ,なんぢを贖ひ給ふものはイスラエルの聖者なり,全世界の神と称へられ給ふべし」とイザヤは書いています。(イザヤ 54:5)人間の家族は,天にあるこの崇高な関係にかたどって作られたものです。エホバの御言葉である聖書に定められた家族生活の諸原則を守るとき,家庭生活は必らず幸福なものとなるでしょう。
7 (イ)クリスチャンの父親には家族に対してどんな二通りの責任がありますか。(ロ)よい父親は家族をどのように見ますか。
7 大いなる夫と呼ばれる創造主エホバはその家族内で責任の荷を負われます。してみれば人間の父親にリーダーシップが求められるのは当然です。ところが今日その事はどうなっていますか。ノートルダム大学社会学部長ジョン・ケイン博士の言葉を借りれば,「父親という職は鍛治屋のようにすたれてしまい」ました。しかし何と言っても家庭の幸福はこゝから始まります。父親の責任は精神と物質の両面で家庭の必要をみたすことだからです。愛をもってその事をしなければなりません。(コリント前 13:4-7)愛は厳しさに過ぎることなく,威圧せず,かと言って感傷でもないからです。賢明な父親は,家族を精巧な機械と見ます。それは各部分が密接な関連を保ちながら動く機械です。油の切れた機械には摩さつと摩滅が生じます。そこで父親は愛という油をさして誤解をとき,争いをやわらげ,家族の利害の調節をはかります。しかしこの愛はどのように示されますか。いちばん良いのは手本です。行いは言葉よりも力があります。自分の家族が神をたゝえる幸福な家族となるように心を配る父親は,おそらくいちばん良い手本を示しています。この点において幸福な家族はひとりでに築かれるものではなく,計画に基づき,周到な配慮によって築かれるものです。
8 (イ)ある研究によれば,幸福な結婚をするための重要な要素として何があげられていますか。(ロ)子供の宗教教育に関して,モーセと使徒パウロは両親の責任をどのように強調していますか。
8 興味深いことに調査と研究から次のことが明らかになっています。すなわち信仰を持つ人のほうが結婚生活に成功するチャンスが多いということです。結婚生活の幸,不幸に関する研究報告のひとつは次のことを述べています,「宗教に対する無理解,無関心は,不幸な人の場合によく見られるひとつの特色である。幸福な結婚生活をしている人の大多数は,子供に宗教を教えることが大切であるという考えを持っている」。しかし子供を日曜学校あるいは教会にやっただけで,宗教教育を人まかせにしている親は大ぜいいます。それは聖書のすすめですか。それとは反対にエホバの命令は申命記 6章6,7節(新口)に次のようにしるされています,「きよう,わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め,努めてこれをあなたの子らに教え,あなたが家に座している時も,道をあるく時も,寝る時も,起きる時も,これについて語らなければならない」。したがって神の言葉を教える宗教教育に両親が責任を持つのは,神のご命令です。この原則を裏づける使徒パウロの言葉に注目して下さい。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって,次の約束がそれについている,『そうすれば,あなたは幸福になり,地上でながく生きながらえるであろう』。父たる者よ。子供をおこらせないで,主〔エホバ,新世〕の薫陶と訓戒とによって,彼らを育てなさい」。―エペソ 6:1-4,新口。
9 クリスチャンの両親はどんなよい習慣を養いますか。これをする時,どのように教える方法を用いますか。
9 クリスチャンの両親にとって,毎日,聖書の句ひとつを考えるのは良い習慣です。エホバの証者は「エホバの証者の年鑑」に編集されている日々の聖句と説明の言葉を毎日読みます。これを小さな事と考えておろそかにしている両親がありますが,良い両親は優秀な建築家と同じくささいな事でも見逃しません。小さな仕事にも手を抜かないことがすぐれたできばえとなって表われてくるのです。子供が質の良い賛美をエホバにささげるのを望みませんか。毎朝,家族そろって聖書の句を学ぶことができなければ,夕食の食卓でこの事をしてもよいのです。毎日,聖句と説明の言葉を読むことを子供にすすめ,辞書を手元においてわからない字を調べるようにします。要点を聞く,やさしい質問を交代に出して,皆が短い注解を述べ,最後に父親が適当にまとめて家族を霊的に向上させる言葉を加えます。日々の聖句をこのように討議するならば,皆の楽しみとなり,日毎によい教えを授ける機会となります。
10 (イ)なぜ幼い時から組織的な聖書の勉強を始めるべきですか。(ロ)幼い時から自分で物事をするように しつけるとよいことは,どんな例から見て明らかですか。
10 そのほか聖書を組織的に学ぶ定まった時間を家族のために設けるのは,クリスチャンの父の責任です。子供の時は物事を学ぶときです。きわめて幼い子供も,未知のものに対して驚くほど好奇心を持ち,教えるならば自分からすすんで物事をすることを学びます。多くの両親,ことにはじめて子供を持った親にとって,子供は意外にも早く独立心を持ち始めます。9カ月の赤ん坊に物を食べさせるのに苦労していた母親がありました。さじにのせて口に入れてやろうとすると,母親の手を払いのけて,さじも食物も床の上に落ちてしまう始末でした。「この頃なんて言う事を聞かないんでしょう。食べさせるのが大変だわ」とこぼす母親にある人がこう言いました,「自分でやらせてごらんなさい。口に入れてもらうかわりに自分でさじを持ちたいから,お母さんの手を払いのけるのでしょう」。母親が不本意ながらもその通りにしたところ,子供は前のようにこぼしたりせず,自分で食べるのみか,それに満足を感じていることは,食事を熱心に待つ様子からも明らかでした。子供には幼いときから,沢山の有用なことを学ぶ能力があります。
11 子供でも聖書の勉強から多くを学び得ることは,どんな例から分かりますか。両親と子供にそれぞれどんな益がありますか。
11 聖書の勉強などは子供に難し過ぎると思う親がありますが,4,5才の子供でもテレビの広告の文句やあるプログラムのキャッチフレーズを覚えるとすれば,聖書の言葉を覚えるのは難しいことではありません。ある4才の子供は,ものみの塔協会の聖書の手引「失楽園から復楽園まで」の80以上のさし絵を説明でき,各人物にまつわる物語をすることができます。この子供はよく訓練され,両親も益を受けています。子供と有益な勉強をするには,両親も相当に勉強しなければならないからです。箴言 22章6節(新口)はその結果を次のように述べています,「子をその行くべき道に従って教えよ,そうすれば年老いても,それを離れることがない」。
12 崇拝に関して両親が正しい手本を示すことはなぜ大切ですか。
12 両親は家族そろって崇拝の場所に集うことにも心を配らなければなりません。子供はすぐに真似をするものです。子供がならうのに良い手本を示していますか。自分は家でテレビを見たり,雑用をしていながら,子供だけを集会に行かせますか。また集会で注解を述べて手本を示すのも,両親の忘れてはならない責任です。そうすれば,子供は集会に参加することが正しいだけでなく,当然であることに気がつくでしょう。―ヘブル 10:24,25。
13 自分の家族を顧みることは,どのように大切ですか。(ロ)どんな聖句から見て,家族の救いは両親のおもな関心でなければなりませんか。
13 子供を訓練し,救いの道に導き入れる段になると,こゝで教える者としての両親の技能は高度にためされます。他の人々を教えるのに成功している親は多くても,自分の子供の場合,どれだけ成果を得ていますか。他の人に救いの道を伝えるのに没頭する余り,自分の家族を十分に顧みなくなるのは往々にあることです。救いの道は自分の家族から始まることを忘れてはなりません。家族をかえりみることは聖書の原則です。パウロはテモテに書き送りました,「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」。パウロはこの事について更に次のように書いています「すべての事にあなたの進歩があらわれるため,これらの事を実行し,それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる」。(テモテ前 5:8; 4:15,16,新口)自分の子供の救いを願わない両親があるでしょうか。このように訓練された子供を少し援助すれば,他の人の訓練にあたらせることさえ出来ます。テモテに宛てたパウロの言葉,テモテ後書 2章1,2節はそのことを述べています,「そこで,わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって,強くなりなさい。そして,あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを,さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に,ゆだねなさい」。家族のレベルで始められたこの訓練は拡張されて,御国のこの良いたよりをひろめるための資格ある奉仕者を更に生み出します。―マタイ 24:14。
14 クリスチャン宣教の基本的な原則に従って,どのように子供を訓練できますか。どんな結果になりますか
14 多くの両親の経験によると,クリスチャンの宣教に子供を訓練する最善の方法は,「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌の戸別配布を始めさせることです。(使行 20:20)これは子供でも容易にできる健全な活動であり,誠実な人が神の御国を知ることになって,まず良い結果を生み出します。両親は,毎号の雑誌の中から家の人に説明できる点を準備し,知的で効果的な証言をするように子供を教えていますか。たしかに自分の子供を教えることは,両親の大切な責任です。それでふた親がこの責任を十分にはたさねばなりません。両親が教えと訓練を授けることによって,家族は円熟します。―エペソ 4:13,14。
15 (イ)聖書の原則の適用について言えば,両親にはどんな責任がありますか。例をあげて説明しなさい。(ロ)こらしめはどのように与えるべきですか。
15 たとえ聖書の原則を知っても,その原則を何時,どのように適用するかを理解するという事になると,それは別問題です。子供にとつてはなおのこと難しい問題に違いありません。それを知る賢明な両親は何時でも子供に物事のわけを理解させようと努めます。たとえば,人のものをとってはいけないと子供に教えても,所有権の観念を持たない子供は何か欲しいと思えば,善悪の分別などはつきません。そこで親は盗みとは何かをわかるように教え,それがサタンの始めたもので,サタンのようになりたくなければ,サタンの始めたことはしないと言い聞かせます。(イザヤ 14:12-15)子供が悪いことをして叱らなければならないとき,愛の気持ちで,また子供の性質を考えてこらしめることが必要です。口で言えば理解する子供もあり,しりをたゝかなければ言うことをきかない子供もあります。また大好きなものを与えないこらしめの方法がよい場合もあるでしょう。賢明な親はいちばん良い方法を知り,正しい時に正しい分量のこらしめを与えます。―箴言 23:13,14。
16 (イ)両親は,コリント前書 15章33節にあるパウロの言葉をどのように見るべきですか。(ロ)クリスチャンの両親は,学校時代の子供をどのように導きますか。
16 いまは聖書に言う末の日であって,それを心に留めておくのは賢明です。(テモテ後 3:1-5)したがって賢明な親はコリント前書 15章33節(新口)にある使徒パウロのいましめ,「まちがってはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」に注意します悪い交わりと悪い考え方にひき込まれないように子供を守りなさい。学校に行くようになると,たいていの親の気づくように,子供の考え方や態度が変ります。新しい環境に影響されて多少なりとも反抗的になる子供,勉強に追われて聖書の勉強と宣教活動がおろそかになり,家庭の行事にも参加しなくなる子供がいます。そこでいろいろな活動につり合いを保つように親の指導が必要です。学校時代は大きく成長する時ですが,同時に難しい時でもあり,両親の正しい訓練と指導がどうしても必要です。
17 両親と子供は課外活動をどのように見るべきですか。
17 たとえば課外活動は,まずたいていの子供の場合に指導が必要です。スポーツその他の活動は,熱中し過ぎて片寄りやすいものです。パウロはテモテにこう書き送りました,「信心のために自分を訓練しなさい。からだの訓練は少しは益するところがあるが,信心は,今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので,万事に益となる。これは確実で,そのまま受けいれるに足る言葉である。わたしたちは,このために労し苦しんでいる。それは,すべての人の救主,特に信じる者たちの救主なる生ける神に,望みを置いてきたからである」。(テモテ前 4:7-10,新口)それでクリスチャンの両親は,学校に対する正しい見方すなわち必要な教育を受けるための手段として見ることを,子供に何時も教えます。万事につけ手本と見られている新世社会の子供たちは,学業によい成績をおさめるように努めるべきです。それはほめるべきことであり,それ自体で証言となります。エホバの御名と制度に非難をもたらさないよう,その行いにも十分気をつけなければなりません。
18 リクリエーションとは何ですか。リクリエーションに対して健全な見方を持つにはどうしますか。
18 ここで今度はリクリエーションの問題を考えてみましょう。リクリエーションとは何ですか。またどんなものを選ぶべきですか。リクリエーションは,働いた後に体力と気分を刷新し,再生するもの,気分の転換と普通に定義されています。根本的に言ってそれはペースの変化を意味し,つり合いのとれた生活を送るのに不可欠なものです。クリスチャンとしてどんなリクリエーションを求めるかは,各人の良心に従って決めなければなりません。(コリント後 1:12)何かのスポーツを楽しむ人もあれば,読書,散歩,ハイキング,あるいは何かの趣味をリクリエーションにする人もあります。大切なのは,リクリエーションを生活の中でいちばんの重大事にせず,そのあるべき姿を見失わないことです。いちばん大切なことは,御国の良いたよりの伝道でなければなりません。しかし親が子供と一緒にリクリエーション活動を少しでもすることは大切です。「父親が働きの手を休んで時おり子供と遊んでやれば,子供が悪くなることはない」と言われています。どんな娯楽であれ,それが健全なものでクリスチャン原則を破るものでなければ,平衡のとれたクリスチャンはその益を楽しむことでしょう。
19 (イ)両親は,何に負けないように子供を強くすべきですか。(ロ)パウロも述べている通り,クリスチャンはどんな苦しみにあいますか。
19 クリスチャンの両親が十分に考えておくべきもう一つの事は,嘲笑に負けない子供を育てることです。子供は大人以上に他の人からよく思われるようとします良い身なりをして仲間の行く場所に出入りしたいばかりに盗みをした子供もありました。何かの問題で自分の立場を固守したために圧迫されると,くじけてしまう子供もあります。この事について言えば,クリスチャンの道はまさった道であり,キリスト・イエスの手本にならうものであることを淳々と説き聞かせることが必要です。「いったい,キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は,みな,迫害を受ける」と述べたものは,使徒パウロ自身でした。クリスチャンの子供はのほうずなパーティーに出席せず,髪の形や服装においても特定のスタイルに迎合せず,したい放題の蛮行に加わらないので,苦しめられたり,悪く思われたりします。よく思われないのは悪いことですか。そうではありません。エホバからほめられるのは人気を得るのにまさり,美徳は悪よりも望ましいものです。―テモテ後 3:12,新口。
20 悪い交わりを避けることについて,聖書はどんな助言を与えていますか。
20 両親が愛の心から卒直な助言を子供に与え,同じ信仰を持たない者とデイトやその他の交わりをすることの危険を指摘するのは悪いことですか。そのようなことは決してありません。賢明な両親は申命記 7章3節(新口)にしるされたエホバのご命令を知っています,「また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない」。使徒パウロも「結婚してもさしつかえないが,それは主にある者とに限る」と述べました。(コリント前 7:39,新口)この命令を無視してエホバから喜ばれることはできません。親は,ほまれあり,聖書的に正しい結婚をするように子供を正しい道に導く重い責任を持っています。
21 なぜクリスチャン会衆は,クリスチャンの父親から良い手本を期待できますか。
21 監督または補佐の僕の資格を持つクリスチャンの父親について,パウロは次のことをテモテに書き送りました,「監督は……自分の家をよく治め,謹厳であって,子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が,どうして神の教会を預かることができようか」。(テモテ前 3:1-7,新口)ゆえにクリスチャン会衆は,監督と補佐の僕の家庭を見てそこに正しい手本を見ることができます。このような手本を示していないクリスチャンの父親が監督の地位に留まることは,まず期待できません。