かくされた神の知恵 ― 聖なる秘義
「生れながらの人は,神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである……しかし,霊の人は,すべてのものを判断する」。―コリント前 2:14,15,新口。
1,2 人間の考え方に従えば,クリスチャンの運動はどのように始まり,また発展しましたか。(ロ)クリスチャン聖書筆記者の見地に立つと,どんな疑問が生じますか。
エホバがそのお目的を成就するために用いることを定めた器はイスラエル民族であって,その事は変らないものと,15世紀のあいだ思われていました。イスラエル人は神の選民であり,彼らの守ってきた聖書はその事を証明するものとされていました。その頃,ユダヤ人の指導者を狼敗させる出来事が起きたのです。新しい伝道者が現われ,新しい運動が始まりました。3年半の後,この新しい動きは失敗に終り消滅したかに見えました。ユダヤ人の支配者がこの運動の指導者をさらし者にし,苦しみの杭にかけて殺したからです。そのわずかな追随者も地下に潜り,戸を閉ざした部屋の中でひそかに集まりました。(ヨハネ 20:19)しかしその運動は消滅しましたか。ちょうど51日の後,更に驚くべき出来事が起きました。この新しい運動は生気をとりもどし,野火のようにひろがったのです。その代弁者ペテロはユダヤ人の持つ聖書をひいて語り,心を打つその話を聞いて「強く心を刺され」た人々は,「彼の勧めの言葉を受けいれ……バプテスマを受けた」。そして「その日,仲間に加わったものが三千人ほどあった」のです。その後3年半たつうちにこの運動は大きくひろがりました。それから異常なこと,この運動に携わった人々にとってさえ意外なことが起きました。前例のないことではありましたが,この同じ代弁者ペテロは軽べつされていた無割礼の異邦人が仲間に加わるための道を開いたのです。いろいろな国の人を仲間に加えたこの人々は,間もなく世界各地に会衆を作るようになりました。この運動は一定の目的をはたす器として,形を成しつつありました。このすべては何を意味しましたか。―使行 2:37,41; 10:44-48。
2 この新しい運動の起源と成長をここに述べたのは,いわば人間の目に映ずるままを描いたのですが,先の論議にひきつづいて,ギリシャ語聖書を書いたクリスチャン筆者の立場からこれを見ましょう。これらの筆記者はクリスチャン教会として知られるようになったこの運動を,単に人間の見地から判断しましたか。あるいは人間の頭から出たとはとうてい考えられないものを持っていることから,その人々の考えが神の霊感によることを疑問の余地なく証明していますか。決定しなければならない大きな問題はこれです。
霊的な国民
3 人間の考え方からすれば,クリスチャンの運動は一国民を形成するものと言えますか。
3 先に述べた通り,神の以前の器であった肉のイスラエルは,どの点から見ても一国民を形成していました。しかし新しい器の場合には何が言えますか。人間の見地から判断すると,それは以前に述べた一国民となるための条件をひとつも備えていません。地図の上にその国土がしるされていますか。使徒の時以来,真のクリスチャンは世界中に散らばっています。また共通の先祖を持つ民族であったこともなく,同じ言語を話したわけでもありません。政府について言えば,真のクリスチャンは異なった風俗,習慣,制度を持つさまざまな国に住み,さまざまな政府の下に法律を守る市民として生活しました。これらの事は今日でも同様です。
4 聖書はどのようにこの運動を一国民と呼んでいますか。
4 しかしこれらクリスチャン筆記者は,この運動が一国民を形成するものであると書いています。これは信仰を同じくする人々の単なる集団ではありません。ペテロは,「あなたがたは,選ばれた種族……聖なる国民……である」と書いています。どうしてこの事が言えますか。彼らは霊的な国民である,というのがその答えです。「わたしたちの国籍は天にある」と,パウロも述べました。霊的な国民? このような事は,かつてだれも考えたことがありません。たしかにこのような考えは,人間の頭から出たものではありません。―ペテロ前 2:9。ピリピ 3:20,新口。マタイ 21:43を見て下さい。
5 (イ)霊的イスラエルが国民であることを,聖書はどのように一貫して示していますか。(ロ)西暦1919年以来,これはとくにどんな意義を持つようになりましたか。
5 ところがこれらクリスチャン筆記者の述べている観点を理解すれば,まさしくその通りであって,何もかも調和していることがわかります。霊的イスラエルの人々には,イエスを仲保者とする独自の契約,「新しい契約」があります。霊的イスラエル人のすべては霊的に言って共通の族から出た者と言えます。「すべて神の御霊に導かれている者は,すなわち,神の子である」からです。その人々は同じ言語すなわち「清きくちびる」を持ち,「真理」である神のことばを語ります。また「生ける神の都,天にあるエルサレム」から治める王キリスト・イエスの肩におかれた「まつりごと」すなわち天の政府の下に来て,それに忠誠をささげます。とくに西暦1919年以来,この人々は真に一国民となってきました。再び滅びの危険にさらされたその年に,この国民はあらたに生まれたかの如くでした。「一つの国民はひと時に生れるだろうか」と述べたイザヤの預言の通りです。またエホバの祝福の下に著しく改善された状態,イザヤが「一日の苦しみで生れ」た「一つの国」と呼んだ状態に導き入れられました。すなわち神のことばの定める相対的な自由の境界に囲まれた安全な国土です。―ヘブル 9:15。ロマ 8:14-16。ゼパニヤ 3:9。ヨハネ 17:17。イザヤ 9:6。ヘブル 12:22。イザヤ 66:8,新口。
6 キリスト教国が聖書の見地を全く認識していない事は,どのように明白ですか。
6 自身の国土に住むこの霊的な国民は,神の地図すなわちみことばの中に確かに位置を占めています。しかしキリスト教国の人々はこの見方を理解していますか。少しも理解していません。唯一の正しい,普遍的な教会と主張するローマカトリック教会を考えてごらんなさい。そこにはクリスチャンにかかわる国籍という問題に関して正しい理解が見られるはずです。しかし実際にはどうですか。よく知られているように,フランスのカトリック,ドイツのカトリック,英国のカトリックという風にして数え切れないほど多くの国籍に分かれています。まず第一に,その人々は自分たちが霊的な一国民の成員であることを自覚していますか。戦争のとき,この考えに従って行動しますか。答えは明らかです。その人々の考える国籍というものには忠誠心や愛国心のひもが付いており,その見方は人間的なもの,血肉の域を出ないものです。それ以外の見方は知られていません。教会で教えないのですから,それも当然でしょう。彼らはまず何よりもフランス人,ドイツ人,英国人であり,戦争になれば,宗教的な絆は無残に踏みにじられてしまうか,あるいは二義的な意味を持つに過ぎません。新教の教会についても,一般的には同じことが言えます。
7 神の知恵はだれに与えられませんでしたか。しかしだれに,どのように啓示されましたか。
7 嘆かわしいことにキリスト教国には,クリスチャン・ギリシャ語聖書に示されている霊的なものの見方に対する理解が欠けています。ではその教職者,代弁者はギリシャ語聖書とその霊感を正当に批判できますか。使徒はいみじくも次のことを述べました,「わたしたちが語るのは,隠された奥義としての神の知恵である…この世の支配者たちのうちで,この知恵を知っていた者は,ひとりもいなかった……それを神は,御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ,神の深みまでもきわめるのだからである」。たしかにこれらクリスチャン筆記者に働いた力は,神の聖霊でした。神がお目的を成就するための器を変えようとしている事は,五旬節になって神の御霊のそそがれるまで,弟子たちの心に思い浮かびませんでした。しかしその書いたものを見ると,エホバご自身から出たとしか考えられない霊的な物の見方がしるされています。この事を認識していますか。―コリント前 2:7-10,新口。
霊的な宮
8 (イ)たいていの場合,教会は何を意味していますか。(ロ)この点において,聖書はクリスチャン教会をどのように描いていますか。
8 この同じ問題を確証するもうひとつの面に注目して下さい。先に肉のイスラエルがエホバの器として備えていた事柄をいろいろあげた中で,エルサレムのモリア山上に建てられた宮をあげました。宮は崇拝の中心をなすものとして重要です。エホバの新しい器すなわちクリスチャン教会には宮がありますか。普通には宮と言えば,ひとつのものしか意味していません。それは石その他の材料で作られた建物であり,神の崇拝に用いられる建造物です。キリスト教国において宮すなわち教会は,クリスチャンの礼拝の場所となっています。いずれにしても,それは文字通りの建物であり,地図の上に所在をしるすことのできるものです。では真のクリスチャン会衆の宮はどこにありますか。実を言えば,それは世界中に散在しているのです。どうしてかと言えば,それは霊的な宮だからです。このような事を考え,また聞いた人がどこにいますか。しかしペテロは真の教会を「聖なる国民」と述べたその同じ章の中で,各成員を指して次のように書いています,「あなたがたも,それぞれ生ける石となって,霊の家〔すなわち宮〕に築き上げられ,聖なる祭司となって,イエス・キリストにより,神によろこばれる霊のいけにえを,ささげなさい」。このイエスは「隅のかしら石」です。なんと高遠な思想ではありませんか。「あなたがたは神の宮であって,神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と,パウロも述べています。―ペテロ前 2:5,6。コリント前 3:16,新口。
9 キリスト教国はこの見方を認識していますか。それはどのように証明されますか。
9 キリスト教国はこの事を認識していますか。認識しているどころか,世事にかまけたキリスト教国に影響されて,「教会」という言葉の元来の意味さえ失われました。欽定訳聖書中の「教会」という言葉は,神の器として神の目的のために世から召し出された会衆を意味するギリシャ語ekklesia<エクレシア>の訳です。(マタイ伝 16章18節,使徒行伝 5章11節,11章22節,ロマ書 16章5節をごらん下さい)ギリシャ語のこの言葉が建物を指して用いられたことは決してありませんでした。ところが今日では教会あるいは教会に行くと言えば,文字通りの建物,崇拝の場所を指すのが自明のことになっています。由諸のある教会ともなれば,建築にばく大な資金を投じているのもめずらしい事ではありません。しかしその会衆の霊的な状態を心にかけている人がいますか。
10 黙示録 7章15節にある神の「聖所」は何を意味しますか。これはどんな励ましとなりますか。
10 この暗い状態を述べて話を終えるよりも,黙示録 7章に記述された心を動かすあの幻を思いおこしていただく事にします。霊的イスラエルの12支族を構成する真の教会が最初の8節に描かれて後,「あらゆる国民」から集められる「大ぜいの群衆」が描かれています。それは神が寛容を示している間サタンの世に加えられる「大きな患難をとおってきた人たち」,すなわち正義を愛する人々です。楽園となる地に住む希望を抱くこの人々は,いま神の前でどんな奉仕をしていますか。「彼らは……昼も夜もその聖所で神に仕えているのである」と記録は述べています。地上にある建物の中で仕えているのではありません。この人々はエホバの器すなわち真の教会の忠実な残れる者と親しく交わり,共に奉仕することによって,神に受け入れられる奉仕を活発にささげる道を学び,大きな喜びと満足を得ています。ごくわずかの人が活発に奉仕するに過ぎないキリスト教国の教会と異なり,神の霊的な宮においては,すべての人が「さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげ」るようにすすめられ,またそうするための援助を与えられます。この奉仕に携わっていますか。そうするために必要ならば,喜んでご援助します。―黙示 7:9-15。ヘブル 13:15,新口。
11 霊,肉ふたつのイスラエルは,更にどのようにくらべられますか。どんな結論になりますか。
11 ここまでのところで,神の器として肉のイスラエルが備えていた二つのもの,一国民を成していた事と宮についてしらべ,真の教会にもそれらに相当するものがあることを知りました。ただ教会の場合にそれは霊的なものです。同様にして肉のイスラエルの持っていた他のもの,祭司職,大祭司,その犠牲についても検討し,神の新しい器にそれらのものがどのように備わっているかを見ることにします。しかしそのどれをとっても,クリスチャン筆記者は与えられた約束をも加えて新しい考え,霊的また天的な思想を表明しており,ヘブル語聖書の筆者とは対照をなしています。同じ観点から書いているのではないにしても,これら二組の聖書筆者の間には驚くべき内面の調和のあることを,認めないわけには行きません。矛盾はひとつもないのです。
12 クリスチャン筆記者の持っていた霊的な物の見方は,どんな権威に基づいていますか。
12 もうひとつの質問があげられます。これらクリスチャン筆記者の思想の根拠は,どこにありますか。思想を単に向上させたというに留まらず,全く異なった次元において,つまり霊的に物事を見ているということは,その思想の源が全く異なっていたに相違ないことを思わせます。ところが驚くべきことに,クリスチャン筆記者の書いたものを見ると,その新しい考え方の根拠はことごとく昔のヘブル人預言者の書いた記録にあることが示されているのです。しかも多くの人はヘブル人預言者が神を模索した人々であったと言い,その書いたものが余りにも現実的であると言って,その中に霊的な物の見方を認めません。
13 (イ)真のイスラエル,(ロ)召された新しい民,(ハ)彼らが神に受け入れられることに関して,パウロはどのようにその論議を証明していますか。
13 その証拠として,神の器の変化を証明した使徒の論議を簡単に検討して下さい。それはロマ書 9章に始まっています。「イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく,また,アブラハムの子孫だからといって,その全部が子であるのではないからである……すなわち,肉の子〔普通の出産による〕がそのまま神の子なのではなく,むしろ約束の子が子孫として認められるのである」。アブラハムとサラが子をもうけることに関しては,「死んだと同様」であった時,神の約束の子イサクが生まれました。(ヘブル 11:12,新口)パウロはヘブル語聖書を更に引用して次のことを証明しています。すなわち神は当然の権利としてみ心のままに人々を選び,昔の預言者も,以前認められなかった人々が遂に神に選ばれることを預言していたのです。「わたしは……わたしの民でない者に向かって,『あなたはわたしの民である。あなたがたは生ける神の子である』と言う」と,ホセアは書きました。(ホセア 2:23; 1:10,新口)パウロは更に引用を重ねて,諸国民すなわち「異邦人」が「信仰による義」を得たことを証明しています。パウロの述べているように,肉のイスラエルは「信仰によらないで,行い」すなわち律法の行い「によって得られるかのように,追い求めた」ため,この義を得ませんでした。最後にパウロは,不信仰なイスラエルに対する神のことばとしてモーセとイザヤが記録した事柄を引用しています,「わたしは民ともいえない者をもって,彼らにねたみを起させ……るであろう」「わたしはわたしを求めなかった者に……見いだされ……」。(申命 32:21。イザヤ 65:1,新口)― ロマ 9:6-8,25,26,30-32; 10:19,20,新口。
14 同様にして,(イ)祭司職と犠牲,(ロ)割礼に関して,どんな点が証明されますか。
14 いずれの場合を見ても,クリスチャン筆記者の思想の根源は,ヘブル語聖書中にいわばひめられ,かくされていたことがわかります。たとえばパウロは,動物の犠牲にはるかにまさって嘉納される唯一の犠牲をささげる大祭司が,イスラエルの律法に定められたレビの祭司ではないことを述べています。パウロは聖書によってこれを次のように説明しました,「そしてこの事は,メルキゼデクと同様な,ほかの祭司が立てられたことによって,ますます明白になる。彼は,肉につける戒めの律法〔生まれの如何〕によらないで,朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。それについては,聖書に『あなたこそは,永遠に,メルキゼデクに等しい祭司である』とあかしされている」。(ヘブル 7:15-17,新口。詩 110:4)ステパノもユダヤ人議会の前で弁論したとき,イザヤの預言を引用して神の家は,石造りの壮麗なイスラエルの宮とは異なった,更に高いものであることを示しました。昔の宮はその事を予影していたのです。(使行 7:48,49。イザヤ 66:1)パウロも,霊のユダヤ人(クリスチャン)の割礼が「〔律法の〕文字によらず霊による心の割礼」であることを述べました。しかし何世紀も前にモーセは,心の割礼が肉の割礼よりも重要であることを述べていました。―ロマ 2:29,新口。申命 10:16; 30:6。
15 聖書の内面の調和は何を証明しますか。どんな結論になりますか。
15 このように見てくると,クリスチャン筆記者は高遠な霊的思想を抱いており,しかもそれはヘブル語聖書のひな型と全く調和しているではありませんか。この証拠を前にして,それが人間の頭から出たものであるとは,とうてい言えません。たしかに最初の場合と同じく,「預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によって語ったもの」です。またどんな場合にも預言の正しい理解は,自分の知恵に頼る人にはよらず,預言の与え主によるのです。神はその定めの時,聖霊に満ちた人を用いて預言の理解を与えます。―ペテロ後 1:21,新口。
一人のわざ,あるいは神のわざ?
16 イスラエルはエジプトにいる間,一国民としてどのような発展を見ましたか。
16 こんどは別の面の証拠を検討することにします。イスラエルがエジプトを去ってすぐ後のことを考えてごらんなさい。しかし先ずそれよりも215年前,ヤコブと12人の息子およびその子供たちは,ききんのためエジプトに下りました。それは家族の問題でした。そのとき神は幻の中でヤコブに現われて言われました,「エジプトに下るのを恐れてはならない。わたしはそこであなたを大いなる国民にする」。これは主権を持つ強力な国家になることを言ったのではなく,人数のふえることを言ったのです。「イスラエルの子孫は多くの子を生み,ますますふえ……国に満ちるようになった」と,記録は述べています。(創世 46:3。出エジプト 1:7,新口)イスラエル人がエジプトに住んだのは,はじめからお情けでした。彼らは「エジプトびとの忌む」家畜を飼う者だったからです。それでエジプト人とは離れて「ゴセンの地」に住みました。このような境遇の下で,独立国家としての政策を打ち出したり,政府を組織することは,賢明でないばかりか不可能です。イスラエルは以前からのしきたりに従って家父長制の下に単純な農業社会の生活を営みました。―創世 46:34,新口。
17 モーセ誕生の時からイスラエルは何を経験しましたか。その結果,どんな重要な出来事が起きるようになりましたか。
17 そこへ「ヨセフのことを知らない新しい王が,エジプトに起」きて,モーセの誕生からエジプトを出るまでの少なくとも80年間,人々の生活は「苦し(く)……労役はきびしかった」のです。国家として発展する機会はありません。それから十の災と出エジプトがあり,遂にイスラエルは「多くの入り混じった群衆」と共に紅海を無事に渡りました ― その後には死体となったエジプトの軍勢が打ち捨てられました。それから3ヵ月足らずで,「イスラエルは山〔シナイ山〕の前に宿営」しました。これはイスラエルの歴史の中でもきわめて重要な時です。この時からイスラエルの民は独立した一国家として存在するようになりました。しかし国家また政府の運営に経験のない人々が,どのようにして国家を形成しましたか。―出エジプト 1:8,14; 12:38; 19:1,2,新口。
18 シナイ山にいる間,モーセは五書のどれだけを,書いたと考えられますか。
18 事の次第を述べれば,まず神は十戒と共に奴隷,害に対するつぐのい,盗み,不品行,貸借などのほか,安息日その他の祭に関する数多くの「おきて」を与えました。しかしそれだけではありません。数日後,モーセは教えを授けられるため再び山に上り,「四十日四十夜,山にいた」のです。その結果は何でしたか。いろいろな証拠をしらべると,モーセは創世記,出エジプト記,レビ記そしておそらく民数紀略の最初の部分をシナイ山で書きました。―出エジプト 21:1; 24:18,新口。
19 人間の考えに従えば,モーセはただ一人でイスラエルのために何を成しとげましたか。
19 一般に考えられているように,このすべての記録が人間の考えによって書かれたとすると,2,3ヵ月以内に一人の人モーセが民事と宗教の両面にわたり,イスラエル国民の生活全般を詳細に律する法の体系を作りあげたことになります。基本法である十戒と,民法の性質を持つ無数の律法のみならず,イスラエルの宗教と崇拝に関するきわめて詳細な規定をも一人の人が書き上げたと言わなければなりません。その中には契約の箱,幕屋とその器物,周囲の庭の造営,祭司と大祭司の衣服,その材料と寸法,色など,また任命の儀式が含まれています。その他レビ記には人が神に近づくために守るべき,さまざまの律法,いろいろなささげ物がしるされています。
20 このすべてを一人の人のわざと考えることは,なぜ不可能ですか。
20 率直に言って,このすべてを一人の人間のわざに帰することは不可能です。そのぼう大な量を別にしても,そこに盛られた思想は高遠なものであり,これに匹敵するか,あるいはこれに近いものを作り出した人間また国家はありません。モーセ以前において神が交渉を持たれた族長社会にも法制の存在したことは十分に考えられますが,モーセの書いた事の大部分は,一国家を成す国民に開花しつつあった民族の新しい崇拝の組織を定めたものです。また「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ」たと言っても,その書いたものに,異教の生活のならわしと崇拝を暗示するものは何もありません。―使行 7:22。
21 モーセその他の聖書筆者すべてが,エホバの霊によって書いたことを示すさらにどんな証拠がありますか
21 更に注目に値する点がもう二つあります。一国家が完備した法制を備えるまでには多くの年月を要し,法律は改正を経ます。しかしモーセを通して与えられた律法にはこの事が全く見られません。もうひとつの注目すべき点は,「律法はきたるべき良いことの影をやどす」と述べたパウロの言葉に言い表わされており,パウロはヘブル人に書き送った手紙の中で律法の多くの面をとりあげて,それが「天にあるもののひな型」になっていることを説明しています。ではモーセがこの事を予見し,自分の少しも知らない事柄の予影となるように律法を書くことははたして可能ですか。使徒パウロまた他のだれにしても自分の知性だけによって,天に属するエホバの新しい器のひな型が昔の律法に美しく映し出されているのを見ることができますか。モーセとパウロまた聖書を書いたすべての人が,エホバの聖霊に動かされて神の偉大な本を書いたことには,少しの疑いもありません。―ヘブル 10:1; 9:23。
22 律法をどんなひと言で言いあらわせますか。それはモーセの書いたものと,どのように比較できますか。
22 モーセの後はどうなりましたか。15世紀以上の後,聖書の別の筆者は律法契約が解消されたことを説明して,神は「わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を,その規定もろともぬり消し,これを取り除いて,十字架につけてしまわれた」と述べています。また別の箇所でこの同じ聖書の筆者は,人間の考え方に従って言えば,律法全体を書き直して,それを愛の一語で表わしています。そして「愛は律法を完成するもの」であり,「律法の全体は,『自分を愛するように,あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きる」ことを論証しています。これは人にはれるといったような,多分に情緒に動かされた愛ではなく,エホバご自身が示されたような愛です。「神は愛である」と,使徒ヨハネは述べました。これはモーセの書き残したものにくらべて見ばえはしないかも知れませんが,深奥に達するものを持っています。―コロサイ 2:14。ロマ 13:10。ガラテヤ 5:14。ヨハネ第一 4:16,新口。
23 聖書を神のことばとして真に受け入れる人には,どんな祝福にみちた将来がありますか。
23 このようにどの面からこの問題をしらべても,ひとたび正しい見方を理解すれば,「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたもの」であり,「まことの神」エホバの朽ちない記念であることを,以前にもまして認識でき,聖書全巻の真実性だけでなく,その預言の確実な成就を確信できます。エホバの証者の新世社会すなわちエホバに全く献身し,そのことばを心から受け入れる人々は,今すでにこれらの良いものを味わっており,まただれでもそれにあずかれるのです。エホバご自身が次のように言われました,「このように,わが口から出る言葉も,むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし,わたしが命じ送った事を果す。あなたがたは喜びをもって出てきて,安らかに導かれて行く」。―テモテ後 3:16。詩 31:5。イザヤ 55:11,12,新口。
24 聖書に関して,更にどんな質問がありますか。
24 どんな本の場合にも,あるいは聖書の如く多くの本の集成であっても,著者の人となりを知ることは,その本を適正に評価するために必須ではないにしても,大きな助けとなります。聖書とその著者に関して,この点を次にしらべるのは有意義なことです。