-
永遠に幸福であるには何がいりますかものみの塔 1958 | 9月15日
-
-
のユダヤ人は,イエスを,つまづきであると考えていました。また諸国民はイエスの死は愚かなものという考えを抱いていました。また今日の人々はイエスのあがないの備えを邪魔にしまたキリスト教国の近代的牧師たちは,それを愚かなものと呼んでいます。しかしこれらのこの世的に賢い人々が何と云おうとも,私たちが永遠の幸福をうることができる名は,世の誰にも与えられていないのです。『わたしたちを救いうる名は,これを別にしては,天下のだれにも与えられていないからである。』― 使行 4:12,新口。
12 死の瀬戸際の悔い改めは,どうして遅すぎますか。ハルマゲドンのとき,富は救いにならぬと何が示していますか。
12 あなたはいま幸福かもしません。もし食物,衣服,すむ家をゆたかに持つているなら,安全だと感じているかもしれません。しかし死ぬ日がきたら,あなたはやはり幸福ですか,あなたの生命のため何をしますか。死の瀬戸際の悔い改めですか。それは不滅の魂の空想話と同じように,無駄なものです。ヱホバへの従順な奉仕とキリストの誡めにしたがうことによつて,天に宝を積むべきですが,死ぬまぎわになつては,もう遅すぎます。銀とか金の地的の宝はあなたをあがなうことはできません。あるいは,臨終はヱホバのハルマゲドンの戦のときかも知れません。物質主義によつて蓄積した富は,その死なんとするものを救うことができません。『彼らはその銀をちまたにすてん。その金はかれらに塵芥のごとくなるべし。ヱホバの怒の日には,その金銀もかれらを救うことあたはざるなり。』現在また将来にたいしての知恵ある道筋とは何でしようか。―エゼキエル 7:19。
13 いま幸福になるには何がいりますか。また永遠の幸福をうるには,何が必要ですか。
13 私たちは,岡の上で船を動かそうとしたり,海上で自動車を運転しようとしたり,タイプライターで芝生を刈ろうとはしないでしよう。私たちはある目的のために作られていますから,それ以外のことをしようとすべきではありません。ある食物,飲物,金銭は適当なものです。しかし神は,私たちを大食家,泥酔者,貪慾な物質主義者になるように,設計しませんでした。少し遊ぶことはかまいませんが,無益な遊び人になるべきではありません。私たちはヱホバについての知恵をうるよう研究しなければなりません。そしてヱホバの奉仕に働き,すべての者に公平に行動すべきです。また自分,隣人,神について愛をもたねばなりません。私たちは,いくらかの物質を必要としますが,物質主義になつてはいけません。いくらかの金銭は必要ですが,金銭の渇望家になつてはなりません。私たちにはヱホバの霊が必要です。どうかそれを受け入れるようにして下さい。私たちは崇拝に対する衝動をもつています。それに熱心にこたえて下さい。そうすれば,いま,幸福になれます。しかし私たちが死んで,塵に帰つたらどうなりますか。ヱホバが私たちを再び塵から生命へと戻して下さるならば,少しも困りません。もし私たちが,ただ一つの適切な,効果ある,力強い贖をうけるようにすれば,ヱホバは私たちを生命に戻します。それで,永遠に幸福であるには,何がいりますか。それは,杭につけられたキリスト,神の知恵,神の力です。いま,それをしつかりと受け入れて下さい。
-
-
読者よりの質問ものみの塔 1958 | 9月15日
-
-
読者よりの質問
● 『新しい天と新しい地』の88頁5節は,大いなる蛇,サタン悪魔がヱバとアダムを欺いて罪を犯させた直後,エデンの園においてヱホバ神がサタン悪魔を滅ぼされなかつた理由を述べ,それから次のように結んでいます,『その時までに(すなわち,エデンの園におけるサタンの反逆のときまで),御使たちの死はなく,また御使たちの殺されることもなかつたのです。そして,神の言葉によると,そのような事は,私たちの時代の「全能の神の大いなる日の戦い」まで行われないと,はつきり言われています。』これから見て,来るべきハルマゲドンの戦いのとき,罪を犯した御使が底のない穴に投げこまれることは,罪を犯した御使が殺されることを意味しているのですか。
この本が述べていることは,まさしくこの事を意味しています。サタン悪魔はすべての悪鬼の君,すなわち支配者で,サタン悪魔はハルマゲドン最高潮のときに,悪鬼と共に底のない穴に投げ込まれるでしよう。それは黙示録 20章1-3節(新口)の予言の成就です。『またわたしが見ていると,ひとりの御使が,底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持つて,天から降りてきた。彼は,悪魔でありサタンである竜,すなわち,かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき,そして,底知れぬ所に投げ込み,入口を閉じてその上に封印し,千年の期間が終るまで,諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後,しばらくの間だけ解放されることになつていた。』
-