-
あなたは決して独りではありませんものみの塔 1972 | 12月1日
-
-
あなたは決して独りではありません
「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり されば…我らはおそれじ」― 詩 46:1,2。
1,2 ある宣教者が7年間の独房生活を送ったことに対し,ひとりの新聞記者は,どんな反応を示しましたか。宣教者はそれに耐え抜けたことをどのように説明しましたか。
1965年,中共で7年間独房生活を送ったひとりの宣教者が釈放されました。この宣教者が香港に着いたとき彼を囲んだ新聞の報道陣の中のひとりがこう言いました。「私なら,独りでいることには決して耐えられません。7年間もひとりでいなければならないのでしたら,壁をよじのぼりでもしますがね」。
2 あなたは,この新聞記者それとも宣教者,そのどちらでありたいと思いますか。その宣教者の力の源は何だったのでしょうか。後日彼は,なぜそれほど長い間孤立した生活に耐え抜けたかを説明しました。エホバのクリスチャン証人として,彼はこう話しました。「わたしたちには考えることがあります。わたしたちの中には霊的な食物があって,それがわたしたちを養ってくれます。それで,信仰にかたく立つことができるのです。初めに研究しておかなければならないことは言うまでもありません。研究しなければ自分の中に力をたくわえられません。ですから,絶えず聖書を研究し,自分を強くし続けることが最善です。そうすれば,困難が生じ,それが自分に臨んでも,『かたく立つ』ことができるでしょう」。
3 この宣教者の経験は何を例証するものですか。なぜそう言えますか。
3 この経験は,真のクリスチャンは決して独りでないことを例証しています。信仰のない人にはとても理解しがたいことですが,献身したクリスチャンは決してひとりぼっちではありません。これは真実です。なぜなら,霊的な事柄に関する知識が,力強い仲間のようにいつもそばにいて,それに話しかけることができるからです。そのうえ,いつでも,どんな事情の下でも,全能のエホバ神が助け手としてついていてくださるのです。詩篇 121篇1-3節は,詩篇作者のような信仰を持つものは決してひとりにされないことを示しています。「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまえるエホバよりきたる エホバはなんぢの足のうごかさるゝを容したまはず 汝をまもるものは微睡たまふことなし」。
失望したり気が沈んだりするとき
4 絶望や失望のために孤独感に襲われるとき,何をすることができますか。しかしどんな態度を避けなければなりませんか。
4 獄にいなくても,孤独感に襲われるときはあるものです。落胆したり,失望したり,絶望に陥ったりしたときには特にそうです。失望の原因がなんであれ,詩篇作者が述べているように,心配やざ折感などの重荷をエホバにゆだねることを忘れてはなりません。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をさゝへたまはん たゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ」。(詩 55:22)エホバは,ご自分の民が動かされる,つまり破滅に陥れられるのを許されない,ということをわたしたちは確信できます。しかし警戒しなければならないのは,独立の態度を取らないということです。エホバ神にたより,全く依存してください。そうすれば,エホバはあなたをささえて,倒れないようにしてくださるでしょう。―箴 3:5-7。
5 (イ)エホバに依存していることをどのように示せますか。(ロ)人の子が来るときに「信仰」が見いだされるか,ということについて話されたイエスは,特に何のことを言っていたのですか。
5 祈りは,神に依存していることを示す一つの方法であり,また,わたしたちの荷を神にゆだねる方法でもあります。祈りという手段を決しておろそかにしてはなりません。(エペソ 6:18)たゆまずに祈るには信仰がいります。事実,主イエスは祈りに関して,「人の子の来るとき地上に信仰を見んや」という質問をされたことがあります。(ルカ 18:8)この時イエスは,1,7節からわかるように,祈る必要性,祈りを通して「夜昼よばはる」必要性について弟子たちに教えておられたのです。したがって「信仰」に関するその質問は,神への祈りの力に対する信仰と特別な関係を持っていました。今日だれがこの種類の信仰を持っていますか。あなたはいかがですか。そういう信仰を持っている人はさいわいです。その人は決してひとりぼっちではありません。
6,7 祈りはいつ特に重要ですか。神はご自分に祈りを通して近づく忠実なクリスチャンをささえることができますが,わたしたちはなぜそれを確信できますか。
6 失望したり落胆したり,また,うちひしがれたときなどには,祈りは特に重要です。(サムエル前 1:5-18)心配の原因を神にゆだねてください。神は必ずあなたをささえることができます。(ピリピ 4:6)エホバ神は,荒野にいたイスラエル人の大群衆を40年間もささえたではありませんか。彼らをささえるために,翼を広げたわしのように舞い降りてくださったのです。(申命 32:11,12)神は彼らのために奇跡的な備えをされたので,サンダルも衣服も少しもすり切れませんでした。―申命 29:5。
7 エホバ神は,大群衆のみならず,実に全宇宙をもささえることができるのですから,自分がひとりぼっちだと感じている,ご自分のしもべのひとりをささえられないということがあるでしょうか。決してそのようなことはありません。しかしわたしたちは,クリスチャン兄弟すらも与えることのできないこのささえとなる力を,信仰をもってエホバに祈り求めねばなりません。―ピリピ 4:13。
他の人びとから一時的に離れているとき
8,9 (イ)孤独の価値を示すどんな例が聖書にありますか。(ロ)したがって,しばらく他の人々から離れていることはどうして有益ですか。
8 他の人びとから一時的に離れているとき,あなたは孤独を感じますか。それを感じる人もいます。そのような人がまず考えることは,ラジオを聞くかテレビを見るかすることです。しかし,一時的にひとりでいることは実際には有益なのです。事実,ある程度ひとりでいる時を持つのは人間の基本的な必要とされています。イエスでさえ,群衆からのがれて孤独を求めました。また,山や園で祈りました。(ルカ 4:1,42; 6:12; 22:39-41)聖書の中にはほかにも,時おり同じく孤独を求めた敬虔な人の例が載っています。エホバは,ホレブ山の奥のさびしい場所でモーセに語り,そののち,イスラエルを導く者として彼を用いました。詩篇作者ダビデは,孤独な環境に置かれたときに,最も美しい詩篇のいくつかを作りました。バプテスマのヨハネは,ヨルダン川の近くにある人のいない荒野にしばしば行きました。これらの人は孤独の必要を知っており,それを有利に,また神の栄光のために用いたのです。
9 今日の生活は目まぐるしく,どんどん動いて行きます。たちまちのうちに過ぎ行くでき事を評価するには時間が必要です。しばらくひとりでいることにより,いわばそれに追いつくことができます。それは,わたしたちに必要な聖書の真理に対する熟考と黙想の機会,それにひたる喜びを提供します。さらに,エホバの祝福を感謝し,その導きと聖霊を求める機会を与えてくれます。
10 神はイスラエル人が荒野を40年間さまようままにされましたが,その理由について神は何と言われましたか。このことにはわたしたちに対するどんな教訓が含まれていますか。
10 神はイスラエル人が40年間荒野をさまようままにされましたが,あなたはその理由を覚えておられますか。『汝を試験み汝の心のいかなるか…を知らんため』であると神は言われました。(申命 8:2,3。歴代下 32:31と比較してください。)したがって,ひとりでいるときにどう時間を使うかは,心の中に実際に何があるかを試みるものともなりうるのです。わたしたちは,肉体的な関心事を霊的な必要の次に置いて,機会あるごとに神のことばで自分を養う必要があります。
11,12 目的をもった黙想とはどういうものか説明しなさい。この点,イエスはどんな模範を示しましたか。
11 それで,ひとりでいるとき,その時間を最も賢明に使うよう努力できます。その時間を黙想に費やすことができます。しかし黙想といっても,空想にふけったり,漫然と思いをめぐらすのではなく,ある線にそってものを考えるのです。黙想には目的があるべきで,物事を熟慮し,あるはっきりした結論に到達するようでなければなりません。そのためには,黙想するさいの導きが必要です。その最善の導きは聖書です。聖書を読むときには,休止を入れながら,読んだことを思いの中で敷延します。そうすれば,目標の全然ない混乱した考えを避けられます。
12 クリスチャンは荒野で神のことばを黙想されたイエス・キリストにならうことができます。イエスは,何にもじゃまされずに,神のことばを熟考されました。そしてこの黙想により,十分に備えができたので,のちに悪魔の攻撃を退けることができたのです。―マタイ 4:1-11。
かん難の時
13 真のクリスチャンが孤立させられる場合があるのはなぜですか。
13 真のクリスチャンは,迫害のために孤立する場合があります。しかしその場合にも,そうした試練のときにはエホバの霊が,エホバに完全により頼む者に慰めを与えてくれるということを銘記しておく必要があります。苦難のときに何をすべきかを知っておくことが肝要です。なぜなら,ご自分の使徒ヨハネに黙示を与えたさい,主イエスはこう言われたからです。『視よ,悪魔なんぢらを試みんとて,汝らの中のある者を獄に入れんとす』。また,使徒パウロは,『およそキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過ごさんと欲する者は迫害を受くべし』と述べました。―黙示 2:10。テモテ後 3:12。コリント後 1:3,8-10。
14 孤立の状態に耐えうるため,クリスチャンはどのようにして自分を強めることができますか。
14 あなたの信仰はどれほど強いものですか。神に忠誠を守りたいという願いを持っているために,絶えず尋問されたり,長年の独房生活をしていても,なおかつひるまずにおれますか。そうした迫害の起こる前こそ,自分を強める時です。どのようにしてですか。今,時間を賢明に用い,神のことばを研究し,黙想してそれを心に深く植えつけ,エホバの民と定期的に交わり,また,学んだことをエホバの王国奉仕において用いることにより自分を強めるのです。エホバに今より頼み,自分のあずかれる霊的な備えを活用するなら,危機の時にエホバから力を得ることができ,その力にささえられて危機を乗り切ることができるでしょう。
15,16 (イ)孤立させられた場合,クリスチャンは何をすることができますか。(ロ)詩篇作者アサフは苦しみにどう対処しましたか。
15 しかし,やむなく孤立させられる場合,いったい何ができるでしょうか。いろいろな聖句を思いめぐらしたり,神のなされたことやわざについて考えることができます。聖書中の忍耐の忠実の模範を考えることもできます。たとえば,長年投獄生活を送ったヨセフがいます。彼は実際には,独りだったのではなく,神がともにいてくださいました。(創世 39:20-23)また,サムソンがいます。囚獄に入れられ,全く自分独りだけのように見えましたが,エホバは彼を捨てられませんでした。(士師 16:21-30)たびたび投獄されても忠誠を守った使徒たちの例もあります。(使行 5:17-21; 12:3-17; 16:19-34。コリント後 6:3-5)迫害のために孤立させられたクリスチャンは,非常な苦しみを味わっていた時の詩篇作者アサフが行なったのと同じことを行なえます。『琴を執て預言した』この「先見者」は,詩篇 77篇2,12節〔新〕にこうしるしました。「わがなやみの日にわれ〔エホバ〕をたづねまつれり…我なんぢのすべての作為をおもひいで汝のなしたまへることを深くおもはん」。(歴代上 25:1。歴代下 29:30)ものみの塔協会の地帯の監督は,忠誠を守るがゆえに監禁され,悪態をつかれ虐待されたとき,このアサフと同じことをしました。のちにその経験を語ったとき,彼はこう言いました。「わたしたちは盛んに祈りました。そういう状況に置かれると,人は考える機会が多くなるものです」。
16 同様に詩篇作者アサフも,むずかしい状況に置かれたとき,考える機会を多く持ちました。彼は神に捨てられたかに見え,前途は暗いものでした。しかし,自分をささえるために,そしてエホバ神につき従うために,彼は何をしましたか。すでに引用したとおり,彼はこう言いました。「我なんぢのすべての作為をおもひいで[黙想する]汝のなしたまへることを深くおもはん」。神の昔のわざとそのなさったこと,エホバがご自分の民を昔どのように救い出されたかを深く思いめぐらしたのです。アサフは,神が変わらないことを知っていました。次のように書かれているとおりです。「それわれエホバは易らざる者なり 故にヤコブの子等よ汝らは亡されず」。(マラキ 3:6)そうであれば,エホバは,ご自分の民が,忠実であるかぎり,のみ尽くされたり,滅ぼされるのを決して許されません。
17,18 むずかしい事態に対して備えをするために,クリスチャンは何をすることができますか。
17 したがって,神が昔から今に至るまで,ご自分の民のためになさったわざや,ご自分の組織のためになさったことについて知ることには,十分の理由があります。今こそ,そうした事柄を心と思いにたくわえる時です。そのためには,神のことば聖書と,ものみの塔協会のいろいろな出版物がわたしたちの助けとなります。そうしておけば,アサフと同じように,むずかしい状況に置かれたとしても,正しい考え方をすることができ,かたく立つことができます。わたしたちの思いには,良いこと,貴いこと,誉れあること,愛すべきことがあり,それを黙想することができるからです。―ピリピ 4:8。
18 ですから,詩篇作者はここで,エホバ神のわざと,なされたことを黙想するという良い型をわたしたちのために示してくれています。そうすれば,それは必要な時にわたしたちの役に立つのです。
現代の例
19,20 エホバの現代のしもべのひとりは,5年間にわたる孤立した生活にどのように対処しましたか。
19 先見者のアサフが,黙想と,神に対する信頼のゆえに,決して自分独りにされなかったのと同じく,現代の神のしもべたちについても同じことが言えます。たとえば,中共の独房で5年間を過ごした宣教者の例を考えてみましょう。このエホバのクリスチャン証人は,自分がどのようにして霊的に生きていられたかを次のように話しました。
20 「私は最初から,信仰を強く保つために手段を講じなければならないことを悟りました。逮捕された日,独房に閉じ込められると,すぐひざまづいて祈りました。…霊的な事柄に対する認識を保ちつづけるため,私は『伝道』の計画を立てました。しかし独房にいるのに,だれに伝道するのですか。私は,自分の覚えている事柄をもとにして聖書の話を作り,想像上の人物に伝道しようと決心しました。そして,そのわざに取りかかりました。いわば,想像上のドアをノックして想像上の家の人に証言をしながら,午前中数軒の家を訪問するというわけです。…私はそれを声を出してしました。自分の思いにも銘記させるためでした。看守はきっと,私が気が狂いだしたと思ったことでしょう。しかし,わたしはそれによって強い信仰と健全な思いを保つことができました」。
21,22 (イ)自分が決して独りでなかったことを,この宣教者はどのように説明しましたか。(ロ)投獄された別の宣教者は,孤立させられたとき,自分の時間をどのように有効に使いましたか。
21 この宣教者はひとりにされましたが,自分独りではなかったのです。これは,エホバのしもべがどこにいようと,言えることです。その宣教者が続けて言ったとおりです。「仲間の人間から離されてひとりにされることがあっても,神から私を離すことはだれにもできませんでした。祈りはなんという霊的な力と慰めを私にもたらしてくれたことでしょう。…神の霊がその民に達するのを妨げうる銃も,壁も,鉄格子もありません。神のことばの研究に努め,それを心の奥深くに浸透させているなら,何も恐れるものはありません。私たちは自分の力で立つのではありません。しかし神はご自分の全能の力をもって,私たちの最も微弱な者でも迫害に打ち勝てるようにしてくださるのです」。
22 同様な状況のもとで投獄された別の宣教者はこう説明しました。「時間はありあまるほどありました。…多くの聖句が頭に浮かんで来,私はそれを書き留めました。…十分に聖句を書き出したあと,私は日々の聖句として一つを選び,それを写し,どこかよく目につく所に置いて,一日中それを考えることができるようにしました」。
23,24 ドイツに住む,現代の神のしもべのひとりは,自分をナチ強制収容所の生活に耐えさせた基となったものをどのように説明しましたか。
23 真のクリスチャンは決して独りではない,ということを実証する現代の例は,世界各地で見られます。ドイツでは第二次世界大戦中,何千人ものエホバの証人がヒトラーの強制収容所に入れられました。たいていの場合,聖書は与えられませんでした。それらの証人のひとりは,釈放されたあとこう書きました。「逮捕されたとき,私は自分が聖書の個人研究を怠らなかったことを感謝しました。そのおかげで,私の信仰は尽きなかったからです。私は,聖書記者ヤコブの語った次のことばを何度も思い返しました。「視よ,我らは忍ぶ者を幸福なりと思ふ」― ヤコブ 5:11。
24 「刑務所の職員は,私からは聖書を取り上げましたが,[エホバの証人でない]他の囚人たちには聖書を持つことを許しました。聖書を持っていなければ,私の信仰が弱くなり,ナチスの準備した,信仰を捨てるという主旨の宣言書に署名して実際に信仰を捨てるだろう,と考えたのです。彼らは,私が,投獄されるずっと前から,聖書の個人研究と群れの研究を通して,神のことばを思いに深く刻みつけていたことに気づいていませんでした。私の思いから,信仰を強めるその真理を取り去ることはできなかったのです」。
25-27 アラブ連合共和国の強制収容所に入れられたエホバの民がどのように感じたかを説明しなさい。そうした環境に置かれながら,彼らはどのようにして霊的な食物を取り入れることができましたか。
25 強制収容所に入れられたアラブ連合共和国のエホバの証人たちも,神のことばが信仰を強める力を持っていることを経験しましたし,また,自分が独りだとは決して感じませんでした。投獄される前に,ものみの塔協会を代表して旅行する仕事をしていたあるエホバの証人は,次のように述べました。「どれほど侮辱されても殴打されても,数秒たってしまうと,まだなぐられているのに,もう何も感じませんでした。その間じゅう,エホバ神がわたしたちといつも共にいてくださるのだということを実感しました」。
26 それらの証人は,力を与える霊的な食物を取り入れるためどのような取り決めを作りましたか。そのうちのひとりは答えました。「わたしたちは毎朝,クリスチャン兄弟を励ますと思われる適切な聖句を選んで討議しました。また,聖書から2章を選んで話し合いました。各人が記憶をたよりに,それらの章について思い出せることを話すのです。さらに毎晩,聖書の話のために集まりました。そうした毎日の聖書の討議や話は,たしかにわたしたちを強めるものとなりました」。
27 真のクリスチャンは決して自分ひとりではありません。非常に多くの現代の例がこのことを証明しています。クリスチャンがエホバを信頼し,完全により頼むなら,エホバはともにいてくださるのです。
思いの中で神を見つづける
28-30 (イ)詩篇 16篇8節に示されているように,エホバにより頼むのに何が助けとなりますか。(ロ)この点,どのようにダビデやイエスにならえますか。
28 エホバにより頼む点でわたしたちの助けとなるのは,詩篇作者の行なったように,いわば,常にエホバをわたしたちの右に置くことです。詩篇 16篇8節には次のような励ましのことばが見いだされます。「われ常にエホバをわが前におけり エホバわが右にいませばわれ動かさるゝことなし」。
29 ここで,使徒ペテロが詩篇 16篇をイエス・キリストに当てはめたことを覚えておくのは良いことです。『神は死の苦難を解きてこれを甦へらせたまへり。彼は死につながれをるべき者ならざりしなり。ダビデ彼につきて言ふ「われ常に我が前に主を見たり,我が動されぬために我が右に在せばなり」』― 使行 2:24,25。
30 わたしたちは,ダビデやイエス・キリストと同じことを行なうことができます。自分の思いの中で,エホバを自分の前に置くことができるのです。イエスがなさったように,わたしたちも,エホバをいつも喜ばせようと努めることにより,エホバを常に自分の前に置くことができます。積極的であってください。あなたの神を知ってください。エホバがあなたの右にいてくださるなら,エホバはご自分の右手で民のために戦い,左手であなたをささえることができます。そうです,わたしたちは,詩篇 110篇4-6節〔新〕に予告されているように,メルキゼデクのような王かつ祭司である主イエス・キリストに与えられた預言的な約束を知っています。『[エホバ]はなんぢの右にありてそのいかりの日に王等をうちたまへり 主はもろもろの国のなかにて審判をおこなひたまはん ここにもかしこにも屍をみたしめ…たまへり』。したがって,わたしたちの模範者イエス・キリストの模範にならい,エホバ神を常にわたしたちの前に置き,またエホバ神がわたしたちの右にいてくださるなら,わたしたちは決して自分ひとりになることはありませんし,決して動かされることもありません。
31 わたしたちが神から与えられた希望をあくまでもかたく保つなら,それはどんな益をもたらしますか。
31 希望は,わたしたちがエホバと親しい関係を保つ助けになります。事実,使徒パウロはクリスチャンの希望を『魂の錨』にたとえました。『この希望は我らの魂の錨のごとく安全にして動かず,かつ幕の内に入る。イエス我等のために前駆し…そのところに入りたまへり』。(ヘブル 6:19,20)この錨に似た希望は神から発しているものですから,それは,イエス・キリストとエホバのおられる天に入るとも言えるのです。この希望をかたく守り,決して捨てることがないなら,その希望によってわたしたちはエホバ神にしっかり結びつけられ,決して離れ去ることはないでしょう。では,エホバまたその組織との親密な関係を,だれかに破られるようなことが決してあってはなりません。
32,33 (イ)詩篇 46篇1,2節を考えると,神があらゆる敵よりも近くにいてくださるとどうして言えますか。(ロ)明らかにこの詩篇の背景になったと思われる事態からすると,神のしもべが苦難のとき決して独りでないのは明白です。なぜですか。(ハ)わたしたちはどのように神を避け所としますか。
32 あなたは忠実なクリスチャンらしく,決してひとりではないのだということをいつも銘記してください。そのうえ,エホバ神はどんな敵よりも近くにいてくださるのです。詩篇作者が詩篇 46篇1,2節で述べているとおりです。「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり さればたとひ地はかはり山はうみの中央にうつるとも我らおそれじ」。
33 この詩篇のことばは,ヒゼキヤ王の時代に生じた重大な事態と合致しているようです。それは,エルサレムがアッシリヤの王に脅かされた時で,ヒゼキヤは自分が全く独りだと感じることもできたはずです。しかし,彼は神が「なやめるときの最ちかき助」であることを知っていました。それで彼はエホバに祈り,都市は危難から救出されたのです。(イザヤ 37:14-37)ですから,真のクリスチャンも,苦難にあるときにはこの詩篇を思い出すことができます。神を避所とするためには,神のもとにのがれなければなりません。そして,そうするためには,いつも神の正義の原則につき従う必要があります。神を信頼し,忠実にその組織につき従うことにより,わたしたちはエホバを自分たちの強固な櫓そして避所とするのです。―箴 18:10。
34 わたしたちは将来に対して何を決意すべきですか。どんなすばらしい結果がもたらされますか。
34 前途にはまだ大きな苦難の時が待っています。マゴグのゴグである悪魔サタンが,わたしたちエホバの民に,予告されていた攻撃をしかけてくる時が来ます。(エゼキエル 38:1,2,8-12)しかし,わたしたちは決して独りなのではありません。独房に監禁されようとされまいと,エホバはわたしたちが忍耐できるよう助けてくださいます。わたしたちは将来に何が起ころうと,かたく立つ決意をしています。しかるべき時に,エホバ神はご自分の敵すべてに向かって力強い行動を起こされます。そして,わたしたちは神の王国とともに勝者として立つのです。すべてが終わり,「大かん難」が過ぎ去ったのちに,わたしたちは,エホバが近い助け,強固な天,確かな避所,また力であったことを見いだすでしょう。
-
-
天からもたらされる助けものみの塔 1972 | 12月1日
-
-
天からもたらされる助け
「誘惑に陥らぬよう目を覚し,かつ祈れ」― マタイ 26:41。
1,2 (イ)「慎みて祈りせよ」と書き送ったとき,使徒ペテロはどんなでき事を思い起こしていたかもしれませんか。(ロ)『目をさましている』ことのできなかった3人の使徒にイエスはどんな助言を与えましたか。
『萬の物のをはり近づけり,されば汝ら心をたしかにし,慎みて祈りせよ』。この助言のことばをクリスチャンに書き送ったとき,使徒ペテロは,自分とヤコブとヨハネが,イエスから祈るようにと忠告を受けた夜のことを思い出していたかもしれません。彼らはゲッセマネの園にいました。イエスの裏切られる時は近づいていました。イエスは3人に言いました。『わが〔魂〕いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝らここにとどまりて我と共に目を覚ましをれ』― ペテロ前 4:7。マタイ 26:38〔新〕。
2 それから,イエスは少し進んで行き,ひれ伏して天の父に祈りました。『わが父よ,もしうべくばこの酒杯を我より過ぎ去らせたまへ。されど我が〔意志〕のままにとにはあらず,〔御意志〕のままになしたまへ』。3人の弟子の所にもどったイエスは,彼らが眠っているのを見,ペテロに言われました。『なんぢらかく一時も我と共に目を覚まし居ることあたはぬか。誘惑に陥らぬよう目を覚まし,かつ祈れ』― マタイ 26:39-41。
3 イエスの助言にもかかわらず,使徒たちはどう応じましたか。それに対してイエスはなんと言われましたか。
3 イエスはふたたび離れて行って,神のご意志が成されるようにと神に祈られました。そしてもどってこられ,またもや3人が眠っているのをごらんになりました。彼らの『目は疲れていた』からです。イエスは3度目に彼らのもとを離れて祈りました。使徒たちの所に帰ってきたイエスは,こう言われました。「今は眠りて休め。視よ,時近づけり,人の子は罪人らの手に付さるるなり。起きよ,我ら往くべし。視よ,我らを売るもの近づけり」。イエスがまだこれらのことばを話しているうちに,彼を拘引するため,イスカリオテのユダが,武装した群衆とともに近づいて来ました。―マタイ 26:42-47。
祈りは誘惑を避けるために必要
4 (イ)使徒たちは,誘惑される事態に陥る前に,どんな明確な警告を与えられましたか。(ロ)この警告にペテロはどう応じましたか。
4 イエスの弟子たちは誘惑に陥りました。それも,師から警告されたにもかかわらずにです。3人の使徒は自分の場所にいて,目ざめていなければなりませんでした。しかし,イエスが3度も祈りに没頭しておられる間に,身をかがめて眠ってしまったのです。夜中を過ぎていたことでしょうし,弟子たちは当然眠かったことでしょう。それにしても,霊ははやっても肉身は弱いことを知っていたイエスは,目ざめて祈っているようにと彼らに告げておられたのです。(マタイ 26:41,新)彼らは誘惑される状態に陥る前に警告を受けていたのです。イエスは言われました。「こよひなんぢら皆われに就きてつまづかん『われ牧羊者を打たん,さらば群の羊散るべし』と録されたるなり」。(マタイ 26:31)こうして彼らは,ゼカリヤ書 13章7節の預言が成就しようとしていることを警告されました。しかし,ペテロはイエスの警告にこう答えました。「たとひみな汝に就きてつまづくとも我はいつまでもつまづかじ」。ところがペテロは,それよりもさらに悪いことをするであろう ― 主イエスを3度否むであろう,と告げられました。―マタイ 26:31-35。
5 誘惑に面したとき,使徒たちは何をしましたか。どうすべきでしたか。
5 目ざめているということ,また慎んで祈るということに関し,イエスは弟子たちにりっぱな模範を示しました。しかし,イエスのことばがどのように真実となるのか,使徒たちには理解できませんでした。それで彼らは何をしましたか。祈る代わりに眠ってしまいました。彼らは祈り,天からの助けを求めるべきでした。ところが,眠ってしまったのです。目をさましていませんでした。祈りつづけていなかったのですから,誘惑に陥るのは当然のことでした。
6 (イ)イエスが黙示録 3章10節で予告された,『全世界にきたらんとする試み』は何ですか。(ロ)試みがまだ終わっていないことを考えると,これはクリスチャンに対するどんな警告となりますか。
6 この3人の弟子たちの経験は,ヒラデルヒヤ会衆の『使い』に与えられたイエスのことばを思い起こさせます。それは,黙示録の3章10節にこうしるされています。「汝わが忍耐の言を守りし故に,我なんぢを守りて,地に住む者どもを試むるために全世界に来らんとする試錬のときに免れしめん」。予告されていた「終わりの時」が到来してからというものは,人間から,また目に見えない悪霊からくる圧力が,物質的,国家主義的方向へ,また不信仰の方向へ,激しい勢いで働きかけています。人は,この邪悪な事物の体制の一部となるか,それとも神の王国を支持するものとなるかを決める試みにあっています。今日の最大の誘惑は,そうしたこの世の圧力や魅力に屈して,この事物の体制の一部になることです。比較的短い時間,つまり『一時』の間におけるこの世界的な試みはまだ終わっておりません。したがって,現代のクリスチャンは,誘惑の時代にいるという警告を受けています。1世紀のクリスチャンと同様,誘惑に陥らないよう目ざめて祈る必要があるのです。
7,8 (イ)試みがクリスチャンに臨むのを神が許されるのはなぜですか。わたしたちが天から助けを得られるよう,神はどんな手段を備えられましたか。(ロ)誘惑に陥るのは,おもに何の問題ですか。それで祈りはどのように助けとなりますか。
7 クリスチャンは今日,非常に多くの誘惑に面しています。ですから,誘惑からどのようにのがれるかを知る必要があります。どのように誘惑からのがれることができますか。次のことを銘記すべきです。エホバ神は悪をもってだれかを誘うようなことはされません。忠実なしもべたちが誘惑にあうのを許されるのは,ご自分に対する忠誠と王国に対する忠節を試みるためです。しかも忘れてならないのは,誘惑されたとき,わたしたちには祈りという経路がいつでも開かれており,いつでもそれを活用できるということです。わたしたちは,天からいつでも助けを得ることができるのです。
8 聖書が示しているように,誘惑に陥るのは,おもに欲望の問題です。(ヤコブ 1:13-15)ですから,悪い欲望を培うことのないよう警戒してください。そうしないなら,誘われてたちまち罪に引き込まれてしまいます。わたしたちは慎んで祈らねばなりません。祈りはそうした欲望を退ける助けとなるからです。そのような誠実な祈りは,利己的な欲望を追いやり,あらゆる利己的な誘引力をもつ誘いの束縛からわたしたちを自由にします。目を覚ましているためには祈りが必要であり,祈りは,わたしたちの心を清めることもします。そうです,わたしたちがお願いさえすれば,神は助けてくださるのです。わたしたちには天からのその助けが必要です。誘惑は必ずやって来るからです。その時には,目を覚まして祈りなさい,という神の警告を思い起こしてください。
誘惑にあった時の助け
9 使徒パウロはコリント前書 10章13節で,誘惑についてなんと書きましたか。それは神の忠実性とどう関係していますか。
9 忠実な神はわたしたちが耐えられないほどの誘惑にあうのを許されない,ということをクリスチャンが認識するのは肝要です。使徒パウロがコリント前書 10章13節にしるしているとおりです。『神は真実なれば,汝らを耐へ忍ぶことあたはぬほどの試練に遭はせたまはず。汝らが試練を耐へ忍ぶことを得んために,これと共にのがるべき道を備へたまはん』。これは,誘惑の全過程を通じて,つまり,誘惑にあっている人がエホバの助けを得てそれに対処する方法を知り,そして誘惑からのがれるまで,エホバ神が忠実であることを意味します。
10,11 (イ)イスラエル人の経験から明らかなとおり,使徒は特にどんな経験について語っていますか。(ロ)そのような誘惑がクリスチャンにも臨むのはなぜですか。神はわたしたちが何を明らかにするように取り計らわれますか。
10 ここでわたしたちは,使徒パウロはコリント前書 10章13節で,迫害についてではなく,特に誘惑について語っているということを銘記すべきです。彼は『人の常なる』誘惑について考えていたのです。この13節の初めで,彼は言いました。「汝らが遭ひし試練は人の常ならぬはなし」。どの人にとって常でないのですか。特に,エホバと契約関係にあった古代イスラエルの人びとにとってです。というのは,この章の前節の所で使徒は,生来のユダヤ人に臨んだ誘惑について,また彼らの中の数千人もの人が誘惑に陥った様子を語っているからです。パウロは彼らが経験したこと,そして誘惑に屈服したことを,クリスチャンが同じような境遇に陥らないよう注意するための警告として取り上げています。それらイスラエル人は異邦人に近づき,幾千人ものイスラエル人が不道徳に陥りました。使徒パウロはこう述べています。「またかれらの中のある者にならひて我ら姦淫すべからず,姦淫を行ひしもの一日に二万三千人死にたり」。(コリント前 10:8)さらに彼らは,偶像崇拝に転じ,不平を言ったりつぶやいたりしました。エホバは,彼らの心にあるものを見るため,彼らが自分たちの神エホバを愛しているかどうかを見るために,それらの誘惑にあうのを許されたのです。―申命 8:1-3。
11 したがって,そうした誘惑は,やはりエホバ神と契約関係にある今日のクリスチャンにもことごとく臨みます。クリスチャンは,それら古代の民,つまり,生来のイスラエル人および『多くの寄り集まり人』の対型をなしているからです。(出エジプト 12:37,38。民数 11:4-6)わたしたちが誘惑にあうのを許すことにより,エホバはわたしたちが心の中ではどんな人間かを知りうるのです。それから神は,誘惑からのがれる道をたしかに備えてくださいます。しかし,自分が実際にはどんな人間か,心の中には何があるか,悪を憎み善を愛しているかを,わたしたち自身に実証させられるのです。
誘惑からのがれる道
12 神は誘惑を単に取り除くことによって,誘惑からのがれる道を備えられますか。モーセに関するできごとは,この質問に対する答えをどのように例証しますか。
12 エホバはご自分のみことばの中で,誘惑と『共にのがるべき道を備える』と約束しておられます。どのようにしてですか。誘惑を単に取り除くことによってですか。いいえ,人が不道徳や不平をつぶやくことに関して誘惑されるときの状態からわかるように,神は誘惑を取り除かれません。アロンとミリアムの件を覚えておくのは良いことです。弟の地位がきわだっていて,自分たちは十分に幅をきかすことができないと不平を述べたとき,神はモーセの職を奪って,不平をいうふたりから試練を除去されなかったではありませんか。そうです,神はモーセをその職にとどめました。彼はエホバの選ばれた者であり,その務めに適した人だったからです。協力しなければならなかったのはアロンとミリアムでした。どのようにですか。ふたりは神権的なものの見方をしなければならなかったのです。エホバ神が王であり,その取り決めには服さねばならないということを認識する必要がありました。(民数 12:1-16)したがって,誘惑にあうとき,わたしたちはその試みからなんとか抜け出て,誘惑が終わる前にのがれられると期待することはできません。誘惑は極限まで進まねばなりません。そののち神は,わたしたちが神に対して忠誠心と忠節心をいだいているかを知るのです。
13,14 (イ)わたしたちが誘惑にあうのを避けられないのであれば,神はどのようにしてのがれる道を備えてくださるのですか。(ロ)エホバは,耐えることができない試みをご自分の民にあわせません。古代イスラエルのどんな経験がそれを示していますか。(ハ)ヨセフの経験は,事前の準備が必要であることをどのように例証していますか。
13 特定の誘惑にあうことが避けられないのであれば,いったいどこに逃げ道があるのですか。神は,わたしたちに神権的な原則を与えることにより,のがれる道を与えてくださいます。その原則に従えば,悪を行なわないように助けられます。さらに,神はわたしたちがどの程度耐えられるかをご存じです。したがって,とても耐えられないような試みにわたしたちをあわせることはなさいません。たとえば,イスラエル人がエジプトから出てきた時のことを聖書はこう述べています。「ペリシテ人の地は近かりけれども神彼等をみちびきてその地を通りたまはざりき そは民戦争を見ば悔てエジプトに帰るならんと神おもひたまひたればなり」。(出エジプト 13:17)神は,彼らが「ガザの狭地」を通って約束の地に直行することを許されなかったのです。イスラエルには戦いの備えもなく,よく訓練されたペリシテ人に立ち向かう用意もできていませんでした。そのため,エホバはご自分の民のために親切にも紅海を通る道を選ばれました。こうして,イスラエルはこの時にはペリシテ人と戦わずにすみました。彼らがそうした試みに耐えられないことを神はご存じだったのです。
14 エホバは,耐えられない試みにわたしたちをあわせるようなことはなさいません。わたしたちはこのことを感謝できます。さらに,わたしたちが誘惑に耐えて忠誠を守り通せるよう神が事前に備えをしてくださるのは,ほんとうに感謝すべきことです。神は事前に,わたしたちを霊的な面で強めてくださいます。しかし,神の備えてくださるこの事前の準備を活用しないなら,災いです。不道徳を犯すようポテパルの妻に誘惑されたとき,ヨセフが面した試みを考えてください。(創世 39:7-12)わたしたちはヨセフのようでありうるでしょうか。彼はそうした事柄に対する神の律法を,前もって自分に教え込んでいたのです。
15 (イ)誘惑に対し事前の準備をするなら,どんな成功を収めることができますか。(ロ)『偶像崇拝から逃げる』ことは,誘惑を克服するのにどのように助けとなりますか。
15 そうです,エホバ神はおもに,わたしたちからどんな行動を期待するかを前もってしるすことにより,誘惑からのがれる道を示してくださいます。(ガラテヤ 5:19-23)わたしたちはそれにより,あらゆる誘惑を最初から最後まで経て,それに勝ち抜き,忠誠を保ち,試みの下で忠実を証明するのです。しかし,使徒パウロの助言に注意を払う必要があります。誘惑に関して神がどのように助けてくださるかを述べたすぐあとで,彼はこう付け加えました。「それゆえ,わたしの愛する者たちよ,偶像崇拝から逃げなさい」。(コリント前 10:14,新)偶像崇拝は決して,文字どおりの偶像・像・彫像などの崇拝に限られてはいません。使徒パウロは,『むさぼりは偶像崇拝なり』と警告しました。それは,人はむさぼりのために自分を崇拝の対象とするようになり,利己的な渇望が生活の最重要なものとなるからです。しかしあらゆる種類の偶像崇拝から『逃げる』なら,将来に対し,また,来るかもしれない誘惑に対しよい備えをすることができます。―コロサイ 3:5。コリント前 6:18。
16,17 (イ)誘惑に面したとき,自分の力により頼むことが賢明でないのはなぜですか。(ロ)約束の地のまさに境界にいた古代イスラエルの例から明らかなように,わたしたちはどんな態度を避けねばなりませんか。(ハ)どんな行動をとれば,使徒に加わってテモテ後書 4章17,18節のように言うことができますか。
16 わたしたちが誘惑にあうのをエホバが許されるときには,かたく立つためにいつでも何かをしましょう。一つには,絶えず祈り,天からの助けを求めることができます。そうすれば,自分の力により頼むことはありません。使徒パウロは述べています。「自ら立てりと思ふ者は倒れぬやうに心せよ」。(コリント前 10:12)神にどれほど長い間仕えてきたクリスチャンであろうと,やはり,人間の要素である堕落した肉体と戦わねばなりません。昔の人が,危機に面したときに,ある状況の下で誘惑され,そのために倒れたのであれば,同じ人間のわたしたちが,倒れないとは言いきれません。わたしたちは依然,悪に進ませるもろもろの誘惑がつきまとう現代の邪悪な事物の体制に住んでいます。終わりは近いとはいえ,倒れることはないと考えないように注意しなければなりません。自分は強いのだから倒れはしない,などと考えないほうが賢明です。イスラエルは約束の地にきわめて近い所にいました。しかし,それほど接近していたにもかかわらず,重大な誘惑にあい,2万4,000人が実にその境界地で倒れたのです。ですから,今日のわたしたちは,誘惑に陥る危険性を決して過小評価してはなりません。エホバ神を待ち望んでください。そうすれば誘惑は過ぎ去ります。エホバ神はご自分のことばに真実であることを証明され,わたしたちを誘惑からのがれさせてくださいます。
17 ですから,誘惑に面したときには,神を信頼してください。祈りの中で次のように懇願してください。「天にいます我らの父よ…我らをこころみに遇せず,悪より救ひ出したまへ」。そうすれば,使徒パウロとともにこう言えるでしょう。『主われとともに在して我を強めたまへり…主は我を凡の悪しき業より救ひ出し,救ひたまはん』― マタイ 6:9-13。テモテ後 4:17,18。
18,19 (イ)エホバの民の幾千人もの人々は,近年どんな誘惑にあってきましたか。どのようにその誘惑に抵抗してきましたか。(ロ)「輸血しなければ死ぬ」という誘惑に面したスリナムの証人は,どのように試みからのがれる道を見いだしましたか。
18 近年エホバの証人は,何千人もの人が,輸血を受けるようにとの誘惑に面しています。少数の人は,医師や他の人たちからの圧力に負けてこの誘惑に屈しました。しかし,エホバの民全体としては,この誘惑に立ち向かい,『血を避くべし』と明確に述べているみことばをしっかりと守っています。(使行 15:20,29)聖書の原則につき従い,また祈ることによりそうしているのです。スリナムの証人の例を考えてみてください。船の上で突然病気になったため,ハイチで船を降ろされ,そこで治療を受けることになりました。医師は,出血性胃かいようだから,「輸血をしなければ死ぬ」と言いました。
19 このきびしい誘惑にそのエホバの証人はどう応じましたか。彼はこうしるしています。「私は家族から数千㌔以上離れていました。私がこんな危険な状態にあるのを,家族はだれも知らなかったでしょう。話し合えるクリスチャン兄弟がいるわけでもありません。『輸血をしなければ死ぬ』ということばが,頭の中をかけめぐりました。病院の人たちは,私が死ぬに決まっていると思ったようです。私はエホバに祈りました。さびしく感じることもありましたが,エホバにいつでも話しかけることができました。エホバはご自分のしもべを世話してくださるという確信をいだいて,心配をことごとくエホバにゆだねられるのは,なんとすばらしいことなのでしょう。死ぬならば,復活を受けるということを私は知っていました。復活の希望が,輸血を受けまいという私の決心を強めてくれました」。この証人はついに誘惑から救い出され,輸血なしに回復しました。聖書の原則につき従うことにより,また慎んで祈ることにより,彼は誘惑に打ち勝ったのです。
孤立させられても,祈りを妨げるものはない
20-22 祈りが天からの驚くべき助けである理由を説明しなさい。
20 神の助けを早急に必要とするとき,祈りは,助けを直ちにそしてすぐに得る最も身近な経路です。エホバ神は眠ることがありませんから,助けが遅れるということもありません。「汝をまもるものは微睡たまふことなし」。(詩 121:3)祈りによって神に近づく人には,天からすぐに助けが与えられます。手紙を書き,返事を数日待たねばならないというのとは違います。しかも,わたしたちのためだけでなく,わたしたちのクリスチャン兄弟のためにも,祈ることは非常に多くあります。
21 祈りは即時に伝達されるばかりでなく,人を孤立させるどんな障壁をも通過することができます。(ヨナ 2:1-10)中共の独房で5年間過ごした宣教者は,次のように言ったとき,ダニエルのことを頭に置いていました。「私の独房の前を通るすべての人にはっきり見えるところで,私は日に三度祈りました」。その結果について彼はこう言いました。「なんという霊的な力と慰めがもたらされたのでしょう。そして,そのためにみんなわたしがクリスチャンの奉仕者であることを知るようになりました」。祈りに答えて天からもたらされた,なんと驚くべき助けでしょう。―ダニエル 6:10。
22 クリスチャンはさらに,獄の壁や鉄格子など,あらゆる障壁を通り抜けて慰めをもたらす聖霊を祈り求めることができます。わたしたちが神の霊を求め,それを受けるにふさわしい者であるなら,神の霊を遠ざけうるものは何もありません。
23-25 (イ)グアドループのクリスチャンの若者は,どんな脅迫にもおじけませんでしたか。なぜですか。(ロ)彼が忠誠を守ったためどんな結果がもたらされましたか。
23 少し前のことですが,グアドループのエホバの証人のひとりは,独房に入れられると脅迫されました。この若者はクリスチャンの中立の立場を取ったのです。(ヨハネ 15:19)彼は投獄され,独房に入れられました。圧力を加えられ,脅迫されました。「決心を変えなければ,少なくとも2年間の刑務所行きだ。そして,その間ひとりっきりにしてやる。だからよく考えるんだ。2年間ひとりっきりなんだぞ」。これに対して,そのクリスチャンの若者は何と答えたでしょうか。
24 彼は言いました。「皆さんはそう考えるかもしれません。しかし,わたしはあなたがたが言うように決してひとりではありません。エホバ神が私といっしょにいてくださいますし,霊によって私を強めてくださいます」。
25 官憲はその答えに驚きました。さらに,彼のりっぱな行動に感銘しました。数か月たち,エホバの証人の大会の時期がやってきました。その青年が開会日に出席しているのを見て人々は非常に驚きました。彼はその前日に釈放されたのです。そして,大会で自分の経験を話しました。その若者は知りませんでしたが,大会には警察官がひとり出席していました。後日,その警察官は若者の会衆の主宰監督にこう話しました。「彼がクリスチャンとしてりっぱにふるまい,決心を変えなかったのを見て,私の妻がなんといったと思いますか。こうですよ。『あなたがたが自分の意志であの処置を取ったのだと考えてはなりません。それをなさったのはあの人の神エホバです。彼が大会に出席できるよう取り計らわれたのです。彼の神エホバは,わたしたちの神より強いかたです』」。
26 ペテロ前書 4章7節の良い助言を忘れるべきでないのはなぜですか。それで,危機が訪れたとき,わたしたちは何をすべきですか。
26 自分ひとりにされたり,迫害や誘惑にあったり,また圧力を受けたりしても,エホバの忠実な証人であるあなたはそれに勝ち抜き,エホバに輝かしい誉れをもたらすことができるのです。あなたの助けは天から来ます。しかし,使徒ペテロの,「慎みて祈りせよ」という良い助言を忘れないでください。(ペテロ前 4:7)ペテロはこの重要さを,目ざめているように,また『誘惑に陥らないよう目をさまし,祈るように』と主イエスに告げられた夜,つらい経験を通して学ばされました。(マタイ 26:41)危機が訪れたときには,眠ってしまわないで祈ってください。そうすれば,天から助けを得,エホバのおかげで,試みや誘惑に勝ち抜くことができます。エホバはあなたのためにのがれる道を備えてくださいます。『神は忠実であられる』のです。
-
-
『神の力は弱さのうちに全うされた』ものみの塔 1972 | 12月1日
-
-
『神の力は弱さのうちに全うされた』
ベネット・ブリッケルの経験
1932年,私はものみの塔協会より選ばれて,外国宣教奉仕をすることになりました。行く先はマレーシアです。私はオーストラリアをあとにし,900万の人口の中でただひとりエホバのクリスチャン証人を代表するものとして任地におもむきました。しかし,シンガポールおよび,そこから北方のクアラルンプルにかけて神のことばを宣べ伝える積極的な計画は,重病のために中断せざるをえませんでした。この病気で私は心臓を悪くし,一生病人でとおさねばならないということを医師から証明されました。このように長い間病弱であったにもかかわらず,私は今,40年にわたる全時間の宣教奉仕を回顧することができます。キリストをとおしてくるエホバの力は,『私の弱さのうちに全うされた』,私は心からそう言うことができます。―コリント後 12:9。
1925年,まだ16歳の若者であったときに,「パラダイスへの道」という,ものみの塔協会発行の本を手にしたことがきっかけとなって,私は命への道を歩み始めました。それから2年後,ニュージーランドのオークランドにいたとき,通りがかりの古本屋で,「世々に渉る神の経綸」という本を求めました。私はその本を熟読し,その中で「コルポーター」の仕事のことが述べられているのに特に注意を引かれました。コルポーターという
-