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幸福な家族となるかぎを見いだすあなたの家族生活を幸福なものにする
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1章
幸福な家族となるかぎを見いだす
1,2 健全な家族生活はどんなすばらしいものを与えてくれますか。したがって,どんな疑問の生じることが考えられますか。
人間の幸福にとって必要なもののうち,家族の中で満たされるものは少なくありません。人はだれでも,自分が必要とされ,感謝され,愛されることを強く願うものですが,家庭ではその願いがかなえられます。温かい家族関係は,そうした渇望をすばらしい方法で満たし,また信頼や理解や思いやりのある雰囲気を醸し出します。その場合に家庭は,外の問題やけん騒からしばし離れて休むことのできる真の憩いの場所となります。子供たちは安心感を得,それぞれの個性を思う存分に発揮できます。
2 これはわたしたちが望む家族生活のあり方です。しかし決して自然に生まれるものではありません。では,どうすればそのようになるのでしょうか。今日,世界の至るところで,家族生活に深刻な問題が生じているのはなぜでしょうか。幸福な結婚と不幸な結婚,温かくて一致した家族と冷たくて分裂した家族といった相違は何が原因で生じるのでしょうか。
3 歴史上の事実は,家族の重要性に関してどんなことを明らかにしていますか。
3 家族の福祉と繁栄を深く心にかけるのは当然のことです。家族制度の重要性について,「ワールド・ブック百科事典」(1973年版)は次のように述べています。
「家族は人間の最も古い制度である。多くの点で家族は最も重要であり,社会の最も基本的な単位である。文明全体の存続もしくは消滅は,家族生活が堅実かどうかにかかっていた」。
4,5 多くの家族にはどんな望ましくない態度が見られますか。
4 しかし,今日,愛の強いきずなで堅く結ばれた家族がどのくらいあるでしょうか。互いに親切にし,また感謝や寛大さを示し合ってそこから生まれる温かさを楽しんでいる人々がどれほどいるでしょうか。「受けるよりは与えるほうが幸福である」という言葉の真実さを学んだ人が何人いるでしょう。
5 今日,世界にはいままでとは非常に異なる精神が広まりつつあります。その精神は西洋において顕著であるとはいえ,かなり安定した家族生活の伝統を持つ東洋その他の地域にもそれは浸透しつつあります。「自分のしたいことを行ない,他人にもしたいことをさせよ」,「懲らしめを与えるのは時代遅れである。子供には子供の行き方を選ばせよ」,「正邪の判断などしなくてもよい」というのが当世風の考え方です。ますます多くの国で,離婚や青少年の非行,大人の不道徳などが急増しています。心理学者,精神病医,牧師その他カウンセラーたちは助言を与えます。しかし多くの助言者たちは,家族の一致を強めるのではなく,欲求不満の解消方法として不道徳を容認します。それどころか奨励することさえあります。こうした事柄から生まれる悪い結果は,「なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」という言葉の真実さを立証するものです。
歴史は家族制度を支持
6 古代ギリシャとローマで起きた事柄は,家族の重要性をどのように例証していますか。
6 家族の重要さについて歴史が与える教訓は,真剣な注意を払うに値します。歴史家ウィル・デュラントは,「文明物語」という題の本の第2部の中で,古代ギリシャにおける家族の崩壊について説明し,その後続けて「ギリシャがローマによって征服された根本原因は,ギリシャ文明が内部から崩壊したことであった」と述べています。デュラントはさらに,ローマの強さは家族にあったが性道徳の退廃によって家族制度が崩れると帝国は衰亡のきざしを呈するようになった,と語っています。
7 ローマ帝国内で,他の人々が深刻な問題を経験していたにもかかわらず,ある人々はなぜ健全な家族生活を送りましたか。
7 実際,歴史は古い格言の真実性を確証しています。しかしまた次のことも示しています。すなわち人間の知恵を越えた知恵の源があって,人間はそれに導きを仰ぎ求めることができ,そうするなら結果として家族という単位は栄える,ということです。歴史家たちの伝えるところによると,ローマ帝国は腐敗しましたが,「ユダヤ人の家族生活は手本とすべき立派なもので,クリスチャンの小さな共同社会は,厚い敬神の念と優れた品性とによって,快楽に狂った異教の世界を悩ませ」ました。(「文明物語」第3部,366ページ)それらの家族を他と異なるものにしたのは何でしょうか。彼らは異なる導き,すなわち聖書を有していたのです。聖書の助言を神のみ言葉としてそれに従えば従うほど,それらの家族は健全で平和な家族になりました。そのような結果を見て,退廃的なローマ世界は罪の意識を持ちました。
8 家族の問題を解決する場合,聖書はなぜ注目に値しますか。(詩 119:100-105)
8 先に幾つかの節の中で引用した格言も聖書の中の言葉です。受けるよりも与えるほうが幸福であるというイエス・キリストの言葉や,わたしたちは自分がまいているものを刈り取る,という霊感を受けたパウロの言葉,また,自分の歩みを導くことはその人に属さない,という神の預言者エレミヤの宣言は,聖書の中に記されています。(使徒 20:35。ガラテア 6:7。エレミヤ 10:23)これらの聖書の原則の正しさは証明されています。イエスは,「知恵はその働きによって義にかなっていることが示される」ともおっしゃいました。(マタイ 11:19)聖書の助言が,家族の問題を解決するうえで実際に役立つのであれば,わたしたちは敬意を抱いてそれに注意を払うべきではないでしょうか。
9,10 (イ)人が幸福な家族生活を送るのに,有益な助言と自然の情愛だけでは不十分ですが,それはなぜでしょうか。(ロ)そのほかに何が必要ですか。(啓示 4:11)
9 今日,結婚と家族生活のことを扱った出版物は数多くあります。それらからもたいてい,少なくとも幾らかの役立つ知識が得られていますが,それでも家族生活は悪化し続けています。ですから,それ以上のもの,つまり現在家族を脅かしている様々な圧力をはねのける力を与えてくれる何かが必要です。夫婦や親子の間の自然の情愛は力となります。しかしそれでさえ,危機が臨むときには家族の結合を保たせるのに不十分であることを,多くの家族が経験しています。では,この上に必要なのは何でしょうか。
10 配偶者,子供,あるいは親に対する責任感と献身的愛情だけでなく,それと共に聖書の中で『父,すなわち,天と地のあらゆる家族がその名を負うかた』と述べられているかたに対するいっそう強い責任感が必要です。そのかたは,結婚と家族生活の創始者である,人類の創造者エホバ神です。―エフェソス 3:14,15。
家族制度に対する神の関心
11-13 地球と人間家族に対する神の目的は何ですか。
11 エホバ神は人類が必要とするものをご存じであり,わたしたちが幸福であることを望んでおられますから,わたしたちに家族生活に関する助言を与えておられます。しかし,神が家族に関心を払っておられるのは,それよりもさらに壮大な目的があることの表われです。聖書はその目的が何かを明らかにしています。聖書によれば,地球は偶然に生じたのではありません。わたしたちも偶然に生じたのでもありません。エホバ神は,地球が永遠に存在し,そこに人が永遠に住むように地球を創造されました。預言者イザヤはこう書き記しています。「彼はそれを固く据えた方であり,……それをただいたずらに創造されたのではなく,人が住むために形造られた」― イザヤ 45:18,新。
12 神はその目的を達成するために,最初の男女を創造し,ふたりに家族を持つことをお命じになりました。こう記されています。神は「それらを男性と女性に創造された。さらに,神は彼らを祝福し,神は彼らにこう言われた。『生めよ,増えよ,地を満たせよ』」。(創世 1:27,28,新)神の目的はさらに,ふたりとふたりの子孫が神に従い,地球を管理することを求めました。創世記 2章15節には,「エホバ神は人を取ってエデンの園に住まわせ,これを耕させ,またその世話をさせた」と述べられています。やがて,そうした園のような状態は拡大されて地球全体に及ぶことになっていました。地球を管理し,その資源を利用することを通して,全地の人類家族は物事を学び,自分の能力を用いることに満足を見いだす,限りない機会を与えられるはずでした。
13 現在,地上には40億を超す人々がいますが,その大勢の人々は地球に対するエホバの目的を成し遂げてはいません。エホバに従ってもいなければ,地球を管理してもいません。むしろ,空気や水や土地を汚して,地を破滅させています。神はその本来の目的に従って,そうしたことを終わらせるとともに,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」ことを予告しておられます。―啓示 11:18。
わたしたちが直面しなければならない問題
14 家族生活に関する神の目的が果たされずに終わらないことをなぜ確信できますか。
14 地球と家族生活に関する神の目的が果たされずに終わることはありません。「わたしの口から出て行くわたしの言葉……は成果なくわたしのもとに戻らず,必ずわたしの喜びとしたことを行なう」と神は言明しておられます。(イザヤ 55:11,新)神は家族制度を設けられ,その運営のための助言をお与えになりました。その指針は,あなたも直面するかもしれない,家族生活上のほんとうに重要な問題に答えを与えます。
15-17 (イ)家族生活に関するほんとうに重要な問題はどんなものだと思いますか。(ロ)そうした問題に対する満足のゆく答えを見いだすのはなぜ良いことでしょうか。
15 例えば,仲むつまじくやってゆける結婚相手をどのようにして見つけますか。結婚してから難しい問題が起きた場合,どのようにして仲直りしますか。ひとりよりもふたりで考えるほうが勝ってはいますが,考えを出し合った後にどちらが決定を下しますか。夫は,どうすれば妻の敬意を得られますか。そのことは夫にとってなぜ大切ですか。なぜ妻は夫の愛を必要としますか。夫の愛を確実にするために,妻には何ができるでしょうか。
16 あなたは子供をどのように見ますか。ある人々は,子供を社会的地位の象徴,安い労働力あるいは老後の保証とみなします。また,やっかいな重荷と考える人々もいます。しかし,聖書は子供は祝福であると述べています。子供が祝福となるかどうかは何によって決まるのでしょうか。子供の訓練はいつから始めるべきでしょうか。懲らしめは与えるべきでしょうか。であれば,どの程度,またいつ与えるべきですか。家族に世代の断絶は必ずあるものでしょうか。その断絶を埋めることはできますか。もっと良いこととして,世代の断絶が生じるのを防ぐことはできるでしょうか。
17 こうした疑問に対する満足のゆく答えを見つけだすなら,あなたの家族生活を確かに幸福なものにするうえでたいへん助けになります。そればかりか,困った時にいつでも頼れる,そしてあなたの家族を終わりのない幸福へと導くことのできる,無比の力とやさしさと知恵を持たれる方がおられるという確信が持てます。
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結婚のための立派な土台を置くあなたの家族生活を幸福なものにする
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2章
結婚のための立派な土台を置く
1-3 マタイ 7章24-27節によれば,人生における真の成功は何によって決まりますか。
家にせよ,生活にせよ,あるいは結婚にせよ,そのいずれも拠って立つところの土台の強さに全く依存しています。イエスはあるたとえ話の中で,堅い岩の上に家を建てた賢い人と,砂の上に家を建てた愚かな人のことを話されました。あらしになって大水と風がそれらの家に激しく打ち当たったとき,堅い岩の上の家はびくともしませんでしたが,砂の上の家はすさまじい音をたてて倒壊しました。
2 イエスは人々に家の建て方を教えておられたのではありません。立派な土台の上に生活を築くことの必要を強調しておられたのです。神の使者として,イエスはこう言われました。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな」,堅い岩の上に家を建てた人のようであり,一方,「わたしのこれらのことばを聞いてもそれを行なわない者はみな」,砂の上に家を建てた人のようです。―マタイ 7:24-27。
3 注目すべき点は,賢明な助言を聞いて何をすべきかを知るというだけの問題ではないということを,イエスが両方の場合に教えておられる点です。成功するか失敗するかは賢明な助言を実行するかどうかによって決まります。「これらのことを知っているのなら,それを行なうときに,あなたがたは幸福です」― ヨハネ 13:17。
4 最初の人間男女の結婚からわたしたちが学べるものは何ですか。(創世 2:22–3:19)
4 このことは確かに結婚についても言えることです。結婚生活を岩のようなしっかりした土台の上に築くなら,生活の重圧に耐えられます。しかし,そのような立派な土台はどこで得られるのでしょうか。それは,結婚の創始者であられるエホバ神がくださるのです。エホバは,最初の一組の男女を夫婦にして結婚を創始され,それから,ふたりの益のために賢明な指示をお与えになりました。その賢明な指示に従うかどうかによって,ふたりにとこしえの輝かしい将来があるか,あるいは将来が全くないかが決まりました。ふたりとも神の指示を知っていました。しかし,残念なことに,利己心に妨げられて,それらの指針に従いませんでした。ふたりは助言を無視することを選び,その結果,ふたりの結婚も命も,砂の上に建てられた家があらしに襲われて倒壊するようにくずれ去りました。
5,6 結婚をしている人々,また,結婚を考えている人々のために,神はどんな助けを与えてくださっていますか。
5 エホバ神はその最初の男女を結婚によって結びつけられましたが,今日,人々をご自分でめあわせることはなさいません。しかし,幸福な結婚のための神の賢明な助言は依然として有効です。その助言に従うかどうかを決めるのは,今結婚を考えている個々の人に任されています。神の言葉はまた未来の配偶者を選ぶ際に賢明な決定を下せるよう神に助けを求め得ることを示しています。―ヤコブ 1:5,6。
6 もとより,地域によって事情は大いに異なります。今日,多くの土地の人々は,男性も女性も結婚の相手を自分で選びます。しかし親が,時にはなこうどを通して,結婚を取り決めることをしきたりとする地域の人々も,世界人口のかなりの部分を占めています。かと思うと,男性が女性の親に“花嫁金”を払わなければ妻をもらうことができない所もあります。その額によっては結婚は,とうてい手の届かないものにさえなるでしょう。しかし,事情がどのようであろうと,聖書が与える助言は,結婚を成功させ永続させる助けになります。
まず,自分を知る
7-10 (イ)結婚を考える人は,自分自身について何を知る必要がありますか。どのようにすればそれがわかりますか。(ロ)結婚する理由の妥当性について聖書は何と述べていますか。
7 あなたは結婚に何を求めているでしょうか。身体的,感情的,霊的にあなたが必要としているものは何ですか。あなたはどんな価値基準や目標を持っていますか。また,どんな方法でその目標を達成しますか。こうした質問に答えるには,自分を知っていなければなりません。自分を知るということは意外に難しいことです。感情的に円熟していて自分を調べることはできても,本当の自分というものを知りつくすことは不可能です。クリスチャンの使徒パウロは,コリント第一 4章4節でそのことを次のように述べています。「わたし自身,責められるようなことは何も意識しない(の)です。でもそれによって,わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べるかたはエホバなのです」。
8 ある時創造者は,人間ヨブに彼が理解していなかった幾つかの事実を悟らせようとして,こうおっしゃいました。「わたしはあなたに尋ねてみたいので,あなたはわたしに知らせよ」。(ヨブ 38:3,新)質問をすることは,自分を知り,動機を見つけるのに役立ちます。ですから,結婚に対する自分の関心について自問してみてください。
9 あなたは,衣食住といった物質面の必要を満たすために結婚を望んでいるでしょうか。「命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです」と聖書にあるとおり,衣食住はわたしたちが基本的に必要とするものです。また,性的な必要も感じますか。それも正常な欲求で,「情欲に燃えるよりは結婚するほうがよい」のです。(テモテ第一 6:8。コリント第一 7:9)あるいは親しい交わりを得るためですか。それは,神が結婚の取り決めを設けられた主な理由の一つでした。もう一つの理由は,ふたりが力を合わせて働くことでした。(創世 2:18; 1:26-28)良い仕事を成し遂げるなら満足感が生まれ,また報いが得られます。「人はすべて食べ,実に飲み,自分のすべての勤労について善を見るべきことをも。それは神の贈り物である」― 伝道 3:13,新。
10 昔から,恋人たちはハートを自分たちの恋愛感情の象徴とみなしてきました。ところが聖書は,「だれがそれを知り得るだろうか」という気がかりな疑問を,心に関して投げかけています。(エレミヤ 17:9,新)あなたは自分の心の中にあるものを確かに知っているでしょうか。
11 結婚したなら,感情面のどんな基本的な必要が満たされるべきですか。
11 身体的な魅力に捕らわれて,感情面における他の必要に盲目になるのはよくあることです。配偶者を探すに際して,あなたは,自分が理解や親切や同情心を示してもらう必要のあることを十分に重要視しているでしょうか。わたしたちがだれでも基本的に必要としているのは,親密で,何でも話せ,傷付けられるという心配をせずにありのままの自分を示せる人,「優しい同情の戸」を閉じてわたしたちを入れないようにすることのない人です。(ヨハネ第一 3:17)あなたは自分の配偶者のこうした欲求をすべて満たすでしょうか。また,相手の人もあなたの欲求を満たしてくれますか。
12 幸福な結婚生活を送るには,身体面と感情面の必要が満たされるだけでは不十分ですが,その理由はどこにありますか。
12 イエスは,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」とおっしゃいました。(マタイ 5:3)あなたの霊的な必要は何でしょうか。それは出世の道,富,物質の財産を追い求めることと関係がありますか。そうしたものの追求から心の平和や満足が得られるでしょうか。たいていの場合得られません。ですからわたしたちは,身体的な必要がすべて満たされた後でさえなくならない霊の飢えがだれの内にもあるということを,認識する必要があります。わたしたちの霊は個人としての自分を知ること,つまり,自分がだれで,どのような者であり,なぜ存在しているのか,またこれからどうなるかを知ることを切に望みます。あなたはそうした霊的な必要と,それを満たす方法を知る必要を自覚しておられますか。
性格が合うこと
13 幸福な結婚のためには,自分自身の必要に加えて何を悟らなければなりませんか。
13 自分の身体的,知的,霊的必要をすべて理解したとしても,未来の配偶者もそれらを理解しているかどうか分かっていますか。幸福な結婚をするためには自分が特に必要としている事柄を知るだけでなく,配偶者が必要としている事も悟らねばなりません。配偶者も幸福であってほしいと願うのは当然です。ひとりが不幸になれば,ふたりとも不幸になります。
14 多くの夫婦が性格の不一致を経験しているのはなぜですか。
14 性格が合わないために不幸に終わる,つまり離婚に至るケースは少なくありません。性格の不一致とは穏やかならぬ言葉ですが,結婚生活においてはそれはいっそう重大な意味を持ちます。ふたりが組としてぴったりと息が合っていないなら,難しい形勢が生じるかもしれません。そのような状況を想像するときに頭に浮かぶのは,作りや力の異なる二匹の動物をひとつのくびきにつないで動物を苦しめることを禁じた,モーセの律法のあわれみある規定です。(申命 22:10)そのことは,よく合わないのに結婚して一緒になった夫と妻についても言えます。夫婦の関心事が異なり,友人や娯楽に関してもふたりの好みが違い,共通点がほとんどないなら,その結婚のきずなは非常に緊張した状態になります。
15,16 未来の配偶者と話し合うべき事柄にはどんなことがありますか。どのように話し合うべきですか。
15 「内密の話し合いのないところでは計画はざ折する」と聖書は述べています。(箴 15:22,新)結婚することを考えているなら,日常的な諸問題についての話し合いが行なわれてきたでしょうか。男性の側の仕事は結婚生活にどう影響するでしょうか。その仕事によって,住む場所や,必需品をまかなう収入の額が決まります。それでその仕事はふたりの結婚にどのように見合っているでしょうか。だれが家計を扱いますか。妻が働く必要がありますか。それは望ましいことですか。姻戚,とくに夫と妻双方の親との関係はどうなるでしょうか。ふたりはそれぞれ,性,子供,子供の訓練についてどう考えていますか。一方が他方を支配したいと考えていますか。それとも,親切な思いやりがふたりの関係を支配するでしょうか。
16 これらの問題やそのほかの問題について,穏やかに,筋を立てて話し合い,ふたりとも気持ちよく暮らしてゆけるように話をまとめることができるでしょうか。問題が起きたなら共にこれに当たって解決することができますか。また話し合いの道を常に開いておけますか。これは幸福な結婚生活の生命線です。
17-19 家庭的な背景は,なぜ夫婦の性格の一致と関係がありますか。
17 よく似た背景を持つふたりの人は,そうでない人たちよりも仲良くやっていけるのが普通です。「聖書理解の助け」と題する本(英文)の1114ページには,聖書時代の結婚について次のように述べられています。
「男は自分の身内もしくは部族の中で妻を探すのが一般的な習慣だったようである。この方式は,ラバンがヤコブに言った,『[娘]をほかの人にやるよりは,あなたに上げるほうが勝っています』という言葉に示されている。(創世 29:19,新)このことは特にエホバの崇拝者の間に見られた。アブラハムはそのよい例である。彼はカナン人に囲まれて住んでいたが,カナン人の娘たちの中から息子イサクの嫁を取ることをせず,むしろ故郷の親族のもとへ人をやって嫁を求めさせた。(創世 24:3,4)」。
18 むろんこれは,今日でも近親結婚のほうが望ましいという意味ではありません。近親結婚は遺伝的な問題を生み,奇形児の生まれる恐れがあるからです。しかし,家庭的な背景は,人々が持つ価値基準にたいへん深い関係があります。幼年期から青年期にかけて,人の行動や感情は自然と家庭の雰囲気に影響されます。当事者双方の背景が似ていると,「同じ土壌で育ち,同じ環境の中で繁る」のがたいてい容易です。もっとも,特にふたりが感情的に円熟している場合は,異なる背景と生いたちの人同士が結婚してもうまく合わせていくことができます。
19 未来の配偶者の家族のことを何か知ることができれば都合がよいことは言うまでもありません。しかし,その人と家族 ― 両親,兄弟姉妹 ― との関係をも知る必要があります。その人は年長の人にどのような態度で接しますか。あるいは幼い子供たちとはどのようにやっていっているでしょうか。
20,21 配偶者を選ぶ場合,相手の人の欠点をどう見るべきですか。
20 念には念を入れたとしても,ふたりの人の性格が完全に合うということは決してないことを覚えていなければなりません。どちらにもそれぞれ欠点があります。結婚する前にわかる欠点もあるでしょうし,結婚した後で気づく欠点もあるでしょう。では,どうしたらよいでしょうか。
21 結婚が失敗に終わる原因は欠点そのものにあるのではなく,ふたりが欠点をどう感じるかにあります。長所が短所を補って余りあると考えますか,それとも悪い点ばかりを考えて,それをくどくどと述べたてますか。自分が大目に見てもらうことを必要とし,また望んでいるように,あなたも融通をきかせて大目に見ることができますか。使徒パウロは,「愛は多くの罪を覆う」と述べました。(ペテロ第一 4:8)あなたは自分が結婚を考えている人に対してその種の愛を抱いているでしょうか。もしその愛がないなら,その人と結婚しないほうがよいでしょう。
『わたしは彼を変えてみせる』
22-24 自分のやり方を変えるという相手の約束に基づいて,あるいは相手を変えるつもりで結婚するのは,どうして賢明ではありませんか。
22 わたしは『彼を』あるいは『彼女』を『変えてみせる』と,あなたは言うでしょうか。では,あなたが恋しているのはだれですか。現在の彼または彼女ですか,それともあなたが変化させる努力を払った後の彼または彼女でしょうか。自分自身を変えることさえ難しいのですから,まして他の人を変えるのは容易なことではありません。しかし,神のみ言葉の強力な真理に従うとき,人は自分自身を変えることができます。思いを活動させる力において新たにされ,「古い人格を捨て去る」ことができます。(エフェソス 4:22,23)しかし,未来の配偶者があなたのためにすぐ変化すると約束しても,それを真に受けるべきではありません。悪い習慣をきょう正し,改めることはできますが,それには時間が,それも幾年もの長い時間がかかるでしょう。また次の事実も無視できません。つまり,わたしたちは受け継いだ性向や環境によって,わたしたちが独特の気質を持つようになり,またその影響を受けながら特定の方法で人格を形成し他と区別される人間になったということです。真の愛は,弱点を改善し克服するために互いに助け合うようわたしたちを動かしますが,配偶者を新しい不自然な型にむりやり押し込めて,その人格を押しつぶさせるようなことはありません。
23 ある人々は自分の理想像を心に抱いていて,一時的に夢中になった相手の人をみなその理想像にはめようとします。むろん,実現不可能な夢にかなう人などいません。しかし,夢中になっている人はいつまでもあきらめず,相手にむりやり夢を実現させようとします。そして,それに失敗すると幻滅を感じ,実際にはいない理想の人を求めて他の所を探します。しかし,そのような人は理想の人を決して見いだせません。想像の中にしかいない幻の人を探しているからです。そうした考え方の人は結婚するのにふさわしい立場にあるとは言えません。
24 もしかしたらあなたもそうした夢を描いたことがあったかもしれません。たいていの人は人生のある時期にそれを経験します。多くの若い人がそうです。しかし,感情面で円熟するにつれ,そうした夢のような考えは非現実的なものとしてかたずける必要のあることが分かります。結婚生活で重要なのは現実であって,単なる空想ではないからです。
25 真の愛と盲目的な愛情にはどんな違いがありますか。
25 真の愛は,多くの人が考えるほど盲目ではありません。真の愛は多くの欠点を覆いはしますが,それに気づかないわけではありません。盲目で,他の人が予見できる問題を見ようとしないのは,愛ではなくて盲目的な愛情です。盲目的な愛情は絶えずわき起こる疑念を飲み込みはしますが,後になって,心配していたことが必ず表面化するのです。求愛期間中に不快な事実に目をつぶるなら,結婚してから必ずそれに直面することになります。わたしたちは自然の傾向として,喜ばせたい,心を引きつけたいと思う人の前では自分を一番良く見せるものです。しかし,やがてほんとうの姿がはっきり表われます。ですからあせらずに,相手の人のありのままの姿が分かるまで待つことです。そしてあなたも本当の自分というものを正直に表わさねばなりません。コリント第一 14章20節に記されている,使徒の次の勧めは,配偶者を探す際にも適用できるでしょう。「幼子となってはなりません。……理解力の点では十分に成長した者となりなさい」。
結婚の誓い
26 聖書によると,結婚のきずなはどれほどの拘束力を持つものですか。(ローマ 7:2,3)
26 結婚の誓いは厳粛に考えるべきものです。どちらか一方の誓いが強固でないなら,その結婚は不安定な土台の上に立つことになります。今日,世界のいたる所で,結婚はすぐに離婚に終わっています。それは多くの場合,結婚する人々が,結婚の誓いを,履行すべき道徳的義務のあるものとは考えず,「うまくいかなければ,解消しよう」という考えでいるからです。そういう考えがあるなら,結婚は最初から失敗に終わることが決まっているようなもので,幸福をもたらすかわりに,心痛を生むのが普通です。それに反して,聖書は,結婚が生がい続く関係であることを示しています。神は,最初の夫婦に関して,ふたりは「一つの肉体とならなければならない」と言われました。(創世 2:18,23,24,新)男にとってほかの女性はあるべきではなく,女にとってほかの男性はあるべきではありませんでした。神のみ子はそのことを再び肯定して,「彼らはもはや二つではなく,一つの肉体です。それゆえ,神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません」と言われました。結婚のきずなを断つための唯一の正当な根拠は,不忠実な性行為です。―マタイ 19:3-9。
27-29 (イ)女性が未来の夫に何を求めるのは良いことですか。(ロ)賢明な男性は未来の配偶者に何を求めることが考えられますか。
27 結婚の重大さを考えると,幸福な結婚を願う女性が,尊敬できる男性,安定していて平衡が取れており,健全な判断力を持ち,責任を遂行する能力があって,有益な批評を受け入れられるほど円熟している男性とのみ結婚するのは良いことです。それで,次のように自問してください。相手の男性は家族をよく養えるでしょうか。結婚して授かるどの子供にも良い父親となるでしょうか。結婚の床を清く保って汚さないことをふたりして固く決意できるほどその人の道徳水準は高いものでしょうか。慎み深く謙そんですか。それとも自慢家で独断的であり,頭の権をふるうことを望んでいて,自分は常に正しいと考え,物事を論じ合おうとしないでしょうか。結婚する前に相手の男性と十分長く交際するなら,そして特に聖書の原則を判断の基準とするなら,そうした事柄を見分けることができます。
28 同様に,結婚に成功することを真剣に考えている男性も,自分の体のように愛せる妻を得ようとするでしょう。妻は,家庭を築くうえでのパートナーとして夫を補う人であるはずです。(創世 2:18)良い主婦であるということは,様々な責任を伴う,そして多くの事を求められる仕事です。料理人,装飾家,経済家,母親,教師としての才能やほかの多くの才能を発揮することが求められます。主婦の役割は,個人として成長し,また物事を成し遂げる機会の多い,創造的で意欲をそそるものとなり得ます。立派な夫と同様,良い妻も働き者です。「彼女は家の者の状態を見守っており,怠惰のパンを食べない」― 箴 31:27,新。
29 そうです,ふたりとも,自分の目に映るものをよく考えて,次のような点を確かめるのは良いことです。身なりは清潔できちんとしているかどうか。勤勉な人か,それとも怠惰な人か。道理をわきまえていて思いやりがあるか,それともがんこで利己的か。倹約家か浪費家か。会話を楽しいものにし,霊的に人を富ませるのに役立つ思考力があるか,それとも,精神的に怠惰か。精神的怠惰は,生活を,ほとんど日常の身体的な必要を満たすだけの単調で決まりきったものにします。
30,31 求愛期間中の不道徳な行為が,楽しい結婚生活を送る妨げとなり得るのはなぜですか。
30 互いに誠実な敬意を示し合うことは,結婚を成功させる肝要な要素です。このことは求愛期間中の愛情の表現にも当てはまります。度を超えたなれなれしさや激しい情熱は,結婚前の関係を安っぽいものにする危険があります。性の不道徳は結婚生活の良い土台ではありません。それは,相手の人の将来の幸福に対する利己的な無関心の表われです。切れることのないきずなを生むと一時は思える激しい情欲はたちまちさめて,数週間あるいは数日のうちに結婚がもろくも崩れ去ることがあるのです。―タマルに対するアムノンの恋情について,サムエル後書 13章1-19節に記録されていることと比較してください。
31 求愛期間中に情欲を表わすなら,後になって結婚の真の動機を疑われる原因を作ることになるかもしれません。つまり,情欲のはけ口を得るために結婚したのだろうか,それとも,人としてのその価値を高く評価し愛している人と,人生を共にする目的で結婚したのだろうか,という疑いです。結婚前の自制心の欠如は結婚後の自制心の欠如,およびその結果としての不実と不幸の前ぶれとなる場合が少なくありません。(ガラテア 5:22,23)結婚前の不道徳な行ないが残したいやな思い出は,新婚時代の結婚生活に対する感情面での円滑な適応を妨げることがあります。
32 求愛期間中の不道徳な行為は,当事者と神との関係にどう影響しますか。
32 さらに重大なことに,そうした不道徳な行為はわたしたちと創造者との関係を損ないます。しかし,わたしたちは創造者の助けを切に必要としているのです。「というのは,これが神のご意志であるからです。すなわち,あなたがたを神聖なものとし,あなたがたが淫行を避けることです。……また,だれもこの点で兄弟[もしくは,当然のこととして,姉妹]の権利を害するようなことをせず,またそれを侵さないことです。……それゆえ,無視する者は,人間ではなく,ご自分の聖霊をあなたがたの中に入れてくださる神を無視しているのです」― テサロニケ第一 4:3-8。
岩のような土台
33,34 配偶者を選ぶ際に,どんな資質のほうが身体的な魅力よりもはるかに大切なことを聖書は示していますか。
33 あなたの家,あなたの家族は岩の土台の上に立っていますか。それとも,砂の土台の上に立っていますか。それは,配偶者を選ぶ際にどれほど知恵を働かせるかによってある程度左右されます。美しさや性だけでは十分ではありません。それらが精神的,霊的不一致を消し去ることはないからです。神のみ言葉の中にある助言こそ,結婚生活の土台となるものです。
34 聖書によれば,内なる人は外見よりも大切です。霊感によって書かれた箴言には,「麗しさは偽り,美しさは空しいものであろう。しかしエホバを恐れる女こそ,自分のために賛美を得る」とあります。(箴 31:30,新)結婚していた使徒ペテロは,「心の中の秘められた人」,「もの静かで柔和な霊」を「神の目に大いに価値のある」ものとしています。(ペテロ第一 3:4)神は『人の外見に支配』されません。わたしたちも,未来の配偶者の外見だけに不当に影響されないように気をつけることにより,エホバの模範から益を受けられます。―サムエル前 16:7。
35,36 (イ)神と神のみ言葉に信仰を持っている人と結婚するのはなぜ大切ですか。(ロ)あなたは,その信仰をどの程度表わしていることを未来の配偶者に期待するでしょうか。
35 賢王ソロモンは人生を深く考え,「真の神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めの全体だからである」という結論に達しました。(伝道 12:13,新)神の律法に従う契約下にあったイスラエル人たちは,特に,彼らと同じ崇拝形式を持たない人々と結婚してはならないと命じられていました。そうした結婚によって真の神から引き離されるようなことがないためです。「彼らと婚姻関係を結んではなりません。あなたの娘を彼の息子に与えてはならず,彼の娘をあなたの息子のためにめとってはなりません。彼はあなたの息子をしてわたしに従うことをやめさせ,彼らはきっと外の神々に仕えるようになるからです」― 申命 7:3,4,新。
36 同様の理由で,神の「新しい契約」の下にいる人々,すなわちクリスチャン会衆内の人々は,「主にある者」とだけ結婚するようにと忠告されました。(エレミヤ 31:31-33。コリント第一 7:39)この忠告は知恵と愛を動機とするもので,偏狭な信念から出たものではありません。ふたりがおのおの創造者に献身していることほど,結婚のきずなを強めるものはないのです。神とそのみ言葉を信じ,自分と同じようにそれを理解している人と結婚するなら,共通の権威に助言を求めることができます。このことは重要に思えないかもしれませんが,「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」。(コリント第一 15:33)もっとも未来の配偶者が,クリスチャン会衆内の人であってもこの世の態度やならわしの方に大きく傾いていながらキリスト教の境界線近くで生きようとしている人でなく,神に心を込めて仕えている人であることを確かめるのは良いことです。神と共に歩みながら,この世と共に走ることはできないからです。―ヤコブ 4:4。
37,38 (イ)なぜ性急に求愛や結婚をすべきではありませんか。(ロ)結婚を考えている人々がだれの助言に耳を傾けるのは良いことですか。
37 イエスはこう質問なさいました。『あなたがたのうちのだれが,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか。そうしないなら,その人は土台を据えてもそれを仕上げることができないかもしれません』。(ルカ 14:28,29)同じ原則は結婚にもあてはまります。神は結婚関係を生がいの結び付きとみなしておられますから,確かに配偶者の選択は慎重であるべきです。そして,自分が始めたことを成し終える用意が自分にあることを確かめてください。求愛でさえ,ゲームのように軽々しく扱うべきものではありません。相手の人の感情を戯れにもてあそぶのは残酷なことであり,それは相手をひどく傷付け,相手の心に,長い間いえないようないたでを負わせかねません。―箴 10:23; 13:12。
38 結婚を考慮中の若い人が慎重で,年長の人々,特に自分の最善の益を心にかけてくれている人々の助言に耳を傾けるのは良いことです。ヨブ記 12章12節の次のような問いかけは,そうすることの価値を気づかせてくれます。「老人の中には知恵があるのではないか。また,長い日々には理解力が」。こうした経験から出る言葉に耳を傾けてください。とりわけ,『心を尽くしてエホバにより頼んでください。自分の理解に頼ってはなりません。あなたのすべての道において彼に注目してください。そうすれば自らあなたの行路を直くしてくださるでしょう』― 箴 3:5,6,新。
39 聖書は,すでに結婚している人々にどのように役立ちますか。
39 これらの言葉を読む人々の中には,すでに結婚しておられる方も多いかもしれません。そうした方々はすでにある程度土台を据えておられるでしょう。しかし聖書は,必要なところに調整を加える助けになり,報いの多い結果をもたらします。結婚生活がどのような状態にあろうと,幸福な家族生活のための創造者の助言をさらに考慮するなら,状態はいっそう良い方向に向かうでしょう。
[12ページの図版]
あなたの結婚生活はあらしのような難しい時期に持ちこたえますか
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結婚式がすんでからあなたの家族生活を幸福なものにする
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3章
結婚式がすんでから
1 伝道之書 4章9,10節に述べられているような協力があれば,結婚生活にとってどんな益がありますか。
結婚式が終わり,あなたは配偶者と新世帯を持ちます。あなたは申し分なく幸福でしょうか。あなたはもう,一人ではなく,何でも打ち明けられる,そして喜びや苦労を共にすることができる相手がいます。あなたは伝道之書 4章9,10節(新)の次の言葉が自分に当てはまる,と思われますか。「二人は一人に勝る。なぜなら,彼らは自分たちの勤労に対して良い報いを得るからである。もしそのうちの一人が倒れるようなことがあれば,他の者がその仲間を起き上がらせることができるからである。しかしたった一人の者が倒れ,彼を起き上がらせる他の者がいない場合はどうであろうか」。あなたの結婚生活はそうした協力が惜しみなく行なわれる生活ですか。ふたりの生活がそのようにうまくとけ合うまでには,ふつう,ある程度の時間と努力が必要です。しかし残念ながら多くの人の結婚生活はそのようになっていきません。
2,3 (イ)結婚式の後,生活のどんな現実に直面しなければなりませんか。(ロ)結婚後調整の必要なことを予期するのはなぜ道理にかなっていますか。
2 恋物語では多くの場合,問題が愛し合っているふたりを結び付け,その後ふたりはいつまでも幸福に暮らします。しかし,現実の生活においては,その後くる日もくる日も幸福に暮らすことは大きな挑戦となります。結婚式後は,朝早い起床,通勤,買物,食事の支度,皿洗い,家の掃除など決まりきった日常の生活になります。
3 結婚関係は調整を必要とします。夫と妻は両方とも,実際や現実とはややかけ離れた期待や夢を少なくともいくらか抱いて結婚しています。それがかなえられないと,最初の数週間でやや失望を感じるかもしれません。しかし,あなたは自分の生活が大きく変化したことを忘れないようにしなければなりません。あなたはもう,一人で住んでいるのでも,これまでずっといっしょに暮らしてきた家族と生活しているのでもありません。あなたは新しい人といっしょに暮らしているのです。ですから思っていたほどよくは知らなかったのだ,ということがだんだん分かってくることもあるかもしれません。あなたの予定は新しく,仕事も新しいかもしれません。生活費も違ってきますし,新しい友人や親族とも顔なじみにならなければなりません。結婚に成功し幸福になるかどうかはあなたが進んで考え方を調整するかどうかにかかっています。
あなたには順応性がありますか
4 どんな聖句は,結婚した人が調整を行なうのに役立ちますか。(コリント第一 10:24。フィリピ 4:5)
4 誇りがあるために順応するのが難しい人がいます。しかし,聖書が述べているとおり,「誇りは災いに先立ち,高ぶりは倒れに先立ち」ます。(箴 16:18,新英訳聖書)イエスは,人があなたの「内衣」を欲しがるなら,「その者には外衣をも取らせなさい」,人があなたに「一マイル」行くことを求めるなら,「その者といっしょに二マイル行きなさい」と言って,自分の方から折れ譲ることを勧められました。身近な人と言い争うよりも,「なぜむしろだまし取られるままにならないのですか」と使徒パウロは問いかけています。(マタイ 5:40,41。コリント第一 6:7)クリスチャンが互いの平和を保つためにそこまで行なえるのであれば,結婚して愛し合っているふたりが,新しい関係を成功させるために考え方を調整することは確かにできるはずです。
5 人は配偶者に関してどのような積極的な,あるいは消極的な見方をすることが可能ですか。
5 幸福になるか不幸になるかの機会はいたる所にあります。あなたはどちらに敏感になるでしょうか。積極的な面に注意を向けますか,それとも消極的な面にこだわりますか。新妻はこう考えるかもしれません。『結婚はしたけれど,おもしろい場所へ連れて行ってつきあってくれたあのロマンチックな男性はどこへ行ったのかしら。彼もやっぱりお決まりの型に納まってしまったわ。わたしがいるのはあたりまえくらいに考えてかまってくれない。以前の彼とはまるで違う』。それとも新妻は,今や夫が家族を養う良い働き手として一生懸命に働いていることを理解し,感謝しているでしょうか。また夫の方は,妻が料理に掃除によく立ち働き,時にはひどく疲れたり魅力的に身を飾る時間が取れなかったりすることに気づいているでしょうか。それとも心の中で,『ぼくが結婚したあのきれいな女の子はどうなってしまったんだろう。彼女は変わってしまった。亭主をものにしたからな』と言うでしょうか。
6 夫婦が結婚を成功させるために本当に努力するなら,それは夫婦相互の関係にどんな影響がありますか。
6 夫も妻も,結婚する前にしていた事を全部する時間や体力はないということを認め,円熟した見方を持たねばなりません。今こそ順応性を示して,結婚生活を良いものにし深い満足感の伴う責任を担うべき時です。結婚生活を台無しにするのは一人ででもできますが,結婚生活を送るには二人が必要です。幸せな結婚生活を営むのは一つの業績であり,業績とは問題を克服して何事かを成し遂げることです。その努力を二人がいっしょにするなら,それぞれの役割がとけ合ってその業績を生むのです。そのように,共通の目標を持っていっしょに努力することは二人を近付け,しっかりと結び合わせ,二人を一体にします。やがてそれは,結婚を前にして抱いていた愛をはるかにしのぐ愛のきずなを生みます。一体となる幸福を経験するとき,違うところをお互いに合わせていくことは喜びとなります。
7 何かを決めるとき,譲るのが良いのはどんな場合ですか。
7 愛が深まるにつれて誇りは消えます。原則が関係していなくて個人的な好みの問題である場合,たとえば家具類の購入や休暇の過ごし方などの問題では,与えることばかりか折れること,つまり譲ることも喜びになります。相手の幸せを考えていることが表面に現われるようになるなら,ふたりは使徒パウロの次の言葉を行なう夫婦になり始めているのです。「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」― フィリピ 2:4。
性に対する平衡の取れた見方
8,9 聖書は夫婦間の親密な行為をどのように見ていますか。
8 聖書は性交に関して取りすましてはおらず,夫婦が性交から得る深い喜びを詩的に表現しています。また聖書は,性が夫婦間にのみ許されるべきものであることを強調しています。そのことは箴言 5章15節から21節(新)に次のように書かれています。
「自分の水溜より水を,自分の井戸の中より滴りを飲みなさい。あなたの泉が戸の外に,あなたの水の流れが公共広場にまき散らされてよいだろうか。それはただあなただけのものとなり,共にいる見知らぬ人たちのためとなることのないように。あなたの水の源が祝福されたものとなるように。そして,あなたの若い時の妻と共に歓びなさい。彼女は愛らしい雌鹿また優美な野やぎである。その乳房が常にあなたを酔わせるように。その愛をもって絶えず陶酔するように。ではなぜ,わが子よ,見知らぬ女と陶酔に浸ったり,異国の女の胸を抱擁したりしてよいだろうか。人の道はエホバの目の前にあり,彼はそのすべての道筋を思いはかっておられるからである」。
9 しかしながら,結婚生活の成功のかぎは夫婦の性生活にあるかに思えるほどに,また夫婦関係の他の面での深刻な欠陥を補い得るかに思えるほどに性を重要視しすぎるのは,誤りでしょう。主に性欲をかきたてることを意図した性を扱った書籍や映画や宣伝がはんらんしているので,性がそのように重要視されるようになっています。しかし,それとは違って,神のみ言葉は生活のあらゆる面で自制を働かせることを勧めています。結婚生活においてさえ抑制が全くないなら,結婚関係を安っぽいものにする事柄を行なうようになりかねません。―ガラテア 5:22,23。ヘブライ 13:4。
10 夫婦が性生活に順応するうえで,どんなことを考慮するのは助けになりますか。
10 性生活への順応は難しい場合が多く,結婚後しばらく時間がかかるでしょう。それは,ふつう,知識がなかったり,相手の必要がわからなかったりするためです。尊敬されている既婚の友人に前もって相談するのは助けになるでしょう。男性と女性は造りが異なるばかりでなく,感じ方も異なります。女性はやさしく扱われることを必要としている点を考慮することは大切です。しかし,誤った慎み深さや上品ぶった態度を示したり,性行為をなにか恥ずべき行ないのように考えたりすべきではありません。また,男性の中には性行為を征服する機会とする人がいますが,そういうこともすべきではありません。聖書は,「夫は妻に対してその当然受けるべきものを与えなさい。また妻も夫に対して同じようにしなさい」と述べています。それを行なう際に当てはまる聖書の原則は,「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」という原則です。そうした愛や相手を喜ばせようとする気持ちがあるなら,調節はうまくいくでしょう。―コリント第一 7:3; 10:24。
意見が違う場合でも,ふきげんになるのを避ける
11-13 意見の相違があるとき,それが深刻な不和にならないように,どんなことを心に留めておくべきですか。
11 世の中には二人として全く同じ人間はいません。ひとりひとりがはっきり異なっています。それは二人の人間がすべての点で同じ意見を持つことはあり得ないということでもあります。見解の相違といっても多くは取るに足りないものかもしれませんが,中には重大なものもあることでしょう。意見が合わないと,すぐに大声を上げたり,押したり,たたいたり,物を投げたりする家庭があります。あるいは夫か妻のどちらかが出て行って何日も何週間も家に帰らなかったり,お互いに口をきかなくなったりする場合もあります。意見が違っても,そういう事態を招かないようにするのはそれほど難しいことではありません。ではどうすればよいのでしょうか。それにはある基本的な真理を直視することです。
12 わたしたちはみな不完全で欠点があり,善意でしていても弱点が表われます。使徒パウロは自分の場合もそのようであることに気づきました。「自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです」。(ローマ 7:19)わたしたちは人間の最初の両親から罪を受け継いでいます。完全になることはわたしたちの力の及ばないことです。ですから,『だれが,「わたしは自分の心を清めた。わたしは自分の罪から浄くなった」と言いうるでしょうか』― 箴 20:9,新。詩 51:5。ローマ 5:12。
13 わたしたちは自分自身の弱さを認め,その言い訳をします。では,配偶者の弱さも認めて許すことはできないでしょうか。確かにわたしたちは自分が罪人であることはすぐに認めますが,ある特定の罪に対しては守勢をとって,それを認めたがらないのではないでしょうか。そのように間違いを認めたがらないのは,配偶者を含め人間の常であることを理解するだけの洞察力が,わたしたちにあるでしょうか。そしてそれを大目に見るでしょうか。霊感によって記された箴言には,「人の洞察力は確かに自分の怒りを遅くする。違犯を過ぎ越すことはその人の美である」とあります。あなたもきっと,他のほとんどすべての人たちと同様に,「黄金律」の原則には賛成されるに違いありません。イエスは有名な山上の垂訓の中で次のように言われました。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」。たいていの人は口ではそう言いますが,ほとんど実行しません。黄金律に誠実に従うなら,結婚関係を含め人間関係の諸問題は解決することでしょう。―箴 19:11,新。マタイ 7:12。
14,15 (イ)他の人と比較して,自分の配偶者のほうが劣っていると言うなら,どんなことになりかねませんか。(ロ)時々,どんな事柄に関してそういう賢明でない比較をしてしまうことがありますか。
14 わたしたちはみな,それぞれ別個の人間として考えられ,扱われることを好みます。自分がだれか他の人と比較されて資質や能力が劣っていると見られたら,わたしたちはどう反応するでしょうか。たいていは感情を傷つけられるかまたは憤慨します。実際に,“しかし,わたしはあの人ではない。わたしはわたしだ”と言います。わたしたちは理解ある扱いを望みますから,そうした比較は一般に励ましとはなりません。
15 その点を例を挙げて考えてみましょう。夫であるあなたは,妻が準備した食事を感謝するでしょうか。それとも,妻が自分の母親ほど料理がうまくないことをこぼしますか。ではあなたのお母さんが結婚したばかりのときに料理がどれほど上手だったか,あなたにわかるでしょうか。もしかしたらあなたの奥さんは新婚当時のお母さんよりも料理が上手かもしれません。新しい仕事に慣れ,腕を上げる機会を奥さんに与えてあげてください。一方,妻であるあなたは,ご主人が父親ほど多くの給料をもらわないと言ってこぼしますか。あなたのお父さんは,結婚したばかりのときにどれほどの収入があったのでしょうか。しかしそれさえも問題ではありません。問題なのは,あなたがご主人の助け手となっているかどうかです。ご主人の努力を支え感謝していることをご主人が感じるように,あなたはご主人が出勤する前に起きて朝食を作りますか。どちらかが姻せきの人のことで口論をしかけたり,友だちとの交際や娯楽のことで反対意見を述べたりしますか。このほかのことについても意見の相違は生じるかもしれません。あなたはそれをどのように処理するでしょうか。
16 問題を解決するには大げんかをするのがよいという説はどこが間違っていますか。
16 現代の心理学者の中には,問題解決にはけんかも役立つ,と唱える人たちがいます。欲求不満がつのって圧迫が生じ,ついにはそれが爆発して大げんかになる,というのがその人たちの説です。激しい怒りをぶつけ合うと長い間たまっていたうっぷんが急にぶちまけられて解消する,というわけです。そうなるまでに欲求不満は内部でぐつぐつ煮えています。そしてついにはがまんできなくなって怒りだします。しかし,かっとなったときには,心にないことを言ったり,いえることのない傷を負わせたりする重大な危険があります。相手をあまりにもひどく傷つけるなら,あとで取り除くことのできない壁ができることもあります。そのことを,箴言 18章19節(新)はこう警告しています。「違犯を犯される兄弟は強固な町以上である。居住の塔のかんぬきのような口論もある」。聖書には,「争いが起こらないうちにやめよ」という健全な助言が記されています。―箴 17:14,改訂標準訳。
意思の疎通を図りなさい!
17 爆発点に達するまで不満を心の中で育てないようにするにはどうすればよいでしょうか。
17 意見が合わないとき,爆発点に達するまで不満を心の中で育てるよりもはるかに良いことは,話し合うことです。気に障る言葉をくよくよ考え込むと,必ずと言っていいほど実際より悪く取るものです。ですからその場で話し合うか,さもなくば忘れてしまうことです。それは何の気なしに言った言葉にすぎないでしょうか。では気に留めないことです。それは話し合いを必要としますか。配偶者はあなたの心を苦しめるようなことを何かしたでしょうか。その場合ぶっきらぼうにとがめ立てるのはよくありません。質問の形で問題点を浮き彫りにするか,または話し合いの糸口となるような提案を試みます。例えば,『あなた,わたしには少し理解できないことがあるんですけれど,教えていただけませんか』と言うこともできるでしょう。そう言ったなら,相手の言うことに耳を傾け,相手の見方を理解するように努めなければなりません。箴言 18章13節(新)の次の忠告に留意することが大切です。「聞く前にある事柄に対して返答しているなら,それはその者の愚かさ,また恥である」。わたしたちはだれしも,自分について誤った結論を性急に下されるのを好みません。ですから,すぐに反応しないで,むしろある行為の背後にある意図や動機を見分けるように努めるべきです。箴言 20章5節(新)の次の助言を実行してください。「人の心の中にある計り事は深い水のようだ。しかし識別力のある者,彼はそれをくみ上げる」。
18 消極的な気分をなくするのにどんなことが役立ちますか。
18 あなたは気分に左右されますか。むら気の人といっしょに暮らすのはやさしくありません。気分は,脳の化学物質に左右されるのだから自分ではどうにもならないとしきりに主張する人々がいます。その真偽はともかく,気分は伝染しやすいものです。わたしたちは周囲の人たちによって元気付けられたり,憂うつにさせられたりするものです。音楽もわたしたちの内にいろいろな気分を醸し出します。物語からも同様の影響を受けます。頭の中で考えていることが気分に影響するのです。消極的な事柄をくよくよ考えるなら,ふさいだ気分になります。しかし,意志を働かせて積極的で楽観的な考えを抱くように自分を仕向けることができます。積極的な事柄を考えつづけることです。(フィリピ 4:8)それがむずかしいなら,体を激しく動かす活動を何か行なうとよいでしょう。くわを振る除草作業,床みがきなどの骨折り仕事,戸外での駆け足,森の中の散歩,さらに良いこととしてだれかほかの人のためになるような仕事を見つけるなど,ともかくあなたの注意や活力をどこかほかへ向ける事をすることです。悪感情を抱くよりも,良い感情をはぐくむほうがずっとましです。そのほうがあなたにとってずっと楽しいでしょうし,ましてあなたの配偶者にとってそのほうがずっと楽しいに違いありません。
19 配偶者の気分に,理解をもってどう対応できますか。
19 しかし,非常に悲しい出来事に遭ったり,重い病気や痛みに苦しんだりするときもあります。あるいは妻の場合は月経周期や妊娠などで,神経組織と感情に影響を与える強力なホルモンの分泌が大きく変化します。女性は月経前になると自分では意識していなくても緊張していることがあります。これは夫が心に留めておくべき大切なことです。これを心に留めていれば,夫は憤慨するかわりに洞察力を示せます。そういう特別な状況の下では,夫も妻も感情の変化の原因を悟り,建設的な方法で対応すべきです。「賢い者の心はその口に洞察力を示させ,そのくちびるに説得力を添える」。「真の伴侶はいつも愛するものであり,苦難がある時のために生まれる兄弟である」。―箴 16:23; 17:17,新。
20-22 (イ)不当なねたみはなぜ避けるべきですか。(ロ)配偶者に安心感を与えるために何ができるでしょうか。
20 あなたの配偶者はしっと深いですか。人が自分の評判に,また結婚生活に気を配るのは正しいことです。アドレナリンが心臓の鼓動を再び始めさせるように,ねたみは大事にしているものを守るよう人を奮い立たせます。ねたみの反対は無関心です。わたしたちは自分の結婚生活に無関心であるべきではありません。
21 しかし,別の種類のねたみがあります。それは不安から生まれ,想像によってふくらんだねたみです。そうした不条理で所有欲過剰なねたみは,結婚生活を信頼と真の愛の存続し得ない不快なろう獄にしてしまいます。愛は,そうした形では『ねたみ』ません。また,妄想によるねたみは「骨の腐れ」です。―コリント第一 13:4。箴 14:30,新。
22 配偶者がしっと心から不安を感じる正当な理由を持っているなら,その理由をただちに取り除かねばなりません。もし本当の理由がないなら言葉によって,もっと重要なことは行ないによって,しっと深い配偶者に自信を持たせるためにできる限りのことをします。その心に達しなければならないのです。
23 夫婦間の問題を解決するのに第三者の助けを求めようとする場合,どんなことを考慮するのは有益ですか。
23 夫婦の不和を解決するのに,第三者は助けになるでしょうか。助けになることもあるでしょう。しかし,夫婦双方が同意しないかぎり,第三者を呼ぶべきではありません。まず,「仲間の人間に対し自分の訴えを弁護しなさい。他人の内密の話を明かしてはならない」。(箴 25:9,新)姻せきに仲裁に入ってもらうのは特に危険です。そういう人たちはおそらく公平を欠くでしょう。賢明にも聖書はこう述べています。『男は父と母を離れる。そして,自分の妻に堅く付かねばならない』。(創世 2:24,新)同じことは,両親と夫に関し妻にも当てはまります。両親や姻せきに仲に入って自分の味方をしてもらうよりも,夫婦はそれが自分たちふたりの問題で,いっしょに解決する必要のあるものであることを認め,離れ離れにならずに結束すべきです。相手の同意を得ずに第三者に訴えるなら,その夫婦は他の人の前で品位を落とすことになります。ふたりが率直かつ正直に,そして愛情をこめて話し合うなら,問題を自分たちで解決できないはずはありません。他の円熟した人に助言を求めることはできますが,最終的に解決しなければならないのは,あなたとあなたの配偶者です。
24,25 夫婦の問題を解決するのに誇りが邪魔になっているなら,どうするのがよいでしょうか。
24 「うぬぼれる,つまり自分自身をあまり重視してはなりません」と使徒パウロは助言しています。(ローマ 12:3,新英訳聖書)さらに,「互いを敬う点で率先しなさい」とも述べています。(ローマ 12:10)時に誇りが傷つけられる場合,自分は実際にそれほど偉くはないんだと思うと気が楽になります。確かに,わたしたちは地球に比べれば小さなものです。そして地球は太陽系の中のほんの一点に過ぎず,その太陽系は宇宙内では微々たる存在です。エホバの目からすれば,『すべての諸国民は無きもののようです。彼らは無なるもの,また実在しないもののようにみなされています』。(イザヤ 40:17,新)そのように考えると,物事を全体的に見ることができ,結局,意見の衝突の原因も大して重要なことではないことがわかります。
25 時には,ユーモアのセンスを働かせることも,自分のことを深刻に考え過ぎないようにするのに役立ちます。自分自身のことを笑えるのは円熟のしるしであり,それによって生活上の多くの不快な事柄を和らげることができます。
「水の上にパンを投げよ」
26,27 不和を穏やかに解決しようと努力しても,配偶者が答え応じてくれないなら,聖書のどんな原則を適用すべきですか。なぜですか。
26 あなたが不和を穏やかに解決しようと努力しても,配偶者がそれに答え応じてくれないならどうしますか。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません」という聖書の助言に従ってください。イエスはわたしたちが見倣うべき手本です。「彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした」。人々の間で一般に行なわれるのは,同じように仕返しをすることです。しかし,そのようにするなら,あなたは他の人々があなたを形造る,つまり,あなたをそのような人間にするがままになっているのです。実際,その人たちは,あなたを彼らのような者にしています。そのようにさせるのは,あなた自身,あなたが支持しているもの,大切にしている原則を否定することです。それよりもむしろ,現在の自分に忠実で,周囲の人々の弱さによって変わることのないイエスを見倣ってください。『たとえわたしたちが不忠実でも,彼は引き続き忠実です。彼は自分を否むことができないからです』。―ローマ 12:17。ペテロ第一 2:23。テモテ第二 2:13。
27 もしあなたに,善をもって悪循環を終わらせるだけの強さがあれば,良い循環を始められます。『答えは,柔和であれば,激怒を遠ざけます』。(箴 15:1,新)穏やかな答えは弱さから出るのでなく,強さから出ます。配偶者はそのことを感じ取るでしょう。非常に多くの人が,悪に返すに悪をもってするので,善をもってそれを突破すれば悪循環を良い循環に転じることができるかもしれません。幾つかの聖句はそのことを示しています。「他の人たちに惜しみなく水を注ぐ者は,自らも惜しみなく水を注がれる」。「あなたがたが量り出しているその量りで,今度は人びとがあなたがたに量り出してくれるのです」。「水の上にパンを投げよ。多くの日の後にそれを見いだすからである」。(箴 11:25,新。ルカ 6:38。伝道 11:1,改訂標準訳)あなたが善を行なった報いを配偶者から刈り取るのに時間のかかることがあります。今日種をまいて,明日刈り取るということはありません。しかしながら,「なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。……それで,りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです」― ガラテア 6:7-9。
28 聖書の箴言の書の中には,幸福な結婚生活を促進するのに役立つどんな優れた原則が記されていますか。それはどのように役立ちますか。
28 次に,夫と妻が考慮すべき幾つかの聖句と質問を掲げます。
箴 14:29,新: 「怒ることに遅い者は識別力に富む。しかし短気な者は愚かさを高めている」。時間をかけてゆっくり考えてみると,腹を立てるほどの理由などないことに気づくことがよくありませんか。
箴 17:27,新: 「自分の言う事柄を控える者は知識を所有している。識別力のある者は霊が冷静である」。あなたは冷静さを保ち,配偶者を怒らせるようなことを言わないようにしますか。
箴 25:11,新: 「時にかなった言葉は,銀の彫り物の中にある金のりんごのようだ」。ある場合にふさわしい言葉でも,別の時にはふさわしくないことがあります。あなたは時に応じて何がふさわしい言葉であるかを識別できますか。
箴 12:18,新: 「剣で刺すように無思慮に話す者がいる。しかし賢い者たちの舌は癒しである」。あなたは話す前に,その言葉が配偶者にどんな影響を与えるか考えてみますか。
箴 10:19,新: 「言葉の多いところに違犯は免れない。しかし自分のくちびるを制している者は思慮深く行動している」。感情を害すると,時として自分が思ってもいないことまで言ってしまい,後で後悔するものです。あなたはそうしないように気をつけていますか。
箴 20:3,新: 「人にとって議論をやめるのは栄光である。しかし愚かな者はすべてその中へ飛び込んで行く」。ふたりいなければ議論はできません。あなたは,議論を終わらせる側になるほど円熟していますか。
箴 10:12,新: 「憎しみは口論を引き起こすものである。しかし愛は,あらゆる違犯を覆う」。あなたは古い議論を絶えず蒸し返しますか。それとも,それらを水に流せるほど配偶者を愛していますか。
箴 14:9,「新英訳聖書」: 「愚かな人はあまりにもごう慢で仲直りしようとしない。廉潔な人は,和解の意味するところを知っている」。あなたはあまりにも誇り高いために歩み寄って結婚生活の平和を求めることが難しいですか。
箴 26:20,新: 「木がなければ,火は消える」。あなたは議論をやめることができますか。それともやり込める言葉を口にしなければ気がすみませんか。
エフェソス 4:26,「あなたがたが怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい」。あなたは意見の不一致のことをくよくよ考えて,自分自身と配偶者の両方をいつまでもみじめな気持ちにさせておきますか。
29 幸福な結婚生活を維持しようと努めるとき,どんな基本的な事柄を心に留めておくべきですか。
29 賢明な助言は,それが実行に移されて初めて益になります。それを試してください。同様に,あなたの配偶者の提案も積極的に試し,うまくいくかどうかをみてください。何かがうまくいかなかったら,どちらの責任でしょうか。それは重要なことではありません。大切なのは,どうすれば物事を正せるかということです。融通性を示し,意見の違いをはっきりさせてそれを十分に話し合い,自分のことを深刻に考え過ぎないようにしなければなりません。意思の疎通を図ることが大切です。あなたが『配偶者を自分自身のように愛する』なら,結婚関係に順応して結婚生活を幸福なものにするのは難しいことではありません。―マタイ 19:19。
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深く尊敬される夫あなたの家族生活を幸福なものにする
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4章
深く尊敬される夫
1,2 尊敬はどのようにして得られますか。そのことはイエス・キリストの場合にどのように例証されていますか。
尊敬は,自分を尊敬するようだれかに命令すれば得られるというものではありません。話し方や振舞い,人柄などによって得なければならないものです。
2 その良い例はキリスト・イエスの場合です。イエスが教師として尊敬を得たのは,その教え方によりました。イエスが山上の垂訓を終えると,「群衆はその教え方に驚き入って」いました。イエスはなぜそのような尊敬を得たのでしょうか。それは他の人間の見解ではなく,神の言葉聖書を導きとしておられたからです。イエスにとって唯一の権威は,エホバ神とその真理のみ言葉でした。イエスは当然得るべくして,友人からも敵からも尊敬を得られたのです。―マタイ 7:28,29; 15:1-9。ヨハネ 7:32,45,46。
3 エフェソス 5章33節によれば,妻にはどんな義務がありますか。したがって,夫には何が求められますか。
3 エフェソス 5章33節には「妻は夫に対して深い敬意を持つべきです」という教えがあります。しかし,夫は深い敬意に価するよう努力する必要があります。そうでなければ,妻がその教えに従うことはたいへん難しくなります。では夫はそういう尊敬を得るよう,聖書にあらまし説明されている夫の役割をどうすれば果たしてゆけるでしょうか。
頭の権を正しく行使することによって
4 聖書によれば,夫はどんな立場にありますか。
4 聖書は,夫を結婚関係における頭に定め,次のように述べています。「妻は主に対するように自分の夫に服しなさい。夫は妻の頭だからです。それは,キリストが会衆の頭であり,この体の救い主であられるのと同じです。そうです,会衆がキリストに服しているように,妻もすべての事において夫に服しなさい」。(エフェソス 5:22-24)この取り決めは家族の幸福に本当に役立つでしょうか。女性の中には,一部の男性が女性との関係における自分の地位について抱いているごう慢でうぬぼれた考えを男の狂信的排他主義と呼んで抗議する人たちがいます。しかしまず最初に述べておきたいことは,聖書の教えはそのような男の狂信的排他主義を認めるものではないということです。
5 夫は頭の権に関して何を認めるべきですか。そして,だれの模範に従うべきですか。
5 聖書は,女性だけでなく,男性も頭の権の下にあることを強調しています。聖書のコリント第一 11章3節を見ると,使徒パウロはコリントの会衆へ次のように書き送っています。「あなたがたに次のことを知って欲しいと思います。すべての男の頭はキリストであり,女の頭は男であり,キリストの頭は神なのです」。男にはキリストという頭がいます。したがって,夫であるあなたは,神とキリストを模範とし教師として頭の権の用い方を学ばねばならないのです。
6 夫たちはエホバ神とイエス・キリストから頭の権に関して何を学べますか。
6 キリストに対するエホバの頭の権の行使はいつくしみに満ちたものであり,それに対するキリストの反応は,「あなたのご意志を行なうことを,ああ,わたしの神よ,わたしは喜びました」でした。(詩 40:8,新。ヘブライ 10:7)イエスの頭の権も愛に富んでいます。ご自分の弟子になる人々に対してイエスは次のように言われました。「わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」。(マタイ 11:29)聖書はキリストの会衆を花嫁になぞらえていますが,その会衆の成員たちはキリストの頭の権の下で,確かにさわやかなものを見いだしました。キリストは彼らを食いものにするのでなく,深い愛ゆえにご自分を犠牲にしてこられました。夫が妻に対して行使するのもこの種の頭の権です。『夫は,妻を愛しつづけてください。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を渡されたのと同じようにです。……このように,夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,またたいせつにします。キリストが会衆に対してするようにです。……あなたがたひとりひとりも,それぞれ自分を愛するように妻を愛してください。一方,妻は夫に対して深い敬意を持つべきです』。(エフェソス 5:25-29,33)夫がキリストの頭の権に服して模範を示すなら,妻が夫の頭の権に深い敬意を示すのは難しいことではなく,かえって喜びとなります。
7,8 夫たちが時として,頭の権を正しく行使することに失敗する点を幾つか挙げなさい。
7 大きな問題は,家族の頭として尊敬されたいと願いつつも,不完全さと持って生まれた利己心のために,夫が必要な愛や思いやりを妻に示せないことが時々あることです。夫の愛が感じられない,夫の関心は自分が楽しみ満足することにしかないと妻はよく言います。また,夫が暴君だとこぼす妻もいます。それは,妻が夫の頭の権を侵害しようとしたため,夫がそれに抵抗した結果かもしれません。あるいは,その男性は多くの夫が横へいで暴君であるのを見て育ったとも考えられます。どんな理由にせよ,頭の権のそうした誤用はだれからも尊敬されません。
8 そうかと思うと,頭の権を誤用するのでなくそれを放棄する夫がいます。つまり,あらゆる決定を妻に任せてしまうのです。あるいは,“せき立てるのはよしてくれ”と妻に言っていつまでもぐずぐずしているために,家族の福祉が損なわれる,ということもあります。そういう夫は,体を動かす点では怠惰でも無精でもないかもしれません。しかし,精神的な努力をいとうなら,箴言 24章33,34節に次のように描かれている人と同じ結果を得ることになるでしょう。「『少し眠り,少しまどろみ,手をこまねいて少し休む』,すると貧しさが盗人のように,乏しさが武装した男のようにあなたに襲う」。―改訂標準訳。
9,10 家族に影響のある決定をする場合,夫はだれの考えを考慮に入れるべきですか。
9 堅実で力強く,決断力のあることを示すなら,夫は妻の尊敬を得ます。しかしそれは,家族の中のだれかほかの者に相談すべきでないとかたまたま自分の意見とは違うからといって妻の意見を十分考慮しなくてよいということではありません。聖書の初めのほうに,アブラハムとサラの家族に起きた,ある深刻な問題が記述されています。それは息子イサクと,奴隷女ハガルの子供にかかわるものでした。サラが勧めた解決策は,その問題に対するアブラハムの感情と一致しないものでした。しかし神はアブラハムに,「その声を聴き入れなさい」とおっしゃいました。―創世 21:9-12,新。
10 このことから,夫はどんな時でも妻の願いをいれるべきなのだと結論するのは早計です。しかし,家族に影響する事柄を妻と話し合い,考えや気持ちを自由に話すように妻を励ますのは有益です。話し合いの道をいつも開いておき,常に近付きやすくあり,決定に際しては妻の好みをよく検討します。いばった,横暴な態度を取るのではなく,むしろ謙そんな態度で頭の権を行使します。夫も完全ではありませんから失敗をすることもあるでしょう。そのときには,妻の理解を必要とします。そういう事態が起きたとき,誇りの強い人の妻より,謙そんな人の妻のほうが頭の権を尊重しやすいでしょう。
一家の良い働き手となることによって
11,12 (イ)生活に必要な物を備える点で夫にはどんな責任がありますか。(ロ)そういう必要な物を手に入れることは,実際にはふたりが協力して行なうことであるとどうして言えますか。
11 家族のために生活に必要な物を備えるのは夫の責任です。テモテ第一 5章8節はそのことをこう述べています。「当然のことですが,自分に属する人びと,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです」。今日,多くの国で生活費が非常に高くなっています。夫は,その必要をどうまかなうかを左右する決定を下さねばなりません。それに恐らく,働いて得たお金を家に持って帰ることに加えて,妻といっしょに,ふたりの納得のゆく予算を立てる必要のあることに夫は気づくでしょう。それはつまり,支出を制御するための取り決めを設けるということです。そうすれば,収入の範囲内で生活することが容易になります。またそれは給料日の前にお金がなくなるために起こりがちな言い争いを避けるのに大いに役立ちます。
12 一家を支えるお金を得るのはほとんどの場合夫ですが,しかしそれは協力してもうけたものであることを忘れるべきではありません。自分ひとりで収入を得ているように考えている夫があるなら,その人は,買物をする人,料理人,皿洗い,掃除婦,室内装飾者,看護人,その他を雇えばどれほどの費用がかかるか計算してみるとよいでしょう。通常,妻はそうした仕事をして経費を省いています。むろん,それをすることは,配偶者である妻が果たすべき分です。そしてもし妻が繁雑な家計簿をつけているなら,先のリストに“会計士”を加えることができます。「人は良い妻を見いだしたであろうか。その人は良いものを見いだしたのである」という箴言 18章22節(新)の言葉は正に真実です。
13 物質のことについて,夫婦はどんな見方を避けるべきですか。それはどのようにふたりのためになりますか。
13 生活物資を手に入れるにあたって,夫と妻に絶えずつきまとう危険は,人生観や人生との取り組み方がしだいに物質主義になってゆく危険です。これほど,家族の幸福の土台をむしばむものはありません。聖書の筆記者パウロは次のように述べています。「わたしたちは世に何かを携えて来たわけではなく,また何かを運び出すこともできない(の)です。ですから,命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです。しかし,富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます。金銭に対する愛はあらゆる有害な事がらの根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷い出,多くの苦痛で自分の全身を刺したのです」。物質的な生き方をしてどれほどの持ち物を得ようとも,それは,家族のきずなが弱まって崩壊するのを見る悲しみの埋め合わせにはなりません。物質的に得るものは,霊的また感情的な損失に比べてはるかに少ないのです。―テモテ第一 6:7-10。
14 物質的な事柄が個人の生活において過度に重視されるかどうかは何によって決まりますか。
14 物質主義とは,単に物質の財産を持っているということではなく,物を愛することです。貧しくても物質主義的な人もあれば,富んでいても霊的な思いを持っている人がいます。ですから,問題はその人の心がどこにあるかということです。イエスはこうおっしゃいました。「あなたがたは自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾とさびが食い尽くし,また盗人が押し入って盗みます。むしろ,自分のために宝を天に蓄えなさい。そこでは蛾もさびも食わず,盗人が押し入って盗むこともありません」― マタイ 6:19-21。
15,16 幸福な家族生活を維持するためには,夫は,物質上の必要物を十分に備えることに加えて何を行なうべきですか。
15 一家の良い働き手である夫は,そうした聖書の訓戒をよく考え,必要な物資を備えるだけにとどまらず家族のために霊的なものを備えることにも時間を当てます。家族を霊的に強くするための十分な時間と体力が残らないほど,世俗の仕事に多くの時間を費やして生活物資を得ることにどれほどの益があるでしょう。生活の諸問題に首尾よく対処する知恵を得るには,正しい原則をしっかり守ろうとする精神を,時間をかけて家族に植え込まなければなりません。神の言葉をいっしょに朗読したり話し合ったりすることを生活の中に取り入れるとき,それは,心を合わせて祈るときと同様に,成し遂げられます。そのことに率先するのは,家族の頭である夫の責任です。それがもたらす益は,それに費やす時間と努力を補って余りあります。神の次の約束が果たされずに終わることはありません。「あなたのすべての道において彼に注目しなさい。そうすれば彼ご自身があなたの行路を直くしてくださるであろう」― 箴 3:6,新。
16 自分の歩みの導きを神に求める夫は,伝道之書 7章12節(新)の,「知恵は金が身の守りであるのと同じく身の守りである。しかし知識の利点は,知恵がその所有者たちを生き長らえさせることである」という助言が,平衡の取れた助言であることを悟っています。ですから,一家の良い働き手として,家族の物質面の必要を満たすために精を出して働きますが,その希望は『不確かな富にではなく,神』に置いています。そして,自分と妻が共に「真の命をしっかりとらえる」ために,霊的な事柄に重きをおく点で模範を示します。(テモテ第一 6:17-19)そのように,物質面でも霊的な面でも必要なものを備えるよう努力する夫は,神を恐れる妻の尊敬を勝ち得ます。
妻に誉れを与えることによって
17-19 妻に「誉れ」を配しなさいという聖書の助言は,性関係にどう適用されるでしょうか。
17 使徒ペテロは,夫たちに彼らの妻に関する事柄を話し,「弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」と命じています。(ペテロ第一 3:7)同じ節でペテロは,夫が妻とともに住み,「知識にしたがって」妻に誉れを配すべきであることを指摘しています。
18 このことは確かに性関係に当てはまります。多くの妻に見られる不感症は,往々にして,夫が女性の身体的感情的な造りに無知なことに原因しています。「夫は妻に対してその当然受けるべきものを与えなさい」,しかし,「知識にしたがって」それをなし,「弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」と神のみ言葉は助言しています。(コリント第一 7:3)ほんとうに『妻に誉れを配する』なら,妻が非常に疲れていたり,月ごとの体の変化で憂うつになっていたりするときに,荒々しいわがままな態度を取って,自分の欲望を満足させることだけを考えるようなことはしないでしょう。(レビ記 20章18節と比較してください)また,実際に性行為を行なうときに,自分自身の喜びを求めるあまり,妻の必要を無視することをしません。この面での女性の反応は男性ほど速くありません。女性はやさしさや愛情を特に必要とします。聖書は,「妻に対してその当然受けるべきものを与えなさい」と夫に命じて,受けることよりも与えることを強調しています。
19 そのようにして与えることは,むろん,自分の配偶者のみに限らねばなりません。なるほど,今日多くの男性は他の女性と“関係”を持ちます。しかし,その結果何を得るでしょうか。自分の家庭の幸福を台無しにするだけです。そのような男性は妻に『誉れを配する』ことをしていないために,妻から尊敬される理由がありません。そればかりか,神が創始された結婚という取り決めそのものを侮辱しています。それによって生じるあらゆる心痛を考えると,ヘブライ 13章4節が次のように勧めている理由が理解できます。「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです。神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。
20 エフェソス 5章28節に示されているとおり,他のどんな面で妻は誉れを配されるべきですか。
20 妻に誉れを与えることは性関係だけで終わるのではありません。真に尊敬される夫は,他の様々な事柄においても,妻を重んじていることを示します。それは妻を崇拝して妻の奴隷になるということではなく,むしろ,先に出てきたエフェソス 5章28節の言葉を実行することです。「夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する者は自分自身を愛しているのです」。これを行なう夫は,妻を劣った人間であるかのように扱うことはないでしょう。食事のときに,自分の体は食物のいちばん良いところを全部取るだけの価値があるが妻は残り物でいいというようなことは考えないでしょう。もし本当に妻を「自分の体のように」愛しているならば。自分の外見についても自己中心的にならずに妻が自分の服装に満足を感じられるようにできるだけのことをして,妻の外見にも自分と同様の,あるいはそれ以上の気遣いを示します。何かが思いどおりにいかなかったときに,自分の体をたたく人はいません。クリスチャンの夫も,妻が自分の期待にこたえられないことがあっても,そのために妻をたたいたりはしません。それとは全く反対に,だれかが自分の妻を虐待するなら,心から妻を助けるでしょう。夫は妻を自分の体のように愛しているからです。
21,22 妻がその役目を喜んで果たせるように,夫はどんな助けを与えられますか。
21 妻に『誉れを配する』には,ふたりの必要が似ている分野を知る一方,ふたりの間の心理的な違いも理解する必要があります。基本的にいって女性は,権威が正しく行使されるなら,そのひごの下で働くことを好みます。エホバ神は女性をそのように創造されたのです。女は,『男を補うものとして,男のための助け手』となるべく作られました。(創世 2:18,新)しかし,監督があまりにも細部にわたるために,自分が率先して事を行なって能力を発揮する余地が全くないなら,妻は生活から楽しみが絞り取られていると感じて,怒りをつのらせるかもしれません。
22 注意を要するもう一つの大切な要素は,必要な存在と思われたいという,妻の自然の欲求です。ほとんどの妻はよく手伝ってくれる夫に感謝します。しかし,妻をわきへ押しのけてさい配を振るう夫は,益をもたらすどころか害をなしていることに気付くでしょう。しかし,もし夫が親切で妻の働きをよく認め,妻がなくてならない存在であること,また妻を尊敬していること,ふたりがチームとして働いていること,そして,「わたしたち」,「わたしたちのもの」であって,「わたし」,「お前」,「わたしのもの」,「お前のもの」ではないということを妻に知らせるようにするなら,それは妻の誠意を得るうえで大いに力があります。あなたは,妻にどれほど感謝し,妻をどれほど必要としているかを,本人に本当に伝えておられるでしょうか。それは妻に賃金を払ってできるものではありません。ですから他のいろいろな方法で示さねばなりません。
妻が持つ女性の特質をよく知る
23 一般的に言って,男性と女性は感情面でどのように違いますか。
23 ある女性心理学者は,「基本的にいって,女は感じ,男は考える」と書いています。この特質そのものは,一方が他方に勝っているわけではありません。両者はただ異なっているだけです。わたしたちは鈍感な人を好みませんが,考えのない人も好みません。明らかに女性は感じる能力も考える能力も持っています。男性も同じです。しかし一般的に言って,女性の感情のほうが容易に表面に表われます。男性は,問題との道理にかなった取り組み方と考えられることのほうに重きをおいて,感情を抑えようとするのが普通です。むろん例外はありますが,これも夫と妻を互いに補い合うものとする男女間の相違です。女性は,基本的により感情的な性質をしているうえに,人々に強い関心を持っているので,しばしば,男性よりもよく話します。したがって話し相手を必要としています。この点で妻の期待にそわない夫は少なくありません。
24 夫が妻の言葉に耳を傾け,妻と話すのはなぜ大切なことですか。
24 あなたは妻に話し掛けるでしょうか。自分の仕事のことだけでなく,妻の仕事のことも話されますか。妻の仕事のことに関心がありますか。そして関心があることを本人に示されるでしょうか。妻の一日はどうだったでしょうか。子供たちにはどんなことがありましたか。家に帰ると,“夕食は何だい”と聞くだけで,食べ終わってからは新聞を広げて顔を隠し,妻がしきりに話しかけても気のない返事をする,というようなことはいけません。妻自身に対して,また妻の考えや活動や物事に対する感じ方に対して関心を持ってください。妻が計画を実行するように励まし,また成し遂げたことをほめてください。自分がしたことをほめられると,さもなくばなおざりにしたかもしれないほかの仕事もし始めるかもしれません。あら捜しは,知らぬ間に作用する毒物や抑制剤の働きをする恐れがあります。当然受けるに値するときに,心から与えられるほめ言葉は,心をいやす薬であり,精神を高揚させる刺激剤です。―箴 12:18; 16:24。
25,26 (イ)贈り物は妻にどんな言葉を伝えますか。(ロ)どんな種類の贈り物は妻にとって非常に大切ですか。
25 あなたは妻に時々贈り物をなさるでしょうか。必ずしも高価な物でなくても,“あなたのことを思っています”という気持ちを伝えるささやかな物でもかまいません。そして特別なときだけでなく,そうしたい気持ちになったという以外に何の理由もないとき,あなたの愛情の自然の発露としてその贈り物をなさいますか。妻があなたの好きなごちそうを作ってあなたを驚かせるとき,あなたはうれしくないでしょうか。驚きには驚きを返して,妻を喜ばせてください。愛から出たささやかな贈り物は,義務感から ― もしかしたら惜しみながら ― 機械的に渡される高価な贈り物よりもはるかに意味があります。「神は快く与える者を愛されるのです」。(コリント第二 9:7)妻たちもそうです。たとえ,食事が特別なごちそうでなくても,「野菜の料理でもそこに愛のある方が,飼い葉おけで肥育された牛とそれに伴う憎しみより良い」ということを思い出しましょう。―箴 15:17,新。
26 与えることで最も重要なのは,あなた自身を与えること,あなたの時間,活力,注意,考え,とりわけあなたが心の中で一番大切にしている考えを与えることです。そうするのを難しく感じる男性は少なくありません。愛情を表現するのは愚かな感傷主義で,なんとなく男らしくないと思えるかもしれません。しかし,妻を愛している人なら,ちょっとしたまな差しや言葉,体に手を触れることが妻にとって大きな意味を持つことを心に留めているでしょう。一方,そうしたものが欠けると,妻はふきげんになり,疲れ,喜びを失うことが多いのです。ですから,聖書の雅歌に書かれている模範にならってください。他の人への気づかいや愛情を表現することは,それをする人の益になります。人々は温かい人にいや応なく引き寄せられるものです。では,温かい人とはどんな人でしょうか。自分が心に掛けている人々に対して感情や熱意を吐露する人です。そうした温かさは人に伝染しますから,与えた人に返って来ます。―雅歌 1:2,15。ルカ 6:38。
27,28 (イ)夫は,自分が頭の権を正しく行使しているかどうかを判断するために,どのように自問できるでしょうか。(ロ)こうした事柄に関心を払うのはなぜよいことですか。
27 夫である方はこう自問してみてください。わたしの頭の権は妻にとって敬意を示しやすいものだろうか。わたしは妻を自分自身のように愛しているだろうか。それとも,自分自身を満足させることや自分に必要なものに主な関心を注いでいるだろうか。妻の必要をどれほど考慮しているだろうか。家族に関係した事柄を決定する前に,妻の考えを聞いたり,妻の意向を考慮したりするだろうか。わたしの決定は妻の福祉を考えてなされているだろうか。より弱い器である女性として妻に誉れを配しているだろうか。妻と会話をし,自分の胸中を妻にすっかり明かしているだろうか。
28 夫はこうしたことを完ぺきに行なうことはできないかもしれません。しかし,もしたゆまず謙そんに努力するなら,それは,妻の深い尊敬と神の是認を得る夫となるうえで大いに助けとなることが確信できるでしょう。
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ささやかな物でも大きな意味を持つ
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深く愛される妻あなたの家族生活を幸福なものにする
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5章
深く愛される妻
1-4 時折,女性は,自分に対する夫の愛情の表現のことでどんな不平を言いますか。
ある女性がほかの女性にこんなぐちをこぼしました。『主人がわたしを愛してくれていることはわかるんだけど,そのことを決して言おうとはしないの。わたしが無理に引き出すようにすれば,たまには言うこともあるわ。でも,わたしがそんなことをしなくても,愛していると言ってくれたら,そのほうがどんなにうれしいかわからないわ』。
2 相手の女性は答えました。『わかるわ。でも男の人ってそういうものよ。わたしも主人に,あなたはわたしを愛してくださっているの,と聞いたことがあるの。そうしたら主人はこう言ったわ。「ぼくは君と結婚しただろ。君を養っているし,君といっしょに暮らしている。もし君を愛していなければ,そんなことしないよ」』。
3 そして,少し間をおいてから,次のように続けました。『でも,このあいだの晩,とても感激したことがあったの。昼間,主人の書斎をお掃除していたとき,机の引出の中にスナップ写真があるのを見つけたの。それはわたしの実家の家族の写真をはった古いアルバムにあった写真で,七歳の水着姿のわたしが写っていたのね。わたしはそれを主人に見せたことがあったの。ところが主人はそれをアルバムから抜き取って,自分の机の引出にしまっていたのね』。
4 彼女はほおえみを浮かべて思い出を語りながら友だちを見ました。『その晩,主人が仕事から帰ったとき,わたしはその写真をさっと主人の前に出して見せました。主人はそれを手に取るとにっこりして,「この女の子をかわいがっているんだ」と言いました。それから写真を置き,両手でわたしの顔をはさむようにして「その子が大きくなった今の君も愛しているんだよ」と言って,やさしくせっぷんしてくれたの。わたしは泣いてしまったわ』。
5 夫の深い愛を得るには,妻はどのように振る舞うべきですか。
5 夫に非常に愛されていることを知っている妻は,ほのぼのとした気持ちを持ち,心の平安を感じます。神のみ言葉は,妻をそのように愛することを夫たちに助言しています。『夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,またたいせつにします。……ふたりは一つの肉体となります』。(エフェソス 5:28,29,31)すでに取り上げたとおり,妻は夫を深く尊敬しなければなりませんが,夫はその尊敬を得るような振る舞いをしなければなりません。妻を愛し,いつくしむようにという夫に対する助言についても,そのことは言えます。つまり,妻は,夫が心から愛し大事にせずにはいられないように振る舞うべきなのです。
あなたは夫を支えますか
6,7 (イ)創世記 2章18節で,エホバは女をどんな役割のために作ったと述べておられますか。(ロ)夫の真の助け手となるために,妻には何が求められていますか。
6 妻が深く愛されるには,夫の頭の権にただ服従するというのではなくそれ以上のことが求められます。でなければ,男性はよく手なずけた馬か犬を持ってもよかったでしょう。エデンの園でアダムの周りには動物がいました。そして,動物たちはアダムに服していました。しかし,人間としては,アダムは依然ひとりぼっちでした。アダムは,自分を補い助けて共に働いてくれる,理性を持つ人間の仲間を必要としていました。エホバ神はおっしゃいました。「人が独りのままでいるのは良くない。わたしは,彼を補うものとして,彼のために助け手を造る」― 創世 2:18,新。
7 夫が必要としているのは,自分を愛し尊敬してくれるだけでなく,自分が下した決定を支持して真の助け手となってくれる妻です。いっしょに話し合って合意の下に決定がなされる場合,そうすることは難しくありません。しかし,相談を受けなかったり,たまたま同意できなかったりすると,夫の決定を支持することはそれほど容易ではないでしょう。そのような場合,あなたはご主人を忠実に支持できるでしょうか。それが違法な行為や非聖書的な活動でない限り,ご主人の決定した事柄が順調に運ぶように最善を尽しますか。それとも,ご主人が失敗するのを見て『わたしが言った通りでしょ』と言えるように,がんこに非協力的な態度を取る傾向がありますか。あなたが,不安を感じながらも,企てを成功させるようにけん命に努力するなら,あなたのそうした忠実な支持を見るご主人が,あなたに対する愛をいっそう深めるとは思いませんか。
8 妻は,頭の権を正しく行使するよう夫をどのように励ませますか。
8 わけても,夫の頭の権を横取りしようとするようなことはいけません。それに成功したなら,あなたは夫をきらいになるでしょう。また,ご主人はあなたをきらいになり,自己嫌悪に陥りもするでしょう。また率先すべきところでそうしないかもしれません。あなたは,率先して物事を行なおうとするようにご主人を励ませるでしょうか。先に立って事を行なおうとするご主人の努力に,感謝の気持ちを表わしますか。夫がそうした精神を幾らかでも示すとき,ご主人に協力し,ご主人を励ましますか。それとも,あなたは間違っているとか,その計画はうまくいかないとかと言うでしょうか。夫が先立って物事を行なわない場合,妻にも責任のある場合があります。例えば,妻が夫の考えを見くびったり,夫の努力に逆らうなら,あるいは,企てがうまくゆかないときに,わたしが言ったとおりでしょ,というような態度を示す場合です。妻がそうした態度を取りつづけるなら,夫はやがて頼りない優柔不断な人間になってしまうかもしれません。逆に,妻の忠実さと支持,夫に対する信頼と確信は,夫を強め,夫の成功に寄与します。
「有能な妻」
9 箴言 31章10節は有能な妻について何と述べていますか。
9 深く愛される妻になるには,家庭での妻の責任をりっぱに果たすことも必要です。そういう女性について聖書は「その価値は,さんごのそれをはるかにしのぐ」と述べています。(箴 31:10,新)あなたはそのような妻ですか。あなたはそうであることを願っているでしょうか。
10,11 妻は,自分が箴言 31章15節の描写に当てはまることをどのように示せますか。
10 箴言の書は,「有能な妻」の働きについて,「彼女はまた,まだ夜のうちに起き,家の者に食物を……与える」と述べています。(箴 31:15,新)母親が料理の仕方を教えなかったために,不利な条件を背負って結婚生活を始める若い女性は少なくありません。しかし,そういう人たちも自分で習えます。賢明な女性は,上手に料理する方法を身につけます。料理は一種の芸術です。上手に作られた料理はおなかを満たすだけでなく,人の心を動かします。
11 食事を整えることに関して学べることはたくさんあります。家族の健康を守るために栄養に関する基本的な事柄を知っておくのは有益です。しかし,栄養のある食事を出しさえすれば,必ず夫の賛辞が得られるというものではありません。聖書によれば,イサクの妻のリベカは,夫の好みに合わせて「美味な」料理を作る方法を知っていました。(創世 27:14,新)多くの主婦はリベカの模範から益を得られるでしょう。
12 主婦は箴言 31章14節に書かれているような,どんなことも行ないますか。
12 世界を見ると,主婦が毎朝市場へ行き,その日に必要な品物を買う所もあれば,一週間に一度ぐらい買い物をし,いたみやすい物を冷蔵庫に入れておく所もあります。いずれにしても,夫は,お金を注意深く使い,家計をよく考える妻に感謝しないわけにはいきません。食物にせよ衣類にせよ,良い品を見分けられる,また良い品物の価値を知っている主婦は,最初に見た品物を買うようなことはあまりしません。むしろ,箴言 31章14節(新)にある通り,『彼女は商人の船のようになっています。はるか遠くから自分の食物を持ち入れます』。
13 箴言 31章27節によれば,有能な妻には家事をどのように行なうことを期待できますか。
13 主婦の仕事に対する良心的な関心は,家の中の状態にも反映していなければなりません。箴言 31章27節(新)には,有能な妻であることはどんなところからわかるのか,さらにこう述べられています。「彼女は家の者の状態を見守っており,怠惰のパンを食べない」。そのような妻は,朝寝坊するのを習慣にしたり,近所の人たちといつまでもたわいないおしゃべりをしたりしません。病気になったり,予期していなかった事が起きたりして,時には家事がたまることがあっても,有能な妻の家はだいたいいつもよく整っていて清潔です。夫は,友人が訪ねて来ても家がちらかっていてきまりの悪い思いをするようなことはない,という自信が持てます。
14,15 聖書は婦人の服装と装飾品に関してどのように助言していますか。
14 女性に向かって,容姿に注意を払うのも大切だと言うことは,たいてい必要でありませんが,中には,そう言ってもらう必要のある女性もいます。自分自身のことをあまり気にかけていないような身なりの女性に愛情を感ずるのは,やさしいことではありません。聖書は女性が『よく整えられた服装をし,慎みと健全な思いとをもって身を飾る』ことを勧めています。もっとも,聖書は,自分に過度に注意を引くような髪型や宝石や高価な衣装を重視しないようにとも助言しています。―テモテ第一 2:9。
15 そうした飾りよりもはるかに価値のあるのは,それを身に着けている人の性質です。使徒ペテロはクリスチャンの妻たちに,「もの静かで柔和な霊……は神の目に大いに価値のあるものです」と述べています。(ペテロ第一 3:3,4)また,箴言は,有能な妻の特性を挙げて,「彼女は自分の手のひらを悩める者に伸べ,その手を貧しい者に差し出した」,そして,「愛の親切による律法がその舌にある」と述べています。有能な妻は利己的でもなければ意地悪でもなく,寛大で親切です。(箴 31:20,26,新)その記述はこう続いています。「麗しさは偽り,美しさは空しいものであろう。しかしエホバを恐れる女こそ,自分自身に賛美を得る」― 箴 31:30,新。
16 認識のある夫は,そうした妻のことをどう感じますか。
16 そうです,そのような女性は,創造者の見方を自分の見方とする夫の深い愛を得るでしょう。箴言の作者が述べたように,夫は妻に対して「有能さを示した娘は多くいる。しかしあなたは ― あなたはそのすべての者たちをしのいだ」と感じることでしょう。(箴 31:28,29,新)何度も促されなくても,夫はそう感じていることを妻に知らせたい気持ちになるでしょう。
性に対する見方も影響する
17,18 性に対する妻の見解は,妻に対して夫が抱く感情にどんな影響を与えることがありますか。
17 多くの結婚問題の根底には,不満足な性関係があります。それは,妻の身体的感情的な必要に対して夫が思いやりと理解を欠いていることが原因している場合もあれば,妻が身体的にあるいは感情的に夫と交わろうとしないために起こる場合もあります。夫と妻が進んで,また温かい気持ちで行なう性行為は,互いに対する愛情の親密な表現であるはずです。
18 夫に思いやりがないために妻が不感症になることがありますが,妻の冷淡さも夫を傷つけます。嫌悪感を示されると,夫は性的能力を失うかもしれず,他の人に魅力を感じることさえあり得ます。妻がどうでもいいというような態度でただ従うだけであれば,夫はそれを,妻が自分を嫌っている証拠だと考えるかもしれません。性的な反応は感情に左右されます。したがって,反応を示さない妻は,性に対する自分の態度を振り返ってみる必要があるでしょう。
19 (イ)配偶者に対し,長期間にわたって性関係を拒むことは良くないことを,聖書はどのように教えていますか。(ロ)夫婦の性行為がふさわしいものかふさわしくないものかを第三者に決めてもらう必要がないのはなぜですか。
19 聖書は夫と妻の両方に,「互いにそれを奪うことがないようにしなさい」と助言しています。妻が何週間も,あるいは何か月も夫を拒み続ける場合のように,配偶者に罰を加えたり憤りを表現したりする手段として性を利用することを,神のみ言葉は許していません。夫が「妻に対してその当然受けるべきものを与え」なければならないように,妻も「夫に対して同じようにし」なければなりません。(コリント第一 7:3-5)といってもこれは,妻が道徳的に忌まわしい変態的な行為にも従わねばならないということではありません。妻を愛し尊敬している夫なら,妻にそのようなことを要求しないでしょう。『愛はみだらなふるまいをしません』。(コリント第一 13:4,5)夫婦間の行為がふさわしいものかふさわしくないものかを第三者に決めてもらう必要はありません。聖書はコリント第一 6章9節から11節で,エホバ神の崇拝者に禁じられている常習的な行為をはっきりと挙げています。それはすなわち,不品行,姦淫,同性愛です。(レビ記 18章1-23節とも比較してください。)実際には不道徳にほかならない“新しい道徳”を実践している現代の自由主義者の中には,それら禁じられた性行為のあるものが容認されることを叫び求めている人たちがいます。一方,非常に保守的な人たちはこれらに加えてさらに多くのことを禁じます。しかし聖書は平衡の取れた見方を示しています。一般的に言って,結婚生活の他の関係がすべて良いなら,愛,尊敬,意思の疎通,そして理解があるなら,性が問題になることはほとんどありません。
20 妻が性を駆け引きの手段にするならどんな結果になりますか。
20 深く愛される妻は,性を売り物にして駆け引きするようなことはしません。確かに女性という女性がみな性を駆け引きに利用するわけではありませんが,中にはそれをする妻がいます。夫の賛成を得るために性を巧妙に利用するのです。それはどんな結果になるでしょうか。あなたは自分に服を売りつける人に優しい愛情を感じるでしょうか。夫も,自分の賛成を得るために性を売り物にする妻に優しい愛情を感じません。そのようなことをする女性は物は得るかもしれませんが,感情的,また霊的なものを失います。
泣く妻,小ごとを言う妻
21-23 サムソンの例が示しているように,女性が泣くことや小ごとを言うことはどのように幸福を損なう恐れがありますか。
21 サムソンは強い人でしたが,泣いたり小ごとを言ったりして自分を押し通そうとする女性の圧力に耐えることができませんでした。ある時,サムソンは,自分の妻になる女の泣き落としにかかりました。士師記 14章16,17節(新)には次のように記録されています。女は「彼にすがって泣きながらこう言った。『あなたはただわたしを憎んでいるのであって愛してなどいないのです。あなたがわたしの民の子らに掛けたなぞがありますが,わたしにそれを教えてはくれなかったのです』。これに対して彼は言った,『どうしてなのだ,わたしの父や母にさえ話してはいないのだ。それをお前に話すべきだろうか』」。サムソンが道理に訴えてもむだでした。感情が高ぶっている時に,それはまず役に立ちません。「彼らのための宴会が続いた七日のあいだ彼女は彼にすがって泣き続けた。そして七日目になって彼はついにそれを教えた。彼女が圧力をかけたためである。それで彼女はそのなぞについて自分の民の子らに教えた」。
22 あなたの思い通りにさせてくれないときがあるからといって,夫は自分を愛していないなどと考えないでください。サムソンの婚約者は,自分を愛してくれないとサムソンを責めましたが,実際には,彼女の方こそサムソンを愛していませんでした。もうこれ以上耐えられないというところまでサムソンに圧力をかけました。サムソンからなぞの説明を聞くと,サムソンの信頼を裏切り,その秘密を知らせるべくサムソンの敵のもとに走りました。そして,結局,彼女は別の男の妻になりました。
23 後にサムソンはデリラという名前の別の女性に引かれました。デリラは容姿は魅力的であったかもしれませんが,サムソンが深く愛せる女性だったでしょうか。デリラは,言葉巧みにサムソンから情報を手に入れ,それを自分のために利用しようと考えて,しつこく小ごとを言う戦術を採りました。次のように記録されています。「そして彼女が終始言葉で圧迫してしきりに彼を促したため,彼の魂もこらえ切れず死なんばかりになった」。その最終的結果は悲惨なものでした。―士師 16:16,新。
24-27 (イ)妻が口やかましいとどうなるかについて箴言は何と述べていますか。(ロ)聖書がとりわけ女に対してこうした助言を与えているのはなぜですか。(ハ)妻のために特別良いことをしたいと夫に思わせるのは多くの場合何ですか。
24 泣くことや小ごとを言うことは賢明ではありません。それは結婚生活を損ない,夫を離れさせます。聖書はそうしたことをならわしにしないように警告しています。例えば,「新英訳聖書」からの引用ですが,次のような聖句があります。「事をくどくど言う者は友情を損なう」。「口うるさい妻は絶え間なくしたたる水のようだ」。「口うるさくて怒りやすい妻と共にいるよりは,砂漠に独りで住むほうがよい」。「雨の日の絶え間ない雨もり,口うるさい妻はそのようなものだ。彼女を抑えるのは風を抑えるようなものであり,指の間に油を捕らえるようなものだ」― 箴 17:9; 19:13; 21:19; 27:15,16。
25 聖書がとりわけ妻にこうした助言を与えているのはなぜでしょうか。一般に女性は感情的になりやすく,特に当惑している時には感情に負けやすいからだと思われます。また,それが唯一の武器だと考える女性もいるからです。家の頭である夫が,勝手に自分を通すなら,妻は,感情的な圧力を掛けざるを得ないと感じるかもしれません。妻はそうした戦術をほしいままにするべきでなく,夫も妻にそうせざるを得ないような気持ちにさせるべきではありません。
26 確かに,気分のすぐれない時もあるでしょう。泣きたくないと思っても涙が止まらないかもしれません。しかし,それは,自分を通そうとして,非常に激しい感情的な場面を演じることとは異なります。
27 真に妻を愛している夫はほとんど例外なく,個人的な好みが関係している場合に自分よりも妻を喜ばせるものです。ご主人を喜ばせてください。そうすればご主人はおそらくあなたを喜ばせる機会を捜されるでしょう。
「黙っている時と話す時」
28-35 (イ)夫が妻と話すのを難しくする恐れのある会話の習慣を述べなさい。(ロ)夫婦の会話を改善するのにどんなことができますか。
28 多くの妻は,「主人はわたしに決して話し掛けてくれない」とこぼします。夫に非があるのかもしれません。しかし,多くの場合,夫は妻と話したいと思っています。ところが,そうするのを妻が難しくしているのです。どのようにしてでしょうか。女性という女性がみな同じだというのではありません。しかし次の点のどれかに思い当たるふしがないかどうか自問してみてください。
29 まず最初は,近所の他の女性とは何の問題もなくおしゃべりをする女性です。そのような女性の話し方はどうでしょうか。相手の人が息をつくために話をやめると,すぐに割り込みます。2,3の質問を投げかけるか,あるいは全く別のことについて話し出します。間もなく,話をさえぎられた方の女性が割り込んで,ひとしきり話を独占します。そしてふたりとも,こうした飛び入り勝手な会話を気にしていないようです。
30 さて,この女性の夫が帰宅します。夫は妻に知らせるニュースを持っていて,家にはいると,『きょうは会社でとても変わったことがあってね……』と話し始めます。しかし次の言葉を言わないうちに妻がその話の腰を折り,『どこでコートにしみをつけたの。歩くところに気をつけてね。床を掃除したばかりなんですから』と言います。これでは夫は話の先を続ける気になれないかもしれません。
31 あるいはふたりが友人たちを交えて話をしていて,夫が何か経験を話しているかもしれません。しかし夫は細かな点をいくつか言い落とすか,または正確でないところが時々あります。すると妻が口をはさみ,まず誤りを正してから詳しく話します。間もなく夫は深いため息をつき,『君が話せばいいさ』と言います。
32 夫に話させようとするタイプの女性もいます。そういう女性は何気ない様子をしながらも,好奇心にかられて,『どこにいらっしゃったの』,『そこにだれがいたの』,『どんなことがあったの』といった質問をします。彼女に関心があるのは,月並な事柄ではなくて,内密にされていそうな事柄なのです。こまぎれの情報を拾い集め,足りない部分は想像で補います。その中には夫がもらすべきでなかった情報があるかもしれず,妻と話し合うのは差し支えなくても内密に保つべき情報もあるかもしれません。妻がそのことを他の人々に話すなら,秘密は知られてしまいます。「他人の内密の話を明かしてはならない」と箴言 25章9節(新)は警告しています。しかし,妻がそういうことをするなら,問題が起こりかねません。夫はそれから先,本当に気を許して妻と話せる,と考えるでしょうか。
33 しかし,三番目のタイプの女性は,自分自身が無口な人です。必要な家事の仕方は知っていますが,数語以上話すことはめったにないというタイプの女性です。その人と会話をしようとする人は,自分ばかり話をしなければなりません。このタイプの女性は恐らく内気なのか,あるいは子供のときに教育を受ける機会があまりなかったのかもしれません。理由はともかく,その女性と話そうとする努力は全く効を奏しません。
34 しかし,変化は可能です。会話の技術は学べるものです。主婦が家事だけでなく,健全な読書や他の人々への親切な行ないをするなら,夫と話し合える建設的な話題が持てます。じょうずに会話をするには自分もそれに加わることが必要です。また敬意を示すことも大切です。夫に最後まで話させるだけの,夫に自分の好きなように話させるだけの,そして,どんなときに物事を内密にしておくべきかを知るだけの敬意が必要なのです。伝道之書 3章7節(新)には,「引き裂く時と縫い合わせる時,黙っている時と話す時」があると述べられています。
35 ですから,主人はめったに話し掛けてくれないとこぼす代わりに,ご主人が話を楽しめるように努めてはいかがですか。ご主人のすることに関心を持ってください。ご主人が話すとき,熱心に聞いてください。ご主人に対する温かい愛と深い敬意のこもった反応を示してください。あなたが主に話す事柄はぜひとも積極的で築き上げる性質のものであるようにしてください。そうすれば,やがて,会話がふたりにとって楽しいものになっていることに気づかれるでしょう。
『ことばによらずに引き寄せられる』
36-38 仲間の信者でない夫の心を動かすにはどんな方法がありますか。
36 時には,言葉よりも行状のほうが雄弁です。神のみ言葉を信じている仲間でない夫の場合は特にそうです。使徒ペテロはそういう夫について「ことばによらず,妻の行状によって,つまり,深い敬意のこもったあなたがたの貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです」と述べています。(ペテロ第一 3:1,2)妻が絶えず自分に「伝道する」とこぼし,そのことを憤慨する未信者の夫は少なくありません。それとは対照的に,神のみ言葉の真理によって妻が変化したのを見て信者になった夫もいます。人々は説教を聞くよりも,それが実践されているところを見ることによって心を動かされるものです。
37 未信者の配偶者に話すときには,聖書に述べられているように,「あなたがたの発することばを常に慈しみのあるもの」,「塩で味つけられた」味わいのあるものとしてください。話すにも時というものがあります。「時宜にかなって話される言葉は,銀の彫り物の中にある金のりんごのようだ」と聖書は述べています。ご主人は何かのことで気落ちしておられますか。職場でうまくいかないことがあったのかもしれません。今あなたが2,3の理解ある言葉をかけるなら,それはご主人にとってとてもうれしいことかもしれません。『快いことばはみつばちの巣です。魂に甘く,骨の癒しです』。(コロサイ 4:6。箴 25:11; 16:24,新)あるいは,状況によっては,ご主人の手をそっと握るだけで,わたしにはわかっています,わたしはあなたの味方です,わたしにできることならご援助します,という気持ちがすべて伝わるでしょう。
38 たとえご主人が自分と信仰を同じくしていなくても,神のみ言葉によれば,あなたは夫に服さねばなりません。あなたの良い行状はやがてご主人を引き寄せ,ご主人も信仰を持つようになるかもしれません。それはどんなに喜ばしい日になることでしょう。その日が来たなら,ご主人は,あなたを愛すべきさらに多くの理由に気づかれるでしょう。なぜなら,あなたの献身的な愛は正しいと信ずる事柄に対する確固たる態度と相まって,ご主人が「真の命」をとらえる助けになるでしょうから。―コリント第一 7:13-16。テモテ第一 6:19。
39,40 テトス 2章4,5節に挙げられているどんな資質を持つ妻は,夫ばかりか神にとっても貴重ですか。
39 聖書は,夫が信者であろうと未信者であろうと,クリスチャンの妻たちに次のような励ましを与えています。「夫を愛し,子どもを愛し,健全な思いを持ち,貞潔であり,家事にいそしみ,善良で,夫に柔順である」べきであり,「こうして神のことばがあしざまに言われることのないようにするためです」。―テトス 2:4,5。
40 妻であるあなたが,このことを精一杯行なうなら,あなたはご主人からだけでなく,エホバ神からも深く愛されるでしょう。
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「有能な妻……その価値は,さんごのそれをはるかにしのぐ」― 箴 31:10,新。
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サムソンの人生に登場した女たち
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愛,「結合の完全なきずな」あなたの家族生活を幸福なものにする
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6章
愛,「結合の完全なきずな」
1-6 (イ)夫婦がそれぞれ自分の感情にとらわれすぎるとどんなことになりかねませんか。(ロ)どんな聖書的な原則に留意するなら,深刻な口論にまでエスカレートするのを防げますか。
『ぼくたちはどうして時間通りに夕食ができないんだ』と,一日の激務に疲れ切った夫は待ちくたびれてどなります。
2 『がみがみ言わないでよ。もうほとんどできてるのよ』,妻はかっとなって言い返します。妻の一日も楽ではなかったのです。
3 『だって,おまえはいつも遅いじゃないか。いったいどうして時間通りにできないんだ』。
4 『そんなことないわ。でも,いつかあなたが子供たちの世話をしてごらんなさいよ。そしたらそんなにがみがみ言わないでしょうよ。あの子たちはあなたの子供でもあるんですからね』と,妻は叫びます。
5 こうして,夫婦間のこのもぐら塚のようなちょっとしたことは山のように大きくなり,ふたりとも腹を立てたまま口をきかなくなります。売り言葉に買い言葉を返しているうちに,とうとうふたりとも傷付き憤慨し,全く不愉快な晩になってしまいます。どちらか一方が,そこまでエスカレートするのを防げたはずです。しかし実際には,ふたりとも自分の感情にとらわれすぎて相手の感情のことを少しも考えませんでした。緊張した神経が急に耐えられなくなってしまいました。
6 こうした問題はいろいろな面で起こり得ます。金銭に関する場合もあるでしょう。あるいは,妻の所有欲が強すぎて他の人々との交友を楽しませてくれない,と夫が感じる場合もあるかもしれません。妻の方は,自分が無視され,いるのがあたりまえとみられているように感じるかもしれません。大きな問題や,幾つかの小さな問題が原因で緊張が生じることもあるでしょう。いずれにしても,今わたしたちが考えたいのは,そういう状況にどう取り組むかということです。夫婦のどちらか一方が,進んで『他のほほを向け』,『悪に悪を返す』のではなく,むしろ『善をもって悪を征服する』ことに率先するなら,問題が大きくなるのを食い止めることができます。(マタイ 5:39。ローマ 12:17,21)それには自制と円熟性が必要です。クリスチャンの愛が求められます。
愛の本当の意味
7-9 (イ)コリント第一 13章4-8節には愛がどのように説明されていますか。(ロ)それはどんな種類の愛ですか。
7 エホバ神は,愛がどういうものでありどういうものでないかを,コリント第一 13章4節から8節に霊感によって書き記させ,愛を定義づけられました。それは次のとおりです。「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだらなふるまいをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいらだちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を喜ばないで,真実なこととともに喜びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべてのことを希望し,すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません」。
8 愛は,身体的な魅力,家族関係,あるいはいっしょにいることがどちらにとっても楽しいといったことなど,多くの事柄に根差していることでしょう。しかし,聖書は,愛が真の価値を持つには,愛情すなわち相互に感じる魅力を超越し,愛している人の最善の益になる事柄に支配されるものでなければなりません。その種の愛には戒めや懲らしめを与えることも含まれています。親が子供を,あるいはエホバ神がご自分の崇拝者を戒め懲らしめるのがすなわちそれです。(ヘブライ 12:6)むろん,真の愛には情緒や感情もありますが,しかしそれにおぼれて,他の人々を扱う際に賢明な判断や正しい原則を曲げるようなことはしません。そのような愛は,すべての人を,思いやりと公正という優れた基準に従って扱うよう人を動かします。
9 そのような愛がわたしたちの家族生活をどう益するかを一層深く認識するために,コリント第一 13章4-8節に示されている定義をさらに掘り下げて考えてみましょう。
10,11 辛抱強く親切な配偶者とはどんな人ですか。
10 「愛は辛抱強く,また親切です」。あなたは配偶者に対して辛抱強いでしょうか。雲行きが悪くなってきて,不当な非難を浴びせられるような場合でも,自分を制しますか。エホバはわたしたちすべてに対して辛抱強くあられ,『神の温情が人々を悔い改めに導こうとしています』。辛抱強さも親切も神の霊の実です。―ローマ 2:4。ガラテア 5:22。
11 愛は悪行をよしとはしませんが,ささいなことに“うるさく”はありません。愛は短気ではなく,情状酌量の余地ある事情を考慮に入れます。(ペテロ第一 4:8。詩 103:14; 130:3,4)また,重大な問題の場合でも,愛は許すことにやぶさかではありません。使徒ペテロは,「兄弟がわたしに罪をおかすとき,わたしはその人を何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか」とイエスに尋ねたとき,自分は辛抱強いと考えていたにちがいありません。イエスはこうお答えになりました。「七回までではなく,七十七回までです」。(マタイ 18:21,22。ルカ 17:3,4)愛は何度も許し,どこまでも親切です。あなたはそうですか。
12,13 ねたみはどのように現われることがありますか。それを常に抑える努力をしなければならないのはなぜですか。
12 『愛はねたみません』。全く根拠がないのにしっとする配偶者と生活するのは容易ではありません。そういうしっと心は疑い深く,所有欲の強いものです。そして子供じみていて,相手が他の人々の間で自然に,親しく振る舞えないようにしてしまいます。人の幸福は惜しみなく与えることにあるのです。
13 「ねたみの前にはだれが立ち得よう」と,聖書は述べています。ねたみは不完全な肉の業の一つです。(箴 27:4,新。ガラテア 5:19,20)あなたには不安な気持ちからいろいろなことを想像してしっとするような徴候が何か見られますか。他人の欠点は容易に見つけられるものです。しかし,自分を吟味することにはもっと多くの益があります。「ねたみや闘争心のあるところには,無秩序やあらゆるいとうべきものがあるからです」。(ヤコブ 3:16)しっと心は結婚生活を台なしにしかねません。配偶者を引き止めるものは,しっとから設けたいろいろな制限ではなく,やさしい心づくしや思いやりや信頼です。
14,15 (イ)自慢することはなぜ愛の欠如を示しますか。(ロ)配偶者をけなすかわりに,何をすべきですか。
14 愛は『自慢せず,思い上がりません』。自慢する人は確かにたくさんいますが,自慢話を聞くのが好きな人はまずいません。実際,自慢する当人をよく知っている人ならだれでもその自慢話を聞くといやな気持ちになるでしょう。ある人々は自分のことを誇らしげに話すことによって自慢しますが,別の方法でこれをする人たちもいます。つまり他の人々を批判し,けなすわけですが,それはとかく批判者が批判される人と自分とを比較して自分を高めることになりがちです。比較してみると,とかく批判した人が批判された人より高められがちです。ですから,人は他の人を低めることによって自分自身を高めることもあるのです。配偶者をけなすことは実際には自分を誇る方法のひとつです。
15 あなたは人前で配偶者の欠点を言いふらしたことがありますか。それを知ったなら,あなたの配偶者はどんな気持ちになると思いますか。もしあなたの方が,欠点を言いふらされる側だったらどうでしょうか。どんな気持ちがするでしょうか。愛されていると感じますか。そうではないはずです。愛は,自分をほめたり他の人をけなしたりして『自慢することはない』からです。配偶者のことを話すときには建設的であってください。そうすればふたりのきずなは強くなります。そして自分について何を話すかに関しては,箴言 27章2節の次の賢明な助言に従ってください。「自分の口にではなく,ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇にではなく,見知らぬ者に」― 改訂標準訳。
16 愛のある人であれば避けるみだらな振る舞いにはどんなものがありますか。
16 愛は『みだらなふるまいをしません』。姦淫,酔酒,かんしゃくを起こすことなど,はなはだしくみだらな行為はたくさんあります。(ローマ 13:13)愛とは著しく対照的にそうした行為はいずれも結婚のきずなを害します。体を清潔にしないことばかりでなく,粗野なこと,下品な話や行ないなどもみな,人間としての品位に欠けていることを示します。あなたはこの点で配偶者に不快な感じを与えないように,どれほど気をつけているでしょうか。思いやりと敬意をもって,礼儀正しく接しますか。こうした事柄はすべて,結婚生活を幸福で永続的なものにするのに寄与します。
17 自分自身の益を求めない人は,争いをどのように避けることができますか。
17 愛は「自分の利を求めず,刺激されてもいらだちません」。愛は自己中心的ではありません。この章の初めに登場した夫婦がもし自己中心的でなかったなら,事情はもっと違っていたことでしょう。夫は,夕食が遅いからといって妻をどなりつけたりしなかったでしょうし,妻もかっとなって言い返したりしなかったでしょう。夫は疲れも手伝っていらいらしているのだということを洞察していたなら,妻は腹を立てずにこう答えたかもしれません。『食事はほとんどできています。お仕事たいへんだったでしょう。すぐに出しますからそれまで冷たいジュースでも召し上がっててくださいませんか。今差し上げますから』。あるいは,夫にもっと理解があったなら,自分のことだけを考えずに何か手伝えることはないか,と聞いたかもしれません。
18 愛は,人が腹を立てるのをどのように防げますか。
18 あなたは配偶者の言うことや行なうことにすぐ腹を立てますか。それとも言葉や行ないの背後にある意図を悟るように努めるでしょうか。それは不用意だっただけで悪気はなく,怒らせるつもりはなかったかもしれません。あなたに愛があるなら,『怒り立ったまま日が沈むことはないでしょう』。(エフェソス 4:26)配偶者が欲求不満を感じていて,気にさわることをわざと言ったりしたりするならどうでしょうか。あなたは感情が静まるまで待ってから話し合うことができますか。ふたりの最善の益を心に留めて事態に臨むなら,適切なことが言えるでしょう。『賢い者の心はその口に洞察力を示させます』。「違犯を覆う者は愛を求め」,争いに油をそそぐようなことはしません。(箴 16:23; 17:9,新)議論を続けて自分の正しさを証明しようとする衝動を押し静めるなら,愛のきずなを保つ点で勝利を得ることができます。
19 (イ)『不義を喜ぶ』ことにはどんなことが含まれますか。(ロ)なぜそれを避けるべきですか。
19 真の愛は「不義を喜ばないで,真実なこととともに喜びます」。時間やお金の使い方についてであろうと,あるいは交わりについてであろうと,真の愛は配偶者を欺くことを利口なやり方だとは考えません。また,正しく見せかけるために半分だけ本当のことを話すような手を使うこともしません。不正直は信頼を台なしにしてしまいます。真の愛が存在するには,夫婦双方が真実を語ることを喜びとしなければなりません。
真の愛には強さや忍耐力がある
20 愛はどのように(イ)『すべての事に耐えますか』。(ロ)『すべての事を信じますか』。(ハ)『すべてのことを希望しますか』。(ニ)『すべての事を忍耐しますか』。
20 愛は「すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべてのことを希望し,すべての事を忍耐します」。愛は結婚生活がもたらすストレスや緊張に耐えます。その間に,夫婦という親密な関係にあるふたりは融通をきかせることや,お互いに相手に合わせることを学びます。愛は,神のみ言葉に述べられているすべての助言を信じ,たとえ状況が不利に見えても,それらの助言に誠実に従います。不正直なことをする人々にだまされやすいわけではありませんが,過度に疑い深くもありません。むしろ,愛は信頼を示します。そのうえ,最善を希望します。その希望は,聖書の助言に従うとき可能な限りの最善の結果が得られるという堅い確信に基づいています。したがって,愛は積極的に,楽観的に,また前向きになれます。さらに,愛は気まぐれでなく,一時的な盲目的愛情でもありません。真の愛は忍耐強く困難なときにも問題に立ち向かいます。愛には持久力があります。また強さもあります。しかし,それほどの強さがあるにもかかわらず,愛は親切でやさしく,融通性があり,共に暮らすのが楽です。
21,22 愛が決して絶えないことを示す例を挙げてください。
21 そういう「愛は決して絶えません」。不景気のためにふたりが財政困難に陥ったなら,どうなるでしょうか。どこか他の場所にもっと楽な生活を求めることを考えるかわりに,真の愛を持つ妻は夫に忠実に寄り添って,倹約することに努め,また夫の収入を補おうとするでしょう。(箴 31:18,24)しかし,妻が何年も治らない病気になったならどうでしょうか。真の愛を持つ夫は,妻に必要な世話をし,妻ができない家事を行ない,引き続き献身的な愛を抱いていることを確信させるために,できるだけのことをします。神ご自身はその面で模範を示しておられます。ご自分のしもべがどんな事態に陥ろうと,『何ものも神の愛から彼らを引き離すことはできません』― ローマ 8:38,39。
22 そのような愛に打ち勝てる問題が一体あるでしょうか。あなたの結婚生活にはそのような愛がありますか。あなた個人はそのような愛を実践しておられるでしょうか。
愛を成長させる
23 わたしたちが愛のある行ないをしようとするかどうかを決めるのは何ですか。
23 愛は,筋肉のように,働かせると強くなります。一方,愛は,信仰と同様,業がないなら死んだものです。わたしたちの内奥の感情を動機とする言葉と行為は,心から出るもので内面の動機を表わすと言われています。『心に満ちあふれているものの中から口は語ります。善良な人は自分の良い宝の中から良いものを出します』。しかし,内に持っている感情が邪悪であれば,「心から,邪悪な推論,殺人,姦淫,淫行,盗み,偽証,冒とくが出て来ます」。―マタイ 12:34,35; 15:19。ヤコブ 2:14-17。
24,25 愛を示す動機はどのようにして強めることができますか。
24 あなたは心の中でどのような考えや感情を培っているでしょうか。神がどのように愛を示してこられたかを日々黙想し,その模範に見ならおうとするなら,立派な動機を強めることができます。この愛を実践すればするほど,そしてこの愛に調和した言動をすればするほど,愛はあなたの心にいっそう深く刻み込まれます。小さな事にでも日々この愛を実践するなら,それは習慣になるでしょう。ですから,たまに大きな問題が生じても,その愛はそこにあってゆるぎないものになっているので,問題に対処する助けになります。―ルカ 16:10。
25 あなたは配偶者にほめるべき点があるのに気づいていますか。それを口に出してください。親切にしたいという衝動を感じますか。ではその衝動に従ってください。愛を刈り取るには愛を示さねばなりません。これらの事柄を実践するならあなたとあなたの配偶者はいっそう引き寄せられ,ふたりが一つとなり,お互いの愛は成長します。
26,27 物事を共にすることはどのように愛を増し加えますか。
26 愛を豊かにするには,それを分かち合わねばなりません。最初の人間アダムは楽園に住んでいました。物質的な必要物すべては豊かに備えられていて,最初から美しいものに囲まれていました。草原や花,森や小川のほかに,地の管理者アダムの支配に服する種々様々な動物がいました。このようにすべてが備わっていたにもかかわらず,一つ欠けていたものがありました。その美しい楽園に住む喜びを共にする人間がいなかったのです。あなたはひとりで華やかな夕焼け空をうっとりとながめながら,愛する人がそばにいてこれをいっしょにながめることができたらどんなにいいだろう,と思ったことはありませんか。あるいは,胸を躍らすすばらしいニュースがあるのに,それを話す相手がだれもいないというような経験をしたことはありませんか。エホバ神はアダムの必要をよく知っておられて,アダムが自分の考えていることや感じていることを話し合える配偶者をお与えになりました。考えや感情を共にすることはふたりの人を結び付け,愛が根を降ろして成長するのを助けます。
27 結婚は分け合うことです。部屋のあちらとこちらで愛情のこもったまなざしを送るとか,触れ合うとか,やさしく話しかけるとか,何も言わずにふたりでのんびりと腰を掛けているといったこともあるでしょう。ベッドを整えること,皿洗い,予算がないので買いたいものがあっても言わないで少しずつ貯金すること,夫婦のどちらかがためてしまった仕事をもう一方が手伝うことなど,すべての行ないは愛の表現となり得ます。愛は,仕事や娯楽,苦しみや喜び,成功や失敗,頭で考えていることや心に感じていることを共にすることを意味します。共通の目標を持ち,共にそれに達するようにします。それこそふたりを一体にし,愛を成長させるものです。
28 仕えることはどのように愛を豊かにしますか。
28 配偶者に仕えることは,配偶者に対する愛の成熟を助けます。普通,妻は料理をし,寝床を整え,掃除や洗たくをし,家の仕事をして仕えます。夫はたいてい,妻が料理する食料,妻が整える寝具,妻が掃除する家,妻が洗たくする衣類を備えることによって仕えます。このように仕え,このように与えることこそ,幸福を生み,愛を育てるのです。イエスがおっしゃったとおり,受けるより与えるほうが幸福です。言い換えれば,仕えられるよりも仕えるほうが幸福です。(使徒 20:35)またイエスは弟子たちに,「あなたがたの中で最も偉い者はあなたがたのしもべでなければなりません」と言われました。(マタイ 23:11,新英訳聖書)この見方はどんな競争心をも排除して幸福に寄与します。人に仕えるとき,わたしたちは自分が必要とされていることを感じ,一つの目的を果たしています。そして,そのことはわたしたちに自尊心と満足感を与えてくれます。結婚生活には,仕えることによってそうした満足感を得る十分の機会が夫婦双方にあります。こうしてその結婚生活は愛によってさらに強固にされます。
29 愛は,神のしもべでない人々の心にも訴える力があるのはなぜですか。
29 夫婦の一方が神のしもべで,こうした聖書の原則を実践するクリスチャンであり,他方がそうでない場合はどうでしょうか。それによってクリスチャンとしての振る舞い方は変わるでしょうか。基本的には変わりません。クリスチャンである配偶者は神の目的についてそれほど多く話さないかもしれませんが,その振る舞いは同じです。未信者の配偶者が基本的に必要としているものは,神の崇拝者が必要としているものと変わりませんし,ある点についてはどちらも同じような反応を示します。そのことはローマ 2章14,15節に次のように述べられています。「律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法中の事がらを行なう場合,その者たちは律法を持っていなくても,自分自身が律法なのです。彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が当人とともに証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです」。クリスチャンの立派な振る舞いはたいてい感謝され,愛を成長させます。
30 愛は劇的な事態が生ずるときだけ表わすものですか。あなたの答えの理由を述べてください。
30 愛は,劇的な事態が生ずるのを待ってはいません。いくつかの点で愛は服に似ています。服は何によってその形をなしているでしょうか。太い綱を結び合わせた数個の大きな結び目で服の形になっていますか。それとも,無数の細かな糸の縫い目によってでしょうか。無数の細かな糸の縫い目です。そのことは,文字通りの服についても,霊的な「外衣」についても言えます。わたしたちが「身につける」そしてわたしたちがどんな者かを明らかにするのは,日常のちょっとした言葉や行ないの積み重ねです。そうした霊的な“服”は,物質の衣服のようにすり切れることも価値を失うこともありません。聖書が述べている通り,それは「朽ちない装い」です。―ペテロ第一 3:4。
31 コロサイ 3章9,10,12,14節には愛に関してどんな優れた助言が記されていますか。
31 あなたは,結婚生活が「結合の完全なきずな」で結ばれていることを望まれますか。では,コロサイ 3章9,10,12,14節の次の勧めを実行してください。「古い人格をそのならわしとともに脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい。……優しい同情心,親切,へりくだった思い,柔和,そして辛抱強さを身に着けなさい。……愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」。
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子供を持つことに伴う責任と報いあなたの家族生活を幸福なものにする
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7章
子供を持つことに伴う責任と報い
1-4 (イ)胎児の発育で驚嘆すべき点を幾つかあげなさい。(ロ)そうした事柄を知っていると,詩篇 127篇3節を理解するのにどのように役立ちますか。
子供が生まれて来ると思うと,胸がはずむと同時に厳粛な気持ちになるものです。子供の誕生は確かに人間の間で日常起きている事柄です。しかし,どの子供の誕生も驚くべき複雑な過程を経た結果です。その過程をいくらかでも理解するなら,霊感を受けた詩篇作者が感動して次のように語った理由がいっそうよくわかります。「見よ! 息子たちはエホバからの相続財産,胎の実は報いである」。(詩 127:3,新)では,その点を考えてみましょう。
2 男子の精子が女子の卵子と結合します。二つの細胞は一つになり,それが分裂を始めて二つの細胞になります。そして二つが四つになり,四つが八つになりして,ついにはこの一つの細胞は,成人で推定60兆個の細胞になります。初め新しい細胞はどれも同じですが,やがて骨の細胞,筋肉の細胞,神経の細胞,肝臓の細胞,目の細胞,皮膚の細胞等々に変化しはじめます。
3 生殖と分化の神秘はいくらか解明されていますが,多くは依然としてなぞに包まれています。最初の細胞に分裂を開始させるのは何でしょうか。分裂が続いているときに,細胞を多くの異なる種類に変化させ始めるのは何でしょうか。それら異なる種類の細胞がいっしょになって特定の形や大きさや機能を有するようになり,肝臓,鼻,小さな足指などになりますが,何がそうさせるのでしょうか。しかも,その変化は前もって調節されている時間に生じ始めます。その時間表をコントロールしているのは何でしょうか。さらに母親の胎内で成長している胎芽は,母親と異なる遺伝的構成を持つ一個の個体です。普通,母親の体は異質の組織を拒否します。他人の皮膚や器官を移植された場合がその例です。それなのに,なぜ母体は,遺伝的に異質な胎芽を拒否せず,約280日間も養うのでしょうか。
4 エホバ神は,精子と卵子が結合してできた一つの細胞の中に活動のプログラムを組み込まれたので,それら驚くべき活動はすべて予定通りに起きます。詩篇作者は次のように述べてそのことを言い表わしています。「あなたの目は胎児のわたしをさえご覧になりました。そしてあなたの書の中にそのすべての部分は書き記されていました。それらが形造られた日々に関して,そしてそれらの中の一つもまだなかった時に」― 詩 139:16,新。
発育と誕生
5-8 妊娠4週間目から出産までの間に,子宮内で起きる事柄をあげなさい。
5 胎芽は急速に発育します。4週間で,脳,神経組織,循環組織が備わり,心臓は,すでにできている血管に血液を送っています。血液は,6週間は卵黄嚢によって作られ,次いで肝臓がその働きを引き継ぎ,最終的に骨髄がそれを引き受けます。5週間目には腕と脚が形成され始め,さらに3週間たつと,手足の指が現われます。7週間目までには,目,耳,鼻,口のほかに,主要な筋肉グループができあがります。
6 詩篇作者は言葉を続けて,「わたしの骨はあなたから隠されてはいませんでした。わたしがひそかに造られた時」とエホバに語っています。(詩 139:15,新)9週間目には,軟骨が硬い骨になって骨格が形成されます。発育途上の赤ちゃんは今や胎芽ではなくて胎児と呼ばれます。『あなた自らがわたしの腎を作り出されました』。(詩 139:13,新)神によって定められた過程を経て腎臓が形成されるのは4か月目で,そのときから腎臓は血液をろ過します。
7 そのころになると,胎児は,手のひらや足の裏がむずむずすると体を動かしたりねじったり,手足の指を曲げたりします。一本の指と親指とで物をつかむとか,親指を吸うようなこともします。そのようにして,後日母親の乳を吸う時に使う筋肉を運動させるのです。胎児はしゃっくりをします。母親はそれをおなかの子供が飛び上がっているように感じます。6か月目までには多くの器官はほぼ完成しています。鼻腔が開き,まゆ毛も現われました。間もなく目が開き,耳も聞こえるようになるでしょう。ですから,子宮の中にいても大きな音にびっくりすることがあるのです。
8 40週間して,陣痛が始まります。母親の子宮の筋肉が収縮し,赤ちゃんはこの世に現われ始めます。分べん中に,赤ちゃんの頭は圧迫されて変形することがよくありますが,頭がい骨はまだ固まっていないので,分べん後に正常な形にもどります。この時まで,母親は赤ちゃんのために一切のことをしてきました。酸素や食物を供給し,保護し,温め,廃せつ物を除くこともしました。これからは赤ちゃんは自力で活動しなければなりません。しかも,すぐにです。でなければ死んでしまいます。
9 赤ちゃんが子宮の外で生きるには,どんな変化が直ちに起きなければなりませんか。
9 肺が酸素を血液に送れるように,赤ちゃんは呼吸を始める必要があります。しかし,それをするには,もう一つの大きな変化が即時に起こらねばなりません。つまり血液の循環経路が変化しなければならないわけです。子宮内にいるあいだ,胎児の心臓の壁には一つの穴がありました。その壁は心房を左右に分け,胎児の血液の多くを肺の方へ行かせないようにしています。肺の方へ行った血液は,大きな血管によって肺には行かないようにされています。子宮内では,血液の約1割ばかりが肺を通ります。ところが,誕生後は全部の血液が,しかも直ちに,肺に行かねばなりません。それで,肺に行かない別の道を通っていた大きな血管は誕生後数秒以内に萎縮し,その中を通っていた血液は肺へ行きます。そのうちに,心臓の壁の穴は閉鎖し,心臓の右側から送り出された血液は全部肺へ行って酸素を受け取ります。赤ちゃんが呼吸をし血液に酸素が取り入れられ劇的な変化が生じて,赤ちゃんは生き続けます。詩篇作者はそれを次のように見事に要約しています。「あなたはわたしをわたしの母の胎の中で仕切られた状態に保たれました。わたしはあなたをほめたたえます。わたしは恐るべく,くすしく造られているからです」― 詩 139:13,14,新。
10 胎児の驚嘆すべき発育を考えると,親は子供たちのことをどのように感じるべきでしょうか。
10 夫と妻は,エホバのこの賜物をどれほど深い感謝を抱いて見ることでしょう。夫婦の一部でありながらどちらとも異なるひとりの子供を生み出す力は,なんとすばらしいのでしょう。確かに子供は「エホバからの相続財産」です!
「相続財産」をはぐくむ
11 子供を持つことを考えている人々は何を自問すべきですか。それはなぜでしょうか。
11 エホバ神が,性関係を夫婦だけに限られるものとする律法を設けられたのは,道徳的な理由からだけではありませんでした。エホバは子供の誕生のことも念頭に置いておられたのです。互いに愛し合い,自分たちの子供をも愛しいつくしむ父親と母親の両方を子供は必要とします。生まれたばかりの子供は,その子供を望んでいて,子供の成長と人格形成に必要な環境を備える両親のいる家庭の,温かさと安全を必要とします。子供を持つことを考えている夫婦は次の点を自問してみなければなりません。自分たちは子供が欲しいと思っているだろうか。子供が身体的に必要とするものだけでなく,感情的に,また霊的に必要とするものを与える力があるだろうか。子供を正しく訓練し,子供が見ならえる正しい模範を示すだろうか。親としての責任を喜んで受け入れ,それに伴う犠牲を払う気持ちがあるだろうか。わたしたちは子供のときには,親に縛りつけられるように感じたかもしれませんが,自分が親になってみると,子供を育てることがどれほど時間のかかる仕事であるかよくわかります。しかし,親の責任には大きな喜びが伴い得るのです。
12-14 妊娠した女性は,赤ちゃんの健康な発育を助けるために,(イ)食事(ロ)酒,たばこ,薬剤(ハ)感情の制御などについてどのように気をつけることができますか。
12 夫婦の意志によってであれ,生物学的状況によってであれ,ともかく決定は下され,妻であるあなたは妊娠しました。「エホバからの相続財産」をはぐくむあなたの仕事は始まりました! 食べなくてはならない食物もあれば,避けたり制限したりしなければならない食物もあります。鉄分aの豊富な食物は重要です。赤ちゃんは子宮の中で,誕生後6か月もつだけの鉄分を蓄えつつあるからです。骨を作るのに必要なカルシウムを赤ちゃんに供給するために,牛乳を普段よりたくさん飲む必要があります。炭水化物bの摂取に平衡を保てば,太り過ぎを防ぐのに役立ちます。子供の分とふたりの分食べていることは確かですが,でも,ひとりの方はまだとても小さいのです。
13 他の点は,あなたの生活の仕方によって,考慮すべき場合もありますし,その必要のない場合もあります。アルコール飲料は胎児にアルコールを運びますから注意を要します。過度のアルコールは精神的また身体的な障害を招くことがあります。母親が大酒家だったために,酔って生まれてきた子供たちもいます。喫煙は胎児の血流中にニコチンを入れます。また,喫煙によって血液中の酸素は一酸化炭素に取って代わられます。こうして,誕生以前にすでに,その子供が健康体を持つ者になる見込みが全くなくなることもあるのです。流産や死産はたばこを吸う女性の間に比較的多く見られます。母親が惑でき性の薬を飲んでいると,子供がその中毒にかかって生まれてくることがあります。病気の治療のために飲んだ,惑でき性のない薬でも危険で,子供を奇形にすることがあります。コーヒーの飲み過ぎでさえ,何らかの悪影響があるのではないかと考えられています。
14 さらに母親に感情的なストレスがあると,母体のホルモンの分泌量が変化して,胎児がひどく活動的になり,生まれたときには落ち着きがなくていらいらした子供になっていることもあります。発育途上の胎児は『母の胎の中で仕切られている』と言えますが,周囲の世界から全くしゃ断されていると考えるのは間違いでしょう。胎児は母親を通して外界の影響を受けます。母親は胎児と外界とを結び付けている唯一のものです。したがって,影響の良し悪しに関していわば“運転席”に置かれているのは主に母親です。母親が自分の体にどのように気をつけるか,また種々の状況にどう反応するかは相違をもたらします。ですからその点で母親が周囲の人々の協力,特に夫の愛と世話を必要とすることはいうまでもありません。―サムエル前書 4章19節と比較してください。
決めなければならない事柄
15,16 お産をする場所や方法について何を決めねばならないことがありますか。
15 あなたは病院でお産をされますか。それとも自宅でされますか。選択の余地がほとんどない場合もあるでしょう。病院さえない所も少なくないかもしれません。また地域によっては自宅でお産をする人がめったにいないために,助産婦などの経験者の助けが得られず,自宅分べんには危険が伴うかもしれません。できることなら,妊娠中に医師の診断を受け,正常な分べんを期待できるか,あるいは合併症の起こる可能性があるかどうか調べておくのはいつの場合でも良いことです。
16 麻酔法による分べんをしますか,それとも自然分べんをしますか。これは長所と短所をよく比較検討してから夫婦が決めなければならない問題です。自然分べんなら,夫はその一大事に直接関与できますし,赤ちゃんは直ちに母親のそばに置かれます。検査して正常に分べんできることがわかれば,それらの点は重視すべき長所である,と考える人々もいます。また,研究者の中には,自然分べんの,より穏やかな状態の下で生まれた赤ちゃんの方が,感情的な問題をかかえたり精神身体症にかかったりすることが少ないと主張する人々もいます。
17-19 誕生後できるだけ早く赤ちゃんを母親のそばに置くのが良いかどうかについて,研究は何を明らかにしていますか。
17 1977年12月号の「サイコロジー・ツデイ」誌は次のように述べています。
「子供の生涯の最初の一年が,その後の精神と身体の発育に永続的な影響を与え得ることは,心理学者たちによって何十年も前から知られていた。しかし現在では生まれた最初の日も ― もしかしたら最初の一時間でさえ ― も同じく,極めて重要な時であるように思われる。母親が子供に対して作り上げる感情的なきずな,そして母親が子供にどんな気遣いを示し始めるかは,分べん後とくに重要である。最初の幾時間かが,子供に対する母親の態度の形成,子供に対する母親の責任感の強さ,母親として尽くす能力などと大きなかかわりを持ち得ることも最近の研究によって明らかにされている」。
18 分べん中に母親が全身麻酔をかけられていなければ,赤ちゃんは機敏で,目を開き,あたりを見回すような動作をし,物が動く方向に目を向け,人の声がする方を向き,とりわけ女性の高い声に敏感です。母親と子供の目の接触はすぐに行なわれるようになります。そのことは大切なことのようです。ある研究調査の際に母親たちは,赤ちゃんが自分を見ると赤ちゃんにいっそう親近感を感じると報告しています。誕生直後の母子の身体的接触,膚と膚のふれ合いは,母子双方に益があると考えられています。
19 研究者たちによれば,医学センターで扱われる子供の問題を調べて行くと,誕生直後の数時間に原因を見つけることが時々あるということです。生まれてから病院の標準的な手当てを受けた子供たちと,すぐ母親のそばに置かれた子供たちを比較したところ,一か月後には自然分べんで生まれた子供たちのほうが発育が良好でした。「さらに顕著な点として,母親と長時間接触した子供は五歳のとき,病院の標準的な手順で手当てを受けた子供よりIQ[知能指数]がきわめて高く,言語能力のテストでも良い成績を収めた」と,「サイコロジー・ツデイ」誌は述べています。
20 こうした事柄について賢明な決定を下すには,ほかにどんなことを念頭に置いていなければなりませんか。
20 しかし,こうした事柄すべてにおいて,種々の事情を慎重に検討する必要があります。わたしたちが見失ってならないことは,人間の最初の両親がわたしたちに不完全さという遺産を残した事実です。そのために,今日の“自然分べん”には必然的にその自然さが幾分欠けていますし,またわたしたちが持っている遺伝的な欠陥がいろいろな問題を引き起こさないとは言えません。(創世 3:16; 35:16-19; 38:27-29)ですからそれが他の人々の望む“理想的な”分べんの方法であっても,あるいはなくても,あなたはあなた個人の事情と,あなたが自分にとって最善と考える事柄とに従って決定することです。
21,22 母乳を与えることにはどんな利点がありますか。
21 あなたは赤ちゃんを母乳で育てるつもりでしょうか。母乳を与えることには母子双方に多くの利点があります。母乳は乳児にとって完全な食物です。消化しやすく,病気の感染や腸の異常,呼吸障害を予防します。最初の数日間は乳房から初乳が出ます。初乳は黄色の液体で次の理由から新生児に特に適しています。(1)脂肪と炭水化物の含有量が少ないので消化しやすい。(2)数日後に出て来る母乳よりも免疫体の含有量が多い。(3)初乳にはいくらか下剤の作用があるので,誕生前に赤ちゃんのおなかにたまっていた細胞や粘液や胆汁を除去する役目を果たす。
22 母乳を与えると母親にも益があります。赤ちゃんがお乳を吸うと,子宮が刺激されて収縮するために出血が少なくなります。また乳房も乳汁をたくさん出すように刺激されます。乳が十分出ないのではないかと心配していた母親はその心配がないことを知ります。母乳を定期的に与えると,排卵と月経の再開が延びる場合があります。ですから母乳を与えることは,その間自然の避妊になることが多いのです。アメリカがん協会は,「母乳を与える母親が乳がんにかかる例は比較的に少ない」と述べています。さらに母乳は家計の助けにもなります。
子供の発育 ― あなたは矢のねらいをどこに定めますか
23 詩篇 127篇4,5節には子供のしつけに関するどんな原則が示唆されていますか。
23 「人の若い時の子供たちは,戦士の手にある矢のようだ。矢筒に矢が満ちている人は幸いである」。(詩 127:4,5,アメリカ訳)矢の価値は,それが弓を離れる前にどれだけうまくねらいを定められているかによって決まります。的を射るには注意深く上手に矢のねらいを定めなければなりません。それと同様に,親が,子供に人生への出発をどのようにさせるかを祈りを込めて賢明に熟考することはたいへん重要です。子供が自分の手もとを離れるとき,他の人々から尊敬される平衡の取れた円熟した大人になり,神に誉れをもたらすでしょうか。
24 (イ)親は子供たちのためにどんな家庭環境を作るように努力すべきですか。(ロ)それはなぜ大切ですか。
24 育児としつけに関しては,子供の誕生以前に決めておくべきです。最初に生まれた子供にとって基本的には両親がその子供の全世界です。ではその世界はどのような世界でしょうか。そこには,親が神のみ言葉の次のような助言を心に留めていることが表われているでしょうか。「すべて悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪とともにあなたがたから除き去りなさい。そして,互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたも互いに惜しみなくゆるし合いなさい」。(エフェソス 4:31,32)家庭生活がどのようなものであれ,それは幼い子供に反映します。ですから赤ちゃんの世界を平和で安全なもの,温かで愛のあるものにするように努力することが必要です。かわいがられる赤ちゃんはそれらの資質を吸収し,それらは赤ちゃんの感情を形成します。赤ちゃんはあなたの感情を感じ取り,あなたの模範に従うのです。創造者がお定めになった遺伝の法則によって,子宮内には赤ちゃんの発育のためのすばらしい備えが設けられます。では,あなたは子宮から出て来た赤ちゃんをどのような者にするでしょうか。それはあなたが作り出す家庭の状態に大きく依存しています。それは遺伝子と同じほど,赤ちゃんがどんな大人に成長するかを決定します。『少年をその道に従って訓練してください。年老いても,彼はそれからそれて行くことはないでしょう』― 箴 22:6,新。
25,26 親が子供たちに多くの時間をかけ,深い注意を払うのは,なぜ道理にかなっていますか。
25 男にしても女にしても,草の葉一枚作ることができません。ところが男女がいっしょになると,きわめて複雑で,地上の他のだれとも異なるもう一人の人間を作ることができます。これは本当に驚嘆すべき偉業です。ですから,今日非常に多くの人がそれに伴う責任の神聖さを認識していないのは信じがたいことです。人々は花を植え,水や肥料をやり,雑草がはびこらないようにします。それは美しい庭を作るためです。では子供たちが美しくなるように,それよりもっと時間をかけ,もっと多くの努力を払うべきではないでしょうか。
26 結婚した男女には子供を持つ権利があります。子供たちには,名ばかりでなくて実質を伴う親を持つ相応の権利があります。神に献身したクリスチャンは一人の弟子を作ることを望んで多くの時間と精力を費やすかもしれませんが,必ずしも成功するとは限りません。ではクリスチャンの親は,『子供をエホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆく』のにさらに多くの時間をかけるべきではないでしょうか。(エフェソス 6:4)もし一人の子供を命の与え主であられるエホバ神のりっぱな僕に育てるなら,それは大いに喜ぶべきことではないでしょうか。そうすればそのような息子あるいは娘をもうけたことは,確かに豊かに報われたことになります。―箴 23:24,25。
27 子供の発育を促す際に,子供自身の個性を考慮すべきなのはなぜですか。
27 詩篇 128篇3節(新)は子供たちをオリーブの木に例えています。「あなたの妻は実を結ぶ,ぶどうの木のようだ,あなたの家の最も内なる所にあって。あなたの息子たちはあなたの食卓の周りにあってオリーブの木のさし枝のようだ」。木は,手を加えるといろいろな形になります。壁にそって平らに生えたり,低く地面をはうような形になったりします。また,盆栽の場合のように,根を切りつめて生長を抑えると,小さな木になります。「苗木を曲げると,その木は曲がった方向に育つ」という古いことわざは,子供の人格形成に幼い時のしつけも大切であることを強調しています。ここで必要なのは平衡の取れた考え方です。正しい基準に従うように子供を導くことは必要ですが,それと同時に,子供はこのような人格を持つべきだと親が考える通りの人間になるように期待すべきではありません。オリーブの木にいちじくの実をならせることはできません。子供は正しくしつけなければなりませんが,あらかじめ決めた型に子供を押し込めてその子供独自の個性を抑え,受け継いでいる賜物をのびのびと発揮できないようにすることはいけません。自分がもうけた子供を時間をかけて知るようにすることが大切です。それから,やわらかい苗木を扱うときと同じように,保護となりまた正しい方向に向ける支えとなるだけの強さと,子供に良い能力を十分に伸ばせるようなやさしさとをもって導いてください。
エホバからの報い
28 創世記 33章5,13,14節にはヤコブが子供に気遣いを示したことが記録されていますが,わたしたちはそれからどんな益を得られますか。
28 昔の人ヤコブは子供たちの世話に心遣いを示しました。旅程のきつい旅をするように提案されたとき,ヤコブは提案した人に次のように言いました。「我が主もお気付きと思いますが,子供たちはか弱く,乳を与えている羊や牛はわたしが世話をしています。一日にあまりに速く進ませるようなことをすれば,きっと群れ全体が死んでしまいます。どうか,我が主は僕より先にお進みくださいますように。そして,わたしの方は,前にいる家畜の歩調で,また子供たちの歩調に合わせてゆっくりと旅を続けられますように」。この前にヤコブは,兄のエサウに会って,「この一緒にいる人たちはだれですか」と聞かれたとき,「神があなたの僕に恵みとして与えてくださった子供たちです」と答えています。(創世 33:5,13,14,新)今日でも親は,ヤコブのように,子供にやさしい思いやりを示すだけでなく,子供をエホバの恵みと見ることも大切です。いうまでもなく,男性は結婚する前に,妻子を養う力があるかどうか真剣に考慮しなければなりません。聖書はこう助言しています。「まず屋外ですべてのものを整え,地であらゆるものを用意せよ。それからあなたの家と家庭を確立せよ」。(箴 24:27,新英訳聖書)この実際的な助言に従い,男性は,結婚して家庭を持つための準備を前もってすべきです。そうすれば,たとえ計画していなかった妊娠であってもそれを喜ぶことができ,経済的な負担になると考えて心配することはないでしょう。
29 子供をもうけるかどうかの問題は,なぜ前もって真剣に考慮すべきですか。
29 子供をもうけるかどうかは,初めての子供の場合に限らずその後の子供たちの場合にも,真剣に考慮する価値のある問題です。親は,すでに生まれている子供たちの養育に困難を感じているでしょうか。もし感じているとすれば,愛の質を考えるだけでなく,創造者に対する敬意からも,家族の増加を遅らせるためにどのように自制するかをよくよく考えるはずです。
30 (イ)子供は実際には神のものだとどうして言えますか(ロ)そのことは親の見方にどう影響するはずですか。
30 実際,子供はだれのものでしょうか。ある意味では,あなたのものです。しかし別の意味では,創造者のものでもあります。あなたが子供のときにご両親がその養育を任されたのと同様に,あなたも子供の養育を任されているのです。あなたは,ご両親が自分たちの好き勝手に扱える所有物ではありませんでした。あなたのお子さんもそのような意味ではあなたのものではないのです。親は受胎の時や胎児の発育を指示することも,制御することもできません。その驚くべき過程を見たり十分に理解したりすることさえできないのです。(詩 139:13,15。伝道 11:5)身体になんらかの欠陥があって流産や死産をしても,親は死んだ子供を生き返らせることができません。したがってわたしたちは,神がわたしたちすべての命の与え主であることを謙そんに認める必要があります。わたしたちすべては神に属しているのです。「地とそれを満たすもの,産出的な地とそこに住む者とはエホバのもの」と書かれている通りです。―詩 24:1,新。
31,32 (イ)親は神のみ前にどんな責任がありますか。(ロ)その責任を正しく果たすなら,どんな結果になりますか。
31 親は,自分が世に生み出した子供たちに責任があり,子供たちの育て方について神に申し開きをしなくてはなりません。神は地球を創造され,人間がそこに住むように意図されました。そして,その目的を果たすための生殖能力を最初の両親に付与されたのです。そのふたりは,神から離反することによって大敵対者の側に立ちました。大敵対者とは,神が天と地の被造物からなる自分の家族に主権を正しく行使していないと神に挑戦した者のことです。ですから創造者に対して忠誠を尽くす大人になるようお子さんを訓練することにより,あなたとあなたのご家族は,大敵対者が偽り者であり,エホバ神が正しいことを証明できるのです。箴言 27章11節(新)に次のように述べられている通りです。「賢くあれ,わが子よ。そしてわたしの心を歓ばせよ。わたしをそしっている者にわたしが返答できるためである」。
32 子供に対する義務と神に対する責任とを果たすなら,人生において物事を真に成し遂げたという気持ちを持つことができます。そして,「胎の実は報いである」という詩篇 127篇3節(新)の言葉に心から和することができるでしょう。
[脚注]
a 肉類,黄色や緑色の野菜など。
b でんぷん質の食品や砂糖を多量に含む食品などがある。
[93ページの図版]
いま親密になっておくなら,後日の世代の断絶を防ぐことができる
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親としてのあなたの役目あなたの家族生活を幸福なものにする
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8章
親としてのあなたの役目
1-3 (イ)赤ちゃんの誕生は両親にどんな影響を与えますか。(ロ)父親と母親の両方がそれぞれ親としての役目を理解するのはなぜ大切ですか。
いろいろな出来事の中には,わたしたちにあまり影響しないものもある一方,後々まで大きな影響を及ぼす出来事もあります。子供の誕生は明らかにその後者の例です。夫婦にとって,子供が誕生した後の生活は必ず変化します。非常に小さいとはいえ,家族のその新しい成員は,声で自分の存在を知らせるので,無視することはできません。
2 両親の生活はいっそう充実した幸福なものになるはずです。しかし対処しなければならない難しい問題も生じてきます。最善の結果を得るには,両親が共にそれらと取り組まねばなりません。ですから誕生後の子供の発育にも二人が大切な役割を果たします。この時ほど,誠実で一致した,そして謙虚な協力が必要な時はありません。
3 父親また母親の役目,およびそれぞれの役目がどのように調和するかを理解することは,子供の必要を満たして良い結果を得るのに大いに役立ちます。平衡を取ることは必要です。頭では理性的であろうとしても,感情に押し流されて平衡を失うことが往々にしてあります。どうかすると過少から過度へ,そしてまた過少へと,両極端に走りがちです。父親が頭の権を行使するのは望ましいことですが,行き過ぎると横柄になります。母親が子供の訓育にあずかるのは良いことですが,父親を押しのけてその仕事を独占するなら,家族の構造は脅かされます。それ自体良いものでも,行き過ぎると悪いものになることがあります。―フィリピ 4:5。
母親の大切な役目
4 赤ちゃんが母親にしてもらう必要のある事柄にはどんなものがありますか。
4 生まれたばかりの赤ちゃんは,当面必要なものをすべて母親から与えてもらわねばなりません。母親がそうした必要物を愛情を込めて与えるなら,赤ちゃんは安心します。(詩 22:9,10)赤ちゃんには乳を十分に与え,いつも清潔に,また暖かさが保てるように気をつけてやらねばなりませんが,体に必要な物を与えるだけでは不十分です。感情面の必要も同様に大切なのです。愛情を示されないと,赤ちゃんは不安になります。子供が親の注意を引こうとするとき,母親はその必要の程度が実際にどれほどのものかすぐにわかるようになります。しかし,泣いても泣いてもほっておかれるなら,赤ちゃんは病気になります。そして感情的に満たされないときが一定期間あると,その子供は感情的にいじけた人間になる恐れがあります。
5-7 最近の研究によると,母親の愛と注意は赤ちゃんにどのように影響しますか。
5 多くの様々な場所における実験は,次の事実を確証しました。つまり赤ちゃんは,話しかけたり,さわったり,さすったり,抱きしめたりして愛情を示してやらないと病気になり,死ぬことさえあるということです。(イザヤ 66:12。テサロニケ第一 2:7と比較してください。)他人がそうすることもできます。しかし,赤ちゃんは母親の胎内で生を受け,人生の最初の数か月間そこではぐくまれたのですから,道理から言っても,そのようにして愛情を示す最適任者が母親であることに疑問の余地はありません。母親と子供の間には自然の相互作用があります。母親は生まれた赤ちゃんを本能的に抱き寄せようとしますし,それに合わせて赤ちゃんは本能的に母親の乳房を捜し求めます。
6 研究によって明らかにされたところによると,赤ちゃんの脳は非常に活動的で,知覚,聴覚,視覚,臭覚が刺激されると,知能の発達が促されます。乳を飲むとき,子供は母親の膚のぬくもりやにおいを感じます。そして,乳を飲ませる母親の顔からほとんど目を離しません。また,自分に話しかけてくれたり,歌ってくれたりする母親の声だけでなく,母親の心臓の鼓動も聞きます。それは赤ちゃんがまだ胎内にいたときに聞いた音です。ノルウェーのある出版物の中で,児童心理学者のアン・マリ・ドゥブは次のように述べています。
「瞳孔の動きは脳の働きの度合いを明示するゆえに,強力な皮膚の刺激,すなわち,強い接触,授乳の際の少なからぬ接触は知的な活動を刺激し,ひいては,大人になってからより優れた知的能力を持つ可能性につながると信じる理由がある」。
7 したがって,母親が赤ちゃんを抱き上げたり,抱き締めたり,おふろに入れたり,体をふいてやったりするときに,赤ちゃんは母親がたびたび自分に触れるのを感じますが,そうした刺激は赤ちゃんの発育に,そして後の人格形成に重要な役割を果たすのです。夜中に起きて,泣く子をあやすのは必ずしも楽しいことではないかもしれませんが,後々どんな益があるかを知るなら,睡眠が妨害されても大いに償われると言えるでしょう。
愛されることによって愛することを学ぶ
8-10 (イ)赤ちゃんは母親の愛からどんなことを学びますか。(ロ)それはなぜ大切ですか。
8 愛されることは,赤ちゃんの感情面の発育にきわめて重要です。赤ちゃんは,愛されること,愛の模範を示されることによって愛することを学ぶのです。神への愛について,ヨハネ第一 4章19節には,「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」と述べられています。愛することを最初に教える立場にあるのは主として母親です。母親はベッドの赤ちゃんの上にかがみ込み,手をその胸の上に置いて顔を赤ちゃんの顔にくっつけるようにしながらやさしくゆさぶり,“いた,いた”と言います。むろん,赤ちゃんはその言葉(どうせ,特につじつまのあったことを言うわけではありませんが)がわかりません。でも,からだを動かして,うれしそうにくっくっと言います。おもしろい手の動きや声の調子から,“あなたをとてもとても愛しているのよ”とはっきり言われていることがわかるからです。赤ちゃんは新たに自信を得て安心します。
9 赤ちゃんでも幼児でも愛を示されるとそれを感じ取ります。そして自分もその愛をまねて,母親の首にかわいい腕を回したり,熱烈にキスしたりして愛を実際に行動に表わします。するとまた母親から感情のこもった温かい反応を刈り取る結果になるので,喜びを感じます。こうして子供たちは,愛することは愛されることと同じように幸福であるという,そしてまた,愛を示すなら,自分も愛を示されるという大切な教訓を学び始めます。(使徒 20:35。ルカ 6:38)証拠の示すところによると,幼いときに母親と愛情のきずなで結ばれない子供は,のちになって他の人々を深く愛したり,他の人々のために何かをしてあげることに大きな困難を感じます。
10 子供は生まれるとすぐに物事を学び始めますから,最初の数年間は最も大切な時です。その時期に母親の愛はきわめて重要です。母親が,甘やかすのではなく,愛を示し愛を教えることに成功するなら,その益は永久的なものとなります。一方,それに失敗するなら,その害も永久的なものとなります。良い母親になることは,女性の仕事の中で最も取り組みがいがあり報いのある仕事です。さまざまな苦労や要求が伴いはしても,良い母親になることほど有意義で,永続的な満足の得られる“一生の”仕事が世の中にあるでしょうか。
父親の重要な役目
11 (イ)父親は子供の心に自分の役目をどのようにしっかり意識させますか。(ロ)それはなぜ重要ですか。
11 子供が非常に小さいとき,母親のほうが子供の生活の中で大きな役割を演ずるのは自然です。しかし,生まれたあとは,父親も子供の世界の中に入っていなければなりません。子供がまだ小さくても,父親は,時おりその世話をしたり,遊んでやったり,泣くときにはあやしたりして,子供とのつながりを持てますし,またそうすべきです。そのようにして,父親は自分の存在を子供にしっかり意識させます。時がたつにつれ父親はしだいに大きな役割を果たすようにならなければなりません。もし遅すぎると,それは問題の始まり,つまり懲らしめを与えるのがいっそう難しくなる十代に特によく表面化する問題の始まりとなるかもしれません。十代の男の子はとりわけ父親の助けが必要です。早くから良い関係が築かれていないと,長い間にできたみぞは,数週間で埋まるものではありません。
12,13 (イ)家族の中で父親はどんな役目を持っていますか。(ロ)父親が責任を正しく果たすなら,権威に対する子供の見方にどのように影響しますか。
12 子供が男の子であれ女の子であれ,平衡の取れた丸味のある性格を身につけるのに,父親の男らしい特質は重要な影響を与えます。神のみ言葉は,父親が家の頭であるべきことを教えています。父親は家族を物質的に養う責任があります。(コリント第一 11:3。テモテ第一 5:8)しかし,「ただパンだけによって人(は)生きず,エホバの口から出るすべての言葉によって人(は)生きる」のです。子供に関しては父親は,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」とも命ぜられています。(申命 8:3,新。エフェソス 6:4)父親が自分に与えられた神聖な使命を果たす動機は,子供への自然の愛情であるべきですが,とりわけ大切なのは,創造者に対する責任感です。
13 母親の温かさ,やさしさ,同情心に加え,父親は,力強さや賢明な指導など,安定性を与える影響力を持っています。父親が神から与えられた役目をどう扱うかは,人間による権威にせよ神によるそれにせよ,権威というものに対して子供が将来どんな態度を示すか,つまり,権威を尊重するようになるかどうか,また,他人の指示の下で腹を立てたり反抗したりせずによく働くようになるかどうかに著しく影響します。
14 父親の良い手本は息子や娘にどんな影響を与えますか。
14 息子がいる場合,父親の模範と物事の扱い方は,その子供が弱々しくて優柔不断な人間に成長するか,それとも,男らしく,しっかりしていて,確固とした勇気を示し,進んで責任を引き受けようとする大人になるかを決める大きな要素になります。その男の子がやがてどんな夫や父親になるかということにも影響します。厳しく,がんこでかこくな人にもなれば,平衡の取れた,分別のあるやさしい人にもなるのです。家族に娘がいるなら,父親の影響や父親との関係はその女の子の男性観を左右しかねず,その子供の将来の結婚生活を成功に導くことも失敗に終わらせることもあり得ます。子供はごく幼い時から,父親のこういう影響を受けはじめます。
15,16 (イ)聖書によれば,父親には教育を施すどんな責任がありますか。(ロ)その責任をどのように果たせますか。
15 教育を施す父親の責任がどの程度のものであるかは,神がご自分の民にお与えになった指示,つまり申命記 6章6,7節(新)の次の言葉に示されています。「わたしが今日命じているこれらの言葉はあなたの心にあらねばならず,あなたはそれを自分の息子に教え諭し,家に座する時も,道を歩く時も,寝る時も,起きる時もそれについて話さねばなりません」。
16 神のみ言葉の語句だけでなく,それに含まれる教訓も,子供が日々しっかりと心に刻みつけるようにしてやらなければなりません。そうする機会はいくらでもあります。庭に咲いている花,空中を飛ぶこん虫,木の間に見える鳥やりす,浜べにころがる貝殻,山で拾うまつかさ,夜空に輝く星,こうしたすべての驚異は創造者について物語っています。したがって,親はそれらが語る言葉の意味を子供たちに説明してやらねばなりません。詩篇記者はこう述べています。「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業を語り告げる。日は日に次いで言語をほとばしりいだし,夜は夜に次いで知識を示す」。(詩 19:1,2,新)これらのものを用いるのに機敏であるなら,とりわけ日常生活の中の事柄から例を取って正しい原則を強調し,神の助言の持つ知恵と益を示すのに機敏であるなら,父親は,子供の心と思いの中に,将来のための最も重要な基礎,すなわち,神がおられるという確信だけでなく,『神がご自分をせつに求める者に報いてくださる』ことに対する確信をも築くことができます。―ヘブライ 11:6。
17,18 (イ)父親はどのように子供を懲らしめるべきですか。(ロ)多くの規則を作るよりももっと効果的なのは何ですか。
17 懲らしめを与えることも父親の役目の一つです。「父親が懲らしめを与えない子はいったいどんな子でしょうか」という問いがヘブライ 12章7節にあります。しかし父親の務めは,子供をいら立たせたり苦しめたりするほど過度のきょう正を加えるような極端に走らずに懲らしめを与えることです。父親に対して,神の言葉は,「あなたがたの子どもをいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい」と述べています。(コロサイ 3:21)制限を課すことは必要ですが,重苦しくなるほど規則を多く作ったり拡大したりして,人を落胆させてしまうこともあり得ます。
18 昔のパリサイ人は規則の好きな人々でした。規則を山ほどもうけて,多くの偽善者を作り出しました。次々と規則を作れば問題が解決すると考えるのは人間の欠点です。実際の経験から明らかなのは,心を動かすことに真の解決策があるということです。ですから,規則を設けることは控え目にし,そのかわりに,神ご自身と同じ方向を目ざして,原則を教えこむことに努めてください。「わたしは,わたしの律法を彼らの思いの中に置き,それを彼らの心の中に書く」― ヘブライ 8:10。
父親と母親はお互いにパートナー
19 家族が心を通じ合わせるようにするためにどんなことができますか。
19 父親はふつう一家の働き手です。仕事を終えて帰宅するときには疲れているかもしれず,ほかにまだしなければならない事があるかもしれません。それでも,父親は妻と子供のために時間を作らなければなりません。家族と心を通じ合わせることに努め,家族がいっしょにする話し合いや仕事,楽しい遊びやピクニックなどのための時間をもうけます。家族の一致と団結はそういうことから生まれるのです。夫婦は子供ができるまではひんぱんに外出したかもしれません。しかし,二人があいかわらずあちこち出歩き,夜ふかしをすることもあるとすれば,それは責任ある親にふさわしい行動とはいえません。それは子供に対してきわめて不公平な行為です。親は,早晩,不規則な生活をし責任をうとんじた代償を払うことになるでしょう。大人と同様に子供も,生活が基本的に安定し規則的であるほうが,うまくやっていけるのです。安定した規則的な生活は精神的,身体的,感情的な健康に寄与します。親が不必要に波風を立てなくても,毎日のきまり決った家族生活に波風は十分にあります。―マタイ 6:34。コロサイ 4:5と比較してください。
20 子供を懲らしめるとき,どうすれば両親は分裂せずにすみますか。
20 子供の扱い方や,子供を教え,子供に制限を課し,子供を懲らしめ,また愛することにおいて,父親と母親は協力しなければなりません。「家が内部で分裂するなら,その家は立ち行け(ません)」。(マルコ 3:25)両親がどんなしつけをするかについて話し合うのはよいことです。そうすれば,しつけについて二人の意見が一致していないところを子供たちに見せないようにすることができます。さもないと,子供たちは,“分裂させて征服”しようとするかもしれません。親が性急に,あるいは腹立ちまぎれに極端な懲らしめを与えたり,すべての事実を考慮すると本当は懲らしめる必要が全くなかったりすることが時としてあるのは確かです。そのようなときには,両親が二人だけでそのことについて話し合ったのち,賢明に行動しなかったほうの親は,自分で子供との問題を正すこともできるでしょう。また,両親が二人だけで話し合えない場合,配偶者を支持することは不公正を支持することになると感じるほうの親は,“あなたが腹を立てる気持ちはわかります。もしわたしがあなたの立場にあったら,やはり同じような気持ちになると思うわ。でも,あなたが気づいていらっしゃらないことがあるのではないかしら。それは……”と言って,次に何でも見過ごされていると思われることをはっきり話します。このようにすれば,懲らしめを受けた子供の前で分裂や不一致を見せずに,子供の気持ちをなだめることができます。霊感による箴言に,「僭越さによって人はただ苦闘を起こすだけである。しかし相談をする者たちには知恵がある」とある通りです。―箴 13:10,新。伝道 7章8節もご覧ください。
21 懲らしめは片方の親にだけ任せておくべきでしょうか。その理由を述べなさい。
21 ヘブライ語聖書は,「聴きなさい,わたしの息子よ,あなたの父の懲らしめを。そしてあなたの母の律法を捨ててはならない」と述べて,懲らしめが共同で行なうべき役目であることを示しています。クリスチャン・ギリシャ語聖書も同様に,「子どもたちよ,主と結ばれたあなたがたの親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです」と教えています。父親は,子供を懲らしめるのは妻の仕事だと考えることがあります。反対に,妻は,“お父さんが帰っていらっしゃったら知りませんよ”と言って,悪いことをした子供を脅すだけのこともあるでしょう。しかし,家族が幸福で,両親がそれぞれ子供の愛と尊敬を受けるには,その義務を分担することが必要です。―箴 1:8,新。エフェソス 6:1。
22 子供が何かを求めて来る場合,何を避けるべきですか。なぜですか。
22 この点で両親が一致協力し,自分の責任を進んで果たそうとする態度を示すのを子供たちが目にするのは大切なことです。子供が父親に何かを頼むと,決まって“お母さんに聞きなさい”と言われるなら,あるいは母親が必ず問題を父親のところにもどして父親に決定させようとするなら,“いけません”と答えねばならない方の親は悪者の役をさせられます。むろん,父親が,“ああ,しばらく外へ行ってもいいよ。でも,夕飯がいつできるかお母さんに聞いてからにしなさい”と言える場合もあります。また母親は,子供の頼みを聞いてやっても別に悪くないように思えても,夫の意見も聞かなければならないと感じることがあるでしょう。しかし二人とも,子供が両親を対立させて自分の目的を遂げるのを助長したり許したりすることが絶対にないように気をつけます。賢明な妻は,自分が分担している権威を夫とはり合う形で行使しないようにも注意します。子供を甘やかし,夫をさしおいて子供の愛情をひとり占めしようとするようなことをしません。
23 家庭において,決定は,すべて父親が下すべきですか。
23 実際,家族に関係した事柄を決める場合,家族の各成員は,特別な考慮に値する決定を下せる領域を持っているかもしれません。父親には,家族の全体的な福祉にかかわる問題に決定を下す責任があります。しかし,家族と話し合い,家族の願いや好みを考慮したうえで決定することが少なくありません。母親は台所やその他多くの家事に関する事柄を決定することができます。(箴 31:11,27)子供たちは大きくなるにつれて,遊びや,服装その他の個人的な事柄を自分で決めるのを許されるかもしれません。しかし,健全な原則が守られていること,子供の安全が脅かされていないこと,そして,他の人たちの権利が侵害されていないことを,親が十分に監督しなければなりません。このようにすれば,子供たちは徐々に決定を下せるようになります。
親を敬うのはやさしいことですか
24 子供たちが父と母を敬わねばならないことから,両親にはどんな責任がありますか。
24 子供たちは,「あなたの父と母を敬いなさい」と命令されています。(エフェソス 6:2。出エジプト 20:12)子供たちが両親を敬うことは神の戒めを敬うことでもあります。あなたは子供たちがそうするのを容易にしているでしょうか。妻は夫を尊敬するように命じられています。しかし,夫が神のみ言葉の要求に従って行動する努力をほとんどしないなら,妻が夫を敬うことは非常に難しいのではないでしょうか。夫は,愛するつれあいとして妻をいつくしみ,妻に誉れを配すべきですが,妻が助けになってくれないなら,そうすることは難しいのではないでしょうか。では親も,親を敬いなさいという神の戒めに子供たちが従いやすいようにしてやらねばなりません。平和な家庭を作り,良い標準を設け,親自身が模範的に振る舞い,健全な教えや訓練を施し,必要に応じて懲らしめを与えるなら親は子供たちの敬意をかち得ます。
25 子供たちのしつけの仕方について両親が一致していないと,どんな問題の起こる可能性がありますか。
25 「二人は一人に勝る。なぜなら,彼らは自分たちの勤労に対して良い報いを得るからである」とソロモン王は述べました。(伝道 4:9,新)二人の人がいっしょに歩いていて,片方の人が倒れたとき,もう一方の人は助け起こすことができます。したがって,家庭でも,夫と妻は互いに支え合い励まし合ってそれぞれの役目を果たせます。親として二人の役目が重なり合っているところは非常にたくさんありますが,それは家族の一致のためによいことです。子供は両親の関係をいっそう緊密にし,しつけという共同作業によって二人を一致させるはずのものです。しかし時には,子供にどんな訓練や懲らしめを与えるかということに関係して,意見の分かれるような問題も起こります。妻が子供に注意を向け過ぎるため,夫はうとんじられているように感じたり,腹を立てたりすることさえあります。それは子供に対する夫の態度に影響しかねません。夫は子供に冷淡になったり,逆に子供を溺愛して妻にあまり注意を払わなくなったりするかもしれません。夫にせよ妻にせよ,平衡を失うと高い代償を払うことになります。
26 母親が,生まれたばかりの赤ちゃんに多くの時間をかけねばならないとき,上の子供にしっと心を抱かせないためにどんなことができるでしょうか。
26 すでに子供がいて,新たに赤ちゃんが生まれる場合にも問題が起こるかもしれません。母親は生まれた子供に多くの時間を用いなければなりません。上の子供が,うとんじられていると感じたり,しっと心を持ったりしないように,父親が上の子供に特別な注意を払うのはよいことです。
27 配偶者の一方が未信者である場合,子供たちを霊的にどのように援助できますか。
27 確かに二人は一人にまさりますが,一人はだれもいないよりもまさっています。事情によっては,父親の援助を受けずに母親が一人で子供たちを育てなければならないかもしれません。あるいは,父親がそれと同様の挑戦に直面することもあるでしょう。片親はエホバ神の僕であるために聖書の助言に全き信仰を置いており,もう一方の親はそうではない,といったぐあいに,宗教的に分裂している家庭は少なくありません。夫のほうが献身したクリスチャンである場合は,家族の頭ですから子供のしつけや懲らしめの仕方に関してかなり自分の思うようになります。それでも夫は非常な辛抱強さと自制と忍耐を示す必要があるでしょう。重大問題のあるときは確固たる態度を保たねばなりませんが,腹の立つようなときでも道理をわきまえ,親切で,事情が許す限り融通を利かせるべきです。妻の方が信者で,夫に服している場合,そのやり方は夫の態度に大きく左右されます。夫は聖書に無関心なだけですか。それとも,妻が信仰を実践することや,自分が信じていることを子供たちに教えようとすることに反対しますか。夫が反対するなら,妻は使徒が述べている方法に頼らねばなりません。妻が自分の務めをりっぱに果たし,うやうやしい態度を示すなら,夫は『ことばによらずに引き寄せられる』かもしれません。さらに,妻は機会を捕らえて,子供たちを聖書の原則に従ってしつけます。―ペテロ第一 3:1-4。
家庭環境
28,29 望ましいのはどんな家庭環境ですか。なぜですか。
28 ふた親の責任は家庭の雰囲気を温かいものにすることです。その温かさを感じると,子供たちは,親に話すのを恐れて不安や失敗を心の中にためたりはしません。話を聞いてもらえ,理解してもらえること,そしてまた問題は親切に関心をもって扱ってもらえることを知っているからです。(ヨハネ第一 4:17-19。ヘブライ 4:15,16と比べてください。)家庭は雨露をしのぐ所であるだけでなく,いこいの場所でもあります。親の愛情によって子供たちは元気はつらつとした子供になります。
29 スポンジを酢につけておきながら,それが水をふくむように期待することはできません。スポンジは周りにあるものを吸収するだけです。ですから,水に浸さなければ水を吸収しません。子供たちも,周りにあるものを吸収します。周囲の人々の態度を感じ取り,周りで行なわれている事柄を観察して,スポンジのようにそれらを吸収するのです。精神的に緊張していようと,あるいはくつろいだ穏やかな気分でいようと,子供たちは親の気持ちを感じ取ります。赤ちゃんでさえ,家庭の雰囲気の特色を吸収しますから,信仰,愛,霊性およびエホバ神への信頼といった特質は非常に大切です。
30 子供たちを立派に導いているかどうか判断するのに,親はどんな事柄を自問できるでしょうか。
30 次のことを自問してみてください。わたしは子供がどんな標準に到達することを期待しているだろうか。両親ともその標準にかなっているだろうか。自分の家族がよりどころとしているものは何だろうか。自分は子供に対してどんな手本になるだろうか。不平を言ったり,あらさがしをしたり,他の人々を批判したり,消極的なことをくよくよと考えたりするだろうか。自分が望んでいるのはそういう子供だろうか。それとも,家族のために高い標準をもうけ,それに従って行動し,子供たちにもそうすることを期待しているだろうか。家族の一員である以上は,幾つかの条件を満たす必要があり,してよいことと,して悪い行ないや態度があることを,子供たちは理解しているだろうか。子供たちは親に属しているという安心感を求めますから,家族の標準に従うときには,認められ受け入れられていることを子供が感じるようにしてやらねばなりません。人は自分にかけられている期待にこたえようとするものです。自分の子をだめな子供だと考えるなら,おそらくその通りになるでしょう。ですから子供に良いものを期待し,その期待にこたえるように励ますことです。
31 親の指導には常にどんな裏付けがなくてはなりませんか。
31 人々は言葉よりも行ないによって判断されます。子供たちも,言葉より行ないのほうをよく注意して見るでしょう。また子供たちは偽善に目ざといものです。多くのことを言い過ぎると,子供たちは混乱するかもしれません。あなたの言う事柄は,必ず行ないによって裏付けられていなければなりません。―ヨハネ第一 3:18。
32 いつもだれの助言に従うべきですか。
32 父親であっても母親であっても,その役目はやさしいものではありません。しかし命の与え主の助言に従ってそれと取り組むなら,喜ばしい結果が得られます。あなたに割り当てられた役目を,命の与え主に対して果たすように,良心的に果たしてください。(コロサイ 3:17)極端を避けて平衡を取り,「あなたが道理をわきまえていることを」,お子さんを含めて『すべての人に知らせてください』。―フィリピ 4:5。
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母親のまなざし,膚の感触,声の調子などから赤ちゃんは愛されていることを感じる
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子供といっしょに行なう事柄を計画しますか
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幼い時から子供を訓練するあなたの家族生活を幸福なものにする
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9章
幼い時から子供を訓練する
1-4 幼い子供が驚くべき学習能力を持っているどんな証拠がありますか。
生まれたばかりの子供の頭は,よく白紙のページに例えられます。しかし実際には,母親の胎内にいるときでさえ,子供の頭には多くの印象が刻まれます。また,遺伝的に受け継がれる性格的な特色も永久的に書き込まれています。しかし,膨大な学習能力が働くのは誕生した瞬間からです。それは一ページだけではなく,まるで書庫の本の全部のページが情報を印刷されるのを待ち受けているかのようなのです。
2 誕生時の赤ちゃんの脳の重さは大人の脳のわずか四分の一です。しかし,脳は急速に発育し,たった二年間で大人の脳の四分の三の重さになります。それに伴って知能も発育します。研究者によれば,生後四年間の知能の発育は,その後の13年間の知能の発育と同じくらいだということです。事実,「五歳の誕生日が来るまでに子供が学ぶ概念は,子供が知るようになる概念の中でも最も難しいものである」と言う人々もいます。
3 大小や軽重の概念のほか,右と左,上と下,満ちている状態とからの状態といった基本的な概念は,わたしたち大人にはごくあたりまえのことに思えます。ところが,子供は,それらや他の多くの概念を学ばねばなりません。言語の概念そのものも赤ちゃんの頭にしっかり植えつけなければなりません。
4 言語は「おそらく,人間が習得することを求められる最も難しい知識」と考える人々もいます。新しい言葉を学ぶ苦労を知っている人なら,うなずけるでしょう。しかし,大人には少なくとも言語の働きを知っているという利点がありますが,子供はそうではありません。にもかかわらず,子供の頭は,言語の概念をは握し,それを用いる能力を持っています。そればかりか,二か国語を話す家庭や地域の幼い子供は,学校へ行かないうちから二つの言語を難なく話すことさえあります。ですからそこには引き出されるのを待っている知性があるのです。
始めるのは今です!
5 子供の訓練はどれほど早くから始めるべきですか。
5 使徒パウロは,同労者テモテにあてた手紙の中で,テモテが「幼い時から」聖なる書物を知っていたと述べました。(テモテ第二 3:15)幼い子供は知識欲に燃えているものだということを悟る親は賢明です。赤ちゃんは,全身を目や耳にしてよく観察しています。親がそれに気づいていてもいなくても,せっせと情報を取り入れて整理収集し,増し加え,結論を下しています。実際,親が注意していないと,子供はちょっとの間に自分の望むとおりに見事に親をあやつる手を知るようになるかもしれません。ですから神のみ言葉聖書にある,「少年をその道に従って訓練しなさい。年老いても,彼はそれからそれて行くことがないであろう」という忠告は,赤ちゃんが生まれた時からあてはまります。(箴 22:6,新)いうまでもなく,最初には愛をこめて十分に世話をし,愛情をそそいで愛について教えます。しかしそれと共に,必要に応じて,悪いところをやさしいなかにもき然とした態度で正すこともしなければなりません。
6 (イ)子供にはどんな言葉で話すのが一番理想的ですか。(ロ)子供は多くの質問をするものですが,それをどうみなすべきですか。
6 幼児に話すときには“赤ちゃん言葉”を使わずにわかりやすい大人の言葉で話します。子供にはそういう言葉を学ばせたいものです。小さな子供は,話せるようになると,あなたを質問攻めにするでしょう。“どうして雨が降るの。ぼくはどこから来たの。星は昼間どこに行っているの。お母さんは何をしているの。あれはどうして。これはどうして”と,ひっきりなしに質問します。質問は子供にとって物事を学ぶ一番良い手段の一つですから,それを聞いてやるようにしましょう。質問を抑えるなら,知能の発育を抑えることにもなりかねません。
7 幼い子供の質問にはどのように答えるのが最善ですか。それはなぜですか。
7 使徒は,『自分がみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていた』ことを思い出していますが,わたしたちもそのことを思い出しましょう。(コリント第一 13:11)子供の質問にはなるべくよく答えてやるようにしましょう。しかしわかりやすく簡潔に。“どうして雨が降るの”という質問なら,複雑で詳しい答えは必要ではありません。“雲が水で重くなって,その水が降って来るんだよ”といった答えで十分でしょう。子供の注意持続時間は短く,すぐに別の事柄に関心が移ります。ですから,固い食物が食べられるようになるまで乳を飲ませるのと同じく,もっと詳しい知識を理解できるようになるまで,簡単な情報を与えます。―ヘブライ 5:13,14と比較してください。
8,9 子供に文字を読むことを進歩的に教えるには,どのようにすることができますか。
8 学習は急激な手段を避け順序を追って行なわれるべきです。先に述べた通り,テモテは幼い時から聖書に親しんでいました。テモテの非常に幼いころの思い出に,聖書から教えられたことも含まれていたことは確かです。今日,父親や母親が文字を読むことを子供に教え始めるときと同じように,それはきっと漸進的に行なわれたに違いありません。子供に本を読んであげましょう。小さい子供ならひざに抱き,気持ちの良い声で読みます。子供はほのぼのとした安心感と喜びを抱きます。内容はほとんど理解できなくても,本を読むことは子供にとって楽しいことになります。そしてやがて「あいうえお」を教えることになりますが,それはクイズのような形で教えることもできるでしょう。それから単語をつづることを教え,やがてその単語をつないで文章を作ることを教えます。できるだけ楽しく学べるようにしてやりましょう。
9 例えば,ある夫婦は三歳の子供といっしょに,子供が朗読についていけるように一つ一つの単語を指差しながら,本を朗読しました。“神”,“イエス”,“人”,あるいは“木”といった語が出ていると親は休止し,子供にその語を読ませるようにしました。子供はしだいに多くの語が読めるようになり,四歳の時には,ほとんどの語を読んでいました。文字が読めるようになると書けるようにもなります。最初は一つ一つの文字を,それから一つの単語全体を書けるようになります。自分の名前でも書けるようになると子供は大喜びです!
10 それぞれの素質を伸ばすように子供を援助することはなぜ賢明ですか。
10 子供は独自の個性を持っていて,ひとりひとり違います。ですから,それぞれが受け継いでいる素質や能力に合った方向に伸びるように助けてやらねばなりません。子供の生まれつきの力や能力を伸ばすように個々の子供を訓練するなら,他の子供のできることをうらやむ必要はありません。どの子供も愛され,それぞれの良さを認められるべきです。子供が悪い性向を克服したり抑制したりするのを助けはしても,子供を決まった型にはめようとすべきではありません。むしろ,持っている良い特質を最大限に生かすように指導します。
11 子供を他の子供と比較して優劣を口にするのはなぜ賢明ではありませんか。
11 親は子供を他の子供と比較して,その子供の優劣をほのめかし,利己的な競争心を育てることがあります。ごく幼い子供は生まれつき持っている利己心を表わすものの,初めのうちは身分の上下の意識や優越感,また尊大な気持ちなどを持っていません。ですからイエスは,弟子たちが野心的な精神を表わし,だれが偉いかということを問題にしたときに,幼子を例えに用いてそうした態度を正されたのです。(マタイ 18:1-4)それで親は,ほかの子と比較して,あの子よりも劣っている,というようなことを子供に言わないようにしなければなりません。それを聞くと子供は突き離されたように感じるかもしれません。不親切な比較は,まず子供の心を傷つけます。そしてもしそれが続くと,子供は反抗的になるかもしれません。他方,ほかの子供より優れていると言われる子供は高慢になって,他の人からきらわれるようになるかもしれません。親は,他の子供と比較してある子をかわいがるとか認めるというようなことを決してすべきではありません。変化があるのは楽しいものです。オーケストラは,音楽に変化と豊かさを持たせるために種々様々な楽器を用いますが,全体が調和しています。家族の成員の様々な個性も家族に趣きとおもしろみを添えます。そして,家族全員が創造者の正しい原則に従って行動するなら,調和が損なわれることはありません。
子供の成長を助けましょう
12 大人に関するどんな事実は,子供に適切な指導の必要なことを示していますか。
12 神のみ言葉は,「自分の歩みを導くことはその人に属さない」,と述べています。(エレミヤ 10:23,新)ところが人々はそれができると言います。ですから神の導きを拒否して人間の導きに従い,次々と困難にぶつかって,結局最後に神の言葉の正しさを証明します。人間には正しい道に思えても,その終わりは死の道となるものがある,とエホバ神は述べておられます。(箴 14:12)人間は長い間,自分たちに正しいと思える道を歩んで来ましたが,その道の行き着くところは戦争,ききん,病気,死でした。人生経験のある大人に正しいと思える道が死に行き着くのであれば,子供に正しいと思える道はそれ以外のどこへ行き着くでしょうか。自分の歩みを導くことがその人に属さないのであれば,どうして自分の生き方を導くことがよちよち歩きの子供に属すると言えるでしょうか。創造者はみ言葉を通して親と子の双方に導きを与えておられるのです。
13,14 申命記 6章6,7節の勧めに一致して,親はどのように子供たちを教えたらよいでしょうか。
13 親に対しては,神は次のように述べておられます。「わたしが今日命じているこれらの言葉はあなたの心にあらねばならず,あなたはそれを自分の息子に教え諭し,家に座する時も,道を歩く時も,寝る時も,起きる時もそれについて話さねばなりません」。(申命 6:6,7,新)適当な機会のあるときにはいつでも子供を教えるべきです。朝は多くの人にとって通勤や通学の支度で忙しいものですが,家族そろって朝食を取るなら,食事に対する感謝の祈りを通して思いを創造者に向けることができます。その祈りの中に,家族の霊的福祉に役立つ他の点をも含められます。時間が許せば,その日の活動や学校のことについて話したり,起こり得る問題にどう対処するか健全な助言を与えることもできます。親に特別の注意を払ってもらえるなら,床に就いて「寝る」ときは幼い子供たちにとって楽しい時間になります。寝るときにお話をして聞かせることは幼い子供たちにとって大きな意味を持ちます。またそれは物事を教える非常に良い方法です。聖書には,親が工夫と温かさを加えるだけで子供たちにとても喜ばれる話がたくさんあります。親自身の人生経験は特に子供たちの胸を打ち,良い教訓となるでしょう。新しいお話をして聞かせるのは難しいことに思えるかもしれませんが,子供たちは同じ話を何度も聞きたがるものなのです。このように普通以上の時間をかけると,子供と心を通じ合わせる道がずっと広くなることがわかるでしょう。寝床で子供といっしょに祈ることも,最大の導きと保護を与えることのできる方と子供たちが早くから話し合えるよう助けるうえで役立ちます。―エフェソス 3:20。フィリピ 4:6,7。
14 『家に座して』いようと,『道を』歩いていようと,ともかくどこにいても,おもしろく効果的な方法で子供をしつける機会はあります。子供たちにとっては,ゲームの形もおもしろく効果的な方法のうちに入るでしょう。ある夫婦は,聖書研究の集会で学んだことを子供たちに思い出させるのにその方法が効果的だったことを次のように語っています。
『ある晩わたしたちは六歳になる男の子をいっしょに連れていきました。その子はいつも集会であまり熱心に聴いていませんでした。会館へ向かう道すがら,わたしはこう言いました。「ゲームをしようよ。つまり,集会でうたった歌や取り上げられた主な点を覚えているかどうか,家に帰るときに言ってみることにしよう」。帰宅の途中,わたしたちはびっくりしました。いつもよく聴いていない一番年下の男の子に最初に機会を与えたところ,たくさんの点を覚えていたのです。それから,うちの子供たちが注解を加え,最後にわたしたちふたりの大人が注解しました。子供たちにとってはそれは勉強というよりも楽しい遊びだったのです』。
15 成し遂げたことをさらに改善するように子供たちをどのように励ませるでしょうか。
15 子供は成長するにつれて,考えを表現したり,いろいろな物を見て絵を描いたり,何かを作ったり,楽器をかなでたりするようになり,物事を成し遂げたという気持ちを味わいます。子供がする事はある意味でその子供の延長であり,子供にとってごく個人的なものです。ですからそれを見て,“よくできたね”と言うなら,子供の心は高まります。子供がした事で心からほめてやれる点を何か捜し出すようにすれば,子供は励まされるでしょう。無神経に批判するなら,がっかりして,元気をなくしてしまうかもしれません。必要なら,ある点を問題として取り上げることもできるでしょう。しかし子供の作品を,へたで話にならない,と考えているような言い方をしないようにすることが大切です。例えば,子供の描いた絵に直接筆を加えるよりも,どうすればもっとよくなるかを別の紙に描いて見せます。そうすれば,子供は直したいと思えば自分で描き直すことができます。努力することを励ますなら,子供の成長を促すことになります。厳しく批判するなら,子供を落胆させたり,何度もやってみようとする意欲を摘み取ることになるかもしれません。確かに,ガラテア書 6章4節の次の原則は子供たちにもあてはまるのです。「その人は自分自身の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう」。子供は,特に初めてすることに対して励ましを必要とします。ですから年齢のわりに上手にできたら,ほめてやりましょう。上手にできなかったとしても,その努力をほめて,もう一度やってみるように励ましてやることです。歩くことにしても,子供は結局最初から歩けたわけではないのですから。
性をどう説明するか
16 聖書に述べられていることを考えると,性に関する子供の質問にどう答えるべきですか。
16 子供の質問によく答えて,親と話をするように子供を励ましているうちに,突然,性について尋ねられることがあります。あなたは率直に答えますか。それとも,赤ちゃんは病院からもらって来たといった,間違った考えを持たせるような答えをしますか。正しい知識を与えますか。それとも,大きい子供たちがするおそらくひわいな内容の話からおそまつな誤った答えを得るままにさせておきますか。聖書には,性や生殖器に関する非常に多くの事柄が率直に述べられています。(創世 17:11; 18:11; 30:16,17。レビ 15:2)神はご自分のみ言葉が朗読される集まりに関して人々に次の指示をお与えになりました。「民を,男も,女も,幼い者も,……集合させ,彼らが聴くように,彼らが学ぶようにしなさい」。(申命 31:12,新)したがって,幼い子供たちは,性に関する事柄をすべて,“ちまたの話”の形で聞いたのではなく,まじめな,そして敬意の念に満ちた雰囲気の中で聞きました。
17-19 性のことはどのようにだんだんに説明してゆくことができますか。
17 実際,性の説明は多くの親が考えるように難しくする必要はありません。子供はごく小さい時から,身体のいろいろな部分に気づいて,自分の体を意識するようになります。親は,手,足,鼻,胃,おしり,陰茎,陰門というふうに,それぞれの名前を教えます。生殖器のことになると急に態度を変えて声をひそめるようなことをしなければ,子供はきまりの悪い思いをしないでしょう。子供が性について質問し出したら,全部を説明しなければならないと考えるので,親はどきっとするのです。実際には,質問は子供の発育段階に応じて断片的になされます。親はその段階に応じて,適切な語いとごく簡単で一般的な説明をしてやりさえすればよいのです。
18 例えば,ある日,“赤ちゃんはどこから来るの”と尋ねられたとします。そうしたら“お母さんのおなかの中で大きくなるのよ”というふうに簡単に答えます。当面はそれだけで十分なものです。しばらくすると子供は,“赤ちゃんはどうやって出て来るの”と尋ねるかもしれません。“赤ちゃんが出て来れるように特別の出口があるのよ”。当座はそれだけ答えれば満足するでしょう。
19 またしばらくして,“赤ちゃんはどのようにしてできるの”と尋ねられるでしょう。では,“お父さんとお母さんは赤ちゃんが欲しいと思うのね。そしたらお父さんから種が出て,それがお母さんのおなかの卵子と会うの。すると,地面の中の種が生長して花や木になるように,赤ちゃんが育ち始めるのよ”と答えられるでしょう。ですから,これは,各部分が子供を一時得心させるのに十分な話でなる連続物語というところです。次に子供は,“お父さんの種はどのようにしてお母さんのおなかに入るの”と尋ねるかもしれません。そのときは次のように簡潔に答えることができるでしょう。“あなたは男の子の体の作りを知っているでしょう。男の子には陰茎があるわね。女の子の体にはそれがうまく入るように開いた所があるの。種はそこから植えられるのよ。人間の体は,赤ちゃんがお母さんのおなかにできて育って,ついに生まれて来ることができるように作られているのよ”。
20 性のことを親が子供に説明するのはなぜ良いことですか。
20 このように事実を話す方法を取るほうが,作り話をしたり,性をいまわしいもののように思わせる秘密めいた態度を示したりするよりも良いことは確かです。(テトス 1:15と比較してください。)また,子供は親から事実を聞くほうがよいのです。互いに愛し合っている,また子供を愛し世話をする責任を自覚している既婚者だけが子供をもうけるべきである理由を,親は同時に説明できるからです。このようにすれば,性に関する事柄を健全で霊的な水準に置くことができ,全く不潔なものであるかのように思わせる四囲の状態の中で性について知るようにはならないでしょう。
人生の最も重要な教訓を伝える
21 子供のどんな性向を考えると,親が子供のために良い手本を示すのは大切ですか。
21 あるとき,イエスは同時代の人々についてこう言われました。「幼子たちが市の立つ広場に座り,自分の遊び仲間に大声で叫ぶのに似ています。こう言うのです。『あなたたちのために横笛を吹いたのに,あなたたちは踊らなかった。わたしたちが泣き叫んだのに,あなたたちは身をたたいて悲しまなかった』」。(マタイ 11:16,17)子供たちの遊びは,大人と大人の祭りと葬式をまねたものでした。子供は普通まねをする傾向がありますから,子供の訓練で親の手本はきわめて大きな役割を果たします。
22 親の振る舞いは子供にどんな影響を与えますか。
22 子供は生まれた時から親を見て学んでいます。親が話す話の内容だけでなく,子供自身に,また配偶者や他の人々に話すときの話し方や声の調子も学んでいるのです。子供は両親のお互いに対する態度,また家族の他の成員や客人に対する両親の態度を観察します。こうした事柄において親が示す手本を見て,子供は,歩くこと,数をかぞえること,あるいは「あいうえお」の文字を学ぶことよりもはるかに重要な教訓を学び始めます。親の手本は,真に幸せな生活につながる知識と理解を得るための土台となり得ます。そうした手本を見ている子供は,言葉や文字から学べる年齢になると,義の標準を受け入れやすい子供になっています。
23,24 子供がある標準に達することを願うなら,親自身が進んで何をしなければなりませんか。
23 『愛される子どもとして,神を見倣う者となりなさい。そして,愛のうちに歩んでゆきなさい』と使徒はクリスチャンたちに勧めました。そしてそのすぐ前で,神に見倣うために必要な事柄を次のように教えています。「すべて悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪とともにあなたがたから除き去りなさい。そして,互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたも互いに惜しみなくゆるし合いなさい。それゆえ,愛される子どもとして,神を見倣う者となりなさい。……」。(エフェソス 4:31,32; 5:1,2)大きくてかん高い話し声,めそめそしたぐち,尊大さや爆発的な怒りなど,子供の耳にする声や目にする態度がいら立ちを表わすものであれば,それは子供の心に刻み込まれて消えがたいものになります。もし親がすべての人に親切で思いやりがあり,道徳水準が高く,良い行動基準を持っているなら,子供はその点で親に見倣うようになります。ですから親は,子供に望むとおりに自ら振る舞い,子供にこうあって欲しいと思うなら,自分もそのようでなくてはなりません。
24 親は二種類の行動基準,つまり子供のための基準と自分たちのための基準を持つべきではなく,教えることと行なうこととが違っていてはなりません。自分がうそをつくなら,子供にうそをついてはいけないと教えても,それが何の役に立つでしょうか。子供たちとの約束を破るなら,子供たちがあなたとの約束を守るのを期待できるでしょうか。両親が互いに尊敬し合っていないなら,子供たちが敬うことを学ぶのをどうして期待できるでしょうか。もし父母が謙そんさを示す言葉を口にするのを聞くことがなければ,謙そんさはどうして子供の行動基準となり得るでしょうか。父親か母親が,自分は常に正しいというような言い方をするのは非常に危険です。なぜなら,そう言うほうの親が実際に間違いをして不完全な罪深い性向を表わすときでさえ,子供はその親が行なうことなら何でも正しいと思うおそれがあるからです。口で言いながら行なわないなら,偽善的なパリサイ人のようです。彼らについてイエスはこう言われました。「彼らがあなたがたに告げることはみな行ない,また守りなさい。しかし,その行ないにならってはなりません。彼らは言いはしますが,実行しないからです」。ですから,親のみなさん,あなたの家族の中に小さなパリサイ人がいることを望まないなら,あなたも大きなパリサイ人にならないでください。―マタイ 23:3。
25 子供は愛をどのように教えられるべきですか。
25 子供はまず愛の行為を見ることによって愛を学び,愛されることによって愛することを学びます。愛はお金で買えるものではありません。親は子供たちに次から次へと贈り物を与えるかもしれません。しかし,愛は主として霊的な事柄,心の問題であって,財布の問題ではありません。贈り物だけをもって真の愛に代えることは決してできません。愛をお金で買おうとすると愛は安っぽいものになります。物質的な贈り物以上に,あなた自身,あなたの時間,あなたの体力,あなたの愛を与えてください。そうすればあなたは同じような量りで量り返されるでしょう。(ルカ 6:38)それは,神に対するわたしたちの愛について述べているヨハネ第一 4章19節にあるとおりです。「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」。
26,27 与える喜びを子供にどのように教えることができますか。
26 子供は,受けることによって与えることを学べます。ですから与えること,仕えること,分かち合うことの喜びを学ぶように子供を援助することができます。親自身に,そして他の子供や大人に与えることには喜びがあることを悟るように,子供を助けるのです。子供があげるという物を受け取ろうとせず,それを自分のためにとっておかせるほうが子供への愛だという間違った考え方をする大人が時々います。ある人は次のように語っています。
「子供があめをあげると言っても,わたしはいつも受け取りませんでした。子供の好物であることがわかっているものを受け取らないのは親切だと思っていました。ところが,あめを受け取らないで,自分のために全部をとっておかせると,意外なことに,子供は喜びませんでした。それでわたしは,子供の寛大さを,子供の贈り物を,そして子供自身を拒絶していたことを悟りました。それ以後,わたしはそうした贈り物を必ず受け取って,与える喜びを子供に味わわせています」。
27 ある親は,聖書のテモテ第一 6章18節に書かれているような,『惜しみなく施し,すすんで分け合う』人になるように幼い息子を助けたいと考えていました。それで,聖書研究の集会に出席するとき,寄付するお金を持って行って息子に渡し,それを寄付箱に入れさせました。こうして,霊的な事柄を支持することの価値や,霊的な事柄に関して生じるあらゆる物質的な必要の一端を担うことの価値をその子供に教えるのに役立ちました。
28,29 間違いをあやまることの大切さを子供たちにどのように教えられますか。
28 子供たちは,正しく教えられそれと共に立派な手本が示されるなら,愛することや寛大であることを学びますが,それと同様に,必要なときにあやまることも学べます。ある親は,「子供に悪いことをしてしまったとき,わたしは子供の前でそのことを認めます。間違いをした理由と,自分が思い違いをしていたことを子供たちにごく簡単に話します。そうすると,子供たちは,お父さんも不完全だから自分たちのことをわかってくれると考えるので,わたしに対して自分の間違いを認めやすくなります」。この考え方が正しいことは次の例に示されています。ある家に初めての客が来ました。父親はその客に家族をひとりひとり紹介しました。次にかかげるのはその客の話です。
「そこにいた者はみんな紹介されました。するとまた,小さな男の子がにこにこしながら部屋に入って来ました。父親は,『そして,これが,シャツにジャムを付けている,うちの末っ子です』と言いました。男の子の笑顔は消え,かなしそうな表情になりました。子供が恥ずかしくて今にも泣き出しそうなのを見て,父親は急いでその子を抱き寄せ,『あんなことを言って,お父さんは悪かったね。ごめんね』と言いました。男の子はしばらく泣きじゃくっていましたが,それから部屋を出て行き,すぐに前よりももっとにこにこしながらもどって来ました。こんどは新しいきれいなシャツを着ていました」。
29 そうした謙そんさは確かに愛のきずなを強めます。むろん,後ほど親は,大小を問わず生活上の問題に対してどのように平衡の取れた見方をすべきかを子供に説明してやれます。ささいな事柄を深刻に考え過ぎないように,自分を笑えるように,そして,自分が完全さを期待されることを望まないのと同様に他の人々にも完全さを決して期待しないように,子供たちを援助できます。
真の価値基準を持たせる
30-32 人生における真の価値基準を認めるように,親が子供をごく幼い時から援助するのはなぜ大切ですか。
30 今日,人生における真の価値基準について混乱している親は少なくありません。その結果,多くの子供は一連の価値基準というものを全く与えられていません。中には,子供たちの心の態度を方向づける権利が親にあるだろうかと疑ってさえいる親もいます。親がそれをしなければ,他の子供や近所の人々,映画,テレビなどがそれをするでしょう。世代の断絶,若者の反抗,麻薬,新しい道徳,性革命,こうしたものに親はおびえています。しかし実際には,子供の人格は,それらの問題が子供の生活に生じはじめる以前にすでに大方形成されているのです。
31 ある科学雑誌に掲載された研究報告によれば,「人の人格の大部分は就学前に確立される。いうまでもなく,学校に上がる前の子供たちがきわめて感受性が強く,順応性があるということは,普通に知られている。……しかし,われわれは,幼い時に出会った態度と経験が多くの場合永続的で,時には変わらない行動のパターンを確立することを発見した」。
32 良くないパターンは変えることができます。しかし,別の研究者は,貴重な数年をみすみす無為に過ごすならどんなことになるかを次のように述べています。「子供は七歳までは順応性がある。しかし,親の指導が遅れるならそれだけ子供の境遇を急激に変えねばならない。しかも,変化させられる可能性は年を経るごとに小さくなる」。
33 子供に教えねばならない最も重要な概念は何ですか。
33 小さな子供たちは多くの基本的な概念を学ばねばなりませんが,とりわけ大切なのは,真偽,正邪の概念です。使徒パウロはエフェソスのクリスチャンにあてた手紙の中で,正確な知識を得ることを勧めてこう書きました。『わたしたちはもはやみどりごでなくなり,人間のたばかりや誤らせようとたくらむ巧妙さによって,波によるように振りまわされたり,あらゆる教えの風にあちこちと運ばれたりするべきではありません。そうです,わたしたちは真理を語りつつ,愛により,すべての事において,頭であるキリストを目ざして成長してゆきましょう』。(エフェソス 4:13-15)幼い子供が,真実さと正直さに対する愛,正しいことと良いことに対する愛を強めるのを助ける点で親がぐずぐずしているなら,子供は誤りと悪の圧力をまともに受けなければなりません。学齢前の年月は,親が気づかないうちに過ぎ去ると言ってもいいほどです。その時期を無為に過ごしてはなりません。生まれてから数年の,親子がいっしょに過ごせる大切な発育期を,子供に一連の真の価値基準を持たせるために用いてください。そうすれば,後になってあなたが頭を痛めずにすむことでしょう。―箴 29:15,17。
34 強固な基準はなぜ大切ですか。そうした基準を最もよく教えているのは何ですか。
34 「この世のありさまは変わりつつある」と,使徒は霊感を受けて書きましたが,その言葉は世の物質的,感情的,道徳的基準についても確かにあてはまります。(コリント第一 7:31)この世は全く不安定です。親は,人間である以上自分たちもその点で失敗することがあることを認めねばなりません。子供の最善の福祉を心に掛け,子供の将来の幸福をほんとうに気遣うなら,親は真に強固な一連の基準を子供たちに教えるでしょう。幼い時から子供たちに次のことを銘記させるならそうすることができます。すなわち,どんな疑問が起こり,どんな問題を解決しなければならないとしても,神のみ言葉である聖書を調べさえすれば,明確で非常に役立つ答えが得られるということです。状況によって人生がどれほど混乱した,不遇なものに見えても,神のみ言葉は常に,『子供たちの足のともしび,子供たちの小路の光』となります。―詩 119:105,新。
35 子供の訓練はどれほど大切ですか。
35 そうです,学齢前の時期は,生がいにわたって支えとなる一連の価値基準を子供たちに植え付けることを始める絶好の機会です。子供を訓練することはどんな職業よりも尊く,どんな仕事よりも重要です。そしてそれを始める時は,子供の誕生直後,その幼い時です。
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勉強を楽しいものにしましょう
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愛をもって懲らしめる価値あなたの家族生活を幸福なものにする
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10章
愛をもって懲らしめる価値
1 子供が従順になるには何が必要ですか。
すなおで愛らしく行儀の良い子供は偶然の所産ではありません。手本と訓練によって作り上げられるのです。
2 多くの児童心理学者の見解と聖書の助言とはどのように違いますか。
2 多くの児童心理学者は子供たちに“干渉無用”のはり紙を付けています。「子供をたたくたびに子供への憎しみを表わしていることを母親のみなさんはお気づきでしょうか」と言った学者もそのひとりです。ところが,神はそのみ言葉聖書の中で,「むちを惜しむ人はその子を憎むのであるが,子を愛する人は努めて子を懲らしめる」と述べておられます。(箴 13:24,改訂標準訳)2,30年前,特に西欧諸国において,放任主義の理論に基づく子供のしつけに関する本が書店にはんらんしました。懲らしめは子供の行動を抑制しその発育を阻害すると心理学者たちは言いました。子供をたたくということなどは,考えただけでも恐ろしいことでした。その理論はエホバ神の助言と真っ向から衝突しました。神の言葉は,人は「自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになる」と述べています。(ガラテア 6:7)2,30年間,放任主義の種をまいてきた結果はどんなものでしょうか。
3,4 家庭での適切な懲らしめが欠けるとどんな結果になりますか。それで多くの人々は何を勧めていますか。
3 おびただしい数の犯罪と非行を刈り取っていることは周知の事実です。多くの工業国では青少年犯罪が重大犯罪の半数余りを占めています。学校が,授業の妨害,けんか,悪口,わいせつ行為,破壊行為,暴行,強かつ,放火,盗み,強姦,麻薬,殺人の温床になっている所が世界にいくつかあります。ある大国の教職員連盟のスポークスマンによれば,しつけの問題は学校が低学年の児童にそれを行なっていないことに起因しており,また非行の原因は,家庭の崩壊と親が子弟のために行動の基準を設ける意志を持たないところにあるということです。『同じ家族の中で犯罪を犯す者と犯さない者とが出るのはなぜか』という問題を取り上げて,「大英百科事典」は次のように述べています。「家庭における懲らしめの方針が手ぬる過ぎるか,厳し過ぎるか,あるいはひどく一貫性を欠いているかしているかもしれない。米国が行なった調査によると,犯罪者の約七割は理に合わない懲らしめと関係があるようだ」。
4 そういう結果になったために,多くの人々は見方を変え,懲らしめの必要性に再び注目するようになりました。
懲らしめのむち
5 おしりをたたくことについて聖書はどのような見方をしていますか。
5 体罰は子供の命を救うものともなります。なぜなら,神のみ言葉聖書には,「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたが彼を細棒でたたいても,彼は死なない。細棒をもってあなたは彼をたたくべきである。その魂をシェオールから救い出すために」とあるからです。さらに,「愚かさが少年の心に結び付いている。懲らしめの細棒がそれを彼から遠くに取り除くものとなる」とも述べられています。(箴 23:13,14; 22:15,新)子供の生がいにわたる利益を大切に考える親なら,弱気を出したり,うっかりしたりして,懲らしめを与えずにすますようなことはないでしょう。必要なときには愛を動機として賢明かつ公正な処置を講じます。
6 懲らしめにはどんなことが含まれますか。
6 懲らしめそのものは,必ずしも罰を与えることに限られていません。懲らしめの基本的な意味は,「一定の秩序もしくはわく組みを堅く守る教育および訓練」です。ですから箴言 8章33節(新)は,『懲らしめを感じなさい』ではなく,「懲らしめを聴き,賢くなりなさい」となっています。テモテ第二 2章24,25節によれば,クリスチャンは「すべての人に対して穏やかで,教える資格を備え,苦境のもとでも自分を制し,好意的でない人たちを柔和な態度で諭すことが必要です」。ここに出ている「諭す」という語は,懲らしめに相当するギリシャ語の訳です。その同じギリシャ語はヘブライ 12章9節ではそのように訳されています。「わたしたちは,わたしたちを懲らしめてくれた地的な父親に然るべき敬意を払いました。霊的な父にはなおさらのこと進んで服して,命を得るべきではないでしょうか」― 新英訳聖書。
7 親が懲らしめるときどんな良い結果がありますか。
7 悪行を大目に見て処罰しない支配者が市民から尊敬されないのと同様に,懲らしめることをしない親は子供から尊敬されません。正しい懲らしめは子供にとっては親が自分のことを気にかけてくれる証拠です。また,それは家庭の平和に役立ちます。なぜなら,「それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出す」からです。(ヘブライ 12:11)どの家庭でも不従順で行儀の悪い子供はいらいらの種になります。また本人も決して幸福ではなく,自分に対してさえ満足できません。『あなたの子を懲らしなさい。そうすれば,あなたに休みをもたらし,あなたの魂に多くの喜びを与えるでしょう』。(箴 29:17,新)き然としたなかにも愛情をこめて正すと,子供はある程度新しい見方をするようになり新しく出直すことができ,気持ち良く付き合えるようになることが少なくありません。懲らしめは確かに『平和な実を生み出し』ます。
8 親は愛をもってどのように懲らしめることができますか。
8 『エホバは自分の愛する者を懲らしめられます』。(ヘブライ 12:6)子供の最善の福祉をほんとうに心に掛けている親も同じです。懲らしめは愛に基づいて与えられねばなりません。子供の悪行にかっとなるのはよくあることかもしれませんが,聖書が教えている通り,人は『苦境のもとでも自分を制する』ことが大切です。(テモテ第二 2:24)冷静になってみると,子供の罪はそう大したことではないように思えるかもしれません。『人の洞察力は確かにその人の怒りを遅くします。違犯を過ぎ越すことはその人の美です』。(箴 19:11,新。伝道 7:8,9もご覧ください。)子供がひどく疲れていたとか気分がよくなかったというような,酌量すべき事情があるかもしれません。言われていたことをすっかり忘れていたかもしれません。大人でもそういうことがあるのではないでしょうか。しかし,たとえ見過ごすわけにいかない悪行の場合でも,懲らしめは,前後を忘れてどなりつけたりぶったりする,親のいきり立った感情をぶちまけるだけのものとなってはなりません。懲らしめには諭すことも含まれています。親がかっと怒るなら,子供は自制することではなく自制を失うことを学びます。正しく懲らしめられた場合のような,親に鍛えられているという感じはありません。ですから,平衡を取ることは非常に大切です。それは平和に役立ちます。
しっかりした制限を設ける
9 箴言 6章20-23節に従い,親は子供に何を施すべきですか。
9 親は子供たちのために指針を設けるべきです。『ああわが子よ,あなたの父のおきてを守り行ないなさい。またあなたの母の律法を捨ててはなりません。それらを絶えず自分の心に結び,自分ののどに縛りつけておきなさい。あなたが歩き回る時,それはあなたを導き,身を横たえる時,それはあなたの上に見張りとして立つでしょう。そしてあなたが目覚めた時,それはあなたに関心を向けるでしょう。おきてはともしび,そして律法は光,懲らしめの戒めは命の道だからです』。親の教えは子供を導き保護します。それは親が子供の福祉と幸福を気遣っていることの表われです。―箴 6:20-23,新。
10 親が子供を懲らしめることを怠るなら,どんなことになる恐れがありますか。
10 それをしない親は責任を取らねばなりません。古代イスラエルの大祭司エリは息子たちが貪欲で不敬で不道徳になるがままにまかせました。エリは息子たちに小言を言いはしたものの,その悪行をやめさせるために具体的な処置は取りませんでした。それで神は次のように言われました。「彼の知っている誤りのために定めのない時までわたしがその家を裁こうとしている。それはその息子たちが神をのろっているのに,彼は息子たちを叱責しなかったからである」。(サムエル前 2:12-17,22-25; 3:13,新)同様に母親もその務めを怠るなら恥辱を味わわねばなりません。『棒と戒めが知恵を与えます。放任された少年[あるいは少女]は自分の母に恥を来たらします』― 箴 29:15,新。
11 子供にはなぜ制限を設けてやる必要がありますか。
11 子供には制限を設けてやる必要があります。それがないと子供たちは不安で心が落ち着きません。制限を課されそれを守るときに,子供たちはグループの一員であることを自覚します。規則を守っているゆえにそのグループに属しグループに受け入れられていると感じるのです。放任主義は子供を見捨てることであり,子供がひとりで失敗を重ねるのをそのままほうっておくことです。その結果を見れば,子供には,制限に関してしっかりした信念を持つ,そしてその信念を子供にも持たせる大人が必要である,ということがわかります。地上に住む人にはすべて制限が課されており,その制限は個人の幸福と益をもたらすということを,子供は理解する必要があります。他の人がわたしたちの自由の範囲を認め,わたしたちが他の人のそれを認めるときにのみ,わたしたちは自由を楽しむことができます。適切な正しい制限を踏み越えるということは明らかに,『兄弟の権利を害し侵そうとしている』ことを意味します。―テサロニケ第一 4:6。
12 自己訓練はなぜ大切ですか。子供が自己訓練をするよう親はどのように助けられますか。
12 適切な正しい制限を無視するなら何らかの懲らしめが与えられることがわかると,子供は自分たちに課された制限を認めるようになります。また,親のき然とした態度と導きによって,子供は満足のいく生活を送るために必要な自己訓練をするようになります。わたしたちは自戒するか,または他から懲らしめられるかのどちらかです。(コリント第一 9:25,27)もし自戒することに努め,子供たちもそうするように助けるなら,親も子供も問題や悩みのないより幸福な生活を送ることができます。
13 子供のために指針を設ける際に,親はどんな重要な要素を念頭に置くべきですか。
13 子供たちに与える指針と制限は,子供たちによくわかるもの,公平なもの,情状を酌量する余裕を持つあわれみ深いものであるべきです。期待しすぎてもいけないし,またその逆でもいけません。子供の年齢を忘れないでください。子供は年齢に相応した行動しかしないからです。ですから,子供に小さな大人になることを期待しないでください。みどりごであったときにはみどりごのように行動した,と使徒は述べています。(コリント第一 13:11)しかし,いったん無理のない規則を設けて子供たちにそれを理解させたなら,直ちに,しかも首尾一貫してそれを実施してください。『あなたがたの“はい”ということばは,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしてください』。(マタイ 5:37)約束を守り,言行が一致していて気まぐれでない親を,子供たちはほんとうに心強く思います。自分を支えてくれる親の力を感じ,問題が起きたり助けが必要な場合にはその力に頼れると思うからです。悪行を正す際に親が公平で,しかも建設的であるなら,子供たちは安心感や安定感を得ます。子供たちは自分がどんな立場にあるのか知りたがるものですが,そのような親を持っている子供は確かにそれを知ります。
14 子供が親の指示に応じない場合,き然とした態度はなぜ重要ですか。
14 子供が親の命令に反発するときにき然とした態度を示すには,親の側に決意が必要です。そのようなとき,罰を与えると脅したり,子供と無益な口論をしたり,あるいは子供に物を与えて言いつけたことをさせようとしたりする親がいます。しかし多くの場合,き然とした態度で,また自信を持って,今すぐそれをしなければいけませんと言うだけで事は足ります。向かって来る自動車の前に子供が飛び出そうとするなら,親は取るべき行動をはっきりした言葉で子供に告げます。この問題を研究しているある研究者たちは次のように指摘しています。「ほとんどすべての親は子供たちに学校へ行くこと,……歯をみがくこと,屋根に登らないようにすること,ふろに入ること,などをさせる。子供たちは反抗する場合が多いが,それでも親が本気で言っているのを知っているので従う」。指針と戒めを首尾一貫して徹底させるときに初めて,あなたは子供が『あなたの指針やおきてを絶えず自分の心に結びつけておく』ことを期待できます。―箴 6:21,新。
15 親が指針を実施する際に首尾一貫していないなら,子供にどんな影響があるかもしれませんか。
15 親が気まぐれやその時の気分しだいで,指針に従わせることをしたりしなかったり,あるいは不従順な態度を取ってもすぐに懲らしめなかったりするなら,子供は大胆になり,どの程度まで言いつけに背けるか,どれぐらいうまくやりおおせるか試してみます。すぐに罰を受けないと見えると,大人と同じで,悪いことをすることに大胆になります。『悪い業に対する刑の宣告が速やかに下されなかったので,それがために人々の子らの心は己の中で悪を行なうよう凝り固まってしまいました』。(伝道 8:11,新)ですから心に思っていることを言い,また言うことを実行しなければなりません。そうすれば子供はそういうものなのだとわかり,ふくれ面をしてもわめいても,残酷で冷たい親だと思っているように振る舞ってみても,なんの役にも立たないことに気づくでしょう。
16 適切を欠いた命令を与えないために,親は何をすべきですか。
16 そのためには話す前に考える必要があります。急いで作った規則や命令は適切を欠いている場合が少なくありません。「聞くことに速く,語ることに遅く,憤ることに遅く」あることが大切です。(ヤコブ 1:19)懲らしめが公平を欠き矛盾しているなら,子供が持っている当然の正義感にさわり,子供は心に怒りを募らせるでしょう。
娯楽を監督する
17 子供たちは仕事と遊びに対してどんな見方を認識するようになるべきですか。
17 遊ぶことは子供にとって自然な生活です。(ゼカリヤ 8:5)親はそのことを認めなければなりません。しかし,労働に対する認識や責任感も,子供の生活の中に徐々に取り入れていく必要があります。そして,一番よいことは,どんな仕事を割り当てられてもまずそれを行ない,遊びをその次にすることです。
18 交わりは子供にどんな影響を与えかねませんか。
18 ある子供たちは外に楽しみを求めるため“街路にたむろする子供”になり,家にいることはほとんどありません。その交わりが良くなければ,受ける影響も良くありません。(コリント第一 15:33)むろん家庭外でのある程度の交わりは,人々に対する理解を広める点で子供に益となります。しかしそれも度が過ぎたり監督されなかったりすると,家族のきずなは弱まり,家庭が分裂することさえあります。
19 親は家庭を子供にとって楽しいところにしているかどうか,どんな点を再吟味してみることができますか。
19 そうした状態を正すために懲らしめを与えることに加えて,家庭を子供たちにとってもっと楽しいところにするためにどんなことができるか,親が自問するのはよいことです。教えたり懲らしめたりするときだけでなく,子供たちの真の友だち,真の仲間となって十分の時間をいっしょに過ごしているでしょうか。いつも「非常に忙しくて」子供たちといっしょにいたり遊んだりする時間がないでしょうか。子供といっしょに物事をする機会はいったん逃したらもどって来ません。時間は一方向に進みます。子供はひとところにとどまってはおらず,絶えず成長し変化し続けています。月日は矢のように過ぎて,息子が歩き始めたのがついきのうのように思えても,ふと気づいたときにはその子は若者に,そして幼女だった娘は若い婦人になろうとしています。時間の用い方に平衡を保ち自己訓練をするなら,この大切な時期に得られる貴重な機会を軽視せずにすみ,また子供が小さいうちに自分から離れていくのを防ぐことができます。―箴 3:27。
20,21 家にテレビがある場合,親にはどんな責任がありますか。それはなぜですか。
20 テレビを見ることをレクリエーションにしている家庭では,制限を設けることが必要かもしれません。テレビに子守りをさせる親もいます。それは便利かもしれず,安くつくように思えるかもしれませんが,実際には非常に高いものにつく可能性があります。テレビの番組はしばしば暴力と性で満ちています。問題の解決方法として暴力が許されるような印象を与えますし,不倫な性は,日常生活の一部で別に悪い事ではないようにうつります。そのために人々,それも特に若い人々は,暴力と性に対して鈍感になることを多くの調査は示しています。親は子供に汚染されていない健全な食物を食べさせるように気を配ります。では子供の思いがどんなもので養われているかについてはさらに注意を払うべきです。イエスがおっしゃったように,食物は心に行きませんが,思いに採り入れるものは心に入り得るからです。―マルコ 7:18-23。
21 どんなテレビ番組を見るか,どれぐらいの時間テレビの前で過ごすかを監督することは,子供の発育に大きな相違をもたらします。テレビは楽しい気晴らしになり教育的な面すら持っています。しかし,用心しないと中毒になり,多くの時間を奪われます。時は命です。テレビを見る時間の一部をもっと有効に用いることができることは確かです。というのはテレビの場合は,物事をする代わりにただ見るだけになるからです。体を動かす活動はもとより読書や会話も締め出されてしまいます。家族には心の通じ合いとだんらんが必要ですが,一つ部屋にいても黙ってテレビを見ているだけではその必要は満たされません。テレビの見過ぎが問題であれば,親はテレビに代わる活動,たとえば健全な遊びや読書や家族ぐるみの活動に子供の関心を向けさせることができます。もし親自身が率先して模範を示すなら,それはなおのこと容易でしょう。
懲らしめるときには意思の疎通を図りなさい
22 子供が親の使う言葉を理解するのはなぜ大切ですか。
22 ある親は次のように自分の経験を語りました。
「息子が三歳のとき,わたしはうそがいけないことをよくよく言ってきかせました。箴言 6章16節から19節や他の聖句を使って,神がうそつきを憎まれることを話しました。息子はよく聞き,正しく反応しているように見えました。しかし,わたしは息子がどうもよくわかっていないように感じたので,『ねえ,ぼく,うそってどういうことかわかる?』と聞きました。息子は『わかんない』と言いました。このことがあってからわたしは,息子が言葉の意味と自分が懲らしめられている理由を理解しているかどうか,必ず確かめるようにしました」。
23 子供に特定の行動の正しさをわからせるためには,どうすることができますか。
23 子供がまだ幼い間は,例えば熱いストーブにさわらせないようにするときのように,物を指差して“これだめ”と言うくらいのことしかできないかもしれません。しかし,そういう初歩の簡単な警告を与える場合でも,理由を教えることができます。ストーブは“熱い!”ので,またそれにさわると“やけどをする!”のでいけないと簡単に言うだけでもよいでしょう。しかし,言われることは自分の益のためになるという考え方を最初から子供に持たせるようにします。それから,親切,思いやり,愛といった資質が望ましいものであることを強調します。正しい規則や制限はすべてそうした特質に基づいて設けられていることを認識するように子供を助けます。また,ある行為がなぜそれらの望ましい特質の表われと言えるか,あるいは言えないかをはっきりさせます。このようなことを首尾一貫して行なうなら,子供の思いだけでなく心をも動かすことができるでしょう。―マタイ 7:12。ローマ 13:10。
24 子供が権威を尊重することはなぜ大切ですか。
24 同様に,従順であること,権威に対して敬意を払わねばならないことなども,少しずつ教えていく必要があります。生後一年の間に,子供が大人の命令を聞こうとするかしないかがわかり始めます。子供の知能がその段階にまで発育したらすぐに,神に対する親の責任を子供にしっかり認識させます。それをするかどうかによって子供の反応は大いに違ってきます。その認識がないと,子供はただ親が自分より大きくて強いので従わねばならないと考えるかもしれません。反対に,親が自分の考えを述べるのではなく,創造者のおっしゃること,神のみ言葉聖書に述べられていることを教えているのだと子供に理解させるなら,親の助言と指導は,他の何物も与え得ない力を持つものとなります。幼い子供の生活に難しい問題が入り込むようになって,男の子にせよ女の子にせよ,誘惑や圧力に面して正しい原則に付き従うことにストレスや緊張を感じるようになった場合に,このことは,必要な力の真の源となります。―詩 119:109-111。箴 6:20-22。
25 箴言 17章9節の助言は,親が正しく子供を懲らしめるうえでどのように役立ちますか。
25 「違犯を覆う者は愛を求めている。事をとやかく言う者は親密な人たちを引き離している」。(箴 17:9,新)このことは親子の関係にも当てはまります。子供に間違いを指摘し,懲らしめを受ける理由を理解させて懲らしめたなら,愛のある親は子供の間違いを繰り返し口にすることは避けるはずです。どんなことをしたにせよ,親が憎んでいるのは悪行そのものであって,子供自身ではないということを,ぜひともはっきりさせなければなりません。(ユダ 23)子供は“罰をじっとがまんして受けた”と感じていて,そのことを何度も言われるのは不必要に屈辱を受けることだと考えるかもしれません。その結果,親や兄弟から離れて行くこともあります。悪い傾向が強くなっていくのが心配な場合は,のちほどその問題を家族の話し合いか何かのときに取り扱います。過去の行ないを単にもう一度取り上げて調べ直すだけですますというようなことをするのではなく,関係している原則を考慮し,それらの原則をどのように適用するか,それらが永続的な幸福になぜそれほど大切かをいっしょに検討します。
いろいろな懲らしめ方
26 すべての子供を同じように懲らしめても望ましい結果が得られないのはなぜですか。
26 『一度の叱責は,愚鈍な者を百度打つよりも,理解力を持つ者に深く働きます』。(箴 17:10,新)子供たちにはそれぞれ異なる方法で懲らしめを与える必要があるでしょう。個々の子供の気質や性質を考慮しなければなりません。非常に敏感な子供の場合,おしりをたたくなどの体罰は必ずしも必要でないことがあります。そうかと思うと,おしりをたたいても効果のない子供もいます。中には箴言 29章19節(新)に述べられているしもべのような子供もいます。「僕は単に言葉によって正されるものではない。理解しても注意を払っていないからである」。そのような子供には体罰が必要でしょう。
27 ある父親はどのようにして幼い息子が壁にらくがきするのをやめさせましたか。
27 ある母親は次のように言いました。
「息子は二歳になったばかりのときに壁にらくがきをしました。床からほんの少し上がったところに小さな赤い汚れをたくさんつけてしまいました。主人はそれを息子に見せてだれがしたのか尋ねました。息子はうんともすんとも言わずに,目を大きく見開いて父親の顔をじっと見つめるだけでした。とうとう主人はこう言いました。『お父さんもね,おまえぐらいの年のときに壁にらくがきをしたけども,壁にかくのはおもしろいね』。すると,幼い息子はうちとけて,にこにこしながら,らくがきするのがおもしろかったことを生き生きと話し始めました。父親に理解してもらえることがわかったからです。しかし,どんなにおもしろくても,壁は物を書くところではないということを主人は説明しました。それで心が通じ合い,この子にはもう少しことをわけて話すだけでことが足りました」。
28 親はどうしたら子供と議論するのを避けられるでしょうか。
28 懲らしめるとき,理由をあげて教え諭すのはよいことですが,子供と議論するのは通常賢明ではありません。子供がある仕事をすることについて文句を言ったとき,ある母親は「あなたがそれをしてしまったら公園へ行きましょう」とだけ言いました。公園へ行くことは子供がその日に楽しみにしていたことでした。割り当ての仕事を終えるまでは楽しみや外出はおあずけになっていました。母親は調べに来て仕事がまだ終わっていないと,「あら,まだ終わってないの。ではそれが終わったらでかけましょうね」と言うようにしました。母親は議論はしませんでしたが,思い通りの結果を得ました。
29 悪いことをすれば望ましくない結果になることを子供に感じさせるためには,どんなことができますか。
29 悪いことをしたあとのおもしろくない結果を身に感じると,子供は正しい原則の知恵を学ぶようになります。子供が物をちらかしたときなど,自分でかたづけさせると子供はちらかしてはいけないことを肝に銘ずるでしょう。子供がずるいことや乱暴なことをしたとき,あやまらせるなら,悪い傾向は大いに改善されるかもしれません。子供は怒って物をこわすこともあります。十分大きな子供であれば,働いて弁償させることもできるでしょう。子供によっては,しばらくの間何らかの特権を奪うと,必要な教訓を肝に銘ずるでしょう。クリスチャン会衆では,悪行者に恥ずかしいという気持ちを起こさせる一つの方法として,親しい交わりを禁じます。(テサロニケ第二 3:6,14,15)子供たちの場合も,少しの間家族から仲間はずれにするのは,おしりをたたくよりも効果的なことがあります。しかし,家にかぎをかけて子供を締め出すような極端な処置は,愛から出た行為とは言えないでしょう。どんな方法を用いるにせよ,子供は,自分の素行から生じた結果に対しては自分で責任を負わねばならないということを教えられる必要があります。子供たちはそれによって責任を取ることを学びます。
愛をもって懲らしめる
30 親が子供のために指針を設ける際に平衡を取ることはなぜ大切ですか。
30 『上からの知恵は道理にかなっている』ことを念頭に置いて,『より重要な事がらを見きわめて』ください。(フィリピ 1:10。ヤコブ 3:17)子供たちはエネルギーのかたまりでそのはけ口を求めており,学ぶことや探検すること,新しいことを試すことなどに飢えています。制限や指針を設ける際には判断力を働かせ,よく選択しましょう。大切な事柄とそうでない事柄との平衡をうまく保つことも大切です。ですから,制限を設けたならそのあとは,細かな点まで逐一支配しようとせずに,子供がその範囲内で自信を持ってのびのびと動きまわれるようにしてやりましょう。(箴 4:11,12)そうしないと,子供は『いらいらし』,「気落ち」することでしょう。そして,親の方は実際にあまり重要でない事柄を問題にするために,気づかぬうちに疲れ果ててしまうでしょう。―コロサイ 3:21。
31 エホバは懲らしめを与える点でどんな模範を示しておられますか。
31 ですから,親のみなさん,『望みのあるうちにあなたのお子さんを懲らしめて』ください。しかし愛を動機として,神の方法で,それを行なってください。神を見倣ってください。『エホバはご自分の愛する者を戒められるからです。それは,父が喜びを見いだす子にそうするのと同じです』。創造者の懲らしめと同様に,あなたの懲らしめを非常に有益で価値のあるものにしてください。なぜなら,そうした『懲らしめの戒めは命の道だからです』。―箴 19:18; 3:12; 6:23,新。
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意思疎通の道を開いておくあなたの家族生活を幸福なものにする
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11章
意思疎通の道を開いておく
1,2 意思の疎通とはどういうことですか。なぜそれは大切ですか。
意思の疎通とは単に会話をするということではありません。使徒パウロもその点を指摘して,あなたがたの言葉が聞き手に理解されないなら,「あなたがたは,実際には空気に話していることになるのです」と述べました。(コリント第一 14:9)親が話す事柄は子供に通じているでしょうか。また,親は子供が話そうとしている事柄を本当に理解しているでしょうか。
2 本当の意味で意思の疎通を図るには,考えや意見や気持ちが相手に伝わらなければなりません。愛を幸福な家族生活の心臓と呼べるなら,意思の疎通は血液と呼べるでしょう。夫婦間に意思の疎通がなくなると問題が生じます。親子の間で意思の疎通がなくなるときも,夫婦間の場合以上ではないにしても,同様に深刻です。
長い目で見る
3 親は子供がどんな時期になると意思疎通の問題が起きることを予期すべきですか。
3 親子の間の意思の疎通が最も難しくなるのは,子供が幼いときではなく,思春期,つまり“十代”です。親はそのことを認めるべきで,子供が幼いときに比較的問題がないから十代になっても大丈夫だろうと考えるのは現実的ではありません。問題は必ず生じます。意思の疎通は,もしそれがすっきりと効果的にいけば,そうした問題を解決しまた少なくするための重要な要素となります。親はそのことを認めて前途を見越し,前もって考えることが必要です。なぜなら,「事の後の終わりはその始めに勝る」からです。―伝道 7:8,新。
4 家族の意思疎通の方法は会話だけに限られますか。説明してください。
4 家族の意思疎通の道を作り,強め,維持することには多くの事柄が関係します。長い年月の間に,夫と妻は信頼や信用や互いに対する理解を深め,口に出さなくても意思を通わせることができるようになります。まなざしや,ほほえみや,また手でさわるだけで,多くのことを語り合えます。親は子供との意思の疎通に同様の強力な土台を築くことを目標にすべきです。子供がまだ言葉のわからないときに,親は安心感と愛を子供に伝えます。子供が育つ間,家族がいっしょに働き,遊び,さらには共に神を崇拝するなら,意思疎通のためのしっかりした道が確立されます。しかしその道を開いておくには真の努力と知恵が必要です。
何でも話すように子供を励ます
5-7 (イ)子供が話すのをやめることについて親が注意深いのはなぜよいことですか。(ロ)親は子供に礼節を守ることをどのように教えることができますか。
5 「子供は口を出すものではない」と古くから言われます。時にそれは真実です。子供たちは,神のみ言葉が述べるように「黙っている時と話す時」があることを学ばねばなりません。(伝道 3:7,新)しかし,子供は自分に関心を示されることを強く願うものです。それで,親は子供が自由に自分の考えを言い表わすのを不必要に抑えないように気をつけなければなりません。さまざまな経験に対して幼い子供が大人と同様の反応を示すことを期待すべきではありません。大人は一つの出来事を人生の広いパノラマの一部として見ます。しかし,子供は非常に興奮して,さしあたり関心のある事柄に夢中になり,ほかの事はほとんど忘れてしまいます。小さな子供などは部屋にとび込んで来て,何か起きたことを興奮して父親か母親に話し出すかもしれません。親がいら立った調子で“静かにしなさい”と言って子供の話をさえ切ったり,怒ったりするなら,子供の熱意はくじかれるでしょう。子供のおしゃべりはたあいがないように思えるかもしれません。しかし,自然に自分の考えを話すように子供を励ますなら,子供が大きくなったときに,親が知りたいと思い,また知る必要のある事柄を言わないでいるという事態を避けられます。
6 礼節を守ることは,意思の疎通を円滑にするのに寄与します。子供たちは礼儀正しくあることを学ばねばなりませんし,親は他の場合と同様,子供と話し合うときにも手本を示すべきです。戒めることはぜひともしなければなりません。必要ならば厳しく戒めねばなりません。(箴 3:11,12; 15:31,32。テトス 1:13)しかし,子供がいつも話をさえぎられ,絶えずきょう正され,もっと悪いことに,口を開けば親にけなされ,あざけられさえするなら,子供は内向的になるかもしれません。あるいは話をしたいときにはだれか他の人のところへ行くでしょう。男の子でも女の子でも年が大きくなればなるほど,そうしたことが起こりやすくなります。ですから一日の終わりに子供との対話を反省し,感謝や励ましや称賛となるような事柄をどのくらい言っただろうか,またそれと反対に,『子供をこきおろす』ようなことや,不満,いら立ち,憤りなどをほのめかすようなことを何度言っただろうか,自問してみるのはよいことです。その結果に自分でも驚くことがあります。―箴 12:18。
7 親の辛抱強さと自制が求められることは少なくありません。子供には衝動的なところがあります。思ったことをだしぬけに話して,大人の会話の邪魔をするかもしれません。親は子供をそっけなくしかることもできます。しかし時には,ていねいに耳を傾けて自制の手本を示し,簡単に答えてやったあとで礼儀を守り思いやりを示すことの大切さを,やさしい態度で思い出させるほうが賢明な場合もあります。したがって,ここでも,「聞くことに速く,語ることに遅く,憤ることに遅く」あるべきであるという助言が当てはまるでしょう。―ヤコブ 1:19。
8 親はどうすれば子供たちが導きを求めて自分たちのもとに来るよう励ませるでしょうか。
8 子供が問題をかかえているなら,自分に導きを求める気持ちになってほしいと親は思います。それで親自身が導きを求めること,また尊敬し頼っている人がいることを示すなら,自分に導きを求めるよう,子供たちを励ますことができます。子供がまだ小さいうちに意思の疎通を円滑にする方法について,ある父親は次のように語りました。
「ほとんど毎晩,わたしは寝るときに子供たちといっしょに祈りをささげます。子供たちはたいていベッドに入っており,私はそのわきにひざまずいて子供たちを腕に抱きます。そして私が祈りをささげると,子供たちはふつうそれに唱和します。また私にキスして『パパ大好き』と言ってから,自分の心にあることを話し出すことも珍しくありません。ベッドのぬくもりと,父親に抱かれた安心感とで,子供たちは助けてもらいたい個人的な問題を話すのでしょう。あるいは愛情を表現するだけなのかもしれません」。
食事の時や他の機会に,決まりきった祈りでなく,心からあふれ出る意味の深い祈りをささげるなら,子供たちとよい関係を築くうえで大いに役立ちます。―ヨハネ第一 3:21; 4:17,18。
過渡期
9 幼い子供たちが持つ問題や必要と比較すると思春期の子供が持つ問題や必要についてはどんなことが言えますか。
9 思春期は,息子や娘が子供でなく,かといって大人でもない過渡期です。したがって十代は体の変化する時で,それが感情に影響します。十代の若者の問題と必要は,それ以前の時のものと異なります。ですから親は,十代の子供の問題と必要に関してはそれまでと違った取り組み方をしなければなりません。それまで効果のあった方法が思春期の子供にも効果があるとは必ずしも言えないからです。理由を話さねばならないことがさらに多くなりますから意思の疎通の必要性は少なくなるどころかいっそう大きくなります。
10 (イ)思春期の子供には,性について簡単に説明するだけではなぜ不十分ですか。(ロ)親は子供と性について話したいとき,どのように話を切り出すこともできますか。
10 例えば性に関する説明にしても,幼い子供にしていたような説明では,思春期の子供を納得させることはできません。思春期の子供は性衝動を感じますが,きまりが悪いと考えて父親や母親に質問しようとしないことが少なくありません。ですから親のほうから話を始めなければなりませんが,特に仕事や遊びで子供の親しい仲間になり,心がよく通じ合う仲になっていないと,そうすることは難しいでしょう。前もって教えられている子供は,射精や月経を初めて経験しても心を取り乱すことはあまりありません。(レビ 15:16,17; 18:19)父親は息子と散歩しているときなどに,ほとんどの若者が自涜について少なくとも何らかの悩みを持っていることを話しながら自涜の問題を持ち出し,「おまえはそれをどうしているんだい」とか,「おまえもそのことを悩んでいるかい」と尋ねてみることができるでしょう。家族の話し合いのときにも,ときどき思春期に伴う問題を取り上げ,父親と母親がくつろいだ気分で,しかし率直に助言することもできます。
十代の子供の必要を理解する
11 思春期の若い人々はどんな点で大人と違いますか。
11 『知恵を得てください。そして自分の得るすべてのものをもって理解を得てください』。(箴 4:7,新)親は若者のやり方をよく知り,また若者の感情をどう察することができなければなりません。自分が若者だったときのことを忘れないことです。また,大人はだれしもかつては若者でしたから,その年代のことがわかりますが,若い人たちはまだ大人になったことがない点も忘れないようにすることが大切です。思春期の子供はもう子供扱いされることを望みませんが,まだ大人ではないので,大人の関心事にそれほど関心がありません。まだ遊びたい気持ちが強く,そのための時間を必要としています。
12 十代の子供たちは親からどんな扱いを受けることを望んでいますか。
12 この年頃の若者が親に特に望む事柄が幾つかあります。まず理解を望みます。また一個の人間として扱われることをかつてなく強く望みます。自分が大人になりつつあることを考慮に入れた,首尾一貫した指針と指導を望みます。また自分は必要とされ感謝されているという自覚を持つことを強く願います。
13 十代の子供たちは親から課された制限にどう反応するかもしれませんか。それはなぜですか。
13 子供が思春期になって制限に対するある程度の反発が表面化し始めるからといって,驚く必要はありません。それは若い人が独立する時期に近づいているためであり,もっと自由に行動し選択したいという自然の欲求のためでもあります。何もできない赤ん坊は親の世話を絶えず必要とし,幼児は注意深い保護を必要としますが,成長するにつれて活動の分野は広がり,家族外の人々との結び付きがふえて強くなります。息子あるいは娘は,独立への道を模索しているためにやや扱いにくくなることがあります。親は,親の権威を無視することやくつがえすことを許すべきではありません。許すなら子供自身のためになりません。しかし,その穏やかでないと思える行動の背後にある動機を心に留めているなら,賢明に対処し,意思の疎通を保つことができます。
14 もっと大きな自由が欲しいという子供の願いに親はどのようにうまく対処できますか。
14 息子または娘から,もっと自由を与えてほしいとせがまれるなら,親はどうすべきでしょうか。そのむずむずした気持ちは手の中に握り締めたばねのようなものです。ぱっと手を開くなら,コントロールを失ってどちらの方向に飛んでいくか予測できません。またあまり長く握り過ぎると,握っている人は疲れますし,ばねは弱くなります。しかし,加減しながら徐々に手を開いてばねを伸ばしていくなら,ばねはあるべき位置から動きません。
15 イエスが大人になるまで親の指導に服されたことは何からわかりますか。
15 そのように子供を徐々に独立させていった例として,少年時代のイエスの例があります。史実に基づく記録であるルカ 2章40節には,十歳になるまでのイエスについて,「幼子は成長して強くなってゆき,知恵に満たされ,神の恵みが引き続きその上にあった」と述べられています。イエスの両親がイエスの成長に大切な役割を果たしたことは間違いありません。というのは,イエスは完全ではありましたが,その知恵は自動的に身に着いたわけではなかったからです。そのあとの記述に見られる通り,イエスの両親はイエスを訓練するための霊的な環境を定期的に備えました。12歳のときのこと,過ぎ越しの祭りで家族がエルサレムにいた間,イエスは神殿に行ってそこの宗教教師たちと話をしました。イエスの両親が12歳の息子にその程度の行動の自由を与えていたことは確かです。ところが彼らは,イエスがあとに残されたことに気づかずに,エルサレムを出発しました。知人や親せきの者たちといっしょに帰っていると思ったのでしょう。三日後,両親はイエスが神殿にいるのを見つけました。イエスは年長の人々を教えようとしていたのでなく,「その話すことを聴いたり質問したりして」いました。母親が,ふたりともたいへん心配したことを話すと,イエスは敬意のこもった態度で,出発の時に自分が神殿にいることをふたりとも知っているものと思っていたという意味の返事をされました。イエスは行動の自由をある程度得ておられましたが,その後も,『引き続き両親に従われた』と述べられています。イエスは十代になっても,両親から与えられる指針や制限に順応し,『知恵においても,身体的な成長においても,また神と人からの恵みの点でもさらに進んでいかれたのです』。―ルカ 2:41-52。
16 思春期の子供のことで悩んでいる親は,何を思いに留めておくべきですか。
16 同様に,親は十代の息子や娘に自主的な行動をある程度許し,子供が大人になるにつれてその範囲を徐々に広げ,子供が親の指導や監督を受けながらしだいに多くの事柄を自分で決定するようにさせるべきです。問題が起きたときに親がその理由を理解していれば,ささいなことで大騒ぎをせずにすみます。十代の子供には,親に故意に反抗するのではなく,方法がわからないままにある程度の自由を得ようとしている場合がよくあります。ですから,親が誤解して何でもないことを問題にすることがあります。それほど重大なことでなければそのままにしてもよいでしょう。しかし,重大な問題の場合にはき然とした態度を取らねばなりません。『ぶよを濾し取る』ことも『らくだを飲み込む』こともしないことが大切です。―マタイ 23:24。
17 思春期の子供に制限を課す際に親は何を考慮に入れるべきですか。
17 親が思春期の息子や娘に制限を課す際によく平衡を取るなら,親子の良い関係を保つ助けになります。『上からの知恵はまず第一に貞潔です』が,それはまた「道理にかない」,『あわれみに満ち』,『偽善的でない』ことも忘れないようにしましょう。(ヤコブ 3:17)聖書はいくつかの事柄を全く許容できないものとしています。盗み,姦淫,偶像崇拝およびこれに類するはなはだしい悪行がそれに含まれます。(コリント第一 6:9,10)そのほかの多くの事柄の良し悪しは,それがどの程度なされるかによって決まるでしょう。食物は良い物ですが,食べ過ぎると暴食になります。ダンス,ゲーム,パーティーその他,ある種のレクリエーションについても同じことが言えます。多くの場合問題になるのは,行なわれる事柄ではなくて,行なう方法とそれを行なうときの仲間です。実際に暴食のことを言っているときに,食べることを罪悪視したりしないのと同様に,もし問題点が,やり方や程度が極端になる者がいるとか,望ましくない事態が忍び込む恐れがあるということにあるのであれば,親は若い人々のある活動を一概に悪いときめつけるべきではないでしょう。―コロサイ 2:23。
18 親はつき合う仲間について子供にどんな忠告をすることがありますか。
18 若い人々はみな友達の必要を感じます。“理想的”と思える友達はほとんどいないかもしれません。しかし,考えてみると,自分の子供にも弱点があるのではないでしょうか。もっとも相手によっては,悪い影響がありそうだと見て子供に交わらせないようにするかもしれません。(箴 13:20。テサロニケ第二 3:13,14。テモテ第二 2:20,21)ほかの子供たちにも好きな面ときらいな面があるでしょう。何かの欠点を理由にある子供を全く寄せつけないようにするよりも,その子の長所を子供たちに話し,同時に,弱点にも注意する必要のあることを指摘し,友達の永続的な益のためにその弱点を直すのを助けてあげるように子供を励ますほうがむしろ良いでしょう。
19 ルカ 12章48節に述べられている原則に従い,自由に対して正しい見方を持つように子供たちをどう援助することができますか。
19 十代の息子や娘が,大きくなった自由に対して正しい見方を持つように援助する一つの方法は,自由が大きくなればそれだけ責任も大きくなることを悟らせることです。「多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます」。(ルカ 12:48)子供たちが責任感の強いことを示せば示すほど,親は子供たちにいっそうの信頼を置くことができます。―ガラテア 5:13。ペテロ第一 2:16。
助言ときょう正を与える
20 意思の疎通を保つためには子供たちに権威や力を行使する以外に何が必要ですか。
20 人から助言されても,その人がこちらの立場を理解していないなら,それは的をついた助言とは思えません。もしその人が権威をたてにむりやり命令に従わせようとするなら,不当な行為として憤りを感じるかもしれません。ですから親は,『理解のある心は知識を捜し求める心であり』,「知識を持つ者は補強する力である」ということに留意しなければなりません。(箴 15:14; 24:5,新)子供たちに対して権威があっても,知識と理解をもってそれを行使するなら,子供たちとの意思の疎通はいっそう効果的になります。若い人を正す際に理解を示さないなら,“世代の断絶”が生じて意思の疎通がうまくいかなくなる恐れがあります。
21 親は重大な悪事を行なった子供をどのように扱うべきですか。
21 子供が実際に問題を起こし,親を驚かせるような重大な間違いや悪事をしたならどうしますか。その悪行を大目に見ることは決してすべきではありません。(イザヤ 5:20。マラキ 2:17)しかし,その時こそ子供は理解ある援助と巧みな指導を必要としているということに,親は気づかねばなりません。エホバ神のように,『来なさい。問題を正そう。事は重大だが正せないことはない』とも言えるでしょう。(イザヤ 1:18,新)怒りを爆発させたり,激しく非難したりするなら,意思の疎通がそこなわれる恐れがあります。非行に走る若者の非常に多くが,『両親には話せなかった。話したら怒り狂っただろう』と言います。エフェソス 4章26節には「怒っても,怒りのために罪に陥らないようにしなさい」とあります。(新英訳聖書)子供の話を聞くときには感情を抑えることが大切です。親が公平に耳を傾けるなら,子供は親の懲らしめを受け入れやすくなります。
22 親は,子供にはさじを投げた,といった気持ちを決してほのめかすべきではありません。それはなぜですか。
22 あるいは問題は,ただ一度の事件ではなく,難しい時期で,望ましくない性向を示すといった型のものかもしれません。懲らしめは絶対に必要ですが,親は,この子にはさじを投げた,という意味のことを言ったり,そういう気持ちをほのめかしたりすべきでは決してありません。親の辛抱強さは親の愛の深さを測る尺度です。(コリント第一 13:4)悪をもって悪と戦うのでなく,善をもって悪を征服します。(ローマ 12:21)他人の面前でこの子は“怠け者だ”とか,“反抗的だ”とか“ろくでなし”,“救いようがない”などと言って辱めるなら,害があるばかりです。愛は希望を捨てません。(コリント第一 13:7)非行に走って家出までする子供もいます。それを是とすることは決してできませんが,親は子供が帰る道を常に開けておくことができます。自分たちが受け入れないのは子供そのものではなく子供の取った行為であるということを示すなら,その道を開いておくことができます。また,子供の中に良い性質があり,それが最後には勝つことを信じている,と絶えず子供に話します。そして実際にそうであれば,子供はイエスの例え話にある放とう息子のように,後悔して帰ってもやさしく温かく迎えてもらえるという確信を持って,家に足を向けることができます。―ルカ 15:11-32。
個人の価値を認識する
23 自分は家族の大切な成員であると感じることは思春期の子供にとって大切ですが,それはなぜですか。
23 人間はだれでも,人から認められること,受け入れられ是認されること,なんらかのグループに属していると感じることが必要です。いうまでもなく,勝手過ぎるなら必要な支持や賛成を得ることはできません。自分の属するグループが認めている行動の限界内にとどまっていなければなりません。十代の若い人たちは家族の一員として認められる必要を感じます。ですから若い人たちが家族の貴重な構成員で家族の福祉に貢献しており,家族の計画や決定にある程度あずかることさえ許されているという気持ちを持たせることは大切です。
24 子供が他の子供をねたむことがないように,親はどんなことを避けるべきですか。
24 「自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう」と使徒は述べています。(ガラテア 5:26)子供がよくやったときに親がほめるなら,そうした精神が頭をもたげるのをくい止める助けになります。しかし,優秀だといつもほめられている他の子供と比較されてお前は劣っていると言われると,子供はねたみやうらみを持つかもしれません。人は各々,「自分自身の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう」と,使徒は言いました。(ガラテア 6:4)若い人は,自分自身の性格,自分の身分,また自分に何ができるかということで受け入れられ,そうしたことで親に愛され認められることを望んでいます。
25 子供が価値についての認識を深めるように,親は子供をどのように援助できますか。
25 親は,生活のあらゆる分野での責任を担うように子供たちを訓練して,価値についての認識を深めるように助けることができます。れん潔,正直,他の人に対する正しい振る舞いなどについて子供たちを幼いときからしつけてきていますから,そうした特質が人間社会の中でどう働くかを教えて,それまでに築いた土台の上にさらに築き上げていきます。それには,仕事の責任をどのように担い,その仕事に関して信頼できる者になるかを教えることも含まれます。イエスは『知恵においてさらに進んでいって』いた十代のときに,養父ヨセフのそばで仕事を学んでおられたに違いありません。というのは,30歳に達して王国の業を公に開始されたときでさえ,人々はイエスを「大工」と呼んでいたからです。(マルコ 6:3)お遣いに行くといった単純な仕事であっても,男の子は十代のときに労働の意味と,雇用者もしくは雇客を満足させることの意味を学ばなければなりません。また,勤勉でまじめで信頼できる働き手となるなら自尊心を得,他の人から尊敬され感謝されるということ,そういう子供は親と家族の誉れになるだけでなく『すべての事においてわたしたちの救い主なる神の教えを飾る』ことにもなるということを学べます。―テトス 2:6-10。
26 娘が家族の有用な成員だったことは昔のどんな習慣からわかりますか。
26 女の子は家事や家庭管理の技術を学び,家族からも家族外の人々からも感謝や賛辞を得ることができます。聖書時代には,娘を嫁がせるときに花嫁料をもらう習慣がありましたが,それは娘が彼女の実家で役に立つと考えられたことを示しています。実家は娘に働いてもらえなくなるので,花嫁料はその代償と考えられていたに違いありません。―創世 34:11,12。出エジプト 22:16。
27 教育を受ける機会をなぜ十分活用すべきですか。
27 現在の事物の体制下での生活の中で生ずる多くの挑戦に子供たちを備えさせるため,教育の機会は十分に活用すべきです。使徒の次の勧めの言葉には年若い人々も含まれています。「わたしたち一同も,自分たちの差し迫った必要を満たすためにりっぱな業[正直な勤め,「新英訳聖書」]を続けることを学ぶべきです」― テトス 3:14。
聖書の道徳律は身の守り
28,29 (イ)交わりについて聖書はどんな助言を与えていますか。(ロ)親は子供たちがその助言に注意を払うようどのように助けることができますか。
28 住んでいる地域や子供が通っている学校などの関係で,子供たちが,非行少年や自暴自棄になっている子供たちとつき合わざるをえないなら,当然親は心配です。「悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」という聖書の言葉の真実さに気づくでしょう。それで,「ほかの子はみんなしているのに,どうしてわたしがしてはいけないの」と,子供が文句を言ってせがんでも許そうとはしません。必ずしもみんながそうではないでしょうが,たとえ子供の言う通りだとしても,もし間違っていることまた賢明でないことであるなら,それは子供が行なってよい理由とはなりません。『悪人[または子供]たちをうらやんではなりません。また,彼らと一緒になることを渇望してはなりません。略奪を彼らの心は思い巡らしているからです。そして難儀を彼らのくちびるは話し続けます。知恵によって一家は築き上げられ,識別力によって固く据えられます』― コリント第一 15:33。箴 24:1-3,新。
29 親は学校が終わるまで,あるいは一生の間子供のあとをついてまわることはできません。しかし,知恵で家族を築き上げるなら,立派な道徳律と導きとなる正しい原則を持たせて子供たちを社会に送り出すことができます。『賢い者たちの言葉は牛追い棒のようです』。(伝道 12:11,新)昔の牛追い棒は先のとがった長いつえで,牛をつついて正しい方向に進ませるのに用いられました。神の賢明な言葉はわたしたちが正しい道を歩み続けるように助けてくれます。また,道からさまよい出たなら,良心でわたしたちをつついて正しい道にもどしてくれます。子供の永続的な福祉のためにそうした知恵を子供に伝えてください。言葉と手本によってそれを伝えましょう。真の価値基準をしっかり教えましょう。そうすれば子供は同様の価値基準を持つ人を親友に選ぶでしょう。―詩 119:9,63。
30 親は神から与えられた倫理基準を子供たちにどのように教え込むことができますか。
30 以上のことにおいて忘れてならないのは,もし家庭にそれらの行動基準を尊重し守る雰囲気があるなら,倫理的価値をしっかり教え得る可能性ははるかに大きいということです。子供にこういう態度を身につけさせたいと思うなら,親自身がそれを示すことが大切です。家庭で,家族の中で,子供たちが確かに大人としての理解や愛,許しを経験し,安全な範囲の自由と独立を得,公正や公平などを目のあたりに見,また子供たちに必要な,自分は受け入れられているという意識や親近感を持てるようにしてやらねばなりません。こうした方法で神から与えられた倫理基準を子供に伝え,子供たちが家庭外でもそれらを守れるようにしてやりましょう。親が子供に与えることのできる相続財産の中でそれに勝るものはありません。―箴 20:7。
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親の心を喜ばせるあなたの家族生活を幸福なものにする
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12章
親の心を喜ばせる
1 親を敬うのはなぜ正しいことですか。
まだ幼い子供であるにしても,あるいは大人になりかけているところであっても,そしてまた成人した男や女であるにしても,わたしたちはみなだれかの子供です。ほとんどの人について言えることですが,生まれてから大人になるまでのほぼ20年間に,一人の人間のために示される気遣い,行なわれる仕事,費やされる金銭,そして払われる自己犠牲的な努力の価値は,計り知れないものがあります。現実にわたしたちは,決して返すことのできないものを親から与えられています。ほかのものもさることながら,まずわたしたちは現在の命を親からもらいました。親がいなかったなら,わたしたちは存在していないでしょう。この明白な事実自体,神の次の命令に注意を払う十二分の理由となるはずです。「『あなたの父と母を敬いなさい』とあり,これは次の約束を伴った最初の命令です。『それはあなたにとって物事がよく運び,あなたが地上で生き永らえるためである』」― エフェソス 6:2,3。
2 親に恩を感じるのはなぜ当然ですか。
2 わたしたちはあらゆる生命の真の源であられる創造者に第一に恩を負っていますが,両親にも深い恩を感じるはずです。親が与えてくれたものに対してどのように報いることができるでしょうか。世界の全財産をもってしても命を買うことはできない,と神のみ子はおっしゃいました。なぜなら,命は値段の付けようのない貴いものだからです。(マルコ 8:36,37。詩 49:6-8)神の言葉聖書には,「あなたがたは,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません」とあります。(ローマ 13:8)わたしたちは,親と自分が生きている限り,親への義務として,特別な方法で親に愛を示し続けたいと思うはずです。わたしたちは親が命を与えてくれたように,親に命を与えることはできませんが,親に生きがいを感じてもらえるようにすることはできます。喜びと深い満足を味わってもらえるようにすることはできます。しかも,血を分けた子供でなければとてもできないような特別な仕方でそれをすることができます。
3 箴言 23章24,25節によれば子供がどんな性質を示すときに親の喜びは大きくなりますか。
3 箴言 23章24,25節(新)にもこう記されています。「義なる者の父は必ず喜びに満たされ,賢い者の父となる者も彼を歓ぶ。あなたの父と母は歓び,あなたを産んだ母は喜びに満たされる」。自分の子供の行ないが誇れるものであるように,子供に喜びを見いだせるようにというのは親の自然の願いです。わたしたちの親はわたしたちに誇りや喜びを感じているでしょうか。
4 コロサイ 3章20節は子供たちに何を行なうことを教えていますか。
4 それは,わたしたちが親の立場に真に敬意を示して,親の助言に耳を傾けるかどうかに大きく依存しています。まだ年若い人々に対して神はこう助言しておられます。「子どもたちよ,すべての事において親に従順でありなさい。これは主にあって大いに喜ばれることなのです」。(コロサイ 3:20)「すべての事」というのは明らかに,神の言葉からはずれたことを要求する権威が親にあるという意味ではなく,年若い子供たちを生活のすべての面で導く責任が親にあるという意味です。―箴 1:8。
5 若い人は,自分が子供を持ったとき子供に何を期待するか,どんなことを自問してみるとよいでしょうか。
5 あなたはまだ若いでしょうか。いつかあなたも人の親となることでしょう。あなたは自分を敬ってくれる子供がほしいですか。それとも反抗的で,聞いているふりをしながら,あなたの目のとどかないところでは言いつけに背くような子供がほしいですか。箴言 17章25節(「生きた英語の聖書」)には「愚かな子」は喜びとなるどころか「その父の悩み,これを産んだ母の苦しみ」である,と書かれています。あなたには親を幸福にする特別な力がある一方,他のだれよりも親を深く悲しませ失望させる可能性も持っています。どちらになるかはあなたの行動にかかっています。
知恵を得るには時間がかかる
6 年齢とともに賢くなることはどんな例からわかりますか。
6 知恵を得るには年齢が大いに関係することを若い人が認識するのは良いことです。今あなたは十歳ですか。五歳だった時よりも今のほうが多くのことを知っていますね。あなたは今15歳ですか。では十歳の時よりも多くのことを知っていますね。あなたはもうすぐ20歳になろうとしていますか。では15歳の時よりもさらに多くの物事を知っていると感じておられるに違いありません。過去を振り返って年齢と共に知恵が増していることに気づくのは難しくありませんが,前途を見てそのことを認めるのは難しいことです。今自分をどれほど賢いと思っているとしても,将来の自分のほうが今の自分よりも多くの知恵を得ている,またそれができるということに,若い人は気づかなければなりません。
7 レハベアム王が得た助言から知恵に関してどんな教訓が得られますか。
7 このことの要点はどこにあるでしょうか。それはすなわち,あなたよりも年齢が古く経験の豊かなご両親の方が,人生の問題に対処する知恵をあなたよりも当然多く持っておられるということです。多くの若い人はこのことをなかなか認めようとしません。そして,年長の人を“時代遅れのわからず屋”と言うこともあります。中にはそのようなわからず屋もいますが,たいていの人はそうではありません。若い人の中に無責任な人がいるからといって,すべての若者がそうだと言えないのと同じです。若い人はよく,自分は年長者よりも賢い,と考えるものです。イスラエルのある王はそうした愚かな間違いをして悲惨な結果を招きました。41歳のレハベアムが父親ソロモンの後を継いで王となったとき,人々は自分たちの負担を軽くしてほしいと頼みました。レハベアムが年長者たちに相談すると,彼らはやさしく親切にするように助言しました。次にレハベアムは若い人々のところへ行きました。若い人々は厳しい処置を取るように助言し,レハベアムはその勧めに従いました。それはどんな結果になったでしょうか。12部族のうちの10部族が反逆して,レハベアムの王国は六分の一になってしまいました。賢明な助言をしたのは若い人々ではなく,年長者たちでした。『老人の中には知恵があるのではないでしょうか。また,長い日々には理解力が』― ヨブ 12:12,新。列王上 12:1-16; 14:21。
8 聖書は,親を含め年長の人々に対してどんな態度を取ることを勧めていますか。
8 親は若くないからその助言は時代遅れだと考えてはいけません。むしろ神の次の言葉に従ってください。「あなたを誕生させた父に聴き従い,ただ年老いたからといって母をさげすんではならない」。年齢は敬意を示すに値します。『あなたは,白髪の前では立ち上がるべきである。また,老人の身を思いやり,あなたの神に恐れを持たねばならない。わたしはエホバである』。こうした命令を無視する若者は確かに少なくありません。しかしそうすることによって若者自身幸福になっていませんし,親も当然のこと幸福ではありません。―箴 23:22。レビ 19:32,新。
自分の分を果たしなさい
9 家族の一人がむやみに不平を言ったり逆らったりするなら家族にどんな影響がありますか。
9 あなたがすることは他の人に影響します。それは絶対に避けられないことです。家族の一人が苦しめば全員が悩みます。また一人が不平を言ったり反抗したりすれば,家族全体の平和が乱されます。幸福な家族生活を送るには各人が自分の分を果たさねばなりません。―コリント第一 12章26節と比較してください。
10 子供が立派に仕事をすることを学ぶのはなぜ有益ですか。
10 あなたにできる積極的,建設的な事柄があります。親は家族の必要を満たすために熱心に働きます。年が若くて両親といっしょに住んでいる人は,親の手伝いをすることができます。人生の大部分は仕事に費やされます。そのことをおもしろくないと言う人もいますが,良い仕事をすること,そして良い動機でそうすることを学ぶなら,仕事は真の満足を与えてくれます。他方,自分の分を果たさず,他の人が自分のためになにもかもしてくれることを期待する人はその満足を味わうことがありません。聖書にあるとおり「目に入った煙」のように,他の人々をいら立たせる原因となります。(箴 10:26,新。伝道 3:12,13)ですから家で仕事を割り当てられたらそれをしましょう。しかも上手にしましょう。親を喜ばせたいと心から思っているなら,言われなくても余分に仕事をしてごらんなさい。そうすれば恐らくその仕事はあらゆる仕事の中で一番楽しい仕事になるでしょう。なぜなら,親を幸福にしたいという心からの願いに動かされてその仕事をしたからです。
11 どんな場合に子供の言動は親の誉れとなりますか。
11 人々は感心な若い人を見ると,まず間違いなくどこの子供かを知ろうとします。少年のダビデがすばらしい勇気と信仰を示したとき,サウル王はそくざに「その少年はだれの息子か」と尋ねました。(サムエル前 17:55-58,新)あなたはあなたの家の名を担っているのです。あなたが行なうことやあなたの人柄は,あなたの家の名やあなたにその名を与えたご両親に対する人々の見方に影響を与えます。住んでいる地域や学校で,他の人々に親切にし,役立つことを行ない,敬意や親しみを示すことによってご両親に誉れをもたらす方法はたくさんあります。そうすることは同時に創造者の誉れともなります。―箴 20:11。ヘブライ 13:16。
12 訓練を施してくれる親の努力に子供が協力するのはなぜ良いことですか。
12 親の幸福は子供自身の幸福と固く結びついています。親が労を惜しまず子供を訓練するのは,子供に人生への良い出発をさせたいという目的があるからです。ですから子供が親に協力すれば親はたいへん喜ぶでしょう。子供の最高の幸せを願っているからです。霊感を受けた記者はそのことをこう言い表わしています。『わが子よ,あなたの心が賢くなったなら,わたしの心が歓ぶ』。(箴 23:15,新)真の知恵の道に子供を導く責任が神の前にあることを親が認めているなら,その責任を忠実に果たせるように,子供は親の助けにならねばなりません。『助言に聴き従い,懲らしめを受け入れなさい。それにより将来あなたが賢くなるためです』― 箴 19:20,新。
13 親から課された制限に対して子供たちが正しい見方をするうえで何が役立ちますか。
13 親の要求が多過ぎるとか,制限が多すぎると感じることがときにはあるかもしれません。しつけの問題で適正な平衡を取るのは難しいことなのです。いつかあなたも子供を持つなら,同様の問題を経験するでしょう。親がある若者たちとのつき合いを禁じたり,麻薬を使わないように守ってくれたり,あるいは異性との交際をある程度制限したりするなら,かまってくれない親より懲らしめてくれる親のほうがどれほどありがたいか考えてみることです。(箴 13:20; 3:31)親の訓戒に注意を払いましょう。そうする子供は自分自身が益を得ると同時に,親の心を喜ばせることができます。―箴 6:23; 13:1; 15:5。ヘブライ 12:7-11。
14,15 家族の間で問題が生じたとき,聖書のどんな原則を適用することは子供が平和を保つのに助けとなるでしょうか。
14 もちろん家庭では,あなたが起こさなくてもさまざまな事態が生じます。しかし,あなたの反応の仕方は家庭の雰囲気に影響します。聖書は,「できるなら,あなたがたに関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい」と助言しています。(ローマ 12:18)そうすることはいつも容易であるとは限りません。人は十人十色ですから,見方や反応の仕方は人によって異なります。意見や希望が相いれないこともあるでしょう。たとえば兄弟と意見が対立したとします。あなたは相手の方が利己的だと思っているでしょう。さてあなたはどうしますか。
15 ある子供はすぐに大声で相手を非難し,父親か母親の仲裁を求めます。あるいは自分の思い通りにするために相手を突いたりたたいたりして,自分で勝手に問題を処理するかもしれません。しかし,霊感を受けて書かれた箴言には,「人の洞察力は確かに自分の怒りを遅くする」とあります。(箴 19:11,新)ではどのようにして遅くするのでしょうか。それはつまり,洞察力のある人には情状を酌量する余裕があるということです。(もしかしたらその行為は故意になされたものではないかもしれません。)また,洞察力があれば,自分も何度か間違いをしたことを思い出せます。(神の許しにどれほど感謝しているかしれません。)さらに,洞察力があれば,たとえ兄弟が間違っていても,怒って一家の平和を破ればやはり自分が悪いということがわかります。そうした洞察力のある人について同じ箴言はさらにこう述べています。「違犯を過ぎ越すことはその人の美である」。―コロサイ 3章13,14節もご覧ください。
16 子供のどんな行ないは神を恐れる親にとって大きな喜びとなりますか。
16 基本的にいって,神を恐れる親を喜ばせるものはエホバの心をも喜ばせます。親を苦しめるものはエホバをも苦しめます。(詩 78:36-41)エホバ神のお考えを知らない親は,子供が世間で人気を得たり,有名になったり,大金持ちになったりすると喜ぶかもしれません。しかし,エホバを自分たちの神としている親は,この世と世の欲は過ぎ去ること,しかし『神のご意志を行なう者は永久にとどまる』ことを知っています。(ヨハネ第一 2:15-17)ですから,そのような親にとって本当に喜びとなるのは,子供たちが創造者に従順でそのご意志を行ない,創造者の属性を反映するのを見ることです。子供たちが学校で良い成績を収めるなら,それは神を敬う親にとってうれしいことに違いありません。しかし,学校その他の場所での子供たちの振る舞いが神の設けられた規準にかない,神を喜ばせたいという気持ちを反映しているなら,親はもっとうれしく感じます。そして子供たちが大人になっても引き続きエホバの道に喜びを見いだすなら,親の喜びはまた格別です。
親の世話をする責任
17-19 成人した息子や娘は親への感謝をどのように表わせるでしょうか。
17 大人になって独立し家から離れても,親を思う心を失うべきではありません。わたしたちは両親が生がい幸福であることを願っています。親はしばしば多くの自己犠牲を払って長年わたしたちの世話をしてくれました。それに対する感謝をわたしたちは今どのように表わせるでしょうか。
18 「父と母を敬いなさい」という神の戒めを常に心に留めていることです。(マタイ 19:19)わたしたちは忙しいかもしれません。しかし,子供の手紙や訪問が親にとってどれほどうれしいことかを,わたしたちは考える必要があります。
19 年がたてば,親を『敬っている』ことを別の方法で示せるでしょう。物質的な援助が必要なら,親からしてもらったことに感謝していること,エホバの正しいご要求を認識していることを示せます。使徒パウロは年を取った人々に関してこう書きました。「やもめに子どもや孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬神の専念を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみまえで受け入れられることなのです」― テモテ第一 5:3,4。
20,21 (イ)マタイ 15章1-6節によれば親を敬うことにはどんなことも含まれますか。(ロ)そのようにして親を敬わなくてもよい理由となる場合がありますか。
20 親を「敬う」ことに物質面での支持も含まれることは聖書にはっきり示されています。あるときパリサイ人たちはイエスに近づいて,イエスの弟子たちが伝統に反することをしていると非難しました。イエスはそれに対抗して次のようにおっしゃいました。「あなたがたも自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。たとえば,神は,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言われました。ところがあなたがたは,『自分の父や母に,「わたしの持つものであなたが益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみな神に献じられた供え物なのです」と言うのがだれでも,その者は自分の父を少しも敬ってはならない』と言います。こうしてあなたがたは,自分たちの伝統のゆえに神のことばを無にしています」― マタイ 15:1-6。
21 彼らは伝統に従い,お金や持ち物を「神に献じられた供え物」であると言って,親のめんどうを見る責任を逃れていました。しかしイエスはそれをよしとされませんでした。それで今日わたしたちもそのことを心に留める必要があります。多くの国では“社会福祉”が適用されて老齢の親がある程度の世話を受けられることは確かです。しかしその備えはほんとうに十分でしょうか。もし十分の世話を受けていなかったり,あるいは国からの援助が何もなかったりするなら,親を敬う子供たちは親が実際に不足しているものを満たすために自分たちでできるだけのことをします。使徒パウロが述べているように,困っている老齢の親の世話をすることは確かに「敬神の専念」,つまり家族制度の創始者であるエホバ神そのものに対する献身の表われです。
22 物質的なもののほかに親に何を与えるべきですか。
22 しかし,老後の両親が適当な衣食住を得ていればそれ以上何も必要でないと考えるのは間違いです。感情的にも霊的にも満たされる必要があるからです。親は愛と心強い配慮を必要としています。しかもそれを切実に必要としている場合が少なくありません。人間はいくつになっても,自分がだれかに愛されていることやだれかと仲間であること,ひとりぼっちでないことを知っている必要があります。子供は物質面でも感情面でも,年老いた親が必要としているものを無視すべきではありません。『父を悪く扱い,母を追い払う者は,恥ずべき行為,また自らを辱める行為をしている子です』― 箴 19:26,新。
23 子供はどのようにして親の喜びの源となれますか。
23 幼いときから大人になるまで,子供たちは親の生活の中で重要な位置を占めています。悲しみと失意の種となる子供は少なくありません。しかし親の立場を尊重してその助言に耳を傾けるなら,そして親に心からの愛と愛情を表わすなら,子供は親にとって日々喜びの源となることができます。そうです,『あなたの父母に喜びのいわれを与えてください。あなたを生んだ母を歓ばせてください』。―箴 23:25,新英訳聖書。
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老後の生活あなたの家族生活を幸福なものにする
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13章
老後の生活
1,2 (イ)子供が大きくなって家を出た後どんな問題が生じがちですか。(ロ)ある人々は老化にどう対処しようとしますか。
生活が身体的な活動か精神的な活動に満ちていなければ,退屈になるものです。生活がむなしいものに思えて落ち着かなくなります。子供たちが成人して家から出て行った後の夫婦に,時としてこの問題が生じます。過去何年もの間,親の責任を果たすことで生活は充実していました。ところが今,子供たちを育てるためのそのさまざまな活動と責任が一切ぱったりとなくなってしまったのです。
2 そればかりではありません。年を取るにつれて体は老化現象を示し始めます。しわや白髪がふえはじめる,髪の生え際が後退しはじめる,それまでなかったうずきや痛みも出てきます。老化している証拠です。その事実を直視しようとせずに必死の努力をする人たちもいます。若いことを証明するために非常な努力をします。あちこちのパーティーにどんどん出掛けて行ったり,スポーツにたいそう熱中したりするなど,社交的な活動に急に熱心になります。そうした急激な活動は何かすべきことを与えてはくれますが,はたして永続する満足を与えてくれるでしょうか。それによって自分が真に必要とされていることを感じ,その人の生活は有意義なものとなるでしょうか。
3 レクリエーションを楽しむことは差しつかえないとしても,何を避けるべきですか。
3 娯楽は確かに楽しいものです。老後は,子供が小さかったときにできなかった何かをする時間ができるかもしれません。しかし快楽の追求を主な関心事にすると,深刻な問題が生じかねません。―テモテ第二 3:4,5。ルカ 8:4-8,14。
忠実であることはうるわしい
4,5 年配者が,自分はまだ異性を引き付ける力があると思うなら,どんな結果になりかねませんか。
4 人生のこの時期に,まだ異性を引き付ける力のあるところを見せなければと考える人は少なくありません。そういう人は社交的な集まりやその他の場所でだれかとふざけることから始めるかもしれません。特に男性は若い女性と“関係”を持ち,また“新しい道徳”の時代とあって女性の中にも,結婚外の“関係”を持って再び自信を得ようとする人たちが少なからずいます。そうかと思うと,配偶者と恐らく何年も連れ添ってきたにもかかわらず,別の人と結婚して“新しい人生”を始めることを考えるようになる人々もいます。そういう人たちはたいてい,配偶者の欠点を取り上げて自分の行ないを正当化しようとしますが,自分が配偶者に対して,そしてまた正しい原則に対して不忠実であることや,そのほかの自分の欠点は重く考えないのが普通です。
5 その人たちはイエスが次のようにおっしゃったことを知っているかもしれません。「だれでも,淫行[ポルネイア: はなはだしい性の不道徳]以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです」。イエスがここで配偶者を離婚する理由はただ一つしかないことを教えておられるにもかかわらず,彼らは世俗の法律で認められている離婚理由をなんでも利用しようとします。(マタイ 19:3-9)それから新しい配偶者と結婚します。その相手は離婚の手続きをする前から関係を持っていた人であることが少なくありません。そういうことに関する神の言葉を知っているのですから,彼らは神が大いなるあわれみをもって“理解”してくださるとでも考えるのかもしれません。
6 エホバ神は結婚契約を軽んじることをどのようにご覧になりますか。
6 そうした不道徳な考えに誘惑されないように,エホバが預言者マラキを通してイスラエルの人々に語られた次の言葉を考えるのはよいことです。「『これがあなた方の行なう……事である。それはエホバの祭壇を涙で覆い,泣き悲しみと嘆息で満たし,[是認をもって]供え物のほうに振り向くことも,あなた方の手から喜びをもって何かを受け取ることももはやないまでにさせる。そしてあなた方は言った,「何のためか」と。このため,すなわち,エホバ自らあなたとあなたの若い時の妻との間について証しされたためである。……ゆえにあなた方も自分の霊について自ら守り,自分の若い時の妻に対してだれも不信実な振る舞いをしてはならない。神は離婚を憎んだからである』と,イスラエルの神は言われる」。(マラキ 2:13-16,新)そうです配偶者に対する背信行為,結婚の契約のべっ視は神に非とされています。こうした事柄を行なう人たちは命の授与者との関係を損ないます。
7 結婚契約を軽んじることが人を幸福にしないのはなぜですか。
7 それはより良い人生を送る道でしょうか。そうではありません。そのような人たちの新しい結婚生活はみな不安定な土台の上にあります。一つには二人は,結婚関係という非常に貴重な関係においてさえ,信頼できない者であることを示したからです。なるほど二人は以前の配偶者になかった個性に魅力を感じているかもしれません。しかしそれを自分のものとするために,人を傷つけ悩ませることを意に介さず,自分の楽しみを追い求めました。確かにそれは幸福な結婚生活に資する特質ではありません。
8 結婚において,身体的な美しさよりも価値があるのは何ですか。
8 結婚配偶者に忠実であり続けることの美しさは,どんな身体的な美しさよりも勝っています。容姿や容ぼうの美しさは年がたつにつれて必ず衰えますが,忠実な献身的愛情の美しさは年とともに増し加わります。他の人の幸福を求め,その関心事を自分の関心事に先行させることは,永続的な満足をもたらします。なぜなら実際「受けるより与えるほうが幸福」だからです。(使徒 20:35)二人が長年の間結婚生活を送ってきたなら,そして互いに心を通じ合わせ心を打ち明け合ってきたなら,仕事や目標や希望を共にし苦楽を共にしてきたなら,そしてそれを愛の動機から行なってきたなら二人の人生は真に一致しよくかみ合うでしょう。知的,感情的,霊的に非常に多くの共通点ができます。結婚する前二人はロマンチックな愛情を抱いていて互いに相手の欠点がわからなかったかもしれませんが,献身的な愛情がそれに取って変わり,相手に欠点があることは援助し補う機会があることだと考えるようになります。二人の間には真の信頼感と安心感があります。どんな問題が生じても互いに支え合えることを知っているからです。二人にとって互いに忠実であることはごく当然のことに思えます。ミカ書 6章8節(新)も次のように述べています。「地の人よ,何が良い事かを主はあなたがたに告げた。そして,エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,忠節な愛を愛し,慎みをもってあなたの神エホバと共に歩むことではないか」― 欄外異文。
成人した子供 ― 新しい関係
9-11 (イ)親子の関係が生がい変わらないことは神が意図されていることですか。(ロ)そのことは,親が成人した子供に助言を与えることとどんな関係がありますか。(ハ)子供が結婚しているなら,親はだれの頭の権を尊重すべきですか。
9 夫婦は生がいいっしょに暮らすべきですが,創造者は親子がそうするように取り決めてはおられません。成長している間,子供たちは確かに親を毎日必要としていました。身体的な面で世話をしてもらわねばならなかっただけでなく,導きを与えてもらうことも必要でした。子供のためになるある事柄に子供がすぐに反応しないと,親はあくまでもそれをさせるということもあったでしょう。しかし子供たちが自分の家庭を持つと,親子の関係は幾分変化します。(創世 2:24)子供を思う親の気持ちが変わるという意味ではありません。責任が移るという意味です。ですから親が子供のために何かをしてやる仕方も変化する必要があります。
10 独立した子供でも時には助言を必要とする場合があります。また人生経験がより豊かな人々の健全な助言に耳を傾けるのは,子供たちに知恵のある証拠でもあります。(箴 12:15; 23:22)しかし,独立している息子や娘に助言を与える場合,決定はもう子供たち自身にかかっているという事実を認めていることを示す形で助言するのが賢明です。
11 これは子供たちが結婚している場合非常に大切なことです。嫁がしゅうとめの監督下に置かれる古い因習を持つ国があります。姻せきが家族の事柄に強い影響を及ぼす土地もあります。しかしそれは実際に幸福な結果をもたらすでしょうか。家族の創始者は何が最善かをご存じで,こう語っておられます。「男はその父母を離れ,その妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである」。(創世 2:24,新)今や決定を下す責任は夫の両親にあるのでも妻の両親にあるのでもなく,夫にあります。『夫は妻の頭です。それは,キリストが会衆の頭であられるのと同じです』と神のみ言葉は述べています。(エフェソス 5:23)この取り決めを尊重するなら,成人した子供のために,また後には孫のために何かをする喜びは一層大きくなります。
人のためにすることを楽しむ
12 (イ)子供たちが独立して一家を構えた後,両親はどのようにして互いに愛を深め合えるでしょうか。(ロ)人生をさらに有意義なものとするためほかにどんなことができるでしょうか。
12 わたしたちはだれでも,自分は有益で意義ある人生を送っているという意識を持つことを必要としています。この必要を満たすことはわたしたち自身の福祉にとって大切です。子供以外にも助けの必要な人はたくさんいます。例えば自分の配偶者はどうでしょうか。子供の育ち盛りには夫婦の関心は大部分子供に向けられていました。しかし子供が成人した今は,お互いにもっと多くのことを直接にしてあげられる機会があります。それによって夫婦の関係は一層緊密になります。しかし,親切な行ないは自分の家庭内に限る必要はありません。近所の人が病気になれば助けを差し伸べたり,孤独な老人のお相手をしたり,あるいは不可抗力で経済的に困窮している人を自分にできる方法で物質的に援助したりして,『自分を広くする』ことができます。(コリント第二 6:11,12)聖書にはドルカスという婦人のことが出ていますが,彼女はやもめたちのために「多くの善行とあわれみの施しをなし,そうした行為に富んでいた」ので人々からたいへん愛されました。(使徒 9:36,39)聖書は苦しんでいる人に対して親切にする人をほめています。(箴 14:21)また聖書は,「孤児ややもめをその患難のときに世話すること」を,神に喜ばれる崇拝の大切な点としてあげています。(ヤコブ 1:27)そしてわたしたちすべてに次のことを勧めています。「善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」― ヘブライ 13:16。
13 人に対する援助は,どんな動機で行なうときに価値のあるものになりますか。
13 では,純然たる人道主義的な活動に打ち込むのが幸福になるかぎであるということでしょうか。実際に,動機が霊的なもの,すなわち神に見倣って愛を表わしたいという願いでなければ,ざ折感を感じるかもしれません。(コリント第一 13:3。エフェソス 5:1,2)人が自分の親切を感謝してくれなかったり,こちらの寛大さにつけこもうとしたりするときに失望を経験することは十分あるからです。
14,15 人生を真に幸福で満足のゆくものとするのは何ですか。
14 他方,命を神への奉仕のためにほんとうに用いている人は,自分のしていることは創造者に大いに喜ばれるという自覚があるので最大の満足を得ます。しかも人のためになることをするその能力は,資力のあるなしによって制約されることはありません。その人にはエホバという「幸福な神の栄光ある良いたより」があり,それを他の人と分かち合う特権があります。(テモテ第一 1:11)また,現在ある生活の諸問題に対処する仕方を聖書から学んでおり,神が将来に約束しておられる壮大な希望も教えられています。その良いたよりを他の人々に伝え,そして人々の注意を良いたよりの源であるエホバ神に向けさせるのは,ほんとうに大きな喜びです。霊感を受けた詩篇の筆者は147篇1節(新)でこう述べています。「ヤハを賛美せよ,あなたがた民よ。わたしたちの神に調べを奏でるのは良いことなのだ。それは快いことなのだ ― 賛美はふさわしい」。
15 命と関係のあるエホバのご意志を理解し,エホバを崇拝するとき,わたしたちの生活は非常に有意義なものとなります。(啓示 4:11)聖書の真理を他の人々に伝えることに,事情が許す限り十分携わるなら,真の満足が得られます。自分の子供たちは成人してしまっていても,“霊的な子供たち”が成長するのを助ける楽しみがあります。そして人々が円熟したクリスチャンになっていくのを見るとき,使徒パウロと同じような気持ちになります。パウロは自分が援助した人々にこう書き送っています。「わたしたちの希望,喜び,また歓喜の冠となるものはなんでしょうか ― それは実にあなたがたではありませんか。確かにあなたがたは,わたしたちの栄光また喜びなのです」― テサロニケ第一 2:19,20。
状況の変化に順応する
16,17 (イ)問題が生じたとき何を避けるべきでしょうか。(ロ)配偶者を失った場合でも,どんな助けがあるので新たな挑戦に一人で立ち向かわずにすみますか。
16 もちろん,ほとんどの人はそのうちに,もう以前ほど多くのことができないことに気づくようになります。融通性を持ち,すすんで調整をすることが必要になってきます。健康に問題があるなら注意しなくてはなりません。しかし,日々与えられる機会を見落とすほど,そのことに気を奪われないように平衡を取るのは賢明です。問題がなくなることはないでしょう。問題に対処するためにできる建設的な事柄があるなら,それを行なうのは賢明なことです。しかしくよくよすることは何の役にも立たず,こうなってくれればいいのにと思ってもそのように変わるわけではありません。ですから昔を懐かしむよりも現在ある機会を捕らえましょう。
17 このことは,老齢になって再び独身の状態になったときにも当てはまります。幸福な結婚生活を送った人はきっと懐かしい思い出があることでしょう。しかし人生は立ち止まってはいません。ですからその時こそ調整の必要な時です。新たな挑戦に立ち向かわねばなりませんが,神への信仰を持った生き方をするなら,それに一人で立ち向かうことにはならないでしょう。―詩 37:25。箴 3:5,6。
18-20 どんな要素は余生をも有意義なものにしますか。
18 人生には不愉快な面があるとはいえ,立派な友人,人のためになることをする機会,おいしい食事,美しい夕映え,鳥のさえずりなど,喜びを与えてくれるものはたくさんあります。さらに,現在の境遇が理想的でないとしても,神は悪を終わらせ,あらゆる悲しみや苦しみや病気,それに死さえも人類から取り除くことを約束してくださっています。―啓示 21:4。
19 物質主義的な傾向の人生観を持ってきた人が年老いて非常なむなしさを感じることがあるのは事実です。伝道之書の筆者はそうした生き方の結果を描写して,「空の空! すべては空である」と述べています。(伝道 12:8,新)ところがアブラハムやイサクのような信仰の人々について,聖書はその人たちが「年老いて満ち足りて」生がいを終えたと述べています。(創世 25:8; 35:29,新)なぜこのような違いが生じるのでしょう。アブラハムやイサクは神に信仰を抱いていました。そして,神の定められたときに死者がよみがえることを確信していましたし,神自ら全人類のために義の政府を設立されるときを待ち望んでいました。―ヘブライ 11:10,19。
20 あなたの場合にも,現在かかえている問題のために身の周りにある多くの良い事柄や神がご自分のしもべたちのために用意しておられるすばらしい将来に対して盲目にならないなら,生活は有意義なものになり,満ち足りた余生を送ることができます。
[176ページの図版]
二人が長く生活を共にすればそれだけ,二人の一致は固くなる
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とこしえの将来のために,家族ぐるみで準備を進めるあなたの家族生活を幸福なものにする
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14章
とこしえの将来のために,家族ぐるみで準備を進める
1 家族の幸福を増し加えるために将来のことを考えるのはなぜよいことですか。
時間はとどまることなく過ぎて行きます。過去に数々の懐かしい思い出があっても,わたしたちは過去に生きることはできません。失敗を含め過去のことから学ぶことは学べても,現在にしか生きることはできません。そしてたとえいま家族がうまくいっていても,現在はほんのつかの間で,今日はすぐに明日になり,現在はたちまち過去になるという事実から逃れるわけにはいきません。したがって,絶えず将来を見つめて準備し計画することは,家族の幸福にとって肝要なことです。自分や自分の身近な者たちの将来がどうなるかは,主として今わたしたちが下す決定にかかっています。
2 (イ)多くの人が将来のことを考えたがらないのはなぜですか。(ロ)幸福な将来を望むなら,だれの言葉に耳を傾けるべきですか。
2 ではどんな見込みがあるのでしょうか。大多数の人は,将来というとたいていほんの数年先のこととしか考えません。また多くの人はあまり遠い将来のことを考えたがりません。予見できることといえば,家族の死別といった不愉快なことしかないからです。多くの人の場合,幸福な時は,生活の中で起きてくる煩い事でたちまち曇ってしまいます。しかし「天と地のあらゆる家族がその名を負う」かたの言葉に耳を傾けるなら,人生ははるかに豊かなものになります。―エフェソス 3:14,15。
3 (イ)神は最初の人間にどんな見込みをお与えになりましたか。(ロ)事がそう運ばなかったのはなぜですか。
3 最初の人間夫婦を創造したときに神が意図されたことは,その二人や将来生まれる二人の子孫が,多くの問題をかかえながらほんの何年か生きてそれから死ぬということではありませんでした。神は二人に楽園の住まいを与え永遠に生きる見込みを彼らの前に置かれました。(創世 2:7-9,15-17)ところが二人は,自分たちの命を左右できる方である神の律法を故意に犯して,自分たちと子孫に開かれていたその見込みを放棄しました。聖書はそのことをこう説明しています。「ひとりの人[アダム]を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
4 人類に関する本来の目的を達成するためにエホバ神はどんな取り決めを設けられましたか。
4 しかし神はご親切にも人間家族を贖う備えを設けてくださいました。神ご自身のみ子イエス・キリストは,アダムの子孫すべてのために完全な人間の命を犠牲にされました。(テモテ第一 2:5,6)このようにしてイエスは,アダムが失ったためにわたしたちが持てなくなったものを買いもどす,つまり贖うことをしてくださいました。そのために,神が最初の男女にお与えになったのと同じ命の見込みを持つ道が,その備えに信仰を働かせる人々に開かれました。今日,重い病気にかからず事故にも遭わなければ,人は70歳か80歳ぐらいまで生きます。もう少し長生きする人もわずかですがいます。しかし,『神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命です』。―ローマ 6:23。
5-7 (イ)いま神のご意志を行なうなら,将来に何を期待できますか。(ロ)自分の家族を援助することについてどんな疑問が生じるかもしれませんか。
5 このことはあなたのご家族にとって何を意味するでしょうか。神の戒めに聞き従う人には永遠の将来があるということです。(ヨハネ 3:36)神は信頼できるそのみ言葉の中で次のことを約束しておられます。すなわち,現在の苛酷な事物の体制を除去し,ご自身が設けておられる完全で義にかなった政府に人類のすべての物事を管理させるということです。(ダニエル 2:44)その点についてみ言葉は,神が「すべてのもの,天にあるものと地にあるものを,キリストにおいて再び集めること」を意図しておられると述べています。(エフェソス 1:10)そうです,そのときには全宇宙に調和が存在し,人類も一致し,人種上の紛争や政治的分裂,冷酷な犯罪や戦争に伴う暴虐はなくなります。それぞれの家族は安全に住まい,『それをおののかせる者はだれもいないのです』。(詩 37:29,34。ミカ 4:3,4,新)というのは,そのとき生活しているのは『愛される子どもとして,神を見倣い,愛のうちに歩んで』いる人ばかりだからです。―エフェソス 5:1,2。
6 そのとき人類は,神の王国の支配の下で指導を受けつつ,地球を神の目的通り楽園の状態に,つまり全人類に食物を豊かに供給する庭園のような住みかにするという喜ばしい仕事に一致して参加します。全地のもろもろの鳥や魚や動物たちは人間のやさしい支配を受け,人間を楽しませます。それが神の明示された目的だからです。(創世 2:9; 1:26-28)病気,苦痛,老化現象,死の脅威などによって人類が生活を楽しめなくなることはもはやありません。「記念の墓の中にいる」人々ですらよみがえり,その時の命が与えるすばらしい機会にあずかるでしょう。―ヨハネ 5:28,29。啓示 21:1-5。
7 ではこうした見込みが実現することを家族に気づかせるには,どうすればよいでしょうか。
何をする必要があるか
8 神の是認を得るには,わたしたちにどんなことが求められていますか。
8 わたしたちのだれも,自分が“良い生活”と考える生き方をしていさえすれば,神の新秩序で命を得る人たちの中に入れる,という間違った結論を下すべきではありません。そのための条件を決めるのはわたしたちではありません。それを決めるのは当然のことながら神です。イエスがユダヤで教えておられたときのこと,ある日一人の男がイエスに,「何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」と尋ねました。それに対する答えはこうでした。「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身のように愛さねばならない』」。(ルカ 10:25-28)神を信じていると口で言うこと,あるいは聖書の討議が行なわれる集会に定期的に出席すること,または時折ある人々に親切にすることよりももっと多くの事柄が関係していることは明らかです。むしろわたしたちの毎日の,四六時中の考え,願望,行動が自分の公言する信仰に深く根差していなければなりません。
9 生活の中のありふれた事柄に対して平衡の取れた見方をするには,聖書のどんな原則が助けになりますか。
9 神との関係を心に留めてそれを大切にするなら,知恵をもって行動することができ,また神の是認と助けを確信できます。(箴 4:10)生活上のあらゆる事柄をエホバとエホバの目的に関連づけて考えるなら,命を用いるうえで常によい平衡を保つことができます。身体的な必要を満たすためには働かねばなりません。しかし神のみ子は次のことをわたしたちに思い起こさせてくださっています。すなわち,物質のことを思い煩い,それを懸命に追い求めても命は少しも長くならないこと,しかし,神の王国と神の義を第一に求めるなら,永遠の長い命が与えられるということです。(マタイ 6:25-33。テモテ第一 6:7-12。ヘブライ 13:5)わたしたちが家族生活を十分に楽しむことは神の意図されるところです。しかし家族の事柄に専念するあまり家族外の人々に真の愛を示さないなら,かえって目的はざ折し,家族は狭い人生観を持つようになり,神の祝福を得られないでしょう。家族で行なう息抜きや娯楽をそのあるべき位置にとどめ,そのために神への愛が二の次にならないようにするなら,それはこのうえなく楽しいものになります。(コリント第一 7:29-31。テモテ第二 3:4,5)家族としてあるいは個人として,神のみ言葉の健全な原則に調和してすべての物事を行なうなら,わたしたちの生活は,真に物事を成し遂げたという深い満足感のあるものとなり,しかもとこしえの将来のための強固な土台をすえていることになります。ですから『何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめてそれに携わってください。あなたがたは,しかるべき報いである相続財産をエホバから受けることを知っているからです』― コロサイ 3:18-24。
家族ぐるみで準備を進める
10 家庭で定期的に聖書について話し合うのはどれほど大切ですか。
10 家族の構成員が同じ目標に向かって歩み続けようというのであれば,神のみ言葉について家族で話し合うことは非常に大切なことであり,またほんとうに必要なことです。見たり行なったりする事柄を創造者の目的と関連づけて考える機会は一日のうちにたくさんあります。(申命 6:4-9)家族全員がいっしょに聖書を朗読し,また聖書について話し合う決まった時間を設けるのは良いことです。その際,聖書の解説書を手引きとして用いるのも良いでしょう。これには家族を一致させる効果があります。そのとき家族は,起こる可能性のある問題にどう対処するか,神のみ言葉を用いて互いに助け合えます。家族で聖書を討議する時間を,他の事柄に簡単に妨害されないようにして親が良い模範を示すなら,神のみ言葉に対する深い敬意と認識の重要なことを,子供たちに銘記させることができます。神のみ子もこうおっしゃいました。「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」― マタイ 4:4。
11 霊的な進歩ということになると,家族はどんな傾向を避けるべきですか。
11 ひとつの体の中で『分裂があってはならず』,『その肢体は互いに対して同じ気づかいを示すべきです』。(コリント第一 12:25)このことはひとつの体のような家族にも当てはまります。夫は,妻の霊的な進歩に誠実な関心が払えないほど自分自身の霊的な知識や理解の進歩に気を奪われるべきではありません。例えば夫が妻の霊的な必要に十分の注意を払わないなら,妻はやがて夫と同じ目標を持たなくなるかもしれません。また,親が子供たちの霊的な成長に十分の個人的な関心を払わず,神のみ言葉がどのように当てはまりそれによってどのように最も幸福な人生を送れるかを悟るよう子供たちを援助しないなら,子供たちの心や思いは周囲の世の中の物質主義的な精神に巻き込まれてしまいます。家族全員の永遠の益のために,神のみ言葉の知識を取り入れることを,家族生活の中の,定期的になされる大切な事柄とし続けてください。
12 だれと交わることを怠るべきではありませんか。
12 “愛が家庭で始まる”のであれば,確かに家庭で終わるべきではありません。現在の事物の体制においてすら,神のしもべたちは兄弟姉妹の世界家族になるということを,神の言葉は予告していました。「時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たち」に,「世にいる[わたしたちの]仲間の兄弟全体」の中にいる人々に『良いことを行ないなさい』と,神はわたしたちに命じておられます。(ガラテア 6:10。ペテロ第一 5:9)そのより大きな“家族”と家族ぐるみで定期的に集まり合うのは喜びであり,他の事柄に対する関心のため容易に失われるようなことのない喜びであるはずです。―ヘブライ 10:23-25。ルカ 21:34-36。
13 わたしたちはクリスチャン会衆外の人々に対してどんな責任がありますか。
13 しかしながら,わたしたちの愛を「神の家の者たち」すなわち神の会衆内にすでにいる人々だけに限るべきではありません。(テモテ第一 3:15)神のみ子が言われたとおり,自分を愛してくれる人々だけを,わたしたちの兄弟だけを愛するなら「どんな格別なことをしているでしょうか」。天のみ父に見倣うためには,あらゆる人々のもとに喜んで出掛けて行き,どんな人にも親切を示し,助けになってあげなければなりません。そして神の王国の良いたよりを人々に伝えることを絶えず求め,そのために率先しなければなりません。こういう方法で,神に見倣った愛を家族ぐるみで表わすなら,わたしたちの生活は真の意義と目的のあるものになります。親も子供も全員が同様に,神の示されるような仕方で十分に愛を示すとはどういうことかを経験します。(マタイ 5:43-48; 24:14)また,そのように心から与えるときにのみ得られる大きな幸福感をも味わいます。―使徒 20:35。
14 どんな助言に従うなら家族生活をより幸福なものにすることができますか。
14 そうした愛を表わす家族にはなんとすばらしい見込みがあるのでしょう。彼らは家族生活を幸福にする道は神のみ言葉を適用することであることを学びました。あらゆる人に影響する生活上の諸問題や圧力が存在するにもかかわらず,そのような家族は神のみ言葉を適用することから,いま多くの良い結果を得ています。しかしその人たちは将来に目を向けています。しかもその将来を,死によって何もかも終わってしまうまでの短い年月と考えているのではありません。神の約束が信頼できることを確信して,家族の各構成員は,永遠の将来のための準備を,喜びを抱いて着々と進めていくでしょう。
15 この本に述べられている聖書的な指針の益について,どんなことを自問できるでしょうか。
15 この本は,神が地球を創造した目的が,そこに人を住まわせることにあったことを聖書を用いて説明しました。エホバ神はその目的を果たすために家族を設け,さらに父親,母親,および子供たちのための指針をもお与えになりました。わたしたちはそれらの指針をこれまで調べてきました。あなたはそれらの原則をいくつか家族の中で実行することができましたか。それらはあなたの家族生活をより幸福にするのに役立ったでしょうか。わたしたちはそれを期待しています。しかし,あなたとあなたのご家族にはどんな将来があるでしょうか。
16-18 エホバ神は地球がどのような状態になることを意図してこられましたか。
16 あなたは地球の管理を手伝いたいと思いますか。田畑を肥沃にして実りを豊かにすることや,砂漠に花を咲かせることを手伝いたいと思いますか。いばらやあざみが果樹園や立派な森に変わるのを見たいと思いませんか。あなたとあなたのご家族は,鉄砲やむちや鉄の棒を用いず愛と相互の信頼によって動物を治めることに喜びを感じるでしょうか。
17 剣がすきに,やりが刈込みばさみに打ち変えられ,爆弾を製造する者や戦争をあおる者たちがいなくなる時代を心から待ち望んでおられるなら,あなたはエホバの新しい事物の体制に歓喜されるでしょう。圧制的な支配,貪欲な商業主義,宗教上の偽善は過去のものとなります。どの家族もぶどうといちじくの木の下で平和に暮らします。復活した子供たちの喜びの叫びや,多くの鳥たちのにぎやかなさえずりが地に満ちるでしょう。工業汚染でむっとしていた空気は,花々のかぐわしい香りを漂わせてすがすがしさを取りもどすでしょう。―ミカ 4:1-4。
18 足なえが雄じかのようにとびはね,おしの舌が歌い,盲人の目が開き,耳しいの耳が聞こえ,涙と嘆きが笑いに変わり,痛みと死が健康ととこしえの命に変わるのを見ることがあなたの心からの願いであるなら,あなたとあなたのご家族がそういう状態の永続するエホバの新しい体制で永遠に生きるのに必要な行動を取るよう,力を尽くしてください。―啓示 21:1-4。
19 あなたとあなたのご家族が神の新しい体制の祝福を享受する人々のひとりになるにはどうすればよいでしょうか。
19 あなたのご家族は,その時地を満たす幸福な大群衆の中にいるでしょうか。そうなるかどうかはあなたにかかっています。ですから家族生活に関するエホバの教えにいま従いましょう。その新しい体制での生き方に適応できることをいま証明するよう,家族ぐるみで努力しましょう。神のみ言葉を学び,それを生活に当てはめ,前途にある希望を他の人々に話しましょう。そのようにするなら,家族としてエホバのみ前に「良い名」を作っていることになります。『良い名は豊かな富に勝って選ぶべきもの。恵みは銀や金にも勝る』。そうした良い名をエホバはお忘れになりません。「義なる者を思い起こすことは祝福を来たらす」。(箴 22:1,欄外; 10:7,新)エホバの過分のご親切により,あなたとあなたのご家族は祝福されてこの上なく幸福な永遠の将来を享受なさることでしょう。
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