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約束されているとこしえの命を得なさい ― 信仰を働かせなさいものみの塔 1977 | 3月15日
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言っておられます。(ハバクク 2:4,トムソン訳)信仰を失って退く人は,エホバの不興を買います。そういう人と,エホバへの信仰を固く保ってとこしえの命を得るクリスチャンとが,対照的に扱われています。パウロは,ハバクク 2章4節の二つの箇所の順序を逆にして引用し,後の箇所を先に置いています。
15 こうしてパウロはわたしたちに何を警告していますか。わたしたちの前に迫りつつあるどんな試みを考えるなら,それは非常に適切ですか。
15 パウロは,今のところキリスト教を信じているわたしたちに警告を与える目的でそうしたのです。現在でも,わたしたちのうちから,しりごみして信仰を捨てる人が出る危険があるからです。「それで,立っていると思う者は,倒れることがないように気をつけなさい」。(コリント第一 10:12)サタンの支配下の世がより独裁的になるにつれて,わたしたちに対する圧迫は増し加わります。「大患難」が接近して,わたしたちの忠実さを試すすさまじい最後的試みが迫って来るのを見るとき,わたしたちはそれに立ち向かうのをやめることに決めるかもしれません。神への信仰と確信を失うかもしれません。そうなるとしりごみをします。そして試みに耐えることをやめます。
16 神を信じない人は,どのように無分別に行動しますか。
16 ラテン語訳のウルガタ聖書では,ハバクク 2章4節が,きわめて適切にこう訳されています。「見よ,信じない者を,彼の魂は彼のうちにあって正しくない。しかし正しい者はその信仰によって生きる」。(英語のドゥエイ聖書より翻訳)ローマ・カトリックの「新アメリカ聖書」は,すぐ前途に山なす困難があるのを知ったがゆえに信仰を放棄する点で,そのクリスチャンは「無分別」であること,その結果神への忠誠を保たないことを示しています。「無分別な者には誠がない。しかし正しい人は,その信仰のゆえに生きる」。
17 「大患難」に向かって信仰を抱いて進み続ける人の場合,その人が「無分別」であるかどうかについてなんと言えますか。
17 「大患難」に向かい,信仰をもって行進しつづけるクリスチャンは,そうするからといって無分別であるとは言えません。本当に無分別な者,うぬぼれや高ぶりで思い上がっている者とは,全能の神への不信からすぐにやめる人のことです。やめる人は,もう少しで報いが得られるところで,忠実な者に対する神の約束がもう少しで成就するというところでやめます。エホバ神はやめる者を喜ばれません。
18 ヘブライ 10章39節で,忠実な人々の級のために,使徒パウロはどんな道を示していますか。
18 今や,エホバの献身した民の全歴史の上で最も波乱の多い時に面し,わたしたちはどうすればよいでしょうか。どんな決意を持つべきですか。わたしたちは,おくびょうな行動を取ったり,しりごみしたりする気持ちは毛頭ありません。神の過分のご親切により,行くべき正しい道は使徒パウロがわたしたちのために示してくれています。彼は忠実な者の級に代わって語り,次のように述べています。「しかしわたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰をいだいて魂を生き永らえさせる者です」― ヘブライ 10:39。
19 しりごみしないことに賛成するなら,集会やはばかりのないことばで語ることについてどうすべきですか。
19 今こそ決意すべき時です。わたしたちは神への不動の信仰を抱き,使徒パウロに共鳴して,決然たる態度で,『わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではない』と宣言するでしょうか。不信仰なクリスチャンのようなものではない,と宣言するからには,しりごみする不信仰の人々が習慣にしているように,「集まり合う」ことをやめたりせず,必要ならば地下に潜ってでも集まって互いに励まし合い,「その日が近づくのを見てますますそう」しなければなりません。わたしたちは,はばかりのない言葉で語る態度を捨ててはなりません。「それには当然与えられる大きな報いがあります」。むしろわたしたちは,キリストによるエホバの神権政府を,全人類のための唯一の希望として大胆に宣明し続けましょう。―ヘブライ 10:25-35。マタイ 24:14。マルコ 13:10。
20 もしとこしえの命を望むなら,どんな積極的な道を取ることに賛成を表明しますか。
20 わたしたちが望んでいるのは,滅びなどではなく,とこしえの命ではありませんか。ですから今,消極的にではなく積極的に語り,心からこういうのです。「わたしたちは……信仰をいだいて魂を生き永らえさせる者です。信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。これによって[アブラハムを含め]昔の人びとは証しされたのです」― ヘブライ 10:39から12:2まで。
21 神の約束に対する信仰は,どんな種類の期待を抱いて何をする力をわたしたちに与えますか。
21 偽ることのあり得ない神の約束に対するわたしたちの信仰は,忍耐する力をわたしたちに与えます。啓示 13章10節に,「ここが聖なる者たちの忍耐と信仰の意味するところです」と述べられているように,信仰と忍耐とは相伴うものです。今まで長い間,わたしたちは神の約束の成就を望んで忍耐してきたかもしれません。しかしわたしたちのその期待は裏付けのある,保証されたもの,神がわたしたちを失望させられることはない,とわたしたちが全き確信を抱いているほどのものです。
22 神の約束の目に見えない事柄に関し,わたしたちは何を信じていますか。そして約束の成就を楽しむべく,神は報いとして何をわたしたちに与えてくださいますか。
22 わたしたちはまだ神が約束されわたしたちが望みをかけている事柄を見てはいないかもしれません。しかし,それが現実のものであることを知っています。全能の神の力によってそれが存在することを示す「明白な論証」があるからです。神の約束の成就にあずかるには,命がなければなりません。わたしたちは自分の命を生きながらえさせてもらわねばなりません。その命の賞は,くじけない信仰によってのみ得られるものです。わたしたちは,神が果たされる約束をとこしえに楽しむことを心から願っています。したがって,恐れや不信でしりごみをする傾向や考えを追い払います。わたしたちは信仰を働かせ,それと共にその証明として業を行ないます。それに対する報いとして,命の授与者のエホバ神は,わたしたちの魂を永遠に生きながらえさせてくださいます。―ヨハネ第一 2:25。
23 約束の成就において,神は,神のご意志を忍耐しながら忠実に行なう者に対し何を行なわれますか。
23 ですから,『忍耐を与えてくださる神』は,忠実に忍耐して神のご意志を行なう者たちに対し,必ず約束を果たしてくださいます。(ローマ 15:5)神は喜びをもって,み子イエス・キリストによる長い間の約束の王国の祝福と特権に,わたしたちを導き入れてくださるでしょう。したがって,「終わり」が来る前にこの王国を「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝える」ことが,むだに終わることはありません。―マタイ 24:14。
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『唯一まことの神についての知識を取り入れる』ものみの塔 1977 | 3月15日
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『唯一まことの神についての知識を取り入れる』
「命の水」がコロンビアの人々に引き続き多くそそがれることは主のご意志でしょうか。そう考えるだけの十分な理由があります。―啓示 22:17。
最近,サンタンデル州のバランカベルメハに住む三人のエホバの証人が,2時間ほど離れた寒村ヤリマに出かけて行きました。その付近はゲリラ活動の中心地として知られていたので,三人はそれほど良い成果を期待していませんでした。しかし,実際に行ってみると,彼らは大歓迎を受けたのです。わずかな時間のうちに,持っていたすべての文書を配布してしまいました。数日後,もっと多くの文書を携えて出かけて行きましたが,それもすぐになくなってしまいました。わずか5時間ほどで,300冊に上る聖書や書籍,および幾百冊もの雑誌が,この付近の謙遜な人々の手に渡ったのです。
アンティオキア州の孤立した地域に住む一人の人は,“真理の水”を飲んで感銘を受け次のような手紙を支部事務所に寄せました。
「私は一つお願いがあって手紙を書いています。どなたか私の家に来て聖書を教えてくださいますでしょうか。私は数多くの宗派をよく知っていますが,どれ一つとして私の望んでいた霊的平安を与えてくれるものはありませんでした。その霊的な平安とは天のみ父のご意志を行なうすべての者にみ父が差し伸べておられる報いをどのようにしたらいつの日にか享受できるようになるかを知ることです。私はヤリに住んでいる者ですが,『真の平和と安全』と題する貴協会の発行しておられる書籍を読んだ後,どなたかにぜひ来ていただきたいと心から願うようになりました」。
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