神の目的とエホバの証者(その16)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
反撃は強められる
1918年の主の夕食の記念式がすみ,4月15日がやってきました。「御国の音信,第2号」がこの日に出されたのです。この中には,宗教が政治と手をつないで協会を滅ぼそうとするたくらみを,更に強く非難した言葉が載せられていました。全段抜き大見出しは,「『完成した奥義』はなぜ抑圧されるか ― 牧師たちはこれに関係している」。となっていました。この号は,牧師たちが政府に働きかけて協会を困らせ,逮捕させ,「完成した奥義」に反対させ,かつ真に妥協を示すこと,つまり兄弟たちにその本の中のある頁を切りとらせるようにした,ということを示しています。またこの号は,牧師たちがなぜそんなにもひどく証者たちに反対しているかを説明し,彼らの真の姿 ― つまり宗教的狭量を暴露しました。更にこの「御国の音信」は証者が戦争に対してとった立場をくりかえして述べ,真の教会をつくり上げるものは何かということについて,彼らの所信も説明しました。この共謀が国際な範囲にまで及んでいることを示すために「御国の音信,第2号」は,ドイツの証者が教職者に迫害されているという記事を載せたデンマークのコペンハーゲンの新聞を引用していました。それにはこう出ています。
千年期黎明派に対する警告。キールの(ドイツのホルスタイン)宗教法院は(ルーテル派の)牧師たちが「ものみの塔聖書冊子協会」とか「聖書研究会」と自身では呼んでいる千年期黎明派に注意するようにと言っている。帝国陸軍省は最近,この派の活動に我々が注意するようにと依頼にきた。彼らの活動はアメリカの金によって断えずなされている宣伝の仕事で,その創立者である,最近死んだ北アメリカ,ブルックリンのパストー・ラッセルの書き物を売ることにある。それゆえに宗教法院は,牧師たちがこの派に注意をするようすすめ,かつそれに対して反対の行動に出,その危険な活動を観察して宗教法院にしらせるようにということである。
今度もまた兄弟たちは,牧師たちの影響を払いのけるために大いに努力しました。「御国の音信」のこの号の配布と関連して,アメリカの大統領,ウイルソンにあてた嘆願状をまわしました。
我々,下に署名したアメリカ人は,独立した聖書研究に対する牧師たちの妨害を偏狭,かつ反アメリカ的反クリスチャン的なものと考える。更に教会と国家を結合させようとする試みは,根本的にまちがっていると思うものである。自由と宗教的自由のために「完成した奥義」の抑圧に対して,厳粛に抗議すると共に,人々が妨害なしに,この聖書研究aの手引を買い,売り,所有しかつ読むことができるように,政府がその使用にかんし一切の制限を取り除くことを懇請する次第である。
1918年5月1日,協会は「御国の音信,第3号」を発表しました。なぜなら敵は今度こそは証者たちを永久に沈黙させるだろうと考えた打撃を,証者たちに加えようとして近寄ってきたからです。この号には「激しい二大戦争 ― 独裁政治の滅びは必至 ― サタン的策略は失敗の運命をたどる ― 反キリストの誕生」という意義深い見出しがありました。この号には約束の裔対サタンの裔ということが特別に強調されていました。それはさかのぼって反キリストの誕生から,カトリック及びプロテスタント教職者の背教の手になる現在の行為までをずっとたどっていき,悪魔のこのような代行者が今,キリストの残れる者,つまりイエスの足跡に従う油そそがれた者たちを滅ぼうそうとしている,ということを示しました。
ジャッジ・ルサフォードが後程書いた報告の中で,彼はニューヨークのロングアイランドのアップトン隊のジェームス・フランクリン・ベル大将が彼に言ったことを載せています。それは1917年にペンシルバニア州のフィラデルフィアの牧師たちが会合を開き,スパイにかんする法律に彼らが望んでいる修正を提案するために,ワシントン・ディー・シーに送る委員を任命したということです。それからベルはルサフォードに対して,かなり熱烈な口調でこう言いました,「その法案は通過しなかった。ウイルソンが拒否したからだ。でも我々はあんたがたをどのようにやっつけるかは,わかっておる!」。b
協会の役員逮捕さる
ロイス: それはまたずい分おおっぴらにおどかしたものですね。
ジョン: それがおどしだけではなかったのです。「御国の音信,第3号」が発表されて2,3日たつと,ニューヨーク,東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所はベテルの本部にいる協会の主要な僕たち,8人に対する逮捕状を出しました。その8人はジェー・エフ・ルサフォード,ダブリュー・イー・バン・アンバーグ,エイ・エッチ・マックミラン,アール・ジェイ・マーティン,シー・ジェー・ウッドワース,ジー・エッチ・フィシャー,エフ・エッチ・ロビンソン,それにジー・デチェカでした。このことが起きたのは,1918年の5月7日でした。その日に黙示録 11章2,3節の42ヵ月,あるいは,1260日が終りました。いわば,悲しみの「荒布」を着けたような証言の期間は,1914年11月の前年に始まり,それから3年半して,黙示録 11章の7節で預言された象徴的な「獣」によって殺されました。その翌日,アメリカ連邦裁判所の事務官パワーにより逮捕状が渡されました。8人の者はガービン判事により連邦裁判所で審問され,次の嫌疑を受けたのです。c つまり彼らが ―
当大陪審員に知られていない他の者たちと共に,不法にも共謀し,団結し,徒党を組み,おたがいに同意し,アメリカ合衆国に対して罪を犯すに至った。すなわち,戦時中のアメリカにおいて,アメリカ合衆国の陸海軍の兵役に対して,不法かつ故意に,反抗,不忠実,拒否の態度をおこさしめた……個人的な懇請,手紙,公開講演により,また「聖書研究,第7巻,完成した奥義」と呼ばれる本をアメリカ合衆国中に配布し,公けに流布することにより,更にアメリカ合衆国中に「聖書研究生月刊」,「ものみの塔」,「御国の音信」と呼ばれるパレフレットに印刷された記事,あるいはその他のパンフレットを配布し,公けに流布することによりこれを行なった。」d
この事件の発展にかんする宗教牧師たちの気持を表わしたものに,次の不気味な預言を載せた5月11日号ローマ・カトリックのブルックリンの定期刊行物,「ザ・タブレット」があります。「『御国の音信」は広く配布された ― 刑務所へ行く者がでるだろう」。
トム: この見出しによると,「御国の音信」が配布されて,彼らは困っていたようですね。
ジョン: このカトリックの記事はこう続いています。
ジョセフ・エフ・ルザフォードとその同僚の何人かはたぶん夏の間,刑務所で暮らすことになるであろう。そこにいれば釈放金を払えと言って彼らを侮辱する暴徒からは守られるだろう。……〔カトリック〕教会を攻撃することに楽しみを感じているルサフォードとその仲間が,いつも政府の役人たちに追いかけられているのを見るのは興味深い。反カトリック主義と反アメリカ主義はちょうどふたごのようだ。
それはともかくとして,裁判は6月3日,月曜日ときまりました。この事件を扱うため最初に任命されたガービン判事は,偏見を持っていたため,解任されました。その結果,自動的にこの事件はチャットフィールド判事の手に渡りましたが,彼も解任されました。そして遂に政府はバーモントeからアメリカ合衆国地方判事であるハラン・ビー・ハウをつれてきました。裁判は15日間続き,おびただしい証言が記録されました。後になって示されたことですが,この裁判には125以上の誤りがあり,後に上告裁判所がその手続全体を不公平なものと最後的に言い渡したとき,この中の2,3の誤りを指摘するだけで十分でした。f
80年の刑を宣告される
こういうことが起きたのは戦争中だったのだということを忘れないで下さい。兵隊たちはバンドを鳴らしてブルックリンのボローホール近くを行進したりしていました。戦意を高揚することならなんにでも努力を惜しまないというのが,その当時の一般の人々の感情でした。それで,問題になっている「聖書研究生」が治安妨害のかどで裁判を受けた,ということが,人々の注意をひいたのも当然でした。遂に,6月20日,木曜日,陪審員は有罪の判決を下しました。6月21日,正午過ぎに,兄弟の中7人はそれぞれ四つの異なる訴因で20年づつの判決を受けたので合計80年の禁錮を言い渡されました。ジョージアgのアトランタの刑務所で服役することになりました。ジオバニー・デチェカは後程この同じ四つの法廷でそれぞれ10年の刑を言い渡されました。
協会の7人の役員に判決を下すさい,裁判官は次のように言いました。
宗教をひろめる人は,非常な影響力を持っているものであり,特にその者が誠実であるばあい,なおさらそうである。
このことにかんして1918年6月21日のニューヨーク・ポストはこう述べました。
この言葉を述べてから,ブルックリンのアメリカ合衆国地方裁判所のエッチ・ビー・ハウ裁判官は,彼の前にいる宗教家たちにそれぞれ20年の禁錮刑を言渡した。メノ派教徒や,クエーカー教徒や他の多くの派のごとくに,武器をとることを禁ずるこの宗教をまじめに教えられた者への見せしめとして必要だと彼は言った。「汝殺すべからず」という命令を主の教えと考え,それを文字通り適用して,人々にもそれに従うよううながしたために,明らかに有罪とされた。それゆえ陪審員は,道徳的,宗教的な法律に対する彼らの態度の正否には関係なく,ただ国の法令を破ったということしか見出すことができなかった。すべての宗教指導者は,裁判官の意見,つまり国の法令と全く一致している宗教以外の宗教を教える者は,重大な罪を犯すことになり,更に福音の奉仕者として誠実であるならそれだけ罪も重くなるのだということに注意するものと我々は信じる。ハウ裁判官が十分重い判決を下したということに,疑はない。これは悪い政府をくつがえそうとした社会主義者たちに課したカイゼルの刑よりも2倍も長いものであり,たいていの大逆者といわれる者に科せられたものより,3倍も長い刑である。h
1918年6月22日付のニューヨーク・トリビューン紙もまた,この判決について次のように述べました。
ジョセフ・エフ・ルサフォードと「ラッセル派」の他の6人は,スパイにかんする法律違反で昨日ハウ裁判官により有罪と宣告され,アトランタの刑務所で20年間の服役を言渡された。「これは私の生涯で,もっとも幸福な日です。自分の宗教上の信念のために,地上で罰を受けることは,人間の最大の特権の一つです。」とルサフォード氏は法廷から刑務所へ行く途中語った。ブルックリンの連邦裁判所の事務所では,今までにないもっとも不思議な光景が見られた。有罪の宣告を受けた者たちが大陪審室につれていかれてからすぐ,その家族や親しい友たちが彼らを取りかこみ,ほとんど輝かしいといった顔つきで,「縄目にかかって幸福だ」,「これはすべて神の御こころだ」というような話が,そこの古い建物の中に,にぎやかに流れていた。「いつか世界は,このすべての意味をさとるようになるであろう。さしあたり,われわれは試練の時に我々を支えて下さった神の恵みに感謝し,来たらんとする大いなる日を待ち望もうではないか」。
有罪の判決を受けた兄弟たちは,2度保釈されるよう願い出ましたが,2回とも最初はハウ裁判官により,後にはマーチン・ティー・マントン裁判官により拒絶されました。この願いを出した時,彼らはブルックリンの刑務所にいれられていました。7月3日,アトランタ刑務所へ送られる前日,ルサフォード兄弟は,ベテルに残ってその管理をゆだねられた兄弟たちに,手紙を書きました。元気づける言葉と共に,次の警告を与えました。
以前,協会とその仕事に反対した7人の者が裁判に出席し,我々の告発者を援助したということを知らされた。それで愛する者たちよ,彼らの中のある者が協会をのっとろうとしてあなたがたの機嫌をとるというような巧妙な手口にのらぬように注意して欲しい。i
裁判中におきた一つの注目されたできごとは,証者であるウイリアム・エフ・ハッジングスの言ったことから彼が侮辱罪にとわれたことでした。ハッジングスは証人台に立って証言し,被告の中の二人がある特定の時に,書いていたということを思い出すことができないと言いました。これに対して法廷は,彼の証言を偽りのものと決定し,6ヵ月間彼は獄に入れられました。
トム: それはずい分高飛車なやり方ですね。
ジョン: たしかにそうでした。遂にアメリカ最高裁判所を通して,身柄提出令状を得,保釈金を払うことにより釈放されることになりました。身柄提出令状申請を許可するにあたり,ホワイト裁判長は,ニューヨークのイブニングサン紙によると,ウイリアム・ハッジングスの禁鋼を「無法」なものと断言したといっています。その新聞記事は次の通りです。
ブルックリンからの今日の報道によると,アメリカ最高裁判所のホワイト裁判長の命令により,法廷侮辱罪で投獄されていたものみの塔聖書研究生の協会の秘書,ウイリアム・ハッジングスは,保釈金を出して釈放されることとなった。ホワイト裁判長は,法廷侮辱罪によるハッジングスの投獄を「無法,不当,かつ不公平なもの」と呼んだ。
これは裁判の時に,この法廷の裁判官が示した偏見の一つの例にすぎません。j
クリスチャンの迫害は続く
ロイス: エホバの証者にとってこれはたしかに,つらい時だったでしょうね。アメリカのほかの場所では,どのように取扱われましたか。
ジョン: 迫害は激しいものでした。この後,1919年のはじめに,「万国聖書研究会の訴訟事件」という小冊子が発表されました。この小冊子からすでに何回か引用しましたが,この中には牧師たちと信者たちの反対が克明に報告されています。つまり兄弟に対して,また先程お話した「御国の音信」の運動に対して治安妨害という偽りの嫌疑をかけたこと,また最後には,アメリカ国中でおきたエホバの証者に対する迫害の様子が記述されています。証者に対する同じような迫害はドイツを含めてカナダやほかの場所で起こりました。その当時なされた残虐行為のいくつかの報告がここにあります。
万国聖書研究生は,主に対する忠実を保ち,かつ御国を通して人類に訪れる祝福を宣明するのに熱心であったため,国中至る所で迫害された。オレゴン州の一つのまちで,市長と二人の牧師は暴徒を組織し,研究会の講演者のひとりを町から追いだし,近隣のまちまで追いかけていった。講演者はのがれることができたが,暴徒は彼と共にいた友達をとらえ,油とタールをかけた。
ワシントン州で,ひとりの聖書研究生は「完成した奥義」の1冊を郵送したかどで,3年間の投獄を言渡された。アリゾナのグローブで二人の男が「完成した奥義」を所有していたために,町から追いだされ,遂に捕えられ刑務所にいれられた。カリフォルニアのサンバナディノで三人の男と一人の婦人(これら宗教的文書の販売人)は純粋に聖書の注釈書であり,また問題になっているページを取り除いた後の「完成した奥義」を販売していたために逮捕され,3年間の投獄を言渡された。オクラホマ市で何人かの聖書文書販売人はタールをかけられた上,羽毛をつけられ,棍棒で打たれた。アーカンサスでひとりの婦人は逮捕され,汚い刑務所にいれられ,何の音沙汰なしにそこに何日間か留置された。同じ場所でひとりの男と彼の妻は,彼らに対する何の告訴もなしに,何日間も投獄された。ほかの場所である者は夜,小川につれていかれ,冷い水に体を突っこまれ,家の中のすべてのものはこわされた。コロラドでは,陸軍士官の制服をつけている男が聖書研究の静かな集りを妨害した。ウエスト・バージニアのホイーリングで「聖書研究」のすべての本を渡さないなら,投獄するといって聖書研究生をおどした。
ロサンゼルスで牧師たちは,聖書研究者たちが逮捕され,釈放される見込はないだろうといって自慢した。これらの牧師の中にはアパートの所有者の家をまわって,万国聖書研究会の者が借家人にいるなら,その者を追いだすようにとすすめた。この都市の聖書研究生の本部が手入れされ,聖書や賛美歌の本を含むすべての文書は没収され,持ち去られた。「完成した奥義」と「御国の音信」を所有していたため,研究生の中の26人は逮捕され,法廷で弁明するために多額の費用,かつ時間を使わねばならなかった。裁判は陪審員の間の意見がまとまらず,彼らは第二判を待ち,なおも留置されている。オレゴン州のポートランドでひとりの聖書研究生は逮捕され,24時間刑務所に留置された。この事件は,明らかに無法なものとして,アメリカ地方行政官により却下された。
ひとりの有名な福音伝道者はこう言った,「我々は30年間これらのラッセル派の者をやっつけようとしてきたが,今それが達成された」。トーレイ博士の指揮するロサンゼルスの聖書協会は,講壇から,あるいは印刷した文書を通し,万国聖書研究生を迫害し続けてきた。k
この期間に証者が受けた激しい迫害の広汎な報告から,他の事件をいくつかひろってみましょう。
1918年4月30日,アーカンサスのマンモススプリングで,ミンナ・ビーフランケ夫人は,暴徒におそわれ,360万円の在庫品を1日の中に処理して町を去らねばならなかった。ワシントンのガーフィルドでドメインとイシ氏は投獄され,殺すぞといっておどかされた。オハイオ州のミナーバでエス・エッチ・グリフィンは先ず投獄され,それから釈放されて暴徒の前に出され,牧師により15分の話をきかされ,くりかえして打たれ,のろわれ,けられ,ふまれ絞首刑にするとかおぼれさすぞといっておどかされ,まちから追いだされ,つばをかけられ,くりかえしふまれ,何度も何度も傘でつかれ,乗物に乗ることを禁じられ,オハイオ州のマルバーンまで8キロの道を暴徒に追いかけられ,カロルトンで,再び逮捕され,身の安全をはかるために投獄され,遂に勇気があり,かつ忠実な役人たちにより家に連れかえされた。役人たちは送りかえす前に彼の文書を調べ「この人には全然悪いところがない」と非常に多くの言葉を費やして言った。
1918年3月14日,カリフォルニア州パモナにおいてジェー・イーグルストンは15日間投獄されたが,そのうち4日間はベッドも敷きぶとんもなく,毛布と食物も十分に与えられなかった。5対7で陪審員の意見が分かれたとき,判事は公開の法廷で次のように述べた,「これらの事件を裁く法律がないならば,アメリカ自身が手を下すかぎり,これを裁くことができる」。この判事はアメリカ人が手を下して何をするようにと望んだのであろうか。
1918年4月17日,オクラホマ州ショーニーにおいて,ジー・エヌ・フェン,ジョージ・エム・ブラウン,エル・エス・ロジャース,ダブリユー・エフ・グラース,イー・ティー・グライアおよびジェー・ティー・タルが投獄された。公判廷で検事は次のように言った,「お前たちの聖書を持って地獄へ行ってしまえ。お前たちが打ちのめされて地獄に行くのは当然だ。お前たちを絞首刑にしなければならない」。オクラホマ・シテイ・のジー・エフ・ウイルソンが弁護士の役を買って出たところ,彼も逮捕された。各人55ドルの罰金と法廷の費用を支払うことを言い渡されたが罪状はプロテスタントの文書を配布したことであった。公判の判事は判決の後で暴徒をそそのかしたが暴徒は裏をかかれた……。
1918年の6月,バージニア州ロアノークでシー・ダブリュー・モリスは「パストー・ラッセルの信奉者」との理由で3ヵ月間,投獄され,釈放後に彼の教義を伝道すればもっとひどい目にあうと警告された。この警告にたがわず1920年2月15日には同じ町でアレック・エイチ・マックミランが逮捕状も告訴もなしに市長の手で投獄された。彼は宣伝された公開講演「キリストの再来は近し。いま生きている何百万人は決して死なない」をその時に話すことになっていた。
1918年4月30日,インディアナ州ブラウンスタウンにおいて,カーティス・プラマーは郡治安官と実業家からなる暴徒におどかされた……。
1918年6月5日,インディアナ州インディアナポリスでのこと,郵便配達夫として32年半のあいだ忠実に勤めたウイリアム・ダービィーは,クリスチャンであるとの理由で郵政次官ジェー・シー・クーンズにより解雇された。その他の事柄は何も知らされていない。アイオワ州フォンタネルにおいてエタ・バン・ワグネンは一銀行家とシルク・ハットの無政府主義者によって無理やりに町から追われた。それにつづいてアメリカ陸軍の制服の男たちが彼女の解雇をその雇主にせまったが不成功に終った。オクラホマ州フォート・コッブでエイ・エル・タッカーは10人の暴徒のため一銭も持たずに町から追い出された。暴徒のひとりは銀行家でタッカーはその銀行に預金を持っていた。彼はその土地を去ることを余儀なくされ,大きな損を承知で財産を売らねばならなかった。
1918年3月,オクラホマ州シャタックにおいて,アメリカ生まれのジェイ・ビー・シベシリストは逮捕状なしで3ヵ月間投獄され,かびのはえたとうもろこしのパンのほかは何も与えられなかった。暴徒の手で刑務所から連れ出されて衣服を奪われ,熱いタールをかけられたうえ,先に針金のついたむちで打たれた。駅でプロテスタントの文書1箱を受け取ろうとしたというのがその罪状である。1918年4月22日,オクラホマ州ウインウッドにおいて,クラウド・ワトソンは最初,投獄されてのち,伝道師,実業家その他から成る暴民の手に故意に渡された。彼らはワトソンを打ちのめし,黒人に彼をむち打たせた,そしてなかば意識をとりもどすと再びむち打った,それから体中にタールと羽毛を浴びせ髪の毛と頭皮にタールをすりこんだ。1918年4月29日,アーカンソー州ウォルナット・リッジで61歳のダブリユー・ビー・ダンカン,エドワード・フレンチ,チャールス・フランク,グリフィン氏,ディー・バン・ホウセン夫人が投獄された。暴徒が刑務所に押し入り,最も口ぎたなく彼らをののしったうえ,むち打ち,タールと羽毛をあびせて町から追い出した。ダンカンは26マイル歩いて家に帰らねばならなかったが,かろうじて回復した。グリフィンは事実上,盲目となり,受けた暴行がもとで2,3ヶ月後に死んだ。l
[脚注]
a (ル)「御国の音信,第2号」,2頁。
b (オ)1939年8月23日号の「慰め」(英文)5頁。アメカの法務長官が協会を起訴することに決め,それを達成するために,法令を制定しようとしたという証拠として,「議事録」(56巻,第6部),上院,1918年4月24日,5542頁,1918年5月4日,6051,6052頁を参照。
c (ワ)戦争中だけに限られた条令として1917年6月15日に制定されたスパイに関する法律をおかしたという嫌疑を受けた。(1918年の「ものみの塔」(英文の171頁)。
d (カ)ルサフォード対アメリカ合衆国(1919年5月14日),258F,855,記録の写し,第1巻,12頁。
e (ヨ)1918年の「ものみの塔」(英文)の178頁。
f (タ)「万国聖書研究会の訴訟事件」,4頁。
g (レ)1918年の「ものみの塔」(英文)の194頁。
h (ソ)「万国聖書研究会の訴訟事件」(英文)4頁。
i (ツ)1919年の「ものみの塔」(英文)の58頁。
j (ネ)「万国聖書研究会の訴訟事件」(英文)4頁。
k (ナ)「万国聖書研究会の訴訟事件」,(英文)4頁。
l (ラ)1920年「黄金時代」713-715頁。