第2部 ― アメリカ合衆国
敵は大いに喜ぶ
それらエホバのクリスチャン証人たちの投獄は,象徴的に言って致命的な打撃でしたから,敵にとっては大きな喜びと安どを与えるものとなりました。啓示 11章10節に出ている次のことばが成就したのです。「また,地に住む者たちは彼らのことで喜びまた楽しみ,互いに贈り物を交すであろう。これらふたりの預言者は地に住む者たちを責め苦に遭わせたからである」。「ふたりの証人」に対する,宗教上,司法上,軍事上および政治上の敵たちは,自分たちを責め苦に遭わせた者たちに勝利を収めるうえでそれぞれ貢献したことを互いに祝い,そのようにして互いに『贈り物を交し』ました。
レイ・H・アブラムズは,自著「説教者が武器を捧げる」の中で,J・F・ラザフォードとその仲間たちの裁判を考察し,次のように述べています。
「事件全体を分析すると,教会と聖職者たちが最初から,ラッセル派を消し去ろうとする動きの背後にいたという結論に達する。……
「20年の刑が宣告されたというニュースが宗教新聞の編集者に届くと,大小を問わずそうした刊行物の文字どおりすべてが,そのことを喜んだ。正統派の宗教雑誌のどれひとつを取っても,その中に同情のことばひとつ見いだせなかった。アプトン・シンクレアはこう結論している。『彼らが「正統派」宗教諸団体の憎しみをかったことが一部理由となって,迫害が……起こったということに疑問の余地はない』。諸教会の結束した努力が失敗したこと,― それら『バアルの預言者たち』を永遠に打ち砕くことを,今度は政府が彼らに代わって成し遂げることに成功したようである」。
『バビロンの捕われ』にもかかわらず楽観的
西暦前607年から537年にかけて,古代バビロンに捕われの身となっていたユダヤ人は不活発になっていました。同様に,エホバの献身した崇拝者でその聖霊を注がれた人々は,第一次世界大戦の行なわれた1914年から1918年の期間中,バビロンの捕われの状態に陥り流刑に処されました。協会本部の8人の忠実な兄弟が,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に監禁された時に,捕われの状態の深刻さは特に感じられました。
しかし,こうした困難な期間全体を通して,「ものみの塔」誌は一号も欠けることなく印刷されました。任命された編集委員会は同誌を発行し続けたのです。さらに,当時難しい事態に直面したにもかかわらず,忠実な聖書研究者が示した態度は模範的でした。T・J・サリバン兄弟は次のように語りました。「わたしは,兄弟たちが監禁されていた1918年の夏の終わりごろにブルックリン・ベテルを訪問する特権にあずかりました。ベテルの仕事を託されていた兄弟たちは,少しも恐れておらず,気落ちしてもいませんでした。事実その反対に,兄弟たちは楽観的で,エホバは最終的にはご自分の民に勝利をもたらされることを確信していました。わたしは月曜日の朝食の席に着き,割当てを受けて週末に派遣された兄弟たちからの報告を聞く特権を得ました。状況がはっきりとつかみ取れました。どの報告でも,兄弟たちは,エホバが自分たちの活動を進める指示を与えてくださるのを待ち,確信を抱いていました」。
興味深いことですが,ラザフォード兄弟とその仲間の裁判が終わってからのある朝,R・H・バーバーは,ペンシルバニア駅に来てほしいとの電話をラザフォード兄弟から受け取りました。兄弟たちは,そこでアトランタへの直通列車を数時間待っていたのです。バーバー兄弟ほか数人の兄弟たちは駅へ急行しました。本部の兄弟たちが警官にあまりにも悩まされるようであれば,ベテルとブルックリン・タバナクルを売り,ものみの塔協会はペンシルバニアの法人なので,フィラデルフィアかハリスバーグもしくはピッツバーグに移るように,とラザフォード兄弟は言いました。ベテルの価格として6万㌦(約1,800万円),タバナクルの価格として2万5,000㌦(約750万円)が提案されました。
事情は結局どうなりましたか。その時協会をまかされていた人々は,実際,多くの問題に直面しました。そのひとつは,紙と石炭の不足でした。愛国主義が高まり,多くの人々は誤りにもエホバのクリスチャン証人たちを国賊と見なしました。ブルックリンでは,協会に対する敵意がはなはだしく,そこで運営を続けることは不可能に見えました。それで,本部の責任に当たっていた管理委員会は他の兄弟たちと相談した結果,ブルックリン・タバナクルを売却してベテル・ホームを閉鎖するのが最善であるという決定が下されました。R・H・バーバーの記憶によれば,タバナクルは結局1万6,000㌦で売却されました。その後,ベテルを政府へ売り渡すための必要な手続きがすべて行なわれ,現金の譲渡だけが残るのみとなりました。ところが,邪魔が入りました。休戦です。売却は完了されませんでした。
しかし,1918年8月26日,協会の本部はニューヨークのブルックリンからペンシルバニア州ピッツバーグに移転し始めました。「当時を振り返ってみると,聖書研究者たちは兄弟たちの投獄にぼう然としてはいましたが,決して証言することをやめませんでした。少しばかり用心深くなっていたようでしたが」と,ヘイゼル・エリクソンは語っています。H・M・S・ディクソン姉妹は回想して,「仲間の人たちの信仰は弱まることなく,集会は定期的に開かれました」と述べました。エホバのクリスチャン証人たちは,神への信仰を表わし続けました。確かに,彼らは,困難な状況と迫害の厳しい試練に遭いました。しかし,神の聖霊はその上にあったのです。忍耐できさえすれば,「神」は,必ずや,彼らを迫害者の手から救い,『バビロンの捕われ』の状態から救出されます。
刑務所での数か月
1918年の半ばまでに,J・F・ラザフォードと7人の仲間は,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に入っていました。A・H・マクミランの,1918年8月30日付の手紙は,刑務所の壁の向こう側の様子を知る手がかりとなります。メルビン・P・サージャントから入手した手紙の写しによれば,一部次のように書かれています。
「刑務所にいるわたしたちの様子についてお聞きになりたいに違いありません。ここの生活について,二,三手短にお知らせしましょう。ウッドワース兄弟とわたしは『監房仲間』です。わたしたちの監房は非常に清潔で,通風も採光も良好です。大きさは,3×1.8×2.1㍍で,わらのふとんがわと二枚のシーツ,毛布,まくらの備わった二つの寝台,いす二脚,ひとつのテーブル,それに清潔なタオルと石けんが十分に備わっています。また,洗面用具をしまっておくキャビネットも付いています。……
「兄弟たちは皆いっしょに被服室で働きます。その部屋は,間口と奥行きが18×12㍍で,風通しもよく,明るいところです。ウッドワース兄弟とわたしは,シャツと囚人服にボタンホールを作ってボタンを付けます。バン・アンバーグ,ロビンソン,フィッシャー,マーチンそしてラザフォード兄弟たちは,囚人用の上着とズボンを作る,むしろはぎ合わせることをします。この部門では全部で100名ぐらいが作業しています。わたしが働いている場所から全部の兄弟が見えます。バン・アンバーグ兄弟が,ミシンでズボンの右と左を縫い合わせているのを見るのは本当に興味深いことです。……ラザフォード兄弟は,上着の組立て方を覚えるのをほとんどあきらめました。兄弟は三週間ぐらい作業していますが,一着も仕上げていないと思います。見ていると,兄弟は忙しそうですが,実のところ,針に糸を通そうと努力してそれに時間の大半をかけているのだと思います。(ひとりの監守が兄弟を非常に理不尽に扱ったので,他の囚人たちがその上着を取って仕上げました。とうとう,ラザフォード兄弟は,彼がもっと『気楽に』感じられる所,つまり図書室に移されました。)……
「夕食が済んで監房に戻ると,わたしたちはまず夕刊を読みます。それから1時間のあいだ,つまり6時から7時までは望むなら手元にある楽器をかなでてもよいことになっています。まったくいろいろなものが聞こえます。彼らはユダヤ琴以外なら既製の楽器はなんでもやれるようです。それでわたしも個人用にユダヤ琴をひとつ入手したいと思っています。なぜなら,十弦のハープ以外でわたしが演奏できるのはそれだけだからです。ウッドワース兄弟が『ダンテの地獄編』と呼んでいるこの演奏の間,わたしたちはドミノで遊びます。その後,黎明か聖書を消灯時間の10時まで読んで寝ます。翌日も同じことを行ない,土曜までそれのくり返しです。土曜日の午後,囚人全員は運動場に出ます。野球があるのです。良いゲームが行なわれるので,みんな強い関心を持っています。わたしはその午後は普通テニスをします。他の兄弟たちは話をしながらあたりをぶらつきます。異なる階層の人々が少人数ずつ集まっています。無政府主義者,社会主義者,にせ金造り,酒類密輸入者,ドイツびいきの人,銀行の出納係,弁護士,薬剤師,医師,列車強盗,夜盗,牧師(その数はかなり多い)などその他さまざま。刑務所の楽団は午後に抜粋曲をいくつか演奏します」。
投獄された8人の聖書研究者には,他の囚人に神の王国の良いたよりを宣べ伝える機会がありました。囚人全員は,日曜日の朝に付属教会堂の礼拝に出席することが求められ,希望者はその後もとどまって日曜学校に出席できました。8人の兄弟たちは,聖書の研究と交わりのために一クラスを作りました。やがて他の囚人もそれに参加し,兄弟たちは交代でクラスを教えました。役人の中にも近寄って耳を傾ける人さえいました。関心は高まり,90名の人が出席するまでになりました。
神の真理の。人を変化させる力は,数名の囚人に強い影響を与えました。一例として,ひとりの人は次のように語りました。「わたしは72歳ですが,真理を聞くために刑務所に入らなければなりませんでした。ですから,刑務所に送られたことを喜んでいます。57年間わたしは牧師に質問してきましたが,満足のゆく答えを得たことがありませんでした。わたしが尋ねる質問すべてに,この人たち(投獄されていた聖書研究者)は得心のいくよう答えてくださいました」。
その頃スペイン風邪が猛威を振るい,そのために日曜学校のクラスは閉鎖されました。しかし,8人の聖書研究者がアトランタ刑務所から釈放される直前に,彼らが教えた人々全員はいっしょに集まり,J・F・ラザフォードはそれら集まった人々に45分ほどの話をしました。数名の役人も出席し,囚人の多くは,王国の支配の下で人類にもたらされる自由の望みに喜びの涙を流しました。聖書研究者が釈放された後には,忠実な人々の小さな群れが刑務所に残っていました。
確信の表明
休戦協定は1918年11月11日に調印され,第一次世界大戦は終結しました。にもかかわらず,8人の聖書研究者は依然投獄されたままで,その間に,仲間の信者たちは,1919年1月2日から5日にかけて,ペンシルバニア州のピッツバーグで大会を開きました。この大会では,ものみの塔聖書冊子協会の非常に重要な年次総会が1919年1月4日,土曜日に組み込まれていました。
J・F・ラザフォードは,この法人集会で,組織内の反対者たちが彼と協会の他の役員を退けて自分たちの選んだ人々をその立場に就けようとすることを知っていました。その当日の,1月4日,土曜日,A・H・マクミランは獄舎の外のコートでテニスをしていました。ラザフォードは彼に近づいて来て,マクミランによれば,次のような会話が交わされました。
「ラザフォードは言いました。『マック,君に話したいことがあります』。
「『どんなことですか』。
「『ピッツバーグで行なわれていることについて話したいのです』。
「『わたしはここでこの試合にけりをつけたいと思っています』。
「『君は,行なわれていることに関心がないのですか。きょうは役員の選挙の日なんですよ。君は無視されて落選し,わたしたち全員は永久にここにいることになるかもしれない』。
「わたしは言いました。『ラザフォード兄弟,おそらく,あなたはこのようなことをお考えになったことがないかもしれませんね。つまり,協会が法人化されて以来,エホバ神がだれを会長として望まれるかが明白にされるのは今回が初めてです』。
「『それはどういう意味ですか』。
「『つまり,ラッセル兄弟は支配的な投票権を持っていて,いろいろな役員を任命しました。今や,引退したかに見えるわたしたちにとって,事情は違います。しかし,もしわたしたちがなんとか間に合うように出所して,大会のその議事集会に出席すれば,そこでわたしたちは当選し,ラッセル兄弟が受けたと同様の栄誉を受け,彼の立場に就くことが認められるでしょう。そうすればこれは神の業ではなく人間の業に見えるかも知れません』。
「ラザフォードはただ考え深げな様子をして,立ち去りました」。
その日はピッツバーグにおける重大な日でした。「議事集会の時間が来ると,緊張が高まりました。反対者のある者たちが出席しているのが見えました。彼らは自分たちの仲間を役員にしようとしていたのです」,とメアリー・ハナンは回顧しています。
ラザフォード兄弟からの手紙が聴衆に読まれました。その中で,彼は全員に愛とあいさつを送り,サタンの主要な武器である誇りと野心と恐れに警戒するよう注意しました。彼は,謙そんにも,協会の他の役員が選ばれるようになった場合に適当と考えられる人々を提案し,神のご意志に従いたいという願いを表わしました。
話し合いがかなり長引いた後,E・D・セクストンがきたんなく次のように述べました。
「わたしは到着したばかりです。汽車は,雪で立ち往生して48時間遅れました。わたしには申し上げたいことがありますが,今それをお話しするほうが気持ちがすっきりすると思います。親愛なる兄弟たち,みなさんもそうであるように,わたしは賛否に対するある考えを持ってここに来ております。法律関係の仕事につかれる友人の皆さんにあらゆるふさわしい敬意を表しつつ,わたしたちは他の数人の法律家にこれまで相談して来ました。彼らは非常に学者的で,時には,意見が異なります。しかし,わたしの申し上げることは,彼らの語ったことと完全に一致するものと信じます。法律上障害となるものは何もありません。もし,わたしたちが,南部にいる兄弟たちを再選し,彼らが保持できる役職につけたいと願うのであれば,わたしから見て,またわたしが受けた助言からしても,それが何らかの形もしくは形式で,連邦裁判所もしくは一般の人々の前で兄弟たちの立場をある点で悪くするとは考えられません。
「わたしたちの敬愛するラザフォード兄弟に対して。わたしたちが表し得る最大の挨拶は,同兄弟を再びものみの塔聖書冊子協会の会長として選出することでありましょう。わたしたちがこの問題に対してどのような立場を取っているかということに関して,一般の人々の間に何らの疑問もないと思います。かりにわたしたちの兄弟たちが,理解していなかった法律を何か専門的な面で破ったとしても,その動機は純粋なものであったということをわたしたちは知っています。その上,全能の神のみ前では兄弟たちは,神の律法も,人間の法律も破ってはいないのであります。もし,わたしたちがラザフォード兄弟を協会の会長として再び選出するなら,わたしたちは最大の確信を表わすことができます。
「わたしは法律家ではありませんが,こと事態の合法性という話になれば,忠節の法律ということは少し知っているつもりです。忠節は神が要求していることです。わたしたちが選挙をしてラザフォード兄弟を再選すること以上に,わたしたちの確信をよりよく表わすことができるものはないと思います」。
指名投票が行なわれ,J・F・ラザフォードが会長に,C・A・ワイズが副会長に,W・E・バン・アンバーグが会計秘書に選ばれました。アンナ・K・ガードナーは,「エホバがご自分の民を導いておられるのを目の当たりにして,その集会の後には大きな満足がありました」と回顧しています。
場面はアトランタ刑務所に変わります。1919年1月5日,日曜日,J・F・ラザフォードはマクミランの監房の壁をたたいて,「手を出してくれませんか」と言い,マクミランに一通の電報を渡します。その内容ですか。ラザフォードが会長に再選されたのです。その日の後刻,ラザフォード兄弟はA・H・マクミランにこう語りました。「わたしはあなたに話したいことがあります。わたしはあなたがきのう言ったことを考えているのです。あなたは,われわれがラッセル兄弟の占めていた地位に置かれること,また,もしわれわれがピッツバーグにいたならば選挙に影響を与えていたこと,主が望む人物を示される機会がなかったことについて話しましたね。兄弟,もしわたしがここを出ることがあれば,神の恵みによって,この人間崇拝を徹底的にたたきつぶしてやります。そればかりでなく,真理の剣を取って,バビロンの内臓を切り出してやります。彼らはわたしたちをここへ入れたけれども,わたしたちは必ず出ます」。ラザフォードはそのことばをたがえませんでした。出所後1942年の初頭に没するまで,彼は邪悪な偽りの宗教を暴露することによってその約束を果たしました。
釈放をとりつける努力
1919年2月,J・F・ラザフォードと監禁された彼の仲間たちを釈放しようとする全国的な運動がいくつかの新聞社を通して始められました。聖書研究者たちは何千通にもおよぶ手紙を書いて,新聞の編集者,下院議員,上院議員そして知事に送り,投獄されている8人のクリスチャンのために手を打つようにとしきりに訴えました。そうした手紙を受け取った人の多くは,釈放することに賛成し,それについて尽力する旨を明らかにしました。
たとえば,下院議員である,ヴァージニア州のE・W・サウンダースは次のような手紙を寄せました。「現在アトランタで監禁されている聖書研究者の事件に関した貴殿の手紙を受け取りました。それらの人々の恩赦に賛成し,その趣旨の推薦に喜んで参与することを申し上げます。彼らは,何か専門的な意味で法律違反を犯したかもしれませんが,普通の意味の犯罪者ではありません。しかし,戦争は今や終わり,わたしたちは,できるだけ速くそれをわたしたちから遠ざけるように努めるべきです」。また,ミズーリ州セント・ルイスの市長ヘンリー・W・キールは,合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンあてに書簡を送り,こう述べました。「すでに請願がなされていますが,わたくし個人としても請願させていただきたく思います。すなわち,国際聖書研究者協会のラザフォード氏とその仲間に,上級裁判所での最終判決を待つ間保釈を許していただき,できれば,それらの件に関して恩赦を与えていただきたく願い上げます」。
1919年3月には,ラザフォード兄弟と仲間たちの釈放を得るための新たな努力が払われました。全国的な嘆願状が回され,短い期間に70万の署名を得ることができました。それは当時最大の署名運動でしたが,ウィルソン大統領もしくは政府に提出されませんでした。そうするまでもなく,8人の聖書研究者は釈放されたからです。しかし,その署名運動は著しい証言となりました。
その署名運動に関連したわざについて,アーサー・L・クラウス姉妹は次のように語っています。「わたしたちがありとあらゆる経験をしたことは言うまでもありません。ある人々は喜んで署名してくださり,わたしたちは証言することができましたが,敵対的な人もいて,『やつらはそこにいて,腐ってしまえばいい』と言うのでした。普通,それは,屈辱的なわざでしたが,わたしたちは,エホバの霊がわたしたちを導いているのを感じました。それで,そのわざを心から楽しみ,最後まで行ない続けたのです」。
刑務所からの釈放
1919年3月2日に,裁判官だったハーランド・B・ハウ連邦地方判事は,首都ワシントンの検事総長グレゴリーに,獄中の聖書研究者8人の刑を「ただちに軽くする」ようにという電報を送りました。グレゴリーはそれよりも先,ハウがこの手を打つようにと勧める電報を打っていたのです。そのようにことを運んだ理由は明らかに,兄弟たちが上訴しており,検事総長もハウも上級裁判所に事件が持ち込まれることを望まなかったからです。(ハウ判事および後ではマントン判事が保釈を拒んだために,8人の兄弟たちは上訴中,投獄されたままでした。)ハウ判事が検事総長にあてた,1919年3月3日付の興味深い書簡を次に掲げます。
「検事総長閣下,
「ワシントン,D.C.
「拝啓,
「本月1日付で閣下から送られた電報の返信として,同日夕刻,次のような電報をお送りしました。
「『ジョセフ・ラザフォード,ウィリアム・E・バン・アンバーグ,ロバート・J・マーチン,フレド・H・ロビンソン,ジョージ・H・フィッシャー,クレイトン・J・ウッドワース,ジヨバンニ・デチェッカ,A・ヒュー・マクミランの刑をただちに軽くするよう勧めます。これら全員は,ニューヨーク東部地域における同一訴訟事件の被告でした。戦争が終わった以上,わたしは寛大な立場を取らねばなりません。この者たちは,その宗教教理を伝道し,出版することにより,多大の被害を与えました』。
「デチェッカを除く被告には,20年という厳しい刑が宣告されました。デチェッカの場合は10年でした。わたしの主要な目的は,他の人々への警告として判例を残すことでした。そのうえ,戦争が終われば大統領は彼らを釈放するだろうとわたしは考えました。電報でもお伝えしましたとおり,彼らは多大の被害をもたらしましたから,すぐに自由にすべきではないと主張されるのも当然ですが,今や彼らはいっそう害を及ぼすことはできませんから,刑を宣告した時の厳しさに匹敵する寛大さを示したいと存じます。また,彼ら全員といわないまでも,その大半は誠実であり,彼らが問題を起こす機会がなくなった以上,そうした人々を監禁しておくことは好みません。この事件は,巡回上告裁判所にはまだ上訴されておりません。
「敬具,
(署名で)ハーランド・B・ハウ
合衆国地方判事」。
1919年3月21日,アメリカ合衆国の最高裁判所の裁判官,ルイス・D・ブランデースは,獄中の8人の兄弟たちの保釈を命じ,同年4月14日に上訴する権利を与えるよう指示しました。兄弟たちはただちに釈放され,3月25日,火曜日に汽車でアトランタ刑務所をたちました。1919年3月26日ブルックリンに戻ると,兄弟たちは各1万㌦の保釈金で連邦当局により次の裁判まで釈放されることになりました。
喜びの帰宅
「8人の釈放の知らせを受けた兄弟たちはたいへん喜び,彼らを迎えるために待機しました」,とルイス・パーシュは思い出しながら,さらにこう続けました。「兄弟たちは,さっそく,ブルックリンのベテル・ホームで大歓迎会の準備をしました。わたしは,父がブルックリンへ行って部屋を整えるのを手伝い,帰って来る兄弟たちを迎える喜びにあずかったのを覚えています」。
それは確かに幸福な時でした。メーブル・ハスレットは次のように書いています。「わたしはドーナツを百個作ったのを覚えています。兄弟たちはそれを楽しんでくださったようでした。……ドーナツに手を伸ばすラザフォード兄弟の姿は今でも目に見えるようです。ラザフォード兄弟や他の兄弟たちが刑務所での経験を話された時の情景は忘れられません。背の低いデチェッカ兄弟が腰掛けの上に立ち,皆に見えるようにして話をしたことも思い出されます」。ギュスト・バッタイノはこんなふうに話してくれました。「チキンのごちそうが用意されました。あまりにも大勢だったので,わたしたちは立って食べなければなりませんでした。それから,兄弟たちの経験を聞いたのですが,全く胸のおどる思いでした。……デチェッカ兄弟はその話の中で,『兄弟たち,問題が大きければ大きいほど祝福も大きいものです』と言いました。確かに,わたしは,エホバが豊かな祝福をご自分の民に注がれるのを見ることができました」。
1919年4月1日には,ピッツバーグのキャサム・ホテルで,釈放された兄弟たちのためのもうひとつの宴が,ものみの塔事務所一同によって開かれました。T・J・サリバンの話によれば,「1919年3月25日,火曜日に兄弟たちがアトランタ連邦刑務所から釈放されたことに対する,エホバの民の喜びはとどまる所を知りませんでした。……兄弟たちがエホバへの専念をいっそう強めたことは,彼らが,1919年のシーダー・ポイント大会を通して,エホバの救出に関する知識を各地のエホバの民にふれ告げるための仕事にただちに着手した事実によって示されました」。
無実が完全に立証される
8人の聖書研究者の上訴審は,1919年4月14日に行なわれることになっていました。その日にニューヨークの連邦第二巡回上告裁判所で審理が行なわれ,1919年5月14日に誤った判決はくつがえされました。その時審理に当たったのは,ワード,ロジャース,マントン各裁判官でした。再審理のために事件を下級裁判所に差し戻すにあたり,ワード裁判官は次の意見を述べました。「この事件の被告たちは当然受くべき適当かつ公平な裁判を受けなかった。よって判決はくつがえされた」。
マーティン・T・マントン裁判官の意見はそれとは異なっていました。1918年7月1日に,このカトリック教徒である裁判官は,何の理由もなく,ラザフォードとその仲間の保釈を拒絶していたのです。そのために彼らは,上訴申請中,9か月も不当に刑務所にいることを余儀なくされました。ついでながら,後ほど,法王ピオ11世は,マントン裁判官を「聖グレゴリー1世の勲爵士」にしました。しかし遂に,マントンが公正でなかったということが明るみに出されました。1939年6月3日,彼は,6つの判決に対して18万6,000㌦のわいろを受け取って,破廉恥にも自身の高い連邦裁判官の権限を誤用したかどで2年間の投獄に加えて1万㌦の罰金という最も重い刑罰を課せられました。
1919年5月14日に,8人の聖書研究者に対する誤った判決がくつがえされたということは,政府が再び起訴しないかぎり,兄弟たちが自由の身であることを意味しました。ところが,戦争は終わっていましたし,有罪と決定することは事実上不可能であることを当局者たちは知っていました。したがって,1920年5月5日に開かれた公判で,政府側の検事は訴追を取下げると宣言し,訴訟は原告の訴訟中止の同意により却下されました。こうして,それら8人のクリスチャン全員は,非合法的な裁判からすっかり解放されたのです。
その判決がくつがえされ,訴訟が却下されたということは,J・F・ラザフォードと7人の仲間が完全に無罪となったという意味でした。ある人々はラザフォード判事のことを「前科者」と言ったことがありますが,それは全く根拠のないことです。1919年5月14日の判決は,彼とその仲間が不法にも有罪とされ,投獄されたことをはっきり確証しました。ラザフォード兄弟が前科者とみなされていなかったということは,後になって彼がアメリカ合衆国の最高裁判所で弁護士を務めた事実によって明らかに証明されています。前科者にはそれはできません。ラザフォードは,不法な投獄を経験してから20年後,1939年の秋に最高裁判所の9人の裁判官の前でシュナイダー対ニュージャージー州の弁論を行ないました。同法廷は,ラザフォードの弁護依頼人でありエホバのクリスチャン証人でもあったクララ・シュナイダーに8対1で無罪の判決を下しました。
1918年と1919年の,頂点とも言うべき期間に,エホバの民は非常な苦難に遭いましたが,神の援助によって忍耐しました。(ローマ 5:3-5)サタンは様々な手段を用いましたが,神を賛美する人々の口を封じることはできませんでした。聖書研究者の1919年の年句はまさに適切であったと言わねばなりません。その聖句は次のとおりです。「すべてなんぢを攻んとてつくられしうつはものは利あることなし……これエホバの僕等のうくる産業なり」― イザヤ 54:17。
新たな見込み
1917年から1919年にわたる苦しい期間が過ぎると,エホバの民は厳しい自己吟味をしました。自分たちが神に是認されない行動を取ったことに気づいた彼らは,以前の行ないを悔い改め,祈りのうちに許しを請い求めたのです。その結果,エホバの許しと祝福がもたらされました。―箴 28:13。
妥協したひとつの点は,「終了した秘義」から数ページを切り取ったことでした。それは,検閲官の立場にある人々を喜ばせるために行なわれました。もうひとつの妥協は,1918年6月1日の「ものみの塔」誌に見られました。それにはこう書かれていたのです。「4月2日付の国会の決議に従い,また,5月11日付のアメリカ合衆国大統領の布告に基づいて,全国の主の民が5月30日を祈りおよび請願の日とするのはいかがでしょうか」。そのあとには,アメリカ合衆国を称揚し,クリスチャンが取るべき中立の立場に反することばが続いていました。―ヨハネ 15:19。ヤコブ 4:4。
第一次世界大戦中,聖書研究者の間に,兵役に対して取るべき立場に関して問題が生じました。ある人々は,いかなる形においても参与することを拒みましたが,非戦闘的な軍務に就いた人々もありました。それに関連して,戦時公債や切手を買うかどうかの問題も起きました。買わなければ迫害を受けたり残酷な仕打ちを受けることさえ時にあったのです。今日のエホバのしもべが国の計画や活動を考慮する際には,イザヤ書 2章2-4節(口)で明示されているような聖書の原則に一致して行動します。その聖句は次のようなことばで結ばれています。「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて,すきとし,そのやりを打ちかえて,かまとし,国は国にむかって,つるぎをあげず,彼らはもはや戦いのことを学ばない」。
新たな見込み。それこそ,1920年代に入ったエホバの民が持っていたものです。彼らは数年にわたって苦しい経験をしましたが,キリストの油そそがれた追随者たち,すなわち象徴的な「ふたりの証人」は霊的に生き返り,活動の用意を整えていたのです。そうした状態を促したものは何でしたか。また,ラザフォード兄弟と7人の仲間が刑務所から釈放された直後の数か月間にどんな事が起きたのでしょうか。
成功した試み
出所したラザフォードの頭の中にはひとつの大きな疑問がありました。それは,王国の音信にどれほどの関心が持たれているかということでした。彼の体は弱っていました。そして,病身の人がおもに自分の健康を気づかうというのは当然考えられることでしょう。しかし,彼はただその重要な質問に対する答えを得なければならなかったのです。
実のところ,アトランタ刑務所に監禁中,ラザフォード兄弟とバン・アンバーグ兄弟がいっしょに生活した監房は換気扇の故障のために通風の悪い所でした。十分な酸素が得られず,ふたりの体には毒でした。事実,ラザフォードは投獄中に肺をいため,その状態は終生つきまといました。釈放後まもなく彼は肺炎にかかり,病状が悪化したために生死も危ぶまれたほどでした。健康のためと,家族がそこにいたため,ラザフォードはカリフォルニアに行きました。
王国の音信に実際どれほどの関心が持たれているかを知る試みとして,ラザフォード兄弟は,1919年5月4日,日曜日に,ロサンゼルスのクルネ講堂で公開集会を開くことを取り決めました。そして,広範な新聞広告を通じて,ものみの塔協会の役員が不法にも有罪を宣告された理由を説明すると約束しました。
土地の牧師たちは,聖書研究者も協会も消滅してしまったから,宣伝された,「苦悩する人類のための希望」と題する講演にはだれも姿を見せないだろうと考えていました。しかし,彼らは間違っていました。三千五百人が出席し,六百人ほどの人々は席がなくて帰らなければならなかったのです。ラザフォードは月曜日の夜に話をすることをそれらの人に約束しました。一日中具合が悪かったにもかかわらず,彼は1,500名の聴衆に向かって講演しました。とはいえ,状態が非常に悪くなったために,1時間ほどしてから付添いの人に代わってもらわねばなりませんでした。それにしても,ロサンゼルスでの試みは成功しました。王国の音信に著しい関心が示されたからです。
「ベテル・ホームは再建される」
それはもうひとつの大きな問題でした。ブルックリン・タバナクルは売却されており,ベテルは依然協会に属していたものの,設備はないも同然の状態で,本部の運営はピッツバーグに移されたからです。フェデラル・ストリートの本部はわざを拡大するうえであまりにも手狭でしたが,ピッツバーグの兄弟たちには資金がありませんでした。印刷設備もなく,本の印刷に用いてきた鉛版さえもその多くは処分されてしまったので,見通しは本当に暗いものでした。
しかし,J・F・ラザフォードがカリフォルニアにいる間に,ピッツバーグの協会本部で興味深いでき事がありました。ある日,相当な財産家のジョージ・バターフィールドというクリスチャンが事務所に入ってきました。A・H・マクミランがその人と談話室で会い,ラザフォード兄弟はカリフォルニアにいると告げたところ,次のような事が起きました。これはマクミラン自身の報告です。
「『ふたりだけで話せる所がありますか』,と彼は言いました。
「『そうですね,このドアを閉めれば,ふたりだけになれます。何のお話ですか,ジョージ』。
「わたしが話していると彼はワイシャツを脱ぎ始めたので,気が狂ったのではないか,とわたしは思いました。ジョージは普段はきちんとして身づくろいの良い人でしたが,うすよごれて旅行に疲れた様子をしていました。彼は下着1枚になると,ナイフを貸して欲しいと言いました。それから,下着に縫い付けた小さな布を切り取ると,札束を取り出したのです。その札束は約1万㌦ありました。
「彼はそれを置くとこう言いました。『ここの仕事を始めるのに,それがお役に立つでしょう。ここにだれがいらっしゃるのかわからなかったので,小切手で送りませんでした。わたしがこれを持っているとにらむ者がいて盗まれるといけないと思ったので,寝台車には乗らず,一晩中起きていました。だれが仕事の責任に当たっておられるのかわかりませんでしたが,信頼できる顔見知りの兄弟たちにお会いしましたから,ここに来てほんとうによかったと思います』……それは愉快な驚きであり,確かに励ましとなりました」。
ラザフォード兄弟は協会のピッツバーグの事務所に戻ると,副会長であるC・A・ワイズに,ブルックリンへ行って,ベテルを再開できるかどうか,また協会が印刷を始められる場所を借りられるかどうか調べてくるように指示しました。その時次のような会話が交わされました。
「ブルックリンに戻ることが主のご意志かどうか,行って見てきてほしいのです」。
「戻ることが主のご意志かどうかをどのようにして決めますか」。
「1918年には石炭を入手するのに失敗して,わたしたちはやむなくブルックリンからピッツバーグへ戻りました。石炭で試みてみましょう。行って石炭を注文してください」。(終戦当時のニューヨークでは石炭がまだ配給制でした。)
「ためしに何㌧の石炭を注文しますか」。
「そうだね,ひとつ大きな試みをしよう。500㌧注文してください」。
ワイズ兄弟はそのとおりの事をしました。そして当局に申請したところ,500㌧の石炭を買う許可がおりたのです。ワイズ兄弟はすぐJ・F・ラザフォードに電報を打ちました。それによって,協会の使う何年分もの石炭が確保されました。しかし,石炭の置き場所が問題です。ベテル・ホームの地下室の大部分が石炭貯蔵庫に変えられました。その試みが成功したことは,ブルックリンへ戻るのが神のご意志であることの間違いのないしるしであると考えられ,1919年10月1日に移転が行なわれました。
喜びの再会
ベテルが再び開かれる少し前,一般のエホバの民は喜びの再会という確かに著しい事がらを経験しました。1919年5月にロサンゼルスで公開講演を行なって成功を収めるとすぐ,ラザフォード兄弟は大規模な大会を開くことを決めました。大会開催地として,オハイオ州のシーダー・ポイントが最終的に選ばれました。1919年9月1日から8日にかけて行なわれたその大会は,いつにもまして霊的に益のある大会となりました。
シーダー・ポイントのホテルは約3,000人を宿泊させることができました。それで,聖書研究者は,大会開会日である9月1日,月曜日正午までにそれらの施設すべてを借切る取決めを設けていました。開会の話の時には1,000人しか集まっていなかったので,やや期待はずれでしたが,人々は特別列車や他の手段を使って続々と集まりました。やがて,宿舎の割当てを待つ意気盛んな出席者の列ができました。宿舎の割当てを渡すカウンターの向こうで働いているのはだれでしたか。それはほかでもない,かつてアトランタ刑務所の同じ監房で生活した。A・H・マクミランとR・J・マーチンのふたりだったのです。さて,向こうを見ると,ラザフォード兄弟ほか多くの兄弟たちがボーイの役を務め,スーツケースを運んだり大会出席者を部屋に案内することに大わらわでした。そのような活気は夜中過ぎまで続きました。
喜びにあふれた代表者たちは続々と集まって来ました。出席者は第1日目の夜の約3,000人から金曜日の6,000人に増加し,日曜日の公開講演にはおよそ7,000人が出席しました。その喜ばしい大会で,200名を越す人々が水のバプテスマを受けて神への献身を象徴しました。
「苦悩する人類のための希望」と題する公開講演について,アーデン・ペイトは,「その公開講演は屋外で,ラザフォード兄弟によって行なわれるように取り決められていました。……それぐらいの少ない人数ではさほど聞きにくいことはありませんでした」と書いています。
なぞの文字,「GA」
シーダー・ポイントに着くとすぐ,非常に好奇心をそそるものが大会出席者の目に入りました。ウルスラ・C・セレンコはその思い出をこう語ります。「わたしたちは,講演者の演台の上方に張りわたされた,『GA』というふたつの大文字のついた大きな旗を目にしました。わたしたち全員は,そのふたつの文字の意味を考えながら一週間のあいだずっと期待していました。マクミラン兄弟はステージに上がり,いつもの口調で,彼も一週間のあいだずっとその『GA』というふたつの文字の意味に頭をひねってきたと聴衆に語りました。そして彼はひとつの結論に達しました。『みなさん,それは結局「ゲス アゲン(もう一度推測しなさい)」という意味だと思います』。聴衆は笑って反応しました」。
大会出席者たちが,つきまとう好奇心から解放されるには,「同労者の日」である9月5日の金曜日まで待たなければなりませんでした。あなたがJ・F・ラザフォードの「王国を宣伝する」と題する講演を聞いたあの幸福な聴衆のひとりであると想像してみてください。その話の中で,彼は「黄金時代」という新しい雑誌の出版を発表したのです。
秘密は明かされました。「GA」という文字は「ゴールデン エージ(黄金時代)」を表わしていました。ラザフォード兄弟の次にプログラムを扱ったのはR・J・マーチンで,彼は「黄金時代」の予約を得るという新しいわざの方法のあらましを説明しました。その32ページの雑誌は一週間おきに発行され,時代のでき事を神の預言の光に当てて説明する宗教的な記事を豊富に掲載することになっていました。1919年10月1日付で発行された第1号は,労働と経済状態,製造業と鉱業,財政や商業および輸送,農業と耕作,科学と発明,そして宗教などを取り上げた記事が載せられており,「死者と話をする?」と題する聖書に基づいた記事も含まれていました。
「黄金時代」の編集者は,ラザフォード兄弟と共に投獄された兄弟のひとり,クレイトン・J・ウッドワースでした。彼の息子,C・ジェイムズ・ウッドワースから興味深い次のような詳細を聞くことができました。「父はわたしたちのために(ペンシルバニア州の)スクラントンに家を建て直してくれました。そして,1919年に『黄金時代』が『ものみの塔』誌の姉妹雑誌として発行されるようになると,協会は父をその編集者に任命しました。時間の大半は実際にブルックリンで過ごさなければなりませんでしたから,協会は親切にも,父が2週間ずつ交代にブルックリンと家で仕事をするように取り決めました。そして,その取決めは何年間も続いたのです。わたしは父がしばしば朝の5時に忙しくタイプライターを打っていたのを覚えています。『黄金時代』の記事を書いて編集すると,父はそれを早朝の郵便でブルックリンへ送りました」。
クレイトン・J・ウッドワースは,「黄金時代」およびその後の「慰め」(1937年10月6日から1946年7月31日まで)の編集者として忠実に奉仕しました。1946年8月22日付で新しく「目ざめよ!」が「慰め」に取って代わった時,彼は老齢のためにその仕事から解放されました。しかし,ウッドワース兄弟は,1951年12月18日に81歳で死ぬまで神の奉仕の他の務めを忠実に果たし続けました。
「わたしたちは,わざを行なおうとしていました」
A・H・マクミランの次のことばどおり,1919年のシーダー・ポイント大会は,宣べ伝えるわざがエホバの民によって世界的な規模で行なわれなければならない,ということをより強く認識させました。「それで,『今やわたしたちには行なうべきことがある』という考えが支配的になり始めました。わたしたちは,もはやその辺で立ち止まって天へ行くのを待つつもりはなく,わざを行なおうとしていました」。
神の民は確かに「わざを行なおうとしていました」。真の崇拝を推進するための積極的な行動が取られたのです。たとえば,1919年には聖書文書頒布者のわざが再開されました。同年春に神の奉仕のこの分野で150名が活発に奉仕していましたが,秋には507名が携わりました。
巡礼者の奉仕も再び行なわれるようになりました。協会の旅行する代表者として全時間奉仕する人々の数は86名に増加し,彼らは,戦時中の迫害で散らされていた人々を集めるために諸会衆へ派遣されました。さらに,神の地上の組織の本部とのこうした密接な交わりを得させることによって人々の関心を高めましたから,真の崇拝の関心事は再び前進して行きました。
野外へ!
1919年8月1日号と15日号の「ものみの塔」誌には,「恐れなき者は祝福される」と題する,二部に分かれた記事が掲載されました。その記事は神の奉仕における忠実で恐れない行動の必要を率直に示していました。エホバの民は恐れない行動へのそうした召しに熱意と勇気を持って答えました。今や自分たちの前に置かれた,王国を宣伝するわざに熱心に取り掛かったのです。霊的に生き返った彼らは,エホバの大使としてエホバへの活発な奉仕をするようになり,こうして,啓示 11章11,12節に描かれている神の「ふたりの証人」の復活の預言が成就しました。
1920年には証言のわざに参加した人々が活動の報告を毎週出すようになったので,宣べ伝えることに対する個人的な責任がいっそう強く感じられました。1918年以前は聖書文書頒布者だけが報告していました。さらに,伝道活動を促進するため,諸会衆に特定の区域が割り当てられました。その結果はどうでしたか。1920年に8,052人の「クラスの同労者」と350人の聖書文書頒布者がいました。1922年までに,アメリカ合衆国の1,200を超える会衆のうち980の会衆は,野外奉仕に携わるための再組織が完全に行なわれていました。それらの会衆には8,801人の働き人が交わり,一般の人々に聖書文書をある金額の寄付で配布しました。そうした働き人は週平均2,250人いました。
「黄金時代」のわざが始まったころ,そのあらましは次のようなものでした。「『黄金時代』のわざは王国の音信を携えて戸別に訪問する運動です。わたしたちは神の報復の日を宣べ伝え,嘆く者を慰めます。この運動のほかに,予約が得られても得られなくても,すべての家に『黄金時代』の1部を配布します。見本は無料で備えられます。……クラスの同労者は指揮者から見本の雑誌をもらいます」。参加を望む会衆は,奉仕組織としてものみの塔協会に登録しました。すると,協会はそれぞれの会衆のひとりを「主事」の務めに任命します。その人は,任命されていましたから,当時の長老のように各地で行なわれる毎年の選挙に拘束されてはいませんでした。
わたしたちも黄金時代のわざにちょっと参加するのはどうでしょうか。エルバ・フィッシャーはそれについてこんな風に話してくれます。「1919年に新しい雑誌『黄金時代』の荷物を初めて受け取りました。……当時,わたしたちはだれも自動車を持っていませんでしたから,夫と実の兄弟のオーディー・ブラッドショウは,ひとり乗りの小さな荷馬車に雑誌を乗せて出かけ,馬と荷車の上から良いたよりを宣べ伝えました。わたしたちみんなは農業で暮らしていましたから,わたしの義理の姉妹は家にいて家畜類と子どもたちの世話をしてくれました。『黄金時代』を各家庭に1冊ずつ置いてくることになっていたので,男の人たちは雑誌の配布に丸二日費やしました。そのようにして宣べ伝えるわざに参加できたので,わたしたちみんなはとても幸福でした」。
フレッド・アンダーソンは,「雑誌の予約を得るために自発奉仕者が募られました」と述べ,こう続けます。「わたしはそれに応じて,活発に証言を行なう真の喜びを初めて味わいました。それ以来わたしは多くの予約を得,現在『目ざめよ!』と呼ばれている雑誌を何百冊も配布してきました。それは,人々を危機的な時代に目ざめさせ,清められた地上での命と平和のすばらしい希望を与える強力な道具としてこれまで用いられてきました」。
「ZG」活動
1920年6月21日,「終了した秘義」の普及版が配布用に印刷されました。それは一般に「ZG」と呼ばれました。(「Z」は「ものみの塔」誌のもとの名称である「シオンのものみの塔」を表わし,「G」は「聖書研究」の第七巻に指定された,英語のアルファベットの第7番目の文字を表わしていました。)「ものみの塔」誌(1918年3月1日号)のこの特別版は同書が発禁になった時に保存されたもので,1冊20㌣で人々に配布できました。
「ZG」のわざをした時のことを回顧して,ビューラー・E・コベイは次のように述べています。「それには1ページ大の教会のさし絵がついていました。そして,片手に鉄砲,もう一方の手に寄付盆を持って通廊を歩いていくふたりの説教者が描かれていました。『ZG』を配布するには,その絵を見せさえすればよかったのです。野外で1日に40冊から50冊配布することはごく普通でした」。
「終了した秘義」のこの雑誌版を使ったわざは良い結果をもたらしました。たとえば,アンニー・ポッゲンシーは次のように書いています。「わたしはひとりの婦人を訪問して『ZG』を配布し,その家を出ました。その配布がどんな結果になるか,わたしはその時つゆ知りませんでした。2,3週間後,1枚のビラが彼女の家の玄関に置いてありました。婦人はそれが同様の事柄であることを認めて,ビラに宣伝されていた講演会に出席しました。さらに,集会にも引き続き出席し,とうとう,夫とふたりの娘も出席するようになりました。まもなく,アンダーソン一家全員が真理に入ったのです」。
「GA」第27号
やがて「黄金時代」第27号が登場しました。「それは1920年9月29日号で,圧迫された期間中に兄弟や姉妹に加えられた迫害や虐待を詳しく載せていました」と,その配布に参加したロイ・E・ヘンドリクスは書いています。アメリア・ロッシュとエリザベツ・ロッシュはこうつけ加えます。「それは,第一次世界大戦中,キリスト教世界の宗教指導者と彼らの政治的軍事的同盟者たちによって国際聖書研究者に加えられた数々の不敬虔な迫害を暴露しました。……会衆の中で9名の人はこのわざに参加することを拒否して,それをしないようにという嘆願状に署名しました。その人たちは『忠実で思慮深い奴隷』に対する信仰に欠けていたのです。そのため,わたしたちは,信仰を保っていた他の3人といっしょに,わずか2週間で2万5,000冊を配布しました。その運動が終わった時には,わたしたちは疲れていましたが,神のみことばの光によって忠実に歩んでいることを知って幸福でした」。
「黄金時代」第27号は400万部印刷され,無料で与えられるか,1冊10㌣の自発的な寄付で配布されました。原則として配布は戸別に行なわれました。
海外でのわざ
聖書文書の需要は増加の一途をたどりました。たとえば,1920年1月1日にものみの塔の出版物に対する検閲が解除されたカナダの場合がそうでした。同国における迫害は,神の民を奮い立たせ,いっそう熱心に宣べ伝えて真の崇拝を推し進めさせたようでした。
1920年8月12日に,J・F・ラザフォードと2,3人の同行者はヨーロッパに向け船で出発しました。大会は,ロンドン,グラスゴーおよび他の英国諸都市で開かれました。ラザフォードは他の数名の人々と共にエジプトとパレスチナへ旅行しました。また,いくつかの事務所と聖書クラスを訪問して霊的に強めました。協会の支部事務所がラマラーに設立されました。さらに,年度末の報告の中でラザフォード兄弟は,協会が,スイス,フランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,オーストリアおよびイタリアにおける伝道活動を監督する,中部ヨーロッパ事務所を設立中であることを発表しました。
「万民運動」
その頃弟子を作るわざに貢献した新しい伝道活動は,「万民運動」でした。それは,「現存する万民は決して死することなし」と題する128ページの本を1冊25㌣の寄付で配布することを特色としていました。この本は1920年9月25日に始まった公開講演計画と関連して用いられたもので,1918年2月24日にロサンゼルスでJ・F・ラザフォードが行なった講演(もとの題名は「世の終わりは近し ― 現存する万民は決して死することなし」)に基づいており,1920年に書籍の形で出版されました。
レスター・L・ローパーは次のように回顧しています。「それから,わたしが,『人々のために合図の旗を立てよ。現存する万民は決して死することなし』という公開講演をする番が来ました。わたしは一般の人々の前で話をすることに慣れていましたが,その時は別でした。いつか床が上がって来てわたしの顔を打つのではないかと感じました。そして,当時,真理にいる人々は全世界でほんのわずかでしたから,『現存する万民は決して死することなし』と人々に言うのはよほどの勇気のいることだと思いました」。
「現存する万民は決して死することなし」はやがて各種の言語に翻訳出版されました。「牧羊のわざ」の時には人々に書籍を貸しましたが,「万民」の本は寄付と引き換えに配布され,関心を示した人々は,後日,「聖書研究」数巻を入手できました。「万民運動」はしばらくの間続き,この方法を通して大々的な証言が行なわれました。人々の注意を向けさせるために,「現存する万民は決して死することなし」ということばを新聞の告知欄に掲載したり掲示板に掲げたりしました。その運動は非常に大規模に行なわれたため。スローガンは何年間も人々の記憶に残っていました。
「万民運動」の思い出をルフス・チャペルは次のように書いています。「わたしたちは,(イリノイ州の)ザイオンおよびその周辺で『現存する万民は決して死することなし』という出版物を提供しましたが,その結果は興味深いものでした。わたしは,ザイオンから約5マイル(8㌔)の北シェリダン道路に建っていたワウケガン・クリーニング店の上方に,『当店は,決して死する(英語でダイ)ことのない現存する万民の方々のためにお染め(英語でダイ)します』という大きなネオンサインがあったのを覚えています。それは,当時非常によく知られた主題で,多くの人々がそれについて質問し,その出版物から真理を学びました」。
新しい書籍は進歩を促す
「聖書研究」は,長年にわたり聖書研究者によって読まれ,広く配布されました。しかし,1921年に新しい本すなわちJ・F・ラザフォードによって書かれた「神の立琴」が出版され,配布部数は22の言語で581万9,037冊に上りました。カリー・グリーンは「『神の立琴』が出た時それはほんとうに祝福となり,わたしたちの祈りの答えでもありました」,と述べ,「それは,真理,真理全体を簡明平易にし,異なる主題の全部が『立琴の糸』になぞらえられていました」と続けます。
その本は,「神の立琴,つまり聖書の十の絃」にそって。エホバの目的を略述していました。その『十の絃』,すなわち見出しは次のとおりです。創造,神の義の表明,アブラハム契約,イエスの誕生,復活,奥義の解明,主の再臨,教会の栄化,復興。またそれは初心者向けの本でしたから,個人研究やクラスの研究のために質問が設けられていました。聖書研究者は戸別に奉仕してこの出版物を提供すると共に,通信教育課程を終了することも勤めました。この課程には12枚の質問のカードが用意され,それが1週間に1枚ずつ郵送されました。ひとつの会衆は,平均してこの課程のために毎週400枚から500枚のカードを取り扱ったようです。この課程は長年の間続けられ,大きな益をもたらしました。ヘイゼル・バーフォードはこう語っています。「関心のある人々の家で今日の家庭聖書研究に似た研究も行なわれていました。ただし,今の会衆の書籍研究のように伝道者が全員それに出席していたものですが」。
宣べ伝えるわざを促進する施設
第一次世界大戦の翌年,ものみの塔協会はいくらかの印刷をするために大きな輪転機を1台購入したいと考えました。アメリカには2,3台しかなく,それらは皆フル回転していましたから,当然,何か月もの間購入する機会はありませんでした。しかし,エホバの手は短くありません。1920年に本部の働き人たちによって据え付けられた大きな輪転機が動くようになったのです。「古い戦艦」という愛称で呼ばれたこの機械は,長年にわたって,何百万冊もの雑誌や冊子その他の出版物を生産しました。
「古い戦艦」を入手すると同時に,協会は,ブルックリンのマート街35番に工場を借りました。W・L・ペレとW・W・ケスラーは1920年1月22日にベテルに着くとすぐ,その建物で働く割当てを受けました。ペレ兄弟は次のように話してくれました。「最初の仕事はマートル街35番の1階の壁を洗うことでした。それはわたしがそれまでに経験した最もきたない仕事でしたが,普通とは違っていました。わたしたちは幸福だったのです。それは主のわざでしたから骨折りがいがありました。掃除が完了するのにおよそ3日かかりました。それから,郵送部門の仕事が始められるようになりました。地下室に輪転機(「戦艦」)が組み立てられ,2階には平版印刷機,折りたたみ機,中とじ機が据え付けられました」。
ほどなくして,そうした設備が始動しました。ペレ兄弟はさらにこう語っています。「機械工と印刷工の経験のあるふたりの兄弟が平版印刷機を,ケスラー兄弟が折りたたみ機を,わたしが中とじ機をそれぞれ操作しました。こうして,『ものみの塔』の1920年2月1日号の一冊目が自分たちの印刷機から生まれたのです。それは実に胸の躍る一瞬,喜びの時でした。その後まもなく,『黄金時代』第27号が地下室の『戦艦』印刷機から出て来ました。小さな出発でしたが,確かにとどまることなく成長し続けて来ました」。
宣べ伝えるわざは拡大し続けました。1922年までに文書に対する需要は非常に大きくなっていました。そこで,1922年3月1日現在をもって,協会は工場をブルックリンのコンコード通り18番にある6階の建物に移しました。最初は4階までを使用していましたが,ついには6階全部を使いました。協会はその工場で初めて自分たちの製本された本を印刷しました。マートル街の建物は紙と文書の倉庫にされました。
マートル街からコンコード通りへ移転する際のひとつの大仕事は「古い戦艦」を移すことでした。それがどのように行なわれたかを,ロイド・バーチはかつて次のように語りました。
「1922年3月1日,わたしたちは印刷設備をマートル街からブルックリンのコンコード通り18番にあるもっと大きな建物へ移しました。小さなトラックを使って重い物の大部分を運びました。『戦艦』印刷機の大きないくつかの版胴を運ぶ段となりましたが,そのトラックには重すぎました。それらを新しい建物へどのようにして運んだらよいかわからなかったので,わたしたちは途方に暮れました。ところが,翌朝起きると,その問題は解決されたのです。
「意外なことに,夜の間に雪が2インチ(約5㌢)積り,問題を解決してくれたのです。わたしたちは滑材を作り,版胴をころがしてその上に乗せました。それからトラックを滑材に連結し,それを新しい場所まで引いて行きました。滑材は雪の上をなめらかにすべりました。版胴はコンコード通りにある地下室の窓からおろされました。その後何年もの間,工場の監督R・J・マーチンは大会で兄弟たちに不意の雪のために移転の問題が解決された話を好んでしました」。
まもなく「古い戦艦」はコンコード通りの工場で再び回転し始めました。そのために,その古い建物はずいぶん振動しました。それで工場の監督マーチンは,「天使たちがこの建物を支えてくれている」とよく言っていたということです。
エホバの助けによってのみ
「わずかな人々,または全く経験のない人々が輪転機で書籍類を印刷することに成功したのは,エホバの監督とその霊の導きがあった証拠です」,とチャールズ・J・フェケルは語りました。彼は1921年以来ベテル奉仕を続けています。半世紀にわたって協会本部の発展にあずかって来たフェケル兄弟は,こう言明しています。「それぞれの仕事を果たす人々は,仕事を重複して行なったり,無駄な努力をすることは決してありませんでした。前もって計画された膨大な仕事は,サタンの反対にもかかわらず,予定通り完了しました」。
協会が工場をブルックリンのコンコード通り18番に移した1922年に,植字,電気メッキ,印刷および縫いとじの機械一式 ― その大部分は新品だった ― が購入されました。それまで協会の印刷の仕事の大半を行なっていたある著名な印刷会社の社長は,その設備を見て次のように言いました。「あなたがたは一級の印刷設備を持っておられますが,その扱い方を知っている人はここにひとりもおられないようですな。半年もたたないうちに,この全部はくず同然になってしまうでしょう。そして,あなた方のために印刷をしていた人々が,やはり仕事に慣れているし,うまくやれることが分かるでしょう」。
確かに山ほどの問題がありました。しかし,兄弟たちは,神の助けを得て,すばらしい進歩を遂げたのです。たとえば注目すべき次のような事実があります。それほど前のことではありませんが,ドイツからの専門の技士と数人の援助者は協会が購入した大きな輪転機の据え付けに2か月かかりました。それから2年を経ずして,大きさも型も同一の輪転機が,ベテルのひとりの兄弟と数名の援助者により,わずか3週間で本部に据え付けられたのです。
協会の本部の兄弟たちは精魂を傾けました。彼らは学んだのです。そして,ほどなくして良い本を作るようになっていました。最初は1日に2,000冊を製本できただけですが,1927年までには,1日に1万冊から1万2,000冊を生産していました。
再びシーダー・ポイントへ
協会がニューヨークのブルックリンにあるコンコード通りの印刷工場の操業を始めて間もなく,神の民は1922年9月5日から13日にかけて国際大会に参集しました。開催地はオハイオ州シーダー・ポイントで,1919年に聖書研究者が総会を開いた所です。その3年間には成長が見られました。1922年の大会には,アメリカ合衆国,カナダおよびヨーロッパの代表者が集まりました。一日の平均出席者数は1万人で,日曜日には1万8,000人から2万人が出席しました。バプテスマを受けた人々は361名でした。英語と外国語の集会が同時に開かれ,一度に11の集会が行なわれました。
シーダー・ポイントに行って霊的に報いの多い大会に出席してみることにしましょう。大きな旗や,立ち木につけた小さな木製のサイン,柱や他の場所の白いカードに注目してください。それら全部には「ADV」の文字が書いてあります。それは何を意味しているのですか。油そそがれた残りの者たちは依然として天へ「帰還」することに大きな関心がありましたから,ある人は,その文字は「After Death Victory(死後の勝利)」を表わしているのだと言います。「Advise the Devil to Vacate(悪魔に退くよう忠告する)」という意味であると考える人々もいます。
「重大な日」と言われていた9月8日の金曜日まで,そのなぞは解けませんでした。その日,ラザフォード判事は「王国」に関する話をしました。T・J・サリバンはこう語りました。「その集会に出席する特権のあった人々は,炎熱のためあたりをうろうろしていた数人の落ち着かない人々に向かって,『座って』ぜひとも話を『聞きなさい』,と言った時のラザフォード兄弟の真剣な様子を今でもありありと思い浮べることができます」。ラザフォード兄弟はとりわけ,1914年に異邦人の時が終わったことについて語り,連邦教会会議が冒涜的にも国際連盟をたたえて「地上における神の王国の政治的表現」と述べたことばを引用しました。ラザフォードがその講演の劇的な結論の部分に入って行く時,読者自身も聴衆のひとりになっていると想像してください。そして,彼の次のことばにじっと聞き入ることにしましょう。
「……1914年以来,栄光の王はその力を執って統治しておられます。彼は神殿級の口びるを清め,彼らに音信を携えさせて遣わしておられます。王国の音信の重要性はどれほど強調してもし過ぎではありません。それは音信の中の音信です。また,現代の音信であり,それを宣明するのは主に属する人々の義務です。天の王国は近づいています。王は統治しておられ,サタンの帝国は倒れようとしています。現存する万民は決して死ぬことはありません。
「あなたはそれを信じますか。……
「では,至高の神の子であるみなさん,野外に戻りなさい。武具を身につけなさい。心をひきしめ,警戒をはらい,活動的で,しかも勇敢でありなさい。主の忠実な真の証人でありなさい。バビロンが跡かたもなく荒廃するまで戦いに前進しなさい。音信を遠く広く述べ伝えなさい。世界は,エホバが神であり,イエス・キリストが王の王,主の主であることを知らねばなりません。今日こそ,あらゆる時代のうちで最も重大な日です。ご覧なさい,王は統治しておられます! あなたがたは王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」。
それと同時に演壇の上方の三色に塗られた長さ10㍍余の旗が広げられました。それには中央に大きなキリストの絵が描かれ,「王と王国を宣伝しなさい!」という標語が書かれていました。今や明らかになりました。なぞの文字,「ADV」は,「ADVERTIZE(宣伝しなさい)」ということを意味しています。何を宣伝するかは明らかです。「王と王国を宣伝」するのです。「兄弟たちの感激と喜びと興奮をご想像いただけると思います。そうした経験は,兄弟たちにとって生まれて初めてのことでした。それはわたしの思いと心に焼き付いています。終生忘れることはないでしょう」,とジョージ・D・ギャンギャスは感動的に語ります。当時16歳の少年で,大会のオーケストラに加わっていた,C・ジェイムズ・ウッドワースは次のように思い出を語ります。「それは劇的な瞬間でした。聴衆からはなんという拍手がわき起こったことでしょう。ファンネベッカー兄弟は頭上でバイオリンを振りながらわたしの方を向き,大声で,『いや,すごいね。そして今ぼくたちはそれをするんだ,そうだろう』,と言いました」。
王国を宣伝するよう動かされる
そして彼らはそれを実行しました。実際,神のしもべはそれ以来ずっと行なってきました。王と王国を大胆に宣伝してきたのです。シーダー・ポイントを去った聖書研究者は霊に燃え,前途にある宣べ伝えるわざに対して燃えるような熱意を抱いていました。「家に帰って宣伝しよう,とはやる気持ちをことばで言い表わすことはできません」,とオラ・ヘッツェルは断言します。ジェイムズ・W・ベンネコフ姉妹はこうつけ加えています。「わたしたちは,王と王国を宣伝し,宣伝し,宣伝するように,そうです,かつてないほど強い熱意と愛を心に抱いてそれを行なうように奮い立たされました」。
その点では,大会出席者たちはシーダー・ポイントを立ち去る前に王国を宣伝する機会が与えられました。1922年9月11日,月曜日は,「奉仕の日」になっていました。数百台の自動車が使われ,1台に5人かそれ以上が乗り,聖書文書を十分に積んで野外で王と王国を宣伝する万全の用意を整えていました。ドワイト・T・ケンヨンは次のように語っています。「わたしの,『奉仕者への指示』のカードは144番でした。そのカードには『自動車は午前6時30分にラジエターの番号に従って(シーダー・ポイントの)湖岸沿いに並びます。迅速に行動してください。あなたの自動車番号は215で,奉仕者番号は5です,……』。わたしのグループは7人でした。わたしたちはふたりの聖書文書頒布者が運転するトレーラーで出かけました。割り当てられたのは,数㌔離れたオハイオ州のミランでした。わたしは,ラザフォード兄弟が朝早く集合場所に来て,わたしたちを見送ってくださったのを覚えています」。
確かに,J・F・ラザフォードは『その人々を見送る』ためにそこに来ていました。しかし,それ以上のことがありました。「ラザフォード兄弟はその朝出発した最初の車に乗っていました」,とサラ・C・ケリンは言います。ジョン・フェントン・ミキーはこうつけ加えます。「ラザフォード兄弟は最初の車に乗りました。彼はわたしと妻,妻の妹のクララ・メイヤーズ,それにリチャード・ジョンソンとその妻に同乗するよう勧めてくださいました。わたしは幼い娘が病気だったので行けませんでした。……さて,最初の車の区域はシーダー・ポイントとオハイオ州のサンダスキを走る道でした。ラザフォード兄弟が一軒目の家に入り,クララ・メイヤーズが次の家にという具合にして奉仕を終え,大会場へ戻りました」。
より大きな王国奉仕への召しに答え応じる
エホバのしもべたちは何年間かにわたり戸別訪問による伝道をある程度行なっていました。しかし,今や,そのわざは速度を速められました。1922年の10月が過ぎると,「会報」という月ごとに発行される奉仕の指示書に載せられた情報を通して,戸別訪問による伝道は大いに促進されたのです。
聖書研究者の集会は引き続き豊かな霊的食物を供給しました。1922年にグループで行なう「ものみの塔」研究が始めて組織されました。研究の助けとして質問が印刷されました。クリスチャンの集会も,野外奉仕にますます重点が置かれるにつれて変化していきました。特に影響があったのは,週中の祈りと賛美と証言の集会でした。長い間,その集会は,賛美の歌をうたい,証言を行ない,祈りをささげる機会となっていました。しかし,1920年の初めに,戸別訪問による王国の宣明に関連して変化が生じました。そのことに関して,ジェイムズ・ガードナーは次のように書いています。「1923年5月1日に重大な前進が始まりました。毎月の第一火曜日は奉仕の日と決められ,クラスの奉仕者は,協会によって任命された『主事』と共に野外奉仕に携わることができました。このわざを鼓舞し,兄弟たちをいっそう励ますために,その時以後,毎週水曜日の夜に開かれていた会衆の祈りの集会はプログラムの半分が野外での経験の話に当てられることになりました」。T・H・シェベンリストはさらにこう語ります。「後に水曜日の夜の集会で,『会報』という,協会の野外奉仕の印刷物を考慮することが行なわれました。こうして野外奉仕が強調されるようになると,オクラホマ州のシャタックの会(会衆)は伝道に忙しく携わり,『会報』に載せられたキャンバス(証言)を暗記しました」。
やはり1923年のことですが,協会は,一年に数回の日曜日を「世界的な証言」の日と決めるようになりました。その日には,一致した努力を払って世界中で同時に公開集会を開くようにしました。聖書研究者はみな,「サタンの帝国は倒壊しつつあり ― 現存する万民は決して死することなし」というようないくつかの講演を宣伝するように励まされました。
1927年の初めごろ,アメリカでは戸別に訪問して寄付と引き換えに本や冊子を配布するわざが毎週日曜日に行なわれ始めました。以下は,ジェイムズ・ガードナーの話です。「ある人々は,世の中の人はわたしたちに反対しているから,どういうことになるだろうかといぶかっていました。確かに,所によって,そのわざは迫害の波を立てました。しかし,それは『忠実で思慮深い奴隷』からの召しでしたから,ちゅうちょする理由があるでしょうか。わたしたちは喜び勇んで出かけました。ある人々は,『日曜日に本を持って来る』などと不平を言っていましたが,エホバが世界中の民を導いておられることはまもなくわかりました。今でも日曜日は出かけるのに良い日ですから,わたしたちは引き続きそうしています」。
戸口で
王国を宣伝する人々と共に,昔の戸別訪問による伝道のわざに参加したいと思われる方がおられるかもしれません。マートル・ストレインはそのわざをこう説明しています。「たいてい本の内容を説明し,販売技術も駆使しました。でも,わたしたちはしばしば家に招じ入れられました。それで,家の人が関心を示した時には,アダムの失敗から始まって人間の回復に至る神の目的の全容を簡単に説明したものです。1軒の家で1時間かそのぐらい掛かることも時にありました」。
マーサ・ホームズは次のように話しています。「エホバの民と交わった昔の時代には忘れられない思い出がたくさんあります。わたしは,わたしたち5人の小さなグループがアイオア州デ・モアンの区域のあらかたの町で奉仕した時のことを覚えています。時々日の出前に出発して暗くなるまでとどまりました。当時わたしたちの自動車には,ハード・トップやパワー・ブレーキ,パワー・ステアリングや冷暖房装置がついていませんでした。また,たいてい舗装されていない道を走らねばなりませんでした。泥にはまり,再び動かすために車輪の下に板を数枚押し込まなければならないこともしばしばでした。わたしたちの自動車の左右の窓には,雨や雪の時に使う,ボタンで止めるカーテンがついていました。わたしたちは弁当箱を持って行き,寒い自動車の中で食べました。ある日,デ・モアンから約30マイル(約48㌔)の所にあるアイオア州のニュートンで数時間奉仕した時。ひどいあらしが来ました。強い風が吹いて。車を道路に沿って走らせるのがたいへんでした。おまけに,ズック製の屋根があおられて風でばたばた動いていました。わたしたちはついに無事デ・モアンに戻りましたが,みんなずぶぬれでした。見ていた人たちは,『なんて気違いじみた人たちだろう』と思ったに違いありません」。
しかし,彼らの努力はしばしば報われてすばらしい結果を生みました。たとえば,ジュリア・ウィルコックスは1920年代のある日のことを覚えています。その時彼女は王国を宣伝する奉仕者になったばかりで,ノースカロライナ州のワシントンにおいてひとりで戸別に奉仕していました。そして,「死者と話す」と題する協会の小冊子に大きな関心を示したひとりの婦人に会い,数冊の文書を提供しました。以下はウィルコックス姉妹の話です。
「わたしはその婦人にひまを取らせては悪いと思い,帰ろうとしましたが,彼女はわたしを引き留めてこんな話をしました。
「『わたしは,主があなたをきょうここへ遣わされたのだと思います。わたしたちの祈りの答えとして,あなたが来てくださったのです。母とわたしは,神がわたしたちを光に導いてくださるよう祈って参りました。わたしたちはこれまでずっとメソジスト教会の会員でしたが,そこでは何も得られないので,最近は教会へ行くのをやめてしまいました。聞くことといえば,寄付金の催促ばかりです。先日,母はある雑誌で神に直接話せる方法を書いた『心霊術』の本の広告を見ました。母は,その本を注文してどんなことが書いてあるか調べてみようとわたしに言いました。さて,わたしはその本を注文する手紙を書いたのですが,どういうわけか投かんするのを忘れてしまいました。(その手紙はついに投かんされませんでした。)それで,まずあなたから求めたこの本を読もうと思います。母も今度わたしの家に泊まりに来た時に読むことでしょう。また近いうちにわたしたちの家に来てくださるよう約束していただけませんか』。
「わたしが約束したのはいうまでもありません。それは,わたしの最初の再訪問となるはずでした。当時,再訪問をすることは強く勧められていませんでした。区域を網らして文書を配布することが強調されていたのです。ともかく,わたしが約束どおり訪問すると,お母さんがおられました。ふたりは最初に訪問した時にわたしが配布した文書を『むさぼる』ように読んでいて,別の書籍を読みたいと言いました。その時以来,ふたりは協会から出版される文書をすべて求めました。……わたしが初めて再訪問をした(ソフィア・)カーティ姉妹が1963年に亡くなるまで忠実に奉仕し集会に出席したことをお伝えできるのは,わたしにとって大きな喜びです」。
七人の使いはラッパを吹く
1920年代にエホバのしもべは王と王国を宣伝することに忙しく携わり,良い成果を得ました。その上,神の民は当時こそ理解してはいませんでしたが,啓示の預言の感動的な成就にあずかっていました。七人の使いの吹奏者がラッパを吹くたびに,真のクリスチャンは地上の劇的なでき事で役割を演じたのです。そして彼らは今日に至るまで引き続きそれにあずかっています。―啓示 8:1–9:21; 11:15-19。
第一の使いがラッパを吹いた時以来,キリスト教世界は聖書の真理に基づく強烈な暴露を象徴する破壊的なひょうを浴びせられています。(啓示 8:7)それが始まったのは1922年9月に開かれた聖書研究者のシーダー・ポイント大会の時で,神の民は「挑戦」と題する決議文を熱烈に採択しました。その決議文は,大胆にも,僧職者たちが戦争に参与し,その後は国際連盟がメシアの王国の政治的表現であると主張することによってその王国を拒絶し,神に対して不忠節になっていることを暴露しました。同年10月,裏付けとなる記事と共に決議文4,500万部が全世界で配布され始めました。以来,キリスト教世界(カトリックとプロテスタントの僧職者およびその教会員)は,イエス・キリストの真の追随者であると偽って主張していることが暴露されています。
ラッパを吹く第二の使いに導かれ,聖書研究者は1923年の8月18日から26日にかけてカリフォルニア州のロサンゼルスで地区大会を開きました。その際,彼らは「警告」と題する決議を圧倒的に採択しました。それは,キリスト教世界の僧職者が王国の音信の宣明を支援していないことを暴露し,「国家的また個人的やまいをいやす唯一のもの」として,僧職者が支持する国際連盟ではなく神の王国に頼るよう,羊のような人々に訴えました。僧職者がそうしたことを怠ったのがおもな原因となって,不安定な「海」として描かれている急進的革命分子が台頭したのです。しかし,人間の体から注ぎ出された血が命を与え得ないのと同様,それら急進的な分子も人類に命を与えることができません。1923年12月に,大会の決議を載せた,「宣明 ― すべてのクリスチャンに対する警告」と題する小冊子の印刷が始まりました。海外で何百万部も発行されたほか,アメリカでも1,347万8,400部が印刷されました。その「宣明」の大々的な配布はことの始まりに過ぎませんでした。今日まで,イエスの油そそがれた追随者は神の王国を擁護する数多くの宣明を行なってきたからです。―啓示 8:8,9。
第三の使いがラッパを吹いた時,水の三分の一がにがよもぎに変わりました。(啓示 8:10,11)意義深いこととして,1924年7月20日から27日にかけてオハイオ州コロンバスで開かれた聖書研究者の大会で,神の民は「告発」という決議を熱意をもって採択しました。それは,キリスト教世界の背教した僧職者によって教えられる,神を侮辱した偽りの教理を暴露し,彼らと彼らの政治的仲間が人々を導いて取らせている宗教的な行為は死を招くものであることを示しました。確かに,僧職者は霊的な死と最終的な滅びに至らせるにがよもぎのようなにがいものを人々に飲ませました。大会の決議は,アメリカで1,354万5,000部印刷された,「教会教職者級を告発する」と題する小冊子に組み込まれました。さらに,海外では外国語の小冊子が何百万部も発行され,やがて5,000万部が配布されました。その告発文は「ものみの塔」誌にも掲載されました。それとてもやはり始まりにすぎませんでした。ラジオ,書籍,小冊子,雑誌および口頭の証言を通して,エホバのしもべはキリスト教世界の僧職者の教えが命の水ではなくて死に至らせるものであることを指摘し続けたのです。
1925年になると,ラッパを吹く第四の使いが身構えて立ちました。ラッパが吹き鳴らされると,太陽と月と星の三分の一が強打されて暗くなりました。(啓示 8:12)1925年8月24日から31日にかけてインディアナ州インディアナポリスにおいて開かれた区域大会の際,神のしもべは「希望の音信」と題する決議を心から承認しました。それにはやさしい表現が使われていましたが,人々は,世界の霊的な光であると主張するキリスト教世界の暗やみにはまっていることも明らかにされていました。「ものみの塔」と「黄金時代」誌に決議文が掲載されたほか,ついには冊子の形で様々な言語により何百万部も発行されました。こうして,人々はキリスト教世界が天からの真理の光と神の好意を受けていないことを知らされました。
1926年の春に第五の使いがラッパを吹き鳴らすと,象徴的ないなごの攻撃が告げられました。(啓示 9:1-11)その年の5月25日から31日まで,聖書研究者は英国のロンドンで国際大会を開きました。その時,「世界の支配者たちへの証言」と題する決議文が全面的に採択されました。5月30日日曜日にラザフォード兄弟はロイヤル・アルバート・ホールで大聴衆を前に「世界の諸勢力はなぜよろめいているのか ― その救済策」と題する,決議文を裏付ける講演を行ないました。決議文およびその講演は,国際連盟の産みの親がサタンであることを暴露し,僧職者たちは神のメシアによる王国を支持することに失敗していることを指摘しました。同様の情報は,新たに発表された「神の救い」という本と「人々の規準」という小冊子に載せられました。ロンドンのデーリー・ニューズ紙は,月曜日の朝刊の1ページ全面に,その決議文と日曜日の公開講演の骨子を掲載し,さらに月曜日の夜に行なわれるラザフォード兄弟の講演広告を掲げました。その紙面のために相当の金額が支払われましたが,新聞は百万部以上が一般に行き渡りました。
やがて,「証言」の決議文を小冊子にしたもの約5,000万部が多くの言語で世界中に配布されました。宗教の名のもとに神の王国に敵してもくろまれた人間の企てのこうした暴露は,さそりの尾の針のように苦しみを与えました。また,それは引き続き苦しめています。
第六の使いがラッパを吹くと,四人の象徴的な使いが解かれ,2億頭の象徴的な馬が『人びとの三分の一を殺す』ために出て行きました。それらの「馬」は,特に印刷物を通して恐ろしい裁きの音信を宣布する手段を表わしています。そのことが起こり始めたのは,1927年の注目すべきでき事,すなわち,カナダのオンタリオ州トロントにおける聖書研究者の国際大会の時からです。(啓示 9:13-19)7月24日,日曜日,コリセウムにおいて約1万5,000人は,J・F・ラザフォードが,人類の約三分の一を占める「キリスト教世界の人々へ」向けられた決議文を読むのを聞きました。それは,キリスト教世界と共に滅ぼされないため同世界を捨てるよう誠実な人々に強く勧めました。人々は,心からの専念と忠誠をエホバ神とその王および王国に捧げ尽すよう促されました。ラザフォードによる,「人々への自由」と題する裏付けとなる講演が終わった時,出席者から「はい」という声が嵐のように起こりました。出席者は起立して,決議文に賛意を表明したのです。何百万人もの人々は,53局を国際的に結ぶ当時最大の放送網を通してその模様を聞きました。1927年7月25日,月曜日のニューヨーク「ワールド」紙は,「巨大な放送網がラザフォードに傾聴」と言明し,「最大の中継放送は組織化された僧職者を非難する講演を世界の津々浦々に広める」とも述べました。
キリスト教世界の支持者たちは,そうした世を揺り動かす決議文の火のように激しいことばを受けてもだえ苦しんだに違いありません。決議文とそれに伴う公開講演の内容は,「人びとへの自由」と題する小冊子として出版され,やがてそれは一般の人々や支配者に何百万冊も手渡されました。こうして,幾千幾百万頭の象徴的な馬は,「四人の使い」で表わされる油そそがれた残りの者によって操縦を受けつつ,キリスト教世界に対する攻撃を開始しました。長年にわたって,幾億にものぼるそうしたクリスチャンの出版物が生産され,多くの人々は快い反応を示して偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンを離れました。―啓示 9:13-19; 18:2,4,5。
第七の使いがラッパを吹くと,劇的なでき事が起きました。「大きな声が天で起きて言った,『世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配するであろう』」。人類世界の王国は当然神に属していますが,神は,ダビデ王の油そそがれた子孫による王権が西暦前607年から「七つの時」すなわち2,520年の間途絶える,もしくは中断されるのを許されました。その期間は,1914年10月4日から5日ごろ満了しました。その時設立されたメシアによる王国を通してエホバが王として支配しておられ,まもなく,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」こと,また,エホバのみ名を恐れる人々はエホバの協働者として地を楽園に変えることになるということを,人々は知る必要がありました。―啓示 11:15-18。
「第七の使い」のラッパが鳴り響くかのように,そうした事柄が全世界でふれ告げられたのはいつですか。地球を巡るその発表は1928年に始まりました。その年の7月30日から8月6日にかけて,聖書研究者はミシガン州デトロイトにおける大会に集まりましたが,特に8月5日,日曜日は注目すべき日でした。すなわち,その日,代表者たちは,「サタンを退け,エホバを支持する」という強い決議と,J・F・ラザフォードによる決議の裏付けとなる公開講演,「人々の支配者」を聞きました。中でもその決議がはっきりと述べていたのは,サタンが諸国家と人々に対するその邪悪な支配を放棄しようとしないゆえに,エホバは,ご自分の刑執行官であるイエス・キリストと共に悪魔および邪悪な勢力に敵して行動し,その結果,サタンは完全に拘束されて,彼の組織は全く覆されるということでした。さらに,神がキリストによって地上に義を確立し,人類を邪悪なものから解放するとともに地上の全住民に永遠の祝福をもたらされることを指摘しました。また,決議文は結論で,「したがって,義を愛するすべての人々にとって今こそエホバの側に立ち,清い心でエホバに従い,仕える時です。そのようにして,全能の神が彼らのために蓄えておかれた尽きることのない祝福を得られるでしょう」と述べていました。
「サタンを退け,エホバを支持する宣言」とそれを裏付ける公開講演の報告は,「黄金時代」と「ものみの塔」誌に掲載されました。さらに,講演と決議の両方は「国民の友」という冊子に発表され,数多くの言語で何百万冊も配布されました。このようにして,イエス・キリストによる神の王国を支持し,サタンとその手先による世界支配を無視する音信は40年以上昔に吹き鳴らされました。しかし,その音信は以来,印刷物と公開講演によって,エホバのしもべが神の王国の音信を世の人々のもとに引き続き携えて行くにつれ,ますます大々的に全世界でふれ告げられて来ました。
ラジオの開拓者は声を上げる
1922年4月17日付のフィラデルフィアの「レコード」紙は,「世界の千年期が来るとラジオは発表。ラザフォード判事の講演はメトロポリタン・オペラ・ハウスから放送された。話は送信所に送られた。音信はベル電話会社の電線によってハウレット局まで何マイルも運ばれた」と知らせました。そのあと,同紙は,1922年4月16日,日曜日に,ペンシルバニア州フィラデルフィアのメトロポリタン・オペラ・ハウスにおける,J・F・ラザフォードの初のラジオ放送について伝えたのです。その主題は,「現存する万民は決して死することなし」というものでした。講演を生で聞いた人々はほんの少数であったとはいえ,それをはるかに上回る推定5万の住民がペンシルバニア州,ニュージャージー州,デルウェア州の自宅で原始的なラジオによりその話を聞きました。
当時,ラジオは揺籃期にありました。アメリカで,ピッツバーグのKDKA局とミシガン州デトロイトのWWJ局から定期的な商業放送が行なわれるようになったのは1920年のことでした。当時工場で組み立てられたイヤホーン付きの鉱石ラジオを買うことができましたが,拡声装置とアンテナを内蔵したラジオが手に入るようになったのは1930年代のことです。
1920年代初期のエホバのしもべは比較的少数でした。アメリカでは1924年までに,週平均1,064人の聖書研究者が戸別の伝道をしていたにすぎません。したがって,その時期に,神の民はラジオの強力な効果を認め,王国の音信を大衆に伝えるすぐれた手段とみなしました。
1922年に,J・F・ラザフォードと数人の顧問は,まず,ニューヨーク市のリッチモンド独立区にあるスタテン島に24エーカー(約10ヘクタール)の土地を購入しました。ロイド・バーチは,かつて,当時のこんな興味深い話をしてくれました。「ある土曜日の午後,協会の会長ラザフォード兄弟は,わたしたち数人をスタテン島に連れて行きました。購入した土地に着くと,彼はその森の中心となる地点をさして,『さて,みなさん,ここから掘り始めましょう。この土地にラジオ放送局を建てるのです』と言いました。そして,わたしたちは実際そこを掘ったのです。その夏は週末ごとにそこへ行きました」。冬が過ぎ,翌年の夏までかかって建設は急ピッチで進みました。週末にはブルックリンの協会本部から多くの若い人々が援助に行きました。
1923年のこと,オハイオ州アライアンスの高等学校で無線電信の理論を教えていたラルフ・H・レッフラーは,ある日,ものみの塔協会の会長事務所から一通の手紙を受け取りました。それには,「あなたが無線電信を教えておられることを知りました。……その分野で主への奉仕に全時間を捧げることを考えてごらんになりませんか」と書かれていました。レッフラー兄弟は,そこにエホバのみ手の働きをはっきり感じたので,その機会を捕えるのを拒むことはできませんでした。レッフラー兄弟は10月の半ばにベテルに到着しましたが,なんと皿洗いの仕事に割り当てられたのです。後日,彼は次のように書いています。「皿洗いは軍隊でさんざんやった,とわたしは思いました。それから,『汝らの神エホバ汝らが心を尽し精神を尽して汝らの神エホバを愛するや否やを知らんとてかくなんじらを試みたまう』という聖句を思い出しました。(申命 13:3)そうだ,これも試みのひとつだ,とわたしは思いました」。しかし,一か月後に彼は放送の仕事を始めました。「500の㍗複合ラジオ送信機が町でみつかったので,放送局用に購入しました」,とレッフラー兄弟は回顧します。彼はそれをたちまち設置して,放送開始の用意はすっかり整いました。
「心臓がどきどきしました」,とレッフラー兄弟は認めます。「最初の放送は成功するでしょうか。だれかわたしたちの放送を聞いてくれる人がいるでしょうか。放送の許可は政府から得ていました。コールサインはWBBRでした。用意はすっかり整い,1924年2月24日,日曜日の夜に放送が開始されました。その時,わたしは電源スイッチを入れる特権にあずかりました。わたしたちは最善を希望して出発したのです」。
WBBRのその最初の番組は午後8時30分から10時30分までの2時間にわたりました。「ラジオと神の預言」と題する,協会の会長J・F・ラザフォードの講演がおもな番組で,その前後にピアノの独奏と歌がありました。その後毎晩8時30分から10時30分まで,日曜日には午後3時から5時まで,きれいな音楽と教育的な話が放送されました。
WBBRを通して放送劇を流す機会が何度かありました。スイスのチューリッヒの有名なシティー劇場で演劇の厳しい訓練を受けた経験を持つ,マックスウェル・G・フレンドはそれに出演しました。数年後,エホバはフレンド兄弟に,聖書劇や,僧職者の影響を受けて偏見を抱いた裁判官と陪審員によるアメリカのエホバの証人の裁判を再現した場面を製作監督するという,思いがけない特権をお与えになりました。そうした劇はその人々の醜態を暴露し,神のしもべの無実を証ししました。出演したのは訓練を受けた俳優と音楽家で,彼らは「王の劇団」を作りました。
1928年,ニュージャージー州のサウス・アンボイで,数名のエホバの証人が日曜日に良いたよりを伝道したかどで逮捕されました。それが発端となって,10年にわたる,いわゆる「ニュージャージーの戦い」が始まりました。「王の劇団」はそれに一役買いました。真のクリスチャンの裁判において,土地の裁判官はカトリック教徒の場合が多く,彼らは法廷で偏見を示し,粗野なことばを使ったり,表面に立たないでいようとする教会関係の仲間を裏切りさえしました。法廷でのやり取りは速記で記録されました。訓練された俳優は,裁判を傍聴して,裁判官や陪審員その他の声や口調を研究し,数日後に「王の劇団」は法廷の場面を驚くほど生々しく再現しました。こうして,電波は敵を暴露するために用いられたため,ついに裁判官たちは,誤導された警察官や陪審員と同様自分たちにも注意が向けられたのを知って大いに恐れ,エホバの民に関する事件を扱う際にはもっと抜目がなくなりました。
約33年間,WBBRはエホバに栄光をもたらし,聖書の真理をあまねく広めました。最初500㍗の送信機で放送が始められましたが,3年後に1,000㍗の新しい送信機が購入されました。1947年,連邦通信委員会は,アメリカ各地に広く散在している同じ周波数の他の放送局を妨害しない条件で,放送出力を5,000㍗にすることをWBBRに許可しました。三方に働く指向性アンテナ装置の塔を立てたので問題は解決し,また,出力を5,000㍗から25,000㍗以上に上げて人口が最も密集している北東方面に送ることができるようになりました。WBBRの放送はニューヨーク市と,近接するニュージャージー州およびコネチカット州で聴取できました。しかし,番組を聞いたという手紙は,英国,アラスカ,カリフォルニア,その他遠方から寄せられました。
協会は1957年4月15日に放送局を売却しました。その理由はこうです。放送局が開局した1924年当時,ニューヨーク市の5つの独立区すべてとロングアイランドおよびニュージャージー州の一部をさえ含む地域には,約200名の聖書研究者からなるひとつの会衆があったに過ぎません。しかし,1957年までに,ニューヨーク市内には62の会衆があり,王国の宣布者は7,256名の最高数を記録し,そのうえ良いたよりの全時間伝道者が322名いました。したがって,証言は十分行なわれていたのです。また,家に行って人々に話しかけるほうが,質問に答えたり,神のみことばからさらに説明できるのでずっと効果的です。放送のための経費は神の王国の関心事を促進するために他の方面に用いることができました。
とはいえ,協会の放送事業に関係した話はほかにもあります。ある日,J・F・ラザフォードはラルフ・レッフラーの部屋に入って来てテーブルの上に地図を広げ,指で示しながら,「わたしはここ,ここ,そしてここに放送局を建てることを考えているのですが,あなたはその建設の監督を引き受けてくださいますか」と言いました。『喜んでお引き受けします」というのがその返事でした。こうして,1924年の11月が来ると,レッフラー兄弟は,協会所有のWORD(ことば)というコールサインを持つ放送局をもうひとつ建てる仕事のためにシカゴ方面へ行きました。協会の直接の持ち物ではなく,協会の代表者が運営に当たった他のいくつかの放送局の送信機も彼が据え付けました。
放送史上画期的な仕事をする
1920年代に,エホバの民は初期の放送局のひとつ,WBBRを建ててその方面の開拓者となっただけではありません。すでに述べたとおり,エホバのしもべは1927年7月24日,日曜日に放送史上画期的な仕事を行ないました。すなわち,J・F・ラザフォードは,カナダのオンタリオ州トロントから,53局を結ぶ当時最大の放送網を通して話したのです。
放送網を通じて行なうという先例のない放送が行なわれるまでには一連のでき事がありました。WBBRとニューヨーク市の放送局WJZの所有者との間には,時間を分かつ協定が結ばれていましたが,それは守られませんでした。後になって,WBBRは別の周波数を割り当てられ,さらにその後もっと不都合な周波数が割り当てられました。協会の放送局は,1927年の放送法に基づき,比較的望ましい周波数が割り当てられるよう,連邦通信委員会に訴えました。審理(1927年6月14,15日)の際,会長であるナショナル放送会社のメーリン・ホール・アイレスワースは,大きな放送事業をしているのはニューヨーク放送局のWEAFとWJZであると証言しました。それは明らかにWBBRに一部の時間を専有させるのは正当でないことを示そうとするものでしたが,WJZとWEAFは双方とも別個の周波数を持っていたのです。反論に立ったJ・F・ラザフォードはアイレスワースに次のように問いつめました。「あなたの目的は,ラジオを用いて,世界最大の経済人,もっとも著名な為政者,および最も有名な牧師の音信を人々に伝えることですか」。肯定の答えが返りました。
「宇宙の偉大な神は,地上の全家族と全国民に平和,繁栄,生命,自由および幸福を与えて祝福する計画を持っておられ,その計画を間もないうちに実施されます。あなたがそれを確信されるなら,それを放送しますか」。否定の答えをするわけにもいかなかったのでしょう,はい,との答えがなされました。それから,アイレスワース氏は,国際聖書研究者の講演を喜んで放送しましょう,と申し出ました。いうまでもなく,J・F・ラザフォードはその申し出を受け入れました。
こうして,ラザフォード兄弟が1927年7月24日,日曜日にカナダのオンタリオ州トロントで約1万5,000人の大会出席者に講演した際,さらに何百万人もの人々が,それまでに例のない放送網によって彼の話を聞くことになったのです。ナショナル放送会社から協会へ寄せられた手紙には,「きのうの午後,ラザフォード判事はラジオを通して地上のだれよりも多くの聴衆に話をしたと思います」と書かれていました。
聖書研究者は1928年にも放送事業上注目すべきことを行ないました。ミシガン州のデトロイトで8月5日の日曜日に,J・F・ラザフォードは「民のための支配者」と題する公開講演を1万2,000人の聴衆を前に行ない,その講演は107の放送局を結ぶ放送網によって中継されました。そのために要した電話線は3万3,500マイル(約5万3,600㌔),電信線は9万1,400マイル(約14万6,240㌔)でした。またその講演はオーストラリアとニュージーランドに向け短波で再放送されました。
ものみの塔放送網,もしくは「ホワイト」放送網は,1928年にデトロイト大会のために特に組織されましたが,非常な成功を収めたので,協会はカナダとアメリカ全土で毎週放送網を使用することを決定しました。1時間の番組が取り決められ,WBBRから放送されました。それは生の放送で,ラザフォード兄弟の講演を扱っており,協会専属のオーケストラが初めと終わりに音楽を演奏しました。こうして,1928年11月18日から1930年中毎週日曜日に「ものみの塔アワー」を聞くことができました。
すぐれた証言がなされましたが,ラザフォード兄弟は放送のために多くの時間を取られてしまい,各地を訪問して大会を組織することが不可能になりました。そのため,1931年に協会は録音番組を放送することに決定し,250の放送局が編成されてラザフォード兄弟の15分の話を放送しました。その番組はラザフォード兄弟の都合のよい時に録音され,放送局の好きな時に放送されました。1932年,(録音チェーンと呼ばれた)このラジオ放送は340局にひろまり,1933年には頂点に達して408の放送局が使用され,6つの大陸に音信が伝えられました。2万3,783の聖書の話がなされ,そのほとんどが15分間の電気録音の話でした。その時代に,ラジオのダイヤルを回して,広範な地域に散在していた放送局から同時に流されるものみの塔の放送に合わせることもできました。あらゆる電波に,神をたたえる真理のことばが満ちることもしばしばでした。
自分のものと呼べる工場
エホバの民は一般の注目をますます集めていきました。1920年代後期に彼らが行なった,歴史的なラジオの中継放送は見過ごされるものではありませんでした。また,戸別訪問による伝道のわざは急速に拡大しましたから,人々はそれら王国の宣布者たちに無関心でいることはできませんでした。聖書文書に対する需要は増大の一途を示し,協会の出版業務はそれについてゆかねばなりませんでした。1920年代後半を振り返って,C・W・バーバーは,「コンコード通り18番(ニューヨークのブルックリン)の工場は小さくなりすぎて,必要をまかないきれなくなっていました」と語ります。
疑問の余地はありません。聖書研究者はもうひとつの工場を必要としていたのです。工場を建てることが決まりました。十分な建設資金を投じるには,世界の他の土地でのわざを縮少せずにはすまなかったので,協会は,不動産の実際の価格の半分を越えない額を抵当に,債券を発行しました。それは額面が100㌦,500㌦および1,000㌦で,年に5%の利子が付くものでした。債券は市場に売りに出されず,「ものみの塔」誌の付録を通して,聖書研究者に債券を申し込む機会が差し伸べられました。
1926年と1927年に,ブルックリンのベテル家族の人々は,アダムス・ストリート117番に工場ができ上がって行くのを見る喜びを味わいました。やがて,多くの窓の付いた,8階建てのりっぱな鉄筋コンクリートの建物が完成して使用できるばかりになりました。その建物は近代的な耐火建築で,約6,300平方㍍の床面積を持っていました。そして,1927年2月までにコンコード通り18番に移ることになりました。「機械が移される時,R・J・マーチン兄弟(工場の監督)が他の兄弟たちと小躍りして喜んでいたのを覚えています」とハリー・ペトロスは言います。新しい工場に対するマーチン兄弟の感激は,「国際聖書研究者協会の1928年の年鑑」に収められている,協会の会長にあてた彼の報告にはっきり表われています。その報告の中で彼は,工場批評家でさえ,「世界の印刷業の中心地であるニューヨークでも最もすぐれた印刷工場のひとつ」であると認めている,と述べました。同報告は,工場の運営についても次のように記述しています。
「建物全体の図面はわたしたちの仕事にぴったり合っています。作業はすべて,引力に従って,また自然な順序で上の階から下の階へ流れます。つまり,一番上の階に事務所があり,当然の順序としてその下の階には植字部門があります。鉛版は6階に下り,そこで印刷が行なわれます。郵送の仕事と小冊子類は5階で扱われ,製本は4階,倉庫は3階,発送は2階,そして,予備の紙置場と車庫それに発動機は1階にあります。これに改善する余地があるでしょうか」。
本部の職員も200人近くになっていましたから,ベテル・ホームの拡張も行なわれていました。1926年の12月中に,協会は,ブルックリンのコロンビア・ハイツ124番にある所有地に隣接した土地を買いました。1927年の1月初旬,122番と124番および126番の三つの建物が取り壊されて,80ほどの部屋を擁する9階の建物の建築が始まりました。それは1911年に完成した協会の建物の背後につけ足され,ファーマン通りに面していました。
「エホバに教えられる」
エホバは1920年代にご自分の民を確かに祝福され,王国の関心事を促進するために必要なものを備えられました。エホバは,また,ご自分が漸進的に啓示を与える神であることも示されました。聖書研究者は,やがて,自分たちの考えをいくらか調整する必要を知ったのです。しかし,彼らは神の導きを感謝し,『エホバに教えをうけ』ることをしきりに求めました。―ヨハネ 6:45。イザヤ 54:13。
たとえば,神の民は1925年に対する考え方を調整しなければなりませんでした。彼らは,イスラエル人がカナンに入って以来50年ごとのヨベルの年の70回めが1925年に当たると考えて,その年に回復と祝福を期待していたのです。(レビ 25:1-12)A・D・シュローダーはこう語っています。「その時にはキリストの油そそがれた追随者の残りの者が天へ行って王国の成員となり,アブラハムやダビデそして,その他昔の忠実な人々は君たちとして復活し,神の王国の一部である地の政府を受け継ぐものと考えられていました」。
1925年となり,その年は過ぎました。しかし,イエスの油そそがれた追随者たちはひとつの級としてなお地上にいました。また,アブラハム,ダビデほか昔の忠実な人々は,復活して地の君たちになってはいませんでした。(詩 45:16)その時の様子をアンナ・マクドナルドは次のように回顧しています。「1925年は多くの兄弟にとって悲しい年でした。希望がくじかれたために,ある人々はつまずきました。『古代の名士たち』(アブラハムのような昔の人たち)の幾人かが復活するのを見ることができるという希望を持っていたのです。ひとつの『可能性』と見る代わりに,その人たちはそれが『確実なこと』として読み取り,中には,自分の愛する人が復活するかもしれないと期待して,その人たちのために仕度をする人もありました。わたし自身は,わたしを真理に導いてくださった姉妹からお手紙を受け取りました。それには,以前わたしに間違ったことを言って申し訳ない旨が書かれていました。……(でも)わたしは,自分がバビロンから解放されたことを感謝していました。わたしはエホバを知り,エホバを愛するようになったのです。いったい他のどこへ行けるでしょうか」。
神の忠実なしもべたちは,ある定まった年までしか神に献身していなかったのではありません。彼らは永遠に神に仕える決意をしていました。そのような人々は,1925年に対して抱いていた期待がはずれたからといって,大きな支障をきたしたり信仰を弱めたりしませんでした。ジェイムズ・ポウロスはこう語っています。「忠実な人々にとって,1925年はすばらしい年でした。エホバは,『忠実で思慮深い奴隷』を通して,啓示の12章の意味するところにわたしたちの注意を向けさせました。『女』が神の宇宙的な組織であること,天で戦争があり,サタンと悪霊たちはイエスと聖なるみ使いに敗れて天廷から放逐されたこと,そして神の王国の誕生のことを学びました」。ポウロス兄弟が,1925年3月1日号の「ものみの塔」誌に載せられた,「国民の誕生」と題する非常に注目すべき記事を念頭に置いていることは明らかです。その記事を通して,神の民は,対立する二大組織である,エホバの組織とサタンの組織がどのように象徴されているかをはっきり識別しました。さらに,1914年に始まった『天での戦争』の結果天から追い落とされて以来,悪魔はその活動を地に限らなければならなくなっていることも学びました。
祝いと祭日
「昔の大会では,プログラムの合間にみなさんとおしゃべりしていると,数名の人からそれぞれの『マナ』の本(『信仰の家の者のための日々の天のマナ』)を差し出され,『マナ』に住所と名前を書いてほしいと言われることがありました。自分の誕生日の日付が載っているページの反対側の,何も書いてないページに住所と名前を書くと,その人たちは誕生日に当たる日の朝その日の聖句を読んで,誕生祝いのカードや手紙をくださることがありました」,とアンナ・E・ジンママンは書いています。
このように,初期の時代には,献身したクリスチャンたちは誕生日を祝っていました。そうであれば,イエスの誕生日とされている日を祝っても不思議はないのではありませんか。彼らは長年の間その祝いも行なったのです。ラッセル師の時代,ペンシルバニア州アレゲーニーの古い聖書の家ではクリスマスが祝われました。オラ・サリバン・ウェイクフィールドは,ラッセル兄弟が,クリスマスの時,聖書の家の成員に5㌦か10㌦の金貨を与えたのを覚えています。メーブル・P・M・フィルブリックは,「今では絶対に行なわれないことですが,ベテルの食堂にクリスマス・ツリーを飾ってクリスマスを祝う習慣がありました。いつもは,『みなさん,おはよう』と言うラッセル兄弟が,『みなさん,クリスマスおめでとう』と言いました」と述べています。
聖書研究者がクリスマスを祝うのをやめたのはなぜですか。リチャード・H・バーバーが次のように答えてくれました。「わたしは,(ラジオの)中継放送を通してクリスマスに関する1時間の話をするよう頼まれました。その放送は1928年12月12日に行なわれ,『黄金時代』の241号に掲載されました。また,1年後に同誌の268号にも掲載されました。その話は,クリスマスが異教に起源を持っていることを指摘していました。その後,ベテルの兄弟たちは決してクリスマスを祝いませんでした」。
チャールズ・ジョン・ブランドラインは,「わたしたちは,そうした異教のものを捨てることに反対したでしょうか」と問いかけ,「そういうことは全くありませんでした。新しく学んだ事柄に従うことにすぎなかったからです。わたしたちは,それらが異教のものだということを知りませんでした。ちょうど,汚れた上着を脱いで捨てるようなものでした」と語っています。続いて廃止されたのは,被造物崇拝の色がさらに濃い,誕生日の祝いと母の日でした。リリアン・カンメルド姉妹は次のように回顧しています。「兄弟たちはそうした祭日の祝い全部をすぐさまやめ,自由になってうれしいと言いました。新しい真理はいつもわたしたちを幸福にします。そして……わたしたちは,他の人々の知らないことを知っているのは特権だと思いました」。
他の見解上の変化
神のみことばの理解が深まるにつれ,クリスチャンの考え方にもさらにいくつかの調整が加えられました。グラント・スーターによると,それが顕著に見られたのは1920年代の後期でした。彼はこう語っています。「その数年間,聖句や手続き上の事柄に対する見方に絶えず調整が加えられたように思われます。たとえば,キリストの体の眠りについている忠実な成員は1878年に復活しなかったこと(かつてはそう考えられていた),命は血にあること,黒ずんだ衣服は変えた方がよいことなどが『ものみの塔』で指摘されたのは1927年でした。(1927年の『ものみの塔』[英文]の150-152,166-169,254,255,371,372ページをご覧ください。)それについては,エホバのクリスチャン証人の公開講演者たちはそれまで長い間黒のフロックコートを着用していましたが,前年の1926年,5月25日から31日にかけて英国のロンドンで開かれた大会の時に,ラザフォード兄弟は普通の背広を着て演壇から話をしました。
もうひとつの見解上の変化は,1891年1月から「ものみの塔」誌の表紙に付けられていた,「十字架と冠」の表象に関するものでした。実際のところ,聖書研究者は長年にわたってその記章をつけていました。それがどのようなものであったかを,C・W・バーバーは次のように書いています。「それはバッジでした。月桂樹の葉の輪の中に冠があり,その冠を十字架が斜めに貫いていました。それはとても魅力的に見えました。その記章には,時が来て勝利の冠をつけることができるように,自分の『十字架』を取ってキリスト・イエスに従うという意味があると考えられていました」。
『十字架と冠のバッジ』をつけることについて,リリー・R・パーネルはこう語っています。「ラザフォード兄弟は,それはバビロン的だから廃止すべきだと考えました。兄弟はわたしたちに,人々の家に行って話を始める時,そのこと自体が証言なのであると言いました」。それで,1928年にミシガン州のデトロイトで開かれた聖書研究者の大会でのことを,スーター兄弟は次のように書いています。「その大会で,十字架と冠の表象は不必要なばかりか好ましくないことが示されました。それでわたしたちはその装飾品のたぐいを捨てました」。それから3年ほどして,1931年10月15日号の「ものみの塔」誌から表紙に十字架と冠の表象がつかなくなりました。
2,3年後,エホバの民はイエスが十字架の上で死んだのではないことを初めて知りました。1936年1月31日に,ラザフォード兄弟は「富」と題する新しい本をブルックリンのベテル家族に発表しました。その27ページには,聖書に基づいて一部こう書かれていました。「イエスは,多くの像や絵画に描かれているように,木の十字架にはりつけにされたのではありません。そうした像は人間が作って形にしたものです。イエスは一本の木に体をくぎ付けにされました」。
『なんぢらはわが証人なり これエホバ宣給へるなり』
1929年10月29日の「黒い火曜日」,世界は衝撃を受けました。株式市場が破局に陥ったのです。「全国的な売り逃げの大勢 ― 株式相場は140億ドルに暴落。銀行は今日,市場の買い支えを予定」。こうして1930年代を襲った世界大恐慌が始まりました。しかし,この深刻な経済的困窮の時期に,エホバはご自分の民に霊的な備えを豊かにお与えになりました。また,『なんぢらはわが証人なり われは神なり これエホバ宣給へるなり』ということばの底にある深い意味を非常にはっきりと悟らせられました。―イザヤ 43:12。
神のお名前はいっそう強調されるようになりました。たとえば,数年間にわたる「ものみの塔」誌の1月1日号に掲載された主要な記事は次のとおりです。「だれがエホバをたたえますか」(1926年),「エホバとそのみわざ」(1927年),「そのみ名をほめたたえなさい」(1928年),「わたしはわたしの神を賛美します」(1929年),「エホバに向かって歌いなさい」(1930年)。
しかし,エホバのみ名を高めるうえで里程標となったのは,1931年7月24日から30日にかけてオハイオ州コロンバスで開かれた神の民の大会でした。それは全地の他の165か所でも同時に行なわれるよう計画された点で類例のない大会でした。しかし,そのことは最も大切な要素ではありませんでした。それよりずっと重要なことがあったのです。その重要なことは,印刷された大会のプログラムや「使者」という大会の新聞の第一面につけられた,また実際多くの場所に見られた「JW」というなぞの文字と関連していました。バーニス・E・ウィリアムズ2世は,「大会会場に近づくと,いたるところに『JW』という文字が見えました。しかし,それがどういう意味かわからず,みんな,『JWとは何だろう』といぶかっていました」と述べています。ハーシェル・ネルソン姉妹はその時の思い出を「JWが何を表わしているかいろいろ憶測されました。Just Wait(ちょっと待て)とかJust Watch(ちょっと用心しなさい)など,そして正しい意味は……」と語ります。
「JW」の意味は1931年7月26日,日曜日に明らかにされ,その時,感動した大会出席者は,J・F・ラザフォードが提出した「新しい名前」と題する決議を心から採択しました。それは一部次のように述べました。
「それゆえに今,私たちの真の立場を知らせるため,またそれがみことばに表明されている神の意志と調和するものであることを信じて,次のように決議いたします。
「私たちはチャールズ・T・ラッセル兄弟をその働きのゆえにこよなく愛しており,主が同兄弟を用いて,その働きを大いに祝福されたことを喜んで認めるものですが,神のみことばに終始一貫従う者として,『ラッセル信奉者』という名称で呼ばれることには承服できません。ものみの塔聖書冊子協会,国際聖書研究者協会および一般人伝道者協会という名称は,クリスチャンである私たちが一団として神のご命令に従って私たちのわざを遂行するために保持し,管理し,用いている法人の呼称にすぎません。それらの名称はいずれも,私たちの主で主人であるキリスト・イエスの足跡に従うクリスチャンの団体としての私たちに正しく結びつく,もしくは当てはまるものではありません。私たちは聖書の研究者ですが,協会を組織しているクリスチャンの団体として,主のみ前における私たちの正しい立場を明らかにする手段としては,『聖書研究者』その他同様の名称を持つ,あるいはそうした名称で呼ばれることを拒みます。私たちはいかなる人間の名前を持つことも,あるいはそれで呼ばれることをも退けます。
「また,私たちの主で,買い戻し手であるイエス・キリストの貴い血をもって買い取られ,エホバ神によって義とされ,生み出され,そしてその王国に召されたゆえに,私たちはエホバ神とその王国に対して全き忠誠と専心の限りを尽くすことを,ためらうことなく断言します。私たちはエホバ神のしもべであって,その御名によって仕事を行ない,またそのご命令に服してイエス・キリストの証しを伝え,エホバが真の,そして全能の神であられることを人々に知らせるわざを委ねられています。それゆえに,私たちは主なる神が御口をもって命名した名称を喜んで採用し,また用います。私たちは,すなわちエホバの証人という名称で知られ,また呼ばれることを欲するものです」。
これではっきりしました。なぞの文字「JW」はJehovah's Witnesses(エホバの証人)を表わしていたのです。「そのことがついに知らされた時,大会会場に割れるような歓声と拍手が響き渡ったのを決して忘れないでしょう」とアーサー・A・ウォースレイは断言します。そして,ハーバート・H・ボイクはこうつけ加えます。「コロンバス市のいたる所で,商店の窓の『I.B.S.A.を歓迎』という広告は取られて,『歓迎,エホバの証人』という広告になりました」。
エホバの証人という名前を受け入れるのは感動的なことでした。「新しい名前」と題する決議は,コロンバスに集まった何千人というキリストの油そそがれた追随者によって,喜びのうちに採択されただけでなく,後日,各会衆も同様の決議を採択しました。エホバの証人は,世界の他のだれも望まない名前を持ちました。しかし,神のしもべたちはその名前に深く感謝したのです。―イザヤ 43:12。
A・H・マクミランは,88歳の時,同じ都市におけるエホバの証人の「霊の実」大会に出席しました。1964年8月1日,そこにおいてマクミラン兄弟は,その名前が採択されたいきさつを興味深く語りました。
「わたしは,……新しい名称もしくは名前……を受け入れた1931年にコロンバス大会に出席する特権を得ました。わたしは,その名前を採用する計画に対して意見を求められた5人のうちのひとりだったので,簡潔にこうお話ししました。その名称は,わたしたちが何を行なっているか,またわたしたちの務めは何かを世の人々に伝えるので,すばらしい名前だと思う。それ以前にわたしたちは聖書研究者と呼ばれたが,なぜかというと,わたしたちはまさしく聖書研究者だったからである。他の国の人々がいっしょに研究するようになって,わたしたちは国際聖書研究者と呼ばれた。しかし,今やわたしたちはエホバ神の証人であり,その名称は,わたしたちがどのようなものであり,何を行なっているかをそのまま一般の人々に伝える。……
「実際のところ,そのように導かれたのは全能の神であった,とわたしは信じます。というのは,ラザフォード兄弟自身がわたしに次のような話を聞かせてくれたのです。ラザフォード兄弟は,その大会の準備をしていたある夜目を覚まして,『特別な講演とか音信もないのに,いったいなぜわたしは国際大会を提案したのだろう。なぜみんなをここへ集めるのだろうか』とつぶやきました。そして,そのことについて考え始めると,イザヤ書 43章が頭に浮びました。彼は夜中の2時に起きると,机に向かい,王国は世界の希望という講演と新しい名前に関する話の筋書を速記しました。あの時彼が行なった話はすべて,その夜,つまり朝の2時に準備されたのです。わたしは,主がラザフォード兄弟を導かれたことに対して,昔も今も一点の疑いも持っていません。それはまさしく,わたしたちの名前としてエホバが望んでおられるものであり,わたしたちはその名前を与えられて大きな喜びと幸福を感じています」。
「王国は世界の希望」
コロンバス大会で,1931年7月26日,日曜日の正午に,J・F・ラザフォードによる「王国は世界の希望」と題するきわめて重要な公開講演が始まりました。ナショナル放送会社とコロンビア放送制度の双方は放送施設の使用を断わりました。しかし,エホバの崇拝者たちは,コロンバスからその音信を伝える放送網を作ったのです。アメリカ電信電話会社は,「この特殊な放送網は,個人の放送網としては放送史上最大のものである」と言いました。音信は,アメリカ,カナダ,キューバおよびメキシコの163の放送局を通して伝えられました。
放送網による講演,「王国は世界の希望」が終わるとすぐ,ラザフォード兄弟は,「支配者と人々に対するエホバからの警告」と題する決議文を読み,それも放送されました。その決議文は,とりわけ,「世界の希望は神の王国にあり,他に希望はひとつとしてありません」と言明していました。そして,神の王国の側に立つよう人々に勧めました。ラザフォード兄弟が,見える聴衆と見えない聴衆に決議を採択するよう呼びかけると,大会出席者はいっせいに立ち上がり,大きな声で「はい」と言いました。アメリカ全国から寄せられた電報によれば,ラジオの聴衆の多くも同様に起立してその決議を承認しました。
僧職者を含め,世界の指導者は,ラザフォード兄弟が大会で行なった講演,「王国は世界の希望」の内容を知らされることになっていました。また,彼らは「エホバからの警告」という決議の内容も知らねばならない立場にありました。さらに,神の真のしもべが「新しい名前」と題する決議文を採択し,以後「エホバの証人」と呼ばれることも知る必要がありました。このすべては「王国は世界の希望」と題する小冊子が配布されることにより行なわれました。エホバの証人は,一般の人々を訪問するほか,僧職者や政治家,資本家や軍人を訪れてその小冊子を配布しました。2か月半のうちに500万部以上が発行されましたが,それでも同小冊子を用いてのわざが完了したのはずっと後のことでした。
小冊子の運動を回顧して,フレッド・アンダーソンは次のように書いています。「わたしは,ラ・クロッセの司祭を訪問しました。その司祭はたいへん丁重にわたしを客間に通してくれました。そこで,わたしは訪問した理由を話して小冊子を差し出しました。司祭はそれを見て何も言いませんでした。わたしは彼に礼を言っていとまごいをしました。司祭は激怒して,戸口から出て行くわたしに小冊子を投げつけました。それは床に落ちました。彼はそれを拾い上げると,わたしがちょうど網戸を閉める時にもう一度投げつけました。小冊子は閉められた戸に当たりました。司祭は小冊子を処分することができなかったのですから,それを読んでくれたことを願っています」。C・E・バートウはこんな風に話してくれました。「ひとりの牧師は,わたしから受け取ったものが何であるかわかると,わたしに対して金切り声を上げ,『無知なやからめ! 8年間も神学者をしているわたしがおまえたちに言われることなどない!』と言いました。わたしは,真の神に仕えていることをほんとうに幸福に思いました」。
物々交換が行なわれる
1930年代は恐慌のために非常に苦しい時代でした。工場は閉鎖され,1932年までに,1,000万人を上回るアメリカ人が失業していました。農業従事者,都市生活者にかかわらず一般大衆は世界大恐慌の影響を感じていました。
お金には乏しくても,心の正直な人々は聖書の真理の喜ばしい音信を必要としていました。エホバの証人はしばしば,聖書文書の代金を寄付できない人に文書を無料で置いてきました。しかし,いつもそうするわけにもいきませんでした。それでどうしたでしょうか。マーガレット・M・ブリジェットは次のように回顧しています。「わたしたちは,卵とかバター,生のくだものやカン詰めのくだもの,にわとり,メープル・シロップといった品物と交換しました。それに,わたしは,ふとんがわとかクッションがわ,タッチングで作ったレースや自家製の敷物というような手芸品と引き換えにしました。借りていた部屋の代金を,そうしたもので支払ったことも時にあります。……(数年後)わたしはギレアデ(宣教者学校)の卒業式に出席しましたが,ふとんがわと引き換えにわたしから書籍一式を求めた姉妹もそこに出席していました。その人は真理を受け入れて開拓者(全時間の伝道者)になっており,彼女の息子さんも関心を持っていました」。
アーデン・ペイトとジョン・C・ブースは,お金のない人から文書と引き換えに得たにわとりを入れる小さなかごを自動車の後部に置いたことを覚えています。いうまでもなく,にわとりと文書を交換するのは必ずしも簡単なことではありませんでした。ルラ・グローバーは次のように書いています。「わたしたちは,アラバマ州,ジョージア州,フロリダ州,北および南カロライナ州の多くの区域,そしてテネシー州とミシシッピー州の一部を網らしました。グリーン姉妹とわたしが広い農家の庭でにわとりを追い回す様子をご想像いただけますか」。
農産物その他の品物と文書を交換することは,利己的な理由で行なわれたのではありません。人々は良いたよりを必要としていたのであり,良いたよりを印刷物の形で得るためのひとつの方法が物々交換だったのです。「エホバがわたしたちを支えてくださることをわたしたちはいつも感謝しました。衣食住で必要な物はいつも備えられていました」とマックスウェル・L・ルイスは語っています。
分団運動
1930年代は,また,王国を宣べ伝えるわざが非常に反対を受けた時期でもありました。エホバの民は1928年まで日曜日に戸別訪問による証言を行なっていましたが,たちまち反対が起こりました。その年代に,エホバの証人は,許可なく販売をしているとか,平和を乱すとか,日曜日に安息日の律法を犯しているとかといった事柄で偽りの告発を受け,多数の逮捕事件がありました。ものみの塔協会は相談を受ける法律部門を設け,王国宣布者が法廷で自分の立場を弁護するのを助けるために,「裁判の手続」を発行しました。不利な判決は上訴されました。
しかし,その他にも行なわれたことがありました。1933年,1万2,600名のアメリカの証人は,市民の反対がある地域で,特別な使命をもって戸別の伝道をするという短い知らせに進んで応じました。彼らは78の分団に組織され,各分団に相当数の自動車が配備されました。1台に奉仕者が5人ずつ乗り込み,10台から200台が問題の地点に派遣されました。野外奉仕中にだれかクリスチャンが逮捕されると,それは協会に伝えられました。招集がかかり,事件後すぐの日曜日に,ひとつの分団の自動車グループ全部は予定されていた集合地点に集まります。通常それはいなかが選ばれました。そこで指示や区域の割当てを受けると,「いなご」のように町を包囲攻撃して,時には30分から1時間のうちにくまなく証言しました。(啓示 9:7-9)一方,兄弟たちからなる委員は警察に行ってその朝そこで伝道を行なっている証人全部の名前を知らせました。運動中に逮捕された王国伝道者は,警察署に着き次第,決められたところに電話をかけると弁護士が保釈金を持ってかけつける手はずになっていました。
バーニス・E・ウィリアムズ1世によれば,ある運動の場合,まず10台の自動車が証人を乗せて区域に行きました。彼はこう続けています。「しばらくして,区域に出かけた人々は逮捕されたことを連絡してきました。すると,さらに10台の自動車がくり出されて,留置場はいっぱいになりました。留置場がいっぱいになると,わたしたちは大挙してくり込みました。おわかりのように,当局にはわたしたちを逮捕して入れる場所がなかったのです。わたしたちがその区域で奉仕する決意をしていることがわかると,彼らは簡単にあきらめたので,わたしたちはそこへ行って好きな時に奉仕することができました。わたしたちはいつも勝ちました」。
ニコラス・コバラク2世は,証人たちは逮捕されるのを覚悟していたと言い,次のように回顧しています。「警官がわたしたちを逮捕して『貴重品』を取り上げると,どの証人も歯ブラシを持っていたものです。警官は『どうしてみんな歯ブラシを持っているんだ』と尋ねました。わたしたちはみな,『逮捕されて留置場に入れられるのを覚悟しているので,用意して来たのです』と答えました。彼らはさじを投げて,『どうしようもない』と言ったものです。彼らは証人をおどしたり,伝道をやめさせることはできないのを知っていました」。
1933年から1935年にかけてそうした運動が行なわれてから数十年たちますが,昔の参加者たちはその時のことを懐かしく回顧しています。ジョン・ダルチノスは語ります。「確かに当時は感動的な時代でした。それは貴重な思い出です。エホバの霊によってわたしたちは恐れを知らないものとなりました」。
電波をめぐる戦い
高まる反対にもかかわらず,1930年代初期のエホバの証人は戸別に訪問して王国の音信を大胆に宣明しました。しかし,良いたよりはラジオを通して何百万もの家庭に達するようになり,僧職者たちを仰天させました。当時ものみの塔協会は国際的に408の放送局を使用していました。1933年の春,アメリカのカトリック教徒は枢機卿や司教および司祭に率いられて全国的な運動を開始しました。その目的とは,「ラザフォードを電波から追い出す」ことでした。
法王ピオ11世は1933年に「聖年」を宣言しました。その年の4月23日,ラザフォード兄弟は55の放送局を通して,「平和と繁栄におよぼす聖年の影響」と題する歴史的な講演を行ないました。その中で,ローマ・カトリックによって人々に差し伸べられたむなしい希望は神の王国によって来ると約束された平和と繁栄に代ろうとする偽物であるとの烙印が押されました。また同じ講演を1933年6月25日に158の放送局を通して再放送する計画もありました。その放送に備えて,500万枚のちらしが各家庭に配られました。カトリック教会は猛烈に激怒し,おどしを強めていったため,ものみの塔の番組を放送することを拒絶した放送局もありました。
1933年の下旬から1934年の初めにかけて,エホバの民は,そうしたカトリックの行為に抗議する嘆願状を全国的に回布しました。アメリカの議会にあてられたその嘆願状は,ついに,241万6,141の署名を得ました。1934年10月4日,J・F・ラザフォードは連邦通信委員会に出頭しました。彼は,特定な例とか統計を用いて,カトリックの圧迫がエホバの証人の崇拝の自由と,公共の益のためのラジオの使用をはなはだしく害したと報告したのです。連邦通信委員会は,証言を受けて事実が明らかになったにもかかわらず,ほとんど手を打とうとはしませんでした。したがって,エホバの証人はもう一度嘆願状を全国的に回布しました。この嘆願状も議会にあてられたもので,228万4,128の署名を得て1935年1月に提出されましたが,何の考慮も受けませんでした。その後の事情により,ついに,三番目の全国的な嘆願状が回布されるに至りました。263万人の署名者は,おどしとボイコットの手段に抗議し,ローマ・カトリック教会の高位僧職者とラザフォード判事との公開討論会を取り決めるよう要求しました。嘆願状の回布のわざに携わった,レオナルド・U・ブラウンは,「その討論を聞けたらうれしいというカトリック教徒にたくさん会った」と述べています。嘆願状は,1936年11月2日に連邦通信委員会に提出されましたが,またもや無視されました。
カトリックの僧職者はラザフォード兄弟と討論しませんでしたが,協会は1937年に「暴露」と題する小冊子を発行しました。それには,特にカトリックの偽りの教理を反ばくする基本的な聖書の教理が示されていました。家の人がその出版物に目を通している間に,証人は,ラザフォード兄弟の吹き込んだ「摘発」という一連のレコードを掛けました。「模範研究」第一号という質問集を使って聖書研究が行なわれることもありました。そのことについて,メルビン・P・サージァントは次のように書いています。「わたしは,ある男の人からそのレコード集を持って彼の家へ行くよう招かれました。その人は,研究に参加するよう親せきから3組の夫婦を招いていました。『摘発』のことや,『宗教とキリスト教』といった他のいくつかの題目を網らするのに数週間かかりました。出席した8人のうち6人がエホバに献身しました」。
1937年の11月以降,エホバの民は商業放送を利用することを自発的にやめました。その後も時折,協会の会長は放送網を通して公開講演をしました。また,WBBRが引き続き神の栄光のために働いたことはいうまでもありません。しかし,1937年の末から1940年代にかけて,幾百万もの家庭に王国の音信を伝えるため,蓄音機と聖書講演のレコードを使用することが盛んになって行きました。
「大群衆」を構成するのはだれか
これはエホバの民の間で長年にわたりさかんに論議されていた問題でした。長い間彼らは「大いなる群衆」(新世界訳では「大群衆」)を,天において14万4,000人と交わる副次的な霊的級,つまり,キリストの花嫁の付添人もしくは「友だち」であると考えていました。(詩 45:14,15。啓示 7:4-15; 21:2,9)それに加えて,早くも1923年に,イエスの羊とやぎに関するたとえ話の「羊」は,ハルマゲドンを生き残って神の新秩序へ入る現代の地的級であることが明らかにされました。(マタイ 25:31-46。啓示 16:14,16)「弁明」の1931年版(第一巻)は,生き残るために額にしるしを付けられた人々がキリストのたとえ話の「羊」であることを示しました。(エゼキエル 9章)1932年,現代の「羊」級はエヒウの随伴者であるヨナダブによって予表されていたという結論が下されました。1934年には,地的な希望を持つ「ヨナダブたち」は「聖別」されねばならない,すなわちエホバに献身した関係に入らねばならないことが初めて明らかにされました。しかし,啓示の7章で言及されている「大いなる群衆」がだれであるかは,それまでと同様に考えられていました。
「大いなる群衆」に関する疑問が取り除かれたのは,1935年5月30日から6月3日にかけて首都ワシントンで開かれたエホバの証人の大会中,ラザフォード兄弟がその主題を論じた時のことでした。その講演は,「大いなる群衆」が終わりの時の「ほかの羊」と同一の人々を指すことを聖書から明らかにしました。ウエブスター・L・ロウは,最高潮の時にJ・F・ラザフォードが,「地上で永遠に住む希望を持つ方々は全員起立していただけませんか」と言ったのを覚えています。ロウ兄弟によれば,「聴衆の半数以上が起立しました」。すると話し手は,「ご覧なさい。大いなる群衆です」と言いました。「最初,シーッという声が掛かりましたが,その後,喜びの叫びや歓声が高く上がってなかなか静まりませんでした」とマイルドレッド・H・コッブは回顧しています。
まもなく大会は終わりましたが,開始された事柄があります。それは捜すことです。「熱意が高まり,霊性が新たになったわたしたちは,まだ集められていない羊のような人々を捜すために自分たちの区域へ戻りました」とサディー・カーペンターは語っています。
主の夕食の時にそれまで象徴的なパンとぶどう酒にあずかっていた人の中には,1935年の大会のあとそれにあずからなくなった人がいました。それは,その人たちが不信仰になったからではなく,自分の抱く希望が天的なものでなくて地的なものであることを悟ったからです。また,それまで長年発行されていた協会の出版物は主としてイエスの油そそがれた追随者を対象にしていましたが,1935年以降「ものみの塔」誌や他のクリスチャンの出版物は,油そそがれた級と地上での見込みを持つ彼らの仲間双方を益する霊的な食物を供給しました。
真理を鳴り響かせなさい!
1930年代に,王国宣布者たちは羊のような人々を捜すために蓄音機を用いました。そのことについて,ヘンリー・カントウェルはこんな風に話してくれました。「協会が伝道のわざを拡大し始めた1933年に,全国各地で行なわれたJ・F・ラザフォード兄弟の講演を録音する取決めが設けられました。そのために,協会は電気蓄音機と呼ばれるものを作製しました。それは,バッテリーで動く,電気のピックアップつまり音管と増幅器および拡声装置の付いたバネ仕掛けの大きな蓄音機です。……そしてレコードにもいくつかの種類がありました。1枚で完結しているものもあれば,ひとつの講演が2枚から4枚のレコードに収められている場合もありました。つまり,15分の話,30分の講演それに1時間の講演があったのです。このようにして,わたしたちは自分が奉仕する様々な区域で公開講演を開くことができました」。
ジュリア・ウィルコックスは,このわざをさらに説明し,「わたしたちはまず1時間の講演を行なえる家,時には公共の建物 ― 古い納屋や教会の場合さえあった ― を見つけたものです。それからほとんど丸1日戸別訪問をして講演を宣伝し,交通手段を持たない人々とは,連れに行く取決めを作りました」と書いています。
蓄音機の集会を12回開くと一連の集まりが終わるのですが,その間に同じ区域は聖書文書を用いて3回網らされ,発表を携えて4回網らされます。店の窓にプラカードをつけたり,証人の自動車に広告をはったりして集会を宣伝することもしました。すぐれた結果が得られ,多くの人々は続けて勉強するためにやって来て,伝道のわざに参加することさえしました。
ラルフ・H・レッフラーによると,「協会は33 1/3回転のレコード数百枚を用いて王国の音信を広めました」。彼はさらにこう述べます。「多くの場合,宣伝カーやトラックが用いられました。……『王国の音信』ということばは,多数の警笛の横につけられました。いうまでもなく,それが主題でした。通りのあちこちやいなかの至る所でその音信は聞かれました。……静かな夜などに,谷間の小さな町を見降ろす丘の頂上に宣伝カーを止めると,数キロ先でも音の聞こえることがありました」。
ヘンリー・A・カントウェルはその思い出を次のように語ります。「区域に入ると,注意を引くために何か音楽のレコードをかけ,マイクロフォンを使って簡潔な発表をしてから講演のひとつを聞かせたものです。それから,お望みの方には係りの者が各家庭に伺ってさらにご説明します,と発表しました」。宣伝用の船もあり,同様に用いられました。
しかし,エホバの証人が行なった蓄音機による伝道は反対を受けずに済みませんでした。たとえば,レンナート・ジョンソンは次のように書いています。
「(イリノイ州の)ロックフォードの南に当たる郊外の第11番通りのある場所でのこと,宣伝カーによる伝道も王国の音信も好まない人がいました。その婦人は感情を抑え切れず,自分の車で宣伝カーのそばに接近すると,講演者のことばをかき消そうとするかのように警笛を3,4分の間思い切り大きく鳴らしました。それは,婦人の車のバッテリーがあがる結果になったに過ぎませんでした。その証拠に警笛はどんどん弱くなりました」。
一方,宣伝カーに関係した愉快な経験もあります。ジュリア・ウィルコックスは,「最初こわがった人もいます」と言ってから,こんな話をしてくれました。「その人たちは宣伝カーから遠く離れた所で野良仕事をしていました。それで,天から神について話す声がしたように思ったそうです。裁きの日が来たのだと思って,野良仕事をやめて家に帰ろうとした家族もあったということさえ聞きました」。
レコードを高らかに鳴らしなさい!
長年の間,携帯用の蓄音機は王国の伝道で重要な役割を果たしました。このわざの発展にとって,1937年9月15日から20日にかけてオハイオ州のコロンバスで開かれたエホバの証人の全国大会は大きな意味を持ちました。エルウッド・ランストラムは,その大会についてこのように語っています。
「この大会で,携帯用の蓄音機を玄関で用いて行なうわざのことが発表されました。それまで奉仕の時に蓄音機を持って行きましたが,家の中に招じ入れられた時にそれを掛けただけでした。……
「コロンバス大会では,『特別開拓者』の組織のあらましが話されましたが,それは,レコードを使った玄関での証言の運び方,関心のある人々を引き続き援助し(当初は『バック・コール』と呼ばれた),『模範研究』と呼ばれる取決めに従って行なわれる聖書研究の仕方などを先頭に立って示すためのものでした」。
その大会後まもなく,アメリカ全国からおよそ200名の特別開拓者が選ばれ,神の民の会衆がすでにあった大都市に派遣されました。それら全時間の伝道者は,携帯用の蓄音機を持って奉仕にでかけました。ほどなくして,エホバの証人一般が「蓄音機づい」て,協会のブルックリンの工場はわずか2年間に2万台を上回る蓄音機を作らねばなりませんでした。何万何千人もの王国宣布者はすべての人に聞かせるために蓄音機をかけて真理を鳴り響かせたため,それでも供給は需要に追いつきませんでした。
王国伝道者が用いた蓄音機自体,時の経過とともに変化しました。1934年ごろには,バネ仕掛けのモーターが付いていて,数枚のレコードを入れる場所のある丈夫でがっしりした型の蓄音機がありました。レコードを6枚入れると,その重さは21ポンド(約9.5㌔)になりました。伝道者はその蓄音機でかなり鍛えられました。2年ほどして,協会はもっと軽い蓄音機を作りました。その後,1940年の大会で新しい縦型の蓄音機が紹介されました。それは協会本部の兄弟たちが設計し組み立てたもので,縦の位置で動きました。文書を入れるちょっとした場所さえもありました。そこには小さな弁当も入ったことでしょう。この型の蓄音機のおかげで,戸別訪問による伝道のわざは大いに楽になりました。
では,30年ほど前に自分が王国宣布者として野外奉仕をしていると想像してみてください。「家の人が戸を開けると,わたしたちは,『あなたにお聞かせする音信があります』と言って,レコードの針を降ろしました。するとラザフォード兄弟の声が鳴りました」とL・E・ルーシュは当時を語ります。アンジェロ・C・マネラ2世は,「話の最後に,講演者はわたしたちが特に紹介している本にふれ,その値段を言いました。その後わたしたちは本を示して,相手に関心があればそれを配布しました」と言います。ジョージ・L・マッキーは,「わたしたちは決して無作法だったのではありません。どの人も王国の良いたよりを聞く必要があることを確信していたのです」と述べています。
蓄音機によるわざは,反対を受けずには行なわれませんでした。オーニスト・ヤンスマは次のように話してくれました。「目の前で自分の蓄音機が文字通りさんざんに砕かれた人が何人かいました。他の人たちは,蓄音機を玄関へ乱暴に投げ出されました。中西部のひとりの兄弟は,怒った農夫が猟銃で蓄音機を吹き飛ばすのをそばで立って見ていました。そして,その場を立ち去る時に,銃弾がうなって彼の自動車をかすめるのを聞きました。その頃,人々は乱暴で狂信的でした」。アメリア・ロッシュとエリザベス・ロッシュは,ある家の玄関先で「敵」と題するレコードを掛けて一群の人々に聞かせた時のことを話してくれましたが,講演が終わると,ひとりの婦人が蓄音機からレコードを取って,「法王様のことをそんな風に言えると思っているの!」と言いながらそれを壊してしまったそうです。
反対にめげず,蓄音機によるわざは進められましたが,1940年代には野外奉仕でそれを使用することは次第に行なわれなくなり,1945年以降は,10年間続いた蓄音機によるこの伝道運動は戸口で行なわれる口頭の証言に取って代わられ始めました。
昔行なわれた証言上の工夫のひとつに,1933年末に取り入れられ1940年代までよく用いられた証言カードがあります。ジョン・グローとヘレン・グローの説明によれば次のとおりです。「良いたよりの伝道者は現在ほど多くなく,また十分訓練されてはいませんでした。わざの助けとして,また区域をより良く網らするために,わたしたちは証言カードというものを用いました。それは印刷された短い聖書の話で,人々にそれを読んでもらいました。読みたくないと言う人や,手もとに眼鏡がなくて煩わしそうにする人には,わたしたちがカードに書いてあるのと同じ事柄を話してあげました」。
王国を宣伝するもうひとつの方法
1936年に開かれた,ニュージャージー州ニューアークの大会の時から,王と王国を宣伝するエホバの民に一般の人々の注意を促した大切なわざが始まりました。それがさらに進展したのは,1938年に英国のロンドンで開かれた大会の時です。数年後,このわざは,情報行進と呼ぶにふさわしいほどのものになりました。1936年のニューアーク大会を振り返って,ローザ・メイ・ドレヤーはこう語っています。「主要な講演を宣伝するために,『サンドイッチ広告』つまり肩から前と後ろにつるしたプラカードが用いられました。(伝道者はプラカードで『サンドイッチ』にされたのです。)ビラも配られました」。
1938年のロンドン大会の時,J・F・ラザフォードの指示で,数人の情報行進者はさおに付けた非常に考えさせる内容の広告を携えていました。A・D・シュローダー(当時英国で協会の支部事務所の監督をしていた)は一部このように話してくれました。
「……次の夜,ノア兄弟とわたしは最初の行列の先頭を歩きました。それはおよそ10キロにわたる行進で,千人ぐらいの兄弟たちがロンドンの目抜き通りを歩いたのです。『事実を直視せよ』というプラカード(ロイヤル・アルバート・ホールで行なわれる公開講演の宣伝)を持った人と,『宗教はわなであり,商売である』というプラカードを持った人が交互に並んでいました。それは実に,その晩の見物でした。
「翌朝ラザフォード兄弟はわたしを彼の事務所に呼んでどんなことがあったかを報告させました。わたしは,非常な注目を集めたこと,また多くの人はわたしたちの後で『共産主義者』と叫んだことを話しました。すると彼はペンでいたずら書きをしながら数分の間考えていました。もう一枚の紙がはぎ取られてわたしに手渡されました。そこには,『神と王であるキリストに仕えなさい』と書いてありました。ラザフォード兄弟はわたしに,三番目の広告にそのようなことばを載せれば,前の夜のやじを打ち消すことができると思うか尋ねました。わたしは,『そう思います』と答えました。そこで彼は,そのことばを印刷して次に行なわれる2日後の夜の行列で使うように指示しました。わたしたちはそのとおりに行ない,すぐれた結果を得ました。こうして,わたしたちは三つの広告を交代に用いて,大会の開催日である9月9日から11日以前に目立つ行列を数回行ないました。英国政府は何年もの間,わたしたちがラジオから教育番組や発表を放送するのを認めませんでしたから,行列を用いるその方法は,一般の人に知らせるのにたいへん効果的なことがわかりました」。
グラディス・ボルトンにとって,情報行進は「すべてのわざの中で一番難しいわざ」でした。彼女は,「各のプラカードの内容は異なっていましたが,わたしの頭から離れないのは『宗教はわなであり,商売である』というプラカードです。牧師はそれをどんなにか『喜んだ』ことでしょう」とも語っています。「宗教はわなであり,商売である」という広告について,ウルスラ・セレンコは次のように述べています。「その時には『真の宗教』とか『偽りの宗教』とか呼びませんでした。宗教はすべてひっくるめて悪とされました。わたしたちが真のと言えば『崇拝』のことを指していたのであり,偽りのものは『宗教』でした」。
情報行進に対して時々あからさまな敵意が示されました。「(ペンシルバニア州の)ピッツトンのようないくつかの町では,わたしたちは快く受け入れられませんでした。多くの人々はわたしたちにつばを掛けたり,ありとあらゆる種類の下品な名前で呼び,わたしたちが共産主義者だと言いました。物を投げたり,ある人は実際にこぶしで殴ったりしました」とジョン・H・ソヴィルダは語ります。
では,エホバの証人はなぜ情報行列に加わったのでしょうか。「偽りの崇拝に関係した事柄や,わたしたちクリスチャンのわざに向けられている反対のことを人々に知ってもらうのは重要だと感じていたのがおもな理由です」とチャールズ・C・エベールは語ります。アンジェロ・C・マネラ2世は次のように述べています。「わたしたちが行なうよう計画された奉仕の新しい方法をエホバに仕える別の仕方,エホバに対する自分の忠節を示すもうひとつの方法,忠誠に対する別の試みというように見なしました。わたしたちは,エホバが求めるならどんな方法ででもエホバに喜んで仕えたいと思っていることを是非証明したいと望んでいました。
グラント・スーターは,情報行進が「ものみの塔」誌上の発表により1939年11月以降行なわれなくなったと語り,さらにこう付け加えました。「エホバの証人の奉仕に多くの人の注意を向けることに成功したこの珍しい方法は,その時代に類を見ないものでした。それが用いられるようになったことも,用いられなくなったことも,そこにエホバの指導があったことを示しています。最近(1970年代の)あらゆる形のデモが一般に行なわれていますが,わたしたちはどんな方法にせよそれに参加していませんし,わたしたちが行なっているどんな事もそうしたデモと混同されてはなりません」。
雑誌を通して「真の知恵」を広める
王国伝道者には,戸別訪問による伝道の際に「ものみの塔」誌や「慰め」誌の予約を提供することにより,「大群衆」を集めたり真の知恵を広めたりすることに貢献するすぐれた機会がありました。1938年の4月から6月にかけて行なわれた,「慰め」誌の初めての予約運動中,アメリカで7万3,006件の新予約が得られました。毎年行なわれる「ものみの塔」誌の予約運動が初めて行なわれたのは1939年の1月から5月にかけてでしたが,その時アメリカのエホバの証人だけで9万3,000件の新しい予約が得られました。
しかし,「ものみの塔」誌と「慰め」誌は,特別な方法で一般の注意を引くことになっていました。「真の知恵」は文字通り『街にその声をあげ』ようとしていたのです。(箴 1:20)それは,つまり1940年2月から始まった街頭での雑誌活動のことです。この活動をするエホバの証人は,特別なデザインの雑誌用カバンを肩から掛けて繁華街の角に立ちました。そのカバンには,二種類の雑誌の名前が書いてあり,1冊5㌣寄付であることが示されていました。王国宣布者は,「慰め」誌を高く掲げて,「他の雑誌があえて印刷しようとしない事実を載せています」と大きな声で言うこともありました。他の標語の中には,「宗教の商売を暴露しています」とか「『ものみの塔』誌は神権政府を説明しています」というのがありました。そのわざをする伝道者は街頭でていねいなことばづかいをし,上品な態度を保つよう勧められました。いうまでもなく通行人は引き付けられ,多くの人々が好意的に応じました。
雑誌の街頭伝道がどのようないきさつで行なわれるようになったかを知りたい方もおられることでしょう。S・E・ジョンストンの記憶では,1939年に協会はすべての地帯のしもべ(今日の巡回監督の前身)にあてて「ものみの塔」誌と「慰め」誌を人々に手渡す様々な方法を試みるようにという手紙を送りました。ジョンストン兄弟は,新聞配達の少年が肩から袋をさげているのを思い出して,「ああいったものを試してみるのはどうだろう」と考えました。デイブ・ローシュとエマ・ローシュは雑誌のカバンを作るのを引き受け,ふたりの娘にあたるベラ・コウテスは「一方に『ものみの塔』,他方に『慰め』」という文字のはいった色彩豊かな絹地をつけました。ジョンストン兄弟がカリフォルニア州のコンコードにある小さな会衆を訪問した時,一群の人々が彼に加わって街頭の証言をしました。彼は次のように書いています。「翌週ローシュ家の人たちはさらに多くの雑誌用カバンを作ってくれました。そして,オークランドの繁華街で試してみました。ある兄弟たちは最初少し恥ずかしがっていましたが,街頭のわざは人気を得,他の仲間(会衆)から雑誌用カバンの注文が来るようになりました。それでわたしは協会に報告を書いて見本のカバンを送りました。……協会は,わたしを含めその活動を試験的に行なった関係者全員に感謝していること,またまもなく『通知』に発表する旨を書いた手紙をくれました。そしてその通り発表されました」。
協会は雑誌用カバンを供給する取決めを設けました。ニコラス・コバラク2世は次のように語っています。「ニュージャージー州のパッサイク会衆の伝道者は協会のために雑誌用カバンを作る特権を得ました。わたしたちは生地を裁断して雑誌用カバンを縫いました。土曜日と日曜日に,縫える人で自発的に行なう気持ちのある人は皆,フランク・カタンザ兄弟のズボン縫製工場に集まり,アメリカ全土の兄弟のために雑誌用カバンを縫う特権にあずかりました。……印刷の方は協会がしました。ですから,雑誌用カバンを見るたびに,エホバの王国の宣伝にわずかながら参加しているということを感じました」。
1940年2月当時,「ものみの塔」誌と「慰め」誌を持って街頭に初めて立った時はどんな様子だったでしょうか。ピーター・デュミューラは次のように答えています。「わたしは,1940年2月1日のことを実によく覚えています。……わたしたちはどのように迎えられるでしょうか。近所の人や町の人たちはどんな反応を示すでしょうか。わたしたちは興奮しました。そのわざを2時間しようと考えていました。……ほんとうに驚いてしまいました。適切な標語を使って人々に近づくとそれは成功しました。どの人もたくさんの雑誌を配布しました」。
一般の反応についてグレース・A・エステプはこのように回顧しています。「最初人々は,興味と時には怒りのまざった驚がくのようなものを感じたようです。それからたいへん当惑して,口をききたくない隣人を避けるためにこちらの通りから向こうの通りに逃げましたが,それでも無視したことを恥ずかしく思っているようでした。でも,数週間後にはあきらめて,街頭伝道者が話しかけると快く会話に加わったり,雑誌をのぞいていったりしました」。
その頃,エホバのしもべが雑誌の街頭伝道をしていると,暴徒が暴力を振るうことが時々ありました。たとえば,H・S・ロビンズは,数年前にテキサス州のサン・アントニオで雑誌の街頭伝道をしている時,兄弟と他の王国伝道者が怒った暴徒に襲われたことを記憶しています。事情が明らかになった時,けがをしたエホバの証人はいませんでしたが,暴徒ではなくて彼らが逮捕されました。ロビンズ兄弟は次のように語っています。
「わたしたちは釈放されると,再組織をして次に何を行なうか考えるために王国会館に戻りました。……わたしたちは再組織をし,もとの所へ戻って行きました。
「わたしたちが下町に戻った時には新聞の『号外』が出ていて,新聞配達の少年が『エホバの証人は町から追い払われた』と叫んでいました。しかし,わたしたちは再び通りの随所にいたのです。……わたしたちは確かに町から追い払われたのではなく,また立ち去ろうともしていませんでした」。
「選出された長老たち」
聖書中で,神の民はエホバを天の羊飼いとする羊として特色づけられています。(詩 28:8,9; 80:1。エゼキエル 34:11-16)彼らはエホバのやさしい世話を受けるほか,りっぱな羊飼いであるイエス・キリストの助けと指示,およびクリスチャン会衆内の他の羊飼いの援助をも享受しています。(マタイ 25:31-46。ルカ 12:32。ヨハネ 10:14-16。ペテロ第一 5:1-4)1870年代から1932年にかけて,神の民の間では会衆ごとに長老職に選出された人々が会衆の聖書研究や講演を監督しました。そして会衆ごとに執事の職に選出された人々は彼らを援助しました。C・W・バーバーによれば,長老は,「集会を司会したり,講演をしたり,全体的な監督をして霊的な事柄に率先し」,一方執事は「座席の取決めを扱ったり,霊的な事柄以外で援助をするなど案内係として用いられました」。
長老と執事は,各会衆に交わる人々の挙手によって毎年会衆ごとに選出されました。「選出について」,ハーバート・H・アボットはこう説明しています。「当時,使徒たちの活動 14章23節で『選び』(文語。新世界訳では『任命し』)と訳されていたギリシャ語は,手を伸ばすことと関係があり,クラスの指導者を選出する際に選出者となることを意味すると考えられていました。(ロザハム訳の使徒 14章23節をご覧ください。)そのことばが使徒たち,もしくは統治体によって,任命される,または指名されるという意味で使われるようになったということを当時は知りませんでした」。
「会衆の監督者として選ばれる人々の霊的な資格を決めたのは何でしたか」とヘンリー・A・レブは尋ねます。そして一部こう答えます。「ひとつには,新しく信者になった人は選ばれませんでした。それは確かに聖書的でした。選出のための集会に先立って,務めに対する資格がテモテ第一 3章1-13節,およびテトス 1章5-9節から読まれました」。エディス・R・ブレニスンは次のように語っています。「指名された人の一覧表ができあがると,指名された各人の資格や能力を聖書に従って注意深く,また祈りを込めて考慮し,決定をする上で聖霊の導きを求めるよう真剣に勧められました。……決められた時に再び集まって指名された人々を選出しました」。
ある所では,長老を選出するうえで問題が生じました。アベリ・ブリストウ姉妹の記憶では,「選挙運動や競争がありました。そのためにある会衆では兄弟姉妹のあいだに分裂や徒党がありました。他のグループの人たちと話そうとしない人さえいました」。ジェイムズ・レットスは,「ある人たちは自分が選出されないと非常に腹を立てさえしました」と語っています。
野外奉仕に関連して問題の起きたこともあります。ウルスラ・C・セレンコは次のように書いています。「全員が文書を用いての戸別訪問による証言,特に日曜日に戸別訪問のわざに参加するようにという発表が行なわれた1927年までは万事がうまくいっていました。わたしたちの選出した長老たちは反対で,全クラスにそうしたわざを少しでも行なったり,何らかの形で参加したりするのを思いとどまらせようとしました。クラスが味方をするようになったり,分裂が明らかに見え始めました」。戸別訪問による伝道のわざに対する長老の態度は非常に重要でした。したがって,毎年行なわれる選挙の時にはその点がはっきりと強調されたようです。たとえば,H・ロバート・ドーソンによると,1929年にペンシルバニア州ピッツバークの長老と執事の候補者は,「あなたは奉仕のわざに喜んで参加しますか」という質問に答えなければなりませんでした。
J・M・ノリス姉妹の話では,ある長老たちは優越感を抱いていて,講演することだけを望みました。彼女はさらに,「他の長老は『ものみの塔』誌の記事に批判的で,それを神が依然として用いておられる真理の径路として受け入れようとせず,いつも自分の考え方をもって他の人々に影響を与えようとしました」と語っています。
しかし,選出された長老すべてが誤った態度,もしくは精神を持っていたと結論すべきではありません。多くの長老は,クリスチャンとして神の民の羊飼いの責任を忠実に果たしました。(ペテロ第一 5:1-4)「伝道のわざを妨げる障害物をいつも置いていたのはほんの数人にすぎませんでした」とジェイムズ・A・バートンは語ります。ロイ・E・ヘンドリクスによれば,「長老の多くは真に献身した聖書研究者,正真正銘のエホバの証人でした」。クラレンス・S・ハゼイは,「そうした長老の多くは,会衆の福祉を気づかうりっぱな円熟したクリスチャン兄弟たちでした」と述べています。エホバはご自分の民を牧しておられました。そして,献身した崇拝者の益のためにそうした人々を用いることを喜んでおられました。
「選出された長老たち」は長年のあいだ会衆の活動を監督しましたが,1932年になって,一時的な変化が生じました。ブルックリンのベテル家族の古い成員は,1932年10月5日,水曜日晩にブルックリンのアポロ・ホールで開かれた集会のことを今でも覚えています。その時,ニューヨーク会衆の成員約300名は,ニューヨーク市で長老を選出することをやめるという決議を承認したのです。(「ものみの塔」誌〔英文〕の1932年9月1日号265ページと266ページおよび1932年10月15日号319ページをご覧ください。)他のほとんどすべての会衆は,類似した決議を承認して,長老を選出することをすみやかに停止しました。こうして,1932年は,「奉仕委員」と呼ばれる一群の円熟したクリスチャン男子が「選出された長老」に取ってかわった年となりました。奉仕委員は,ものみの塔協会によって任命された奉仕の主事を援助するために会衆によって選ばれました。
1932年に設けられた新しい取決めはいくらかの問題を起こし,ある人々は組織を離れました。しかし,会衆の大多数とそこに交わる人々は組織による調整を喜んで受け入れました。
組織の機構上の他の発展
長年にわたり,イエス・キリストの油そそがれた追随者である兄弟たちだけがクリスチャン会衆の責任ある立場についていましたが,1937年に変化がもたらされました。グラント・スーターは次のように書いています。「組織の面で,わたしたちは,1937年5月1日号の『ものみの塔』誌に載せられた,(地的見込みを持つ)ヨナダブ級の人々が会衆の奉仕の立場に任命され得るという主旨の勧告によって援助されました。……8月15日号の『ものみの塔』誌は,ヨナダブが会(会衆)で奉仕委員を務めたり,他の類似の立場で奉仕したりできることを指摘しました」。「ものみの塔」誌によれば,油そそがれた残りの者の資格ある成員で奉仕できる人のいない場合は,「ヨナダブ」が「会のしもべ」もしくは主宰監督になることができました。「やがてもたらされようとしていた大きな増加に対してエホバがいかに備えを設けられていたかがわかります」とノーマン・ラーソンは述べ,こう付け加えました。「わたしのように地的な級の人々にとって,それは確かに新たな視野を開きました」。
1938年には,もうひとつの重要な組織上の発展がありました。「ものみの塔」誌に載った,「行動上の一致」(5月15日号)および「組織」(6月1日,15日号)と題するそれぞれの記事は,監督と補佐を任命する権威が個々の会衆にないことを明らかにしたのです。世界中の会衆は「ものみの塔」誌に提示された決議を考慮し,「協会」が奉仕のために会衆を組織して,「その様々なしもべを任命する」,すなわち各地の責任ある立場につくすべての人を任命することを求めるよう提案されました。(1938年の「ものみの塔」誌〔英文〕169,182,183ページをご覧ください。)ほとんどの会衆はその決議を採択しました。そうしなかったわずかの会衆は,まもなく霊的な視力と王国の奉仕に関連して持っていた特権とを失いました。
「王国会館」
天の羊飼いであられるエホバは,ご自分の民に豊かな霊的備えを設けられます。彼らを養ううえで大きな役割を果たしているのはクリスチャンの集会です。(ヘブライ 10:24,25)神の現代のしもべは,しばしば,個人の家に集まったり一般の建物を借りたりしました。しかし,天の王国は1914年に誕生したので,やがて彼らは,おもな集会場所を「エホバの証人の王国会館」と呼ぶようになりました。
ドメニコ・フィネリによれば,最初の王国会館は1927年にペンシルバニア州のロセトで建てられました。彼は,その「落成式の時にジヨバンニ・デチェッカ兄弟が公開講演をした」と語っています。しかし,「王国会館」という名前が一般に使われるようになったのは1935年以降のことです。その年,ものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードは,ハワイ諸島を訪れ,ホノルルで支部事務所設立に着手しました。支部の建物に付随して大会ホールも計画され,それは「王国会館」と呼ばれました。
1935年以降,各地のエホバの証人は建物を借りたり,大会のために建物を準備したり,王国会館として建物を使用したりしてきました。しばしば会衆は土地家屋を購入し,建物を修復したり新築したりして聖書研究と神の崇拝のための場所にしました。最近のこと,W・L・ペレは適切にも次のように語りました。
「王国会館は,外見が美しく内部は小じんまりと便利にできています。それに,新しく関心を持った人が入って来た時に居心地よく感じるばかりか,外見が美しいので無言の証言になります。建築のための労力の非常に多くは兄弟たちや深い関心を持つ人々によって提供されました。わたしたちは,(悪魔の世界に見られる)『建てて貸付ける」方式を採ったことはありません。資本も財産もエホバの証人が使用する範囲内にとどめられています。それは,はるか昔に見られたイスラエル人の『荒野における天幕』の場合と同様です。(使徒 7:44)それほど前のことではありませんが,『どうしてみなさんは使っておられる建物を「王国会館」と呼ぶのですか』と聞かれたことがあります。わたしはこう答えました。わたしの辞書の『ホール(会館)』の項によれば,その第一義は『もっぱら一般業務のために使用される建造物』となっています。王国会館は全能の神とその王国の業務のためにもっぱらささげられていますから,これ以上にふさわしい名前はありません」。
地帯の奉仕はエホバの民を強める
1930年代に,増加の一途をたどる「大群衆」が流れのように王国会館に集まるにつれ,神の民の会衆を強める意図を持った活動が始まりました。(啓示 7:9)それは今日の巡回のわざに似た地帯のわざです。その国の特定の地域にある20ほどの会衆がひとつの地帯を形成していました。各会衆を訪問して,たいていその会衆に一週間滞在する地帯のしもべが協会によって任命されました。地帯のしもべの目的は組織的に会衆を強め,伝道のわざの面で会衆を援助することでした。時折,ひとつの地帯の会衆は地帯の大会に集まって聖書の教えや霊的な援助を受けました。そうした大会で奉仕するため,特別なしもべたちが協会の本部から派遣されました。地帯のわざは1938年10月1日から始まり,1941年11月いっぱいまで続けられました。
クリスチャンたちが地帯のわざにどのように反応したかについて,エドガー・C・ケネディはこう語っています。「彼らは強い精神を持っていて,わたしたちの訪問に対する感謝を暖かく表わしてくれました。会(会衆)はどこも小さかったのですが,そこには活発なふんい気が見られました。会が神権的な指示を喜んで受け入れ,真理を愛し,群れの奉仕と模範研究を伴うわざに応じたので,成長のきざしが見えはじめつつありました。新しい会がいくつか形成されるようになりました」。
「救いはエホバにあり」
その頃エホバの証人は激しい迫害の的となっていましたから,強いクリスチャンの組織がぜひとも必要でした。迫害が強くなり始めたのは1935年のことです。その年の6月3日,月曜日に首都ワシントンでの大会においてラザフォード兄弟は学童の国旗敬礼に関する質問に答えました。彼は,地的な象徴を敬礼してそれに救いを帰することは神に対して不忠実な行為であり,自分は国旗を敬礼しないと大会の聴衆に話しました。
H・L・フィルブリクの話では,ラザフォードの解答は「いく人かの若い人に聞かれたに違いありません。というのは,その年の秋に学校が始まると,突然,ボストンの新聞の見出しに,マサチューセッツ州リンに住むある少年が新学期の初めに学校で国旗敬礼を拒否したことが出たのです。その少年の名前はカールトン・ニコルスでした。同じ日,マサチューセッツ州のサドベリの学校でバーバラ・メレディスという少女も同様の立場を取りました」。しかし,彼女の担任の教師は寛容でそれを問題にしなかったため,少女のことは新聞で取り上げられませんでした。
幼いカールトン・B・ニコルス2世が国旗に敬礼することを拒否したのは1935年9月20日でした。その事件はアメリカ全土で公表されました。連合通信社はものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードに近づき,その件に関するエホバの証人の見解について公式の声明を求めました。声明は与えられましたが,新聞社はそれを発表することを拒否しました。そこでラザフォードは1935年10月6日の全国放送を通して,「国旗敬礼」という主題の話をしました。その講演は「忠節」と題する32ページの小冊子の形で出版され,何百万部も配布されました。新聞社に対するその解答の中で,ラザフォードは,エホバの証人は国旗を尊重するが,聖書的な義務と神との関係からどんな偶像に対しても絶対に敬礼できないことを示しました。エホバのしもべにとって,それは十戒中に述べられている諸原則に反する崇拝行為となります。(出エジプト 20:4-6)その解答はさらに,主としてクリスチャンの両親は子どもを教える責任を持っており,子どもたちは聖書に対する両親の理解と認識に従って真理を教えられねばならないことも示していました。
多くの学校職員は寛大でしたが,他の人々は専横な振舞いをして,国旗敬礼拒否を理由にエホバの証人の子どもたちを放校処分に付しました。その一例として,1935年11月6日に,エホバの証人の子どもふたりはペンシルバニア州マイナースビルの公立学校からこの理由で放校処分を受けました。ふたりの父親であるウォールター・ゴビティスは,マイナースビル学区の教育局を相手取って訴訟を起こしました。訴訟はペンシルバニア州東部地区の合衆国地区裁判所で始められ,エホバの証人に有利な判決が下されました。その判決に対して異議が申し立てられましたが,証人は巡回上訴裁判所でも有利な判決を勝ち得ました。しかし,事件は次に合衆国最高裁判所に持ち込まれました。1940年6月,同裁判所は8対1で有利な判決をくつがえし,悲惨な結果をもたらしました。
ひとつの場所から他の場所へと各地で,国旗敬礼に対する聖書的な立場のためにクリスチャンは迫害されました。たとえば,1940年6月20日に,数名の警官を交えた暴徒はメリーランド州ロックビルで聖書の集会を開いていたエホバの証人を攻撃しました。暴徒の指導者は,王国会館に押し入ると国旗を掲げて,「アメリカ時間で2分を与えるから国旗に敬礼しろ。さもないと虐殺だ」と言いました。ソティール・K・バッシルはその時の模様をこう伝えています。「1分ほど沈黙がありましたが,突然,集会に初めて来た男の人が恐怖にかられて飛び上がるなり,国旗に敬礼して出て行きました。……他のだれも国旗に敬礼しませんでした。2分たつと,指導者はわたしが手にしていた物を全部たたき落とし,いす,その他『なにもかもばらしてしまえ』と暴徒に命じたため,調度品が飛びはじめました。腰にピストルを付けたふたりの警官が彼らに混じっていたので,わたしはふたりのところへ行って何とかしてもらえないかと頼みました。ふたりは口さえきかず,暴徒を止める何らかの行動を取る様子すらありませんでした」。事態は悪化して行きました。バッシル兄弟の話は続きます。「暴徒は悪鬼の一味のように振舞い始め,わたしたちを押したり突いたりして会館から出しました。そして,『やつらはナチだ。殺せ。殺せ』と叫び続けていました。会館にいた子どもの中の数人が泣き始めると,暴徒のある者は『あのがきどもを窓からほうり出してしまえ』と叫びました。彼らはわたしたちを建物から街路へと文字通りけちらかし,次には『町から追い払うんだ。町から追い払うんだ』とわめいていました」。
その後,暴徒を逃れたバッシル兄弟は,地帯のしもべのチャールズ・エバールに会いました。エバールはただちにその事件を合衆国法務長官に報告しました。連邦調査局は翌日事情を調べ始め,ついに,事は法廷に持ち出されました。バッシル兄弟はこう語っています。「裁判はわたしたちに有利な結果となってエホバに栄光が帰されました。その後,ロックビル町区はわたしたちの集会のつど王国会館を警備する警官を配置してくれたので,再びそうした事件が起こることはありませんでした。わたしたちの新たに作られた会衆と王国会館を滅ぼすためのサタンの手だてはその時失敗したのです。―イザヤ 54:17」。
この話はひとつの例に過ぎません。他にも多くの事件がありました。たとえば,インディアナ州コンネースビルでは,証人たちの弁護士が打ちたたかれて町から追い出されました。神のしもべたちはそうした激しい迫害に忍耐を示し続けました。なぜなら,彼らは聖書に堅く付き従い,敵や危険からの救いと釈放が国家からではなく神からもたらされることを勇敢に主張したからです。確かに,『救いはエホバにあり』ます。―詩 3:8。アメリカ標準訳(英文)と比較してください。
王国学校
学校で国旗敬礼が強制された結果,エホバの証人の生徒多数が放校処分を受けました。しかし,ものみの塔協会は真のクリスチャンが子どもに教育を施すのを援助しました。早くも1935年に,その目的で私設の「王国学校」が開かれたのです。その学校では,エホバの証人の中の資格を持つ教師が自分の時間と力を捧げて公立学校から放校された証人である子どもたちの教育に当たりました。神の民は,そうした私設の学校を各地で組織し,経済的に支援しました。
ニュージャージー州レイクウッドには王国学校のひとつがありました。かつてそこの生徒だったC・W・アーリンメヤーの話では,1階がレイクウッド会衆の王国会館および教室と台所と食堂になっていました。女生徒の寝室は2階,男生徒のそれは3階でした。アーリンメヤー兄弟はこう述べています。「むろん,生徒の大半はそこに寄宿して,家に帰るのはせいぜい週末でした。遠方から来ていた生徒は一週おきの週末に帰りました。最後の年には,戦時中でガスが配給になったため,2週間おきに家へ帰りました」。
なすべき仕事がたくさんあったので,食事を作る人とそうじをする人がいました。しかし,子どもたちも割当てを受けて,料理を作ったり皿を洗ってふいたり,ゴミを捨てるなどの手伝いをしました。朝の食卓では日々の聖句の討議が行なわれ,授業は毎朝30分の聖書研究で始まりました。したがって,子どもたちは霊的に養われ,さらに,土曜日と日曜日には野外奉仕に参加して,自分が学んだ事柄を用いる機会にあずかりました。
ペンシルバニア州のゲイツにも王国学校が建てられました。そこで教べんを執っていたのは,担任のクラスで忠誠の誓いや国旗敬礼をさせようとしなかったために解雇された公立学校の教師グレース・A・エステプでした。エステプ姉妹は,王国学校の第一年目の思い出を,あらゆる方面の「役人」が何か理由を見つけて学校を閉鎖しようとしたため「騒乱の一年」だったと語っています。彼女はさらにこうも述べています。「学校その他の関係の役人が,あらさがしをしたり,いっそう困らせる目的で授業中に入ってくることがよくありました。そのうえ,一般の人々の多くに愛国熱が行き渡っていました。ある時など,怒った群衆が,わたしたちの家主に抗議し,学校を爆破するか焼打ちにするために集まりました。でも,家主は町の有力者でしたし,学校を爆破すると(同じ建物の中にあった)理髪店をも爆破しなければならなかったので,そうするのをあきらめました」。やがて生徒数は増加し,幼稚園,小学校8学年そして中学校4学年を設けることが必要になりました。
王国学校の教育の方の成果はどうだったでしょうか。マサチューセッツ州サウガスの学校で教えたロイド・オーエンは次のように伝えています。「どれほど成果があったかを見るためアチーブメントテストをすることにしていました。ほとんどの場合,生徒は普通の学力より半年か1年進んでいました。……1年に少なくとも2回試験をしましたが,生徒はそうした優秀な成績を維持しました」。
王国学校に関係した人々の間にはすぐれた精神が行き渡っていました。エステプ姉妹はこう語っています。「皆さんはほんとうにすばらしく,とても多くの方法でいつも援助を差しのべてくださいました。その全体は一種の共同体のようなもの,各人が皆何らかのかたちで関係した『共同体』でした。その頃やさしい仲間の人たちがしてくださったすばらしい事柄すべてを思い起こし,あの方々のとどまる所を知らないエホバへの愛を思う時,わたしの胸は愛と感謝でふくらむのです。お金はなくても,時間と体力の及ぶ限り必要な物を整えてくださいました」。
最高裁判所は自らの判決を翻す
1942年6月8日,合衆国最高裁判所は,ジョーンズ対オペリカの許可税をめぐる裁判でエホバの証人を5対4で有罪としました。ところが,興味深いことに,ブラック裁判官とダグラス裁判官それにマーフィ裁判官は意見を異にしたうえ,1940年のゴビティス国旗敬礼事件の票決を撤回しました。それに伴い,ものみの塔協会の弁護士は,西ヴァージニア州教育委員会を相手に西ヴァージニア州南部地域合衆国地域裁判所に禁止命令請願を提出しました。強制的国旗敬礼法の実施を抑えるのがその目的でした。3人の裁判官は全員一致でエホバの証人に有利な判決を下しましたが,西ヴァージニア州教育委員会は上訴しました。1943年6月14日旗の日に,合衆国最高裁判所は(西ヴァージニア州教育委員会対バーネットの争いで)学校の理事には放校処分をとる権利はなく,したがって国旗を敬礼しないエホバの証人の子どもを教育するのを拒否する権利はないと決め,ゴビティス事件におけるその立場を翻しました。
その判決は,ゴビティス事件における最高裁の決定をくつがえすものでした。国旗敬礼に対するクリスチャンの立場に関連した問題がそれによってすべて解決したわけではありませんが,王国学校はもはや必要ではありませんでした。したがって,エホバの証人の子どもは約8年ぶりで公立学校に戻ることができました。
「良いたよりを擁護して法的に確立する」
エホバのクリスチャン証人は,老若を問わず,迫害されることを予期しています。結局,イエスが弟子たちに言われたとおり,「あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的になるでしょう」。(マタイ 10:22)「実際」,パウロは書きました,「キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受けます」。(テモテ第二 3:12)迫害は時に,許可なく販売するもしくは平和をかき乱すといった偽りの告発によるクリスチャンの逮捕という事態にまで至ることもありました。最初統計は取られていませんでしたが,1933年にはアメリカ全国で268件の逮捕が報告されました。1936年までにその数は1,149件に上りました。不当にも,エホバの証人は福音宣明者としてよりもむしろ,勧誘員もしくは行商人の部類に入れられました。
といっても,エホバの証人は戦わずして逮捕や裁判また投獄の苦しみに遭うままになったわけではありません。法廷での不利な判決を上訴する方針をとったのです。エホバの援助により,彼らは「良いたよりを擁護して法的に確立すること」ができました。―フィリピ 1:7。
わずか数ページで,感動的な劇を再演する,つまりエホバのしもべが伝道の自由のために戦った勇敢な神権的闘争の数々の場面を再現するのは不可能でしょう。それでも,荒れ狂った「ニュージャージーの戦い」から始めるのは適切です。『火ぶた』が切られたのは神のしもべ数名がニュージャージー州のサウス・アンボイで逮捕された1928年でした。しかし,同州の証人に対するカトリックの主戦場となったのはプレインフィールドでした。
プレインフィールド事件
エホバの民が迫害される土地としてプレインフィールドが筆頭にあげられていたため,J・F・ラザフォードはそこにおいて「今日,我が国に宗教的偏狭が見られるのはなぜか」という主題で公開集会を開くことを決めました。1933年7月30日のその特別な催しに対して,おそらく劇場を警備するつもりなのか,こちらが招待せず,望みもせず,必要ともしない50名ほどの警官が入って来ました。なんとか集会を妨害し,あわよくば講演者を葬り去ろうとうかがうカトリックの僧職者の要請でやって来たことに疑問の余地はありませんでした。
劇場に着いたラザフォード兄弟は,幕の背後で警官が兄弟と聴衆に向けて二丁の機関銃を持っているのに気づきます。兄弟は抗議しますが,警官も武器も動きもしません。警官たちは,暴動が起きるという内報を受けているので秩序を維持するためにその場にいるのだと言います。ジョージ・ギャンギャスは,話が終わるまで緊張したふんい気だったと言っています。彼は特に,ラザフォードの講演の結論に近い,次の部分にひやひやさせられました。
「人々を真理に対する無知の状態に置いて,自分たちがあばかれないようにするために,エホバの証人に対する迫害を黙認したりそれを引き起こしたりした司祭と牧師に恥がもたらされるように。自らの利己的な目的にかなうように,エホバの証人を利己的な行商人や呼売り商人の部類へ唯々諾々とまた進んで入れてきた公官吏に恥がもたらされるように。法廷の判事席で審理をする法律家たちに恥がもたらされるように。彼らは個人的な利益が失われるのを恐れるゆえに問題を回避し,行商人や呼売り商人を取り締まる市条令の制定および施行によって神の王国の福音を伝道することが妨げられて然るべきか,という問題に勇断を下すことを怠ったり拒否したりしているのである」。
ギャンギャス兄弟は次のように認めています。「わたしは内心,『今度は撃たれるだろう。今度こそ逮捕されるだろう』と言い続けていました。しかし,『偏狭』の小冊子の前置きに述べられていたように,『〔エホバ〕の使いは〔エホバ〕をおそるる者のまわりに営をつらねてこれを助け』ました」。(詩 34:7)厳しい状況でしたが,ラザフォード兄弟の講演は何事もなく行なわれ,熱烈に受け入れられました。後に「偏狭」の小冊子が出版され広く配布されました。
証人は独裁者に告げる
エホバの証人が言論と崇拝の自由のために戦っていたのはアメリカだけではありませんでした。いわゆる「聖年」の1933年6月にアドルフ・ヒトラー政権はマグデブルクにあったものみの塔協会の資産を占拠し,同年の10月にそれを返還したものの,ドイツのエホバの証人の集会と文書配布を禁止しました。1934年10月7日,ドイツのエホバの証人はいくつかの群れになって集まり,真剣な祈りをささげた後にヒトラー政府の役人にあてて抗議の電報を打ちました。しかし,他の国々の神のしもべたちも何もせずに傍観してはいませんでした。
グラディス・ボルトンは次のように回顧しています。「1934年のある晩,奉仕会で,特別なことがあるので日曜日の午前9時に集会場所に来るようにと言われました。だれもが興奮していました。なにがあるのでしょう。日曜日の朝,家は満員でした。話し手は,その日世界中のエホバの証人が同時刻に集まって,ドイツのエホバの証人を迫害するのをやめることを要請した電報をヒトラーに送るという発表をしました」。エホバへの祈りの後,各グループは以下のような電文を送りました。「ドイツ国ベルリン市,ヒトラー政府殿。エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱めています。エホバの証人をこれ以上迫害するのをやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。その電報には「エホバの証人」と署名され,集まった会衆の所在都市もしくは町の名前が明記されていました。
そうした電報は,アメリカの電報局においてさえ非常な騒ぎを引き起こしました。「ヴァージニア州のケイスビルや他のいくつかの場所で,仲間の信者が電文を持って行ったところ,係りの人はもう少しで気絶するほどでした」,とメルビン・ウィンチェスターは語ります。
ナチ政権はどんな反応を示したでしょうか。エホバの証人の迫害は激しくなったのです。しかし,ドイツや他の場所の神の民は前途に迫害や苦難のあることを覚悟していました。エホバは適切な時にご自分の民が必要な聖書的助言と励ましを受けられるように取り計らわれました。それは,1933年の末に「ものみの塔」誌の「彼らを恐れてはならない」と題する記事によって与えられました。その記事は,ローマ・カトリック教会の敵意を暴露し,神の忠実なしもべのある人々は反対のために死ぬかもしれないことを警告しました。しかし,それはまた,大胆さと喜びを持って引き続き神のお名前の証しをし,その神聖なみ名の立証にあずかるよう神の民に勧めました。
抗弁するための助け
クリスチャンにとって当時は信仰を試みられる時代でした。いうまでもなく,あからさまな反対事件のすべてが,あるいは逮捕事件でさえことごとく法廷に持ち出されたわけではありません。しかし,エホバのしもべが合衆国の法廷で抗弁に成功するための助けを必要とすることが少なからずありました。王国宣布者を助けるために,ものみの塔協会はニューヨーク市のブルックリンの本部に法律部門を設けました。
当時を振り返って,ロバート・E・モルガンは次のように語っています。「毎週の奉仕会で,協会が準備した『裁判の手続』を勉強して,野外奉仕でわたしたちを絶えず悩ましていた警官と判事に対処する備えを身につけるよう努力しました。警官に呼び止められた時の答え方や,市民としてわたしたちにはどんな権利があるかということ,また,有罪の判決を受けて上告裁判所へ行かねばならなくなった場合,良いたよりを擁護して法的処置を取るうえの十分な根拠を確立するためどうしても踏まねばならない手順などを奉仕会で教えられました」。
「奉仕会の実演で,逮捕の時から裁判の終了および事件の処理までの過程が示されました。会衆のしもべたちが検察官や弁護士を演じ,ある“裁判”は数週間も続きました」と,レイ・C・ボップは回顧します。
逮捕され投獄される
協会によって備えられた法律的な助けと奉仕会の優れた訓練は,神の民にとって大いに役立ちました。しかし,獄中の厳しい生活で民を強め得たのはただエホバご自身だけでした。パウロはこう述べています。「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」― フィリピ 4:13。
1930年代と1940年代の動乱の時に,何百人ものエホバのクリスチャン証人は逮捕投獄されました。ある地域でエホバの民が遭遇した法律上の問題に関してホーマー・L・ロジャースは次のように語っています。「ラ・グランジェ市(ジョージア州)は,市内の家庭を訪問して何らかの印刷物を提供することを禁じる条例を定めていました。それはエホバの証人をねらいとしており,エホバの証人に対してのみ実施されました」。彼はどうしてそう確信できたのでしょうか。同市の住民が,ラ・グランジェで他のすべての印刷物は当局の干渉を受けることなく自由に配布された,と証言したからです。
1936年5月17日,176名の証人はラ・グランジェにおいて伝道したかどで逮捕され,投獄されました。翌日女性は釈放されましたが,76名の男子は同市から約6㌔の郊外にあるトループ郡刑務所および営そうに14日間勾留されました。普通そこでは,囚人たちは鎖でじゅずつなぎにされ,日の出から日没まで道路工事をしている間,文字通り足かせをかけられました。C・E・シラウェイによると,裁判を受けた証人たちは有罪の宣告を受け,各人1㌦の罰金か30日の懲役を申し渡されました。市の代理人は事件移送命令による上訴の契約書に署名しないようにと市の書記に命じたため,兄弟たちは上訴する権利を失い,57人が1937年5月28日に営そうで30日の刑期を終えるために戻りました。無実であったにもかかわらず,それら証人たちは囚人服を着,寒い夜にふたりで1枚の毛布を使わなければなりませんでした。その上,街頭その他の場所で重労働をしたのです。
投獄された人々は多くの苦しみを経験しましたが,霊的に善を行なう機会も得ました。C・E・シラウェイ兄弟は次のように書いています。「30日の刑期の終わりごろ,わたしのグループともうひとつのグループの合計12名は,たいていいなかに隔離されている黒人基地に割り当てられました。午前10時ごろ,葬式の行列が正門から入って来て止まると,葬儀屋がわたしたちに近づいて来ました。その家族はあまりに貧しくて説教者に葬式の定まった費用を払えず,説教も祈りもしてもらえなかったようでした。わたしたち奉仕者のだれかがふたことみことでも話してあげられないでしょうか。その少数の人々に死者のほんとうの状態と復活の希望について話すのは特権でした。その人たちは囚人服を気にしませんでした」。
テレサ・ドレイクは,神の民に対する不寛容さを初めて知ったのは,彼女がニュージャージー州のバーゲンフィールドで最初に逮捕された1930年代初期のことだったと語っています。ドレイクはこう続けます。「わたしは最初ニュージャージー州のプレインフィールドで指紋を取られました。わたしが他の28人の姉妹たちと一晩勾留されたのはプレインフィールドでした。わたしたちはひとつの小さな監房に入れられたのです。そこにわたしたち29人が入れられたのですから,横になって寝ることなどできませんでした。とうとう当局は,わたしたちを同じ建物にある体育館に連れて行き,横になるためのマットをくれました。わたしはひとりの警官が戸を開けてわたしたちをのぞき込みながら,『ほふり場に引かれる羊のようだ』と言ったのを覚えています」。
ドレイク姉妹はもうひとつの事件のことを次のように書いています。「パース・アンボイでわたしたちは逮捕され,朝の10時から夜の8時まで勾留されました。わたしがラザフォード兄弟にお会いしたのはその時でした。兄弟は逮捕されたわたしたち150人を保釈金で仮出所させるために来られたのです。わたしたちは,裁判所庁舎の大きなひと部屋に勾留されました。外では,人々がわたしたちの車から文書類を持ち出して庁舎の芝生一面に投げちらしていました。庁舎の裏には6人の男たちがいて,ラザフォード兄弟を捕まえようと待機していました。彼らは兄弟を脅迫しましたが,その機会を得ることは決してできませんでした。なぜなら,兄弟はわたしたちに取り囲まれて庁舎を出,待機していた,いつものとは違う車にすばやく乗り込んだからです」。
オハイオ州と西ヴァージニア州について,エドナ・バウアーは,「友人の多くは逮捕され,けたたましくサイレンを鳴らして逮捕の起きたことを知らせる消防自動車で刑務所に運ばれました」と語っています。一度に多くの人が刑務所に入れられるということは珍しくなく,年齢も考慮されませんでした。たとえば,ジェイムズ・W・ベネコッフ姉妹は,南カロライナ州コロンビアの事件で「200名が刑務所に入れられましたが,最年少者は生後6週間の赤ちゃんでした」と語っています。
刑務所の状態はまったくひどいこともありました。アール・R・デイルは,ニューハンプシャー州サマズワースでクリスチャンゆえに不当な監禁を受けた時の思い出をこう書いています。「わたしはその夜眠りました。いえ,眠ろうとしました。刑務所はあまりきれいではありませんでした。夜に何やら小さな生き物がわたしたちの上をはっていました。わたしはそれが好きではありませんでしたが,彼らはわたしが好きでした」。R・J・アデール兄弟と姉妹は,1941年にミズーリ州カルサースビルで良いたよりを伝道したために78日間投獄されました。アデール姉妹は監禁された所を「土牢」だったと言っています。姉妹の健康は監禁中にそこなわれてしまいました。「78日間コンクリートの上に1枚の毛布と枕で寝るのは気持ちの良いものではありませんでした。でも,大切なのはエホバに忠実であり続けることでした」と述懐しています。
アメリカのエホバの証人は,王国のたよりを伝道したかどでしばしば投獄されましたが,そのために彼らの口びるが閉ざされることはありませんでした。囚人の身でも良いたよりをどしどし宣明し続けたのです。たとえば,ドラ・ワダムスは投獄中に様々な伝道の機会を得ました。かつて,ニュージャージー州のニューアークでエホバの証人が釈放されるというニュースが知れ渡った時,ワダムスによればこんな事があったそうです。「わたしたちがそれぞれの監房に閉じ込められていたある晩,まわりの囚人たちが,『聖書の人たちはあしたここを出るんだってさ。ここも変わっちまうだろうな。あの人たちはわしらに遣わされた天使のようだからな』と言うのを聞きました」。
法廷での戦い
エホバのしもべは,いつなんどき逮捕されて裁判を受けるようになっても自分自身と神から与えられたわざを擁護できる備えをしていました。彼らは弁護士に代理をしてもらうことさえできない時がありました。たとえば,1938年のこと,マサチューセッツ州のオレンジ会衆と交わっていたローランド・E・コリアは近くのアトルで宣伝カーを使う許可を得ました。彼ともうひとりの兄弟は宣伝カーに乗って「敵」と題するレコードをかけ,他の王国伝道者たちは戸別に伝道していました。コリア兄弟は,その時戸別に訪問していなかったにもかかわらず,そうしていたとのかどで逮捕され告発されました。彼は次のように話してくれました。「わたしたちは興味を抱いて裁判を待ち,それに備えました。わたしは法廷の審理に備えて協会から発行された『裁判の手続』を注意深く勉強しました。裁判の日,数人の兄弟はわたしを力づけるために法廷にやってきました。わたしは協会が略述してくれた適切な裁判の手順に従い,警察署長に反対尋問をすることさえしました。法廷での審理が完了してすべての証拠が提出された時,わたしは無罪とされました。そして新聞は,『オレンジ市の男,出所して伝道を続ける』という見出しを掲げました」。
エホバの証人ではない数人の弁護士たちも,神の民を擁護するために奮闘しました。しかし,たいてい,証人の弁護士が裁判の時に仲間の信者を代表しました。そうした人のひとりにビクター・シュミットがいました。彼の妻ミルドレドは一部こう語っています。「合衆国最高裁判所が国旗敬礼事件に対して不利な判決を下してからというもの,シンシナチ市(オハイオ州)の外の多くの場所で,兄弟たちに対する暴徒の襲撃や逮捕がまるでなだれのように続きました。主人は自動車を運転しなかったので,わたしが主人を自動車でそうした所へあちこちと運ばねばなりませんでした。しばらくの間はほとんど毎日のように違った場所へ行かねばなりませんでした。ですから,わたしはやむなく開拓者の人たちといっしょに奉仕するのをあきらめました。……ビクターはエホバに厚い信仰を持っていました。そのことは,同様の信仰を持つようわたしを強めました。法廷で兄弟たちの代理をすることになっている町に近づくと,主人はわたしに車をわき道へ入れさせ,エホバに祈りをささげました。つまり,自分が兄弟たちになにか助けとなることができる道を開いてくださるように,また,エホバのご意志であれば,わたしたちをやさしく保護し,人間に対する恐れに決して屈しないよう自分たちを助けてくださるようにと祈ったのです。わたしたちは,エホバの使いの軍勢の強力な力がわたしたちのために働いた証拠を何度も見ました」。
合衆国最高裁判所へ
エホバの証人に関する様々な裁判事件は,ついに合衆国最高裁判所に持ち込まれました。ロベル対グリフィン市の件はそのひとつでした。それまでにも神の民はジョージア州のグリフィン市で良いたよりを伝道したためにしばしば逮捕されていましたが,ある時,「グリフィン市の市長から書面による許可を得ずに……何らかの文書の……配布をならわしにすることを禁じる市の条令に違反したとして,大ぜいの人が逮捕されました」。G・E・フィスク兄弟は次のように語ってもいます。「身長が180㌢を越える兄弟が数人いたので,当局者はグループの代表者を自分たちで適当に選ばせてほしいと言いました。監督たちは承諾しました。そこで彼らは,良いえじきになると考えて,小柄でやせたひとりの姉妹を選びました。ところが彼女(アルマ・ロベル)は『裁判の手続』を学んでいたのです。……男性の中にはその小柄の姉妹ほど勉強していた人はひとりもいませんでしたから,事件が裁判にかけられた時に彼女は法廷に対して1時間以上にわたって抗弁し,すばらしい証言を行ないました。しかし,裁判官は少しの関心も示さず,足を机にのせていました。姉妹が着席すると,裁判官は足をおろして,『それで全部ですか』と言いました。姉妹が,『はい,裁判官殿』と言うと,彼は全員に有罪を宣告しました。協会の弁護士はその事件をただちに上訴しました」。1938年3月28日,最高裁判所は問題の条令は明らかに無効であることを満場一致で判定しました。
1938年4月26日,王国伝道のわざに携わっていたクリスチャン証人ニュートン・カントウェルは,「敵」と題するレコードを聞かせ,同名の書籍を配布していたところを,ふたりの幼い息子とともに逮捕されました。ふたりのローマ・カトリック教徒によってその事件はコネチカット州の裁判所に訴えられました。その理由は,治安妨害と,州の公共福祉協議会の幹事の承認なくして慈善事業や宗教的な運動へ寄付を懇願することを禁じた,コネチカット州の法律に違反したというものでした。コネチカット州の裁判所では有罪判決を受けました。R・D・カントウェルは次のように書いています。「その事件は協会によって上訴され,合衆国最高裁判所まで行きました。……有罪判決はくつがえされ,宗教文書を販売したり,宗教的な運動のために寄付を受けるには許可が必要であるとするコネチカット州の法律をエホバの証人に適用することは憲法違反であるとされました。エホバの民はまたもや勝ちました」。
しかし,1942年6月8日,エホバの証人は合衆国最高裁判所での重要な裁判において5対4で敗れました。それはジョーンズ対オペリカ市の戦いであり,街頭で雑誌活動を行なったロスコ・ジョーンズが,許可を得ず,またしかるべき税金を支払わずして「書籍を販売」することに関してアラバマ州オペリカ市の条令に違反したとして有罪とされることの是非が問題になりました。
神の民にとって「大成功の日」
1943年5月3日が来ました。それはエホバの証人にとって「大成功の日」と呼ぶにふさわしい日でした。なぜなら,裁判にかけられた13件のうち12件が有利な判決を受けたからです。際立っていたのは許可税をめぐるムルドック対ペンシルバニア州の戦いでした。合衆国最高裁判所が下したこの判決はジョーンズ対オペリカ市事件でのその立場を翻すものでした。ムルドックの判決の中で,最高裁は次のように述べています。「しかしながら,許可税がこの活動を抑制もしくは統制し得るという事実はそれが実際に抑制しない限り重要でないと主張されている。しかしながら,それはこの税金の性質を無視することになるであろう。これは,権利宣言で認められた特権の行使に対して一律に課される許可税である。州は,連邦の法律で認められた権利の行使に対して料金を課さないであろう」。ジョーンズの件に関して,最高裁はこう述べています。「ジョーンズ対オペリカの判決は今日無効になった。あの支配的な判例にとらわれることなく,文書類の配布によって自分たちの宗教的信念や信仰信条を巡回しながら広める福音宣明者の自由を,高潔な憲法上の位置にまで復帰させることができる」。ムルドックの有利な判決は,エホバの民を巻き込んだ許可税に関する洪水のような問題を解消しました。
彼らの努力は法律にも影響を与えました。適切にも次のように言われているからです。「合衆国最高裁判所が権威をもって解釈している,個人の自由に関する現在の法的保証は,1938年春以降それまでよりはるかに広範に及ぶようになったことは明らかである。さらに,そうした保証範囲の拡大が見られるのはほとんど31件に及ぶエホバの証人の判例(16件は決定的な意見)の場合であり,ロベル対グリフィン市はその最初のものであった。『殉教者の血は教会の種子たり』とされるなら,憲法がこの奇妙なグループの戦い抜こうとするしつようさ ― あるいは献身的な態度と言うべきであろうが ― に負うところは何であろうか」― 1944年3月発行の「ミネソタ法律レビュー」誌,第28巻4号,246ページ。
激しい暴徒たちはエホバの賛美者を沈黙させることに失敗
エホバの証人は,崇拝の自由と良いたよりを宣べ伝える権利のために法的な戦いをしていましたが,野外では時々激しい暴徒に出会いました。しかし,それは類例のないことではありませんでした。イエス・キリストご自身その種の経験をされたからです。(ルカ 4:28-30。ヨハネ 8:59; 10:31-39)また忠実なステファノは怒った群衆の手にかかって殉教の死を遂げました。―使徒 6:8-12; 7:54–8:1。
1939年6月23日から25日にかけて開かれた世界的なクリスチャンの大会は,ならず者たちからは神の民を悩ますチャンスであると見なされました。その時,主要都市であるニューヨーク市と,アメリカ,カナダ,英国諸島,オーストラリアおよびハワイの他の大会開催地が無線で直接結ばれました。J・F・ラザフォードの「政府と平和」と題する講演を宣伝している時に,エホバのしもべは,カトリック・アクションのグループが6月25日の公開集会を阻止する計画をしていることを知りました。それで,神の民は騒動に備えました。ブロスコ・ムスカリエロはこう話してくれます。「エルサレムの城壁を建てる時,人々に建築の道具と戦いの道具の両方を持たせたネヘミヤのように(ネヘミヤ 4:15-22),わたしたちも武装しました。……わたしたち若い男子数人は案内係として特別な指示を受けました。また,主要な講演中に妨害が起きた場合に使うがん丈なこん棒が各人に支給されました」。とはいえ,R・D・カントウェルによると,「どたん場に追い詰められた場合でない限りそれを使わないようにと言われていました」。
一般に知られていなかったことですが,1939年6月25日,日曜日午後にニューヨーク市のマジソン・スクウェア・ガーデンで演壇にあがったラザフォード兄弟は健康をそこねていました。まもなく講演が始まりましたが,遅れてきた人々の中に,ローマ・カトリックの僧職者チャールズ・E・コフリンの信奉者が500名ほど混じっていました。コフリンは1930年代の名高い「ラジオの司祭」で,何百万人もの人々が彼の定期的な放送を聞きました。講堂の下の方の席は証人用になっていて詰まっていましたから,数人の司祭を含むコフリンの信奉者たちは,講演者の背後にあるバルコニーの最上段の一画を占めなければなりませんでした。
「慰め」誌の通信員は次のように書いています。「講堂内のどこにおいてもたばこを吸っている人はいませんでした。ところが,講演が始まってから18分たった時,その群衆の最前列の左端にいたひとりの男がたばこに火をつけました。ついで,最前列の右端にいた別の男もたばこに火をつけました。それから,その一画の電燈だけが明滅し,そこだけに非難の声や叫びややじがありました」。エドワード・ブロード姉妹はこう語っています。「わたしは,ガーデン中に混乱が広がるのではないかと緊張して座っていました。でも,しばらくたつと,騒いでいるのは講演者のまうしろにいるクループの人たちだけだということがわかりました。『講演者はどうするのかしら』とわたしは思いました。演壇に物が投げ落とされたり,いつなんどきマイクロフォンが奪われるかわからない中で講演を続けることは不可能に思われました」。エステル・アレンは,「荒々しい叫びや,『ヒトラー万歳』とか『フランコ万歳』,また『ラザフォードの畜生を殺せ』ということばが空中にみなぎりました」とその時の様子を話してくれます。
病身のラザフォードはそれら乱暴な敵に屈するでしょうか。「彼らが講演者の声をかき消そうと叫び声を大きくすればするほど,ラザフォード判事の声はますます強くなりました」とA・F・ラウパートは語っています。また,アレック・バングルはこう述べました。「協会の会長は恐れるどころか勇敢にも,『ナチとカトリック教徒はこの集会を解散させようと願っていますが,神の恩ちょうによってそうできないことをきょう心に留めておきなさい』と言いました」。「その時こそ,心からの拍手をどっと送って,わたしたちが熱烈に支持していることを講演者に示す待ちに待った機会でした」とロジャー・モルガンは書き,「ラザフォード兄弟は時間の終わりまで一歩も退きませんでした。後日,人々の家庭でその講演のレコードをかけるたびにわたしたちは感激しました」と付け加えています。
C・H・リオンはこんな話をしています。「場内整理係は自分の務めを立派に果たしました。相当手におえないコフリン派の二人はこん棒で頭をたたかれ,彼ら全員は講堂から坂道へ儀礼抜きでほうり出されました。そのうちのひとりは,翌朝,タブロイド版の新聞紙上で一般の人々の注意を引きました。なぜなら,ターバンを巻いたように頭を包んだその人の写真が新聞に載せられたからです」。
案内係をしていた証人三名が逮捕され,「暴行」のかどで訴えられました。三人は1939年10月23日と24日にニューヨーク市の特別法廷で三人の裁判官(ローマ・カトリック教徒ふたりとユダヤ人)によって審理されました。裁判で,場内整理係がマジソン・スクウェア・ガーデンの妨害の起きた一画へ妨害者を取り除くために入って行ったことが明らかにされました。暴徒に襲われるにいたって,案内係は抵抗し,その急進的なグループに属する数名の人を断固とした態度をもって処理したのです。検察側の証人は多くの矛盾する証言をしました。法廷は三人の案内係を無罪としたばかりか,証人の案内係はその権限内で行動したことも明らかにしました。
世界大戦は暴力の炎をあおる
暴徒の暴力行為は1939年のエホバの証人の大会の時に勃発しましたが,彼らに対する暴力の炎があおられて非常に強くなったのは,世界が戦争に入った時でした。アメリカがドイツとイタリアと日本に宣戦を布告したのは1941年の末でしたが,国家主義の精神はそれよりもずっと以前から高まっていました。
第二次世界大戦勃発直後の数か月間に,エホバ神はご自分の民に優れた備えを設けられました。1939年11月1日号の英文の「ものみの塔」誌に「中立」と題する記事が載せられたのです。見出しの聖句には,ご自分の弟子について語ったイエス・キリストの次のことばが出ていました。『我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず』。(ヨハネ 17:16,文語)クリスチャンの中立に関するそうした聖書の研究は,まさに適切な時に,前途の難しい時代に対してエホバの証人にあらかじめ備えをさせるものでした。
王国農場で焼打ちの脅威にさらされる
ニューヨーク州サウス・ランシングに近い王国農場は,協会本部職員にくだもの,野菜,肉,牛乳,チーズを供給する大きな働きをしていました。ダビデ・アブールは,王国農場の平和と安全が破られた1940年の当時そこで働いていました。同兄弟はこう語っています。「1940年6月14日の旗の日の前夜,サウス・ランシングの居酒屋へウイスキーを買いに行くために毎日通る老人から,町の人々とアメリカ世界大戦参加軍人会の人々が協会の建物を焼き払い,機械を破壊する計画をしていることを知らされました」。治安官に連絡がなされました。
ついに敵が現われました。当時農場のしもべだったジョン・ボガードは,以前に,その騒動の模様を生き生きと話してくれたことがあります。「晩の6時ごろ,車が次から次へとやって来て一味が集まり始め,ついに30台から40台になりました。治安官とその部下が到着し,運転手を止めて免許証を調べ,王国農場にいかなる手出しもしないようにと警告し始めました。一味は夜遅くまで協会の土地の前を走る高速道路を車で行ったり来たりしていましたが,警官がいたために高速道路から出ることができず,農場をこわす計画は失敗しました。農場にいたわたしたちみなにとってそれはほんとうに興奮の夜でした。しかし,わたしたちはご自分の追随者に対する,『あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。それでも,あなたがたの髪の毛一本すら滅びることはありません』というイエスの保証のことばを鮮明に思い出しました。―ルカ 21:17,18」。
こうして,威嚇攻撃と計画的焼打ちは回避されました。推定1,000台の車が,4,000人ぐらいの人々を乗せて,協会の王国農場の資産を破壊するためにニューヨーク州西部の各地からやって来ましたが,無駄に終わりました。「あの人たちの目的は失敗しました。そして,まさに暴徒に加わっていた人のうちいく人かが今エホバの証人になっていて,全時間奉仕者になっている人たちさえいます」とカスリン・ボガードは語っています。