クリスチャンの愛によって不和を解決する
「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行って,彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら,ほかにひとりふたりを,一緒に連れて行きなさい。……もし彼らの言うことを聞かないなら,教会に申し出なさい」。―マタイ 18:15-17。
1 (イ)なぜクリスチャンは互いの平和を保つように努力しますか。(ロ)どんな面の活動においてそれをしますか。
エホバは,秩序と一致と平和の神です。明示されているエホバの目的は,エホバに奉仕し,エホバのみこころを行なう人々すべてのしあわせのために,この地上に平和な楽園の状態を確立することです。そのような人々は,神の定められた正しい原則にそった生活をいまから始めて,神がお立てになる正義の新秩序の中で,生命の賜物を受けるにふさわしいことを示さねばなりません。そのためにはペテロ前書 3章10節から12節に記録されている使徒ペテロの言葉に注意する必要があります。「いのちを愛し,さいわいな日々を過ごそうと願う人は,舌を制して悪を言わず……悪を避けて善を行い,平和を求めて,これを追え。〔エホバ〕の目は義人たちに注がれ……」。〔新世〕使徒パウロもクリスチャンに対して次のように書いています。「こういうわけで,平和に役立つことや,互の徳を高めることを,追い求めようではないか」。(ロマ 14:19)この聖書の助言に力づけられて,今日の真のクリスチャンは,会衆においても,家庭においても,また日常の他の活動においても,互いの,またすべての人との平和に役立つことを行なうよう力をつくします。
2 (イ)今日「平和を求めてこれを追う」人々の妨害となるものをいくらかあげなさい。(ロ)彼らの目標は達成不可能のものですか。
2 しかし不幸なことに今日は,平和な生活のしにいく状態になっています。こうした状態は,次のような言葉で預言されていました。「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言する者……となるであろう」。(テモテ後 3:1-4)そのうえ,私たちはみな不完全に生まれていて,あらゆる人間的弱点,不完全さ,情欲に支配されがちです。したがってクリスチャンが,「平和を求めてこれを追」おうとすれば,多くの問題や困難が伴います。しかしそういう状態にあっても,各自が,この問題にかんする聖書の助言を実行するようまじめに努力し,また仲間のクリスチャンが与えてくれる援助をすべて活用し,神の御霊の導きに従うなら,他の人と平和に暮らす,という目標達成のために多くをなしとげることができます。
3 実際のどんな世界的例が,今日平和を実現しうることを証明していますか。
3 それが今日可能なことは,エホバの証者の新世社会が生み出した結果をみるとき明らかです。平和と一致のうちに共に暮らし,働くエホバの証者の新世社会は,人にうらやまれるほどの記録をつくりあげています。大規模な国際大会ではそのことがとりわけ目につきます。大会では,あらゆる人種,皮膚の色,言語の人が一緒に働きますが,そこには,いまの世の中でごくふつうの人種差別や国家的障壁がまったくみられません。1958年ニューヨーク市で開かれたエホバの証者の国際大会を報道したニューヨーク州ビンガムトン市のサン紙の記事は,興味ぶかいものです。同紙は次のように報じました。「この大群衆の行儀のよさ,またこれが,ほとんどあらゆる国籍の人々の集まりであること,黒人とアジア人が白人と対等に交わり,喜びが明白に認められることは,常と異なる点であり,真にすばらしい点であった」。同じ大会について,ニューヨーク・アムステルダム・ニュース紙は,「120の国から来たけいけんな証者たちは,共に平和にすごし,崇拝を行なって,アメリカ人にもそれが容易にできることを教えてくれた。……この大会は,人々が共に働き,共に住めることを示す著しい例である」と書きました。ここでぜひ指摘しておきたいのは,これらのクリスチャンのすぐれた振舞が,人に見せるための,都合によっては捨てるうわべの飾りではないということです。反対にそれは,この献身したクリスチャンのグループのメンバー各自の心の奥底に達し,心と思いに関係のあるものです。彼らの大きな集まりで見られるものは,彼ら各自が努力して追い求め,従おうとしている生活の型を反映しています。
4 このグループは他のグループとどのように違いますか。
4 しかし,このクリスチャンのグループが,一般の人と異なる人々の集まりだというのではありません。彼らはあらゆる職業をもつ人々であり,社会的地位も経済的水準もみな違います。また,個人的な苦しみや問題を持たないというのでもありません。そうした問題は彼らにもあります。終りの時代に起こると預言されていた,さきほどのべたような困難な状態にも直面しなければなりません。この種の他のグループにありがちな,人間どうしの不和,個性の相違による衝突はあります。そのうえに,クリスチャンの集会や宣教で1カ月に約30時間親しく交わる機会がありますから個人どうしの不和が生じても不思議ではありません。驚くべきことは,そうした不和が非常に少ないことです。そしてこのグループが他と異なる点は,実際に不和が生じた場合の問題の扱いかたにあります。
5 第1世紀のクリスチャンたちの間に生じた個人的な問題の一つの例をあげなさい。パウロはその問題をどのように扱いましたか。
5 神の聖霊の力が,多くの奇跡的なすばらしい方法で示される時代に住んでいた,初期クリスチャンたちの間にさえ不和がありました。使徒パウロは,ピリピ書 4章2,3節で,そうした不和の一例を簡単に述べています。「わたしはユウオデヤに勧め,またスントケに勧める。どうか,主にあって一つ思いになってほしい。ついては,真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは『いのちの書』に名を書きとめられているクレメンスや,その他の同労者たちと協力して,福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」。さてここに二人の霊的姉妹がいました。二人が神のみことばの知識に通じていたことは明らかです。使徒パウロや他の人たちと協力して福音を伝道しました。にもかかわらず,二人の間に生じた問題をなかなか解決できないでいました。それは使徒の目にもとまるほどでした。それで彼は,ピリピの会衆にあてた手紙の中でそのことに触れ,問題の解決に全力をつくすようふたりを励ましました。また同時にパウロは,ふたりが問題を解決し「主にあって一つの思いになる」ことのできない場合,問題を平和に解決するよう二人を助けることをひとりの円熟した兄弟に依頼しています。
不和を解決する基礎
6 個人的な不和を解決するための聖書的な方法はどこに見出されますか。それにはどんな段階が含まれていますか。
6 聖書にはそれ以上のことが書かれていないため,その問題が最後にどう解決されたかはわかりません。しかしたしかにわかることは,それより約30年まえ地上におられたイエス・キリストが,不完全で罪深い弟子たちの間にそうした問題が起こることを認め,しかもそれに対する解決策を教えられていたことです。したがって,使徒パウロから戒められたとき,この二人のクリスチャンの婦人はキリストの健全な助言に従って自分たちの個人的な問題の解決を試みたに違いありません。また20世紀の今日においても,それと同様のことをするなら,エホバの証者も自分たちの個人的な問題の多くを,クリスチャンの愛をもって解決できます。それはどんな方法ですか。その方法はマタイ伝 18章15節から17節に書かれています。ここでイエスは,まず「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら……」という言葉で話を始め,キリストの真の追随者の間にも問題の生ずることを認められました。それから解決策を教えられました。これには,被害者すなわち相手から悪いことをされた者のとるべき三つの段階があります。(1)「行って,彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる」。(2)「もし聞いてくれないなら,ほかにひとりふたりを,一緒に連れて行きなさい。それは,ふたりまたは三人の証人の口によって,すべてのことがらが確かめられるためである」。(3)「もし彼らの言うことを聞かないなら,教会に申し出なさい」。簡単ですか。たしかにそうです。そしてこれは,どんな個人的な不和にせよ,クリスチャンの愛によって解決をはかるために,見のがしたり,無視することのできないものです。
7 (イ)個人的な問題を解決するさい,マタイ伝 18章15節に示されている最初のことをするまえに,何をすべきですか。(ロ)なぜそれをすべきですか。
7 そこで,まだこの方法を実際に日常生活に適用するところを見たことのない読者のために,このことをもう少しくわしく調べてみましょう。かりにあなたが,ある人から悪い仕打ちを受けた,あるいは人があなたに対して罪を犯したと考えているとしましょう。あなたはどうしますか。クリスチャンの愛によって不和を解決するにはさきほど引用した第一段階に着手するまえに,しなければならないことがあります。それは,自分とそのクリスチャンの兄弟とが,「主にあって一つの思い」になることこそ自分の願いであるのを思い起こし,聖書の知識に照らし合わせて,冷静に,落ち着いて,問題を再検討することです。そして次のようなことを自問してみます。これは兄弟と話し合わねばならぬほどの大問題だろうか。もし自分がだまっていれば,これ以上事をかまえなくても自然に消滅してしまうのではないか。兄弟は故意にそのことを言ったのだろうか。それともただの言いそこないで,自分すら気づいていないのではないだろうか。許して忘れてしまうことができるのではないか。この場合,「たきぎがなければ火は消え(る)」(箴言 26:20)という聖書の箴言はきわめて適切です。霊感を受けた使徒の言葉も忘れてはなりません。「愛は寛容であり,愛は情深い。……恨みをいだかない。……すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてを耐える」。(コリント前 13:4-7)ペテロも,「愛は多くの罪をおおうものである」と書いています。(ペテロ前 4:8)それで,ちょうどあなた自身が自分の多くの弱点や兄弟に対する罪を兄弟愛によっておおってもらうのを願うのと同じく,兄弟を愛するその愛により,相手の罪をおおうのは当然です。このように,クリスチャンの愛をもって事情をあらかじめ分析するとき,多くの不和が解消します。
「彼とふたりだけの所で」
8 (イ)このように前もって分析しても解決できないならどうしますか。(ロ)何を避けるべきですか。
8 他方,問題を分析して考えてみたのち,これはどうしても小事ではない,忘れてしまうことはできない,と思う場合もあるでしょう。そのときは直ちに行動しなければなりません。放っておくなら,それは心の中でうずき,不当に大きくなって,霊的に不健全な心を抱く恐れがあります。この場合,あなたに対して罪を犯した相手は,イエスの山上の垂訓にある次の原則を守っていません。「だから,祭壇に供え物をささげようとする場合,兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを,そこで思い出したなら,その供え物を祭壇の前に残しておき,まず行ってその兄弟と和解し,それから帰ってきて,供え物をささげることにしなさい」。(マタイ 5:23,24)そこであなたは,イエスがマタイ伝 18章15節から17節に示された方法の第一段階をとり,「行って,彼とふたりだけの所で忠告」しなければなりません。これはなんとすぐれた,そして実際的な助言でしょう。当の兄弟の所に行くまえに,ほかの人々に話したがる人情の常をイエスはよく知っておられたのです。しかしそれはしてはいけないことです。その人の所にだけ行くべきです。「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす,人のことを言いふらす者は友を離れさせる」。(箴言 17:9)自分の言いぶんに他の人の共鳴を求めて,人のことを言いふらす者になる危険をおかすよりも,罪を犯した人と二人だけの所で話すほうが,実際的な知恵の道です。ふたりだけで静かに話し合うなら,相互の愛によって相手の罪がおおわれる結果になり,相手の罪はすぐに忘れられてしまうでしょう。―エペソ 4:26。
9,10 (イ)悪い仕打ちを受けたほうの者はどんな動機で最初の段階にかかるべきですか。それをするための正しい心構えをもつには,何をするのが賢明ですか。(ロ)時にはどんな結果が生じますか。
9 しかしちょっと待って下さい。相手の所へ行って問題を話し合うまえに,次のことを考えてみましょう。あなたばどんな動機で,不和解決の第一の措置をとろうとしていますか。自分に対して悪を行なったことを思い知らせ,相手をひざまずかせて許しをこわせることだけが目的ですか。そうであってはなりません。ここで自分を正当化しようとすることは禁物です。イエスは,「もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる」と言われました。あなたの兄弟を得る,これこそ正しい動機です。あなたは相手と仲直りをし,再び和合すると同時に,この問題を心からきれいさっぱりと洗い流して,心をらくにしなければなりません。しかし愛は「自分の利益を求めない」のを忘れないことです。(コリント前 13:5)むろん相手はクリスチャンの守るべき何らかの原則を破ったのですから,その間違った道をあらためるのを助けることも大切です。パウロはガラテヤ書 6章1節にこう書いています。「柔和な心をもって,その人を正しなさい。それと同時に,もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと,反省しなさい」。しかし不和はクリスチャンの原則を破ったことよりも,どちらかの誤解から生ずる場合が多いのです。ですからこの理由からも,相手の兄弟と和解することを主要な動機として,この第一の措置をとらねばなりません。その目的を果たすには,ある程度譲歩し,いくぶん折れて出る用意や心構えが必要です。もし以前に,自分が他の人に対して罪を犯した経験があるなら,けんきょになって相手に謝罪し和解するのがいかにむずかしいことであったかを,このさい思い出してみるとよいでしょう。それはたしかにやさしいことではなかったはずです。ですから相手の兄弟を助けるために,多少譲歩する気持ちがなければなりません。また,和解したとき,自分も相手の兄弟もうれしい気持になったこと,また骨折りがいがあったことを思い出して下さい。そういうときのことを思い起こすのは,自分に対して罪を犯した兄弟に話しかける際に正しい心構えをもつ助けになります。そのときあなたは,クリスチャンの愛をもって不和を解決する第一段階に取りかかる用意ができたことになります。
10 このような方法で相手の兄弟に近づくと,向こうもやはり同じ気持ちになっていることがよくあります。そして不和の解決に心から応じ,二,三分で完全に和解が成立します。また,相手の言うことを聞いてみると,自分がすっかり思い違いをしていたことがわかる場合もあるでしょう。二人だけのところで双方が腹蔵なく話しあえば,和解は可能です。このことは箴言にも述べられています。「先に訴え出る者は正しいように見える。しかしその訴えられた人が来て,それを調べて,事は明らかになる」。(箴言 18:17)そうなれば,この最初の段階で,独善的な気持ちにならずに,進んで相手の意見を聞き,それによって自分自身を見なおす心構えがきわめて重要になってきます。いずれにせよ,この最初の段階で和解が成立するなら,当事者双方が平和と喜びをえることになります。
「ほかにひとりふたりを一緒に連れて行きなさい」
11 最初の段階でうまくいかない場合,悪い仕打ちを受けたほうの人はどこへ行きますか。
11 一方,何かのわけで,最初の段階がうまくいかず,和解の成立しない場合も考えられます。どんなに努力しても,こちらの気持ちが相手の兄弟に通じないため問題が解決しません。そのときどうしますか。あきらめないことです。相手の兄弟を愛していれば,和解すること,また間違いを正すことを願って忍耐できます。場合によっては,ものみの塔協会に手紙を書いて,問題の解決に助力を請うのが最善の方法だと考えられるかも知れません。いうまでもなく協会は,必要なとき喜んで助ける用意があります。しかしびんせんに何枚書いたところで,一通の手紙では事の全容を伝えにくいことも知っておかねばなりません。実際には,それよりもっと真接的な解決法があるのです。エホバの証者の各会衆には,必要な援助を与える資格をもつ,協会の任命を受けている人がいます。それは会衆の監督です。会衆の監督は,「おのおの風をさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,かわいた所にある水の流のように,疲れた地にある大きな岩の陰のようになる」と言われているではありませんか。(イザヤ 32:1,2)また使徒パウロの示すところによると,これらの監督はおのおの会衆を強め,会衆の徳を高める目的で神が与えて下さった「人々の賜物」です。(エペソ 4:8)ですから,個人的な問題が生じたなら,その解決に彼らの助けを求めて,私たちの中にいるこれら神の「賜物」を利用しましょう。
12 問題の解決を援助する力になりたいと思うなら監督はどうあるべきですか。
12 このことからわかるとおり,監督は,近づきやすく,愛の深い,理解のある人で,会衆の各成員からいつでも気軽に助けを求められる人でなければなりません。霊感を受けた第1世紀のある監督は,「わたしたち強い者は,強くない者たちの弱さをになうべきであって,自分だけを喜ばせることをしてはならない」と書きました。(ロマ 15:1)ゆえにクリスチャンの監督は,信仰をもつ兄弟たちの話しかける言葉に何時でも耳を傾けます。どんなに忙しくても彼らの問題を聞き,会衆内のすべての人の霊的福祉に真の関心をもちます。集会の前後,一緒に宣教するとき,時おり家に立ち寄って友好を深めるとき,監督は霊的兄弟にたいし,「風をさける所……大きな岩の陰のように」なります。そうすれば霊的兄弟たちは,個人的な問題の解決に助けを必要とするとき,自動的に監督のところに行きます。
13 第三者として行動する監督あるいは円熟した兄弟は,どのように二番目の段階にとりかかるべきですか。
13 前述のことから考えると,会衆の監督やほかの円熟した兄弟の所へ行って問題を手短かに説明し,そのような兄弟がひとりかふたり一緒に行って加害者の兄弟に話すように頼むのは分別にかなった行いです。(マタイ 18:16)この場合も,最初の段階と同じく,『兄弟を得る』ことがおもな動機です。ですから円熟した兄弟も,一緒に行く目的は,必ずしもどちらが正しくどちらが間違っているかを決めたり,問題に決断を下すことではなく,むしろ聖書と聖書の健全な助言とを用いて両者の和解を援助するにあることを心得ていなければなりません。そして両者の言いぶんを注意深く,偏見をもたずに聞きます。問題がこのように平静に第三者の前に持ち出されるなら,どんな誤解も明白になり,和解は容易に成り立つでしょう。あるいは監督は,当事者が以前見のがしていた聖書のある原則を指摘する必要があるかも知れません。監督は,独断的な態度で解決策を二人に押しつけることをせず,むしろ聖書の言葉を述べます。そうすれば兄弟たちは,それが単なる人間の知恵ではなく,エホバが文字に書かれたご自身の言葉をとおして自分たちに助言しておられることを認めます。聖書にもとづいた助言を与えたあとで,加害者の兄弟に,その間違いを正す方法について提案を求めるとしばしば効果があります。多くの場合彼は,エホバ神と兄弟に対する愛に動かされて,不和をうまく解決する提案を出します。そうして解決できて,二人がまた仲良くなり,両者の間に堅い一致が生まれるのを見るのはまったくすばらしいことです。そこには喜びと満足のふんいきがよみがえり,それによって二人は,敵意をもつことなく共に奉仕をつづけることができます。
クリスチャンの愛によって
14 (イ)あらゆる問題を円満に解決するにはどんな特質が必要ですか。(ロ)それは新世社会の中でどのように維持できますか。
14 イエスの示された方法を用いて個人的な不和の解決に成功するには,御霊の実の中で最大の,クリスチャンの愛を働かせることが必要です。それはこの場合どんなに強調してもしすぎることはありません。「愛はいつまでも絶えることがない。……いつまでも存続するものは,信仰と希望と愛と,この三つである」。(コリント前 13:8,13)この悪い世界は神の御霊をもちません。そのため人々は多くの紛争を解決することができないでいます。しかし次のことも知っておかねばなりません。つまり,個々のクリスチャンの間に個人的な不和が生ずれば,神の聖霊はどこかでさまたげられ,そのために,「愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制」という御霊の実を結ぶための働きが十分にできなくなります。(ガラテヤ 5:22,23)しかしクリスチャンの愛を示して,その障害を除くことに成功すれば,当事者は再び神の御霊を豊かに受けられます。そして生活の中で御霊の実を結ぶことができます。そうなればそこには,詩篇記者が巧みに表現している一致と調和が感じられます。「見よ,兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ,アロンのひげに流れ,その衣のえりにまで流れくだるようだ」。(詩 133:1,2)この一致は,今日のエホバの証者の新世社会の霊的福祉に絶対に欠くことのできないものです。一致を保つとき私たちのわざはより生産的になります。というのは,心をつくし,魂をつくし,力をつくして働けるからです。またそれによって私たちは共に,心から愉快に楽しく暮らすことができ,そのこと自体が,力の源泉となります。また私たちが神の聖霊のもとに運営されている真の新世社会であることは,それによっていっそう明確になるでしょう。しかしそういう状態は,奇跡的に維持されるのではなく,新世社会のひとりびとりが,相互の愛を培うときにのみ保たれるのです。愛は実であることを忘れてはなりません。それは培えるものであり,また培わねばならないものです。クリスチャンの愛をもって不和を解決する時に,そのことはいちばん明瞭になります。
15 (イ)問題をこのように直接に解決するのはなぜいちばんよい方法ですか。(ロ)ほとんどの場合避けられる三番目の重大な段階とは何ですか。
15 前述のことを考えるとき,この簡単でしかも効果的な問題の解決策が,イエス・キリストをとおして示された神の知恵であることを十分理解できます。「ああ深いかな,神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく,その道は測りがたい」「だれがエホバのみ心を知るに至ったであろうか。だれがその助言者となったであろうか」。(ロマ 11:33,34,一部新世)エホバは,ご自分の献身したしもべたちの間にさえ,個人的な不和が生ずる可能性を予見して,それに対する効果的な措置を私たちに教えることをよしとされました。個人の問題を直接に解決するこの方法は,最もてっとりばやく,効果的です。こうした問題が,ふたりだけの間で早く解決されるなら,自分にとっても相手にとっても,時間と労力の節約になります。もし失敗に終わるなら,会衆内の円熟した兄弟の助けを求めることができます。しかし,マタイ伝 18章17節でイエスが言われた,三番目の重大な措置をとる必要のあることはごくまれです。その措置とは,会衆内を代表するメンバーの前に問題を持ち出し,悪事をした者を証人の前に呼んでその罪を確かめることです。円熟したクリスチャンは,兄弟との不和を,クリスチャンの愛をもって個人的に解決するよう極力努力します。
16 聖書のどんな助言に従うことは,前途にある困難な時に立ち向かう助けになりますか。
16 それをすることはいまとりわけ重要です。私たちは「末の世」に住んでおり,「苦難の時代」に生きています。エホバの新世社会の成員として将来のいっそう困難な時代に対抗するため,私たちは,いま団結しなければなりません。ですから私たちは,個人的な争いを解決してエホバの組織の清さと一致を保つ方法を授けて下さったことをエホバに深く感謝しています。こうした不和は多くありません。しかし愛があればもっと少なくなります。それで私たちひとりびとりが,「愛をもって互に忍びあい,平和のきずなで結ばれて,聖霊による一致を守り」続けることを決意しましょう。―エペソ 4:2,3。