あなたは神の存在をほんとうに信じていますか
地球の住民のほとんどは,神を信じていると言います。あなたもそうですか。もしそうであれば,他の人びとに向けられた質問(「あなたは神の存在をほんとうに信じていますか」)を考えてみるとよいかもしれません。たぶんあなたは詩篇 14篇1節の,「浅はかな者は心のうちで言った。『エホバなどいない』と」,ということばを思い出し,無神論者や不可知論者にそのことばを当てはめて考えるかもしれません。しかしこの節は,そのような人びと以外の人たちのことも言っているのでしょうか。
確かにそうです。「浅はかな者」に相当するヘブル語は,知能的欠陥ではなくて道徳的欠陥のあることを示します。したがってこの詩篇は,「神などいない」とおおっぴらに言う人びとのことをおもに述べているのではなく,むしろ『心のうちで』神を否定する人びとのことを言っています。つまりそういう人たちは,自分の生活に対する神の支配に従おうとしません。神には力が,あるいは関心がないということを彼らは暗に示しているのです。
そういう人たちは,裁判所の権威を認めようとしない人によく似ています。裁判所は存在します。しかし彼らは自分に対する裁判所の司法権を無視します。ですから,「私は神の存在を信ずる」ということばは,神のことばを受け入れ,また自分の生活に対する神の権威を認めてはじめて真の意味を持つようになります。あなたはそれを認めますか。
あなたにとって神は,たとえば,人が見ていない時でも神の律法があなたの道徳に影響するほど現実的な存在ですか。機会があれば盗みを働いたり,性の不道徳にふける人は少なくありません。
しかし真のクリスチャンは違います。人が見ていないときでも,神は実在する,という信仰があるので悪いことを行ないません。真のクリスチャンは神に対して健全な恐れをいだいています。それに,神は『常に見ておられる』という保証もあります。(ヘブル 4:13)しかし最も重要な点は,彼らが,人格性を持つ神への愛と,神が彼らのためにしてくださったことすべてに対する感謝の気持ちから,神を喜ばせたいと考えている点です。「おきてを守ること,これがすなわち神への愛」であることを,クリスチャンは知っています。―ヨハネ第一 5:3; 4:19,新。
神に対する純粋の信仰はまた,クリスチャンが中立を維持するのに助けになります。学校で,あるいは職場で,他のクリスチャンたちから離れているときに,「世のもの」であることを示すことになるある儀式に参加させようとする圧力を感ずるかもしれません。しかしイエスは,わたしの弟子は「世のものではありません」と言われました。(ヨハネ 17:16,新)そういう状況に直面するとき,クリスチャンにはモーセというりっぱな模範があります。
モーセは繰り返しパロの前に現われて,神の民をエジプトから解放するよう頼みました。神と自称していたパロは高慢な人物でした。彼は多数のいかめしい宮延議官,侍衛,奴隷,祭司などに取り巻かれていました。モーセはそれにおじけて自分に与えられた使命をなおざりにしたでしょうか。彼は「王の怒りを恐れることはありませんでした」と聖書は述べています。なぜ恐れなかったのでしょうか。
なぜならモーセは,「見えないかたを見ているように終始確固」たる態度を保っていたからです。エホバが,モーセや他の敬虔な人びとを扱ったその方法は,神の実体についての「明白な論証」でした。こうしてモーセは信仰により,心をつくしてエホバに注意を集中していました。モーセは,世界で最も大きな権力を持つ人物をさえ恐れませんでした。あなたにとってエホバはそのように現実的な存在ですか。―ヘブル 11:1,27。ネヘミヤ 4:14。テモテ後 4:17。
さらに,神の存在に対する信仰が純粋であれば,それはその人の生活に対する態度によい影響を与えます。なぜそうなるのでしょうか。
その人は,今の邪悪な事物の体制が現在のような状態に立ち至った理由について神が聖書の中で言われていることを受け入れます。社会的不平等,病気,貧困などが自分の生活の中に入り込んできても,神を否定するようなことはしません。死が愛する者を奪い去っても,悲しみに完全に打ち負かされることもありません。なぜこういうことが生ずるかをその人は知っているからです。
その人は,『正義の宿る新しい天と新しい地』が近いことについて神が言われることを信じます。ですからそのクリスチャンには,自分にふりかかる試練にしんぼう強く耐えながら喜ぶ理由があるのです。これは「顔色をよくする」ことさえします。―箴 15:13,新。テサロニケ前 4:13。ペテロ後 3:13。
そういう人は,神を信ずることから生まれる希望を持たない人びとと非常に対照的です。この相違を示すひとつの例として,「実存主義」の哲学がその信奉者たちにおよぼす影響について,V・M・マーチンが述べていることを考えてみましょう。
「実存主義者たちが神の存在にかんする伝統的証明に反論を試みるとしても,それはさしたるものではなく,無神論がただ当然のこととして受け入れられているのである。……こうした無神論こそは,実存主義においてしばしば見られる恐ろしいほどの陰うつ,高まる不安,人生は全くの不条理とする見方,などの説明となるものである。……神の不在は死を絶対のものにする。この絶対をある人びとは不条理な愚かしさと考え,他の人びとは,ばかばかしく奇怪な現象と考えるのである。……人間存在の暗い面が極度に強調されている。ざせつ感,悩み,悲しみは,すべての人間の生活につきものであるが,実存主義はそうしたことを中心にしているように思われる。実存主義者の文学には歓喜や喜びというものがほとんどない」。
あなたの人生観,あなたの性向は,あなたが神の存在をほんとうに信じていることを実際に示すものですか。
エホバが,聖書のいう「大患難」において,すべての人間にご自分の実在を強制的に印象づける時は近づいています。(マタイ 24:21,新)その「大患難」はあなたにどのように影響しますか。それは今あなたが何を行なっているかにかかっています。エホバの証人は,あなたが彼らといっしょに無料の聖書研究をなさることをお勧めしています。彼らがいだいている希望を学んでください。『わたしは神の存在を信ずる』と言うことのほんとうの意味について,より深い理解を得てください。