「あなたの進歩がすべての人に明らかになるようにしなさい」
1 霊的に円熟したクリスチャンがさらに進歩できるかどうかについて,テモテにあてた使徒パウロのことばは何を示していますか。
エホバ神の献身したしもべの場合,クリスチャンとして円熟に達することはその人の進歩の終わりではありません。使徒パウロは円熟したクリスチャンであったテモテにあてて次のように書きました。「公の朗読と説き勧めることと教えることにもっぱら励みなさい。……これらのことをよく考えなさい。それに打ち込んで,あなたの進歩がすべての人に明らかになるようにしなさい」― テモテ第一 4:13-15。
2 人の普通の生活は円熟が進歩の終わりでないことをどのように示していますか。
2 円熟が進歩の終わりでないことは,人の普通の生活にも明らかに見ることができます。結婚して自分自身の家族を持つ人は円熟したおとなとみなされるのではありませんか。それでも,成人としての責任を果たしてゆく過程でその人は引き続き知恵を増し加えてゆくのではありませんか。自分の過ち,また人の成功や失敗を通していろいろなことを学ぶのではありませんか。まさにそのとおりです。そして,自分の父親や他の年長の人々の経験や知恵を認め,そうした人々に助言や導きを求める場合さえあるでしょう。
3 円熟したクリスチャンはどのように進歩を続けることができますか。
3 円熟したクリスチャンについても同じことが言えます。神のことばを学びそれを当てはめてゆくことによって,クリスチャンは,知識や認識や分別の面での成長を続けてゆくことができます。また,家族の中にりっぱな精神を築き上げたり,他の人々に良い感化を与えたりする点でさらに進歩することもできます。円熟したクリスチャンは互いどうしからも多くのことを学べます。同じクリスチャンでも霊的な資格の表われという面ではそれぞれに異なるからです。ある人は知識の点できわだっています。親切さやしんぼう強さの点で特に目だつ人もいます。さらにまた,難しい問題のさいの判断や分別の点で特に優れている人もいます。また,寛大で人をよくもてなす面でぬきんでた人もいます。さらには,指導力の面で特別のものを持つ人もいるでしょう。
4 円熟したクリスチャンも進歩を続けることができますから,自分の進歩に関しどんな三つの分野にわたって考えてみるのがよいですか。
4 クリスチャンの生活にもいろいろな面で改善の余地がありますから,エホバ神の円熟したしもべは,自分が進歩を続けているかどうかを時間を取って考えてみるのがよいでしょう。わたしたちが考慮できる三つの分野があります。(1)知識と理解と知恵を増し加える,(2)神の霊の実をより豊かに生み出す,(3)家族の一員として責任を果たす。
知識と理解と知恵を増し加える
5 知識や理解や知恵を増し加えているかどうかについて自分をどのように吟味できますか。
5 次の点を自問してください。聖書を読んで勉強する楽しみは自分にとって年とともに大きくなっているだろうか。聖書の教えは自分にとってしだいに明瞭に,また意味の深いものとなっているだろうか。聖書の訓戒を自分の生活にいよいよ当てはめているだろうか。これらの問いに,はいと答えることができるなら,あなたは確かに知識と理解と知恵を増し加えています。しかし,それほど進歩が認められないのであれば,どうしたらよいでしょうか。
6 神のことばから読み取る事がらが自分の心を動かし,感謝をいだいてそれに応じるようになるために何を行なうことができますか。
6 あなたは,自分の思いと心を神のことばに含まれる知恵で満たすことにもっぱら励みたいと思われるでしょう。わたしたちのこれまでの進歩がどれほどのものであるにしても,聖書や聖書研究手引きをただ読むだけであれば,たとえそれが定期的になされる場合でも,それだけでは進歩を続けるために十分でありません。聖書の助言は心に達しなければなりません。つまり,心が動かされ,感謝をいだいてそれに応じるようにならなければなりません。そうしてはじめて,わたしたちは賢明に行動するための推進力を持つことになります。(詩 119:11)したがって,熟慮黙考すること,読みかつ学んだ事がらが自分の生活となぜまたどのようなつながりを持つかを考えることが必要です。読んで学ぶさい次の点を熟考できるでしょう。ここに書いてある事がらはエホバ神について自分にどんなことを悟らせるだろうか。自分はここで読んだ聖書の章句に啓示されているエホバの性格,方法,行動に倣おうと努力しているだろうか。この聖書の記述は自分のなんらかの弱さを指摘しているだろうか。そうした弱さを改めるために何を行なえるだろうか。
7 クリスチャンの集会は「愛とりっぱな業」をどのように鼓舞しますか。
7 集会に出席して注意深く聴くことも,わたしたちの知識の蓄えを増し,理解を深め,知恵によって行動するための助けとなります。クリスチャンの集会は「愛とりっぱな業」を鼓舞します。(ヘブライ 10:24,25)そこでなされる話や注解は,わたしたちの心を動かし,みことばにいっそう従う者となって神への愛を表わしつづけることを促します。そこで聞く事がらは,仲間の信者や家族や人類世界の他の人々に対する自己犠牲的な愛を十分に表現する点で自分をさらに改善しようとする決意を強めさせます。また,そこで聞く事がらから,自分のある分野での業が真に「りっぱ」なものではないことに気づく場合もあります。(マタイ 5:16。テトス 3:8)それによってわたしたちは,銘記した点を自分に当てはめて賢明に行動すべき立場に身を置くことになります。
8 集会の準備をすることは,進歩を遂げ,他の人の励みのもととなる点でどのように役だちますか。
8 さらに,集会に備えて個人的に行なう事がらも進歩のための助けとなります。聖書に基づく資料の内容を前もってよく考え,それが集会で反復されるのを聞くことにより,その内容はより深く心と思いに銘記されます。前もって準備しておけば,細かな点に留意しやすく,自分で考えたさいに論点を理解していたかどうか調べやすくなります。前もって準備することによってわたしたちの注解はいっそう意味深いものとなります。また,自分のことばで考えを述べることもでき,その意味を心をこめて考えずにただ印刷物から要点を読むといったことを避けられます。(箴 15:28)これによってわたしたちは他の人のいっそうの励みとなれます。わたしたちが心をこめて語ることばが,それを聞く人により強く訴えるようになるからです。
9 エホバに聖霊の助けを願い求めることがわたしたちの進歩に資するのはなぜですか。
9 わたしたちが進歩するために祈りも重要な役割を果たします。イエス・キリストは言われました,「あなたがたが,邪悪な者でありながら,自分の子どもに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです」。(ルカ 11:13)エホバ神はこの聖霊によって,わたしたちがみことばを理解し,それを正しく当てはめられるようにしてくださいます。聖霊は,思い出させるもの,また教え手としての役を果たします。思い出させるものとして,それはわたしたちが知る聖書の原則を想起させ,また,教え手として,それをどのように当てはめるべきかの判断を助けます。それゆえ,何か問題にぶつかった場合,あるいは何か重大な決定をしなければならない場合,わたしたちはエホバ神に助けを願い求めることができます。そうすれば,エホバの霊がわたしたちを助けてわたしたちの知るべき事がらを思い出させ,また,こうして思い出した事がらに照らして取るべき正しい道を悟らせ,誤った道に進むことのないようわたしたちを守ります。これは,弟子たちに対するイエスの次のことばのとおりです。「助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなたがたにすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事がらを思い起こさせるでしょう」― ヨハネ 14:26。
10 罪のゆるしを願う祈りは霊的な進歩を続けるうえでどのように助けになりますか。
10 わたしたちは不完全な者ですから,自分の罪に対する神のゆるしを求めることが必要です。使徒ヨハネは仲間の信者にこう助言しました。「わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」。(ヨハネ第一 1:9)わたしたちが,祈りの中で,自分がどのような点で神の定めを踏み越えたかを明確に述べるなら,それは自分が行なった事の重大さを深く銘記させるものとなります。これは,神の霊の助けを求めて自分の弱いところを改め,より良い行動をしようとするわたしたちの決意を強めます。こうしてわたしたちは賢明に行動するための助けを得ます。
11 わたしたちの祈りはわたしたちの霊的な進歩やエホバとの関係についてどんなことを示しますか。
11 エホバ神への祈りの中で自分をどのように言い表わすかは,神のことばを理解し,それを生活に当てはめる面で進歩しているかどうかを示します。あなたの祈りについてはいかがですか。それは意味の深いものとなっていますか。それは仲間の人間に対する関心の深さを反映していますか。それは明確な考えを言い表わしていますか。天の父との間に愛情深い関係のあることを示していますか。あなたは,祈りでエホバに頼り,エホバの慈しみに対する感謝を口で言い表わすことを願っていますか。エホバとの関係が親密であれば,わたしたちは祈りでエホバに近づくことに深い喜びを感じるはずです。また,祈りに答えて与えられるエホバの導きは,わたしたちにとってきわめて明瞭になります。そして,エホバが自分について何か非としておられる点があり自分の祈りを聞いてくださらないのではないかと考えて,祈りのさいに何かの拘束を感じるようなことはありません。エホバに対する深い愛はそうした恐れの気持ちを払い去ります。使徒ヨハネが次のことばの中で明らかにしているのはその点です。「愛には恐れがなく,完全な愛は恐れを外に追いやります。恐れは拘束となるからです。実際のところ,恐れのもとにある者は愛の点で完全にされていません」― ヨハネ第一 4:18。
霊の実を生み出す
12 神の知恵と霊の力に自分をゆだねることはどのような健全な結果をもたらしますか。
12 みことばに示される神の知恵と神の霊の導きとに身をゆだねるとき,わたしたちは,自分の霊つまり自分の支配的な感情が,清さや神聖さに関する神の規準にいっそう近づこうとする方向に自分を動かすことに気づきます。そして,愛・公正・知恵・あわれみ・忠節など,エホバの優れた資質に自分も見倣いたいと願うようになります。聖書を個人でまた会衆で学ぶことによって受ける訓練と懲らしめの健全で有益な結果は,わたしたちの態度や言動を見守る人々の目に明瞭になります。堕落した肉の持つ罪の傾向がわたしたちを誤った方向に押す場合があるとしても,わたしたちの霊つまりわたしたちの支配的な態度は,神の霊の導きと協力し,肉の欲望を抑制します。使徒パウロはガラテア人への手紙の中でその点をこう述べました。「霊によって歩んでゆきなさい。そうすれば,肉の欲望を遂げることは決してありません。肉はその欲望において霊に逆らい,霊は肉に逆らうからです。これらは互いに対立しており,それゆえにあなたがたは,自分のしたいと思うそのことを行なえないのです」― ガラテア 5:16,17。
13 敬虔な資質を発揮する面で自分が進歩しているかどうかを知るためにどんな点を自問できますか。
13 クリスチャンとしてのあなたの生活を客観的に見る場合,あなたはどのようなものを見いだしますか。この健全な力もしくは支配的な態度が,あなたが霊的な「赤子」であった時よりもずっと強力にあなたの中で働いているのを見ますか。仲間のクリスチャンは,霊の実のより豊かな表われの中に,とりわけ,自己犠牲的な愛の深まりの中にあなたの進歩を見ていますか。あなたの毎日の行ないは,あなたの生活に進歩のあることを示していますか。人々はあなたに,すなわち,家庭や世俗の職場におけるあなたに,また近隣や他の人々と接するさいのあなたにどんなものを見いだしていますか。あなたの示す手本は,あなたの親切さ,正直さ,柔和さ,自制心などを反映し,エホバの誉れとなるものですか。あなたはこうした点で進歩を続けていますか。―ガラテア 5:22-26。
家族として進歩する
14 霊的な進歩という面でクリスチャンの家族はどんな願いを持つべきですか。
14 エホバ神の献身したしもべとして,わたしたちは,家族の単位としても,人類世界の他の部分とは異なっているべきです。あなたの家族の場合,これは真実ですか。家族内のすべての人は自分が神から受けた責任を認識していますか。また,神のご要求を自分自身に当てはめてそれにかなった者となる点で進歩を続けていますか。
15 父親にはどんな重い責任が与えられていますか。それを果たすさいクリスチャンである父親はだれの手本に倣うべきですか。
15 あなたは父親ですか。そうでしたら,あなたには,頭の権を正しく行使する重い責任があります。(コリント第一 11:3)あなたはその頭の権をどのように行使していますか。クリスチャン会衆の頭であるイエス・キリストの模範にいっそう近づいていますか。あなたはイエス・キリストに見倣っていますか。―エフェソス 5:25-29。
16 イエスは弟子たちの霊的な事がらに対する深い関心をどのように示されましたか。
16 イエス・キリストは,弟子たちの霊的な福祉に純粋な関心を払われました。弟子たちが要点をなかなか理解しなかった時でも,それによっていらだつようなことはありませんでした。彼は時間をかけて物事を説明し,弟子たちが自分の教えをほんとうに理解しているかどうかを見届けました。(マタイ 16:6-12。ヨハネ 16:16-30)弟子たちが自分自身に対する正しい見方をなかなか持てなかった時,イエスは,他の人に謙遜に仕えることの必要を繰り返し示されました。(マルコ 9:33-37; 10:42-44。ルカ 22:24-27)また,弟子たちと過ごした最後の晩には,目に見える教訓,すなわちご自身が弟子たちの足を洗うという方法で同じ点を強調されました。(ヨハネ 13:14,15)イエスはまた弟子たちの持つ限界をも考慮に入れ,彼らが把握できる以上の情報を与えることを控えられました。―ヨハネ 16:4,12。
17 クリスチャンである父親は,家族の霊的な福祉を顧みる面でイエスの手本に倣っているかどうかを知るためにどんなことを自問できますか。
17 ご家族といっしょに聖書を学ぶさい,あなたは父親としてイエスの手本に見倣っていますか。あなたは,ご家族がほんとうに理解しているかどうか確かめますか。家族の各人の限界を考慮に入れて過度の要求をしないように注意していますか。まちがった態度や行動を目にするとき,なぜそれがまちがっているか,なぜ改善を願うべきかを,ご家族のかたたちにはっきり説明しますか。正しいことを毅然と守り,愛によって懲らしめを与えますか。
18 (イ)イエスは弟子たちの身体上の福祉に対する関心をどのように示されましたか。(ロ)クリスチャンである父親はこの点でイエスの手本にどのように倣うことができますか。
18 イエス・キリストは弟子たちの身体上の福祉にも配慮を払っておられました。そのため,使徒たちが伝道旅行から帰って自分たちの活動を報告した時,イエスは彼らにこう言われました。「さあ,あなたがたは自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい」。(マルコ 6:31)家族の頭として,あなたも妻や子どもの必要とするものに気づきますか。妻を「弱い器」として扱い,妻の身体的また生理的な限界を考慮に入れますか。(ペテロ第一 3:7)そして,あなたのご家族が日常の活動の中にくつろぎの時を持てるようにしておられますか。
19 イエスの自己犠牲的な愛の手本に従っているかどうかを知るためクリスチャンである父親はさらにどんな面でも自分を調べることができますか。
19 弟子たちに対する深い愛の表現として,イエス・キリストはすすんでご自身の命を犠牲にされました。(ヨハネ 15:13)あなたは妻と子どもたちのためにこの種の愛を発揮しておられますか。ご家族の幸福のために,個人的な好みや欲望をすすんで差し控えますか。あなたは,妻の弱さをほとんど無視したり,妻を軽く扱ったり,そのほか妻の地位を低く卑しめられたものに感じさせたりするのではなく,むしろその地位を家庭内で誉れと尊厳のあるものとすることによって,妻に対する愛を示していますか。自分の存在が求められ,感謝され,必要とされているのだということを,家族の各人に感じさせるように努力していますか。時間をかけて家族の者の言うことを聴き,問題に対する家族の感情をわきまえ,物事の決定にあたって家族の意見を考慮に入れますか。
20 クリスチャンである父親はクリスチャン会衆に対するイエスの頭の権の用い方からどんなことを学べますか。
20 イエスは,自分の頭の権を行使するさいに,クリスチャン会衆を威圧するような態度は取りませんでした。また,込み入った規則をいろいろ作って会衆の成員を締め上げるようなこともせず,むしろ各自が自分の良心上の能力を行使することを許しておられます。あなたも,イエスと同じように,義に対するご家族の愛に訴えておられますか。そして,ただ権威だけをふるって自分の要求を押しつけることのないように注意していますか。
21 クリスチャンである妻は自分がほんとうに夫に服していることをどのように示せますか。
21 また,聖書は妻たちにこう助言しています。「妻たちよ,夫に服しなさい。それは主にあってふさわしいことだからです」。(コロサイ 3:18)あなたが妻の立場にあるかたでしたら,自分の夫の決定をいつも支持していますか。自分の好みとは異なる決定にも服し,女性的な影響力に訴えて自分の意を通そうとするような誘惑を退けていますか。自分の夫にほんとうに服している妻は,物事に対する夫の態度や考え方を自覚しています。それゆえ,夫の感情にそむかないような方法で家庭内の物事を取り扱います。ある活動や大きな買い物について夫の意向がはっきりわからない場合,そうした妻はそれを押し進めて出すぎるようなことをせず,むしろ夫に相談し,こうして問題を招かないようにします。また,妻としての自分の務めを常に夫の喜ぶ方法で果たすことに努め,正当なとがめの理由を与えることのないように注意します。
22 自分の夫に柔順に服するクリスチャンの妻にはどんな祝福がありますか。
22 夫の頭の権に従って身を処する妻は家庭の中で誉れと尊厳のある地位を与えられます。箴言 31章11,28節はそうした才量ある妻についてこう記しています。「その夫の心は彼女を信頼し……その子らは立ち上がって彼女を祝し,その夫もまた彼女をほめたたえ(る)」。(口)その夫は,彼女が愚かな行動をせず,家族の福祉を危うくするようなことはしないと確信しています。また,妻が物事に関する夫の見方を故意に無視するようなことはないと知っているので,キリストに見倣うその夫も,妻が自分の創意で物事を行なう自由がないと感じるほどに妻の行動を厳重に監督しなければならないなどとは感じません。これは,妻が自分の努めを果たし,家族全体の幸福のために働くことを易しくします。妻として,あなたは,物事に関する夫の思いを知り,それを家事を果たすさいの判断の導きとする点で進歩を続けていますか。
23 クリスチャンである妻の進歩は服装や身の飾りの選び方にもどのように見られますか。
23 聖書が妻たちに助言を与えている別の分野は,服装や身の飾りに関することです。「あなたがたの飾りは,髪を編んだり,金の装飾を身につけたり,外衣を着たりする外面のものであってはなりません。むしろ,もの静かで柔和な霊という朽ちない装いをした,心の中の秘められた人を飾りとしなさい」。(ペテロ第一 3:3,4。箴 31:30と比較)これは,婦人は自分の外見などに気を配らなくてもよいという意味では決してありません。婦人は聖書の中で,「よく整えられた服装をし,慎しみと健全な思いとをもって身を飾(る)」ように勧められています。(テモテ第一 2:9)しかしながら,重視すべきなのは心の資質であり,服装や身だしなみは慎しみという優れた資質を反映したものであるべきです。あなたは妻としてこの点で進歩しましたか。新しい流行やスタイルに以前ほど心を奪われなくなっていますか。慎しみのあるものを選ぶ傾向が強くなっていますか。「もの静かで柔和な霊」,つまり支配的な感情としての平静さや穏やかさを,好ましくない状況のもとでも示して身を飾る点で進歩しましたか。
24 子どもはどんな分野で進歩できますか。
24 子どもは普通円熟したクリスチャンとはみなされませんが,子どもも霊的に価値のある事がらにおいて進歩することができます。子どもの成長の過程には子どもじみた考え方ややり方から離れるべき時があります。使徒パウロは自分の経験についてこう述べました。「わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,おとなとなった今,みどりごの時のことを捨てたのです」。(コリント第一 13:11)あなたは,子どもとして,みどりごの時の特性を徐々に除き去っていますか。家庭における自分の務めを果たし,親の仕事を少なくできるように,できるところで協力していますか。何か仕事をする機会を自分から見つけますか。それとも,手つだうようにとまだ何度も言われ,そののち不承不承の態度でようやくそれに応じる状態ですか。自分を霊的に築き上げるために自分からすすんで行動しますか。自分からすすんで聖書や聖書研究手引きを読み,会衆の集会に備えて必要な準備をしますか。あなたの時間の使い方は,『身体の訓練は少しの事に益があるが,敬神の専念はすべての事に益がある』ということばを信じていることを示すものですか。(テモテ第一 4:8)親に従うのは正しいことであり,子どもが神を喜ばすことのできる主要な方法であることを認識していますか。―エフェソス 6:1。コロサイ 3:20。
25 子どもは親に対する従順さという面での進歩をどのように示せますか。
25 親に従うということは,単に親の言うことを行なうだけでなく,家族に良い影響となると知っている事がらに従うことをも意味しています。それは実際のところ,神のご意志にしたがって与えられる,父親や母親の助言や規則に服することを意味しています。あなたは次のように自問できます。家を出るとき,自分がクリスチャン家庭の者である証拠を示しているだろうか。学校でも,近隣の社会その他でも,礼儀正しさ,年長の人々や権威を持つ人々に対する敬意のこもった態度,また正しいことをしっかり守る態度によって,自分の霊的な進歩を明らかにしているだろうか。自分の身なりや服装を決めるさいに,クリスチャンである自分の親に協力しているだろうか。それとも,慎しみの欠けた極端な流行を取り入れ,親にも圧力をかけて自分と同じ見方をさせようとしているだろうか。
26 クリスチャンとして生活する点での進歩についてどんなことが他の人の目に明らかになるべきですか。
26 ひとりで生活している人も家族の一員となっている人も,また,クリスチャンの円熟に達した人もそれを目ざして努力している人も,自分の霊,つまり神のご意志を行なおうとする動機となる自分の支配的な力における進歩を明らかに示すべきです。神のことばに従うことがあなたをより良い男子または婦人とし,より良い妻また母親,より良い夫また父親,より良い息子また娘としているということが,他の人の目から見て明らかになるべきです。クリスチャンの家庭は,争いや叫び声ではなく,幸福と平和と愛の行き渡るところとなるべきです。それは清潔できちんと整えられた所であるべきです。あなたの家庭の場合これは真実ですか。神のしもべとなっている人の生活に霊的な成長を示すものが現実に見られるのでなければ,わたしたちの伝道の業はあまり意味がありません。わたしたちの宗教,わたしたちの崇拝は,それがわたしたち自身とわたしたちの日常の生活に生み出すものによっておおむね判断されるのです。―コロサイ 3:8-14。