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弟子になった人々のバプテスマものみの塔 1970 | 8月1日
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7,8。ヘブル 10:7)イエスがご自分をささげたこと,またその象徴を,天の父であるエホバが是認されたのはこの記述から明らかです。イエスの示された模範にならって,初期クリスチャン会衆の成員はバプテスマを受けました。(使行 10:48; 8:12,36,38,39)ユダヤ国民の場合,西暦36年までの彼らの浸礼はやはり,献身した国民として自分たちをささげることを象徴するものでした。それ以降のクリスチャンのバプテスマは,その祖先がユダヤ人か否かにかかわらず,献身を象徴しました。エホバが律法契約を通してユダヤ人と持たれた関係は,西暦33年,イエスの死後,終わりを告げていましたし,イスラエルに対する特別な恩恵の期間は,非ユダヤ人にクリスチャンの福音が伝えられる直前に満了していたからです。したがって,そのときからかなりの時代を経た今日,生来のユダヤ人であると否とを問わず,すべての人種また血筋の人々はエホバの前に同じ立場を占めています。つまり個人的に献身し,そのうえで献身を水の浸礼によって表わす義務を履行する機会が,各人に与えられているのです。
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エホバに対するあなたの良心ものみの塔 1970 | 8月1日
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エホバに対するあなたの良心
「肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること」― ペテロ前 3:21,新。
1 (イ)キリストの弟子はどんな肝要な事柄を知っていますか。(ロ)彼らはどんな決定を下しましたか。(ハ)どうしてバプテスマは従順の第1段階と言えますか。
弟子は教えられた者ですから,イエスの命じた事柄を知っています。したがって彼らは,エホバのクリスチャン組織の道徳規準を尊重する義務,また良いたより,つまりエホバの御国の音信を携える宣教に関し聖書に述べられている責任や要求についても知っています。献身の決定および献身の行為は,献身を表わす水の浸礼に常に先行します。ですから,バプテスマは資格のある人が取る,従順の最初の段階です。献身の象徴を通して,弟子は神との密接な良い関係を求める願いを表明するのです。
2,3 バプテスマにおいて,弟子はどんなことを神に求めるのですか。
2 『それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父の名によってバプテスマを施しなさい』。(マタイ 28:19,新)この命令は,正しくバプテスマを施された弟子が導きいれられる,エホバとの密接な関係を示しています。すでに調べたように,水のバプテスマは,「肉の汚れを除く」ことを表わすものではありません。それは,ヨハネ第一の書 1章7節と黙示録 1章5節に述べられている,イエスの血によってわたしたちが罪から洗われたことを表わすものではありません。そうではなく,水のバプテスマは「神に対して良心を求めること」を表現するものです。「むかしノアの箱舟が造られていた間,神が寛容をもって待っておられた…その箱舟に乗り込み,水を経て救われたのは,わずかに八名だけであった。〔この水に相当するもの,つまりバプテスマ(肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通じて今あなたがたを救っている〕」。(ペテロ前 3:20,口語,21〔新〕)ノアの時代に全地をおおった洪水が水のバプテスマを思わせると述べたペテロは,洪水の前に箱舟にはいり込むことの実体は,彼が行なうように命令されたもの,すなわち水のバプテスマであると語っていたのです。しかし,それはなぜ「神に対して良心を求めること」になりますか。
3 それは,神に対するまったき献身のうちにイエス・キリストを通して自分を神にささげることによって神に求める願いです。この点に関して,「新約聖書に見られるすぐれた叙述」第6巻の中で,A・T・ロバートソン博士は次のように述べています。「よく吟味してなされた,神に対する聖別の誓い,これがここの意味であろう。つまり,悔い改めて神に帰ったのであるから,今度はその事実をバプテスマ(それ以前に起こった,心の内面的な変化の象徴)によって,公に宣言するのである」。
4 良心に関して,弟子は「過ぎにし日」からどのように変わりますか。
4 したがって,弟子 ― あなたが弟子であるなら,あなたも含まれます ― の神に対する良心はかつては悪いものでしたが,今や救いの良いたよりを受けいれたため,神に対して良心を願い求めるようになり,そのために,まったき献身のうちに神に自分をささげ,良心を持てるよう神に求めるのです。「なんぢら過ぎにし日は,異邦人の好む所をおこなひ,…もはや足れり」。(ペテロ前 3:21–4:6)献身によって,わたしたちは良心を持てるよう神に願いをなし,その願いは献身の後,水のバプテスマによって達成されます。そういう理由に基づいて,わたしたちは水のバプテスマによって献身を表わし,その結果,求めていた良心を得るのです。神のこのバプテスマにかかわるすべての取り決めにより,わたしたちはこの罪深い,良心を持たない,滅びに定められた人類の世から切り離され,解放されるのです。あなたは神の前に良心を持ちたいと願いますか。しかし,神に対する献身もせず,水のバプテスマも受けずして,そうした良心が得られると思いますか。
5 良心に従って,まず最初にだれの名前によって弟子はバプテスマを受けますか。その理由は。
5 これはエホバとの密接な関係を示すものであり,弟子はまず最初にそのお名前によってバプテスマを施されます。献身した人は,多くの教会が聖書の示す事実として受けいれなくても,神が父であることを認めねばなりません。その御父の名前は擁護されねばなりません。「エホバという名前を持たれるあなただけが全地の至上者であられる」からです。(詩 83:18,新)また,「命の源はあなたにあるからです」― 詩 36:9,新。
子の名によって受けるのはなぜか
6 (イ)御子はご自分の公式の権威をだれから受けましたか。(ロ)なぜ子の名によってバプテスマを受けるのですか。
6 この御父には,深く愛しておられる御子があります。「それゆえ,行って,…弟子とし,…子…の名によってバプテスマを施し」なさい。(マタイ 28:19,新)わたしたちは御子の足跡に従うべきであり,彼について,ピリピ書 2章9-11節はこう述べています。「神は彼を高く上げて,これにもろもろの名にまさる名を賜ひたり。これ天に在るもの,地に在るもの,地の下にあるもの,ことごとくイエスの名によりてひざを屈め,かつもろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして,栄光を父なる神に帰せんためなり」。バプテスマを受ける行為は,神の御子の示された模範に従うことであり,御子は従うのにふさわしいかたです。なぜなら,その天の御父はこう述べておられます。「視よ われ彼をたてゝもろもろの民の証とし またもろもろの民の君となし 命令する者となせり」。(イザヤ 55:4)「(彼には)『王の王,主の主』と記せる名あり」。(黙示 19:16)「神は唯一なり,また神と人との間の中保も唯一にして,人なるキリスト・
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