私たちの責任に目ざめなさい
「夏のうちに集める者は賢い子であり,刈入れの時に眠る者は恥をきたらせる子である」。―箴言 10:5,新口。
1 各クリスチャンはどんな生涯の目的を持っていますか。
あなたは御自分の生活の目的を,神,および,創造主にたいするあなたの責任と関連させて,真剣に考えたことがありますか。多くの人々は,ただ生活費をかせいで,家族をやしない,老後の生活計画を立てるということだけを行ない,神の奉仕を行なうことについては決して考えをめぐらそうとしません。しかし,イエスは神の御こころを行なうのに目ざめていました。彼は落ちついた生活をすること,大工としての良い生活を送って家族をやしなうことだけに満足していませんでした。なぜなら,神はそれ以上のことを要求されていると,彼は知っていたからです。彼の弟子たちは,心と思い,魂と力をこめて神を愛し,また自分自身のように隣人を愛すべきであると,彼は弟子たちに告げました。彼は神に真心こめてつかえるというこの要求は重い荷であるなどと考えませんでした。むしろ,彼はそれを軽い荷と呼びました。なぜなら,それは創造主を知ることから来るふかい愛のうちになされるからです。
2 キリスト教国は,多くの人を援助してこの目的を達成させるのにどう失敗しましたか。
2 多数の誠実な人々は,神に仕えたいとのぞみます。しかし,そのために何をすべきか,またどうすべきかについて疑問を抱いています。最近,一青年は神への奉仕を行ないたいという希望を述べました。両親が牧師とそのことを話し合ったところ,教育費はとても高くてその両親には払いきれないことがわかり,その青年は神に仕えるという考えを断念しました。別のとき,かなりの年配の一婦人はエホバの証者のひとりに話をして,数年後には引退するので,そのときから神の奉仕にいくらかの時間をささげることのできることを楽しみに待っていると語りました。しかし,神と隣人に対して彼女がいだいていた愛を示し得るすべての年月についてはどうですか。キリスト教会は,人々を御言葉を聞く者にならせても,行なう者にならせなかったため,それらの年月は失われてしまったのです。イエスは,天の御父に仕えはじめる前に宗教の学校に長年のあいだ行きませんでした。今日,イエスに従う者たちもそのことは要求されていません。イエスが聖書をいっしょうけんめい研究した者であることは疑いありません。なぜなら,12歳のイエスは,エルサレムにいた宗教指導者たちを驚嘆させたからです。しかし,エホバに仕えるために,学者やパリサイ人の伝統的な教課に従うことが必要であると,イエスはお考えにならなかったのです。
3 イエスの始められたどんなわざに,私たちはいま参加することができますか。
3 今日の私たちも神の奉仕のために行ない得るどんなことをイエスはなされましたか。ルカ伝 4章18,19節の言葉によると,彼は貧しい者に良いたよりを宣べ伝え,捕われていた人々に解放を告げ,盲の目が見えるようになることを伝道しました。彼はその活発な伝道のわざにより神と隣人の両方に対する愛を示しました。私たちはそれ以下のことをするべきですか。もしイエスが弟子たちに教えた祈りの言葉すなわち,『あなたの御国が来ますように。あなたの御こころが天で行なわれるように地上でも行なわれるように』と祈るなら,その人はキリストの千年統治の支配の下にこの地上で神の御こころの行なわれることを待ちのぞんでいると示します。あなたはこのことを祈るゆえ,あなたは弟子たちに告げた次のイエスの言葉によろこんで従うべきでしょう,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう」。これこそすべての国の霊的にひもじい民に対して私たちが宣べ伝えることのできる良いたよりであります。私たちの御国宣教によって,私たちは宗教的に捕われている者たちを束縛のきずなから解放し,彼らの理解の目を開いて真理を見させます。(ガラテヤ 5:1。エペソ 1:18)あなたは,若くても年老いていても,男であろうと女であろうと,金持ちであろうと,貧しかろうと,まったく人種的な区別なしに,エホバの証者と共々にこの伝道のわざに参加することができます。エホバは,あらゆる種類の人々に同じわざを与えられます。
奉仕の責任
4 パウロは,その宣教についてどのように感じましたか。
4 実際,私たちは奉仕に参加する責任を持っています。使徒パウロはそのことを痛感していたので次のように述べました,「わたしが福音を宣べ伝えても,それは誇にはならない。なぜなら,わたしは,そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである。進んでそれをすれば,報酬を受けるであろう。しかし,進んでしないとしても,それは,わたしにゆだねられた務なのである」。(コリント前 9:16,17,新口)イエスがイザヤ書 61章1と2節を御自身と御自身の宣教に適用したことに,パウロは留意していたかも知れません。イザヤは,次の預言的な言葉を語りました,「主エホバのみたまわれにのぞめり,こはエホバわれにあぶらをそそぎて貧しき者に福音をのべ伝ふることをゆだね……」。パウロも同じ目的のために神の霊をいただきました。彼は真実のクリスチャンになるためには,イエスの足跡に従って,イエスの行なったことと同じわざをしなければならぬと,知っていました。あるいは,彼は弟子たちに与えたイエスの最後の教訓を考えていたかも知れません。イエスは次のように述べました,「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊の名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。(マタイ 28:19,20,新口)パウロが,自分の持った仕事を認識していたことには疑問がありません。そして,このことは特にいま終りの時にいる私たちクリスチャンにあてはまることです。
5 すべての者は宣教に参加すべきことを何が示しますか。
5 しかし,ある人々は反対論を唱えてこう言います,「結局のところ彼は使徒のひとりであった。今日ではわれわれの牧師がその仕事をしてくれるのであって,われわれがするのではない」。それらの人々は,パウロが天幕づくりだったことを忘れています。彼は他の人々と同じように働く人でした。弟子たちの中のある者は漁師,ひとりの弟子は収税人,別のひとりは医者でした。それでも,それらの弟子は宣教に参加して,すくなくともその部分時間を伝道しました。実際のところ,使徒行伝 8章1-4節の記録からも分かるとおり,初期クリスチャンはみな宣教に活発に参加しました。それはステパノが石打ちされて殺された時でした。「エルサレムの会衆に対して大迫害が起り,使徒以外の者はことごとく,ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った」。それから,これら初期のクリスチャンたちは何をしましたか。「さて,散らされて行った人たちは,御言を宣べ伝えながら,めぐり歩いた」。彼らは,エルサレムには使徒たちがいるのだから,何もしないで,ただだれかが来て伝道してくれるまで待とうなどとは,言いませんでした。むしろ,会衆内の各人は,神への奉仕というすばらしい機会に目ざめていて,信じていたことを会う人々にみな告げました。そのようにしてキリスト教はひろめられました。なぜなら,信者はみなすべての国民を弟子とするために時間を使い,彼らを教えて,それから洗礼を施したのです。今日,あなたは事務員,または大工,あるいはタクシーの運転手として雇われているかもしれません。しかし,問題はあなたがクリスチャンですか,ということです。もしそうなら,あなたは御自分が名前だけのクリスチャンでなく,行為の面でもクリスチャンであることを示す仕事をしなければなりません。
クリスチャン愛を示す
6 目ざめている奉仕者に対するいくらかの要求は何ですか。
6 神の御前で良い立場を持ちたいとのぞむ人は,その個人的な行為により神に誉を帰さねばなりません。そのことは全く明白です。パウロはロマ書 13章8-14節(新口)でそのことを強調しました。彼は私たちの仲間の人間に対する愛を強調し,これは律法の成就であると示しました。なぜなら,隣人に対して正しい愛を持っているなら,人は姦淫したり,殺人したり,盗んだり,むさぼったり,あるいは隣人に対して悪を行なうようなことをしないでしょう。そのようなことをする者は,神の要求にたいして眠っている者です。パウロは次のように書きました,「あなたがたの眠りからさめるべき時が,すでにきている。なぜなら今は,わたしたちの救が,初め信じた時よりも,もっと近づいているからである。夜はふけ,日が近づいている。それだから,わたしたちは,やみのわざを捨てて,光の武具を着けようではないか。そして,宴楽と泥酔,淫乱と好色,争いとねたみを捨てて,昼歩くように,つつましく歩こうではないか。あなたがたは,主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。もし私たちが,愛の心をもってつねに行動し,そしてすべての人の前で,真昼に行なうように行動するなら,遺憾に感ずるようなことを決してしないでしょう。古い世をおおう霊的なくらやみとそのくらやみにかくれて行なわれる非行や好色の行動は,犯罪を著しく増加させました。クリスチャンは光の武具を身につけることにより,そのようなものを避けねばなりません。パウロはこれらのもののうちのいくらかを次のように述べました,「しかし,わたしたちは昼の者なのだから,信仰と愛との胸当を身につけ,救の望みのかぶとをかぶって,慎んでいよう。神は,わたしたちを怒にあわせるように定められたのではなく,わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである」。―テサロニケ前 5:8,9,新口。
7 信仰に弱い人は,どのように強められますか。
7 この信仰の胸あてと,私たちの持つ救いの希望は,いくらかの時間を経て得られます。最初,私たちの信仰と希望は弱いかも知れません。しかし,聖書を研究することにより,また円熟しているクリスチャンの兄弟たちと交わることにより,信仰と希望は建ておこされ強められます。神は救いの道をたくさん持っておられるのでなく,むしろ救いの道はイエス・キリストを通してただひとつだけあること,また私たちは霊的な光の武具を用いることによって他の人がこのことを認識するよう援助できることを理解するようになります。神に対する私たちの責任は,良い生活をすること,おたがいに生活して害を加えないということよりも大きなものです。エホバ神やキリスト・イエスを信じない大ぜいの人々は,高い道徳律や倫理のうちに知恵を見出しています。しかし,彼らは神の奉仕に目ざめていません。私たちは,私たちに対する神の要求に興味を持ち,神が私たちに学ぶことをのぞまれるものを学び,神が私たちにのぞまれるわざを行ないます。かくして私たちに生命を与えたもうた御方に仕えるという私たちの責任を果たすことができます。私たちが聖書を学ぶほど,私たちは次の事実をより良く認識するようになります。すなわち,私たちはエホバに仕えるためなにかをすることができるのであって,私たちは専心の献身をささげることによってエホバの愛を示すことができるのです。―エペソ 5:3-14。
8 なぜ,そしてどのように隣人愛は示されるべきですか。
8 私たちの隣人に愛を示すことは,神にささげる私たちの奉仕の一部です。ある人が危険な状態にいるのを見るなら,多くの人々はその人に危険を警告するか,あるいはその人を救うための手段を講ずるのは自然です。私たちが御国の奉仕に参加するとき,実際にそのことをしているのです。難問題にみちた最近の世界情勢を見るとき,そのなかに主の臨在のしるしを認めます。そして,ハルマゲドンによってこの古い組識制度が全く終わる以前に,良いたよりを全世界にわたって伝道することに参加します。それは,つまり他の人々を援助して安全の道へのがれさせることです。これらの真理を知り,神への愛を持つあなたは,その知識を他の人と分かち合うことをためらいますか。真理をすすんでわけ合う人,そして神の御霊に動かされて活発に伝道する人は,幸福な人,霊的に目ざめている人です。彼はパウロの次の言葉を実行している人です,「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について,感謝しなさい。これが,キリスト・イエスにあって,神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない」。―テサロニケ前 5:16-19,新口。
9 ある人々をはばんで霊的な宝を得させないものは何ですか。
9 アカンは隣人愛を示さず,むしろ自分自身の利益を最初に求めた人の一例になっています。アカンは神からの要求とは反対の行いをして,私用のために「銀と外套と金の延べ棒」を盗みました。そのため,エホバはイスラエルの軍隊をめぐまず,イスラエルの軍隊はアイの民と戦ったとき敗北しました。(ヨシュア 7:1-23)今日ある人々はアカンのとった行いと類似の行いをします。それらの人々は現在の世の富を蓄積しようとつとめ,物質主義の奴隷になります。彼らは霊的な戦いに心を傾けて,エホバのめぐみを保つように努力するかわりに,肉の欲をまず追い求めます。彼らは世俗の仕事にますます多くの時間と力をついやして,その納屋に多くの穀物を集め,銀行の金庫室に多くの金を蓄積しようとつとめます。その結果,彼らは宣教に定期的に参加できません。彼らは集会に欠席します。また研究する時間を見つけることもできませんから,会衆内の僕になる資格を身につけることもできません。そして,ついに彼らは霊的な戦争に敗けたことを知ります。おそらく,彼らの家族たちの生命をも失わせたかも知れません。彼らはその貯えている宝も,いつの日かは道に投げ出されてしまうということを忘れています。彼らが無視している真実の宝は,エホバに仕えること,および善意者を助けて真理を理解させることにあります。
10 なぜ私たちは教える者であるべきですか。
10 そのわけでパウロは次のように語りました,「あなたがたは,久しい以前からすでに教師となっているはずなのに,もう一度神の言の初歩を,人から手ほどきしてもらわねばならない始末である」。(ヘブル 5:12,新口)これは全国民の人々を弟子とするためにイエスが強調した教えるわざです。もしあなたが,聖書の真理を知っていながら,まだ他の人々を教えていないため,あたかもパウロがあなたに向かって話しているように感ずるなら,あなた自身の家族あるいはあなたの友人といっしょに聖書研究を始めるように努力してください。協会の用意したたくさんの研究の手引,たとえば「御国のこの良いたより」,「神を真とすべし」,あるいは「失楽園から復楽園まで」のうちのひとつを選びなさい。それぞれの節にある質問を考え,述べられている聖句を読んで論じなさい。他の人に説明して,教えることは,あなた自身が学ぶ最善の方法であることを知るでしょう。準備するためには良く研究することが必要です。しかし,あなたがすすんでそうするなら,良く研究することはできるはずです。真理を愛する善意者を援助するという責任を受けいれなさい。収穫は大きく,働き人はすくないということを忘れてはなりません。あなたも援助することができます。そして,このようにしてあなたは神とあなたの隣人に対する責任を果たしています。―マタイ 9:37,38。
11 だれがその光を輝かせましたか。
11 イエスは,かしこいおとめと愚かなおとめについての譬話の中で,清い崇拝に目ざめつづける必要と,真理の光をかがやかせる必要を強調しました。(マタイ 25:1-12)彼は忠実な奴隷級を前もって見こされました。この奴隷級は,1918年に花むこが宮をさばくために来られる時に目ざめていました。彼らの燈火は,エホバの奉仕のときに得られる幸福の油でいっぱいでした。別のときに,イエスは彼の僕たちは世の光であると語られました。いまこの真理の光の助けによって,毎年幾千人という善意者は偽りの宗教の教えをおおう暗やみから自由に解放されています。しかし,イエスは当時の宗教指導者たちについて語ったとき,その暗やみの状態を盲目にたとえて次のように語りました,「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら,ふたりとも穴に落ち込むであろう」。―マタイ 15:14,新口。
12 どの種類の信仰もみな正しいですか。救いのためには何が必要ですか。
12 ところが,多くの人々は次のように信じています。すなわち何かを信じているかぎりどの信仰に従おうとそれは重要なことでないというのです。それはちょうど回復可能の病気なのに人がそれで死にかけている時に,どんな治療を施しても,どんな医者にみてもらっても,そんなことは問題ではない,要するに何かをしておりさえすれば良いのだと言うのと同じです。たとえその人が死んでも,彼らはこうほのめかします。つまり,大切なことはその人が努力したこと,医者を信用していたことだいうのです。しかし,肝心なことは,彼が回復したかということです。同じことは,宗教についても言えます。大切なのは,あなたがどれかの信仰を持つということではなく,あなたは生命を得るかということです。ロマ書 10章2節(新世)は,次のように述べています,「私は彼らが神に対して熱心であることをあかしする。しかし,それは正確な知識によるのではない」。イザヤは偽りの崇拝に対して反対の言葉をつよく語り,偽りの指導者たちを眠る犬「悟ることのできない牧者」と言いしました。(イザヤ 56:10,11,新口)この終りの時になっても,彼らは警告を発しません。彼らは,神の御国がただひとつの希望であることを群れに告げません。むしろ国際連合のような政治的な努力のために祈ることによって,世界の苦難を一時的にしずめようと努めます。私たちは眠ることをしないで,むしろ目ざめていて警告を与えましょう。あなたはパウロの述べていることをすることができます,「あなたがたがイエスは主であるという『あなたがたの口にある言葉』を公に言い表わし,神はイエスを死人からよみがえされたということを心に信ずるなら,あなたがたは救われるであろう。なぜなら,人は心で信仰を働かすことにより義とせられ,口でもって公に言い表わして救われるのである。……『エホバの御名を呼び求める者はみな救われるであろう』」。―ロマ 10:9,10,13,新世。
献身は責任をもたらす
13 献身はクリスチャンにとって何を意味しますか。
13 私たちが心に信仰を働かすなら,私たちはその信仰を表わす行いをするでしょう。私たちは,イエスのとられた同じ段階をふみ,私たちの生命をエホバ神にささげ,宣教に活発になり,御言葉を公に言いひろめます。これは感情的な決定であってはなりません。むしろ,それは正確な知識にもとづくものであるべきです。それは,私たちが神を愛するからであり,また私たちの創造主につかえたいというつよい願いがあるからでなければなりません。私たちがエホバ神に生命をささげるとき,私たちは一生のあいだエホバに仕えると誓います。それで,知識が責任をもたらすように,献身は責任をもたらします。たしかに,各人は神に奉仕するという特権に対し,同じ程度に応ずることはできません。ある人々は,家族の責任を持ち,他のものは健康がすぐれず,またある人の場合に年齢がその人の活動をおそくするかも知れません。しかし,生命の賜物を楽しむすべての人は,なにかをすることができるはずです。(詩 115:17,18)イエスは,このことに留意されつつタラントの譬話を語られました。主人は自分の財産を僕たちに渡して,彼の留守中その僕たちに管理させました。ひとりの僕には5タラントを預けられ,もうひとりの僕には2タラントを預けられ,そして3番目の僕には1タラントが渡されました。第3番目の僕をのぞいては,彼らはみな自分たちにゆだねられたものを賢明に用いました。この3番目の僕は,ゆだねられたタラントをなくさないようにするため,土のなかに埋めました。彼が怠慢であったため,そのタラントは彼から取りあげられて,ゆだねられたものを賢明に用いた者のひとりに与えられました。―マタイ 25:14-30。
14 人はどのように御国の事がらを増すことができますか。
14 今日,献身したクリスチャンは特定な御国のことがらを持っていて,各人はそれを管理します。御国のタラントあるいは主人の財産は,霊的な残れる者にゆだねられました。しかし,神のしもべはみな,いただいた知識と奉仕の見込を賢明に用いるという機会を持っています。あなたは御自分のタラントについて何をしますか。あなたはそのタラントを埋めていますか。それともそのタラントを用いてエホバの祝福とともに来るよろこびを受けていますか。イエスはこのことを要約して,真実に幸福な者とは目ざめている者,活発な者,自分の責任に目ざめている者と示しました。「おおよそ,持っている人は与えられて,いよいよ豊かになるが,持っていない人は,持っているものまでも取り上げられるであろう」。(マタイ 25:29,新口)それで,私たちは御国奉仕の特権を使用し,増加させて大事にしましょう。
15 どんな譬話は,目ざめている必要を示しますか。
15 私たちの御国奉仕は,神からゆだねられているものです。それで,私たちはそれを守るために目ざめていなければなりません。もし,大金があなたに渡されて,雇い主のかわりにそのお金を銀行に持って行くよう言われたとき,その途中公園のベンチで寝るようなことを決してしないでしょう。あなたは目ざめていて,警戒しているにちがいありません。そして,あなたの責任を問われるものについて悪いことがなにひとつおこらないようにするにちがいありません。私たちにゆだねられているクリスチャン奉仕についても,私たちはそのように感ずるべきです。それには,お金のなくなることだけが関係するのでなく,生命の失われることが関係しているのです。イエスは,黙示録 16章15節で,目ざめている必要を示しました。彼は次のように語っています,「見よ,わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように,また,裸の恥を見られないように,目をさまし着物を身に着けている者は,さいわいである」。イスラエルの時代には,祭司やレビ人たちが宮で夜の警戒をして,泥棒や侵入者などが宮にはいらないようにするのが習慣でした。宮のつかさが巡視して,眠っている者を見つけるなら,それらの者たちは真裸にされて鞭打たれました。それらの祭司やレビ人は,祭司級である14万4000人を表わし示しました。そのうちの残れる者は今日の霊的な宮の見張として奉仕しています。それで,その警告は,彼らに対するものだけでなく,彼らとともに宣教の仲間として奉仕している者に対しても与えられています。それは彼らが義務の遂行に怠慢であるとか,仕事をしながら眠ることのないためです。そうであるなら,彼らは宮の検閲者キリスト・イエスにより,エホバの証者として楽しむ奉仕の特権を取られてしまうでしょう。
16 弟子たちは,どんな経験をしましたか。
16 それはあなたに決して生じない,などと言ってはなりません。それに似たことが,弟子たちに生じたのです。しかも1度だけでなく,3度も生じたのです! それはイエスの死なれる前夜のことでした。イエスはゲッセマネと呼ばれるところへ行って祈りをささげました。彼が祈りをささげているとき,弟子たちは眠りました。それでイエスは,ペテロにこう語られました,「あなたがたはそんなに,ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが,できなかったのか。誘惑に陥らないように,目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが,肉体が弱いのである」。イエスは弟子たちのために言い訳をしたのではありません。イエスは,彼らがつかれていることを知っていました。もし彼らが生じようとしていた出来事を十分に理解していたなら,2度目のときも「彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである」というような記録は残されなかったでしょう。ところが,イエスが祈りをやめて戻られた3度目でも,彼は弟子たちにこう告げました,「まだ眠っているのか,休んでいるのか。見よ,時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ」。(マタイ 26:40-45,新口)ペテロはこの教訓を良く学んだにちがいありません。なぜなら,後日彼は目ざめているようにとの同様な助言を与えて次のように語っています,「身を慎み,目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が,ほえたけるししのように,食いつくすべきものを求めて歩き回っている」。―ペテロ前 5:8,新口。
17 この経験は,私たちをどのように援助しますか。
17 弟子たちはこのとき奉仕の特権をとられませんでした。しかし後になって,彼らは最後のときにイエスとともに目ざめていなかったことについてふかく後悔したにちがいありません。それは私たちにとって良い警告です。この終りのときに私たちは二重に目をさましていることが必要です。それは,彼らと同じように叱責をうけないようにし,または奉仕の特権を失わないためです。それで,兄弟たちが祈りや研究のために御国会館で集まっているとき,家で眠っているようなことがないようにしましょう。おそらく,イエスが弟子たちに助言したように,ある人はあなたに助言を与えるかもしれません。(詩 13:3)むしろ,私たちはエホバからいただいたすばらしい信用を守って,研究しつづけましょう。また集会に出席しつづけましょう。そして,私たちに割当てられている奉仕に参加しつづけましょう。―テサロニケ前 5:21,22。
家族と会衆の責任
18 両親は自分の子供たちを霊的に援助するため,何をすることができますか。
18 クリスチャンの両親に課せられている責任の一部は,自分の家族の霊的な福祉を良く見ることです。愛の心を持つ両親はみな,自分の子供たちに対して深い責任を感じます。彼らは昼も夜も子供たちの必要物に目ざめています。子供の幼少のときでも両親は忍耐づよく子供たちを世話し,やしない,衣服を着させ,教え,援助して,子供たちが自分の身の守りをすることができるまで,その成長を援助します。賢明な両親は,生命に必要な物質を供給するだけでなく,子供たちの霊的な福祉にもふかい考慮を払い,子供たちを援助してその創造者のことと,創造者に奉仕する特権を学ばせます。(エペソ 6:4)両親が子供たちに聖書を読んだり,子供たちといっしょに研究したり,子供たちを集会や,野外の御国奉仕に連れて行って,このことを卒先指導するなら,子供たちはその指導によろこんでしたがうでしょう。(箴言 22:6)聖書の訓練は,子供の霊的な福祉にきわめて大切なものです。それで,両親は,子供たちを教える責任を他の者に渡してはなりません。新しい世の社会の会衆内の僕には,会衆を指導して,会衆を霊的に援助する責任があります。同様に両親は自分たちの家族に対して責任を持っています。両親は家族の監督あるいは僕たちです。賢明な父親は,自分の家族の宗教的な訓練を卒先して行ないます。あなたはこの責任に目ざめていますか。
19 両親は子供たちをどのように教えることができますか,なぜそれはそんなにも大切ですか。
19 子供たちにエホバ神の目的を教えることは,週の安息日までのばしてはなりません。むしろ,それは1週間の毎日,朝も昼も夜も行なわれる責任でなければなりません。このことについての聖書の助言は,申命記 6章5-7節に記録されています,「なんぢこころをつくし精神をつくし力をつくして汝の神ヱホバを愛すべし 今日わが汝に命ずるこれらの言は汝これをその心にあらしめ つとめて汝の子どもに教え家に坐する時も路を歩む時も寝る時も起る時もこれを語るべし」。もし神のいましめがあなたの心の中にあるなら,あなたはそのいましめを子供たちに教えることができるでしょう。しかし,あなたは御自分の知らないことを子供たちに教えることはできません。またあなた御自身でしないこと,あるいは良い結果が得られるとのぞめないものを子供たちにしなさいと語ることはできません。ノアが箱舟建造のわざに卒先指導したことを忘れてはなりません。彼は息子たちの援助をうけつつその仕事をしました。あなたは御自分の家族に同じことをすることができます。あなたが個人的に教えたり,卒先して奉仕の指導をしたり,また開拓奉仕にはいるよう彼らをはげますことにより,真理の良い,健全な基礎知識を得させるようにしなさい。あなたの家族は,長なる宮の検閲者による最終的な検閲をうけるのに準備をととのえねばならないのです。それで,イエスの指示にしたがって,「見張りつづけ」あなたの家族を真理に目ざめさせ,奉仕に進歩させつづけなさい。
20 クリスチャンである僕の持ついくらかの責任は何ですか。
20 家族のかしらが,指導卒先して正しいクリスチャンのかしらの地位を行使することによって,家族に対する自分の責任の認識を示すなら,その人はクリスチャン会衆内の僕として奉仕の特権をうけることができると示します。そのような場合には,小さな家族の福祉が関係するだけでなく,会衆の福祉も関係するのです。それで,僕たちは特に霊的に目ざめている責任を持っています。僕たちは聖霊によって油そそがれているゆえ,エホバに責任を負わねばなりません。羊の群れをみちびいて守るとき,僕たちに援助がないわけではありません。物事を神権的に扱うためにエホバの御言葉があり,また彼らに助言を与えて彼らを援助するエホバの制度があります。(イザヤ 50:4)僕たちは欠点のないものであって,外部の人々から非難をうけてはなりません。日々,神の律法を読んだイスラエルの王のように,今日神の民のなかに監督として,僕として任命される者は,聖書を知らねばなりません。彼らは真理を無料で他の者と分かち,光を照らす星のように光をかがやかしてすべてのものに見させます。迷える羊を探し出す良い羊飼のように,僕は集会に出席している者だけに注意を払わず,集会に欠席している者にも注意を払います。それらの者たちを訪問して,援助するためです。羊の群れは神のものであると,良い僕は知っています。彼は羊の群れをエホバからゆだねられたものとして扱います。―テサロニケ前 5:14,15。
21 どんな出来事は私たちを目ざめさせますか。どんな助言が与えられていますか。
21 地をおおう霊的な雲がますます黒くなって行くいまこそ,新しい世の社会の楽しむ光に来るべき時です。この真理の光は,キリストが1914年に天で御座について以来ますます明るくなってきました。「日の出る方から来る王たち」エホバ神とキリスト・イエスは,諸国民をハルマゲドンの大いなる戦争に集める準備をしています。その戦争のときに中立の立場はなくかくれる場所もありません。時代についてのイエスの詳細なしるしから分かる聖書的なすべてのしるしは,ちょうど私たちに警告と保護を与えるためにはっきり鳴りひびく神からの目ざましの音のようです。(ヨエル 3:12-17)いまは,幾年ものあいだ良いわざをしてきたからといってつかれを感ずる時ではなく,また生活の重荷で速度を落とす時ではありません。むしろルカ伝 21章34,35節(新口)にあるイエスの言葉を記憶しなさい,「あなたがたが放縦や,泥酔や,世の煩いのために心が鈍っているうちに,思いがけないとき,その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように,よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから」。
22 霊的に目ざめている人々は,何を待ちのぞむことができますか。
22 他の者の妨害をうけるために,あなたがエホバ神の奉仕という開かれた戸からはいれない,などということがあってはなりません。あなたが時代の緊急性を認識していること,あなたがエホバに愛を持っておられること,およびあなたの学んだ真理を愛しているということをエホバに示しなさい。真心こめて御国奉仕にはげむことにより,それをあなたの隣人と分かちなさい。これは終わってしまうわざです。それで,いま楽しみなさい。(エレミヤ 31:34)諸国家と共々にハルマゲドンの滅びをうけるのをさけるため霊的に目ざめていなさい。幸福な者たちの中にいなさい,時代に目ざめていなさい,エホバの制度の一部としてあなたの家族および会衆と共々に,奉仕する機会に目ざめていなさい。そうするなら,あなたもエホバの是認を受けて,キリストがハルマゲドンの検閲をする後の新しい世で生命を得るでしょう。これは信仰を持つ人々に対する幸福な将来であります。