あなたはどれほど固い信仰を持っていますか
「あなたがたは……苦しい大きな戦いによく耐えた……そしられ苦しめられて見せ物にされたことも……あった」― ヘブル 10:32,33,新口
1 クリスチャンはなぜ強い信仰をいま必要としていますか。だれがこの点で手本となっていますか。
神の国を信じ,神の国を伝道するゆえに,そしられ,苦しめられ,見せものにされ,クリスチャンとして受ける苦しみに耐えるには,真の信仰が必要です。他のクリスチャンにとって,そのかたわらに忠実に立ち,神を愛する信仰の人が忠実を固守するゆえに受ける仕打ちを見守るには不屈の精神が必要です。クリスチャンの手本であるイエス・キリストは死に至るまで耐え忍びました。そしてこう言われました,「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。(マタイ 24:13新口)イエスが贖いによって世を救うために人となる以前,このようなすぐれた信仰を示した人々がいました。イエスはその人々のことを知っていました。その信仰はヘブル書 11章に記録され,今日に至るまで証しされています。信仰はキリスト以前の人々だけが表わした過去のものではなく,今日,クリスチャンが表わさなければならないものです。現代の考え方,科学的知識,今日教えられているいろいろな理論のすべてに直面して,あなたはエホバ神,御子キリスト・イエス,書かれた神の言葉,聖書に対して,どれほど固い信仰を持っていますか。
2 キリスト教国の多くの人は,どんなジレンマに陥りますか。
2 西欧すなわちキリスト教国の人々は,「神を信ずる」とすぐに言うことでしょう。それを言うのは簡単です。しかし人々は,イエスの言われたことを本当に信じていますか。たとえば,「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり,すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」というイエスの言葉があります。(ヨハネ 3:16)神を「信ずる」これらの人の大部分は,さきの問に対して「はい」と答えるでしょう。しかし同時に,進化論を信じているとも言います。人間の進化を信じているとすれば,神の人間創造,人間の罪と死への堕落を信ずることはできません。創造に関する聖書の言葉を信じないならば,なぜキリスト・イエスに信仰を持つのですか。
3,4 (イ)牧師のある者は,聖書に対してどんな態度をとりましたか。(ロ)インタープリタース・バイブルの注釈は,聖書に対する信仰を強めますか。なぜ?
3 創造のことをしるした聖書の部分は神話であるという牧師の言葉を聞くのは,めずらしい事ではありません。そのように考えているならば,書かれた神の言葉を信じていないことになります。聖書全体は,神の人間創造の教えに基づいているからです。1961年8月号のレッドブック誌は,「牧師の卵の驚くべき信仰」という見出しの下に次のことを述べていました。「最近カルフォルニア監督教会のジェイムス・パイク師は,キリストの処女降誕を述べた聖書の言葉を信じていないと言明し,多数のアメリカの教会員を驚かせた。それは原始宗教の神話である……他の宗教的神話をあげるように求められて,パイク師はアダムとエバ,エデンの園をあげた」。この牧師はアダムとエバについて書かれた言葉を受け入れないのですから,その見方に従えば,世の罪を除くキリスト・イエスの犠牲は不必要になります。パイク氏は,霊感を与えて聖書を書かせた神よりも,自分の知識のほうがまさると考えているのです。あなたは,神と,単なる人間とそのいずれを選びますか。
4 オーストラリアの雑誌ピックスの1950年10月21日号は,英国バーミンガムのバーネス牧師の言葉として次のことを報じていました。「旧約聖書には『言伝え,不確かな歴史,文明にまだ達していない道徳観』が随所にうかゞわれる」。牧師が聖書を拒絶していることを示す別の例をあげると,「はじめに」というパンフレットには次の言葉が出ています。「族長たちの物語は何百年ものあいだ,言い伝えられたのち,はじめて書きしるされた。その中に矛盾するところがあっても,驚くにはあたらない。創世記に書かれている通りにすべての事が起きたことを信ずる必要はないのである」。したがってソドムと,ロトがその町から逃れたことに関する聖書の創世記の記録は,イエス御自身によって言及されていますが,たとえそうであっても,キリスト教国の牧師の多くが,これを「神話」扱いにしているのは,不思議ではありません。ザ・インタープリタース・バイブルの626頁,創世記 19章の項には,次の注釈が見られます。「死海の近く,おそらくはその南端にあった町の滅びに関するこの物語 ― おそらくは神話的な背景を持つ,また広く知られた物語の部類に属するものであるが(スキナー,創世記,311-312頁を見よ)― は,イスラエル定着当時のヘブロンにおいて一般に知られていたものと思われる」。聖書の批評家,全くのところ牧師の多くでさえ,ロトに関する聖書の物語は神話に基づいたものであると言います。しかしイエスは,聖書のこの物語を神話と考えましたか。そうではありません! イエスは「ロトの妻のことを思い出しなさい」と使徒たちに言いました。(ルカ 17:32,新口)あなたはイエスと高等批評家のいずれを信じますか。私たちはイエスを信じます。イエス御自身,「これまでに書かれた事がら」を信じていました。
5 パウロは聖書に対してどんな見解を持っていましたか。
5 パウロが次の言葉を書いたのは(西暦)56年頃のことです。「これまでに書かれた事がらは,すべてわたしたちの教のために書かれたのであって,それは聖書の与える忍耐と慰めとによって,望みをいだかせるためである」。(ロマ 15:4,新口)聖書にあるソドムとゴモラの記録から,今日,私たちはどんな望みをいだくことができますか。
ロトおよびソドムとゴモラ
6,7 (イ)ロトの住んだソドムはどんな状態でしたか。(ロ)その町の将来とロトの将来について,天使はどんな指図を与えましたか。
6 ロトはアブラハムのおいで,ソドムの町に住みました。キリスト前1919年頃のある夕暮のこと,二人の天使が「シデムの谷,すなわち塩の海」にあったソドムの町に来ました。(創世 14:3,新口)これはそれよりも前,死海の西方,ヘブロンのマムレでアブラハムに現われた天使です。ソドムの門にすわっていたロトは,この天使の訪問者を自分の家に迎え入れ,その晩泊まるようにと強いてすすめました。「ところが彼らの寝ないうちに,ソドムの町の人々は,若い者も老人も,民がみな四方からきて,その家を囲み,ロトに叫んで言った,『今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう』。ロトは入口におる彼らの所に出て行き,うしろの戸を閉じて,言った,『兄弟たちよ,どうか悪い事はしないでください。』」(創世 19:4-7,新口)ソドムの人々は,性的な快楽のためにこの二人の見知らない人を利用しようとしたのです。ロトはそれを拒み,人々は怒り立ちました。天使がロトを家の中にひき入れて戸をしめなかったとすれば,ロトはどんな目にあったか分かりません。
7 天使は,ロトが妻と二人の娘を連れて朝早く,この悪い町を出ることを強くうながしました。天使はロトにこう言ったのです,「此処のさけびエホバの前に大になりたるによって我等之を滅さんとすエホバ我等を遣はして之を滅さしめたまふ」。そこでロトは町を出る準備をしました。「暁に及びて天使ロトを促して言けるは起てこゝなるなんぢの妻と二人の女を携へよ恐くはなんぢ邑の悪とともに滅されん然るに彼ためらひしかば二人その手とその妻の手とその二人の女の手をとりて之を導き出し邑の外におけりエホバかく彼に仁慈を加へたまふ」。それからロトとその家族は次のように命ぜられました,「のがれて汝の生命を救へ後をかへりみるなかれ低地の中に止るなかれ山に遁れよしからずばなんぢ滅されん」― 創世 19:13-17。
8,9 ソドムの終りに関する預言は,どのように成就しましたか。
8 ロトは死ぬことを望まず,生命を守って下さいと神に願いましたが,命ぜられた通り山に登ることができませんでした。それで近くの町に逃れる許しを乞い求めました。「そうすればわたしの命は助かるでしょう」とロトは言っています。彼らはゾアルの町に急ぎ逃れました。「ロトがゾアルに着いた時,日は地の上にのぼった。主〔エホバ〕は硫黄と火とを主[エホバ]の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて,これらの町と,すべての低地と,その町々のすべての住民と,その地にはえている物を,ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった」。―創世 19:18-26,新口。
9 しかしロトのおじはどうしていましたか。「アブラハムは朝早く起き,さきに主[エホバ]の前に立った所に行って,ソドムとゴモラの方,および低地の全面をながめると,その地の煙が,かまどの煙のように立ちのぼっていた」。―創世 19:27,28,新口。
10 アブラハムはソドムの滅びを懸念していましたか。なぜですか。
10 立ちのぼる煙を見たアブラハムは,ロトの安否を気づかったに違いありません。その前の日,アブラハムは,10人の正しい人がいたならばその町を滅ぼさないようにとエホバに願っていました。しかしソドムには10人の正しい人さえ,いなかったのです。それで町は滅びました。しかし「神が……ロトの住んでいた町々を滅ぼされた時,神はアブラハムを覚えて,その滅びの中からロトを救い出された」。―創世 19:29,新口。
11 ソドムとゴモラに関する聖書の記事に,なぜ信仰を持つべきですか。
11 聖書の創世記 18章,19章を開いて,この出来事の全部を読んでごらんなさい。あなたは神の言葉に固い信仰を持ち,ソドムが神の手によって滅ぼされ,ロトと二人の娘はゾアルに落ちのびたことを信じますか。イエスはそれを信じました。ゆえにこの出来事に言及してこう言われました,「ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い,飲み,買い,売り,植え,建てなどしていたが,ロトがソドムから出て行った日に,天から火と硫黄とが降ってきて,彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も,ちょうどそれと同様であろう」。―ルカ 17:28-30,新口。
私たちに対するたとえ
12 イエスは,ソドムおよびノアの日に関する聖書の記述をどのように用いましたか。
12 イエスは,この悪しき世の全組織制度すなわち私たちが住む現代のソドム,ゴモラの滅びる時のことを,弟子たちに語っていたのです。イエスは,その再臨在の時に起こるべき事を忠実な弟子たちに正しく理解させ,「わたしたちの信仰を増」すために,昔のソドム,ゴモラの滅びを歴史に残るひとつのたとえとして用いています。(ルカ 17:5,新口)しかしイエスは弟子たちの信仰を固くするため,創世記に述べられた,神の言葉からの歴史的事実をそれに加えました。「そして,ノアの時にあったように,人の子の時にも同様なことが起るであろう」。(ルカ 17:26,新口)これらのたとえによって,イエスが彼ら,また私たちの心に銘記させようとしていた事は何ですか。救われることです! しかし救いを得るには,この古い世から出て,その一部にならないことが必要でした。現代において,ロトおよびその二人の娘によって表わされていた人々すなわち大ぜいの群衆がいます。この人々は,不意の滅びに定められているこの古い世から逃れ出ています。そしてロトの言ったように「命を救って」下さる神の愛と恵みに感謝しています。(創世 19:19,新口)救われるには,神の定めに従って安全を求めなければなりません。それは現代のソドムを逃れ出ることを意味します。終りの時に臨んだこの古い世から急いで逃れなさい。
13,14 私たちはだれのようになりたいとは思いませんか。それでは何をすべきですか。
13 ロトの妻の二の舞をしてはなりません。ロトの妻は立ちどまり,振り返ったのでまき込まれて塩の柱になりました。それでゾアルに行き着きませんでしたが,ロトと二人の娘はそこに逃げのびました。そこが彼らの安全な場所だったのです。ロトは信仰をもち,そのゆえに滅びを通り抜けました。今日の善意者もこの災の時とハルマゲドンの戦いを通って,義の住む神の新しい世に生きのびるには,これと同じ固い信仰を持たなければなりません。また主の祈りすなわち「天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように」祈りつゞけなければなりません。その祈りは答えられるでしょう。神の御心を行なう者は,神の御国の下に全き安全と幸福を見出します。―マタイ 6:9,10,新口。
14 今日,この御国を本当に求める善意者は,逃れて生命を全うするでしょう。神の預言者は述べました,「すべてエホバの律法を行ふこの地のへりくだるものよ汝等エホバを求め公義を求め謙孫を求めよ然すれば汝等エホバの忿怒の日にあるいは匿さるゝことをあらん」。(ゼパニヤ 2:3)後を顧みることはできません。そうすれば「エホバの忿怒の日」に滅びてしまうでしょう。
15 ペテロは,ロトおよびソドムに関する聖書の記事をどのように見ましたか。
15 イエスがロトの身に起きた出来事を信じていたのと同じく,ペテロもそれを信じました。ゆえに現代の宗教家が信じなくても,どれほどのことがありますか。悪しき者に関するペテロの強い言葉,また聖書の最初の本,創世記に記録されている通り,神の裁きが悪人に臨んだことを語るペテロの確信にみちた言葉を聞いてごらんなさい。「神は,[ノアの時代に]罪を犯した御使たちを許しておかないで……さばきの時まで…閉じ込めておかれた。また,古い世界をそのままにしておかないで,その不信仰な世界に洪水をきたらせ,ただ,義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。また,ソドムとゴモラの町々を灰にせしめて破滅に処し,不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし,ただ,非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。(この義人は,彼らの間に住み,彼らの不法の行いを日々見聞きして,その正しい心を痛めていたのである。)こういうわけで,主〔エホバ,新世〕は,信心深い者を試練の中から救い出し,また不義な者ども…を罰して,さばきの日まで閉じ込めておくべきことを,よくご存じなのである」。(ペテロ後 2:4-9,新口)ペテロは信仰を持ち,このすべてはエホバ神のわざであることを信じました。ソドムの滅びから1980年余りたった西暦64年に,ペテロはこの事を書き,そして信じていました。
キリスト教国の無信仰
16,17 キリスト教国の無信仰ぶりを述べなさい。
16 イエスがそれを事実として語っているにもかゝわらず,現代の牧師の多くはロトの物語を信じません。彼らはイエスのことをどう考えているに違いありませんか。宗教家はペテロをも重く見ていません。ペテロはこの世の終りの時の状態を述べるのに,ソドムをひきあいに出しているからです。時間をかけて聖書を学び,しらべる正直なクリスチャンは,聖書の真実を悟り,信仰を抱くでしょう。そうすることは賢明です。なぜなら人は「信仰に立って,いのちを得」ます。―ヘブル 10:39,新口。
17 キリスト・イエスに対して,どれだけ固い信仰を持っていますか。あなたの信仰に従えば,イエスは実在の人物ですか。イエスが人類の生命のために死なれたことを信じていますか。イエスが贖いの犠牲となったこと,イエスなしで永遠の生命を得ることのできる人は一人もいないのを信じますか。テモテ前書 2章5,6節の次の言葉を読みましたか。「神は唯一であり,神と人との間の仲保者もただひとりであって,それは人なるキリスト・イエスである。彼は,すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」。あなたはこの言葉を信じているかも知れません。しかし著名な牧師でこの真理に信仰を持たない人が大ぜいいるのをご存じですか。たとえば英国メソジスト連盟の会長ウイル・ウエザ・ヘッド博士の言葉を借りると,「私はキリストのはりつけが神の御心であったとは信じない。キリストが世に来たのは,殺されるためではなく,指導者となるためである」。(1958年4月22日号目ざめよ! <英文>,27頁)ハリー・エマソン・フオスディックのような宗教指導者が次の言葉を吐いても驚くにはあたりません。
「言うまでもなく,私は処女降誕あるいは贖いという旧弊な身代りの教義を信じない。また知性のあるキリスト教牧師の中でこれを信ずる人のあるのを知らない。基本主義者の間違いは,彼らの教義に同意しない限り,人は人間の生活を変革し,この世でキリストを救い主たらしめるクリスャン福音の深遠かつ本質的,永遠の真理を信じ得ないと考えていることである」― クリスチャン・ビーコン,1946年5月9日,第11巻13号。
キリスト・イエス,神の子としての誕生,贖いの犠牲としての死を信じないとすれば,その牧師はクリスチャンと称して会衆の前に立つことができますか。自ら信仰のない者が他の人々の信仰を建て起こせるでしょうか。連合教会の牧師キーティングのような「神学博士」が次のような事を言うのも,それでうなずけます。
「教会の現状では,人,特に男の人が教会員になりたがらないのは当然である。教会員になることを望むような人は宗教を生活の中できわめて些細な事柄 ― 社会的に有用で,個人的には無害なもの ― と考えているか,それとも教会にはいることの意味を知らない人である ― その人は自分で新約聖書を読み,教会に行けば聖書を教えていると思ったかも知れない……もし私が平信徒であれば,たとえそれが道の向う側にあっても,はいって行きたいと思うような教会は思い当たらない」― カナダ,ウイニペッグ,1961年3月4日付トリビューン。
教会の説教壇に立つ牧師が,自分たちの説教を聞きに来ても無駄であると公言しているとすれば,人々が神とキリストに信仰を持つことなどは,とうてい期待できません。牧師はキリストに対する信仰こそ,救いの道であることを教えているはずです。
18 ルーテル教会の一牧師は,現在の世界をどのように見ていますか。
18 1960年3月11日付ニューヨーク・タイムスは,ドイツ,ハノーバーのルーテル教会牧師ハンス・リルエの説教から次の言葉を引用しています,「キリスト教のまわりの世界は今日,たいていの人が考えているよりも遙かに深刻な,根本的な変化を遂げた。我々は実際には非クリスチャンの世界に生活している。この言葉を厳密な意味に使わねばならぬ。我々の時代は反キリスト教ではなく,非キリスト教の時代なのだ」。この人が知っているのは当り前です! ルーテル教会の指導的な地位にあるこの人は,キリスト教国の人々が非クリスチャンであるという意味のことを語っているのです。その「教会」と宗派はキリスト教国の一部を成すものであり,リルエ氏は,「我々の時代は非キリスト教の時代なのだ」と語っています。
19 (イ)キリスト教国の失敗に鑑みて,クリスチャンは何をすべきですか。(ロ)人はどのように信仰を得ますか。
19 今日キリスト・イエスの足跡に従っている者が一人もないとすれば,キリスト教国の問違った宗教から離れ,逃れ出よとの警告を声を大にして叫ばねばなりません。イエスはユダヤ人の宗教の下に生まれましたが,そのような宗教組織をも含めて,自分はこの世のものではないと言われました。イエスは宗教指導者の偽善を非難しました。今日,生まれたときから何かの宗教組織に属している人は何百万人もいますが,真理を愛する人は自分で考え,それからキリスト教国を逃れ出て,真の神エホバに仕えなければなりません。牧師の多くはアダムとエバの物語を信ぜず,キリストを受けいれない者さえあります。しかしパウロは,「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである」と述べました。(コリント前 15:22,新口)ですからパウロは両方を信じていました。しかしだれでもかれでも無理に生かされるのではありません。各人は信仰を持つことが必要です。「さて,信仰とは,望んでいる事がらを確信し,まだ見ていない事実を確認することである」。(ヘブル 11:1,新口)パウロは次のように論じています。信じていなければ,どうしてエホバの御名を呼んで救われることがあろうか。しかし真の神のことを聞かなくては,どうして信ずることがあろうか! このような信仰を得るには,良いたよりの伝道者がいなければならぬ。しかし遣わされなければ,どうして宣べ伝えることがあろうか。そこでパウロは次のように結論しています,「したがって,信仰は聞くことによるのであり,聞くことはキリストの言葉から来るのである」。―ロマ 10:13-17,新口。
神の言葉は信仰を建て起こす
20 真のクリスチャンがよく知り,信仰をもって受け入れる事実をいくつかあげなさい。
20 はじめにクリスチャンとなった人々はキリスト・イエスに信仰を持ちました。それはイエスを見,また聞いたからです。彼らは望む事を確信して期待しました。またイエスが病気をいやし,盲人の目をあけ,死者をよみがえらせ,御自身もまたエホバ神によって死からよみがえされたのを知っていました。希望を確信するために,それ以上の何が必要でしたか。その信仰は実際に起きた現実の出来事に基づいていました。さて私たちには,神の言葉,聖書に書きしるされた記録があります。それでキリスト・イエスの地上の生涯におきた出来事を知ることができ,また使徒たちのわざの正確な記録をもしらべることができます。するとクリスチャンの信仰は実際に見聞した出来事の真実に基づいていることが分かります。パウロの説明している通り,人はアダムの罪のため死に定められています。私たちはそのことを知り,初期クリスチャンもその事を知っていました。「このようなわけで,ひとりの人によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである」。(ロマ 5:12,新口)クリスチャンは,人間がなぜ死ぬか,その理由を知り,また生命は私たちの主イエス・キリストを通して神から与えられる賜物であることを知っています。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。(ロマ 6:23,新口)パウロはその事を知り,また信じました! あなたは信じていますか。もしそうなら,書かれた神の言葉に信仰があるのです。
21 (イ)だれもまた,これらの事実を信ずべきですか。(ロ)では不信仰の原因はどこにありますか。
21 今日キリスト教国を代表するどんな牧師も,この信仰を持っていなければなりません。しかしこのような信仰を建ておこす力は彼らにはありません。人間の理論,進化論,宇宙時代の教育に心を転じてしまったからです。彼らにとって聖書は時代おくれの本です。しかし神の御目的を知っていたイエスや使徒たちの言葉に耳を傾けるのは,はるかによいことです。イエスは言われました,「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし,それをきたらせる者は,わざわいである。これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは,むしろ,ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が,ましである」。(ルカ 17:1,2,新口)信仰心のある善良な人々が信仰のない牧師のために神とキリストから離れた例は,どれほどあるか知れません! その事に対しては神に申し開きをしなければなりません!
22 信仰を否定する者の末路は何ですか。
22 真のクリスチャンは神の言葉,聖書と,キリスト・イエスの犠牲に信仰を保ちつづけるでしょう。しかしパウロは,信仰を捨てる者に次の警告を与えています,「もしわたしたちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら,罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを,恐れつつ待つことだけがある」。(ヘブル 10:26,27,新口)キリストは,ひとたび知識を得てキリスト・イエスに信仰を持ち,贖い主としてキリストを受け入れた人々を救うために,再び死ぬことはありません。いたずらに信仰を捨て,神と神の言葉,御子を拒絶するならば,神はその者を再び贖う手だてを設けないでしょう。そのとき罪のための犠牲はもはやありません! 恐ろしい裁きがくるのです! ソドムとゴモラのことを考えなさい。信仰のない者は,ロトとその娘のように逃れることができないでしょう。それで火のような滅びにまき込まれてしまいます。逃れようとする者も,ロトの妻が振り返って塩の柱になったのと同じく,実体的なソドムを顧みるに違いありません。ハルマゲドンの戦いのとき,他の人々は逃れようとして滅びに陥ります。―創世 19:26。ペテロ後 3:10-13。
初期クリスチャンの信仰
23,24 ウエルズは,初期キリスト教と西暦325年以降の教会との相違を,どのように述べていますか。
23 今日キリスト教国の教職者は責任をとらなければなりません。西暦325年以来,その組織した宗派より成るキリスト教国は,真のキリスト教と聖書の教えから次第に遠く離れてきたからです。この事実は現代の歴史家も認めており,ウエルズの歴史概説には次のような言葉があります。「西暦325年という年は,歴史の上できわめて便利な年である。それはクリスチャン世界の完全な一般(全キリスト教会)会議がはじめて開かれた年であった。……それはキリスト教会および今日一般に知られているキリスト教というものが,人間社会の中に役割を占めるようになったはじめである。そのとき,ニケア信条によるキリスト教の教えが明確にされた」。
24 「成長を遂げたこのニケアのキリスト教とナザレのイエスの教えとの間には大きな相違のあることに,読者は注意していただきたい。後者は前者の中にことごとく含まれていると,すべてのクリスチャンが主張するが,それは我々の問題とする点ではない。きわめて明白なのは,ナザレのイエスの教えが,ヘブライ人預言者に始まる新しい型の預言的な教えであったことだ。それは祭司的な宗教ではなく,聖別された宮や祭壇を採り入れなかった。また儀式もなく,『へりくだる,砕けた心』が犠牲であった。その唯一の組織は伝道者の組織であり,おもな務は説教であった。ところが4世紀の十分に成長したキリスト教は,福音書に示されたイエスの教えを中核に残しているとはいえ,すでに何千年も世界に存在してきたのと同じ祭司的な宗教を主体としている。その大がかりな儀式の中心は祭壇であり,崇拝の肝要な行為は祭司のささげるミサの犠牲である。また助祭,司祭,司教の組織が急速に発達した」― 第3版,522,523頁。
25 今日だれが,ニケアのキリスト教とイエスの教えとの相違を認めますか。
25 1920年にこれを書いたウエルズは,「成長を遂げたこのニケアのキリスト教とナザレのイエスの教えとの間には大きな相違のあること」を認めました。今日,だれでも聖書とキリストの生涯をよく知る人は,イエスおよび使徒のしたことが,今日のキリスト教国の教職者の行いと全く相違していることに気づくでしょう。1900年前のクリスチャンは固い信仰を持っていました。その信仰は今日のキリスト教国のどこにありますか。神の本,聖書をすぐれた文学作品と考える人は多くても,十戒は読むもので実行するものではないと考えられています。
26 (イ)パウロによれば,モーセの律法を無視する者にはどんな結果が及びましたか。(ロ)モーセはエホバの導きの下に,どんな事柄について書きましたか。
26 しかし私たちに語りかけるパウロの言葉に耳を傾けてごらんなさい。「モーセの律法を無視する者が,あわれみを受けることなしに,二,三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば,神の子を踏みつけ,自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし,さらに恵みの御霊を侮る者は,どんなにか重い刑罰に価することであろう」。(ヘブル 10:28,29,新口)モーセの律法を無視する者に対して,これは「厳し過ぎる」と思いますか。モーセがアダム,ロト,ソドムまたメシヤ(キリスト)について書いた事柄は神話に過ぎないという主張に同意しますか。次のことを書いたモーセは間違っていたと思いますか。「汝殺すなかれ汝姦淫するなかれ汝盗むなかれ……汝その隣人の家…妻およびその僕……ならびに凡て汝の隣人の所有を貪るなかれ」。「汝の神エホバの名を妄に口にあぐべからずエホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし」と書いたのもモーセでした。また「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない……あなたの神である私エホバは専心の献身を求める神である」と命じました。モーセはこれを石の板にではなく,出エジプト記 20章1-17節(標準と新世)に書きました。しかし私たちの益のため,エホバがモーセにこのすべてを書きしるさせたのです。
27 聖書に関して,パウロは若いテモテに何をすすめましたか。
27 聖書を書かせたのはエホバであることを,パウロは確信していました。それで信仰に満ちた一人の若いクリスチャンにこう告げています,「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによって,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである」。(テモテ後 3:16,17,新口)パウロは聖書を信じ,その教えに信仰を持っていました。
28 信仰を保つ必要のある人々を励ますため,パウロはなんと言いましたか。
28 この末の日にクリスチャンの立場を保ち,聖書に書かれた事柄を信ずるには固い信仰が必要です。しかし中にはそのような信仰を持ち,牧師の嘲笑をものともせずに神の御国の良いたよりを宣明する備えをした人々がいます。政府また信仰のない宗教指導者のために,クリスチャンは困難に耐えて宣教をつづけねばなりません。昔も今もそれは同じです。パウロはその事を知っていました。それでクリスチャンに次のさとしを与えています,「あなたがたは,光に照されたのち,苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを,思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば,このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり,また,もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って,自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ」。―ヘブル 10:32-34,新口。
現代の忠実なクリスチャン
29,30 バイユ博士の述べたことと,第二次世界大戦中およびそれ以後におけるエホバの証者の経験とを対照させなさい。
29 使徒時代に何千人もの人は神の言葉の真理の光に照らされ,キリストに従って歩み,パウロの述べていることを経験しました。新しい生命の道を知って真実の満足を得ましたが,それと共に反対も受けました。今日のクリスチャンもその事を心に留めなければなりません。昔のクリスチャンは光に照らされたのち,苦しい大きな戦いによく耐えました。今日のクリスチャンも同じことをしなければなりません。真のクリスチャンであって,同時に安易な道を歩むことはできません。ユニオン神学校のバイユ博士は,キリスト教の現状について次のように論評したと伝えられています。「このすべての年月のあいだ,ためされてきたものはキリスト教ではない。クリスチャンの道を生きることがどんなものかは未だ試みられてないのだ。それが試みられるまでは,キリスト教を知ったことにはならない。……クリスチャンの迫害がないのはクリスチャンがもはや存在しないためかも知れぬ」。
30 バイユ博士は,過去45年間にわたるエホバの証者の活動を観察しましたか。新教とカトリックの宗教組織だけを見ているとすれば,たしかに迫害はありません。しかしヒットラー時代のドイツ,ポーランド,ハンガリー,チエッコスロバキヤ,事実アメリカ,カナダをも含めて第二次世界大戦中,世界各国にいた少数者のエホバのクリスチャン証者についてはどうですか。また今日の状態も考えてごらんなさい。東ドイツ,ポーランド,ロシア,キリスト教国のカトリック,スペインで何が行なわれていますか。これらの国々にいるエホバの証者は,「苦しい大きな戦い」に耐えており,世界の他の国にいるエホバの証者は,獄にある証者を「思いや」っています。
31 なぜエホバの証者は,世界中で苦しみに耐えますか。
31 イエスは真のクリスチャンについて,「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われました。(マタイ 24:13,新口)真のクリスチャンは苦しみを耐え忍ぶでしょう。イエスが身をもって示した原則を固く守る人々は,クリスチャンのゆえをもって「そしられ苦しめられ」ます。エホバの証者は強制収容所,ガス室,人を飢餓に追いやる乏しい食物を経験し,またキリスト教国のたいていの国で刑務所に入れられました。そのうえ神の御国を伝道するエホバの証者のわざは,キリスト教国の多くの国々において長年のあいだ禁令下におかれていました。なぜですか。エホバの証者がクリスチャンとして生きることを望み,それを貫き通したというだけの理由しかありません。それで彼らは苦しい大きな戦いを甘受し,それに耐えました。エホバのクリスチャン証者の全部が投獄されたわけではありませんが,獄に入れられた人々を思いやった他の者たちは財産を奪われても喜んでそれを忍びました。「神の目的とエホバの証者」につづられている,エホバの証者の現代歴史を読んでごらんなさい。ドイツ,ギリシヤ,ポーランド,ロシア,ドミニカ共和国,ケベックその他,世界中の国々において,エホバの証者が教職者,政治支配者の手による迫害に耐えてきたことが分かります。それでも今日,このすべての国々でエホバの証者は,神の御国を宣明しています。
32 忍耐をもって大胆に語るという点で,真のクリスチャンはキリスト教国の宗教とどのように異なりますか。
32 真のクリスチャンは強くなければなりません。またたとえ迫害が更に激しくなっても,神の霊感によってパウロの書いた次の言葉に聞き従わねばなりません。「だから,あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため,あなたがたに必要なのは,忍耐である」。(ヘブル 10:35,36,新口)迫害があってもエホバの証者は大胆に語ることをやめません。イエスは当時の宗教家また政治権力者を恐れて口をつぐむことをしませんでした。イエスが神の国の良いたよりを語るのをやめさせるために,宗教家は遂にイエスを殺しました。今日のクリスチャンとても同様です。これに反して今日のキリスト教国宗教組織は,政治支配者の言うなりになっており,牧師が時の政府の代弁者になっているのをよく見ます。教職者は世の政治支配者にとりいるために,神の国を伝道する気概を失ってしまいました。クリスチャンは妥協しません。「その確信には大きな報いが伴っている」のを知っているからです。
33 大ぜいの人がキリスト教国の宗教を離れているのはなぜですか。それでだれの手本にならっていますか。
33 何十万人の人々がキリスト教国の偽りの宗教組織から離れ去っています。そこには何の希望も見出せないからです。聖書を捨てた彼らにどんな希望がありますか。彼らは「望んでいる事がらを確信」できません。しかし真理を求める人々は神の言葉から知識と理解を得,また神の国が近いという信仰を抱いています。それがたとえ1900年前に書かれたものであっても,パウロの次の言葉を信じています。「もうしばらくすれば,きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」。(ヘブル 10:37,新口)キリスト・イエスはおくれずに来ました。再臨は1914年以来,明らかになっています。a 終りの時は近いのです! 何世紀も前,ロトと二人の娘が悪の町ソドムから逃れたのと同じく,現代のソドムを出るのは今です。神の新しい世に住むことを望む人は,悪魔の制度を出てエホバの制度に安全を求めなければなりません。ハルマゲドンの戦いのあいだ,神はその人々すべてを安全な場所に守るでしょう。あなたは,神がその事をして下さるという信仰を持っていますか。ロトと二人の娘は信仰を持ち,ゾアルに達して生命を全うしました。
34 エホバの証者は信仰によって生きることを,どのように示していますか。
34 神の言葉は真実ではありませんか。「わが義人は,信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら,わたしのたましいはこれを喜ばない」。(ヘブル 10:38,新口)今日エホバの証者は信仰によって生きなければなりません。しかしそれは将来に確かな希望を抱き,確信して期待することです。書かれた神の言葉は将来のことを告げています。神の言葉に預言されていた通りの事態がすでに起き,発展しつつあります。ゆえに神の言葉を知る者にとって,今は退くときではなく,古い世の悪の制度に戻る時ではありません。神はそうする者を喜ばれないからです。パウロは不退転の決意を持ち,信仰の大きな人でした。それで他の人々の信仰を強めることができました。パウロは確信をこめてこう述べています,「しかしわたしたちは,信仰を捨てて滅びる者ではなく,信仰に立って,いのちを得る者である」。―ヘブル 10:39,新口。
私たちの信仰を分析する
35 信仰を分析するにあたって,どんな質問に答えなければなりませんか。
35 あなたはどんな信仰を持っていますか。試練あるいは困難にぶつかる度にひるんでしまいますか。あるいは神の言葉を基礎にした固い信仰ですか。それは「魂を得るに至る」固い信仰ですか。
36 ピリピ書 4章9節は,固い信仰を建ておこすのにどう役立ちますか。
36 パウロはピリピ人に書き送っています,「あなたがたが,わたしから学んだこと,受けたこと,聞いたこと,見たことは,これを実行しなさい。そうすれば平和の神が,あなたがたと共にいますであろう」。(ピリピ 4:9,新口)初期クリスチャンはパウロから何を学びましたか。何を聞き,何を見,何を受けましたか。間違いなく,彼らはパウロがエホバ神に献身して,キリスト・イエスの足跡に従う忠実なクリスチャンであるのを見ました。あらゆる苦しみ,迫害,試練にあい,死に直面しても退かなかった人をパウロに見出したのです。彼らはパウロの手紙を読み,キリストの福音のためにパウロの経たさまざまの経験を知りました。パウロは,キリスト・イエスが人類の救いのために御自分の生命を与えたことを信じ,キリストを王とする神の国を伝道して自分の信仰を表わしました。初期クリスチャンはパウロについて,その事を知っていました。これらはクリスチャンがパウロから学ぶ二,三の事に過ぎません。パウロは多くの手紙を書き,また親しく交わって他の人々の信仰を固くしました。パウロが伝道し,身をもって示したことを,エホバの初期クリスチャン証者は見聞し,受け入れたのです。さてキリスト・イエスの忠実な追随者であるあなたは,今日これらの事を行なっていますか。そうであれば,「平和の神が,あなたがたと共にいます」ことになるのです。
37 今日,人はどのように神からの平和を得ますか。正しい愛を実践するという点で,おもな手本はだれですか
37 人はいまどのようにして神からくる平和を得ますか。まず第一にこの悪の組織制度から離れることが必要です。そしてエホバ神の御心を行なうために献身しなければなりません。「あなたの神である私エホバは,専心の献身を求める神である」とモーセは書きました。(出エジプト 20:5,新世)ゆえにクリスチャンであるならば,心と思いと魂をこめ,力をつくして神に仕えなければなりません。これは天の父に対して真実の愛を表わすことです。これに第二の戒め,すなわち自分のように隣人を愛することを加えなさい。このような愛の手本として最もすぐれているのは,神の御子キリスト・イエスです。クリスチャンになりたいならば,できる限りキリストに似る者でなければなりません。万事につけてイエスの行なった通りにすることです。そのためにはイエスのことを知り,その生涯とわざについてできるだけ多くのことを学び知らねばなりません。それは書かれた神の言葉,聖書にしるされています。
38 エホバの真の奉仕者となる資格は神学校教育から得るものではないことを,どうして確言できますか。
38 キリスト・イエスの足跡に従うのに,神学校や宗教大学の教育は必要ありません。このような高等教育が必須のものであったとすれば,ペテロとヨハネはキリスト・イエスの使徒になれなかったでしょう。この二人は健全な心を持つ普通の人でした。ただ真理に対する愛と認識を抱き,師イエス・キリストの言葉に耳を傾けて学びました。復活した師から,苦しみの杭の上で死んだ理由を説明されたとき,彼らは退く者とならず,むしろふるい立ち,五旬節の日になると,聞いたこと,信じたことを伝道しました。それでユダヤ人のサンヘドリンは「ペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見,また同時に,ふたりが無学な,ただの人たちであることを知って,不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め」たと,聖書に記録されています。(使行 4:13,新口)大切なのは人の持つ精神,熱意,献身,知識であって,壁にかけた卒業証書や学位ではありません。この人々はイエスと共にいて真理を学んだので,真の知識を得,恐れずに真理を言い表わしました。大学あるいは当時のラビの学校に学んで,神の奉仕者の資格を得たのではありません。彼らは学校にはいったことがないのです。神の奉仕者としての任命は,人間ではなくて神からのものでした。キリスト教国の牧師の「聖服」は,西暦325年以後,ニケア信条から出たもので,キリスト・イエスあるいは神の言葉から出たものではありません。
39 (イ)すべてのクリスチャンは,何でなければなりませんか。ウエルズの述べている通り,この事は初期クリスチャンの場合,どのように真実でしたか。(ロ)パウロの手本から見て,初期教会は伝道する組織でしたか。どのように?
39 この事は,全世界にいる,聖書を愛する人々にとって,大きな励みになるはずです。また宣教を勇敢に行なってゆく力となるでしょう。漁夫のペテロとヨハネがイエス・キリストの使徒となり,任命された奉仕者となって地上に神を代表する資格を得たとすれば,神の言葉の真理を愛し,神に献身して神への奉仕に自分をささげた人が同じことをできないわけはありません。初期クリスチャンは一人残らず奉仕者であり,また神の言葉を学びました。クリスチャンとなるすべての人が,良いたよりの伝道者でなければならないことは明らかです。今日のキリスト教国の難点は,牧師だけが奉仕者として認められ,会衆は聞くだけで伝道しない信徒になっていることです。キリスト教国には教職者と平信徒との区別が何時の間にか出来上っており,ウエルズもその著「歴史概説」の中で「成長を遂げたこのニケアのキリスト教とナザレのイエスの教えとの間には大きな相違のあること」を認め,初期キリスト教について「その唯一の組織は伝道者の組織であり,そのおもな務は説教であった」と書いています。今日でも真のクリスチャンは,組織がこのようなものでなければならない事を認めています。エホバの証者の組織は任命された奉仕者から成り立ち,彼らがおもな務と心得,また訓練に心を用いているのは聖書の話です。エホバの証者は戸別伝道のとき,また家庭で聖書を教えるとき,聖書の話を使います。使徒時代のエホバの証者は家々を訪れてどんな人にも聖書の話をし,また人々と一緒に聖書を学びました。パウロは「あなたがたの益になることは,公衆の前でも,また家々でもすべてあますところなく話して聞かせ,また教え」と語りました。(使行 20:20,新口)今日のクリスチャンも,同様でなければなりません。ウエルズの書いているように,キリスト教国の指導者は西暦325年以降,祭壇中心の大ぎょうな儀式,助祭,司祭,司教の制度を発達させ,ミサを確立し,また寺院の建築を始めました。真のクリスチャンが全能の神エホバを崇拝した仕方とは何と異なっているのでしょう!
人はおのおの信仰を働かせることが必要
40 (イ)キリスト教国の指導者は,人々のために何をしましたか。(ロ)ある宗教指導者は,今日の宗教組織に必要なものをどのように述べていますか。
40 キリスト教国の指導者は,自ら今日の状態に落ち込みました。彼らは何百万人を数える教会員すなわち平信徒を,キリスト教の伝道に関する限り無用な者にしてしまいました。牧師に教えられた人々は,ただ聞くだけであり,毎週,寺院でおきまりの礼拝をくり返し行なっているに過ぎません。牧師は,キリストに代って伝道し,神の御国のよいたよりを他の人々に告げる責任を教会員に課していません。なかには自らの怠慢を認めている牧師もあります。たとえばニューヨーク市トリニテー教会の理事ジョン・ヒューズ牧師は,「教会の意義」と題する講演の中で次のように述べました。
「如何なる教区といえども,静かに情熱を燃やした,真にクリスチャンになりきった人々を指導層として持たなければ,その正常な機能をはたし得ない。たいていの教区の場合,牧師をも含めて真に信仰に徹した人のいないのが難点である。しかしたとえ献身的牧師が中心になっている場合でも,信仰に生きる男女が集まらなければ,多くは,期待できない」― 1962年6月号リーダース・ダイジェスト。
41 (イ)教区民が弱いのは,だれのせいですか。(ロ)キリスト教のどんな基本的は資質が欠けていますか。
41 これはだれの責任ですか。教職者の責任にほかなりません。彼らは「苦しい大きな戦いによく耐え」るクリスチャンとなるように,教区民を教えていません。キリストのために「そしられ苦しめられて見せ物にされ」ることはまっぴらごめんであると,教区民は考えています。神の御国を伝道したというだけの理由で,必要ならば獄に下ることも辞さなかった初期クリスチャンとは大変な相違です。キリスト教国はなぜ失敗したのですか。その人々は「魂を得るに至る信仰を保」っていません。またクリスチャンのわざがどんなものかを知らず,教えられてもいません。正しい事のために確固として立つように訓練されていないのです。どうしてそのような事を期待できますか。イエスは言われました,「もし盲人が盲人を手引きするなら,ふたりとも穴に落ち込むであろう」。(マタイ 15:14,新口)キリスト教国の信徒はキリスト教の何たるかを知らず,真理とは何かを知りません。「もし私が平信徒であれば,たとえそれが道の向う側にあっても,はいって行きたいと思うような教会は思い当たらない」と牧師が公言してはばからないとすれば,それも不思議ではないでしょう。(137頁17節をごらん下さい)自分の属する教会に行かない人々はかなりあります。教会に行かない人々は,おそらくこの牧師よりも目ざとく,教会の現状に気がついたのでしょう。
42 全キリスト教会議がいろいろな宗派を統一できないのは,なぜですか。
42 各宗派の首長を集め,法王ヨハネス23世を交えて全キリスト教会議をあらたに開き,新教とカトリックを含む色々な宗派を合同してひとつの強力な組織を作る試みをしたと考えてごらんなさい。それでも信徒をクリスチャンにすることはできないでしょう。それは寄せ集めるだけのことではありません。クリスチャンとなるには,神の祝福,神の御霊,神の言葉そして各人の信仰が必要です。キリスト教国は神の言葉,真理から遠く離れてしまったので,戻ることはもはや不可能です。聖書の一部分だけを勝手に選んで信ずるが,あとは神話として捨ててしまったキリスト教国の牧師は,余りにも多すぎます。彼らは聖書の代りに自分の考えを教え,パウロの言葉通り「作り話やはてしのない系図などに気をとられ」ています。「そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく,むしろ論議を引き起させるだけのもの」です。―テモテ前 1:4,新口。
43 真のクリスチャンにとって,聖書はどんな本ですか。
43 真のクリスチャンは聖書を学んで,聖書全体が行動,奉仕,信仰,真理の本であり,まことに全能の神エホバの言葉であることを知っています。わずか1900年前のこと,キリスト・イエスはヘブル語聖書に書かれた真実の物語を信じ,聖書からそれを引用しました。あなたは,イエスが当時教えたと同じ事を他の人に教えますか。神の言葉に信仰を持ちなさい。神の言葉を学びなさい! クリスチャンの務をはたし,「御言を宣べ伝えなさい」! 「時が良くても悪くても,それを励み……なさい」。―テモテ後 4:2,新口。
44,45 固い信仰はどのように示されますか。
44 「人は心に信じて義とされ,口で告白して救われる」ことを,あなたは信じています。(ロマ 10:9,10,新口)ではクリスチャンとして公に語り,人類の唯一の希望,御国に関する神の約束の真理を伝えるだけの固い信仰を持っていますか。あるいはヤコブの述べているような一部の自称キリストの追随者と同類の者になりますか。「おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は,ちょうど,自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると,そのとたんに,自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう」。―ヤコブ 1:22-24,新口。
45 ヤコブの論理は明白です。「霊魂〔息,新世〕のないからだが死んだものであると同様に,行いのない信仰も死んだものなのである」と,ヤコブは述べています。(ヤコブ 2:26,新口)信仰は行いに表われるものです。信仰は公に言い表わします。それは死んだものではなく,行動をともなうものです。信仰を持つ人は,自分の信じていることを他の人に語り告げます。家から家を訪れてそれを語ります。信仰を持つ神の奉仕者は活発でなければなりません。神の言葉を知る者は伝道します。信仰のある人は証しを立てることを恐れません。ペテロは述べました,「ただ,心の中でキリストを主とあがめなさい。また,あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし,やさしく,慎み深く……弁明しなさい」。(ペテロ前 3:15,16,新口)神と聖書に信仰を持つ人は,すべての人の前で弁明します。
46 イエスはだれを選んで光をかかげる者にならせましたか。イエスはどんな手本を残しましたか。
46 メシヤを待ち望んでいたユダヤ人に語ったイエスは,世の光として学者やパリサイ人を選びませんでした。イエスが選んだのは普通の人,信仰の人でした。イエスの次の言葉を覚えていますか。「あなたがたは,世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また,あかりをつけて,それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において,家の中のすべてのものを照させるのである。そのように,あなたがたの光を人々の前に輝かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。(マタイ 5:14-16,新口)山上の垂訓にあるこの教えは,男女の別なくすべての人に与えられたものです。これは奉仕を教えるすぐれた垂訓ではありませんか! イエスは耳を傾けて聞いたすべての人に宣教を始めることをすすめ,神の国を代表する者となって神の国を求め,そのために働くことを励ましたのです。それで「まず神の国と神の義とを求めなさい」と,イエスは言われました。(マタイ 6:33,新口)また正義を愛する人々には,どう祈るべきかを教え,父エホバの御名の崇められることと御国を祈り求めよと教えました。御国によって御心が天の通り地にも行なわれるからです。(マタイ 6:9-15)この宣教に励みつづけるには,エホバ神,御子イエス・キリスト,神の言葉に固い信仰を持たねばなりません。
47 魂を得ることを目ざして,いま各人は何をすべきですか。
47 このような信仰があれば,「魂を得るに至る」でしょう。ですからソドムと同じく滅びに向かっている古い世から逃れ,ロトと二人の娘にならいなさい。立って行き,良いたよりの奉仕者となりなさい! 「苦しい大きな戦いによく耐え……そしられ苦しめられて見世物にされ」ることをいとってはなりません。(ヘブル 10:32,33,新口)真のクリスチャンとして神に仕え,信仰を固くしなさい。神の言葉を信じ,正義の新しい世で永遠の生命を獲得しなさい。
[脚注]
a キリストの再臨についてくわしい事は「神を真とすべし」第21章,237頁をごらん下さい。