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悪霊に立ちむかうものみの塔 1963 | 7月1日
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悪霊に抵抗しなさい! 立ちむかうことにあきてはなりません。戦いつづけなさい。悪鬼の圧迫にあってもクリスチャンの特権を手放してはなりません。「悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去るであろう」。(ヤコブ 4:7,新口)エホバを求めつづけて,悪魔に立ちむかいなさい。そのときエホバは,私心なく神につかえ,ひたすらに神を恐れる,心の清い人,神に対して全き心を持つ人を救って下さるでしょう。エホバ神のみ心とみわざ,その言葉に,たえず心と思いを向けなさい。霊的な武具で身を固めなさい。それは神の国がすべての悪霊に対して勝利を得るときまで,「悪魔の策略に対抗して立ち得る」ためです。―エペソ 6:2,新口。
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読者よりの質問ものみの塔 1963 | 7月1日
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読者よりの質問
● なぜエホバの証者はお互いを「兄弟」,「姉妹」と呼び合うのですか。そのような呼び方をする聖書的な根拠を見つけた事がありません。イエスは弟子たちをいつも,「ペテロ」,「ヨハネ」と呼び,「ペテロ兄弟」とか「ヨハネ兄弟」とは呼びかけませでした。―アメリカの一読者より
献身したクリスチャンがたがいに,「兄弟」,「姉妹」と呼びかける正当な理由があります。福音書や使徒行伝の中でこれらの言葉が使われる場合には,2,3の例外を除き,ほとんど血縁の近親者を呼ぶ際に用いられたというのは事実です。しかし,イエスは共に信者となった者たちを呼びかける際に,広い意味で「兄弟」という言葉を使いました。たとえばイエスは次のように語った事があります。「みよ,これ我が母,わが兄弟なり。誰にても天にいます我が父のみこゝろをおこなふ者は,即ち我が兄弟,わが姉妹,わが母なり」。また,「もし汝の兄弟,罪を犯さば,ゆきてたゞ彼とのみ,相対していさめよ。もし聴かばその兄弟を得たるなり」。―マタイ 12:49; 18:15。
イエスの使徒や弟子たちも,もっとはっきりした意味で,「兄弟」という言葉を使っており,彼らが残した記述全体にそのような例はくりかえし見られます。「兄弟ととなえる者の中に或は淫行のもの……あらば,斯る人と交ることなく」とパウロは述べました。忠実な弟子アナニヤは迫害者サウロに対して,彼が一度悔い改めた後には,「兄弟サウロ」と呼びました。その後パウロ自身も,「兄弟ソステネ」,「兄弟アポロ」,「兄弟テトス」,「我らの兄弟テモテ」と言いました。またペテロもパウロの事を,「我らの愛する兄弟パウロ」と呼びました。また使徒行伝 21章20節には,「彼ら聞きて神をあがめ,またパウロに言ふ『兄弟よ,なんぢの見るごとくユダヤ人のうち,信者となりたるもの数万人あり』」という言葉があります。これらの数々の例を考慮すれば,クリスチャンが共に信者となった者に対し「兄弟」,「姉妹」と呼ぶのを妨げる確かな理由はなにもありません。―コリント前 5:11。使行 9:17。コリント前 1:1; 16:12。コリント後 2:13。ヘブル 13:23。ペテロ後 3:15。
第1世紀には行なわれていませんでしたが,今では名前と共に家族の姓も使われるようになっているので,今日行なわれているように,家族の姓と共に兄弟という言葉を付す事が便利になりました。この言葉を使うことによって極端な遠慮と極端になれなれしい呼び方との双方を避ける事ができます。大人の人をその個人の名前で呼ぶ事はお互いの間の親密さを表わしますが,どんな場合にも許されるわけではありません。特に,若い人が年上の人に話しかける場合や,まだ面識もない人同志の間では使えません。一方,「― 様」という言い方は親密さの欠けた感じがし,献身したクリスチャンの間ではあまり通用しない疎遠な感じを与えます。献身したクリスチャンはお互いを霊的,ないしは宗教的な家族の一員と見なしますから,「兄弟」,「姉妹」という呼び方は聖書的な呼び方であるばかりでなく,相互の間柄を示すために適当なものです。
● 1963年2月15日号ものみの塔,115頁(日本語は,1963年6月1日号339頁)に「祈りの特権は,神のみこころを行なうために,正確な知識にもとづいて献身した人々のものです」とあるのはなぜですか。―イランの一読者より
だれが祈れるかという事について,一般のクリスチャンの間には多くの誤解があります。事実上,普通のクリスチャンの大部分は,だれが祈っても,また,聞かれるという期待を抱いて祈るならどんな事柄を祈っても聞き入れられると考えています。しかしそうではありません。(箴言 15:29。ヤコブ 4:3)祈りは無制限の特権ではなく,制限つきの,限定された特権です。ヘブル書 11章6節に,「信仰なくしては神に悦ばるること能はず,そは神に来る者は,神のいますことと神の己を求むる者に報いを給ふこととを必ず信ずべければなり」,と書いてある通りです。他の言葉で言えば,人が神に聞かれるためには,神の存在を信じているだけでなく,熱心に神を求めていなければなりません。それこそエホバ神が不忠実なイスラエル人に,その祈りを聞かないと言われた理由です。またイエスは,独善的な人の祈りやうわべをつくろった祈りは聞かれない事を教えました。―イザヤ 1:15。マタイ 6:5-8。ルカ 18:11-14。
これらの点はいずれも祈りが制限的なものである事をはっきり示します。すでにものみの塔協会の出版物の中で要約されているように(「すべての事をたしかめよ」307~314頁),祈りが聞かれ,答えられるためには,正しい方,エホバ神,創造者,聖書の神に対してなされねばなりません。第二に,その祈りは正しい方法でささげられねばなりません。「我によらでは誰にても父のみもとにいたる者なし」とイエスは言われました。(ヨハネ 14:6)正しい仕方という事の中には,誠実さ,信仰,忍耐なども含まれています。第三に祈りが答えられるためには,正しい事柄,すなわち,神の御こころと調和する事柄を祈るものでなければなりません。それゆえイエスは弟子たちに祈りの仕方を教えて言われました,「みこゝろがなりますように」。昔の人ソロモン王も祈りが限定された特権である事を認めていました。そのわけは,異邦人に関し,ソロモンは,そのうち唯一真の神エホバについて学び,エルサレムにあったエホバの宮に来て祈る者だけのために神に求めをしているからです。―マタイ 6:10。列王上 8:41-43。
コルネリオは異邦人で,割礼を受けておらず,献身したイスラエル民族に属していませんでしたが,「敬虔にして全家族とともに神を畏れ,かつ民に多くのほどこしをなし,常に神に祈れり」と記されているように,神の御こころを行なう事を願っていた人でした。それゆえ,コルネリオは献身という段階に向かって進んでいたと言えます。そして実際に,正確な知識を得た時すぐ,神に献身しました。そしてその時以来コルネリオは神との契約関係にはいり,神はコルネリオを御自分の子と見なし,御霊を注いでその証拠としました。―使行 10:1-44。
心の中で献身の決意をしていなくても,また水の浸礼によって献身を象徴していなくても,祈りによって真の神エホバに近づき,正しい方法で正しい事柄について祈るならだれでもその心は献身にむかっていると言えます。神の御こころを行なう事を願い,神に対し善意を抱く人のすべては祈りをするようにすすめられます。それで,エホバ神の献身した僕になる事を心において,両親に育てられている子供たちも正しい祈りについて学ぶのが適当です。―コリント前 7:14。
しかし,聖書を研究することにあまり心を用いてないこの世に属する人々が祈りに関する神の定めを理解しておらず,また神に受け入れられるような心の態度を示していないという事は容易に理解できます。それでこのような人々は,エホバに聞かれる祈りをささげる立場にいません。―箴言 28:9。
しばらくは献身に向かって進歩していても,後にその歩みを止めてしまうような場合が良くみられます。そのような人たちでもひき続き神の民とまじわり,共に奉仕に加わります。彼らの歩みを止めているものが利己心であるなら,また,神に対する全き献身の気持で自らを神にささげようとする態度が自分の心の中に見出されないなら,なお祈りの特権を保持しているかどうかについて,自らたずねてみるのがよいでしょう。あきらかに答は否定です。なぜなら,神に来る者は熱心に神を求める者でなければならないからです。そのような場合には,エホバと公義と謙遜とを求める者だけが,すなわち,エホバに献身し,その献身を全うするために熱心な努力を行なう者だけが,エホバの怒りの日にかくされるであろうという事をも銘記するのがよいでしょう。―ヘブル 11:6。ゼパニヤ 2:3。ルカ 13:24。
● ヨシュアはなぜ馬の筋をきるように命じられたのですか。また,この事は今日のクリスチャンにとってなにか意味がありますか。―アメリカの一読者より
疑問とされている命令の言葉はヨシュア記 11章6節にあり,次の通りです。「彼らの故によりておそるるなかれ,明日の今頃われ彼らをイスラエルの前にわたしてことごとく殺さしめん汝かれらの馬の足の筋をきり火をもて彼らの車をやくべし」。そして同じ章の9節はヨシュアが「エホバの己に命じ給ひしことにしたがひて彼らの馬の足の筋をきり火をもてその車をや」いたと記しています。
ここでいっている筋とは,馬のあと足のうら側で,くるぶし関節の上にある鍵のことです。あと足のくるぶし関節は,前肢ならひざの関節に相当する部分です。この部分の左右の腱を切るならば,馬はかたわになり,騎兵を乗せる事も,戦車を引く事もできなくなり,もはや戦闘には役立ちません。馬の戦力を失わせるにはこれが一番簡単な方法でした。もちろん,筋をきられて,不具になった後は,殺されたでしょう。
馬についてマクリントックとストロングの百科事典は次のように述べています。「聖書中の馬に関する記述について特に注目に価するのは,馬が戦闘目的のためにだけ用いられていたという事である。一般の運搬用とか農耕用に馬が使用されたという例は見られない」。しかし,国事のために馬が用いられた事はあります。(エステル 6:8; 8:14)イザヤ書 31章1,3節にもあるように,馬は特にエジプトと結び付けられていました。「助けをえんとてエジプトに下り馬によりたのむものはわざわひなるかな,戦車おほきが故に之にたのみ騎兵はなはだ強きがゆえに之にたのむ,されどイスラエルの聖者を仰がずエホバを求むることをせざるなり,かのエジプト人は人ににして神にあらず,その馬は肉にして霊にあらず」。同様に馬をたよりにすることをいましめる言葉は詩篇 20篇7節と30篇17節にあります。
イスラエルの王となる者に対しては特に,「たゞし王となれる者は馬を多く得んとすべからず」と警告されていました。レビ記 11章に記録されたエホバの要求の中で,馬がきよくない動物の一つとされている事の理由の中には,疑いなく,ユダヤ人が食物として馬を得,それを転じて軍用に供し,馬をたのみとするようなことをさし控えさせることが含まれていました。ヨシュアの行動は神の指示に従ってなされ,ひいてはこの神の原則にのっとるところとなりました。ヨシュアは天の王エホバ神の下に働くイスラエルのさばき人でした。敵の馬の筋をきれとの命令に従うことにより,ヨシュアは,馬を私用に供したりイスラエルのさばき人としての戦力を増すというような事をさしひかえました。
これらの事は単に史的な興味の対象となるだけではありません。これも,『聖書の忍耐と慰安とによりて希望を保たせんとて我らの教訓のためにしるされた』事柄の一つだからです。(ロマ 15:4)ヨシュアが「エホバの己に命じ給ひしことにしたがひて」勤勉に行動した事は,今日のエホバの民がこの世の軍事力にたよらぬ事をあらわしています。エホバの民はこの世の戦闘行為に参加せず,剣をすきに,槍をかまにうちかえています。これは,古代カナン人の軍馬の筋を切ることにも相当します。―イザヤ 2:4。
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