すべての強烈なエネルギーと強い力の源
「目を高くあげて,だれが,これらのものを創造したかを見よ。……その勢いの大いなるにより,またその力の強きがゆえに,一つも欠けることはない」。―イザヤ 40:26,新口。
1 人間の体力と他の生物の体力をくらべるとき,どういうことが分かりますか。
人間は肉体的にはきわめて弱い生物です。ゴリラ,熊,象,鯨とか他の多くの生物の体力とくらべるとき,人間は力の劣ったものです。『牛の力』という言葉は,昔から知られています。下等の昆虫,くも,ありでも,その体重に比較して非常に重い荷を持ちあげることができます。あるとき,1匹のありはうしろ足でぶら下がりながら,体重より1100倍も重い物体をあごにくわえることができました。体重67キロの人が,それと同様な離れわざをするためには,高い空中に足でぶらさがりながら82トン以上も重いものを口にしっかりくわえねばなりません! ほんとうに人間はそのわずかな肉体の力にほこりを感ずることはできません。
2 人間はその限られた力を補なうために,どんな自然の資源を利用しましたか。
2 人間はこのように力が足りないので,それを補うため古い昔から外部の力を制御して使用してきました。人間は,馬,牛,らくだ,りぎゅう,水牛,犬,象,らま,ろば,その他の駄獣に多く依存してきました。人間は荷物を増してふやすため,数多くの仕方で,てこ,滑車,輪の原則を適用しました。人間は目に見えない風の力,川や滝の力,そしてつかれを知らぬ潮の強烈な力をことごく利用してきました。人間は数多くの型の蒸気発電機,いろいろの種類の内燃エンジンもつくりました。電気も自由に利用しました。そして最近には,太陽から放射されるもの,および原子エネルギーの制御と放射も人類のために使用されるようになりました。
3 (イ)多くの人々はどんなまちがった考えをいだくようになりましたか。(ロ)その結果,大多数の人類は何を信じていますか。
3 しかし,多くの人々は科学的なすばらしい進歩や,技術的な業績のすばらしいことに目がくらまされています。肉体的には弱い者と公称していたこれらの人々のうちのある者は,宇宙における正しい地位を見失い,突如として自分と他の人々を卓越した知性とあたまを持つ偉人と見なします。このようなまちがった考え方は,特に高い教育をうけた階級とか著名な世界の指導者のうちに見られます。その多くの者は,高慢にも威ばり散らし,過度の自尊心にふけっています。彼らはごう慢にも,このジェット力,電子力,原子核破壊の時代における人間の業績を誇り高ぶっています。人間はロケットの計画で大成功したので,次のように想像したりまた大言壮語の預言をしたりします。すなわち人間は外界宇宙の征服者と支配者になる直前の時代におり,また人間は宇宙の「究極の立場」を占めると考えているのです。その結果,大多数の人類はこれらの世界指導者のあたまの力と思考力にまったく信頼して確信をいだき,彼らにたよって指導保護および安全を得るようにとたえず強制されています。
4 人間の業績を誇ることは正当なことですか。
4 しかし,実際のところ人間は自由勝手に自分の業績とか,人間の力による安全に誇れますか。人間はあたまの力を良く使い,手を巧みに使用することにより,簡単な牛車や水車をつくり出しただけでなく,巨大なタービンやつよい力を持つ複雑な核機械をもつくり出しました。しかし,それだからといって死ぬべき人間をあたかも神々のようにたたえたり,崇拝したりする理由にはなりません。まったくのところ,人間のもっとも複雑な機械も,力学の基礎的な法則と原則に立脚しているのです。人間はそのような法則と原則のひとつをも創造したわけでもなく,つくったわけでもありません。科学者とか学問のある人は,人間がわりあい最近にこの地球上に存在し始めたときよりずっと以前から存在していたエネルギーの原則と力を発見して適用したにすぎないのです。
5 それで,私たちは生物の体力およびあたまの力をどのように見なすべきですか。
5 ある人々は,突撃して行く戦車馬の高いひずめの音や荒々しくはく鼻息を聞いて,それこそ強烈な強さと力を表わしており,背筋に寒気を感じさせるものと考えています。しかし,古い昔の詩篇記者は,そのような偽りの力に信頼してはいけないと警告しました。「馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない」。(詩 33:17,新ロ)同様に考えると,馬よりもずっと弱い人間に信頼と確信を置くことは愚かであり,馬鹿らしいことです。運動家が隆々とした筋肉を示し,政治独裁者が大言を吐いて肺の力の大きいことを示しても,それは欺瞞のものです。人間が「あたまの良い」わざをして,仲間のなかで支配者的な立場を占めるほど自分を高めても,そのような地上の人間の力に信頼と希望を置くことは,無益なものであるとずっと以前に述べられていました。「人の助けはむなしいのです」。(詩 60:11; 146:3,新ロ)全くのところ,人間も馬も真実の力の源ではありません。
6 どんな質問をすることにより,強烈なエネルギーは人間から始まらないということが明白になりますか。
6 ちょっと考えてください! 馬や運動家にその活力と力を与えたものはだれでしたか。河が流れたり,水が落ちるための重力をはじめてつくったのはだれですか。無限の期間にわたって潮を動かし始めたのはだれでしたか。太陽という巨大な炉をつくったのはだれでしたか。太陽の内部の温度は,華氏4000万度以上と見つもられています。あらゆる物体のうちで,人間の目に見えぬ分子,最少原子内に宿されている莫大なエネルギーは,だれによってつくり出されましたか。人間のような朽ち果てて死んでしまう者でないことはたしかです。たとえ国際的なノーベル賞受賞者のようにたくさんの大学の感状と称号を受けて最上級にあがめられ,たたえられる人間でも,そのようなものをつくり得ません。
真のみなもとを識別する
7 あらゆる力の真の源は,どのように識別することができますか。
7 考えさせるこれらの質問に対する正しい答えは,ただひとつだけです。全能の創造者であるエホバは,いっさいの強烈なエネルギーと強い力の唯一のまことの根本的な源です。これがそうであることは,どうして分かりますか。また,このことの真実なることをどのように証明することができますか。聖書は,次のように述べて,その仕方を告げています,「〔エホバの〕見えない性質,すなわち,神の永遠の力と神性とは,天地創造このかた,被造物において知られていて,明らかに認められるからである」。(ロマ 1:20,新口)それで私たちのまわりにある目に見える物体,「被造物」を研究することにより,偉大なるエホバ神の見えぬ永遠の力をわずかばかり理解し認識することができます。
8 『つくられているもの』の「建築材料」は何ですか。
8 物体とは,空間を占めて重量を持つものと定義されます。私たちの生活している物質の家,私たちの食べる食物,私たちの着る衣服,私たちがその上を歩く地球などは,みな『被造物』の例です。私たちのまわりにある幾十万というちがった物体を分析すると,それらはみな百くらいの基礎的な元素で構成される分子構造であることが分かります。この元素を持つ分子は,原子で構成されています。原子と呼ばれるゆえんは,昔のギリシャ人が原子は人間の目に見えぬ最少の物と考えたからです。
9 原子は何で構成されていますか。
9 しかし,原子に重量を与え,空間を占めさせるものは何ですか。原子のなかには,荷電された陽子と電子と呼ばれるものがあります。また,中性子として知られる他の粒子もあります。1原子内の中核にある陽子はみな陽電気を帯びている故「核セメント」と呼ばれる説明不能の不思議な力が陽子をむすびつけて保たないなら,陽子はたがいに引き合わずむしろ反発するでしょう。科学者はこれらの原子粒子をむすびつける力の源を説明することができません。それでも,彼らはこの力を測定することができるのです。そして特定な状態下では,その力を放出することができます。第二次世界大戦中に広島や長崎に落とされた原子爆弾が爆発したときにその現象が生じました。びっくりするかも知れませんが,実際にはそのときごくわずかな原子だけが分裂したのです。
10 人知では,物質宇宙をむすびつけている巨大なエネルギーと力を理解することは不可能ですが,その理由は何ですか。
10 ちょっとのあいだ次の数字を考えてごらんなさい。あらゆる物体の原子を結びつける強烈な力とエネルギーについて良く知ることができるでしょう。1ポンドの物体内の原子をむすびつけるすべてのエネルギーが放出されるなら,それは,莫大なポンド数に匹敵する力を持ちます,そのような数字を書くためには,1の数字の後に零を36つけねばなりません。わずか1ポンドの物体をむすびつけるのにこれほどの力が必要であるなら,重量が1000の7乗トンもあるこの地球の原子全部を結びつけるために必要な莫大なエネルギーと力を考えてごらんなさい。また,太陽をむすびつけている力とエネルギーを想像してごらんなさい。太陽は地球を130万個合わせた容積に等しいものです。しかし,銀河系あるいは「天の河」の中のある星は,太陽よりもずっと大きいものです。たとえばアンタレスという星の直径は,太陽の直径より390倍も大きいのです。その原子全部には,なんと大きな力がつつまれているのでしょう。望遠鏡でのぞいて見ると,「天の河」のような銀河は幾十億もあります。それぞれの銀河は,幾十億という数の星で構成されているのです。このような物体全部をむすびつける力の規模を認識することができますか。とても不可能でしょう! この強烈な力の微少な部分を理解しようとするだけで,弱い人間はあ然としてしまうでしょう。
11 エホバは預言者イザヤを通して,彼だけがあらゆる強烈なエネルギーと強い力の源であることを,どのように強調していますか。
11 それでは,そのような物質宇宙の力を創造して制御された方については,何と言えますか。たしかに,彼の力は,創造されたこれらのものよりもはるかに大きいのです。「なんぢら眼をあげて高をみよ,たれか此らのものを創造せしやをおもへ(地上の原子を破壊する科学者ですか。絶対にそうではありません)主は数をしらべてその万象をひきいだし,おのおのの名をよび給ふ〔天文学者たちは星の数をかぞえることもできず,まして星の全部に名前をつけることもできません〕主〔エホバ〕のいきほひ大なり,その力のつよきが故に一も欠くることなし」(イザヤ 40:26)まったくエホバの強烈な勢と強い力によってエホバは天体宇宙の全部をひとつの大きな調和のとれた一致の中に創造し,かたちづくりました。またエホバは御自分の至上の御心と栄光に輝く目的をはたすためそれを制御して使用されるのです。全能なることを示すなんとすばらしい仕方なのでしょう!
12 人間の力と考える能力の小さなことは,何によってはっきり分かりますか。
12 すると,いろいろのものと比較してみるとき,力があると誇り高ぶっている人間は,いったい何であると分かりますか。まったく無力のものです。人間は幼児のようです。幼児は精巧な時計をこわすことができますが,時計の部品を集めて時計を組立てることができません。原子を粉砕する科学者たちは,ちょうどその幼児のようです。科学者たちは,二,三の原子を爆発させることができます。しかし,ひとつの簡単な原子をつくるのに必要な力を集めて,組立てることは,科学者にはできません。彼らにはそのことをするあたまの力と能力および身体的な力がすこしもありません。
全能者はただひとり
13 理性を持つ人は,自分自身を正しく認識することにより,全宇宙内でだれがいちばん力のつよい者とたたえますか。
13 それで,十分の認識を持つ真面目な人々は,人間の偉大さと力を誇るというようなことをせず,むしろ自分自身と他の人間を正しく評価して,きわめて謙遜な態度をとります。彼らはこの大きな宇宙における人間の微少さと力を正しく評価しているのです。彼らは他ならぬエホバ神に,その栄光を進んで捧げています。エホバ神こそ天と地の創造者であられ,全宇宙内の唯一の全能者であられます。
14 ずっと古い昔の敬虔な人々は,だれに,そしてどのように全能を帰しましたか。
14 そのような理性を持つ人々が,ずっと昔にも生存していました。これらの人々は原子の陽子をむすびつける力などをすこしも知っていませんでしたが,それでもエホバの偉大さと力を認めて,エホバをあがめるだけの知性を持っていました。たとえば,ダビデ王は死ぬ直前にイスラエルの会衆に記念すべき告別の話をして,その中で,次のように述べました,「ヱホバよ権勢と能力と栄光と光輝と威光とは汝に属す凡て天にある者地にあるものはみな汝に属す……汝は万有を主宰りたまふ,汝の手には権勢と能力あり汝の手はよくすべてをして大ならしめ又強くならしむるなり」(歴代志上 29:2,12)イスラエルの祭司とレビ人たちは,バビロンのとらわれから戻り,エルサレムの城壁がネヘミヤの時代に再建された後に,エホバだけが絶対全能者であられることを厳粛に発表して,次のように述べました,「汝は唯なんぢのみヱホバにまします汝は天と諸天の天およびその万象地とその上の一切の物ならびに海とその中の一切の物を造り之をことごとく保存せたまふなり天軍なんぢを拝す,汝ヱホバ神にまします……汝はまことに義し……されば我らの神大いにして力強くかつ,畏るべくして……」。―ネヘミヤ 9:6,7,32。
15 預言者エレミヤは,力,知識および知恵においてエホバが卓越していることを,どのように示していますか。
15 同様に預言者エレミヤは,敬虔な祈りの中で次のように述べました,「あゝ,主エホバよ汝はその大なる能力と伸たる腕をもて天と地をつくりたまへり汝には為す能はざるところなし」まったく,私たちのように下等の人間が,そのことを十分に認識して理解するとはまったく畏怖にみちるもの,恐ろしいもの,すばらしすぎるものです。しかし,偉大なる全能の創造者エホバにとってはそうではありません。―エレミヤ 32:17。
16 今日どんな二つの級は,エホバの全能なることをたたえていますか。
16 今日,サタンの宣伝はいっぱいであって,すべての被造物を創造者から離れさせようとしています。それでも,敬虔な恐れと信仰を持っていた昔の人のような人々が大ぜい生活しています。彼らはあらゆる強烈なエネルギーと強い力のただひとりの真の源 ― その御名は,エホバです ― に一切の賛美と誉をささげるだけの良識を十分に持っています。このような良識を持つ人々のうちには,現代の霊的なイスラエル人が幾千人かいます。彼らは西暦1919年にサタンのバビロン的な制度のとらわれから戻ってきたものたちで,油注がれたキリストの体の成員の残れる者です。そして,黙示録 11章16,17節に述べられている「二十四人の長老の一部」として,次の言葉を語りつづけます,「今います方,昔いました方,エホバ神,全能者よ,あなたが大いなる権力をとって王として治めはじめられたことを感謝します」。それは,西暦1914年以後のことです。エホバの全能者なることを賛美するハレルヤ合唱には,90万人以上の他の人々が参加しています。それは,90万人以上の他の人々の声です。彼らはほんとうに「大いなる群衆」であって,全世界のあらゆる場所において次の言葉をますます効果的に語っています,「あなた方はヤハをたたえよ。私たちの神,全能者エホバは王として支配し始められた」。―黙示 19:6,新世。
17 このような重大なニュースは,どんな大切な質問を生み出しますか。
17 全能者であられると共に,あらゆる強烈なエネルギーと強い力の源であられるエホバが宇宙の主権支配者として大きな力を取られていまそれを行使しているという重大なニュースを聞くと,考え深い人々の心に次のような大切な質問が生じます。すなわちこのもっとも聖なる源から力を受けることは可能だろうか,という質問です。すでに考慮したごとく,人間が認めても認めなくても,エホバの創造されたものの力とエネルギーを長いあいだ,数多くの仕方で使用してきました。しかし,弱い人間がこの無限の源から力を受けて,限られた肉の体と心の力を補う直接的な方法がありますか。
18 この質問の答えとして全能者御自身は何と答えていますか。
18 あります。エホバをたたえましょう。耳を傾けて聞いてごらんなさい! 全能者は,預言者イザヤの口を通して次のように語られています,「汝しらざるか聞かざるか,ヱホバはとこしへの神地のはての創造者にして倦み給ふことなく,また疲れ給ふことなく,その聡きこと測りがたし」。さらに,もしあなたがまだ聞いていないなら,永遠につかれを感じないこの御方は,こうも言われています。すなわち,彼は弱い者,つかれた者をささえ,さかんな力を十分に与えるということです。「疲れたるものには力をあたへ勢力なきものには強きをまし加へたまふ,年少きものもつかれてうみ壮んなるものも衰へおとろふ,然はあれどヱホバをまち望むものは新なる力をえん,また鷲のごとく翼をはりてのぼらん,走れどもつかれず歩めども倦まざるべし」。―イザヤ 40:28-31。
御霊により強い力を持つ
19 エホバは,彼に希望をかけている者たちに支持の力を与えるために,どんな手段を用いますが。
19 しかし,どうしてそのようなことが可能ですか。エホバはどんな方法で強烈なエネルギーと強い力を人間に与えますか。すべての人がそのような神の力を受けることはできません。それは明白です。神の存在を否定する科学者やこの世の指導者たちは,自分の力や他の人の力に信頼しているので,この天的なエネルギーの源から力を受けることは決して望めないでしょう。なぜなら,「ヱホバをまち望むもの」だけが「新なる力をえん」と聖書に記されているからです。エペソに住む人々でエホバに信頼と確信,そして希望を置いている人々にあてて,使徒パウロは次のように書きました,「わたしはひざをかがめて……父に祈る。どうか父が,その栄光の富にしたがい,御霊により,力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」。それで,人を強くさせるこの力は,エホバの御霊によって与えられます。それは聖なる源から来るので,「聖霊」と正しく呼ばれます。―エペソ 3:14-16,新口。
20 (イ)私たちの聖書の中で「霊」と訳されているヘブル語とギリシャ語の基礎的な意味は何ですか。(ロ)風は聖霊を適切に表わし示すものですが,それはどんな二つの特質をもっていますか。
20 神の聖霊について聖書の述べることを良く理解するため,ヘブル語ルアフとギリシャ語プニューマの言葉の意味を知ることは役立ちます。それらの言葉は「御霊」と訳されているのです。両方の言葉とも,「息」,「疾風」あるいは「風」という基礎的な意味があります。それは動きのない,停滞している空気ではなく,力づよい動作をしている空気です。聖書の筆記者たちは,これらの言葉をいくつかのちがった意味で使用していますがa,すべての場合において疾風の基礎的な性質,すなわち人間の目に見えないことと力が表わされています。私たちは風を見ることができません。しかし,風の働きはたしかに見えます。舟の帆をふくらませる風を見ることができません。しかし,舟が水上を走り,強い力が働いていることは見えます。それで,目に見えぬ力による目に見える結果,感知できる結果を認めることができます。
21,22 (イ)エホバの聖霊は,何であると定義されますか(ロ)宇宙の見えざる力とエホバの見えざる活動力をどのように区別しますか。
21 エホバの聖霊は,彼の目に見えぬ活動力です。それは彼の中にある力でなく,彼から外に出されたときのエネルギーで,彼の御心と目的を達成するものです。それは目に見えず,しかも強力なので,御霊と正しく言われます。
22 すると,このことから次のように結論すべきですか。すなわち,力とかエネルギーが人間の目に見えずにはっきり示されることは,エホバの聖霊のあらわれと言えるでしょうか。たとえば,地球の引力とか,原子爆弾が投下されるとき核力が猛烈に出されるときに言えますか。そうではありません。エホバはこの世界を創造されたとき,彼の目に見えぬ活動力をたしかに使用されました。また,無限の知恵と知識をも使用して,この宇宙の大いなる原子の力をしっかりむすびつけられました。(創世 1:2)しかし,そのような自然に示される力を神の聖霊と呼ぶことは正しいことではありません。エホバの目に見えぬ活動力は,盲目な力,奔放な力,制御できぬ力ではありません。それは,残酷にも生命の破壊をはかる悪人どもが面白半分にもてあそぶことのできる力ではありません。エホバは,いつの時でも聖霊を制御して指示しています。それは地球の引力のように固定された力ではありません。なぜなら神の御霊は,神の聖なる御こころと御旨に従い,与えられたり,ひっこめられたり,増したり減少したりするからです。それで,神の御霊は,彼の目に見えぬ活動力と定義することができます。それはほんとうに射出された力です。エホバは御自分の御心を達成するためにこの力を個人的に使用し,彼に崇拝と奉仕をささげる人々にこの力を豊かに与えます。
23 強烈な力のすばらしい源にたよれる特権を持つ人々は,どんな応答をしますか。
23 ここにすばらし力の源があります。エホバを真実に崇拝する者たち,そして限定された身体の力とあたまの力を意識している者たちは,力の不足を心配せずにこの方に自由に近づくことができます。このような幸運な人々については,次のように書かれています,「その力なんぢ〔エホバ〕に……ある者は幸福なり……かれらは力より力にすすみ……」(詩 84:5,7)力を与えられたこれらの幸福な民は,エホバの創造の活動のすばらしい驚異を見て,次のように叫びます,「ヱホバよなんぢそのみわざをもて我をたのしませ給へり我なんぢの御手のわざをよろこびほこらん ヱホバよ汝のみわざは大なるかな汝のもろもろの思念はいとふかし無知者はしることなく愚なるものは之をさとらず」。―詩 92:4-6。
24 全能のエホバを嘲笑してあざける者たちの将来は何ですか。
24 しれ者と愚かな者は,理解できないだけでなく,あらゆる力の真実の源を馬鹿にし嘲笑しつづけるでしょう。彼らにはそうさせなさい。神を認めぬ科学者たちや,この古い世の組織制度の技術者たちをして,燃料や力の新しい資源を求めつづけさせなさい。高慢で威張り高ぶる探険家や冒険家をして,外界宇宙を探険させつづけなさい。東のブロックのものであろうと,西のブロックのものであろうと,あるいは中立のブロックのものであろうと,これら愚かな者全部が,その石のごとき心をかたくして,すべての強烈なエネルギーと強いエネルギーの唯一の真の源に敵対するなら,そうさせなさい。エホバは彼らにむかって次のように言われています。「汝ら何ぞ我らは勇士なり強き軍人なりといふや」(エレミヤ 48:14)エホバはどんな戦争について語っていますか。それは急速に近づいているハルマゲドンの戦争です。すなわち,「全能の神の大なる日の戦闘」で,それはいま非常に近づいているのです。そのときエホバは次の祈りをささげる義人たちの祈りに答えるでしょう。「主われらの楯よ,大能をもてかれらを散らし,また卑したまへ 彼らがくちびるの言はその口のつみなり,かれらは詛と虚偽とをいひいづるによりてそのたかぶりのためにとらへられしめたまへ,いきどほりをもてかれらをほろぼしたまへ,再びながらうることなきまでに彼等をほろぼしたまへ,ヤコブのなかに神いましてすべをさめたまふことを彼らに知らしめて地の極にまでおよぼしたまへ」― 黙示 16:14,16。詩 59:11-13。
[脚注]
a 1957年10月15日号の「ものみの塔」を見て下さい。