祝宴に連なる代わりの人々を集める
1 (イ)婚宴に「招いておいた者たち」は,それに「値しなかった」ことをどのように示しましたか。(ロ)物質主義に根ざす利己的な関心事をあとにするとすれば,それは彼らにとってどうすることを意味したでしょうか。
クリスチャンに反対したそれら「殺人者たち」は,西暦70年における彼らの聖都エルサレムの崩壊にさいして殺され,ユダヤ人の独立国家は壊滅してしまいましたが,どうしてそのようなことが起きたのでしょうか。それはイエスの例えの中に出て来る王が述べているとおり,それら婚宴に招かれた人たちがそれに「値しなかった」ためです。(マタイ 22:8)ユダヤ人は天の王から二度目の知らせを受けた後,無礼で不敬で,不誠実な態度で,しかもしばしば暴力を振るってまで王の招きを拒絶することによって,自分たちがそういう人間であることを示していました。物質主義に根ざす自分たちの利己的な関心事をあとにして,霊的な「婚宴」に臨むとすれば,それは彼らにとって何を意味したでしょうか。それは,モーセの律法契約を守り損ったことだけでなく,神から遣わされたメシアを激しく拒絶したことをも悔いて,自分たちのメシアであるイエスの弟子となって水でバプテスマを受けることを意味していました。しかし,彼らはあまりにも高慢で,あまりにも独善的で,あまりにも自分たちの計画に熱中していたため,そうした要求に応じようとはしませんでした。これがイスラエル国民の一般的な実情でした。
2 (イ)二度目の知らせを伝えるわざが終わった時,婚宴のすべての席が空席のままにされたわけではありません。どうしてですか。(ロ)王はどれほど多くの席を,それに『値する』人たちで満たすことを考えておられましたか。
2 それでは,「婚宴」の座席はすべて空席のままにされてしまったのでしょうか。いいえ,決してそのすべてが空席のままになったのではありません! 聖書の記録の示すところによれば,「招いておいた」ユダヤ人の一部の人々は,最初の知らせが出された時それに答え応じましたし,二度目の知らせが伝えられ始めた西暦33年のペンテコステの日以降,さらに多くのユダヤ人や割礼を受けてユダヤ教に改宗した人々が答え応じました。しかし,それらの人々は,婚宴の設けられる部屋に用意された数多くの席に比べれば実に少数でした。王はどれほど多くの座席を満たすことを考えていたのでしょうか。「食卓」のそばの,横になる座席を占めるに値した人たちは,「天の王国」で王のみ子とともに共同相続者になる人たちを表わしていましたから,天の王であられるエホバは,婚宴に出席するに値する者たちで「婚礼の部屋」を満たすため,14万4,000の座席を満たすことを期待しておられました。聖書巻末の啓示の書の中でイエス・キリストがわたしたちに示しておられる事柄はそのことを証明しています。(啓示 7:4-8; 14:1-3; 20:4-6)その数字は,その婚礼の晩さんに際して数多くの座席が用意されていることを示しています。
3,4 (イ)イエスの例えによれば,14万4,000の席を満たす機会は専らだれだけに与えられていましたか。(ロ)彼らは数の点で,それほど多くの席を満たし得ましたか。
3 イエスの例えによれば,王なるエホバはそれら14万4,000の座席すべてを満たすに足る,それに値する十分の数の者たちを供する機会を,律法契約下のイスラエル国民全体のために開きました。彼らはアブラハムの生来の肉身の「胤」でした。神はそのような「胤」によって地上のすべての族を祝福する契約をアブラハムと結んでおられたのです。(創世 12:3; 22:17,18,新)神は彼らをモーセを通して律法契約に加わらせましたが,その結果,彼らは「祭司の王国」を構成する見込みを持つようになりました。神は,その「祭司の王国」をモーセよりもいっそう偉大な仲介者であるメシアのもとに樹立することを意図しておられました。それで,専ら彼らだけが霊的な婚宴に「招いておいた者たち」だったのです。
4 その国民は全体として,それら用意された数多くの座席に着かせるべく,14万4,000人の生来のユダヤ人を供給しようと思えばそうすることもできました。ユダヤ人は必要数の希望者を十分供給するに足る相当数の,つまり何百万もの人口を擁していたに違いありません。というのは,ヨセフスによれば,西暦70年,エルサレムでは119万7,000人のユダヤ人が過ぎ越しを祝っていたからです。しかも,当時人間が住んでいた地上の至る所に散在していたユダヤ人すべてが,エルサレムで過ぎ越しを祝っていたわけではなかったのです。
5 (イ)パウロは,招待に答え応じた,アブラハムのそれら生来の肉の「胤」のことをどんな者とみなしましたか。(ロ)とはいえ,以前と同じほど多くの空席がありましたか。
5 このようなわけで,アブラハムの生来の肉の「胤」の中から招かれた人々は大勢,つまり14万4,000人いました。しかし,聖書の示す表によれば,アブラハムの生来の胤の中で,律法契約に含まれていた自分たちに対する招待に答え応じた人々はほんの少数に過ぎませんでした。キリスト教に帰依して使徒となったパウロは西暦56年ごろ,それら選ばれたユダヤ人の人数をイスラエル国民の単なる「残りの者」という風に見積りました。(ローマ 9:27-29; 11:5)とはいえ,ユダヤ人のそれら「残りの者」が「婚礼の部屋」に同席したので,空席は最初の知らせが伝えられだした西暦29年当時の数多くの,つまり合計14万4,000の空席よりはもっと少なくなりました。
6 イエスの例えの中で,王はその情け深い目的を潰えるままにして恥辱を被るようなことはしませんでした。どうしてそう言えますか。
6 イエスの例えによれば,今や用意のできた婚宴に関しては,王にとって時間は尽きようとしていました。招かれていた人々の非常に多くの者が招待を拒絶したので,王はその行事をたたえさせるため,祝宴の行なわれる部屋をどのようにして客で満たさせることにしましたか。その部屋の見ばえが悪くなれば,それは王にとって不面目なことであり,王の情け深い目的は潰えたことになります。しかし,その王が打ち負かされるようなことはありませんでした。もし最初に招かれた人たちが同席して王をたたえないのであれば,王は彼らのために予定しておいた座席をその代わりの人々によって必ず満たさせます! それら「殺人者たち」の都市を滅ぼす前に王は速やかにその都市の外の,つまりその地域共同体の外の各地に,すなわち「市外に通ずる道路に」奴隷たちを遣わしました。そして,王の「奴隷たち」はそのような場所から,代わりの人々を,そうです,彼らが見つけた者たちを「だれなりと」連れて来るのです。
7 王の奴隷たちが最初の招待の場合と同様の仕方で代わりの人々を集めたかどうかは,どんな事からわかりますか。
7 王の奴隷たちは,それら自分たちの家の所在地以外の所にいた見知らぬ人々を説得して婚宴の座席に着かせることができました。それは一種の招待と呼ばれました。なぜなら,今度集められた人たちは,自ら率先して結婚の祝いに“押しかけて”きたわけではなかったからです。代わりの人々として今度集められた人たちは,最初に招かれた人たちのような意味で招かれたわけではありません。ルカ 14章15-24節に記されている,イエスの述べた類似の例えの中では,客に対して三度目の,そして最後の招待が行なわれるさい,「盛大な晩さん」を設けた家の主人は,その奴隷にこう言います。「道路や,かきねに囲まれた場所に出て行き[つまり,市の外に行き],無理にでも人びとにはいって来させ,こうしてわたしの家がいっぱいになるようにしなさい。あなたがたに言うが,招かれていたあの者たちにはだれにもわたしの晩さんを味わわせないのだ」― ルカ 14:23,24。
8 今度集められた人たちとはだれでしたか。それらの人たちを集めるわざはいつ,またどのように始まりましたか。
8 招かれていた者たちの住んでいる「市」の外の「道路」から十分の人数の客を集めるこのわざは,西暦70年に始まったのではありません。それは,天の王のみ子イエスがバプテスマを受けて油そそがれてから7年,もしくは1「週年」たった,西暦36年の秋に始まりました。(ダニエル 9:24-27,新)まず最初に遣わされた奴隷は,キリスト教徒になったユダヤ人である使徒ペテロでした。ローマ知事ポンテオ・ピラトの州都であったカエサレアに遣わされたペテロは,その町で,割礼を受けていない異邦人つまり非ユダヤ人に音信を宣べ伝えました。彼の話に耳を傾けていた,イタリア人の百人隊長コルネリオと,信仰の厚いその友人たちに神は聖霊を注ぎました。その後,使徒ペテロは彼らにバプテスマを施しました。(使徒 10:1から11:18)この時以来,割礼を受けていない非ユダヤ人を集めるそのわざは,この二十世紀に至るまで続けられて来ました。それらの人たちはすべて,代わりの人々なのです。
9 (イ)パウロはアブラハムとその生来の肉の子孫を何にたとえましたか。(ロ)「枝」はなぜ折り取られましたか。それはどのように置き替えられましたか。
9 ローマ 11章に記されている使徒パウロの述べた例えによれば,律法契約下の生来のユダヤ人は,オリーブの木の本来の枝にたとえられています。そのオリーブの木には,ある限られた数の枝があります。それらの枝は,神の友アブラハムの生来の子孫のことでした。そうした子孫でしたから,彼らは,アブラハムと結ばれた契約に基づく神の約束の生来の相続者でした。族長アブラハムはこの象徴的なオリーブの木の幹で,その根は神の契約に基づくあの約束にしっかりと定着していました。しかし,神が求めておられたのは,アブラハムの霊的な「胤」,つまり霊的なイスラエルでした。したがって,「祭司の王国」を構成するよう招かれた生来のユダヤ人が,そのための要求に答え応じようとしなかったとき,彼らは象徴的なオリーブの木から折り取られました。彼らは「天の王国」の相続者とはされませんでした。彼らは置き替えられなければなりませんでした。それはその象徴的なオリーブの木が,所定の枝全部を備えたものとなるためでした。この緊急事態に対処するため,神はあわれみ深いことに,彼らの代わりとして,野生のオリーブの木の枝のような信仰の厚い異邦人を用いて接ぎ木を行なわれました。こうして神は,霊的なイスラエルの全成員,つまりアブラハムの霊的な「胤」を得るのです。
「結婚式の衣」を着ていない人
10 この例えのどんな特異な事柄の成就すべき時が今や進展しているに違いありませんか。それはなぜですか。
10 さて,そうした集めるわざが過去18世紀余なされた後の,この二十世紀の時代までには,代わりとして用いられねばならない人々は比較的少数,あるいはごく少数しかいないはずです。それで多くの人々が集められるわけではありません。1914年に異邦人の時が終わり,また同年に「終わりの時」が始まって以来,天の王の整えられた「婚礼の部屋」を満たすべき時は今や進展しているに違いありません。イエスの例えの中では,その時が到来するに及んで,イエスはさらにこう述べています。「王が客[席に寄りかかっている人たち]を見まわるためにはいって来たとき,結婚式の衣をまとっていない人をそこに見つけました。それでその人に言いました,『君,結婚式の衣を着けずにどうしてここにはいってきたのか』。その人は何も言えなくなりました」― マタイ 22:11,12。
11 衣を着ていなかったその人は,王に問いただされたとき,何も言えなくなりました。どうしてですか。
11 王は婚礼の行事に際してすべての客に着用させる結婚式の衣を用意しておいたので,その衣を着ていなかった人は,そうしていなかった点で言いわけをする余地はありませんでした。彼が黙ってしまい,口を封じられてしまったのも当然です。イエスはその例えの中で,その人が衣を着て中に入り,それから衣を脱いだと述べてはいません。むしろその人は,王の付添い人から衣を差し出されたとき,あるいは来客用の王の衣装部屋に案内されたとき,その衣の着用を断わりました。王は彼に向かって,『あなたはどうして結婚式の衣を脱いだのですか』とは尋ねないで,『どうして結婚式の衣を着けずにここにはいってきたのですか』と尋ねました。その人は衣を着ることを断わりました。衣を着て祝宴の食卓につくのを拒んだのです。彼はその食卓に連なるための要求にかなっていなかったので,そこにいる資格がありませんでした。その人は今日だれを表わしていますか。
12 衣を着ていなかったその人は,簡単に言って,だれを表わしていますか。結婚式の衣は何を表わしていたと聖書注釈者は述べていますか。
12 彼は,敬虔なクリスチャンであると称しながら,「結婚式の衣」で表わされているものを着けていない人たちのことを表わしています。伝えられるところによれば,この例えの主人がたくさん用意したそうした衣は,亜麻布でできた白くて長い服だったので,それを着た客は,元をたどれば招かれたユダヤ人であれ,あるいは偶然に見つけられた異邦人であれ,すべて外見は同じように見えました。したがって,子羊の妻に関して次のように言われている啓示 19章7,8節を引き合いに出す聖書注釈者は少なくありません。その句はこう述べています。「彼女には,輝く,清い,上等の亜麻布で自分を装うことが許された。上等の亜麻布は聖なる者たちの義の行為を表わすのである」。それで,「結婚式の衣」は,バプテスマを受けたクリスチャンに帰するとみなされた義,つまりその人が義認されたことを表わしていると言われています。
13 「結婚式の衣」は「義認」以上のことを表わしています。なぜですか。
13 とはいえ,その結婚式の衣は,贖いの犠牲となったキリストに対する信仰のゆえに人が神によって義と宣せられる以上の事柄を意味しているに違いありません。(ローマ 5:1,9)そのようにして義認される,つまりいま義と宣せられることは,それだけで終わるものではありません。今その状態のまま留まるのではありません。今やその目的は,義認された者が,義認者であられる神によってその霊的な子として養子にされ,アブラハムの霊的な「胤」の一成員となり,そのようにして霊的なイスラエルの一成員となることにあります。こうした資格を持っているので,そのようにして養子として迎えられる神の子は,神のみ子イエス・キリストを介して立てられた新しい契約に入れられます。(ガラテア 4:4-7。ローマ 8:16,17。ルカ 22:19,20)したがって,「結婚式の衣」は,悔い改めてバプテスマを受けた,祝宴に連なる客に対するそうした事柄すべてを象徴しています。ゆえにそれは,霊的なイスラエル人,つまりアブラハムの霊的な「胤」の一人としての身分を証明するものです。
14 では,その衣を着けていない者の級は,だれを表わしていましたか。
14 王が発見したただ一人の人は,入手できる婚礼用の衣を着てはいませんでしたから,その人は信仰を働かさなかったある級の者を表わしていました。その級の者は,自分が神によって義とされ,神の霊的な子として養子にされ,キリストを通して霊的なイスラエルと結ばれている新しい契約に入れられているという信仰と調和した,ふさわしい行動を取りませんでした。その人は,神の霊によって油そそがれ,キリストとともになる共同相続者とされながらも神に対して不忠実になって,天の王国に入り損うクリスチャンを表わしているわけではありません。むしろその人は,今日のキリスト教世界を構成している偽クリスチャンを表わしています。そのような偽クリスチャンは,婚宴の「食卓」に連なっていると唱え,またそのようなふりをしています。しかし,王なる神は決してそれら偽クリスチャンを正規の身分証明を携えて婚宴に居合わせている者とは認めませんでした。それで神は,彼らを王国相続者にして聖霊で油そそぐことはなさいませんでした。
15,16 (イ)その衣を着けていない者の級に関して,王が何を行なうべき時が必ず到来しますか。(ロ)王が客を見まわるためにはいって来るのはいつですか。
15 キリスト教世界によってなされているような,婚宴の「食卓」に連なっているという主張や見せかけが間違っていることを神が暴露し,あらゆる傍観者の目の前で同世界に対する不利な裁きを執行する時は必ず到来します。王なる神はみ子のための婚宴の取決めを設ける方として,『客を見まわるためにはいって来る』とき,そのことを行なわれます。イエスの例えによれば,このことは,「婚礼の部屋」が「いっぱいに」なる時に必ず起こります。(マタイ 22:10,11)その部屋が十分の人数の客でいっぱいになると,王の奴隷たちによって行なわれる集めるわざは中止されます。『選ばれる』者たちを集めるわざは,神の使いたちの見えない指導のもとで行なわれているので,イエスの予告したそのわざが,事物の体制の終結のさいに成就されるとき,天の王は入って来て,見まわるでしょう。こう記されています。
16 「その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」― マタイ 24:30,31。
17,18 (イ)その集めるわざが完了する時は,衣を着けていない者の級に関して何を決する時となりますか。(ロ)次いでその級に対して何が行なわれることを,イエスの例えは示していますか。
17 「選ばれた者たち」を集めるこのわざは,イエスがノアの日の大洪水と比較した「大患難」が始まるすぐ前に完了することでしょう。(マタイ 24:21,22,37-41)それでは,天の王が見まわるその時,結婚式の衣を着けていない人によって表わされている級の者は,「選ばれた」者たちの一人のように連れて行かれるでしょうか。それとも,きたるべき滅びゆえに悲嘆のあまり身を打ちたたく「地のすべての部族」と行動をともにするままに放置されるでしょうか。キリスト教世界を構成しているその級の者は,象徴的な衣を着けずに「婚宴」に臨もうとする言いわけを王に述べることはできません。その級の者は,「婚礼」とその「宴」を楽しむ許しをもらうべき理由を何も述べることができません。最終的な視察がなされる時にさいして,その級の者は『何も言えない』ことがわかります。王はその級の者をどのように扱うでしょうか。イエスの例えはそのことを次のように示しています。
18 「そこで王はしもべたちに言いました,『その手足を縛って彼を外のやみに投げ出しなさい。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするであろう』」― マタイ 22:13。
19 その級の者はどこに投げ出されますか。何を享受しそこないますか。
19 それで,この級の者は全然抵抗できないようにがんじがらみに縛られて,「外のやみ」の中に,つまり街灯のようなもので暗やみが和らげられていない外にほうり出されます。そこでは神からのいかなる啓発も与えられぬまま,その級の者は,宗教上の大いなるバビロンとこの事物の体制の残りの部分すべてが滅ぼされる「大患難」にさいして,泣いて歯ぎしりするでしょう。(啓示 17:14-18)その級の者は,「天の王国」から締め出されるので,天上における「子羊の結婚の晩さん」には決してあずかりません。―啓示 19:9。
招かれる者は多いが,選ばれる者は少ない
20 イエスはその例えの締めくくりとして何と言われましたか。それはその衣を着けていない者を指して述べられた言葉ですか。
20 この例えの締めくくりとして,またその要点を示すため,イエスは,「招かれる者は多いが,選ばれる者は少ない」と言われました。(マタイ 22:14)イエスは,着用するよう要求されていた結婚式の衣を着けていなかったために追い出された人のことを指して,この言葉を述べておられたのではありません。a その人はこの例えの中の主要な人物ではありませんでした。確かにその人は,選ばれた『少数の』者たちが取られた後に残された,招かれていた『多くの』者たちを表わしていたのではありません。同様に,結婚式の衣を着ていたので,「婚礼の部屋」から投げ出されずに済んだ「客」は,「招いておいた」ユダヤ人全体の大多数が言い訳をして断わった後にユダヤ国民の中から選ばれた『少数の』者たちを表わしているわけではありません。では,招かれていた『多くの』者,また選ばれる『少数の』者という表現を用いたイエスは,だれのことをさしておられたのでしょうか。
21 では,選ばれた少数者とはだれでしたか。それらの人々は,「婚宴」の食卓のそばに横たわる「客」全員を構成しましたか。
21 招かれた『多くの』者とは,律法契約のもとにあったユダヤ国民のことで,その律法契約はユダヤ人が神に対する「祭司の王国」になるよう助けるものでした。「天の王国」に入るに値する者として選ばれる『少数の』者とは,天の王からの知らせに答え応じて行動した生来のユダヤ人の「残りの者」たちでした。それらのユダヤ人は世俗的な関心事をあとにして,「婚礼の部屋」にやって来て,王から渡される「結婚式の衣」を受け取り,その衣を着て,それから「食卓」のそばに横になりました。西暦36年までに,王なる神からの知らせに答え応じて行動したのはごく『少数の』者(つまりユダヤ人)だけだったので,神は割礼を受けていない異邦人の中から代わりの人々を連れて来るようにとの命令を与えて,ユダヤ人の「都市」の外に,つまりユダヤ人の地域共同体の外にご自分の「奴隷たち」を遣わす必要を見て取られました。その結果,やがて部屋は客でいっぱいになります。それで,ユダヤ人の残りの者で成るその『少数の』者は,婚宴に臨む「客」のほんの一部の人たちに過ぎませんでした。
22 (イ)王であられる神は,その衣を着けた「客」を自ら選んでおられることをどのように示されましたか。(ロ)イエスの例えは,天の王が「婚宴」を催すことに関して何を示すために話されましたか。
22 したがって,結婚式の衣を着た「客」全員は,霊的なイスラエル人になったユダヤ人の単なる「残りの者」以上のものを表わしています。その「客」はまた,代わりの人となった忠実な異邦人すべてをも含んでいます。神はご自身のみ子イエス・キリストを通してご自分の聖霊によって彼らに油をそそぐことにより,礼服を着けたそれらの「客」全員を自ら選んでおられることを正式に示されました。人数はわからないにしても,油そそがれたクリスチャンの中のある人々が不忠実になって,「天の王国」に入るに値しなくなるということを表わしている箇所は,イエスの例えの中にはどこにもありません。また,イエスの例えはそういうことを表わすために話されたのでもありません。イエスの例えは,天の王が困難をも物ともせずに客を全員出席させて首尾よく「婚宴」を催すことを示すために話されたのです。天の王はご自分の情け深い目的を成就するものとして盛大な「婚宴」を催すことになるでしょう。
23 王エホバはご自分の「奴隷たち」に,「客」になる見込みのある人たちを必要以上連れて来させましたか。それとも,どのように事を運ばれましたか。
23 王であられるエホバは,祝宴の「食卓」のそばで横になる座席をどれほど多く整えるかについては初めからご存じでした。それで,エホバはご自分の「奴隷たち」に,「客」になる見込みのある者たちを必要以上に連れて来させるようなことはなさいません。用意されている座席すべてを満たすのに必要なだけの『多くの』者を,ご自分の奴隷たちに連れて来させるのです。エホバはそのご予定の時に,元々招かれていたユダヤ人の中から残りの者をご自分の「奴隷たち」に連れて来させました。その後,エホバは,代わりの人として必要な者すべてを,割礼を受けていない全異邦諸国民の中から募りました。こうして,座席はすべて徐々に「いっぱいに」されることになりました。
24 (イ)イエスの例えは,投げ出された者については何を示してはいませんか。(ロ)この例えの成就について言えば,衣を着けていないその級の者の代わりの人を連れて来る必要はありません。なぜですか。
24 イエスの例えの中で示されていない事柄が一つあります。それは何ですか。それは結婚式の衣を着けていない人が投げ出された後,その男の代わりの人を連れて来させるために王が奴隷を送り出したかどうかということです。確かに王は,夜のやみの中に,つまり「外のやみ」の中に奴隷を送り出して,投げ出されたその男の代わりの人を捜し出させたりはしなかったでしょう。夜中のその時刻に市外の「道路」には果たしてどんな人がいるでしょう。王は,衣を着けたそれら婚礼の客(つまり横になっている者たち)を正式に認め,今や祝宴は,衣を着けていなかったために外に投げ出された人を除いて,それらすべての客を迎えて進められてゆきます。イエスの例えの最後の部分が成就している今日,キリスト教世界と同世界の信心深い群衆の代わりの人を連れて来る必要は少しもありません。彼らは単に,神の要求にかなうことなく祝宴の食卓につこうと試みたに過ぎません。祝宴につきたいとの彼らの見せかけの試みは,功を奏するものではありません。
25 (イ)それで,召し,あるいは招待を差し伸べるのはだれですか。それはどのようにしてなされますか。(ロ)選ばれるということは,どのようにして示されますか。選ばれる人たちには何が要求されますか。
25 王なるエホバは,召し,あるいは招待を差し伸べます。異邦人として最初にキリスト教に帰依した改宗者コルネリオの場合のように,神はまず最初,ご自分が注意を向ける人の心を読み取ります。次いで,その有望な心の態度のゆえに,神はすぐ反応するその人に,必要な助けを送ります。こうしてその人は,天の王国の希望に関する聖書の教示を受けます。したがって,「王国のこの良いたより」を宣べ伝えられている何億もの人々すべてが,それゆえに霊的な「婚宴」に出席するようにとの神からの招待を受けているわけではありません。(マタイ 24:14; 28:19,20)大多数の人々は王国に関する「証し」を受けているに過ぎません。ほんとうに「招かれ」て神の要求にかなう者たちは,次いで聖霊によって油そそがれることにより「選ばれ」て,イエス・キリストの共同相続者となります。(コリント第二 1:21。ヨハネ第一 2:20,27)今や彼らはこうして選ばれてきたので,終わりまで忠実であることを証明しなければなりません。―啓示 17:14; 2:10。
26 なお地上にいる,選ばれた「客」は,今何を享受していますか。「大患難」の後,それら忠実な人たちは何を楽しむことになりますか。
26 今日,人類の世界全体は困急しており,事物の体制のこの「終わりの時」に遭遇しています。しかし,あかあかと燈をともした「婚礼の部屋」にいる忠実な,選ばれた「客」は,王の是認のもたらす喜びと祝福をしみじみと味わっています。彼らは世俗的な事物の体制に終わりをもたらす,迫り来る「大患難」を完全にくぐり抜けるまで,クリスチャンとしての忠誠を堅く守った後,天上における「子羊の結婚の晩さん」に連なることを許されるでしょう。(啓示 19:7,9)彼らはキリストの「花嫁」を構成する人たちです。イエスの例えの中で王の息子の花嫁のことが指摘されてはおらず,また持ち出されてもいないのは確かにそのためです。b 花嫁の会衆の14万4,000人の選ばれた忠実な成員すべては,その天上で彼らの花婿と一緒に晩さんの食事を楽しむことでしょう。
花嫁に付き添う,比喩的な娘たち
27 花嫁の会衆の残りの者は今地上でだれと交わっていますか。それらの人たちは王とその花婿であるみ子をどのように尊んでいますか。
27 結婚と婚礼の行事は,花嫁に付き添う娘たちのことを連想させます。そうです,詩篇 45篇13-15節は,花嫁に付き添う幾人かの娘たちが出席していることを預言的に示しています。キリストの花嫁の会衆の完成される時が近づいている今日,それら付き添いの娘たちは,その会衆の「残りの者」と交わっています。もち論,花嫁に付き添うこれら比喩的な娘たちは,その「残りの者」と一緒に天に行くことを期待しているわけではありませんが,天の王と,花婿であるそのみ子を尊び,また花嫁の会衆の残りの者に対して相応の敬意を表しています。啓示 7章9-17節は,それら付添いたちの,数え切れないほどの「大群衆」がいるさまを生き生きと描いています。
28 この「大群衆」に属する人たちは今だれを助けていますか。彼らは永遠の父となる方を通じてどんな報いを受けますか。
28 彼らは神の目的のこのみごとな特色をなす事柄が完成されてゆくのを見て歓喜し,花嫁級の残りの者に愛ある援助を与えています。そして,天の王に対する崇拝と奉仕に,その霊的な神殿のやしきの中で,敬虔な態度で加わっています。彼らは自分たちの永遠の父となる,み子である花婿を通して,天の王から,永続する命の恩恵を受けるでしょう。(イザヤ 9:6,7)そして,結婚した神のみ子の王国のもとにある楽園の地上で,限りない祝福にあずかるでしょう。
[脚注]
a 「14節のこの言葉は,たとえ話全体の結論であって,婚礼の礼服を着けていない者に関する説明の箇所の結論ではない」― 1963年版,新約聖書に関するバーンズの注釈の104ページ。エルサレム聖書(1966年)はマタイ 22章14節の脚注でこう述べています。「この文はたとえ話の二番目の部分ではなく,最初の部分に言及しているようである。それは選ばれた人々全体ではなく,ユダヤ人,つまり最初に選ばれた人たちの問題である。このたとえ話は……ユダヤ民族の中のある(『少数の』)者がその招待を受け入れて『選ばれ』ていることを断言もしていなければ,否定もしていない」。
b この同じ点に関しては,十人の処女のたとえ話と比べてみてください。(マタイ 25:1-12)
[121ページの図版]
イエスのたとえ話の中で,王は,結婚式の衣の着用を拒んだ人を投げ出すよう,しもべたちに命じた。その人は,キリスト教世界を構成している偽のクリスチャンを表わした