第15章
「大患難」を地上で生き残る者たち
1 (イ)全地に破壊的な苦難をもたらすあらしが,この時以前に地を襲わなかったのはなぜですか。(ロ)あらしが抑えられることにより,霊的イスラエル人の残りの者以外にだれが益を受けていますか。
囚人を幽閉するパトモス島における拘禁状態から,クリスチャン使徒ヨハネは霊感の視力をもってはるかかなたに目をやり,最悪の苦難が人類を襲おうとしているのを見ました。それにしても,それはなぜそれ以前に襲わなかったのですか。なぜなら,14万4,000人の霊的イスラエル人がご自分の所有権の印,ひゆ的に言えば,身分証明の証印を額に受けるまで,全能の神はみ使いによってそれを抑えておられるからなのです。破壊的な苦難をもって全地を襲うこのあらしが抑えられている理由は,霊感を受けた使徒ヨハネに予告され,説明が与えられました。(啓示 7:1-8)このあらしが抑えられることにより益を受けているのは,エホバ神との新しい契約に入れられている霊的イスラエル人として証印を押される,残りの者だけではありません。その数が霊的イスラエル人のように定められておらず,また明らかにされていない,証印を押されない群衆にも,現在そして将来にわたり益が及ぶのです。では,証印を押されていないのに,なぜ益を受けるのですか。彼らは一体だれですか。また,間もなく解き放たれるあらしにより致命的な打撃を受けるでしょうか。この点について,ヨハネの見聞きしたことからわたしたちは何を学べますか。
2 (イ)証印を押す業を見た後,ヨハネは今度は何を見ますか。(ロ)彼は大群衆を集める業が行なわれているところを見るのですか。それとも何を見ますか。
2 霊的イスラエル人として証印を押される者の数を聞いた後,そして,地の四隅からすさまじいあらしが解き放たれるのを見る前に,使徒ヨハネはこう述べます。「これらのことののち,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります』」。(啓示 7:9,10)ヨハネがここで見ているのは,集められている最中の「大群衆」ではなく,完成した描画つまり,数は述べられていませんが,完全に集められた「大群衆」です。一人の長老は彼らのことを,大患難から出て来る者,「大患難から出て来た」者と述べています。(啓示 7:14,改標,モ,新英)a 彼らが神のみ座の前と子羊イエス・キリストの前に立っているということは,天にいるという意味でしょうか。
3 『み座の前に立つ』ということは,「大群衆」が天にいなければならないという意味ですか。説明しなさい。
3 いいえ,彼らは地上におり,地にとどまります。全能の神のみ座の前と子羊の前に立つのに,霊の被造物として天に上る必要はありません。それは,人の子が「羊」と「やぎ」を分けるために到来し,栄光の座に着かれる時,その前に集められる「すべての国の民」が,天に上る必要のないのと同じです。―マタイ 25:31,32。
4 「大群衆」は地上にいながら,どのように神のみ座と子羊とを見ますか。彼らは自分が何であると認めますか。
4 レーダーやテレビの存在する時代に住むわたしたちは,全能の神と子羊イエス・キリストがこの「大群衆」を,彼らが地上にいるにもかかわらず,ご自分の前に置き得ることを正しく理解できます。(詩 11:4,5。箴言 15:3。啓示 5:6)さらに,この「大群衆」は信仰の目をもって,宇宙のみ座にすわっておられる神,また天の子羊に目を留めているのです。詩篇 16篇8節は彼らに当てはまります。「われ常にエホバをわが前におけり」。(使徒 2:25)彼らは,唯一の生けるまことの神がおられ,そのかたはすべての者に対する王,また天と地を支配する神であり,そして自分たちはそのかたの地の臣民であることを認めます。さらに,子羊すなわちイエス・キリストをも認めます。それは,神にささげられる,害をなさない,無抵抗の子羊のごとくにほふられたかたです。
5 (イ)「大群衆」の成員は,「白くて長い衣を着」せていただくことに役立つ何をしますか。(ロ)白くて長い衣を着ることにより,彼らは何をする責務を負いますか。
5 彼らは,地上の座や地上の座を占める者に語りかけるのではなく,天のみ座と,そのみ座を占めておられる神,そして,かつて犠牲にされた子羊に向かって語りかけ,こう言います。「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります」。救いが宇宙の支配者から,そして子羊のようなみ子を通して来ることをこのように公に言い表わす彼らは,肉なる者として地上にいるとはいえ,確かに神のみ座の前に立っているのです。地の座を占める者で,この「大群衆」から救いを帰せられるのを聞く者はだれもいません。それを聞くのは,天に座しておられる神だけであり,子羊もそれを聞かれます。大群衆はそれにより,神の目に汚点のない者として映るのです。それを描写するものとして,彼らは「白くて長い衣を着て」いると述べられています。つまり,み座についておられる神と子羊の前で彼らの姿を損なうものは何もないということです。そのためには,人間の法律より神の律法を優先させねばならず,神の律法と地的人間の法律とが相いれない場合には,彼らは子羊イエス・キリストの使徒たちの立場を取り,こう言います。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」― 使徒 5:29。
6 (イ)この大群衆が部族・国家・民族・言語などの相違により分裂しているかどうかに関し,預言は何を示していますか。(ロ)彼らの手にあるやしの枝は何を表わしていますか。
6 だれも数えることのできないこの「大群衆」は,「すべての国民と部族と民と国語の中から」出て来ているとはいえ,部族・国家・民族・言語などの相違により不和を起こすようなことはありません。この世のそうした分裂の種をすべて克服し,一致の立場を取り,統治しておられる神エホバと子羊イエス・キリストが救いの源かつ経路であることを公に言い表わすのです。人間や表象に敬礼して,救いをそれらに帰すことはせず,霊感を受けた詩篇作者と共に,「救いはエホバのものです」と言います。(詩篇 3:8,新,ア標,ヤ)彼らは,救いの神と子羊について歓喜しており,それは「大群衆」の次の描写に示されています。「彼らの手には,やしの枝があった」,そして「大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります』」。(啓示 7:9,10)その手にあるやしの枝は,彼らが殉教の死を遂げたとか,勝利を得たという意味ではなく,神に,また,完全な人間の犠牲として死んでくださった子羊に勝利を帰しているということです。彼らはそのかたたちを救い主として認め,歓呼の声をあげるのです。
7,8 (イ)この幻は使徒ヨハネに何かを思い出させたはずです。それは恐らく何でしたか。(ロ)やしの枝はなぜ神のみ座の前で振るのにふさわしいものでしたか。
7 この幻を見た使徒ヨハネは,西暦33年のニサンの9日に自分の目にした情景を思い出したことでしょう。その日,子羊イエス・キリストは,勝利の行進にも似た仕方でエルサレムに入城されましたが,その時のことをヨハネは自らこう記しています。「次の日,祭りに来ていた大群衆は,イエスがエルサレムに来られることを聞くと,やしの木の枝を取って彼を出迎えに行った。そして,大声でこう叫びはじめたのである。『救いたまえ! エホバの名においてきたる者,イスラエルの王こそ祝福された者!』」。(ヨハネ 12:12,13)さらにヨハネは,第七の太陰月(ティシュリ)の喜ばしい仮庵の祭りのさい,自分の民がやしの葉を用いるよう告げられたことを思い出したことでしょう。(ネヘミヤ 8:14,15)み座についておられるエホバ神の前でやしの枝を振るのは,極めてふさわしい行為でした。なぜなら,賢王ソロモンがエルサレムに建てた神殿の壁には,ケルブとともにやしの木の形が刻まれていたからです。―列王上 6:29-35。
8 ヨハネへの啓示の幻の中で,数の示されていない「大群衆」が,み座に着いておられる神と子羊との前に立ち,大いなる喜びと,救い主であられる両者に対する感謝の象徴としてやしの枝を掲げているのは,極めて適切なこととして映りました。
9 天の軍勢の「アーメン!」という叫びから,「大群衆」はどんな励みを得ることができますか。
9 この20世紀に「大群衆」を構成する者たちは,自分たちが大声で語っている事柄に対し,見えない天の被造物がアーメン! と叫んで支持を与えていることに多くの励みを得ます。「大群衆」の幻の描写に引き続いて,使徒ヨハネはこう付け加えています。「そして,すべての使いたちは,み座と長老たちと四つの生き物の回りに立っていたが,彼らはみ座の前にひれ伏し,神を崇拝して言った,『アーメン! 祝福と栄光と知恵と感謝をささげることと誉れと力と強さが,わたしたちの神にかぎりなく永久にあらんことを』」。(啓示 7:11,12)したがって,これら他の被造物すべても,地上の「大群衆」と同じ神を崇拝するのです。彼らは,このかたに栄光と感謝と誉れをささげ,そのかたがすべての祝福,知恵,力,強さの源なる神であることを言い表わします。神の祝福,知恵,力そして強さなくしては,「大群衆」の救いが子羊イエス・キリストを通してもたらされることはありえません。
彼らはだれで,どこから来るか
10 使徒ヨハネはこの「大群衆」について何を知っていましたか。何を知りませんでしたか。
10 使徒ヨハネは,だれもその数を定めることのできないこの「大群衆」が,額に生ける神の証印を持つ14万4,000人の霊的イスラエル人と同じものではなく,またそれら14万4,000人の霊的イスラエル人の一部でもないことを知っていました。すると,「大群衆」は人類の中の救われる者すべてを描いていたのですか。それとも一体だれを,「大群衆」は表わしているのですか。ヨハネは,先に神の中央のみ座の回りに二十四人の長老がすわっているのを見ましたが,その一人からこの質問をされた時,自分が答えを知らないことを認めねばなりませんでした。(啓示 4:4-6)ヨハネは自分の得た情報をわたしたちと分け合うため,こう記します。
11 ヨハネはどんな質問に答えることができませんでしたか。しかしどんな答えが彼に与えられましたか。
11 「すると,長老のひとりがこれに応じてわたしに言った,『白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか』。それでわたしはすぐ彼に言った,『わたしの主よ,あなたが知っておられます』。すると彼はわたしに言った,『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう』」― 啓示 7:13-17。
12 だれがヨハネのために答えを与えましたか。そのことは何を予表していましたか。
12 二十四人の長老のグループは,来たる千年期に子羊イエス・キリストと共に統治する14万4,000人の霊的イスラエル人との関連で,啓示の中に出て来る幾つかの象徴の一つです。ですから,使徒ヨハネにこの情報を与えた一人の長老は,王国相続者のその会衆の一部を表わしていることになります。1918年11月11日の第一次世界大戦終了以来,地上には王国相続者の残りの者がおり,近年その数は少なくなっています。それに反し「大群衆」の数は増加の一途をたどっています。情報を与えるその長老からヨハネが説明を得たことは,啓示の成就するこの時代に,「大群衆」がだれで,どこから来るかに関する啓発的な情報が,神の見える経路としての油そそがれた残りの者を通して与えられることをたいへん都合よく予表していたのです。
13 長い間待ち望まれていた「大群衆」に関する情報はいつ,またどのように啓示されましたか。
13 事実,1935年,まさにそのとおりの方法で,満足の行く,待望の情報がわたしたちにもたらされました。その年,理事のすべてが油そそがれた残りの者の成員でなければならない,ものみの塔聖書冊子協会は,その公式雑誌(「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」)に,「大群衆」つまり「大いなる群衆」(欽定,ア標,改標)に関する啓示 7章9-17節の最新の説明を発表しました。それは,1935年8月1日および15日号の「ものみの塔」誌に,「大いなる群衆」と題する二部から成る記事として掲載されました。しかし,それよりも8週間前の同年5月31日,金曜日の午後5時から6時30分にわたり,ワシントン市で開かれていたエホバの証人の大会で,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の当時の会長ジョセフ・F・ラザフォードは,「大いなる群衆」という主題で話をし,その同じ情報を大会出席者とラジオの聴衆に提供しました。この大会の話および後に発表された「ものみの塔」の記事において,「大いなる群衆」は天に行くのではなく,楽園の地に永久に住むことが明らかにされました。
14 (イ)「大群衆」は迫害を経験しますか。幻の中で述べられている「大患難」はそのことを指しているのですか。(ロ)「大群衆」が出て来る「大患難」という表現は何を意味していると思われますか。
14 「これは大患難から出て来る者たち」である,と長老がヨハネに告げたことは,彼らが厳しい迫害を経なければならないという意味ですか。その可能性が全然無いとはいえません。啓示の中で「患難」という語は時に,クリスチャン,なかでも,霊によって生み出される油そそがれた者たちから成る会衆のクリスチャンが受ける,迫害や苦しみを指して用いられているからです。(啓示 1:9; 2:9,10)しかし,「大群衆」は「大患難から出て来る」と予告されています。そしてこれは,「大群衆」が油そそがれた残りの者以上に厳しい迫害と苦難を経験し,それゆえに彼らの患難は「大患難」となる,という意味にはとても取れません。「大群衆」は油そそがれた残りの者と共に迫害を受けるかもしれませんが,「大群衆」に臨む迫害を,「大患難」という表現ゆえに別扱いし,誇大に考えてはなりません。では,この表現のもっと合理的な意味として何が考えられますか。それは,地の四隅の「四人の使い」が,地の四方の風を解き放ち,その風が地と海と木に吹きつける時に到来する,例外的な「患難」です。―啓示 7:1-3。
15 (イ)イエスは「大患難」という表現を使われましたが,それはこの表現の適用を理解する上でどのように助けとなりますか。(ロ)啓示 7章14節の「大患難」はどれほど広範に及びますか。
15 主イエス・キリストは,人の目に見えないご自分の再臨と「事物の体制の終結」の「しるし」に関する預言を弟子たちに述べた時,対型的エルサレム(つまり,キリスト教世界)の滅亡に関連して到来する「大患難」について予告し,こう言われました。『その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があります。事実,その日が短くされないとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです』。(マタイ 24:3,21,22,およびマルコ 13:19,20)ここに出て来る「大患難」という表現は,クリスチャンの迫害やクリスチャンとしての苦しみを意味しているのではなく,神の義にかなった裁きの執行,特にキリスト教世界に対する裁きの執行を意味しています。キリスト教世界が,西暦70年の恐ろしい苦難の時に滅ぼされた不忠実なエルサレムによって予影されていたからです。もちろん,「大群衆」の大部分は今までのところ,対型的エルサレムであるキリスト教世界から出て来ていますが,啓示 7章14節に述べられている「大患難」は,なんらかの都市に関連して述べられているものではありません。ゆえにこの「大患難」は,人類の世全体つまり,「地の四隅」に対する神の裁きの執行を意味しています。―啓示 7:1。
16 (イ)「大群衆」は,最終的に地の楽園に住むことになる人類すべてを表わしているわけではありません。何からそれが分かりますか。(ロ)「大患難から出て来る」とは何を意味しますか。「大群衆」を集めることはいつ始まりましたか。
16 白くて長い衣を着た「大群衆」は,この「大患難」から,地に生き残る者として出て来ますが,現在の邪悪な事物の体制とそれを支持する者はすべて滅ぼされます。「大群衆」についてのこの顕著な特色から次のことが確かになります。つまり,大群衆は,最終的な救いにあずかり,地のパラダイスに住む人類すべてを表わすのではない,ということです。というのは,その者たちすべてについて,『大患難から出て来た』とは言えないからです。族長ノアとその家族,つまり全部で八人の魂は,西暦前2370-2369年に全地を覆った大洪水の患難から出て来ました。しかしこの「終わりの時」には,まだその数の知られていない,地に生き残る「大群衆」が,今の事物の体制とその支持者とを滅ぼす「大患難」から出て来ます。(マタイ 24:36-39)「大群衆」の者たちは,「大患難から出て来る」,つまり,それを生き残るのですから,「四方の風」が地に吹きつけて害をもたらさないよう,「地の四隅」の四人の使いがその風を抑えている間に,彼らを集める業は始まったに違いありません。―啓示 7:1-3。
自分の長い衣を洗って白くする
17,18 (イ)「大群衆」を構成する者たちは,汚れた衣を身に着けていたことがあります。どのようにですか。(ロ)「大群衆」はどのような方法では自分の衣を洗いませんか。その衣はどうすることによってのみ白くなりますか。(ハ)地上での命を願う人が臨まねばならない段階はいつ明らかにされましたか。それはどんな段階ですか。
17 西暦1935年以来,そして秘義である「大群衆」の実体が明らかにされて以来,贖う者としてのイエス・キリストの完全な人間の犠牲に対していだいていると主張するキリスト教世界の信仰は,死んだものであることがめいりょうになっています。どのようにですか。その犠牲に対するキリスト教世界の信仰の主張には,業の証明が伴っていないからです。(ヤコブ 2:20-26)その理由で,同世界は「大患難」の期間に保護されません。しかし,白くて長い衣を着た「大群衆」の成員の場合はそうではなく,彼らの信仰は生きており,そのことは長老が彼らについて語った中で描写されています。「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」。(啓示 7:14)それ以前つまり,彼らが罪深い世の人間であった時の,実体を明らかにするその長い衣は,世の汚れと汚点がついており,神のみ前に出るのにふさわしいものではありませんでした。(ヤコブ 1:27)彼らは長い衣を自分の血で,すなわち,残酷な殉教の死で血を流すことによって洗い,それを白くすることはできません。また,将来のある懲らしめとなる「大患難」を経験することにより,衣を洗って白くすることを強要されるのでもありません。ただ「子羊の血」で洗うことによってのみ,衣を汚点の全くない白いものとすることができるのです。どのようにしてですか。
18 彼らは,「血が注ぎ出されないなら,ゆるしはなされない」,また,イエス・キリストが「世の罪を取り去る,神の子羊」であるとの信仰を行動に表わすことにより,自分の衣を洗いました。(ヘブライ 9:22。ヨハネ 1:29,36)どのようにしてですか。神への献身によってです。1934年8月15日号の「ものみの塔」誌(英文),249,250ページに掲載されたところによると,神の新秩序における楽園の地で永遠の命を得ることを願う人にも,エホバ神に対して取り消し得ない献身をし,次いでその献身を水中の完全なバプテスマによって象徴する必要があります。マタイ 28章19,20節のイエスの言葉に従ってそうしないなら,イエス・キリストの弟子になることはできません。
19 献身をした人が天の召しを受けるか,あるいは地上の命を割り当てられるかはだれが決定しますか。受け入れられる唯一の献身はどんな献身ですか。
19 献身し,バプテスマを受けた人が王国への天の召しを受けるか,あるいは,神の建てられる事物の新秩序における地上の命と奉仕に割り当てられるかは,エホバ神が決定されます。そうした献身は,子羊イエス・キリストを通してなされて初めて,そして,彼の流された血の備えにより神が人の罪をゆるすことができ,それゆえに人は神のみ前に受け入れられるのであると信じてのみ,神にささげることができ,また,受け入れられるのです。
20 (イ)「大群衆」の成員はどのようにして自分の長い衣を洗って白くしましたか。どのようにしてそれを白く保ちますか。(ロ)彼らは毎年一度行なわれる主の夕食の祝いに出席しますか。表象物にあずかりますか。(ハ)1968年に行なわれた主の晩さんに関し,表象物にあずかった人とそうでない人との数を比較しなさい。「大群衆」の成員はどちらの側に入っていますか。
20 したがって,血を流された子羊を通して神に無条件の献身をすることにより,現代の「大群衆」となった者たちは,ひゆ的に「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」のです。それゆえに,彼らは白くて長い衣を着,手にやしの枝をもって,み座に着いておられる神の前に立つことができます。彼らは,子羊の血に対する信仰を人びとの前で公に言い表わすことにより,また,自分の罪が子羊の流された血によりゆるしていただけるよう引き続き神にお願いすることにより,その衣を白く保ちます。特に1938年以来,彼らはエホバの証人が毎年一度行なう主の夕食の祝いに出席しています。それは,キリストが西暦33年の過ぎ越しの夜に主の夕食(晩さん)を紹介されたことを記念する日です。彼らはキリストの死を記念するその年ごとの祝いで,油そそがれた残りの者のように表象物にあずかりはしませんが,パン種を加えないパンがイエスの体を,また,赤いぶどう酒がキリストの流された血を意味していることを信じています。1969年,「大群衆」は4月1日午後6時以後に行なわれたキリストの死の記念式に出席しました。b
21 救いのために何を信頼するかに関し,「大群衆」の成員とこの事物の体制の人びととを対比しなさい。
21 秘義の巻き物の第六の封印が神の子羊によって開かれた時,罪の思いにさいなまれ,恐怖におののく,今の事物の体制のこの世的な人びとが,山や岩塊に自分たちを隠してくれと祈願している様子が示されました。何から隠されたいのですか。「み座にすわっておられるかたの顔から,また子羊の憤りから」です。「彼らの憤りの大いなる日が来たからだ。だれが立ちえようか」。(啓示 6:15-17)「大群衆」は,それら世の人びとに加わり,自分たちを隠してくれと,地的要害に願い求めるようなことはしません。彼らは天のみ座にすわっておられる神の顔を求めます。そして「子羊の憤り」を恐れません。有罪であることを自ら示すこの世の人たちが提出する,「だれが立ちえようか」との質問に答えて,「大群衆」の忠実な者たちは,だれがそうし得るかを明らかにします。彼ら自身が立つのです,そうです,神のみ座の前と子羊の前に,「白くて長い衣を着」,『手に,やしの枝』を持って立つのです。そして,山や岩塊にではなく,自分たちの神エホバと子羊イエス・キリストに救いを帰します。
22 (イ)「大群衆」の成員が神の前に立場を得ているのはなぜですか。彼らは何を認識していますか。(ロ)それに対し,神は彼らにどんな務めを割り当てられますか。彼らは霊的イスラエル人との関係においてどんな資格で行動しますか。
22 この「大群衆」は,霊的イスラエル人でないとはいえ,洗って白くされた清い外見のゆえに,啓示 7章9節に描かれているごとく,宇宙のみ座にすわっておられる神の前に立場を取り得る,ふさわしい霊的状態にあります。啓示 7章15節はこう説明しています。彼らは「それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」。彼らは,エホバ神が西暦1914年の異邦人の時の終わりに誕生させた,ご自分のメシアによる王国を通して統治しておられることをはっきり認識しています。それに対し,統治しておられる神は,彼らをイエスの次の預言の成就にあずからせることにより,ご自分の天のみ座から喜んで認められるのです。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)大群衆は,「キリストの代理をする大使」として行動する油そそがれた残りの者と共に,王国を宣べ伝えるこの業において,拡大してゆく分を担っています。(コリント第二 5:20)「大群衆」は,それら王国相続者の監督下にある公使として行動するのです。
神の神殿で神聖な奉仕をささげる
23 (イ)「大群衆」はどんな奉仕を,どこで行ないますか。(ロ)彼らは神の祭司ではありません。どうしてそう言えますか。
23 「大群衆」の成員たちが行なっている業は,神聖な業です。彼らは,「その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」,と述べられています。しかしこれは,彼らを油そそがれた残りの者のように神の祭司とするわけではありません。(ペテロ第一 2:5,9)「大群衆」の者たちに関しては,イエス・キリストが古代フィラデルフィアの会衆に言われたように,神の神殿の柱とされる,とは述べられていません。(啓示 3:12)また,「神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」,とも述べられていません。(啓示 20:6)したがって,「大群衆」の者たちは祭司級ではありません。では,彼らが「その神殿で昼も夜も」神聖な奉仕をささげているのが見られるのは,どういうわけなのですか。
24 「大群衆」が,祭司ではないのに神殿の中で奉仕できるのはどうしてですか。
24 それは,霊的神殿級の成員である油そそがれた残りの者がまだ地上にいるからです。それゆえ,西暦1934-1935年以来,白くて長い衣を着た「大群衆」は,神の神殿のそれら霊的「柱」である,神殿級のこの残りの者たちと直接交渉を保ちつつ,エホバ神に絶えず奉仕をささげているのです。つまり,彼らは神の神殿の中にいますが,その一部ではありません。さらに,彼らは神の崇拝を生活の中で最重要のものとしますが,イエス・キリストが「土台の隅石」を成す霊的神殿を通してしか,神を崇拝することはできません。(エフェソス 2:20-22)それを通して,彼らは神に永久に仕えるのです。
25 神はなぜ,またどのようにしてご自分の天幕を「大群衆」の上に広げられますか。
25 エホバ神は,汚れたこの世の不敬かつ致死的な業を避け,神聖な奉仕をご自分にささげる彼らを保護されます。啓示 7章15節に述べられているとおりです。「み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう」。その上,「大群衆」が「大患難」を生き残った後,彼らおよびその後に復活させられる人類に関し,啓示 21章3節の予告が成就します。「見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み[ギリシャ語,天幕または幕屋を張る],彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らとともにおられるであろう」。こうして,神は今や,ご自分の天幕を「大群衆」の上に広げられるのですから,それは,神が彼らを世話し保護されること,そして彼らが神と親密な交友を持つことを意味します。
「ほかの羊」
26,27 (イ)神が「大群衆」の上にたてられる羊飼いはだれですか。彼らを集めることは何の始まりですか。(ロ)彼らはどのように残りの者と共に一つの群れを成しますか。両者の数はどのように比較されますか。
26 「大群衆」の成員たちが今,『その神殿で昼も夜も神聖な奉仕をささげている』神は,彼らの上に羊飼いをもたてられます。この羊飼いを頂く益は,啓示 7章16,17節に述べられています。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。
27 このように,「大群衆」に属する者たちは羊に,また神の子羊は彼らの羊飼いに例えられています。そしてこれは,明らかにイエス・キリストの予告された集める業の始まりなのです。彼はご自分が,天の召しを受ける14万4,000の羊の囲いを世話する,「りっぱな羊飼い」であることを話した後,その集める業についてこう言われました。「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」。(ヨハネ 10:1-16)「大群衆」の者たちは,「りっぱな羊飼い」によって大患難の前に連れて来られるのですから,「りっぱな羊飼い」が連れて来る贖われた人類の「ほかの羊」の最初の者たちです。それら「ほかの羊」を連れて来る業は,王国相続者の油そそがれた残りの者がまだ地上にいる間に行なわれるので,「ほかの羊」の「大群衆」は今,「ひとりの羊飼い」の下で,残りの者と「一つの群れ」になるのです。こうした統一の結果,地上における象徴的な羊の「一つの群れ」は,人の住む全地で14万4,000人をすでにはるかに超えています。しかしそのすべてが,「ひとりの羊飼い」すなわち,栄光を受けたイエス・キリスト,「神の子羊」の下にあるのです。
28 彼らがもはや飢えることも渇くこともないというのは,どんな意味においてですか。
28 忠実な羊飼いは,羊が十分の食物と水を得られるよう取り計らいます。それと同じく,「ほかの羊」の「大群衆」ももはや,霊的な意味で飢えることも渇くこともありません。彼らは定期的に教えを受け,滋養になる神のことば,聖書の理解を与えられ,また,イエスご自身の場合と同じく,自分にとって食物や飲み物ともいうべき,王国の奉仕つまり,「神聖な奉仕」に豊かにあずかっているのです。―ヨハネ 4:32。
29 彼らの上に照りつけることのない炎熱とは何ですか。彼らがそれから保護されるのはなぜですか。
29 そうした食物や飲み物に加えて,「りっぱな羊飼い」は「ほかの羊」のために十分の日陰を見いだしてくださいます。彼らが恐れねばならないのは,正しいことをするためにもたらされる人の激怒ではなく,神の不興を買うような何かをすることに対して示される,燃えるような神の憤りです。それで,「りっぱな羊飼い」は,彼らに神の是認,祝福,そして心身をさわやかにするものを得させるため,神のご意志を行なうよう教え導きます。彼らは「りっぱな羊飼い」を通して,自分の罪に対する神のゆるしを得,象徴的な白くて長い衣を清く保つことができます。「りっぱな羊飼い」は,大患難の間に照りつける炎熱から,「ほかの羊」を守ってくださるのです。
30 (イ)「大群衆」はどのようにさわやかにされますか。(ロ)象徴的な命の水の泉とは何ですか。
30 「ほかの羊」の「大群衆」には,太陽からの焼けつくような光線や,神の不興からの炎熱の代わりに,自分たちの羊飼いの導きにより,さわやかさがもたらされます。彼らは,致死的な脱水状態や乾燥状態,あるいは致命的な鉱物塩の欠如に苦しむことはありません。「りっぱな羊飼い」は,「命の水の泉に彼らを導かれる」のです。それは,管で運ばれる,化学処理を施された水ではなく,すでにその源から澄んだ,冷たい,健康的な水なのです。それらの象徴的な水は,聖書の真理という意味での水を意味するだけでなく,神の新秩序の地的パラダイスにおける幸福を伴う,永遠かつ完全な人間の命を「大群衆」に得させる,神の備えすべてを意味します。
31 「大群衆」に対する約束を,イザヤ書 49章10節に述べられている,油そそがれた残りの者に対する預言的な約束と比較しなさい。
31 このように,「ほかの羊」の「大群衆」は,「大患難」の前の今,「小さな群れ」の油そそがれた残りの者との交わりを通して,次の予告と同様な状態を享受しています。それは,大いなるバビロンを出て,エホバ神の組織に復帰させられた残りの者たちに関する予告です。「かれらは飢ずかわかず 又やけたる砂もあつき日もうつことなし 彼等をあはれむもの之をみちびきて泉のほとりに和かにみちびき給ふべければなり」― イザヤ 49:10。
32 (イ)神はどのように『彼らの目からすべての涙をぬぐい去られ』ますか。(ロ)彼らが関心を持っている主要な事柄は何ですか。彼らの前にはどんな見込みが置かれていますか。
32 神は,霊的神殿で昼も夜もご自分に神聖な奉仕をささげている,それら「ほかの羊」の増えゆく「大群衆」を愛しておられます。彼らは以前には,宗教上の無知のため,また,唯一の生けるまことの神との関係が悪いものであったため,泣いたかもしれません。しかし今では,神のみ座の前で清められた立場を得,神殿で神に貴い神聖な奉仕をささげているので,もう泣くことはありません。彼らに関する神の約束は成就を見ているのです。「そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。(啓示 7:17)彼らは,子羊イエス・キリストを通して神に負っている救いに歓喜します。しかし,子羊による自分個人の救いより,さらに高いところに目を留めています。悪魔サタンが神として君臨した現在の邪悪な事物の体制を全地から一掃するため,神が「大患難」をもたらされることにより,エホバ神の宇宙主権が立証され,その栄光に満ちたみ名が神聖にされるのを,喜びを抱きつつ待ち望んでいるのです。彼らにとってその大患難を生き残ることは,なんという喜びでしょう。
[脚注]
b 1968年,全世界で行なわれた主の夕食の祝いには合計249万3,519人が出席しました。油そそがれた残りの者のしるしとしてパンとぶどう酒にあずかったのは,そのうちの1万619人だけで,残りの248万2,900人の中に忠実な「大群衆」の成員が含まれていました。