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中国,香港,澳門<マカオ>1975 エホバの証人の年鑑
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兄弟たちは霊的な豊かな宴の喜びにあずかり,他の多くの土地から訪れた300人余の兄弟たちとの暖かいクリスチャンの交わりを享受しました。それにしても,特に兄弟たちが感謝したのは,統治体の5人の成員が一緒に出席したことでした。それら統治体の兄弟たちに直接会ったり,その優れた話を聞いたり,謙遜さの面でのその立派な模範を見たりした香港の兄弟たちは,エホバとその組織にいっそう密接に近づくことになりました。
1973奉仕年度の成果と香港の兄弟たちが現在いだいている精神は,その大会の終わりに述べた支部の監督ガナウェー兄弟の閉会の言葉を通して把握できるでしょう。「今年は香港の人々に証言する点で最も感動的な年となりました」と述べた同兄弟は,続いて7月には伝道者がもう一度新最高数271人に達し,1973奉仕年度中35人がバプテスマを受けたことを聴衆に告げました。それにしても,非常な励みを与えたのは,同奉仕年度中伝道者の半数が一時開拓奉仕に携わったという事実でした。7月の終わりには野外の奉仕活動のすべての面で既に新最高数が得られたことを聞いて兄弟たちは歓喜しました。しかも,8月の報告は含まれてはいなかったのです!
エホバの証人はこの難しい畑にあって大いに活気を呈し,大いに活動しています。証言を行ない,弟子を作るわざに懸命に努力しています。彼らはエホバがわざの速度を速めておられることを理解でき,またエホバがさらに多くの羊のような人たちの心を開いて真理を学べるようにしてくださることを確信しています。今交わっている大勢の新しい人たちのうちには,さらに増加をもたらす相当の可能性があります。「竹のカーテン」の背後にいる私たちの愛する兄弟たちについては,私たちはエホバのみ前で祈りのうちに彼らのことを思い起こせます。たまに漏れてくる消息は,彼らがその地で忠誠を保っていることを知らせてくれます。「大患難」が始まる前に中国大陸でさらに証言が行なわれるかどうかの問題は,私たちの愛の神エホバに委ねる以外にありません。
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第1部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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第1部 ― ドイツ
ドイツは人類史に甚大な影響を及ぼしてきました。ドイツ国民は勤勉な働き手また権威に対する従順という点で評判を得ています。それらの特質はこの国の経済成長の主要な要素に数えられており,それゆえに今日,人口6,000万余の西ドイツは世界の工業大国の一つとなっており,地上のあらゆる場所で交易を行なっています。また,その繁栄する経済上の必要を満たすため,近年ギリシャ,ユーゴスラビア,イタリア,スペイン,ポルトガル,トルコその他の土地から300万人余の「移住労働者」を西ドイツに招く必要が生じました。
ドイツの影響はまた,他の点でも波及しました。最初の世界大戦中,1914年から1918年にかけてドイツ軍は東はロシアに押し入り,西はベルギーを通ってフランスにも侵入し,同大戦が終わるまでには世界中の24か国の同盟国を相手にして戦争を行ないました。ドイツは敗れましたが,ほんの短期間の後,同大戦の退役軍人アドルフ・ヒトラーが政権獲得の道を進み始めました。国家社会主義政党の党首となった彼は1933年にはドイツの首相になりました。ヒトラーはすぐさま恐怖政治のもとにドイツ国民を服従させ,1939年には,最初の大戦よりもはるかに大規模で,はるかに壊滅的な別の世界大戦に当時の世界を突入させました。
そうした事柄すべてが生じていた期間,諸教会は何を行なっていましたか。1933年にバチカンとドイツの間で調印された政教条約と調和して,カトリックの僧職者は毎日曜日,ドイツ国家に天の祝福があるようにとの祈りをささげました。プロテスタントの僧職者はそれに反対しましたか。それとは逆で,1933年に彼らは一致結束してナチ国家を無条件で支持する旨誓約しました。また,第二次世界大戦勃発後かなり経った大戦中の1941年には,ドイツ,マインツのプロテスタント福音主義教会は,アドルフ・ヒトラーなる人物がドイツ国民に与えられたことを神に感謝しました。
初期の宗教上の動向
興味深いことに,1517年10月31日,マルチン・ルターが,神のみ言葉に反すると考えられる行ないに反対して95か条の提題をウィッテンベルクの教会の扉に掲げたのはここドイツでのことでした。しかし,その宗教上の抵抗運動はほどなくして政治上の利害とからみ合うようになり,20世紀が到来するずっと前にカトリック教会だけでなくプロテスタント諸団体もまた,自ら世のものであることを明らかにしました。
しかしながら,神が「世の王国」を天の王,主イエス・キリストに与える時が近づくにつれ,世界の他の場所と同様,ドイツでもなされねばならないわざがありました。(啓示 11:15)それは神のみ言葉としての聖書に対する純粋の信仰をいだく人々を必要とするわざでした。そのような人たちには,キリストの真の弟子となるには「世のもの」であってはならないということを認めることが要求されました。(ヨハネ 17:16。ヨハネ第一 5:19)なぜですか。なぜなら,人間の政府を支持する代わりに,神のメシアによる王国を人類に希望を与える唯一のものとしてふれ告げることになっていたからです。(マタイ 24:14。ダニエル 7:13,14)その機会をだれが捉えましたか。
1870年代にはアメリカでチャールズ・テイズ・ラッセルがキリストの再来に深い関心を抱く聖書研究者たちを集めて群れを作り始めていました。彼らは神のみ言葉から学んだすばらしい事柄を他の人々と分かち合う必要を認めました。そのわざが進展し,聖書文書の頒布が規模を増すにつれ,今日ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会として知られる法人団体を設立することが必要となり,ラッセル兄弟がその初代会長になりました。
良いたよりを地の最果てにまで広める重要性を認めたものみの塔協会は1891年に,わざを拡大する可能性を確かめるため,ラッセル兄弟の海外旅行を取り決めました。(使徒 1:8)その旅行の途上,ラッセル兄弟はベルリンとライプチヒを訪れましたが,後日こう報告しました。「イタリアやオーストリアあるいはドイツでは収穫を期待できる励みとなるものは何ら……見当たらない」。それでもなお,同兄弟の帰国後,数冊の書籍や幾つかのちらしをドイツ語で出版する取決めが設けられました。ドイツからアメリカに移住して,協会の出版物を読んだ人々はそれをドイツにいる親族や友人に送って,聖書研究のさいに用いるよう勧めました。
「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」と題する最初のドイツ語の「ものみの塔」誌がアメリカ,ペンシルバニア州アレゲーニーで発行されたのは,それから何年か経った1897年のことでした。その編集主幹はチャールズ・テイズ・ラッセルで,編集副主幹はオットー・A・ケーティツでした。その時までには既にアメリカで「千年期黎明」と題する本の最初の3巻がドイツ語で印刷されていました。
ドイツその他のヨーロッパの地域への文書の発送を簡易化するため,文書貯蔵所がベルリンのニュルンベルゲル街66番地に開設されました。マーガレテ・ギーゼケ姉妹は同貯蔵所を管理し,ドイツ語の「シオンのものみの塔」誌を普通毎号500部郵送する仕事を取り扱いました。1899年の初めにその文書貯蔵所はベルリンから西ブレーメンに移されました。
ゆるやかな始まり
1898年中,努力は増し加えられたにもかかわらず,実情はそのようなものだったため,協会は次のような声明を出すのが適当と考えるほどでした。「協会は親愛なる読者各位の関心と熱意のほどを認めてはいるものの,昨年『ものみの塔』誌に対する注文は予想を下回るものであったことをお知らせしなければならず,またそれゆえに,同誌の印刷を完全に中止すべきか,あるいは2,3か月に1回だけ発行するようにすべきか自問せざるを得ません」。その後,少しの期間,ページ数は2倍になりましたが,わずか3か月に1回印刷されただけでした。
特別著しい成果は得られませんでしたが,払われた努力は確かに空しいものではありませんでした。仕事を能率的に行なうため,1902年には(ウッパータールの)エルベルフェルト区に事務所が開設され,ヘニンゲス兄弟が監督しました。1903年10月,ラッセル兄弟はケーティツ兄弟をドイツに送って監督の仕事を引き継がせ,ヘニンゲス兄弟は特別の割当てを受けてオーストラリアに送られました。ケーティツ兄弟は両親と一緒にドイツからアメリカに移民した人で,1892年の春アメリカでエホバへの奉仕を始めました。彼はラッセル兄弟によりドイツに派遣されるまで,ただ一度短期間中断しただけでドイツ語の「ものみの塔」誌の編集副主幹として奉仕しました。しかし ― 本部事務所の見るところでは ― 1903年当時の成果も依然満足のゆくものではありませんでした。この時期のことを取り上げた年報はこう述べています。「ドイツ支部はかなり繁栄した状態のもとで開設されたものの,それはなお私たちの期待に添うものではありませんでした。ドイツの同信の友は『からだ』と『収穫』のわざとの同一性を十分認識してはいないようです。……とはいえ,1904年中も伝道を続行し,畑を十分に試し,ささげられた時間と金銭を用いるのに有利な畑がもっとあるかどうかに関して主の導きを仰ぎ求めるよう提案されました」。
ドイツでは良いたよりを宣べ伝える点で当時は困難な時代でした。宗教上また政治上の敵は既に活動舞台に登場していました。1871年におけるドイツ帝国創建とともに国家主義が栄え,政治家だけでなく,宗教指導者層もまた国家主義を助長し,「我々はアメリカのではなく,ドイツのキリスト教を欲する」というようなスローガンが教会内でも聞かれました。成長しはじめたばかりの真理の若い苗は,いわば突然春の霜に遭ったのです。しかし幸いにも,払われた努力が空しくはなかったことを示す最初の証拠が現われようとしていました。
最初の会衆
1902年,ある姉妹のクリスチャンがシュワルツワルトの東にあるタイルフィンゲンに引越しました。彼女はスイスで真理を学びましたが,今やタイルフィンゲンの人々に真理を伝えようと努力していました。彼女の名前はマーガレテ・デムトでしたが,いつも耳新しい雑誌「黄金時代」<ゴールデンエージ>のことを話すので,土地の人々は彼女のことを“ゴルデン・グレトレ”と呼びました。そうした活動を続けるうちに,彼女は,妹とふたりの知人の男の人たちと一緒に真理を探し求めていたある男の人に会いました。彼らは既にメソジスト教会に行って真理を探そうと試みていましたが,その家の戸口に彼女が置いていった冊子を読んだ後,直ちに手紙を書いて,入手できる「千年期黎明」を何冊か求めました。彼らは正しい行状のゆえに敬謙な人たちとして近隣全域の人々に知られ,尊敬されていました。そして,ドイツの最初の会衆の一つがその土地で組織され,地域住民の間では“千年期会衆”として知られるようになりました。
それらクリスチャンの兄弟たちはもう一人の姉妹ロサ・ムエレの熱烈な支持を受けました。彼女はその地方のあらゆる人々に「千年期」<ミレニアム>について率直に語ったので,ほどなくして“ミレニアル・レスレ”というあだ名をもらいました。今や89歳になるその姉妹は,ラベンスブルックのヒトラーの強制収容所で過ごした8年間を含め,60年余の間エホバに仕えてきました。
真理の種はまた,ケルン北東のベルギィッシェラントでも芽生えました。1900年ごろ,ものみの塔協会の一代表者がスイスからこの地域に引越しました。彼の名前はラオペルでした。ヴェルメルスキルヘンで彼は80歳のゴットリーブ・パース,また長老で,教会の理事の一人だったオットー・ブロジウスとその妻マティルドに会いました。これらの人たちは皆,真理を探し求めており,ものみの塔の出版物を読んだ後,真理を見いだしたことを知りました。彼らはやがてヴェルメルスキルヘンのとあるレストランで集会を組織し,パース家族やブロシウス家族の大勢の人々が集会に出席し,7,80人もの人たちが出席することもよくありました。その後間もなくゴットリーブ・パースは亡くなりましたが,彼は臨終の床で「ものみの塔」誌を高くかざして言いました。「これは真理です。これにしっかりつき従いなさい」。
そのうち,ヴェストファリア,リュベック郡で各地からの平均25人ほどの男女が一緒に集まって神のみ言葉を考慮していました。彼らはプロテスタントの教会に属してはいましたが,しばしば満たされぬまま家に帰りました。それも牧師が地獄の火について説教したときは特にそうでした。それで教会にはあまり熱心に通いませんでした。ところが,彼らのある隣人が競売に出るためザールブリュッケンに行く途中,火の燃える地獄などというものは存在しないことを述べた冊子を1部汽車の中で見つけました。そして,これは彼の言う「敬謙な人々」であるその隣人のための読みものではなかろうかと考え,帰宅後それを彼らに手渡しました。それらの人々は直ちに,入手できる出版物すべてを注文し,やがてそれらの出版物は彼らの研究資料になりました。彼らはプロテスタントの教会を去ってバプテスマを受けるまでにはかなりの時間がかかりましたが,ものみの塔協会から派遣されて巡回旅行をする兄弟たちの定期的な訪問を楽しみました。こうして,他の幾人もの人々にとって「母会衆」となったゲーレンベックの会衆の基礎が置かれました。
他の幾つかの地方でも成長が見られました。1902年,クナウという名の地主で酪農経営者だった人が真理を得,ベルリン東部の諸会衆の基礎を置きました。ドレスデンでは鉄道の売店管理者をしていたミクリヒ兄弟とその妻が同じころ真理を学びました。その地の会衆はあまりにも速く成長して1,000人余の兄弟姉妹が交わるようになったので,その会衆は1920年代のドイツでは断然最も大きな会衆となりました。
良いたよりを広めるわざを速める
相当の費用がかかりましたが,兄弟たちは「シオンのものみの塔」誌の8ページの見本版を新聞に折り込んで伝えることに決めました。その仕事がどんなに豊かに祝福されたかは,寄せられた手紙の幾つかを読むことによっても分かります。その一例をここに載せます。
「私はティルスィター・ツァィトゥンク紙の折り込みとして今日届けられた『ものみの塔』誌の見本版を読み終えましたが,……深い興味を覚えましたので,死や地獄の問題に関する貴協会の各種出版物の説明をさらに調べたいと存じます。この折り込みに記されている書籍をどうかお送りください。……東プロイセンのP.J.より」。
このことについて1905年4月号の「ものみの塔」誌はこう述べました。
「『ものみの塔』誌の見本版150万部余が頒布されて,わざは開始されました。協会はその結果を大いに喜んでいます。数多くの飢えた魂が答え応じたので,『ものみの塔』の定期的な購読者は1,000人に増えました」。
種,つまり神の王国に関する言葉が可能なかぎりのあらゆる方法で各地に蒔かれ続けるにつれて,成果はますます目につくようになり始めました。ある人たちはラウペル兄弟のように,短期間に多くの区域を網羅するため,聖書文書頒布者として働き始めました。
ある人々は真理を探し求めていた
1905年のこと,ベルリンの近くで「ものみの塔」誌の配布の仕事をしていたラウペル兄弟は,クヤツという名のバプテスト派の年配の一紳士の家で最後の1冊を配布しました。その息子グスタフは最近,バプテスト派の大会に出席し,その大会でクラドルファという名の牧師に注意するよう厳重な警告が出されたことで相当気分を害して帰ってきました。その牧師は突然,魂は不滅ではないと説き始めていたのです。このことに注目したグスタフは父親や友人たちを招いて,その問題に関する真理を探し求めるため聖書を調べ始めました。1905年8月,グスタフ・クヤツは,乗物で1時間ほどかかる所に住む父親を訪ねたところ,父親はラウペル兄弟の置いていったただ1冊の「ものみの塔」誌に息子の注意を引きましたが,それこそまさにふたりがともに求めていたもの,『時に応じて』与えられた『食物』でした。―マタイ 24:45。
クヤツは直ちに「ものみの塔」誌を数冊分予約し,その5組分を他の人たちに貸し始めました。しばらく後には,彼の子供たちも再び個々の雑誌を手に入れましたし,次いで彼は関心のある他の人々にも雑誌をあげたので,こうして多くの人々が音信に接しました。当然のことですが,彼はバプテスト派の不興を買い,1905年の大みそか,「あなたは悪魔の道を歩んでいます」と言われて排斥されました。その後,彼の親族が10人余バプテスト教会を去りました。
年の若い方のクヤツはまた,クリスチャンは集まり合うことをなおざりにしてはならないことを理解していたので,エルベルフェルトのものみの塔協会の支部事務所に手紙を書き,一緒に集まって研究できる人々の住所氏名を尋ねました。ケーティツ兄弟はベルリンに住む19歳のベルヌハルド・ブッホルツの住所しか与えられませんでしたが,クヤツは早速連絡を取りました。当時,ブッホルツは「救世主会衆」と呼ばれるグループに所属していました。そして,「千年期黎明」と題する本を何巻か焼き捨てたばかりでした。彼は孤児でしたし,未成年者として非行を犯したために就職もできなかったので,ベルリンでただ自分だけが真理を得るに値するなどとはとても考えられなかったためでした。しかし,クヤツは一緒にそれらの本を研究するよう彼を励まし,聖書文書頒布者になるよう励ましさえしました。その後まもなくクヤツは彼を自分の家に引き取りました。
その区域で良いたよりを広めるわざのための資金をまかなえるようにするため,クヤツは新しい家を建てる計画をやめ,家を建てることにしていた地所を売り,そうして得た資金を用いて,父の家の二つの部屋を作り直して,集会を開けるような一つの部屋にしました。そして,1908年までには20人ないし30人ほどの小さなグループを組織することができました。
同じころ,ロシアに広大な地所を持っているフォン トルノブという男爵が真理を探し求めていました。ロシアの貴族の放縦な生活ぶりにうんざりさせられていた彼は,スイス経由でアフリカに行き,そこで宣教師として奉仕することに決めていました。出発する前夜,彼はスイスのとある山村の小さな教会を最後に訪れました。教会を出ようとしたところ,だれかがものみの塔協会の冊子を1部彼に提供しました。さて,翌日,彼はアフリカに向けて発つ代わりに,協会の文書をさらに求めることにしました。それは1907年ごろのことでした。
1909年,彼は自分の持っている最上等の衣服で正装し,召使いを同伴してベルリンの会衆に姿を現わしました。そして,集会場はあまりにも簡素で,しかもそこで会った人々は全然外見を飾ってはおらず,あまりにも気どったところのない人々だったので,がっかりしました。というのは,これほど貴重な真理であるからには,それにふさわしい適当な外面的装いを伴って然るべきだと考えていたからです。しかし,そこで聞いた事柄から深い感銘を受けました。何か月か後,そうした感情を克服した彼は再びやって来ました。ところがこのたびは,見違えるほど地味ないでたちで出席しました。というのは,召使いを伴わず,またずっと控え目な服装をしてきたからです。もし聖書の「兄弟たち,あなたがたが自分たちに対する神の召しについて見ていることですが,肉的に賢い者が多く召されたのではなく,強力な者が多く,高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません。むしろ,神は世の愚かなものを選(ばれました。)……それは,肉なるものがだれも神のみまえで誇ることがないためです」という言葉を読んでいなかったなら,恐らく戻らなかっただろうと,後日述懐しました。―コリント第一 1:26-29。
今や真理を見いだしたことを確信した彼は,ロシアに戻って自分の地所すべてを売り払い,ドレスデンに住みました。進んでつつましい生活を望んだ彼は,全財産をエホバへの奉仕にささげる覚悟を決めました。
よく組織された講演旅行
1913年,トルノブ兄弟はバーメンの支部事務所に三回にわたる講演旅行を取り決めてもらい,同兄弟がその資金の大半を個人的にまかないました。ポンメルンのゴルノブ出身の製パン業者ヒルデブラント兄弟も家を売り払い,講演旅行の費用の一部を負担しました。5人の兄弟と4人の若い姉妹たちで成る旅行グループが組織され,その一行はさらに適当な二つの小さいグループに分けられました。
ヒルデブラント兄弟は「主計」また「出版物管理者」としての役を務め,3,4人の姉妹たちとともに先に出かけました。その姉妹たちのうちの二人は高齢ながら今日でもなお王国の関心事を促進するために努力しています。さて,その一行は自分たちと,何日か後に到着するグループのための宿舎の取決めを整えた後,郵便局に送っておいた冊子その他の文書の入った段ボール箱を受け取って宿舎に運びます。次いで,講演の行なわれる日時や会場の住所のスタンプを冊子に押し(こうして冊子はまた招待状としても用いられた),トルノブ兄弟が特に購入した幾つかの鞄に少なくとも1,200ないし1,600枚はいるような形に冊子を折りたたみました。それらの兄弟姉妹たちはその冊子の配布の仕事を一生懸命に行ないました。というのは,午前8時30分までには最初の家の戸口に立てるようにし,昼休みを一時間とっただけで,晩の7時まで働き続けたからです。コーヒーを飲む休憩時間などはありませんでした。
それから2,3日後,ブッホルツ,トルノブそしてナゲル兄弟がやって来ました。講演はブッホルツ兄弟によって行なわれ,たいてい会場はいっぱいになり,自分の住所氏名を記して手渡して帰る人々がたいへん大勢いたので,翌日3人の兄弟たちはそれらの人々すべてを訪問するのに忙しく働きました。
二度目の講演旅行では,一行はウィッテンベルクやハレを通ってハンブルクにまで行きました。三回目の旅行の際には遠くロシアの国境近くにまで赴き,第一次世界大戦勃発前の当時,それら東方の各地でもかなりの証言をすることができました。
真理を断固として支持する
1908年ごろまでにはジーゲルラントでも事態は進展しはじめました。今90歳のオットー・フゴ・ライは1905年ごろ専門職の一知人を通して真理に接しました。それから2年の後,彼は子供たちとともに教会を脱退し,また教会税の支払いも拒否しました。ところが,それにもかかわらずその分の差押えを受けました。差押えに来た役人は,それと人に気づかれないよう,陳列棚の一つの後ろに差押えの札を貼り付けましたが,ライ兄弟はそれに反対し,だれにも見える所に,まただれにも見えるように貼ってもらいたいと言いました。彼はその札を見る人すべてに事の真相を知らせたかったのです。彼は1908年にヴィデナウの浴槽でバプテスマを受け,ジーゲンの会衆と交わりはじめました。
1905年,ヘルマン・ヘルケンデルは汽車の座席で見つけた一枚の冊子を通して真理を知るようになりました。それは若い教師だった彼がイエナの大学で引き続き教育を受けるため,その町に向かう旅行の途上でのことでした。その冊子の内容に深い感銘を受けた彼は,ほどなくしてルーテル教会を脱退しました。その結果,宗教の課目の担当を直ちにやめさせられ,またその後まもなく教職から解雇されました。
1909年にはヘルケンデル兄弟は既にケーティツ兄弟の代わりとして諸会衆を訪問して奉仕しており,同年の終わりには,協会を代表する一行による,提案された旅行に関連して,旅行する「巡回奉仕者」の一人として彼の名前が初めて「ものみの塔」誌上に現われました。1911年,彼はある鋳造工場の裕福な所有者ヤンダー兄弟の娘と結婚しました。若いヘルケンデル姉妹はたいへん異例な新婚旅行の資金に当てるため持参金を父親に求めました。二人はその資金を用いて,ロシアにいるドイツ語を話す人々に王国の音信を宣べ伝えたかったのです。バーメンの事務所は手もとにあるドイツ系ロシア人の住所氏名を二人に知らせました。その旅行は何か月にもわたる,たいへん努力の要る旅行でした。というのは,鉄道の駅から兄弟たちや関心のある人々の住んでいる所まで行くのに何時間もかかることは珍しくなかったからです。それらの人たちは車を持ってはいませんでしたし,手紙や電報などによる連絡も当てにならなかったので,駅でだれかに出迎えて連れて行ってもらうことはめったにありませんでした。今日の若い男女で,このような新婚旅行をする人が何人いるでしょうか。
第一次世界大戦中,短期間でしたが,ヘルケンデル兄弟はバーメンの事務所の責任を引き受ける特権を得,次いで同大戦後再び旅行する巡回奉仕者として奉仕し,1926年巡回奉仕の旅行中に亡くなりました。
1908年の年報がまとめられたとき,それまでに初めてのこととして,冊子の配布の大半が「ものみの塔」誌の読者自身の手でなされ,新聞によって頒布されたのは比較的にごくわずかであることがかわったのは励みになる事柄でした。それにしても,この後者の方法が講じられた結果として,18歳になる一青年がハンブルクで真理に接しました。学校を終えた後,彼は聖書を理解したいとの誠実な願いを抱いて毎日聖書を読み始めました。数年経った1908年のこと,彼は「家督権を売る」と題する冊子を手に入れました。それを読んだその青年は非常な興味を覚えました。そして,仲間の従業員からの嘲笑などを少しも気にせずに,バーメンにある協会の事務所に直ちに手紙を出して,「聖書研究」と題する6巻の書籍を求めました。その後まもなく,ケーティツ兄弟に会う機会を得た彼は,いつかバーメンを訪れるよう同兄弟から招かれました。すると,青年はその招きを受け入れ,それとともに,バーメンをそうして訪ねる時はまた自分がバプテスマを受ける時になるでしょう,と述べました。次いで,1909年の初めにそのとおりのことが起きました。支部の監督は,今や私たちの兄弟となったその若い友を駅まで見送り,彼が汽車に乗り込む前に,開拓奉仕を希望しているかどうかについて尋ねました。すると,その若い兄弟は,自分がそうする段階にまで達したなら協会に連絡いたします,と言いました。
この若い兄弟はハインリヒ・ドゥエンガーといいますが,彼はまもなく事情を調整して1910年10月1日付で開拓奉仕を始めることができました。そして彼は,その後何十年かの間にヨーロッパにあるものみの塔協会のほとんどすべてのベテル・ホームのほとんどすべての部門で奉仕する特権にあずかりました。また,協会の代表者として定期的に旅行して奉仕する喜びも味わいましたし,困難な時期には支部の監督の代理として各地でしばしば奉仕する喜びにもあずかりました。彼は多くの人から愛されるようになり,また有用な働き手としてその労を認められています。現在彼は86歳ですが,連続60年余にわたって全時間奉仕を行なってきた後の今もなお霊的にも,また身体的にも健康に恵まれています。
ラッセル兄弟は再びドイツを訪れる
1909年,支部事務所がバーメンのもっと広い場所に移転するとともに,組織はいっそう改善されました。当然のこととして,それは支出の増大を意味しました。しかし,クナウ兄弟は躊躇することなく自分の資産を売って得た資金をベテル・ホームを設置するのに用いました。また,1909年には霊的に強める面でも多くのことが行なわれました。同年の2月,ザクセン州の兄弟たちはケーティツ兄弟に数回の公開講演を行なってもらうよう取り決めました。そして,同兄弟は6回にわたり,それも一回に少なくとも250ないし300人の聴衆に証言することができました。
しかし,1909年中の最大のできごととなったのはもちろん,長く待ち望まれていたラッセル兄弟の訪独でした。同兄弟はハンブルクにちょっと留まった後,ベルリンに到着し,兄弟たちの一行に迎えられました。一行は直ちに,美しく飾られた集会場に赴きましたが,そこでは5,60人の兄弟たちがラッセル兄弟の到着を辛抱強く待ち受けていました。ラッセル兄弟は,アダムが失ったものの回復に関する話を行ない,特にキリストのからだの成員となる見込みを持つ人たちの受ける特権を指摘しました。一同は一緒に簡単な食事をした後,公開講演が行なわれることになっていたオーエンツォレルン・ホールに行きました。会場はいっぱいでした! 500人もの大勢の聴衆が,「死者はどこにいるか」と題する講演を聞きました。そのうち100人ほどの人々は立って話を聞き,そのほかに400人もの人々は場所がないため入場を断わられましたが,会場の外で冊子をもらいました。その後,ドレスデンでは少なくとも900ないし1,000人もの人々がラッセル兄弟の2時間にわたる公開講演を聞きました。次いで,同兄弟はバーメンまで旅行を続け,バーメンではおよそ1,000人ほどの人々が彼の話を聞きました。翌日の午後,120人の兄弟たちがバイブル・ハウス(聖書の家)に集まり,またその晩には300人ほどの人々が聖書の質問に対するラッセル兄弟の答えを聞きました。こうしてラッセル兄弟の訪独は終わり,直ちに同夜11時過ぎ,同兄弟はスイス行きの列車に乗り込みました。スイスではチューリヒで2日間にわたる大会が開かれることになっていました。
同年中,ドイツの兄弟たちは国外からの援助を受けずに,自分たちの資力を活用してドイツにおける王国のわざを支持する努力を払うよう励まされました。しかし,同年の末までには,印刷の費用,郵送料,貨物の送料,折込み料金,公開講演と旅行経費,賃借料,光熱費その他の支出は合計4万1,490.60マルクに達しましたが,寄付は合計9,841.89マルクに過ぎず,生じた3万1,648.71マルクの赤字分はブルックリン本部からの送金によって償われました。そのため,ラッセル兄弟はその年報の中で次のように述べざるを得ませんでした。「協会は真理を知らせるためにドイツで膨大な資金を費やしてきた。……比較的に言って,ドイツでは他のいかなる国におけるよりも多くの努力が払われている。もし,聖別されたドイツ人の大多数が既にアメリカに移住したのでもないかぎり ― それ相当の成果を期待して然るべきである」。
ラッセル兄弟は1910年の世界旅行のさい,10時間ほどの短時間でしたがベルリンで途中下車し,その到着を待っていた200人ほどの人々に話をしました。
そのころ,ベルリン出身の市電の車掌エミル・ゼルマンがかなり人々の注意を引くようになりました。彼はあらゆる機会を捉えて聖書を読んだり,乗客に証言したりし,時には次の停留所までの途中でさえそうしたりしたので,ある時など,一生懸命聖書を読んでいたため,次の停留所の名を言う代わりに,その時まで読んでいた箇所が口をついて出,「詩篇 91篇」と大声で知らせて乗客を大笑いさせました。ほどなくして,同僚の車掌10人余とその家族が集会に出席するようになり,その小さな,しかし活発な群れはベルリンで良いたよりを広めるのに相当の働きをしました。それらの兄弟たちは午前5時から仕事を始めていましたが,熱心さのあまり,さらに2時間も早く車庫に行き,運転する予定の電車の座席に次々に冊子を置いたりするほどで,その熱心さは模範的なものでした。
1911年の特色となったのは,「シオン主義と預言」と題するラッセル兄弟の行なった講演でした。その講演は聴衆の間で怒りの反応を引き起こす場合もありました。たとえば,ベルリンでの講演では騒ぎが生じ,講演の初めのころ100人近い人々が会場を去りましたが,およそ1,400人もの人々はそのまま留まり,ラッセル兄弟の講演を終わりまで熱心に聞きました。
ラッセル兄弟はその旅行報告の中でドイツにおけるわざの進展状況に再び言及し,『同信の友およびその関心は増大しているとはいえ,払われた努力や費やされた資金の額はもとより,膨大な人口から考えて,関心のある人々の人数の点では失望させられている』旨指摘しました。それまでの何年かの事情は,ドイツにおけるわざの増大に必要な先行条件が最初はたとえばアメリカの場合ほど有利ではなかったことを確かに示していました。ドイツ国民の相当数の人々はカトリック信者であり,また社会主義者もかなりの人数を占めていましたし,大多数の人々は聖書に反対する態度を取っており,高等教育を受けた人々の大半は神から遠ざかっていました。
1912年の夏,ラッセル兄弟はヨーロッパ旅行を行ない,ミュンヘン,ライヘンバハ,ドレスデン,ベルリン,バーメンおよびキールを訪れました。この時の公開講演のために同兄弟は,「墓のかなた」と題する非常に期待のもてる主題を選びました。その講演は,霊魂不滅や地獄の火の教理を説く点で知られている幾つかの教会を描いた大きな長い幕を使って宣伝されました。その幕の前景には鎖で縛られた大きな聖書が描き出され,しかしその鎖はある一箇所で砕かれて切れていました。そして,背景にはラッセル兄弟が聖書を指さしている様が見えました。この幕は方々の都市でかなりの騒ぎを引き起こし,一部の警察当局者はそれを掲げさせないようにしました。しかしそうした妨害にもかかわらず,ミュンヘン,ドレスデンそしてキールでは1,500ないし2,000人もの聴衆がやって来て,その講演を聞きました。
ベルリンでもその公開講演はやはりたいへんよく宣伝されました。その催しは異例なほどに大きな新聞広告によって数回大々的に知らされましたし,方々の広告板に協会のポスターが掲げられました。そのうえ,講演を宣伝する一助として主要新聞すべての「メッセンジャー・ボーイ」が雇われました。それらメッセンジャー・ボーイは青と白の縞模様のズボンをはき,あごひもの付いた帽子を斜めに気取ったかっこうでかぶっていました。そして,胸前と背中の両面にプラカードを下げ,ローラー・スケートに乗って市内の街路を勢いよく走り回りました。いつも彼らが姿を現わすと,ベルリン市民はみな何か大きなことが起こるということを知りました。
そのようなわけで,当日の午後早くも,ラッセル兄弟の講演を聞くため,観客約5,000人を収容できる同市最大のフリートリヒスハイン・ホールに人々が既に大群衆となって集まりだしたのももっともなことでした。会場が開かれる何時間も前に会場周辺全部が群衆で埋まりました。時間が経つにつれ,人々は前例のないほどの大群衆となって膨れ上がり,交通機関はもはや群衆を扱えないほどになりました。経済的なゆとりのある人々はハンサム型二輪馬車でやって来ました。交通機関の輸送能力が限界に達したため,他の大勢の人々は会場に行くことさえできませんでした。そして,会場のある地区の一区画は警察の手で交通止めにされ,また推定1万5,000ないし2万人ほどの人々が完全に埋め尽くされた会場の入口で入場を断わられました。熱心な兄弟姉妹たちはそうした事態を生かして,会場に入れなかった何千人もの人々の間で,相当量の「聖書研究」その他の出版物とともに何千部もの冊子を配布しました。従って,ラッセル兄弟はその最後のベルリン訪問中深い感銘を与える証言を行ない得たことに満足して同市を去ることができました。
翌1913年は,もしできればさらに多くの時間と精力と資金を投じて,さらに多くの人々に王国の良いたよりを知らせたいという誠実な願いで特色づけられる年となりました。ラッセル兄弟の聖書の話をデル フォルクスボーテ誌に毎週掲載し,そうすることによってさらに大勢の人々に音信を伝える取決めが設けられました。また,協会の文書は盲人のために点字でも出版されました。協会はさらに,無償配布用の文書を兄弟たちに供給する意志のあることをさえ表明しました。
予定表がいっぱいにふさがっていたためラッセル兄弟は1913年に訪独できませんでしたが,しかし当時の協会の法律顧問ラザフォード兄弟を派遣したので,兄弟たちは大いに喜びました。同兄弟の講演にも多くの人々が出席し,どこでも講演会場は収容能力いっぱいに埋めつくされ,大勢の人々が入場を断わられる事態がしばしば生じました。例えば,ドレスデンでは会場に2,000人ほど入りましたが,7,000ないし8,000人もの人々が入れないため入場を断わられました。聴衆3,000人が出席したベルリンでの講演のさい,もんちゃくを起こす人々があまりにも大声で騒いで騒動を起こしたため,ラザフォード兄弟の話を通訳していたケーティツ兄弟は十分聞き取れるほどの声量で話しつづけることが困難になってしまいました。当時,拡声装置などはありませんでしたから,そうした難しい状況のもとで事態を制して話し続けるには強力な声が必要だったことも忘れてはなりません。ケーティツ兄弟は非常な努力を払いましたが,その事態を制することができず,話している最中に肺が損傷を起こし,声が全然出なくなりました。すると,とっさにある兄弟がテーブルの上に飛び上がるなり,「アメリカ人は我々ドイツ人のことをどう思うだろうか」と大声で叫んだところ,騒ぎを起こした人々は静かになったようでした。ケーティツ兄弟は話をし終えましたが,彼のことを知っている兄弟たちの話では,同兄弟はその時あまり無理をしてのどをいためたため,その後のどを完全に治すことはどうしてもできなかったとのことです。
同年の終わりにさいして,とりわけ満足すべきこととなったのは,協会のわざの支出が自発的な寄付でまかなわれたうえ,多少の資金が残ったという事実でした。こうして,ドイツの兄弟たちは豊かな祝福で満たされた1年の終わりを迎えるとともに,前途のもう1年も熱心な活動の行なわれる年になるとの確信を抱けるようになりました。もっとも,多くの人は次の1年が『収穫の最後の年』になるだろうと考えていました。
待望の年 ― 1914年
さて,ものみの塔協会の出版物の多数の読者が何十年もの間待ち望んでいた歴史上の画期的な年,1914年が到来しました。その年の前半は前年と全く同様穏やかに経過しました。確かにヨーロッパには緊張した空気が流れてはいましたが,それが激しく爆発する訳でもなかったので,神の王国に反対する人々は否定的な発言を述べ始め,あまりにも早まって「千年期黎明派」の敗北をさも満足げに宣言する者もかなりいました。しかし,長年証言のわざに参加してきた人たちの信仰は,そのような事柄で動揺させられたりはしませんでした。
その間も,時は進み,ヨーロッパでの幾つかの国々では「万一に備えて」軍事上の大演習が行なわれていましたが,事態はなおも平穏に見えました。とはいえ,軍事教練を受ける兵士たちの気取ったかっこうで歩くその足音は,いつなんどき爆発するかわからない火山の鳴動を思わせました。突如,全世界の人々はかたずをのみました。サラエボで銃声が轟いたのです。世界中の大都市では新聞配達が「号外! 号外!」と叫んで街路を走りました。その時までの人類史上最悪の殺りくを伴う戦争,歴史家により初めて「世界大戦」と呼ばれた戦争が勃発したのです。多くの人々にとって同大戦の勃発はまるで青天のへきれきのようでした。そして,とたんに嘲笑者は沈黙してしまいました。リューベック出身のグラーベンカンプ兄弟は息子たちに,「さあ皆,いよいよ時が来たぞ!」と語りましたが,世界の至る所にいる彼の仲間の兄弟たちも同様のことを考え,同様の言葉を口にしました。彼らはそうしたできごとを待ち受けていたのです。そうです,待ち受けていただけでなく,そうした事柄について他の人々に告げ知らせるようエホバから命じられていたのです。また,そうした事柄は人類に対する筆舌に尽くせないほどのエホバの祝福の先触れにすぎないことも知っていました。
今や兄弟たちは自分自身の目で過去を振り返って見,自分たちの行なってきた証言がどのように証拠立てられてきたかを知ることができました。一例として,1912年に妻とともにバプテスマを受けたダーテ兄弟は何年もの後,その親しい友であるフリツ・ダスラー兄弟に次のように書き送りました。
「1954年6月23日,妻が死の眠りにつく2時間半ほど前のこと,私は病床に伏す愛する妻の傍で最後の2時間を共に過ごしながら,私たち二人にとって終始非常に重要な時となった,遠い昔の1914年6月28日のあの日のことを思い起こしました。その日は日曜日で,うららかな夏の良い天気に恵まれた日でした。その日の午後,私たちはバルコニーでコーヒーを飲みながら,紺ぺきの空に見とれていました。空気は清らかで,からっとして,空には一片の雲もありませんでした。私はその日の新聞のことを話しました。地上のどこにも緊張した事態はないようでした。いずこも平穏無事でした。それにしても私たちは,キリストの支配の始まりを示す見えるしるしがその年のうちに現われることを待ち望んでいたのです。種々の新聞は既に勝ち誇り,1914年における世の終わりについて預言してきた真のクリスチャンに対する中傷的な記事を次々に掲げていました。ところが,1914年6月29日,月曜日の朝早く朝刊を開いてみると,『オーストリアの王位継承者,サラエボで殺害される!』という見出しが掲げられていたのです。一夜にして政治的な天は暗くなり,4週間後には第一次世界大戦が勃発しました。今や突然,私たちは反対者たちの目に最大の預言者たちとして写ったのです」。
それら忠実なしもべたちは明らかにされたエホバの意志を喜んで行なおうとする態度を抱いていたので,1914年が到来し,そして経過した後でさえ,自分たちの前途にはさらに大きなわざがなお横たわっていることを悟れました。エホバはご自分の目的が遂行されるよう,その民を導いておられたのです。「創造の写真-劇」によって行なわれた大々的な証言のための準備の仕事も,そのことを示す良い例です。上映に必要な装置,フィルム,スライドそして上映上の指示がドイツに届いたのは大戦勃発の少し前のことでした。ある部分はもっと前に届いていたので,既に1914年4月12日にはバーメンの大会で,そして同5月31日から6月2日まで行なわれたドレスデンの大会でもそれぞれ上映されました。ついでですが,ドレスデンの大会にはロシアやオーストリア-ハンガリーからの兄弟たちも何人か出席しました。
第一次大戦勃発の3週間前,フィルムの残りがドイツに到着するや,協会は直ちにその「写真-劇」をエルベルフェルト市の公会堂で上映する取決めを設けました。「写真-劇」に対する一般の人々の関心のほどを考えると,その公会堂はあまりにも小さすぎたため,2回上映せざるを得ませんでした。ベルリンでも大々的な初上映が行なわれましたが,入場できなかった観客にも見せるため,1日に2回上映されました。1914年11月1日から同23日にわたって,(連続4日間に4部に分けて上映された)一続きの映写を5回行なわねばなりませんでした。
しかし,第一次大戦は種々の問題を引き起こしました。最初の問題は,アメリカとの連絡が一時的に断たれたことでした。
わざの監督に関して生じた種々の問題
ドイツにいる神の民は今や,わざの監督に関して生じた問題で特徴づけられる緊迫した重大な時期に入りました。1914年の終わりごろ,つまりケーティツ兄弟がドイツにおけるわざを監督する権限をラッセル兄弟から与えられてドイツに来てから約11年の後,突然色々の方面から攻撃され,種々の間違いの点で非難されました。そのため兄弟たちの間に不快な関係が生じ,その結果,ラッセル兄弟は彼をその地位から解任しました。
ドイツでは巡回奉仕をする兄弟たちがほかにも必要だったため,ラッセル兄弟は,以前メソジスト派の牧師をしていて,「ものみの塔」誌にわずか1年ほど通じていたにすぎないコンラド・ビンケレという名のアメリカ出身の兄弟を,そうした資格で奉仕するよう派遣しました。もっともラッセル兄弟は乗り気ではなかったのですが,とにかくそうしたのです。ビンケレ兄弟はしもべたちの間の種々の問題がゆゆしいほどに大きくなり始めた丁度その時ドイツに着き,1915年,ドイツのわざを監督する責任を委ねられました。
しかし,ビンケレ兄弟姉妹はまもなくアメリカに戻ってしまいました。そして,二人の別れの言葉は,『その能力をもってしては事態はあまりにも堪えがたいものになった』という説明を付して,10月号の「ものみの塔」誌の最後のページに,よく目につくようゴシックの活字で印刷され,掲載されました。その「事態」とは恐らく,1915年に増大し始めた困難な事態のことと思われます。同年10月,ラッセル兄弟はその問題に特別の注意を払い,問題を処理する必要な処置を講じざるを得ないと感じました。「ドイツの聖書研究者たちに対するラッセル兄弟からの親書」と呼ばれる一通の手紙はこう述べています。
「1915年10月,ブルックリン
「親愛なる同信の友へ:
「私はしばしば祈りの中で皆さんのことを考えております。主が皆さんを祝福なさるよう心から願っています。そして,戦争による患難のさ中で直接あるいは間接的にその影響を受けておられる皆さんに同情いたします。同時に,ドイツで皆さんが真理のために遭遇した患難に関して皆さんに対する私たちの同情の念を表明したいと思います。私たちは互いに裁き合ったり,最終的な裁きの宣告を下して処罰したりすべきではありません。もし間違いをした兄弟が悔い改めるなら,私たちは最終的裁きと処罰を,『主その民をさばかん』と言われた主に委ねて満足しなければなりません。ヘブル 10:30。
「それにしても,真実と義と正しい行為を擁護するため,また協会の代表者たちの及ぼす影響のためにも,ドイツにおける協会の代表者たちを新たに任命する必要があるように思われます。戦争のために種々の不都合が生じ,郵便や電報による通信連絡が乱れているため,バーメンの指導部に関してしばらくの間ある種の誤解が生じたことは理解するに難くありません。愛するビンケレ兄弟は最善を尽くし,その時の事情のもとで物事を正しく処理したと私たちは考えています。しかし,ご承知のとおり,ビンケレ兄弟はアメリカに帰国しました。
「私たちはドイツの同信の友である皆さんに,今後協会の事柄はすべて,三人の兄弟たち,つまりエルンスト・ヘンデラー,フリツ・クリストマンおよびラインハルト・ブロッホマンで構成される委員会によって処理されるべきであることをお知らせします。……
「愛する同信の友である皆さん,私は皆さんがあらゆる点でバーメンのこの新しい指導部と協力し,同指導部を支持するようお勧めします。キリストのからだはただ一つであり,使徒が私たちに諭しているとおり,そのからだは内部分裂を許すものではありません」。
しかし,この取決めも意図したとおりには働きませんでした。というのは,ブロッホマン兄弟はバーメンを去らねばならなくなり,またヘンデラー兄弟はラッセル兄弟の手紙がドイツに届かないうちに既に亡くなったからです。緊張した事態はその後もなお収まらなかったため,翌1916年2月,ラッセル兄弟は,H・ヘルケンデル,O・A・ケーティツ,F・クリストマン,C・ストールマンおよびE・ホエッケルの5人の兄弟たちで構成される「監督委員会」を取り決めました。
ところが,この「監督委員会」の取決めも長続きはしませんでした。それからわずか数か月後,同委員会はもう一度編成し直され,その間にヨーロッパに戻ってスイスのチューリヒに住んでいたビンケレ兄弟が,ドイツとスイスおよびオランダの協会の正式の代表者として奉仕するよう任命され,一方ヘルケンデル兄弟は編集の仕事の責任を委ねられました。
1914年にビンケレ兄弟に取って代わられたケーティツ兄弟はそれ以後,「写真-劇」の上映の仕事を行なっていました。しかし彼は,組織の内部的平和に貢献するよりもむしろ自分たちの利己的な望みを達成することにやっきとなっていた兄弟たちからの攻撃の的とされていました。長年ケーティツ兄弟とともに働いてきたエリザベス・ランはある時,「写真-劇」が上映されている会場の近くの公園のベンチに悲しそうな様子をして腰をおろしている同兄弟を見つけました。すると彼は,自分に残されている最後の奉仕の特権をも奪い取ろうとする意図がはっきり読み取れる非難の手紙をまたもや受け取った,と彼女に語りました。そして,ドイツにおけるわざを監督する責任を受けるまでの約10年間ラッセル兄弟のそばで働く特権にあずかっていた時分のことを語りました。しかし,彼はそうした監督の務めを委任されるのに自分が果たしてふさわしかったかどうかに関してしばしば自己吟味を行ないました。それにしても,同兄弟は,「私の24年にわたる活動により,14万4,000人の一人になるのにふさわしい者であることを証明するよう,ただの一人の人でも援助できたのであれば,私はこのわざの14万4,000分の1を成し遂げる特権にあずかれたことになれる」と考えて,自らを慰めました。
ベルリンで起こした肺の損傷のためひどく健康を害していた彼が,そうした絶え間ない非難攻撃を受けて大いに健康を損ったのももっともなことです。こうして彼は1916年9月24日,43歳で亡くなりました。「ものみの塔」誌に載せられた協会の声明文は,彼の「忠実さ」を指摘し,「愛する同信の兄弟たちすべては彼の熱心さ,その忍耐と不動の態度,その強固な信仰と意志,その献身および義務を忠実に遂行したことを認め,正しく評価しています」と述べました。
その後ほどなくして,つまりケーティツ兄弟が亡くなってから約5週間後の10月31日,ドイツの兄弟たちはラッセル兄弟もその地上の歩みを終えたとの知らせを受け取りました。中には,その知らせのためにあまりにも気落ちして,それまでの歩みをやめて離れ去った人たちもいました。しかし,大多数の人々はラッセル兄弟の死去の報を,自分たちの精力や時間をなおも徹底的に捧げて,自分たちの始めたわざを続行するよう自らを鼓舞するものとして受け止めました。
それにしても,戦争のためにわざの監督の面で種々の変化が繰り返し生じました。1916年10月から1917年2月までパウル・バルツェライトが監督として奉仕しました。1917年2月から翌1918年1月まではヘルケンデル兄弟が,また1918年1月から1920年1月まではM・クナウ兄弟がそれぞれ奉仕し,次いでバルツェライト兄弟がクナウ兄弟に取って代わりました。
中立
第一次世界大戦の勃発は,中立の問題であやふやな態度を兄弟たちに取らせる機会を悪魔に供するものとなりました。ドゥエンゲル,バザンそしてヘスの三人の兄弟たちがそろって徴兵適齢期にあったバーメンのバイブル・ハウス内でさえ,そうしたあやふやな態度がはっきり表われました。ドゥエンゲルとバザン両兄弟は忠誠の誓いをしたり,武器を取ったりはしない決意でいましたが,ヘス兄弟は迷っていました。彼は神の王国に希望を置かなかった人たちに仲間入りしてベルギー戦線に赴き,二度と再び帰りませんでした。後日,ドゥエンゲルとバザン両兄弟は兵役への召集令状を受けることになりました。バザン兄弟は間もなく帰宅できましたが,ドゥエンゲル兄弟は免除されるどころか,軍当局に書類を正式に提出するよう強制されました。そうすることはその問題に関して当時彼が得ていた理解と矛盾するものではなかったので,同兄弟は快くそうしようとしました。しかし,巡回旅行者として働いていたバルツェライト兄弟は,まさかの時には自分なら書類の提出も武器を取ることも拒否すると言って,ドゥエンゲル兄弟とは意見を異にしていましたし,「もしあなたがそのような立場を取るなら,その結果,私たちのわざはどうなるのか承知していますか」と尋ねて,意見の食い違いを明らかにしました。
兄弟たちの間にはあいまいな態度が広まっていたため,諸国民の事柄に対するクリスチャンの厳正中立の道にすべての兄弟たちが従った訳ではありませんでした。相当数の兄弟たちは兵役に就き,戦線に出て戦いました。また,他の兄弟たちは戦闘行為に携わることは拒否したものの,軍医班に加わって軍務に快く服しました。とはいえ,確固とした立場を取って,軍務に服することを一切拒否し,刑務所での服役刑を受けた人々もいました。ハンス・ヘルターホフは確固とした立場を取った結果,構内に連れ出されて,見せかけの銃殺隊の前に立たされるという残忍巧かつな処置を取られました。そして遂に,軍事裁判所で懲役2年の宣告を受けました。
クリスチャンの中立というような重要な問題に関して神の民の間にあやふやな態度が見られたことを考えると,エホバがご自分の民を憐み深く取り扱ってくださったことに対して私たちは確かにエホバに感謝できます。
不利な事情にもめげずいっそうの拡大を見る
「創造の写真-劇」はこの時期におけるわざの拡大に大いに寄与するものとなりました。それは今やキールのような小都市でも上映されました。そのキール市でのこと,後日ほどなくして私たちの姉妹になったある非常なお金持ちの婦人が「写真-劇」を見て深い感銘を受け,2,000マルクもの巨額の資金を土地の会衆に寄付しました。それで,45人ないし50人ほどのその会衆の人たちは,もっと良い会館を購入することができました。
クリスティアン・ケニンガーの注意を引いたのは「世々に渉る神の経綸」と題する本でした。家庭的危機が生じたことから,彼はエテルという著名な聖書研究者に訪問してもらい,研究を始めました。そして,彼の妻も後日その研究に加わりました。次いで二人が行なったのは,近くの町々にいる関心のある他の人々や「ものみの塔」誌の読者の住所を取り寄せることでした。そして二人は,隣人や友人や知人をエテル兄弟の家で行なわれた講演に招待しました。ケニンガー兄弟および他の兄弟たちは,差し伸べられるあらゆる機会を捉えては講演者たちをエシュヴィラーやマンハイムに,後にはルートウィヒスハーフェンにも招きました。それらの場所での講演は口頭はもとより新聞や掲示板また商店のショーウィンドーに取りつけたポスターなどで宣伝されました。
1917年にはベルリン出身のベンツケ兄弟は同市の境界を越えて広く各地に真理を伝えようと努力していました。彼はリュックサックに書籍をぎっしり入れて背負い,ベルリン西方50㌔ほどの所にあるブランデンブルクまで歩いて行き,文書類全部を配布して初めて4,5日後に帰宅したものです。そのころ時を同じくして,巡回奉仕をしていた兄弟たちはダンチヒ(ポーランドのグダニスク)市を訪れ,同市のルナウ兄弟の家に会衆の基を据えました。
わざは停止しなかった
兄弟たちは1918年という年に関してさまざまの期待をいだいていました。中には,その年が自分たちの地的な歩みの終わりをしるしづける年になるに違いないと考え,そうした希望を友人や知人に再三繰り返して述べていた人々もいました。例えば,バーメンのシュンケ姉妹は,いつか自分が出勤しなくなったなら,それは自分が「家に連れて」行かれたためであるということを仲間の従業員に説明していました。しかし,そうした期待が成就しなかったとき,ある人々は,ちょうど1914年の場合と同様,失望して手を引きました。他の人々は今度は何が起きるのだろうかと尋ねました。
当時,なおなすべき仕事がありました。大多数の兄弟たちはそのことを知って喜びました。というのは,エホバに聖なる奉仕を捧げたいと心から願っていたからです。それらの兄弟たちは引き続き働きました。そして,今や危機的な時代が臨んだドイツにも,聞く耳を持つ人々が以前よりもさらに大勢いることに気づきました。フリツ・ウィンクラー(ベルリン出身)の経験もそのことを確証するものでした。
1919年,彼はハレ(ザーレ河畔)で就職し,毎週土曜日には汽車でゲーラにいる両親のもとに行きました。ある土曜日のこと,ある駅でひとりの男の人が娘を連れて乗り込みましたが,その父親は何かをいっぱいに入れたリュックサックを,また娘もやはり何かがいっぱい入った鞄を背負っていました。そして,列車が発車するかしないうちに,その男の人,つまりツァイツ出身の一兄弟は「世々に渉る神の経綸」と題する本のぎっしり詰まったリュックサックを開けて,その本を取り出し,その最初のページに載せられている「世々の図表」を用いながら乗客に向かって話をしました。話の終わりに彼は,「聖書研究」の第1巻を乗客全員に勧めました。その後,2,3の駅を過ぎて彼が下車したとき,そのリュックサックはからっぽでしたし,その娘の鞄もほとんど半分ほどからっぽになっていました。この経験に動かされたフリツ・ウィンクラーは公開講演に出席し,その話を通して真理の知識を得ることになりました。
ふるい分けるわざ
しかし,良いたよりを広める仕方の面ですべての人たちが一致していた訳ではありません。ことに会衆により民主的な選挙で選ばれた『長老たち』の一部の人々の間には,わざを促進する以上に妨害する者たちもいました。それで,そうした人々と議論をしないよう兄弟たちに警告する必要が生じました。そうした人々には自分たちの望む道を歩むままにさせ,無益な議論をして時間を失わないようにし,その時間を王国の奉仕に費やすほうがより賢明でした。「ものみの塔」誌はそのようにしてふるい分けられる事態が確かに生ずることを指摘しました。だからこそクリスチャンは,分裂や論争を起こす人たちに注意し,そのような人たちから離れるよう諭されていたのです。そのような事情のため,1919年中には隣接する国々では種々の変化が必要となり,そうした事態はドイツにいる兄弟たちとそのわざにも影響を及ぼしました。例えば同年が経過するにつれて,ラオペル兄弟は自分勝手な考えに従って物事を行なうようになりました。そのため,彼が幾年かの間監督してきた,ものみの塔協会の所有物である書籍や雑誌で,彼が保管していた文書類を協会に戻すよう要求されました。
1919年の終わりごろには,兄弟たちはさらに重大な問題について知らされました。その何年か前,ラッセル兄弟はA・フライタグを任命して,ジュネーブにある協会の事務所からフランスとベルギーにおけるわざを監督させていました。そして,「聖書研究」と題する本はもとより,英文の「ものみの塔」誌のフランス語の翻訳を出版する権限が彼に委ねられていました。ところが,彼はその権限を乱用して,自分で書いた文書を出版し始めたため,兄弟たちの間にかなりの混乱を引き起こしました。それで,フライタグはその地位から退けられ,協会の事務所は解体され,E・ツァオグ兄弟の指導とビンケレ兄弟の全面的な監督下に新しい事務所がベルン(スイス)に開設されました。
その間,フライタグの支持者たちは別個に集会を開き,ドイツの兄弟たちの間で働き始め,フライタグは協会を批判,中傷し,偽りの教えを広めているとして協会を非難したため,ある人々は明確な見通しを失ってしまいました。1920年9月には,ビンケレ兄弟は,フライタグの虚偽の非難を論ばくし,ドイツの各地から寄せられた数多くの質問に答えた4ページの書簡を回覧する必要を認めました。にもかかわらず,フライタグが蒔いた疑惑の種は芽ばえ始め,確固とした立場を取らなかった人たちはフライタグに従い,独自の会衆を設立しました。そのグループは今日に至るまで依然としてドイツで存続しています。
さらに多くの奉仕の割当てを期待しつつ
1919年1月,「ものみの塔」誌は再び,同誌の名称を印刷した表紙(戦時中は経費削減のため付されていなかった)を含め16ページの雑誌として発行され始めました。また,巡回奉仕のわざも強化され,4人の兄弟たちが諸会衆を定期的に訪問しました。同時に,「聖書研究」第7巻つまり「完成された奥義」と題する本の翻訳も急いで進められ,その上,同書を要約した「バビロンの倒壊」と題する4ページの冊子も準備されました。
さて,用意周到な準備が行なわれ,同年8月21日から続く数か月の間,「完成された奥義」とその冊子は文字どおり洪水のようにおびただしく配布されました。それは実に大規模な運動でした。もっとも,兄弟たち全員がその運動に参加した訳ではありませんでした。とりわけ,『選出された長老たち』は参加しませんでした。彼らはむしろ,講演を行なうことだけを好んだのです。ほかの点では快く物事を行なう兄弟たちの中にさえ,その本の内容を知った後,その配布を躊躇する人々が出ました。
1918年にバプテスマを受けたライプチヒ出身のリチャード・ブリュメル兄弟は,バプテスマは受けたものの,自分が依然キリスト教世界の教会の正規会員であるという事実を考慮してはいませんでした。「教会に出席していないなら,もはやその教会には所属していない」というのが彼の見解でした。しかし,その冊子を読んで,バビロンを去るよう他の人々に勧めなければならないことを悟った彼は,まず自分自身が教会を去らないかぎり,正しい意味でそのわざに参加できるものではないことを知りました。そこで,8月21日の午前中早々に教会の会員名簿から自分の名前を正式に除外してもらい,その日の午後,清い良心を抱いて「バビロンの倒壊」と題する冊子の配布に携わり始めました。
同年,後にライプチヒで行なわれた大会で,当時ドイツにおけるわざを監督していたクナウ兄弟はわざの拡大について話し ― 今やおよそ4,000人の兄弟たちが活発に奉仕していた ― また,本部事務所から指示を受けしだい「黄金時代」誌がドイツで発行される運びになったことを発表しました。出席していた人々はみな本当に熱意にあふれ,そのわざを財政的にも支持する決意を表明しました。
機の熟した,収穫のための畑
わずか2,3年の間にドイツは何と変わったのでしょう。第一次世界大戦前は,王国の良いたよりに快く耳を傾ける人は比較的少数でした。しかし,1914年にドイツの輝かしい将来を意気揚々と宣言したドイツ皇帝は今や流刑の身でオランダに逃れ,またフランス征服を目ざして派遣されたドイツ軍は卑しめられて帰国しました。将兵のベルトの留め金に刻まれた「神は我らと共にいます!」という言葉は偽りであることがわかりました。帰還した将兵は,戦争のむなしさ,僧職者が将兵に納得させようと繰り返し試みたのとは裏腹に,戦争は決して神の支持を受けてはいないことを知りました。
今なお健在な多くの兄弟たちは,自分たちが真理に対して目ざめさせられたのは確かに,そうした非常にむなしい無意味な戦争のためであったことを認めています。多くの人々は,人命を奪うそうした愚劣な破壊行為に神が何らかの関係を持っているというようなことなど信じようとはしませんでした。むしろ,いわゆる「野外礼拝」において戦死者に天的な報いがあることを約束した僧職者にこそ戦争の責任があると考えました。また,夫や父あるいは息子が戦場で戦死したとの知らせを受け取った他の人々は,僧職者が説くように,戦死した肉親は果たして実際に天に行ったのか,あるいは火の燃える地獄に行ったのかどうか疑問に思うようになりました。そうした人たちにとって,「死者はどこにいるか」と題する講演は非常に時宜にかなったものでした。兄弟たちはかつてなかったほどの多くの書籍を配布できました。二人の姉妹の聖書文書頒布者たちは一緒に働いて毎月平均400冊もの「聖書研究」を配布したと言われています。エホバの忠実なしもべたちは機会をできるだけ活用しました。それで,比較的短期間のうちに多くの場所で健全な会衆が栄えました。
1920年5月27日,木曜日,ベルリンでは7人の講演者が同市内の各地の七つの大きな会館で合計8,000ないし9,000人ほどの真理に飢えかわいた聴衆を前に,「終わりは近い! その後はどうなるか」と題する講演を行ないました。人々は非常な関心を抱いていたので,1,500人ほどの人々が訪問してもらいたいと申し出ましたし,2,500冊の書籍のほかに他の文書が配布されました。
今や「創造の写真-劇」はほんとうにその本領を発揮するようになりました。中でも非常に印象的だったのはシュツットガルトのグスタフ-ジーゲレ-ハウスで1,000人ほどの観客を迎えて上映されたときのことでした。人々があまりにも大きな関心を示したため,兄弟たちは自分たちの座席を関心を持つ人々に譲りました。そして,関心のある人々のためにほんのわずかの昼食の休憩時間を入れて特別に日曜日にも上映されました。しかし普通は四晩にわたって上映されました。
社会主義思想の本拠地だったザクセン州でも「創造の写真-劇」は高く評価され,今や同州でもまるで雨後のたけのこのように方々で会衆が設立されるようになりました。その中の一つはワルデンブルクの会衆で,ほどなくして100人近くの人々がある大きな農場に定期的に集まって神のみ言葉を研究するようになりましたが,そこの農場主はそのほんの少し前までは教会の理事でした。
神権的な組織へと移行する重要な諸段階
当時,ラザフォード兄弟は個人的にドイツを訪問したかったのですが,入国許可が得られなかったので,1920年11月4日と5日の2日間,ドイツから26人の兄弟たちをスイスのバーゼルに招き,ドイツにおけるわざをいっそう効果的に行なう方法や対策を話し合いました。そして,「ドイツ支部」を解散し,「ものみの塔聖書冊子協会中部ヨーロッパ事務所」と呼ばれる新しい事務所が開設され,一時チューリヒに置かれたその本部事務所はできるだけ早くベルン(スイス)に移されることになりました。この事務所は,主に全く献身し,協会の会長によって任命された主要な監督者の指導のもとで,スイス,フランス,ベルギー,オランダ,オーストリア,ドイツおよびイタリアにおけるわざを監督することになりました。また,上記各国にはやはり会長によって一人の地方監督が任命されることになりました。この取決めの目的は,中部ヨーロッパにおけるわざを統合し,最も有益な仕方でわざの遂行を図ることにありました。
ホェッケレ,ヘルケンデルそしてドゥエンガー兄弟を含むドイツからの26人の兄弟たちとともに行なわれたその2日間の会議は特に,ドイツにおけるわざを最も効果的に遂行する方法や対策を見いだし,またドイツの地方監督を選ぶ目的で開かれました。それまで何年もの間ドイツで奉仕してきた委員会は解散しました。当時まで数年間わざを指導してきたクナウ兄弟は,その職務を退き,巡回奉仕の仕事に携わりたいと申し出たので,新しい監督を立てることが必要になりました。そして,ドイツの地方監督としてパウル・バルツェライト兄弟が選ばれ,ビンケレ兄弟は中部ヨーロッパ事務所の主な監督として任命されました。
「万民」運動
さて,「現存する万民は決して死することなし」と題するドイツ語の小冊子は1921年2月に刊行されるとの発表が行なわれ,数年続くことになった講演運動を同2月15日に開始することが正式に計画されました。そして,各地でその講演を行なうため最適の講演者がそれぞれ割り当てられました。また,そうした講演者がいない会衆は協会に手紙を書き,講演者を手配してもらうことができました。
こうして,強力な証言を行なう扉が開かれました。1年前だったなら,たいていの兄弟たちはそのようなことが可能だなどとは夢にも思わなかったでしょう。協会の年報はこう述べています。「ドイツの人々が今ほどの非常な関心を示したことはかつて一度もありませんでした。今や大いなる群衆が集まって来ています。反対も増大してはいますが,真理は広まっています」。
このことはコンスタンツにも当てはまりました。50年余エホバに仕えてきたベアタ・マオレル姉妹は,「世の終わりは近し ― 現存する万民は決して死することなし」と題する公開講演が大きなプラカードを用いて大々的に宣伝され,かつてジョン・フスが火あぶりの刑の宣告を受けた所である,同市最大の会館で催された時のことを今でも覚えています。次いで追いかけ講演が行なわれ,1921年5月15日には15人の人々がバプテスマを受けました。これがコンスタンツにおける会衆の始まりでした。
ドレスデンではその講演はまさにセンセーションを引き起こしました。同市の会衆は三つの大きな会館を借りましたが,講演を行なう予定の時刻の2時間前には,大群衆のために交通が渋滞し,市電の運転を一時中止する事態も生じました。会館は立錐の余地もないほどいっぱいになり,大勢の人々は入場できませんでした。講演者は群衆をかき分けて進み,会場まで行き着くのに苦労しました。それら待っている人々のために講演をもう一度行なうことを約束して初めて群衆は快く道を開けてくれました。
ウィースバーデンでのことですが,エリサベツ・ファイファという婦人がその「万民」の講演を宣伝するビラを1枚路上で見つけました。そして,「なんてばかげたことなのでしょう。それにしてもいったいどんな人々がこういうことを信ずるのか行って見てみましょう」と考えました。ところが行ってみると,講演会場であったある高等学校の講堂は既に超満員のうえ,それでも何とか会場に入ろうとして無駄骨をおっている大変な数の群衆が路上にいるのを見てびっくりしました。当時,その地方をなお占拠していたフランス人が親切に案内の仕事に当たっていましたが,会場がいっぱいになったのに,さらに何百人もの人々が路上に立っているのを見て,講演者だったバウエル兄弟に相談し,講演が終わった後,待っている場外の人々にも講演者は喜んで話をしてくれるということを人々に知らせました。そこで,ファイファ夫人を含め,300人ないし400人ほどの人々は辛抱強く待ちました。彼女はその晩聞いた事柄に非常な感銘を受け,その後すべての集会に出席し,やがて熱心な姉妹になりました。
また,別の時の話ですが,バンドレスとバウエル兄弟はその講演を取り決めましたが,会場が超満員になったそれまでの経験とは逆に,その晩には最初だれもやって来ませんでした。予定の時間が近づいたので,二人はだれかが来ているのではないだろうかと期待して路上に出てみました。と,講演を聞きたい人々が何人か来てはいましたが,兄弟たちにはなぜかわかりませんでしたが,それらの人々は会場に入るのをためらっていました。二人がその訳を尋ねたところ,当日は4月1日だったので,だれかが4月ばかの冗談半分を言っているのではないだろうかというのが人々の答えでした。それでもとにかく30分ほどして3,40人の人々がやって来て講演を聞きました。
レムシャイト出身のエリク・アイケルベルク兄弟はゾリンゲンで「万民」の小冊子を配布していたとき,次のような興味深い経験をしました。彼はある男の人に会ったとき,次のように自己紹介しました。「私は皆さんをお訪ねして,現存する万民は決して死なずに,平和と幸福のうちに地上で永遠に生きることができるという良いたよりをお伝えしています。そのことを証明しているこの小冊子は,わずか10ペニッヒでお求めになれます」。その紳士はこの兄弟の勧めを断わりましたが,そのそばに立っていた幼い男の子がこう言いました。「お父さん,どうして買わないの? 棺おけのほうがもっとうんと高いよ」。
新しい活動のための備えをした組織
大戦後の1919年から1922年までの時期は,ドイツの兄弟たちにとって真の発展と準備の時となりました。
協会は内外両面でわざを強化することに関心を示し,政府との関係における協会の立場の面で今やわざを法的に確立する必要な処置を取りました。その結果,1884年にアメリカのアレゲーニーにおいて設立されたものみの塔聖書冊子協会は,1921年12月7日にドイツで外国法人団体として認められました。
1922年中に広く伝えられた音信は,主に「現存する万民は決して死することなし」という主題を中心としたものでした。協会は1922年2月26日を全世界で「万民」の講演を行なう特別の日として指定しました。ドイツでは当日,121の町々でその講演が行なわれ,合計およそ7万人もの人々が出席しました。二番目の全世界にわたる大規模な証言の日は同年6月25日で,ドイツでは119件の講演が行なわれ,約3万1,000人の人々が出席しました。その後同年中に同様の「全世界にわたる講演」がさらにもう2回行なわれ,ドイツでは10月29日と12月10日のその講演に7万5,397人および6万6,143人の人々がそれぞれ出席しました。こうして,良いたよりは何万人もの人々に達しました。
ラザフォード兄弟は再びヨーロッパを訪問する
1922年,ラザフォード兄弟はヨーロッパ各地を広範にわたって歴訪し,そのさい,ハンブルク,ベルリン,ドレスデン,シュツットガルト,カールスルーエ,ミュンヘン,バーメン,ケルンそしてライプチヒを訪れました。ハンブルクでは1日だけの大会が開かれ,500人ほどの兄弟たちが出席しましたが,それはわずか8年前に同兄弟が訪問したときから見て何と優れた増加がもたらされたことを意味したのでしょう。シュツットガルトでの公開講演のさいには,会場はわずか1,200人しか収容できず,何百人もの人々は入場を断わられました。また,ミュンヘンではラザフォード兄弟は「シィルクス・クローネ」を埋め尽くした7,000人の聴衆を前にして講演を行ないました。講演が始まる前に,反ユダヤ主義グループの人々やイエズス会士の何人かの司祭が聴衆の中にいること,また彼らは講演を妨害し,できれば集会をやめさせる目的で来ていることがわかりました。ラザフォード兄弟はこう述べました。「当市その他の場所で,国際聖書研究者協会はユダヤ人の財政援助を受けていると言われてきました」。同兄弟がそう言い終えるか終えないうちに,「そのとおりだ!」とか,その他さまざまの叫び声が上がりました。しかし,ラザフォード兄弟は確信と力をこめて語り,ほどなくして,騒ぎを起こす者たちの口を閉じさせました。もっとも彼らは演台を奪って同兄弟の講演を中途でやめさせようとさえしました。
1922年中のドイツでの最大の行事は,6月4,5日に行なわれたライプチヒでの大会でした。協会はドイツにおける大会のための適当な場所としてライプチヒを選びました。当時,兄弟たちの大半はザクセン州に住んでおり,非常に貧しくて長途の旅行をする経済的余裕がなかったので,ライプチヒはまさに格好の場所でした。
月曜日の午前中には,ラザフォード兄弟の扱う質問と答えによる話が予定されていました。事前に書面で幾つかの質問が寄せられていましたが,そのうちの一つは特に興味深いものでした。それは百年ほど前にライプチヒの近くで起きた反乱を記念して,1913年にライプチヒで適当な献呈式を開いて公開された「国々の戦いの記念碑」に関する質問でした。その記念碑に関する質問は,かいつまんで言えば次のとおりです。「『その日エジプトの地の中にエホバをまつる一つの祭壇あり その境にエホバをまつる一つの柱あらん』というイザヤ書 19章19節の言葉は,この記念碑をさしていますか」。
ここで次のことを知っておいてもらわねばなりません。その3年前のこと,すなわち1919年に開かれたライプチヒ大会のさい,大勢の兄弟たちがある朝その「国々の戦いの記念碑」を見に行きました。その日の午後,アルフレド・デッカー兄弟による講演が行なわれました。彼は『選出長老』で,後に真理のひどい反対者になりましたが,その話の中でその「国々の戦いの記念碑」こそイザヤ書 19章19節で指摘されている柱であることを証明しようとしました。問題の記念碑の建立者である枢密顧問官ティーメもその楽しい集いに招かれ,そして彼の建築技士たちとともに適当な説明の話をする機会を与えられました。
ラザフォード兄弟は質問に答える前に,その巨大な建造物を見に行きました。後に,出席者全員に向かって話をし,イザヤ書 19章19節はその記念碑をさしているのではないと率直に断言しました。それはただ,大いなる敵対者の影響下にいるある人間の強烈な野望ゆえに建てられたにすぎず,福音時代の終わりにさいしてエホバがそのような記念碑を地上に建立させる理由は一つもありませんでした。その巨大な記念碑はどの部分も,それが悪魔に由来し,悪魔のわざの一環であって,悪魔の支持者や連累者,つまりその「愚劣な記念碑」を建てるよう人々に影響を与えた悪霊たちに由来するものであることを示していました。ドイツ皇帝はかつて次のように言えるようになりたいと望んでいたのです。「世界征覇を試みたナポレオンがかつて立った場所があるが,しかし彼の計画は完全に失敗した。同様に世界征覇に着手して大いなる成功を収めたドイツ皇帝は,今ここに立っている。それゆえに全世界は彼の前にひれ伏さねばならない」。
「神の竪琴」
今やドイツ語で入手できるようになった「神の竪琴」と題する新しい本を早く配布する道を整えるため,協会は「なぜか?」と題するパンフレットを500万部印刷して用意しました。ところが残念なことに,「神の竪琴」を印刷する仕事を引き受けた出版社の印刷予定がずるずる遅れたため,その本の発行日付は数回遅らされる結果になりました。また,急速に悪化の一途をたどるインフレのため,協会のパンフレットに示されたその本の価格は維持できなくなりました。そして,1923年の1月初めに,100マルクだったその値段は,マーガリン4分の1ポンドの価格に相当する250マルクに引き上げられました。とはいえ,その当時,「竪琴」を出版する費用は1冊につき既に350マルクに達していました。それにしても,同書の内容は単に兄弟たちの間だけでなく,真理を愛する多数の友の間にも大変な熱意を引き起こしました。
ワルデンブルク会衆に属していたランゲンシュルスドルフのエリヒ・ペータースという名の,話をする点では大変優れた才能のある若い兄弟は,その本の内容に大いに感激し,それを用いて研究をするようにとの提案に従い,父親の許可を得て,友人や隣人を毎週1回,ある日の晩両親の家に招き,「神の竪琴」の本を一緒に討議することにしました。こうして晩に開かれた研究に後日あまり多くの人が出席するようになったため,一階の部屋全部を開放して出席者を収容しなければならなくなりました。エホバの王国とその祝福について熱心に語るその若い兄弟は,部屋と部屋の間の廊下に立って皆に聞こえるように,また皆から見えるようにして討議を進めました。その後,他の会衆もさっそくこの例に従うようになり,やがていわゆる「竪琴研究」が普通の集会予定の一部となりました。
最初の工場
1897年4月から1903年12月までドイツ語の「ものみの塔」誌はアメリカのアレゲーニーで印刷されていましたが,1904年1月から1923年7月1日まではドイツの世俗の会社で印刷されました。協会の書籍その他の出版物は何十年もの間,アメリカから直接送られてくるもの以外はみな世俗の会社で印刷されていました。やがて,費用を節約するため,2台の大型平版印刷機が他の装置類とともにバーメンに設置されました。もっとも,作業場はごく限られた狭いものでした。
最初は,活字を組んだり,製本したりする経験を持った兄弟はひとりもいなかったので,スイス,ベルン出身の経験を積んだ優秀な書籍の印刷業者だったウンゲレル兄弟がバーメンに送られて,最初の自発奉仕者たちを訓練しました。仕事をしようという彼らの意欲,またお粗末な装置類しか使えなかったにもかかわらず立派な印刷物を生産しようとの決意には驚くべきものがありました。
部屋はすべて寝室その他の目的で使用されていたため,印刷機類は二階建てのその建物の階段の踊り場と縦横20×8メートルのまき小屋に設置されました。ヘルマン・ゲルツ兄弟は「黄金時代」誌の最初の号(1922年10月1日号)を余分に10万部印刷した当時のことを今でも覚えています。印刷機は手動式でしたから,兄弟たちは紙を1枚1枚機械に2回入れなければなりませんでした。それに,兄弟たちは印刷物の需要にほとんど追いつけなかったため,およそ丸1年間しばしば真夜中まで働きました。
ある人々が真理を学んだ方法
時には変わった事態が生じ,それがきっかけになって真理に注意を向けるようになった人々もいます。ある時,「写真-劇」の上映される集まりに出席したアイケルベルク兄弟の場合もそうでした。その集会のさい,「宗教改革」に言及した語り手が,「プロテスタントは抵抗することをやめました」と述べたところ,聴衆の中のある人が,「我々は今でも抵抗しているぞ!」と叫びました。そこで,語り手は電気をつけるよう求めたので,居合わせた人々はいっせいにその「勇敢な」人物に視線を向けました。その人物はこともあろうに二人のカトリックの司祭の間に腰をおろしていたプロテスタントの牧師だったのです! 聴衆は憤って,それらの僧職者に退場するよう要求しました。こうして,アイケルベルク兄弟は,真理は教会制度に見いだせるものではないことを悟りました。
オイゲン・スタルクはシュツットガルトで上映される「写真-劇」を見に出かけました。ところが,会場は既に3,000人ほどの観客で満員になった矢先,映写機が故障を起こし,その晩には修理できないため,翌日の晩もう一度出席するようにとの発表が行なわれました。がっかりして会場を出たオイゲン・スタルクはその足で,新使徒教会に所属していた母に会いに行きました。そして,二人はそれら聖書研究者たちが真理を持っているわけがないこと,もし真理を持っていたなら,そういう故障など起きるわけがないという結論に達しました。スタルク兄弟は翌晩はその会場に戻らずに,その代わり妹の家を訪ねることに決めました。しかし,彼の乗った電車がその講演の行なわれる会場のすぐそばを通ったとき,前の晩にいたのと同じほどの大勢の人々が会場に入ろうとしているのを見て彼は驚いてしまいました。我を忘れた彼は電車から飛び降りてころび,危うく車輪の下敷きになりそうになりました。しかし,傷を負ったにもかかわらず,彼は起き上がって会場に行きました。上映終了後,すっかり感激した彼は,勧められた聖書研究の手引きを求めたうえ,訪問してもらうよう住所氏名を渡して会場を出ました。こうして,今や何ものも彼の聖書研究をやめさせることはできなくなりました。
クルト・ディースナーは戦時下の1915年ころ,学校で牧師から教えられた歌のことで教会に愛そを尽かすようになりました。その歌は敵国を滅ぼすことを歌った歌で,ドイツの軍隊は敵を押し返して湖に,沼地に,ベスビオス山に,また大海に落とし入れさせるべきだという意味の歌でした。その後,1917年には教会の鐘ははずされ,溶かして手りゅう弾の輪金に利用されました。また,ある教会の新聞には,牧師が両腕を伸ばして大きな鐘を祝福している写真が載せられました。そして,その写真の下部には,「さあ,行って,我々の敵のからだを粉々に打ち砕け」という言葉が記されていました。今やクルト・ディースナーは決定を下しました。こうして彼は1920年代の初めごろ,エホバの真の崇拝を見分けて喜んで受け入れました。彼は今でも時々一時開拓奉仕のわざにあずかることができます。
わざの拡大のために心をこめて働く
50年あるいはそれ以上の昔にエホバからの召しの声を聞いて答え応じた人たちの何人かは今でも私たちの中にいて,彼らがなお「若くて丈夫だった」時分の活動について熱心に話してくれます。彼らは物質的には貧しい生活をしましたが,しかし霊的には富んでいました。
キール出身のミナ・ブラントは,王国の音信を宣べ伝えるために相当の距離のところをよく歩き,当日中に帰ることができなくなると,畑に積んである干し草の山の中で夜を過ごしたころのことを話してくれます。後日,彼女はヒッチハイクをして,しばしばトラックに乗せてもらってはシュレスウィヒ・ホルシュタイン州の北辺の大きな町々にまで出かけて行きました。当時,兄弟たちは大きな拡声器を用意して持って行き,午前中は村々で宣べ伝えるわざを行ない,午後は市場や他の適当な場所でその拡声器を用いて公開講演を行なったものです。
エルンスト・ヴィースナー(彼は後に巡回の仕事に携わった)や他の人たちはブレスラウから自転車で90ないし100キロもの距離を旅行しては音信を宣べ伝えました。エリヒ・フロストやリヒャルト・ブリュンメルが奉仕したライプチヒの兄弟たちは,王国の音信に人々の注意を向けさせる試みをする点で非常に独創的でした。彼らは一時,兄弟たちで成る小グループの音楽隊を組織して用いました。その音楽隊は音楽を演奏しながら各地の街路を行進し,一行のあとに従う人たちは,道路沿いの家々で簡単な証言を行ない,次いで,行進する音楽隊のもとに遅れないよう急いで戻りました。
1923年には,「一千人の開拓者を求めます」という緊急な呼びかけが行なわれるとともに,全時間の宣べ伝えるわざが注目の的となりました。これは当時の神の民の間にかなりの興奮を引き起こしました。というのは,当時報告を出していた「働き人」3,642人中ほとんど4人に1人が開拓者になるよう求められることになったからです。その呼びかけは,顧みられぬままには終わりませんでした。
例えば,ウイリー・オングローベは自分が求められていることに気づき,彼は,当人の言葉を借りれば,「単に1,2年ではなく,エホバが私をそうした資格で用いてくださるかぎりいつまでも働く覚悟で」開拓奉仕に入りました。彼はドイツの各地で働き,後日マクデブルクのベテルでも何年間か働きました。次いで,1932年,彼は外国の土地で開拓奉仕を行なうようにとの呼びかけに答え応じました。そして,まず最初,フランスに派遣され,次いでアルジェリア,コルシカ,次は南フランスに送られ,後日またアルジェリアに戻り,さらにスペインに派遣されました。そして,スペインからシンガポール,次いでマレーシア,さらにジャワへ行き,1937年にはタイに赴き,1961年にドイツに帰るまでタイに留まりました。25歳で開拓者への召しの声に答え応じた彼は,今では77歳になろうとしていますが,今もなお,大変熱心に喜んで働き,大変良い成果を収めている開拓者の隊伍に加わっています。
コンラト・フランケは1931年2月1日に開拓奉仕を始めました。彼は幼いころから創造者を覚え始めました。そして今,ベテル家族の一員として,これまでの42年間,終始一貫全時間奉仕を続行してきた年月を振り返って喜びを味わっています。そのうち14年間はドイツの支部の監督として過ごしました。
巡回旅行者の奉仕
1920年代に巡回旅行者の兄弟たちが行なった講演は確かに仲間の兄弟たちを築き上げる点で大きく貢献しました。当時,輸送機関はかなり限られていましたし,特別快適なものではありませんでした。巡回旅行者の兄弟たちは田舎の区域を相当広範にわたって回っていたので,農作業用の馬車に乗って旅行するのは珍しいことではありませんでしたし,時には徒歩で長距離の旅行もしなければなりませんでした。
ある時,エミル・ヒルシュブルゲルは南ドイツで講演をするよう割り当てられました。そこで,彼は汽車で旅行しましたが,たまたま車内の仕切られた客室の中で,カトリックの僧職者であることを歴然と示す服装の男の人々6人と同席することになりました。それらの人々はヒルシュブルゲル兄弟が自分たちのただ中にいようなどとは無論知らずに,同兄弟が話す予定だった講演について盛んに議論していました。彼らは教会の会議に出席してきたところのようでした。そして,ヒルシュブルゲル兄弟が講演をすることになっていた町に住む同席の一僧職者は,公開討論を申し込んで同兄弟に挑戦するよう勧められていたようでした。それで,その僧職者は,公開討論会での対決に際して「この聖書研究者」に打ち負かされないように論議を進めるにはどうすればよいかに関して忠告を得たがっていました。しかし,明らかに同僚の僧職者たちは満足のゆくような提案を何一つ与えませんでした。そして,彼らは互いにあいさつを交して,ひとりまたひとりと下車して行きました。最後のひとりが去ろうとしたとき,当惑したその僧職者は立ち去ろうとした同僚に内輪話をするような口調で,その問題についてどう思うか,またその集まりに行くのは賢明かどうかについてどう考えているかと尋ねました。すると,たちどころに,シュワーベン地方のなまりの強い方言で,「もし太刀打ちできると思うなら,行けばいいじゃないか」と言う返事が戻ってきました。その講演のさい,ヒルシュブルゲル兄弟はついにその僧職者の姿を見かけませんでした。
創造劇
1920年代の初めになって,前述の「写真-劇」のフィルムはほとんど使い古されてしまいました。しかし,協会は幾つかの世俗の映画会社から聖書映画のフィルムやニュース映画のフィルムを購入できたので,不適当な箇所を削除したり,あるいは他のフィルムを加えたりして,それらのフィルムを作り直して上映することができました。こうして,5,000ないし6,000メートル分の全く新しいフィルムがまとめられました。それに加えて,それまで用いられていたスライドもまた,「創造」と題する本やものみの塔協会の発行した他の書籍から写して作ったスライド,あるいは市販のスライドなどで置き替えられました。当時,カラー写真はありませんでしたが,マクデブルク・ベテルのウィルヘルム・シューマン兄弟がたゆまぬ努力を払って白黒写真に色彩を施して仕上げを行ないました。こうして美しい色彩の施された写真は観客に忘れがたい印象を与えました。それらの写真の大半は,エホバのすばらしい創造を扱ったものだったので,その映画の題名は「創造劇」と改められました。その題名の副見出しのもとに,1932年のドイツの年鑑はこう述べています。
「名称やスライドの使用という点を別にすれば,以前の創造の写真-劇から引き継がれたものは何もありません。テキストは……『創造』その他の本から取られており,『創造劇』というその名称も同様に『創造』の本から取られたものです」。
その映画がステッチンで初めて上映されることになった1928年のこと,当時まで世俗のオーケストラの指揮者をしていた専門の音楽家エリヒ・フロストがステッチンに呼ばれ,無論それは無声映画でしたが,その映画の音楽伴奏を担当することになりました。やがて,さらに多くの音楽家が一行に加わりました。そして後には,楽器を用いて,鳥のさえずる声や木の葉がさらさらと立てる音をさえまねて奏でました。1930年の夏,その映画がミュンヘンで上映されていたときのこと,ハインリヒ・ルテルバハという優れたバイオリニストが演奏チームと会い,さっそく一緒に旅行するよう招かれました。彼はその招きを喜んで受け入れ,その結果,オーケストラは完全なものになり,その演奏はどこでも人々に喜ばれました。2年後,協会はそのフィルムとスライドの二度目のセットをフロスト兄弟に渡し,東プロイセンに行くよう指示しました。その後,ルテルバハ兄弟は小規模なオーケストラの指揮を引き受けました。
1930年にこの映画がミュンヘンで上映されるよう計画されたときのことですが,同市では「創造の写真-劇」が以前既に上映されて大成功を収めたことがあったので,当然のことながら宗教指導者たちは非常に動揺しました。そして,絶望した彼らは,ミュンヘン市内各地の自分たちの会衆の何百人もの成員に,公に発表された入場券売場でその劇の入場券を買うだけ買って会場には出席しないよう指示しました。そうすれば,会場にはだれひとり出席しないだろうという訳だったのです。しかし,兄弟たちはいち早くそのことを探知したので,対抗手段を講ずることができました。その結果,仕組まれたたくらみは,問題を起こそうとした相手側に思いがけない害を及ぼすことになりました。
協会の支部事務所の移転
責任を持つ兄弟たちはほどなくして,バーメンで使用できる印刷工場の設備は不十分なものであることに気づきました。明らかにエホバの霊の導きを受けた彼らは,土地と建物を直ちに購入できるようになったマクデブルクに注目しました。直ちに決定を下すよう迫られた協会は,同市のライプツィガー街に位置する土地と建物を購入しました。そして,1923年6月19日,正式にバーメンからマクデブルクに移りました。すると突然,フランス軍が,バーメンおよびエルベルフェルトを含め,ラインおよびルール地区を占拠しました。もちろん,そのために郵便局,鉄道の駅またドイツ系の銀行なども接収されることになりました。それで,もしバーメンから諸会衆の事柄を世話していたのであれば,非常に困難な事態に陥っていたことでしょう。1923年の年報はその時のできごとについてこう述べています。「ブルックリンの本部はある朝,ドイツの支部が無事マクデブルクに移転したとの通知を受けましたが,まさにその翌朝の新聞はフランスがバーメンを占拠したと報じました。私たちはこうした保護と祝福に対して私たちの尊い主に感謝しました」。
今や私たちは「ものみの塔」誌を自分たちの印刷工場で印刷できるようになりました。こうして,1923年7月15日号が最初に印刷されました。それから3,4週間後には,紙を自動的に取り入れる大型の平版印刷機が設置され,「聖書研究」第1巻を印刷する仕事が開始されました。そのすぐ後には,同じ印刷機で「神の竪琴」と題する本が印刷されました。
しかし,さらに多くの印刷機が必要でした。それで,バルツェライト兄弟は輪転機を購入する許可をラザフォード兄弟に求めました。ラザフォード兄弟はその必要を認めて,購入することに同意しましたが,ただ一つ条件がありました。ラザフォード兄弟は,バルツェライト兄弟が何年もの間ラッセル兄弟のとそっくりのあごひげを生やしていることに気づいていました。それは人間崇拝の傾向を招くおそれがあったので,ラザフォード兄弟はそうした習慣を排したいと考えていました。それで,次に訪問した時,ラザフォード兄弟はバイブル・ハウスの家族全員に聞こえるところで,バルツェライト兄弟に輪転機を購入してもよいが,それにはただ一つ,あごひげを剃り落とすという条件があると告げました。バルツェライト兄弟はすごすごと同意し,そのあとで理髪店に行きました。それから2,3日間というものは,何度か人まちがいが起きたり,おかしな事態が生じたりしました。というのは,彼は仲間の働き人からも時々「見知らぬ人」として見間違えられたためでした。
それから1年後,輪転機の最初の部分を地階に設置することができました。そして,その後まもなく二番目の部分が届きました。こうして今や,400ページの本を1日に6,000冊の割合で印刷,製本できる設備の整った印刷工場についてうんぬんできるようになりました。
1923年と翌1924年には文書類の配布は大幅な増加を示しました。そうした需要に追いついて行くため,1925年に協会は最初の建物に隣接する地所を購入しました。また,製本部門の機械はもとより,印刷工場の設備はさらに増し加えられ,改善されました。そして,新たに購入された土地にはセメント造りの堅固な建物が建設されました。その一階には製本部門が設置され,平版印刷機も置かれ,別の部屋には2台の輪転機が据えつけられました。組版部門や他の印刷のための準備の仕事をする部門は二階に入り,三階は事務所になりました。こうして施設が増大したにもかかわらず,相当の残業を行なわねばなりませんでした。というのは,文書の配布が引き続き増大したからです。二番目の輪転機は1928年に購入されました。しかし,文書の需要があまりにも大きかったため,兄弟たちは12時間の二交替制で印刷機を運転し,時には日曜日にも働きました。つまり,印刷機は数年間昼夜の別なく絶えず動き続けたのです。無論,文書が印刷された後は,印刷工場で兄弟たちは製本の仕上げの仕事をしなければなりませんでしたから,製本部門も同様に忙しく働きました。こうして,兄弟たちは1日に1万冊の書籍を生産することができたのです。
また今や,新たに購入された土地には,集会のための立派な会館を建てることも可能になりました。そして,およそ800人分の座席を持つ,上品な装飾を施した会館が建てられました。兄弟たちはその集会場を「ハープ・ホール」(「竪琴会館」の意)と呼びましたが,それは明らかに「神の竪琴」と題する本に対する感謝の念の表われでした。
このバイブル・ハウスの家族は日曜日に外出できるときには,臨時に54人分の座席を取りつけた大型トラックやバス,汽車,車あるいは自転車などに乗って旅行し,マクデブルク市内外の区域に出かけて行っては,宣べ伝えるわざに参加しました。こうして,半径数百キロほどの範囲にわたって働き,数多くの会衆の基礎を据えることができました。
やがて,バイブル・ハウスの働き人の人数は200人余に増えました。
マクデブルクにおける1924年の大会
1924年の最大のできごとは,ラザフォード兄弟の出席したマクデブルク大会でした。およそ4,000人の兄弟姉妹たちがドイツ全土からやって来ました。中には自転車に乗って来た人たちもいました。兄弟たちの大半は弁当箱に入ったお粗末な昼食程度のものしか持って来ることができませんでした。ドイツは全国的に窮乏状態に陥っていたからです。旅費をまかなうだけのお金のない人も多かったので,何千人もの人々は家に留まらざるを得ませんでした。自転車で旅行する人々は,数日かかることを考慮に入れなければなりませんでした。また,食事や宿泊のためのお金もわずかしか持っていませんでした。多くの人は主に乾燥したパンを食糧として携えてゆきました。講演の最中にひどい空腹感に襲われると,兄弟たちは乾燥したパンを取り出してかじりました。その様子を見てひどく心を打たれたラザフォード兄弟は,翌日,出席した約4,000人の人たち各人に一つながりの暖かいフランクフルトソーセージと,イースト入りの小型の菓子パン2個,それに炭酸水一びんを無償で供するよう直ちに取り計らいました。大会が開かれている講堂の両端にフランクフルトソーセージをいっぱい入れた大きな湯沸かしが突然現われたとき,出席者たちがどんなに喜んだかは想像にかたくありません。兄弟たちは行列して食べ物をもらいました。一緒に食事を取って元気を取り戻し,講堂内の座席に戻った兄弟たちは,宴に臨んだ客人のように感じました。
この大会で歓迎の言葉を述べたラザフォード兄弟は,既に献身して水のバプテスマを受けた人たち全員に手を挙げるよう求めました。そして,大勢の人々が手を挙げるのを見た同兄弟はこう付け加えました。「5年前にはヨーロッパ全土でさえこれほど多くの人はいませんでした」。
それから後,公開講演の最中のこと,主要会場で不測の事故が起こりました。だれかのちょっとした不注意のため,非常用の小型の照明装置が床に落ちてしまいました。すると,さらにそそっかしい人が「火事だ」と叫んだため,何人かの人々がパニック状態に陥りました。そのできごとは会場の後部で起きていたため,ステージの上の人たちは何が起きているのかよくわかりませんでした。最初のうち,兄弟たちは妨害者たちが集会をやめさせようとして騒ぎを起こしているのではないかと思いました。その騒ぎが収まる様子のないのを見て取ったラザフォード兄弟は,オーケストラに演奏をするよう手まねで合図しました。それに応じたオーケストラは,「私は愛の力を尊びます」という歌を演奏し始めました。するとどうでしょう,会場内の何千人もの人々も歌いだしたのです。ほどなくして恐怖心のこうじたヒステリー発作のような状態は収まり,ラザフォード兄弟はそれ以上妨害されずに講演を続行することができました。
「告発される聖職者たち」
これは1924年に全世界で配布するため準備された決議文の表題です。ドイツの兄弟たちは特に1925年の春その配布のわざに参加しました。それは僧職者の偽善を容赦なく暴露した非常に重要な決議文でした。その結果,ハチの巣をつついたときのような大変な反応が生じました。特にババリア州では僧職者たちが,そのわざに携わる兄弟たちを非難攻撃し,妨害しました。その直前にワイマール共和国のドイツ人の初代大統領が亡くなり,新たに選挙が予定されていました。政治家たちは,『カトリック教徒であえて大統領になる者はいまい』と語っていたので,カトリック系のババリアの人々はローマに非友好的な態度を取る出版物すべてに対して最大の疑念を向けることによって応酬しました。それもババリア州だけでなく,ドイツの他の多くの土地でも僧職者たちはありとあらゆる手段を講じて抵抗しました。
バルツェライト兄弟は命をさえ脅かされました。同兄弟宛てのある匿名の手紙には一部次のように記されていました。
「羊を装った悪魔め!
「聖職者に対してお前の行なっている非難攻撃は,お前の滅びを招くものだ! お前がそれと気づかぬうちに,世の人々はお前の最期を見,お前の死はお前の追随者どもをおびえさせ,活動をやめさせるものとなろう。……お前の裁きは既に下された!
「我々は3週間以内に次のことを行なうよう要求する。『告発される聖職者たち』と題する出版物を公に回収せよ。もしそうしなければ……お前は死の手に渡されよう。
「これはただのおどし文句ではない……」。
しかし,これも妥協すべき理由とはなりませんでした。それどころか,油そそがれた残れる者の少数の,しかし勇敢な軍勢は,対抗手段を講じました。「真実か,それとも偽りか」と題する冊子を配布して,そうした脅迫が行なわれたことを一般の人々に知らせたのです。そして,「告発される聖職者たち」と題するそのパンフレットに述べられている非難は「真実か,それとも偽りか」という疑問を提起し,次いで僧職者の発言や宗教雑誌から抜すいした言葉を掲げました。
やけになったポンメルンの一僧職者は,ものみの塔協会と当協会の役員を相手取って公訴局に訴え出たので,マクデブルクで裁判が行なわれることになりました。ところが,公訴局部長はその審理にさいして誤って問題の決議文全文を読んでしまったため,その決議文はシュテッチンの宗教会議に突きつけられたものであるとする自らの主張の誤りを明らかにする結果になってしまいました。法廷内の関係者はすべて,その決議文が単にシュテッチンの宗教会議のみならず全世界の僧職者を告発したものであることを認めました。その点を認めた法廷はバルツェライト兄弟に無罪を言い渡しましたが,それでも,そうした痛烈な非難攻撃を行なう出版物は今後出さないよう助言しなければならないと感じました。
インフレ
さて,印刷費が高騰したため,伝道者たちは1921年の8月,「聖書研究月刊」と題する冊子の頒布にさいして無駄な配布を避けて節約するよう既に知らせを受けていました。無差別にだれにでも配布するのではなく,本当に関心を示す人たちだけに配布することになりました。
1922年の初めに協会は,当時なお月一回発行していた「ものみの塔」誌の年間予約購読料を16マルクにするとの発表を行なわざるを得ませんでした。が,その1か月後には購読料を20マルクに,また同年の7月には30マルクに値上げしなければならなくなりました。しかし,その後もインフレは相当の速度で進行し続けたため,協会は10月に,以後予約購読は3か月単位でしか受け付けられないとの発表を行なわざるを得なくなり,さし当たって3か月間の購読料は70マルクに引き上げられました。そして兄弟たちは翌1923年の最初の3か月間に対しては200マルク,次の3か月間に対しては750マルクの購読料を払わねばなりませんでした。こうして,同年6月15日には年間予約購読料は3,000マルクになり,その1か月後には4万マルクにも達しました。8月1日には協会は予約購読の取決めを完全に停止して,即金払いに限って個々の雑誌を渡す措置を講ぜざるを得ない事態に追い込まれました。それにしても,9月1日には既に雑誌1冊の価格は4万マルクになり,1か月後にはそれが166万マルクに達し,さらに10月25日にはインフレが頂点に達し,たった1冊の雑誌の価格が実に25億マルクになりました。お金は何ら価値のないものになりました。
インフレの進行した当時の危機的な時期のことをこうして簡単に考慮してみると,主のわざは当時どんなに困難な状況のもとで遂行されなければならなかったかがわかるでしょう。事実,1923年の最後の3か月間,協会の出版物の配布のわざはほとんど完全に行き詰まってしまいました。そのわざをどうにか続けることができたのは,ひとえにエホバの助けによるものでした。
『選挙によって選ばれた長老たち』
長老たちを選挙によって選ぶという民主的な取決めは,1920年代のわざの前進を遅らせるに足る重大な事柄になっていたと考えられます。そうした選挙をどのように行なうかに関してはさまざまな意見がありました。中には,候補者はV.D.M(ベルビ デイ ミニステルつまり神のみ言葉の奉仕者の略称)に関する質問の少なくとも85%に対して正しい答えを述べ得る者でなければならないと主張する人たちもいました。例えば,ドレスデンの場合がそうでした。しかし,ハレの兄弟たちの経験は,そうした独断的な要求がどんなに困難な問題を引き起こしたかを示すものとなりました。その地の会衆には,自分たちのわざに対してあまり良い態度を持ってはいないのに会衆内で指導者になりたいと考えた兄弟たちがいました。最後に,彼らはV.D.Mの質問にさえまだ答えてはいないので,会衆内で指導的な立場につく資格がない旨告げられたとき,彼らは直ちに自分たちの明らかな失策を埋め合わせる処置を講じました。それから後,彼らがやっきになって追い求めた立場をなおも得そこなうに及んで,会衆内では反逆が生じ,その結果会衆は分裂してしまいました。最後まで残ったのは,最初の400人の成員のうち,わずかに200ないし250人ほどの人たちだけでした。
幾つかの会衆では選挙の時にしばしば激しい論争が生じました。例えば,1927年にバーメンである候補者たちの選挙が挙手によって行なわれたときのことですが,ある目撃証人が伝えるところによれば,居合わせた人々はほどなくして一斉に騒ぎ出したため,兄弟たちは無記名投票で選挙を行なう方法に切り換えざるを得ませんでした。ついでですが,多くの会衆は後者の方法を用いていました。キールでは長老の選挙は警察の保護監視を受けて行なう必要さえありました。
このようなことが生じたのは,候補者たちの中に未熟なクリスチャンがいたためでした。事実,それら長老たちの中には王国のわざに直接あるいは間接的に反対する人たちもいました。
例えば,協会が「ものみの塔」誌を会衆で定期的に研究するよう勧めたとき,特に『選挙によって選ばれた長老たち』の中にはその提案に反対して,多くの会衆で分裂を引き起こした人々がかなりいました。レムシャイトの理事が,今後は日曜日の午前中に野外奉仕に出る人たちだけを「ものみの塔」研究の司会者として用いると述べたところ,『選挙によって選ばれた長老たち』の一人が椅子を振りかざしてその理事を脅し,40人ほどの人々を引き連れて会衆から出て行きました。キールでもおおむね同様のことが起こり,バイブル・ハウスの側の努力もかいなく,同会衆の200人の兄弟姉妹たちのうち50人が去って行きました。
振り返ってみると,1920年代の後半はここドイツではふるい分けるわざのなされた時期であったことがわかります。当時まで私たちとともに歩んできた人々の中には,王国に公然と敵対する者になった人たちもいます。そうした人々が去ったとはいえ,確かにそれは神の組織にとって何ら損失とはなりませんでした。なぜなら,1930年代は,忠実に留まった人たちにとって真の試練の時となったからです。
法律上の問題
1924年から1926年までは国税庁はものみの塔聖書冊子協会を厳密な意味での慈善事業の性格を持つ団体とみなし,文書を配布して受け取る金銭に対して税金を支払うよう要求しませんでしたが,その免税処置が1928年に取り消されてしまいました。しかし,協会は二大教会制度の指導者たちによってそそのかされて引き起こされた当協会に対するこうした攻撃処置について「ものみの塔」および「黄金時代」誌により一般大衆に知らせたので,この件に関する裁判は問題を公に相当広く知らせる好結果をもたらしました。後日,諸教会は,その処置は『聖書研究者たちが聖書の情報を広く伝えるのを阻止する』ためのものであったと述べて,そうした攻撃が教会側からもたらされたものであることを自認しました。兄弟たちはこうした不正な処置に反対する申立書に署名するよう,義を愛する人々に熱心に訴えました。120万人分もの署名を得た申立書が提出されたとき,法廷側が深い感銘を受けたのももっともなことでした。後に法廷は私たちに有利な判決を下しました。
宗教指導者たちはまた,私たちのわざの恐るべき発展を何とか食い止めようとして,協会の伝道者の活動を法律に抵触するとして問題にする手段を取りました。早くも1922年に「不法行商および行商税の支払い拒否」のかどで最初の裁判事件が持ち上がりました。また,1923年にもさらに別の法律問題が生じましたが,それもまた「行商規定違反」のかどで起こされた訴訟事件でした。そして,厳しい判決が言い渡されました。1927年には1,169人の兄弟たちが逮捕され,「行商法違反」や「無免許行商」のかどで裁判に付されました。1928年には審理件数は1,660件に,また1929年には1,694件に達しました。しかし,僧職者たちは聖書研究者たちを沈黙させる武器として利用し得る法律をさがし求めました。そして遂に,彼らは自分たちの望んでいたものを見いだしたと考えました。1929年12月16日付,ザールブルュッケル・ランデス・ツァイトゥンク紙はその点をこう指摘しました。
「残念なことに,それら聖書研究者たちの仕事に関しては警察は全く無力で何も行なえなかった。これまでに逮捕された者たちは……すべて無罪放免に付される結果に終わった。……ところが今や,ベルリン裁判所は同様の事例に関して判決を下すことを支持し,また戸別訪問を行なって勧めたり街頭で勧めたりして宗教文書を提供するということは,そのために身体的努力が関係し,またそれゆえにそうした提供行為が警察の仕事の管轄権下に入り,一般の人々もそうした行為に目を留める場合,日曜日や祭日の安息のための休みを守ることに関する警察条令に抵触するという原則を設定した。
「幸いなことに,ザール地区の幾つかの裁判所はこの裁定が下されたことを知って以来,同様の事例の審理に際して被告に有罪判決を下すことができるようになった。この事態は今やそれら聖書研究者たちのわざに終止符を打つ機会を供するものとなってきた」。
ババリアでの活動
聖書研究者たちの活動に終止符を打たせようとする試みはドイツの至る所でなされましたが,ババリア州はその点で特に顕著なものがあり,同州内での逮捕件数は他のどの州でのそれをもしのぎました。また,一時的ではありましたが,地方の法令によってわざが短期間禁じられる場合さえも生じました。1929年に協会はレゲンスブルクの南部の地区に約1,200人の兄弟たちを送り込んで,ある日曜日に1回だけその地域で一斉に伝道を行なわせる“一日攻撃”を敢行することに決めました。そして,二本の特別列車を出すよう鉄道会社と打ち合わせ,一つはベルリンを発ち,途中でライプチヒの兄弟たちを乗せ,別の列車はドレスデンを発ち,途中ザクセン州のケムニッツその他の都市の兄弟たちを乗せることになりました。乗客は各自およそ25マルクの料金を支払うのです。当時としてはその料金はかなりの額のお金でした。しかし,兄弟たちはいとも快くその犠牲を払いました。兄弟たちはただ,その活動に確実に参加できるようにしたいと考えました。というのは,敵は眠ってはいなかったからです。
この運動の手はずを整えている際,万一そのことが事前に僧職者の耳に入ってしまえば,僧職者たちは自分たちの勢力を利用してその計画を阻止するに違いないことを兄弟たちはよく承知していたので,できる限りの手を打って秘密裏に事を運びました。それにもかかわらず,僧職者に気づかれないようにしようとする努力は失敗し,とにかく僧職者は1週間ほど前にその計画を探知しました。そして突然,鉄道会社は私たちのための2本の特別列車の運転を渋るようになりました。そこで直ちに関係諸会衆はすべて,貸切りバスの手配をするよう指示されました。ところが僧職者たちはこのことをも聞き出し,近づいた問題の週末にはザクセン州外に通ずる道路すべてを警官によって厳重に監視させるよう手配しました。警察当局者は,聖書研究者たちがいっぱい乗った車をすべて止めさせ,長時間待たせて,その任務を遂行せずに帰宅せざるを得ないようにさせるための何らかの理由を得たようでした。
その間,鉄道会社は私たちがバスの手配をしたことを知り,そうなれば収益上かなりの損失を招くと判断し,結局最後のどたんばになって私たちのための2本の特別列車を運行させることに同意しました。出発予定のわずか2日前に起きた計画のこの最終的変更は僧職者には気づかれずに済みました。それで彼らが警官を動員して国道全部を監視させていたとき,2本の特別列車はライヘンバハ(フォクトラント)で連結し,午前2時ごろ1本の特別列車としてレゲンスブルク近郊に入りました。そこからは列車は各駅に停車し,兄弟たちが少しずつ下車し,ある人々は自転車を携えて行ったりして,田舎の区域に入って行き,そのような所でも伝道しました。
その日一日で驚くべき証言が行なわれました。というのは,寄付を受けて配布する文書だけでなく,無料で配る文書も参加者全員に十分供給されていたからです。兄弟たちはどの家にも何かを置いてくるよう努力すべく決意していたのです。逮捕されたため,その特別列車で帰宅できなかった兄弟たちもかなりいましたが,この運動に参加する特権にあずかった人たちは,以来その時のことを決して飽きずに何度となく語ってきました。私たちの敵対者たちもその週末の事はいつまでも忘れられずにいると言っても決して間違ってはいません。
銀行の破産
さて,失業や経済的不安定の増大するさ中で,ドイツおよび中部ヨーロッパにおけるわざを財政的にまかなう基金の大半を預金していた銀行が倒産しました。ドイツの支部だけでも,37万5,000マルクの損失を被りました。
協会は,1930年の夏にベルリンで開く予定にしていた大会を取り消さねばならなくなったことを諸会衆に知らさざるを得なくなりました。そして,諸会衆あてのその手紙の中で,文書の「生産も中断させられる」恐れがあることを指摘しました。ところが,この発表は警鐘のような効果をもたらしました。兄弟たちはその多くが失業していたため,財政的には非常に窮乏状態にあったにもかかわらず,出版物が途切れることなく確実に発行されるようにするため,限られた財源から得られる何がしかのお金はもとより,ベルリン大会用として既に貯えておいたお金を直ちに快く寄付しました。事実,結婚指輪その他の宝石や貴金属類を犠牲にして寄進した人々も少なくありませんでした。
その結果,銀行の倒産問題が生ずる前にわざを拡大するために立てられていた計画は妨げられませんでした。いいえ,その実施は延期されることさえありませんでした。こうして,1930年の春,それまでの私たちの地所に隣接していた別の土地と建物が購入されました。そして,新たに購入された土地に立っていた建造物は取り壊され,兄弟たちはその建物の資材をできるかぎり利用して,おのおの二人を収容する72の部屋と広い食堂のある新しい大きなベテルの建物を建設しました。
さらに増えた裁判事件
1930年中にはさらに434件の事件が裁判所に持ち込まれました。そのため,既に係争段階にあった事件と一緒にすると,今や1,522件の裁判事件が法廷に提出され,決着がつけられるのを待つことになりました。
しかし,私たちに法律違反者としての烙印を押そうとした宗教上の敵対者にとって1930年は困難な時期となりました。というのは,内務省が警察当局者すべてに対して出した4月19日付の回状には次のような一文が記されていたからです。「現在のところ同協会は専ら宗教的目的のみを追求しており,政治的活動は行なってはいない。……今後,特にわが国の行商法に対する違反の件で刑事訴訟を起こすことは慎むべきである」。
パリとベルリンにおける大会
1931年,ラザフォード兄弟はもう一度ヨーロッパ旅行を計画しました。そして,同年5月23日から同26日まではパリで,また5月30日と6月1日にはベルリンでそれぞれ大会が開かれることになりました。当時ドイツは経済的に貧しかったので,ラザフォード兄弟は,ドイツの南部およびラインラント州の兄弟たちをパリの大会に出席するよう招く取決めを提案しました。そのほうがベルリンまで旅行するよりも費用が少なくて済むからでした。そこで,ケルン,バーゼルおよびストラスブールを発つ特別列車が仕立てられました。兄弟たちはその取決めを本当に感謝しました。そして,たまたまそうなったのですが,パリに集まったおよそ3,000人の人々のうち,1,450人はドイツから来た人たちでした。
ベルリンの大会はスポーツ・パレスで開かれました。最初,出席者数はそれほど大きくはなるまいと考えられていました。まず経済上の危機的な事情がありましたし,第二にほとんど1,500人もの人たちがパリに赴いたという理由もあったからです。ですから,およそ予想もしなかった,ほとんど1万人もの人々が出席するのを見るのは何という大きな喜びだったのでしょう。
当時,あらゆる機会を捉えては,この世的な宗教上の種々の習慣を兄弟たちの間から除去することに努めたラザフォード兄弟は,既に以前の大会で自分の服装を利用して小規模ながら変革を引き起こしていました。彼はドイツを含め,ヨーロッパの兄弟たちが大会では特に黒い色の服装を好んでいることに気づいていました。男子は偽りの宗教組織に見られる習慣と全く同様,黒のスーツを着るだけでなく ― 葬式のさいには帽子も黒いのをかぶり ― また,黒いネクタイを付けていました。そのことを見て取ったラザフォード兄弟は非常に明るい色のスーツとそれに合わせてつける深紅のネクタイを買いました。彼がそうした服装をしてドイツにやって来て以来,多くの人々は黒い服を着るのをやめるようになりました。
さて,ベルリン大会に出席したラザフォード兄弟は,自分の写真やラッセル兄弟の写真が絵はがきその他の写真として,中には額縁にさえはめて多数売られていることに注目しました。会場の回りの廊下の数多くのテーブルの上にそうした写真が置いてあるのを見た同兄弟は,次に行なった講演の中でそのことを指摘し,出席者に対してそうした写真を買わないように勧め,それらの写真類を扱っていたしもべたちに対しては,写真を額縁から取り除いて焼き捨てるようきっぱりと指示したので,後にそれら写真類は処分されました。彼は人間崇拝を行なわせる恐れのあるものを一切排除したかったのです。
ベルリン大会に関連して,もち論ラザフォード兄弟はマクデブルクにある支部事務所をも訪れました。それ以前の訪問の場合と同様,このたびの訪問も気持ちをさわやかにし,解放感をもたらすそよ風のようでした。ラザフォード兄弟が訪問する少し前までは全部の部屋に同兄弟とラッセル兄弟の写真が掲げられていました。しかし今度はラザフォード兄弟がそれに気づくや否やそれらの写真はすべて取りはずされました。
ラザフォード兄弟はまた,何年間かの期間が経つうちに,ほかにも幾つかの事柄に気づきました。同兄弟だけでなく,ベテルの成員の相当数の人々も,バルツェライト兄弟の立場が危険なものであることを知っていました。同兄弟がりっぱな組織者であって,その指導のもとでドイツにおけるわざが優れた進歩を示したことは疑う余地のない事実です。しかし,彼の犯した大きな間違いは,そうした非常な発展をエホバの霊によるものとする以上に自分自身の能力のせいにしたことです。ベテルの食卓でのある食事のさい,バルツェライトはベテルの家族に対して,世の人々がいる所ではもはや彼を「兄弟」と呼んではならないと要請しました。そのような場合には「所長」と呼ばれることになりました。しかも彼は自分の執務室のドアに「所長」という標示をさえつけさせました。
そのころ,バルツェライトはエホバに対する誠実さの点で別の方面から脅威を受けました。彼は明らかにいつも迫害を恐れていました。彼はドイツの支部事務所の責任ある指導者として,「告発される聖職者たち」と題する決議文の配布に関連して起訴されていました。そして,確かに無罪放免の判決を受けたものの,今後そうした強烈な説明を協会の出版物に記さないよう裁判官から要請されるに及んで,バルツェライトは明らかにその忠告に従うことに決めました。というのは,「ものみの塔」誌やブルックリンから送られて来る他の出版物中の表現や説明があまり強烈すぎると思われる場合,「そのような箇所に手加減を加え」たからです。
物質主義に根ざした欲望も大きくなりはじめました。詩を書くことを楽しみにし,パウル・ゲルハルトという雅号を用いて自作の詩を「黄金時代」誌に発表していた彼は今度は,1冊の本を著わして,それをライプチヒで出版しました。次いで,その本が諸会衆の配布する文書類の一覧表に加えられたので,実情を知らない会衆はそれを注文したため,バルツェライト兄弟は相当な額の財政上の収益を得ました。同兄弟はまた,ある時には家族全員のためどころか,むしろ自分個人用としてテニスコートをベテル内に作りました。
また,新しい建物の建設をラザフォード兄弟の訪問中に行なわれる献堂式に間に合うよう仕終えるためにバルツェライト兄弟は,1930年の12月末までにベテルの奉仕者を165人から230人に増やしましたが,そのことで彼は正直に振る舞いませんでした。ベテルの成員の人数をラザフォード兄弟に認めてもらえないのではなかろうかと恐れたバルツェライトは,50人の兄弟たちを「伝道旅行」という名目で外部に送り出して実情を隠しました。戻って来たそれらの兄弟たちは,家に帰るか,それとも開拓奉仕に携わるかどちらを希望するかを尋ねられました。それらの兄弟たちの多くは,関係しているのはエホバのわざであって,人間の個性の問題ではないことを悟り,その機会を捉えて開拓奉仕を始めましたが,他の人たちは苦々しい思いを抱かされて去って行きました。
増大する迫害
1931年のこと,ババリア州の当局者たちは再び先頭に立ってエホバの民に対する戦いを開始しました。当局者側は同年3月28日にできた,政治的騒乱に対処する非常事態令を誤用して,突如聖書研究者たちの文書を発禁処分に付す機会を見つけました。ミュンヘンでは1931年11月14日に協会の書籍は没収されました。それから4日後,ミュンヘンの警察当局はババリア州全域に適用される声明を発表して,聖書研究者たちの配布していた文書すべてを発禁処分に付しました。
当然のことですが,兄弟たちは直ちに上訴する処置を講じました。1932年2月には上ババリアの行政当局がその発禁処分を支持しました。協会は直ちにその件でババリアの内務省に訴えましたが,1932年3月12日にその訴えは「根拠なし」として退けられました。
法廷の下したその裁定について言えば,1932年9月14日,マクデブルクの警察庁長官は私たちを弁護する意見を表明して次のように述べました。「このことにより我々は,国際聖書研究者協会は専ら聖書および宗教上の事柄にのみ関係している団体であることを確言する。同協会は今までに政治活動を行なってはおらず,国家に対する敵意を示すような傾向は少しも示したことがない」。
しかし月日が経つにつれて問題は増大し続けました。ドイツの他の州でさえもそうでした。当時,パウル・ケッヘルが6人の特別開拓者と一緒にジンメルンに来ていました。それは短くした「写真-劇」をその町で二晩にわたって上映するためでした。しかし彼はその上映を中止させられました。というのは,竪琴を携えたダビデが写し出され,その詩篇の一つが引用されたところ,場内全体が狂乱状態に陥ったためでした。そして,出席者はほとんど全部がヒトラーの突撃隊員だったことがすぐわかりました。
ザール地方でも同様の経験がありました。1931年12月のこと,協会のわざを妨げないよう,その地域の警察当局者に通知するため,行政当局に対して訴えがなされました。そして,その指示が出されたのですが,それに憤慨した僧職者たちは,聖書研究者たちに対する警告の言葉を毎週のように説教壇から発するほどになりました。敵意はいよいよ募り,1932年の終わりまでには,2,335件もの裁判事件が係争段階に持ち込まれるに至りました。それにもかかわらず,文書類の出版に関するかぎり1932年はそれまでの最良の年となりました。
1933年1月30日,ヒトラーがナチ・ドイツの首相の地位を得ました。そして,同年2月4日,『公共の秩序と安全を危くする』文書を差し押える職権を警察に与える法令を出しました。その法令はまた,集会および出版の自由をも拘束するものでした。
残れる者の感謝の証言期間
同年の記念式の日付は4月9日に当たったので,記念式と関連して「残れる者の感謝の証言期間」の活動が4月8日から同16日まで行なわれる計画が立てられました。そして,「危機」と題する小冊子を用いて世界的な証言が行なわれることになりました。
しかし,ドイツの兄弟たちはこの八日間にわたる証言期間の活動を平安のうちに仕終えることはできませんでした。「危機」と題するその小冊子を用いた運動は,4月13日ババリア州でのわざの禁止処分を招きました。それに続いてザクセン州では4月18日に,またチューリンゲン州では4月26日,そしてバーデンでは翌5月15日にそれぞれわざが禁止され,さらにドイツの他の州でも同様の事態が次々に生じました。当時,マインツで開拓奉仕を行なっていたフランケ兄弟が伝えるところによれば,60人余の伝道者で成るその地の会衆には配布用の小冊子が1万冊ありました。それを配布するにはじん速に行動しなければならないことを知った兄弟たちは,それらの小冊子のうち6,000冊をその運動の初めの3日間以内に配れるよう,時間を組織的また有効に費やす計画を立てました。ところが,四日目には多くの兄弟たちが逮捕され,家宅捜査が行なわれました。しかし,警官はほんの数冊の小冊子しか見つけ出すことができませんでした。というのは,兄弟たちは警察側のそうした処置を考慮に入れて,他の4,000冊の小冊子を安全な場所に隠しておいたからです。
逮捕された兄弟たちは全員その日のうちに釈放されました。彼らはすぐさま組織的活動を取り決めて,その4,000冊の小冊子を,配布活動に参加できる会衆内の兄弟たちすべてに配りました。その晩,兄弟たちは自転車に乗り,約40キロ離れたところにあるバト クロイツナハ市に行って,その残りの小冊子を一般の人々に配布し,あるものは無料で配りました。この処置が適切だったことは翌日になってわかりました。というのは,その間,ゲシュタポ(ナチ・ドイツの秘密国家警察)が,聖書研究者として知られている人たちすべての家を捜査していたからです。しかし,その1万冊の小冊子はすべて既に配布されてしまいました。
マクデブルクでは政府当局者が支部事務所に通達を出し,表題の載せられている表紙のさし絵(血のしたたり落ちる剣を持った兵士を描いた絵)は気に入らないので,その表紙を切り取るよう要求しました。妥協を好む態度をそれまでも繰り返し示していたバルツェライト兄弟は,直ちにその色刷りの表紙を小冊子から取り去るよう指示しました。
その証言の週は実に気のもめる一週間でした。敵側は日ごとに,容赦ない力をふるって攻撃する決意をいよいよ明らかに表わしました。それだけに,報告が集計されて,記念式の祝いの出席者数が前年の1万4,453人に比べて合計2万4,843人であることがわかったときは本当に励まされました。その証言期間中に活発に働いた伝道者の人数も同様に大きな喜びをもたらすものとなりました。それは1年前の「王国」と題する小冊子の運動のさいの伝道者数1万2,484人とは対照的に1万9,268人に達したのです。そして,八日間にわたるこの運動の期間中に「危機」と題する小冊子は合計225万9,983冊配布されました。
ゲシュタポによるベテル・ホームの捜査
同年4月24日,ナチ当局は協会の事務所と工場を占拠しましたが,それは私たちのことを共産主義運動と結びつけられるような資料を見つけたかったからです。その種の資料を入手できるとすれば共産主義者の所有する建造物に関して既に行なっていたようなこと,つまり新しい法律を適用して協会の建物や地所すべてを没収して国家のものにすることができたのです。建物を捜索した後,警察はある晩政府当局者に電話し,罪証物件は何も見いだせなかったことを伝えました。しかし,「必ず何かを捜し出せ!」との命令を受けました。とはいえ,何も捜し出せなかったため,協会の建物と地所は4月29日に兄弟たちに返還せざるを得ませんでした。その同じ日にブルックリンの事務所はアメリカ政府を通して,(アメリカの法人団体の所有する)その建物や地所に対する不法差押えに抗議しました。
1933年6月25日のベルリン大会
1933年の夏までにはドイツの大多数の州でエホバの証人のわざは禁止されました。兄弟たちの家は定期的に捜索され,多くの兄弟たちは逮捕されました。単に一時的ではありましたが,霊的な食物のよどみない流れは部分的に妨げられました。また,多くの兄弟たちはいつまでわざを続けることができるのだろうかとなおも尋ねていました。こうした事情のもとで,諸会衆は6月25日にベルリンで開催される大会に出席するよう,そのほんの少し前に知らせを受けました。各地でわざが禁止されていたので大勢の人々の出席は無理だと考えられたため,会衆は少なくとも一人あるいは数人の代表者たちを出席させるよう勧められました。ところが,7,000人もの兄弟たちが集まることになりました。多くの人々は出席するのに3日もかかりました。ベルリンまでの道のりを自転車で走り通した人たちもいましたし,他の人々はトラックでやって来ました。活動を禁じられた団体にバスの便を供することをバス会社が断わったからです。
ラザフォード兄弟は大会の何日か前に,協会の地所や建物の安全を確保するにはどうすればよいかを知るため,ノア兄弟と一緒にドイツを訪れ,バルツェライト兄弟を通して同大会に提出し,出席者たちの賛同を得て採決する宣言文を用意しておきました。それは私たちの行なっていた宣べ伝えるわざに対するヒトラー政府の干渉に抗議したもので,ナチ国家の大統領をはじめ,政府高官全員に,その宣言文の写しを1部できれば書留めで送り届けることになりました。ラザフォード兄弟はその大会の始まる数日前にアメリカに戻りました。
しかし,出席していた人たちの多くはその「宣言」に失望させられました。というのは,その内容は多くの点で兄弟たちの期待していたほど強烈なものではなかったからです。当時までバルツェライト兄弟と密接な関係を持って働いていたドレスデン出身のミュツェ兄弟は後に,その原文の真意を弱めたことでバルツェライト兄弟を非難しました。政府機関との関係で問題を避けようとしてバルツェライト兄弟が協会の出版物の明確で間違えようのない言葉づかいに手加減を加えたのは,これが最初ではありませんでした。
相当数の兄弟たちはまさにそうした理由のゆえにその宣言の採択を拒否しました。事実,以前の巡回旅行者でキッペルという兄弟は採択を求めるためのその宣言文の提出を断わったので,別の兄弟が代わって提出しました。後日,バルツェライト兄弟は同宣言が満場一致で採決された旨ラザフォード兄弟に伝えたとは言え,正しくはそうは言えませんでした。
大会出席者は疲れて家に帰りましたが,失望させられた人は少なくありませんでした。とは言え,兄弟たちはその「宣言」書を210万部携えて帰宅し,早速それを配布し,政府の責任ある地位に立つ大勢の人々に送りました。ヒトラーに宛てて送られたその宣言書には,一部次のように記された手紙が添付されました。
「ものみの塔協会のブルックリンの会長事務所はこれまでも,また現在もドイツに対してきわめて友好的態度を取っております。1918年にはアメリカの当協会の会長および理事会の七人の理事は合計八十年の懲役刑を課せられましたが,それは同会長の編集する二つの雑誌がアメリカでドイツに対する戦争宣伝に供されることを会長が拒んだためでした」。
その宣言の真意は弱められ,また兄弟たちの多くは同宣言の採択に心から賛同することはできなかったとは言え,それでも政府は憤り,その宣言書を配布した人たちに対する迫害を開始しました。
再び占拠されたマクデブルクの事務所
プロイセンでわざが禁じられてからわずか1日の後,ベルリンで採択された宣言書がドイツの至る所で配布されましたが,それはヒトラーの警察に行動を起こさせる合図となりました。6月27日には警察当局者全員に対して,『あらゆる地方団体や会社を直ちに捜索し,国家に対する敵意を示す資料を一切没収する』よう命ぜられました。翌6月28日,マクデブルクの事務所の建物は30人のヒトラー突撃隊員により占領され,彼らは印刷工場を閉鎖し,建物の屋上にかぎ十字の旗を掲げました。警察当局者側の出した公式の制令によれば,聖書を研究したり,協会の建物や地所に関して祈ったりすることさえ禁じられました。6月29日にはこの処置がラジオを通じてドイツ全土に知らされました。
スイスの支部の監督ハルベク兄弟が文書の焼却処分を阻止しようとして精力的な努力を払ったにもかかわらず,8月21,23そして24日にわたり合計6万5,189キロもの重量の書籍や聖書や写真類が協会の工場から運び出され,25台のトラックで運搬され,マクデブルクのはずれで公に焼却処分に付されました。それら文書類の印刷費はおよそ9万2,719.50マルクにも達しました。それに加えて,各地の会衆でもおびただしい数の出版物が押収され,焼却その他の方法で処分されました。例えば,ケルンの会衆では少なくとも3万マルク相当の出版物が焼却処分に付されました。1934年6月1日号の「黄金時代」誌は,処分された物財(家具,文書その他)の価格は恐らく総額200万ないし300万マルクに上るであろうと報じました。
もしも,文書類の大半を船その他の方法でマクデブルクから運び出し,他の適当な安全な場所に貯蔵しなかったなら,損害はそれよりもなおいっそう大きくなっていたことでしょう。こうして,相当の量の文書類を何年もの間,秘密警察の目から隠すことができました。それらの文書の多くはその後何年かの間,地下活動による宣べ伝えるわざに際して利用されました。
次いで,アメリカ政府の介入により同年の10月,協会の建物は返還されました。1933年10月7日付の差押え解除書類はこう述べています。『協会の建物および地所は差押えを解除され,完全に返還され,自由に使用できるようになったが,文書を印刷したり,集会を開いたりするなどの活動をそこで行なうことは依然として一切禁じられていた』。
『世との友好関係』
キリスト教世界の僧職者たちは,エホバの証人を迫害するヒトラーと彼の努力を支持する態度を公に示すのを恥ずかしくは思いませんでした。1933年4月21日付,オシャツェル・ゲマインニュツィゲ誌が報じたように,ルーテル派の牧師オットーは4月20日,ヒトラーの誕生日を祝ってラジオを通じて行なった演説の中で次のように述べました。
「ザクセン州のドイツ・ルーテル教会は,この新たな情勢に関して合意に達したことを自覚しており,わが国民の政治指導者たちときわめて親密な関係を維持して協力しており,イエス・キリストの昔の福音の威力を全国民のために役立たせるよう今一度努力いたします。このような協力の最初の成果として,ザクセン州における熱心な聖書研究者たちの国際協会とその下部組織の活動が本日禁止されたことをお知らせできます。そうです,これは神の導きによってもたらされた何という転機でしょう。今日までのところ,神は私たちとともにいてくださいました」。
地下活動の始まり
ナチ党が政権を取った最初の年には地下活動による証言のわざは実際のところ組織されぬまま行なわれ,小グループによる集会がどこでも行なわれたという訳ではありませんでしたが,それでもゲシュタポは新たな理由を見つけて兄弟たちを逮捕しました。
最初に兄弟たちが逮捕され,家宅捜索が行なわれて間もなく,物事を客観的に考えた人たちは,そうした処置はいっそう激しい迫害を展開するほんの始まりにすぎないことに気づきました。こうした問題を交渉で解決しようとするのは全く無意味なことを承知していました。取り得る唯一の正しい道は,真理のために戦うことでした。
しかし,相当数の人々は躊躇し,エホバは必ず何らかの方法を講じてご自分の民にそうした迫害を被らせないようにしてくださるに違いないのだから,時機を待つのが最善の策だと考えました。そのグループの人々がぐずぐずして時間を浪費し,何らかの処置を自分たちで講じて事態を悪化させないようにしようと気をもみながらいろいろ試みている一方で,他の伝道者たちは意を決してわざを続行しました。勇敢な兄弟たちは間もなく自分たちの家で小グループに分かれて集会を開き始めました。もっとも,そのために,やがては逮捕され,厳しい迫害を受けるようになることは承知の上でした。
幾つかの場所では,兄弟たちは近隣の国々から常時ひそかに運び込まれてくる数冊の「ものみの塔」誌を謄写版で印刷し始めました。その取決めを最初に設けたのは,ケムニッツ出身のカール・クライスです。彼は原紙を切り終わると,それをシュヴァルツェンベルクのボシャン兄弟の所に持って行き,二人で謄写版を使って印刷しました。当時この面で特に活躍した人たちの中にはヒルデガルト・ヒーゲルやイルゼ・ウンテルデルフェルがいます。それらの人たちは,わざが禁止されるや否や,神から与えられた自分たちの使命の遂行を何ものによっても妨げられるままにはすまいと決心しました。ウンテルデルフェル姉妹はモーターバイクを買って,ケムニッツとオルベルンハウの間を往復しては,謄写版刷りの「ものみの塔」誌を兄弟たちのもとに運びました。近くにいる人たちの所へは自転車で訪ねて,あまり人目を引かないようにしました。
ヨハン・ケルブル兄弟は謄写版刷りの「ものみの塔」誌500部をミュンヘンで作る取決めを設け,次いでそれらの雑誌を兄弟たちの間で,またババリア森の広範な地域の兄弟たちの間にも配りました。
ハンブルクではニーデルスベルク兄弟が早速その面で率先して事を運びました。彼は多発性硬化症にかかる以前の何年もの間巡回旅行者として奉仕し,そうした障害があったにもかかわらず,できるかぎりの事を行ないました。さて,この試練の時期にさいして,兄弟たちは彼を訪ねては喜びを得ました。というのは,訪問すると必ず信仰を強められる結果になったからです。ほどなくして,兄弟たちに対する愛に動かされた彼は,兄弟たちが霊的な食物を再び確実に定期的に受け取れるような処置を講じました。彼は自宅で「ものみの塔」誌の謄写版刷りの製作を始めたのです。彼は原紙の切り方や謄写版の操作方法をヘルムト・ブレンバハに教え,次いで自分がいなくとも仕事をやれるようにし,今度はシュレスウィヒ・ホルシュタイン州西海岸に旅行し,その地方の諸会衆を訪問して兄弟たちを励まし,「ものみの塔」誌を彼らに届ける手はずを整えて来るという計画を他の兄弟たちに話しました。そして,どうすれば雑誌を送れるかについてもう一度兄弟たちと慎重に話し合い,また彼の通信文から,雑誌を各会衆に何冊送るかを判読する暗号を兄弟たちと一緒になって工夫しました。
1934年1月6日,ニーデルスベルク兄弟は病身を押して家を後にしました。杖にすがって力をふりしぼってやっと歩ける状態でしたが,エホバにすべてを委ねて出かけました。幾つかの会衆を訪問した後,同兄弟からの最初の暗号電報がハンブルクに届き,謄写印刷による「ものみの塔」の写しが送られ始めました。彼がメルドルフの近くに着いたときのことですが,そのほんの少し前に同地方でよく知られていたある兄弟が亡くなりました。そして,近隣の諸会衆から多数の兄弟たちがその葬式に出席することになったので,ニーデルスベルク兄弟は葬式の話をするよう依頼されました。彼はその機会を利用して,何か月もの間全然集会に出席できなかった同席の兄弟たちを強める目的で強力な話を行ないました。予想どおり,たいへん多くの人々が出席し,彼らは聞いた事柄により大いに励まされて,それぞれ割り当てられている区域に帰りました。
もち論,兄弟たち以外の人々も出席していましたし,ゲシュタポの将校たちさえ列席していました。ニーデルスベルク兄弟が話を終えた後,それら将校たちは同兄弟の住所氏名を求めましたが,彼を逮捕しようとはしませんでした。明らかに,事情が事情だけに,あえて逮捕しようとはしなかったのです。それで,彼はその旅行を続けることができましたが,それは同兄弟にとっていよいよ困難なものになってゆきました。そして,ヘンステットのトーデ兄弟のところに着いてすぐ,突然激しい頭痛に襲われ,その後まもなく脳いっ血で亡くなりました。こうして,彼は最後の力を投じて,精神的励ましを与える霊的な食物が兄弟たちに供給されるよう取り計らうことに尽くしたのです。その二週間後,ゲシュタポは同兄弟を逮捕するためハンブルク市アルトナにある彼の自宅に現われました。
ドイツではこうして「ものみの塔」誌が謄写版刷りで作られたほかに,同誌はスイス,フランス,チェコスロバキア,そうです,ポーランドからさえドイツに送り込まれ,しばしば大きさを変えたりして,さまざまの形で現われました。最初,「ものみの塔」誌の多くの記事は,「ヨナダブ」という表題を付して,スイスのチューリヒから送り込まれました。ゲシュタポがこの方法に気づいた後,ドイツ国内の郵便局すべてに対して,その表題のある郵便物はすべて没収し,その雑誌の受取り人に対しては適当な処置を取るよう通達されました。その結果,多くの場合,受取り人は逮捕されました。
その後,「ものみの塔」誌の表題や包装方法は事実上毎号変えられました。たいていの場合,「ものみの塔」誌の記事の主題が用いられ,例えば,「三つの宴」「オバデヤ」「戦士」「時」「神殿の歌い手」その他の表題が普通1回だけ出ました。それでも,そうした雑誌の幾冊かはゲシュタポの手に落ち,その都度ゲシュタポはその特定の雑誌が発禁処分に付されたことを伝える回状をドイツ中のあらゆる警察署に送りました。しかし,たいていの場合,その情報は手おくれになりました。なぜなら,その時までには,外観も表題も全く異なった別の「ものみの塔」の記事が既に現われていたからです。それで,ゲシュタポは激しい憤りを抱きながらも,戦術の点ではエホバの証人のほうが一手先んじていることを認めざるを得ませんでした。
「黄金時代」誌についても同じことが言えました。しばらくの間,同誌は発禁処分に付された雑誌のリストには載せられませんでしたが,後日,正式に発行を禁止されてからは,普通外国の兄弟たちから,それも特にスイスから個人的に送られました。それらの雑誌を郵送する際にはいつも,必ず宛名は手で書き,また毎回別の受取り人に宛てて送るようにしました。
ゲシュタポはこうした文書類の供給源を切り断とうとする試みに失敗すればするほど,兄弟たちを取り扱う彼らの方法は残忍さを加えるようになりました。ゲシュタポはたいてい何らの理由もなく兄弟たちの家を捜査し,その後兄弟たちを逮捕しました。警察の本部に連行された兄弟たちは,何らかの罪を強制的に認めさせようとする残忍な仕打ちを受けました。
「自由」選挙
一般の人々を脅すために,それも特にエホバの証人を目標にして証人たちに強制的に妥協させようとして行使された武器は,いわゆる「自由」選挙なるものでした。強制投票を拒んだ人たちは,「ユダヤ人」「祖国に対する裏切者」また「ならず者」として告発されました。
オシャツ(ザクセン州)出身のマクス・シューベルトは選挙管理人たちの訪問を5回受けました。彼らは選挙当日,同兄弟を投票所に連れて来たかったのです。同兄弟の妻も,同様の意図を持つ婦人たちの訪問を受けました。しかし,シューベルト兄弟はそのたびに,自分はエホバの証人であって,エホバを支持しているので,それで十分であり,さらにだれか他の人のために投票する必要はないことを訪問者に告げました。
彼はそのために翌日ひどい目に遭いました。同兄弟は駅の改札係だったので,いつも人々と接していましたが,その日にかぎって人々は彼に対して決まって,「ヒトラー万歳」というあいさつを行ないました。同兄弟は,「こんにちわ」とか,その他同様のあいさつを返しましたが,何か「不穏な空気」が流れているのを感じたので,昼食のさいその事について妻と話し合い,万一の事態に備えるよう妻に告げました。その日の午後,勤務を終えた後,5時ごろ,警官に逮捕され,国家社会党の地方所長の家に連行されました。その家の戸口には二頭立ての小型の馬車が止まっていました。すると,シューベルト兄弟は無理やりその馬車に乗せられ,手に手に燃えるたいまつを持って乗っていた数人の突撃隊員の中に立たされました。そして,前に立った一隊員は角笛を持ち,後ろには太鼓を持った隊員が立ち,二人が交互に警報を発したので,人々はみな出て来てその馬車が進むのを眺めました。馬車に乗っている突撃隊員たちのうちの二人は,「私は投票しなかったので,ならず者で,祖国に対する裏切者です」と書いた大きな看板を掲げました。ほどなくして,馬車の後ろについて来た人々は一群となって,その看板に書かれた言葉を繰り返し唱え,その言葉を言い終わるたびに,「彼はどこに行くべき人だろうか」と問うと,群衆の中の子供たちは一斉に,「収容所行きだ!」と叫びました。シューベルト兄弟はこうして人口約1万5,000人のその町の中で2時間半もの間引き回されました。翌日,ルクセンブルクのラジオ放送はこの事件について放送しました。
兄弟たちの中には行政事務に携わっている人たちもいました。ところが,それらの兄弟たちは「ドイツ式の敬礼」をしたり,選挙や政治的示威運動に参加したりしなかったので,1934年の夏以来政府は聖書研究者たちの活動を全国的に禁止する法律を成立させて,彼らを行政事務の仕事から追放できるようにする計画を立てていました。彼らを追放するためには,単なる地方の州の法律ではなく,国の法律によってその活動を禁止することが必要でした。1935年4月1日,そのような法律が制定されました。しかし,一部では個々の官庁が既におのおの独自の権限に基づいて処置を取っていました。
フォルツァイムで市役所の会計官として勤務していたルートウィヒ・スティッケルは1934年3月29日,次のように述べた一通の手紙を市長から受け取りました。「私は,あなたが去る1933年11月12日に行なわれたライヒスタグでの選挙の際に投票を拒否したかどで,あなたの罷免を求める刑事訴訟手続きを開始しました。……」。スティッケル兄弟は長文の手紙をしたためて自分の立場を説明したものの,実際には判決は既に言い渡されており,8月20日付で解雇通告を受けました。
当局者の目標は,エホバの証人を職場から解雇して追放し,その会社を閉鎖し,専門職に携わるのを禁じて,生計を立てる手段を証人たちから剥奪することでした。
マインツ出身のゲルトゥルド・フランケもそのことに気づきました。それは彼女が,1936年に夫の五回目の逮捕に遭遇し,警察は二度と再び彼を釈放する考えがないことを秘密警察から告げられた後のことでした。フランケ姉妹はおよそ5か月間投獄されましたが,釈放された後,仕事を捜すため職業紹介所に行きました。しかし,投獄されたことのある自分をだれも雇ってはくれないことを知りました。そして,最後にあるセメント会社が仕方なく彼女を受け入れました。2週間後,自分が同意した訳でもないのにドイツ労働戦線に加入させられ,その会費が給料支払小切手から差し引かれているのを知り二度びっくりさせられました。その組織の政治的な目的を知った彼女は,直ちに事務所に行って,自分が何ら認めていない組織のために自分の給料からお金が差し引かれたことに対して苦情を述べ,事態を正しく処理してもらいたいと要請しました。その結果,彼女は即刻解雇されてしまいました。そして,再び職業紹介所に行ったところ,就職の世話はおろか,失業手当ての支給も一切行なえないと言われました。労働戦線に加入するのを拒んだからには,どのようにして暮らして行くかは本人の問題だったのです。
試練に直面した年若い人々
エホバの証人の子供たちが教育を受ける機会を奪われた例はおびただしい数にのぼりました。ヘルムト・クネラーが自ら述べた経験の一部をそのままここに引用します。
「私の両親は,ドイツにおけるエホバの証人の活動が禁じられた矢先,エホバに対する献身の象徴としてバプテスマを受けました! 私について言えば,その禁令が発表された時,つまり私が13歳のおり,決定の時が来ました。学校では国旗敬礼に関連してしばしば決定を迫られ,その都度私はエホバに対する忠実と献身の立場を支持する決定をしました。そうした事情のもとでは高等教育を受けるために進学することなど考えられなかったので,シュツットガルトで実習生として商業を勉強し始めました。そのために毎週2回商業学校に通いましたが,その学校では毎日国旗掲揚式が行なわれていました。私はクラス中で一番背が高かったものですから,国旗敬礼を拒んだ私は,もち論不都合なことに人々の注意を引きました。
「また,先生が教室に入ると,生徒は起立して右手を上げて,『ヒトラー万歳』と言ってあいさつをしなければなりませんでしたが,私はそうしませんでした。当然のこととして先生は私にばかり注目し,しばしば次のようなやり取りをする場合が生じました。『クネラー,ここに来い! お前はどうして,「ヒトラー万歳」と言ってあいさつをしないのか』。『先生,私の良心が許さないのです』。『なんだと? このけがらわしい奴め! おれから離れろ。臭い奴だ,もっとずっと離れろ。いやらしい奴だ! 裏切者め!』などと言われました。その後,私は別のクラスに移されました。父が校長に会って話したところ,次のような独特の説明を聞かされました。『貴下が頼っている神は,果たして一片のパンでも与えてくれますかな。アドルフ・ヒトラーは与えることができ,またそうし得ることを実証していますぞ』。つまり,国民はヒトラーに敬意を払い,『ヒトラー万歳』と言って彼にあいさつしなければならないという訳でした」。
実習生としての勤務を終えた後,第二次世界大戦が勃発し,クネラー兄弟は兵役に召集されました。彼はその時のことについて次のように伝えています。
「1940年3月17日,私は軍隊に徴兵されました。どんなことが起きるかを私は長い間考慮に入れていました。そして,徴兵センターに出頭はしても,宣誓を拒否すれば,私は軍事裁判に付されて銃殺されるだろうと考えました。実際,私は強制収容所に送られるよりも銃殺されるほうがましだと思いました! ところが,そういうことにはなりませんでした。私は軍法会議で裁かれることなく拘禁され,パンと水の配給を受けました。5日後,ゲシュタポが私のところにやって来て,私はある所に連れて行かれ,数時間にわたる審問を受け,そこでさまざまの脅迫を受けました。その夜,拘置所に戻された私は非常に幸福でした。もはや恐れの気持ちはみじんもなく,あるのはただ喜びと,どんな前途が開けるのか,またエホバはどのようにしてもう一度私を助けてくださるのだろうかという期待の気持ちだけでした。3週間後,ゲシュタポの上層官憲が私に令状を読んで聞かせましたが,それによれば,私が国家に対して敵意のある態度を取っており,また活動を禁止された国際聖書研究者のために活動する恐れがあるゆえに,私を保護拘留処分にするというものでした。つまり,『強制収容所』に入れられることを意味しました。ですから,私が期待していたのとは全く逆の結果になりました。こうして,6月1日,私は他の囚人たちと一緒にダハウ強制収容所に投げ込まれました」。
クネラー兄弟はダハウだけでなくザクセンハウゼンでの生活も経験し,後には他の多くの囚人たちと一緒にイギリス海峡のチャンネル諸島のアルデルニーに移されました。その後,劇的な旅行をしてオーストリアのシュタイルにたどり着き,そこで一緒にいた人々とともに遂に1945年5月5日解放されました。非常な迫害の対象とされたクネラー兄弟はその幾年もの間エホバへの献身を水のバプテスマで象徴する機会についに恵まれなかった事実からも,それがどんなに激しい動乱の時であったかがわかります。もち論,そうした非常に困難な状況のもとで何年間も忠実を保ったことは,彼がエホバに献身していたことを証明するものでした。彼とともに生き残って家に戻った少数のグループの中には,ほかにも9人の兄弟たちがいましたが,それらの人たちも皆,強制収容所で4年から8年もの間忠実に忍耐し,今やパッサウでバプテスマを受ける機会に恵まれて感謝しました。
親から引き離された子供たち
ストレンゲ兄弟姉妹はその動乱の時期の幾年かの間,エホバの証人がその合法的な権利の享受をいかに拘束されたかを経験しました。ストレンゲ兄弟が逮捕され,3年の懲役刑に処せられる一方,子供たちとともに後に残されたストレンゲ姉妹は,あらんかぎりの力をふりしぼって物事に対処しなければならない事態に陥りました。姉妹はこう伝えています。
「息子は学校で愛国主義的な歌や詩を暗誦させられることになりましたが,それは宗教上の信念に反するものでしたから,息子は暗誦するのを拒みました。すると,担任の先生は二人の少年に命じて,息子を囚人同様にして,ハンネベルクさんという校長先生のもとに連れて行かせました。校長先生は息子の指を『しりに差し込めなくなる』ほど青黒くふくれ上がって血だらけになるまで打たせてやると言って脅しました。そして,続けざまに息子を脅迫し,父親には二度と会えなくなるぞ,と言って脅しました。終わりに校長先生は,十歳のこの少年に,兵役を拒否するかどうかについて尋ねました。グンターは聖書のことばを引き合いに出して,『剣を取る者は剣で滅びます』と言いました。そこで,校長先生は『普通の仕方で罰する』ようグンターの担任の先生に命じました。その後,校長先生は,5分後に警察に連絡し,警官を送ってグンターを家で逮捕させ,感化院に入れさせてやると言って息子を帰宅させました。息子が家に帰るや否や警察の大型車が家の前に現われ,数人の警官が荒々しい態度で入口の戸を開けるよう要求しましたが,私はドアを開けませんでした。しばらくすると,警官は退いて隣の家に行き,私に対する罪証となるような事柄を述べるよう,その家の主婦に要求しました。彼女は罪証となるような事柄を何も述べられませんでしたが,あまりにも長時間圧力を加えられたため,とうとう最後に,私たちが毎朝歌をうたい,祈りをささげているのを聞いてきたことを認めました。すると,警官は立ち去りました。
「翌日,午前10時30分ごろ,警官はまたやって来ました。私はドアを開けようとはしなかったので,ゲシュタポの将校は,『聖書研究者の畜生め! 戸を開けろ!』とどなり散らしたかと思うと,去って行き,近くの錠前屋を連れて来て,戸を壊して開けさせました。
「ゲシュタポの一人は連発拳銃を私の胸に突きつけて,『子供たちを渡せ』と叫びました。しかし私は子供たちをしっかりと抱き寄せました。子供たちは身の安全を求めて私にしがみつきました。そして,無理やりに引き離されそうになるのを恐れるあまり,私たちは声を限りに助けを叫び求めました。
「窓は開いていたので,家の前に集まっていた大勢の人々は,私が死にもの狂いになって,『私は非常に苦しい思いをして生んだわが子をあなたがたには決して渡せません。どうしても奪いたいのなら,まず最初に私をなぐり殺しなさい』と絶叫するのを聞きました。そのあと,興奮がこうじて私は気絶しました。正気を取り戻した後,私は3時間にわたってゲシュタポによる尋問を受けました。ゲシュタポは私の夫に対する罪証を私から得ようとしました。しかし,私が発作を起こして気絶したため,その尋問は数回にわたって中断しました。その間,家の前に集まった群衆は増える一方で,しかも人々の騒ぐ声はますます大きくなり,私の家で起きている事柄に対する反感が表わされるようになったので,遂にゲシュタポは所期の目的を果たせぬまま,またもや退散して行きました。ところが今度は,ひそかに子供を奪い去る方法を企てました。何日かの後,明らかにその計画を遂行する一環として,私はエルビングの特別法廷に出頭するよう求められました。その同じ日に私の子供たちはその後見人として指名された人のところに行かねばならなかったのです。私は最悪の事態のことを考えて,その前日ふたりの子供を連れて問題の後見人を訪ねてみました。その後見人の話によれば,私の十五歳の娘は勤労奉仕隊に入れられ,十歳になるグンターは国家社会主義の線に沿って教育を施すある家庭に預けられることになっていました。そして,もし二人がそれを拒むなら,両人とも感化院に入れられるというのです。興奮した私はこう尋ねました。『いったい私たちは既にロシアで生活しているのでしょうか,それともやはりドイツにいるのでしょうか』。すると,彼は答えました。『奥さん,あなたの今の言葉を私は聞かなかったことにしておきます。私も教会員の家族の者で,私の父は牧師なのです!』。せめて娘を見習生としてどこか別の所に預けてもらいたいと願ったところ,その弁護士は次のように鋭く言い返しました。『私はあなたの件で問題を起こしたくありません。聖書研究者の子供一人を扱うよりもむしろ私は,ほかの子供らを20人扱うほうがましです』。
「土曜日がやって来ました。それはエホバとその約束に対する私の信仰を弁明するためにエルビングの裁判所に行く予定の日でした。私は自らを強め,またそうすることによって,もう一度自分の心中を打ち明けることができるようにと願い,出かける前に刑務所にいる夫を訪ねました。夫が連れて来られた時,私はその両腕の中にくずおれて,むせび泣きました。それまでの何日間かの悲しみや恐ろしいできごとに関する記憶がまたもや私の内にどっと甦ってきたのです。夫は懲役3年の刑に処され,子供たちは私から引き離され,その時点で私たちは互いに分かれ分かれにされていたのです。私は気力をくじかれ,忍耐の限界に達していました。しかし,さまざまの苦しみに遭遇しながら,なおかつ神に対する破れることのない忠実を保ち,あらゆるものを失ったにもかかわらず,なされた悪事に関して神を非難しなかったヨブの経験について語ってくれた夫の声は,まるでみ使いの声のようでした。また夫は,たび重なる審問や裁判のもたらした厳しい試練に遭った後,やはりエホバからどんなに豊かに祝福されたかを話してくれました。夫の話を聞いて私は新たな力を与えられました。今や私は頭を上げて聴聞会に赴き,私の子供たちがエホバとその王国に対し,また自分たちの信仰に対して先生や他の高官の面前でいかに熱心に証言したかに関する説明を誇らしい気持ちを抱いて聞きました。そして,『ドイツの法廷』は判決を言い渡しました。国家社会主義の考えに従って子供を養育せず,またエホバを賛美する歌を子供たちと一緒に歌ったという理由で,私は懲役8か月の刑に服さねばならなくなりました」。
同級生からも排斥される
カールスルーエ出身の十二歳のヴィリ・ザイツ兄弟は次のような異なった経験をしました。彼はこう伝えています。
「これまで耐え忍ばねばならなかった事柄は言葉ではとても表わし尽くせません。学校では私は仲間の生徒たちからたたかれてきました。ハイキングが行なわれるときは,同行することがたとえ許されても,私は独りで歩かねばなりません。また,私にもやはり学校の友だちがいますが,そのような友だちに話しかけてもならないのです。言いかえれば,『私は汚い犬のように嫌われ,あざけられているのです』。神の王国が間もなく到来するということが私の唯一の慰めとなっています……」。
そして,1937年1月22日,ヴィリは,「ドイツ式の敬礼をしたり,愛国主義的な歌をうたったり,また学校での祝賀行事に参加したりすることを拒んだかどで」放校されました。
祈りをささげることも歌うことも罪とされた
ポキング出身のマクス・ルエフもまた,エホバの証人の誠実さを強制的にくじかせようとしていかに組織的な企てが行なわれたかを知りました。彼は生計の手段を完全に奪われたのです。彼は建物を改築するため,それを抵当にして融資を受けましたが,その抵当が無効にされてしまいました。しかし資金を直ちに返済できなかったため,1934年の5月,その建物と地所はすべて競売に付されてしまいました。
ルエフ兄弟は次のように述べています。「迫害はそれで終わったのではありませんでした。それどころか逆に,政治指導部にそそのかされた人々のために私は訴えられ,法廷に引き出されました。当局者側には私を責め得る理由は何一つなかったため,ミュンヘンの特別法廷は私に対して,自宅で禁じられた祈りをささげ,禁じられた歌をうたったかどで6か月の懲役刑を言い渡しました。そして私は1936年12月31日から服役し始めました。そのころ三番目の子供を身ごもっていた妻は,12マルクの家賃以外,自分と9歳と10歳の二人の子供の生活を支えるものを何一つ与えられませんでした。その後,妻の出産の時が来たので,妻の身の回りの世話をするため1,2週間仮出所させてもらうよう私たちはそれぞれ申請しました。しかし,出産予定日の1週間ほど前に,その申請は『不適当』として退けられました。
「3月27日,私は妻が亡くなったとの知らせと,必要な用事を処理するため3日間仮出所できるとの知らせを受けました。私は直ちに,妻が子供を産んだ後に運ばれた病院に行きました。もっとも,妻はその病院に運び込まれる前に亡くなりました。私がエホバの証人であることに依然気づかなかった医師と一人の看護婦は,『奥さんは元気で,どこも悪いところはなかったのだから,医師と助産婦を訴えるべきだ』と私に強く勧めましたが,私はただ,『それでは,私はたくさんのことをしなければならないのですね』と力なく答えました。家に着いてみると,寝室には死んだ赤ん坊が横たわっていましたし,また容易に察していただけると思いますが,みじめな姿をした9歳と10歳になる二人のわが子を見つけました。私は恐らく二度と再び会えないかもしれないその二人のわが子を,だれにも世話されないままに放置しておかねばならないのでしょうか」。
ルエフ兄弟のしゅうと親は同兄弟の妻の遺体をポキングに運ぶよう求めましたが,墓地の傍での告別の話は肉親以外の者には行なわせませんでした。そのようなわけで,ルエフ兄弟はエホバによって力づけられながら,その妻のための葬式の話を自ら行ないました。
しかし,今やルエフ兄弟にとって,二人のわが子を,それもだれからも世話されぬまま放置しなければならないということは,考えただけでも耐えがたい事柄でした。そこで彼は仮出所の猶予期限までになお残されているわずか数時間を用いて一人の子供をしゅうと親のもとに連れて行きました。もっとも,そのしゅうと親はエホバの証人ではありませんでした。そして,もう一人の子供をスイス国境の近くに住んでいる兄弟たちの所に連れて行き,最後に劇的脱出を行なって国境を越え,その子供とともにスイスに亡命しました。
誠実さをくじかせるため,まず最初に処罰し,次いで「友好的な態度」を示す
親から引き離された子供たちの中には,一時信仰の面で弱くなり,ナチ主義運動の指導者たちの思惑どおり,実際にナチ主義の立場に陥る危険な状態に立たされた例もあります。例えば,1943年に12歳のとき,父親と一緒にバプテスマを受けたマイセン出身のホルスト・ヘンシェルの場合を考えてみましょう。彼はこう書いています。
「私の子供の時代は動揺に満ちたものでした。私はヒトラー青年隊から退いたので ― やっとのことでそうすることだけはしたので ― 幸福でしたし,しっかりとした立場を取っていました。私は学校で毎日要求されたヒトラー万歳の敬礼を拒んだとき,よく打たれましたが,両親によって強められていましたので,自分は忠実を保っているのだということを知って大きな喜びを得ました。しかし,時には体罰を受けたため,あるいはそうした事態に対する恐れのために,『ヒトラー万歳』と唱えた場合もありました。そのような時には,よく涙にむせびながら家に帰り,そして親と一緒にエホバに祈り,次に敵の攻撃を受けた時には再び勇敢に抵抗したのを覚えています。次いで,また同じ事が起きました。
「ある日,ゲシュタポがやって来て私たちの家を調べ,肩幅の広いゲシュタポの一人が,『お前もエホバの証人か』と私の母に尋ねました。母はドアに背をもたれさせながら,遅かれ早かれ逮捕されることを承知の上で,『そうです』ときっぱり答えましたが,その時の母の姿を私は,まるで今日起きたできごとのように思い浮かべることができます。そして,母はその2週間後に逮捕されました。
「警官が母の逮捕令状を持ってやって来たのは,母がその翌日満1歳になろうとしていた私の幼い妹を忙しく世話していたときのことでした。……当時,私の父は家にいましたので,私たちは家で父の世話を受けました。……2週間後,父もまた逮捕されました。私は台所のストーブの前にうずくまって火を見つめている父の姿を今でも思い出します。学校に行く前に私はありったけの力をこめて父に抱きつきました。しかし,父は振り返って私を見ることもなく去りました。私は父が耐えたつらい戦いのことをしばしば思いめぐらし,神が必要な力を父に与えてこのような良い模範を私のために残させてくださったことを私は今もエホバに感謝しています。さて,帰宅した私は,自分が独りぽっちになったのを知りました。父は兵役につくよう命令されていたので,町の徴兵委員会に出頭し,兵役を拒否する旨説明したところ,即刻逮捕されました。私の祖父母や他の親類の人たち ― すべてエホバの証人の反対者で,中にはナチ党の党員もいた ― は,私と1歳になる私の幼い妹に対する保護監督権を取得する処置を構じたので,私たちは少年院あるいは感化院には入れられずに済みました。当時,既に21歳になっていた私の二番目の姉は,父が逮捕されてから丁度2週間目に逮捕され,ジフテリアとしょう紅熱にかかり,3週間後に亡くなりました。
「幼い妹と私は今や祖父母と一緒に暮らすことになりました。私は幼い妹のベッドの前でひざまずいて祈ったのを覚えています。聖書を読むことは許されませんでしたが,近所の婦人からひそかに1冊借りて読みました。
「ある時,真理に入っていない祖父が,刑務所にいる私の父を訪ねました。しかし,たいへん憤って,恐ろしいけんまくで帰宅しました。祖父は言いました,『この犯罪者の,ろくでなしめ! どうして自分の子供を捨てることができるんだ』。私の父は手足を鎖で縛られたまま祖父や他の人人の前に引き出され,子供のためにも兵役に服すようそれらの人々から説き勧められました。しかし,父は忠実を保ち,その勧めを断固として退けたため,ある将校は私の祖父にこう言いました。『この男はたとえ子供が十人いたところで,別の行動は取るまい』。その言葉は祖父の耳には恐るべきものでしたが,私にとっては,父が忠実を保っていること,またエホバが父を助けておられることを示す証拠でした。
「しばらく経った後,私は父から一通の手紙を受け取りました。それが父の最後の手紙でした。父は母がどこの刑務所に入っているのかを知らなかったので,その手紙を私にあててしたためたのです。私は自分の屋根裏部屋に行って,次のような冒頭の言葉を読みました。『この手紙を受け取ったなら,歓喜しなさい。なぜなら,私は最後まで忍耐したからです。私は2時間以内に処刑されることになりました……』。私は問題の深さを今日ほどに把握してはいませんでしたが,悲しくなり,泣きました。
「こうした決定的なできごとすべてに直面した時,私は比較的にしっかりした立場を保ちました。疑いもなくエホバは,問題を解決するのに必要な力を私に与えてくださいました。しかし,サタンは人を誘惑してわなに落とし入れるさまざまな手だてを持っており,私はほどなくしてそのことを経験するようになりました。私の親類の一人が私の何人かの先生に近づき,私のことを辛抱強く扱ってもらいたいとお願いしました。すると突然,先生は皆,私に対してそれはそれは親切になりました。私が『ヒトラー万歳』の敬礼をしない場合でさえ,先生は私を罰しませんでしたし,また特に親類の人たちは私たちに友好的で親切に接するようになりました。次いで,そのことが起きたのです。
「私は,それも自ら進んで再びヒトラー青年隊に参加しました。そうするようだれからも強制された訳ではなかったのに,第二次世界大戦の終わるわずか数か月前にそうしたのです。サタンは厳しい手段で成し遂げられなかったことを,こうかつな甘言を弄して仕遂げることができたのです。ですから,今日私は,外部からの激しい迫害は私たちの忠節を試みるものとはなりますが,他の方面からもたらされるサタンの卑劣な攻撃は残忍な攻撃に劣らず危険なものであると言うことができます。刑務所にいる間,母がどんなに難しい試みを切り抜けなければならなかったかということが今になってよくわかります。私は父が死ぬまで忠実を保ち,献身を全うしたことを裏づける父の最後の手紙を受け取りましたが,それは私を非常に強めるものとなりました。一方,母には,血に染まった箇所が依然としてはっきり見える父の衣類やスーツが送り届けられましたが,それらの品物は父が苦しんで死んだことを無言のうちに証するものでした。後日,母から聞いたところによれば,それらの事柄はすべて母にとって耐え忍ぶのに非常に困難なものでしたが,その時期の母にとって一番困難な試練をもたらしたのは,私がエホバに仕えるのをやめたことを示す私の手紙だったとのことです。
「戦争はたちまち終わり,母は家に帰って来て,献身の道に戻るよう私を助けてくれました。母はエホバへの愛とエホバへの献身の道に従って私を養育してくれました。過去を振り返って見ると,私は今日の仲間の年若い兄弟たちの多くが持っているのと同様の多くの問題をかかえていたことがわかります。しかし,母は献身の道に留まるよう私を助けるための戦いを決してやめませんでした。エホバの過分の親切のお蔭で私は,私の両親が投獄されたのと同じように今度は東ドイツの刑務所で過ごした6年4か月を含め,今までに22年間全時間奉仕を行なう特権にあずかりました。
「私はこれまでエホバから本当に豊かに祝福されましたが,それに値するほどのどんな事を行なっただろうかと,しばしば自問してきました。私は今,これは私の父や母の祈りのお蔭であると信じています。クリスチャンの行動の点で私の両親は自らの行状によって示し得る最善の模範を残してくれました」。
子供が親から取られた例は860件ほど知られていますが,正確な件数はこれよりもかなり大きいものと考えられています。こうした非人道的な仕打ちを考えれば,当局者がやがて,それらの親の一人を単に「遺伝的な病気」の持ち主であると述べ,ただそれだけの理由で子供を生めないようにするまでに極端な処置を講ずるようになったのも不思議なことではありません。その種の病気があれば,当時の法律の規定のもとでは当人に断種手術を施せました。
聴問の方法
残忍な策略の一つは,配偶者や他の家族の成員にその愛する人たちが尋問に際して受けなければならない拷問がどんなものかを味わわせることでした。エミル・ヴィルデはそれがいかに残忍な方法かを述べていますが,彼は自分の妻が文字どおり死に至る拷問を受けたときの物音を独房にいて強制的に聞かされました。こう伝えています。
「1937年9月15日の早朝の5時ごろでしたが,ゲシュタポの二人の将校がやって来て,まず最初子供たちに色々尋ねた後,私たちの家を調べました。その後,妻と私は警察本部に連行され,そして直ちに監房に入れられ,錠をおろされてしまいました。私たちの最初の聴問は10日ほどの後に行なわれました。そして,私の妻もその同じ日に最初の聴問を受ける予定だと聞かされましたが,そのとおりのことが起こりました。
「正午から1時ごろのことでしたが,私はある女性が声を張り上げて泣き叫ぶのを聞き始めました。その女性はたたかれていたのです。その泣き叫ぶ声はだんだん大きくなるにつれて,もっとはっきり聞き取れるほどになったとき,私はそれが私の妻の泣き叫ぶ声であることに気づきました。思わず私はベルを押して,その女性つまり私の妻がいったいどうして打たれているのかと尋ねたところ,私の妻ではなくて別の女性が行儀が悪いために打たれているので,あたりまえのことだと言われました。その日の午後おそく再びその叫び声が起こり始め,あまりに激しくなったため,私は再びベルを押して,妻に加えられている仕打ちをやめるよう訴えましたが,ゲシュタポは,打たれているのは私の妻ではないと否定し続けました。その夜の1時ごろ,私はもはや我慢できなくなり,またもやベルを押したところ,今度は,私はその名前を知りませんでしたが,警察の高官に連絡をする結果になりました。ところが,彼はこう言いました。『もしお前がもう一度ベルを押そうものなら,お前の妻にしているのと同じ事をお前にもしてやるぞ!』 その後,刑務所全体は静寂に包まれました。というのは,その間に私の妻は神経診療所に連れて行かれたからです。10月3日の早朝,ゲシュタポの監視部長クラシンが私の独房にやって来て,私の妻は神経診療所で死んだと私に伝えました。私は彼に面と向かって,私の妻を死なせた責任はゲシュタポが負わねばならないと言ってやりました。そして,妻の葬式の当日,私はゲシュタポを殺人の罪で訴えました。その結果,ゲシュタポは私を名誉棄損のかどで告発しました。
「これは私の最初の審理に加えて,さらに審理が行なわれることを意味しました。その審理が行なわれたとき,特別法廷での聴問中,2人の姉妹が立ち上がって,次のように証言しました。『私たちはヴィルデ夫人が,「残忍なあなた方は,私を打ち殺そうというのですね」と叫ぶのを聞きました』。ところが,裁判官はこう答えました。『しかし,証人たちは現場を見たのではなく,単に叫び声を聞いたに過ぎません。私は被告に1か月の服役刑を言い渡します』。とはいえ,私の妻が死んだ後にその遺体を見た数人の姉妹たちは,妻はのどの回りや顔面を大きなむちで打たれたため顔の形がひどく損われていたことを確証しました。私は妻の葬式に出る許可をもらえませんでした」。
ほかには,兄弟たちに催眠術をかけようとする企みが行なわれた場合もあれば,麻酔剤を混ぜた食物を食べさせられて,何を話すかを制御する力を一時喪失させられた兄弟たちもいます。また,強制的に自白させようとする試みとして,両手と両足をからだの後ろで縛られたまま一晩中放置された人たちもいました。こうした恐ろしい拷問を受けたのですから,中には耐えられない人たちもいたため,ゲシュタポはエホバの証人のわざがどのように組織され,また遂行されているかに関する情報を入手することができました。
親切な警官や雇用者たち
役人たちはいわゆる『総統綱領』なるものに基づく,特にその新しい国家の指導者たちすべての特徴となった『大声で話す,強力な新しい言葉づかい』を用いたものの,時々警察当局のある高官たちは刑務所の内外でエホバの証人を取り扱う際に依然同胞に対して同情の念を抱き得ることを示しましたが,それを見るのは喜びでした。
カルル・ゲーリングは「ドイツ式敬礼」をするのを拒み,また労働戦線組織への加入を拒んだため,メルセブルクの私鉄のロイナ工場から解雇されました。そして,職業紹介所は彼のための仕事を捜すのを拒み,また福祉事務所は一切の扶助料の支払いを拒否しました。しかし,ご自分の民の必要とするものをご存じのエホバは物事を動かされたので,ゲーリング兄弟は間もなくワイセンヘェルスの製紙工場に就職しました。同工場の所長,コルネリウス氏は,職場から解雇された近隣の兄弟たちをみな雇って働かせ,しかも兄弟たちの良心に反するような事を何一つ要求しませんでした。
あとでわかったことですが,そのような雇用者は多くはありませんでしたが,やはりほかにもいました。そのようにして,かなり多くの兄弟たちがゲシュタポの手から救われました。
また,中にはヒトラー政府の用いた暴力的な方法に内心では全然賛成していない判事たちもいました。特に最初のころ,多くの判事は,いかなる政治活動にも一切参加しないというただそれだけの趣旨の,何ら悪意のない書面を兄弟たちに供して署名させました。兄弟たちは無条件でその書面に署名できたので,その書面のお蔭で多くの兄弟たちは自由を奪われずに済みました。
家宅捜査にしても,官憲はその外見とは裏腹に,その全部がエホバの証人を憎んでいる訳ではないことを示す場合がしばしばありました。ポディク兄弟姉妹は家宅捜査を受けたときに,そのことを経験しました。それはふたりが何冊かの「ものみの塔」誌と他の出版物の入った郵便物をオランダに住む肉親の姉妹から受け取った時のことですが,受け取ったばかりでまだ何も読まないうちに,突如玄関のベルが鳴りだしました。
ポディク姉妹は叫びました,「早く,全部食器室に入れて戸を閉めて」。しかし,そうしたのでは注意を引くかもしれないと思い直し,姉妹は最後の一瞬にその扉を開いたままにしておきました。その間にゲシュタポの官憲が突撃隊員を一人伴って家の中に入るなり,「では,さっそくここから始めよう」と言いだしました。それは扉の開いている食器室から捜査を始めるという意味でした。と,ポディク兄弟の幼い息子が突然こう言いました。「食器室なら幾ら捜したって何も見つかりっこないよ」。すると,官憲は笑って答えました。「そうか,それじゃあ,別の部屋に行こう」。その家宅捜査は失敗に終わりました。実際のところ,ポディク兄弟とその家族は,それら官憲が ― 少なくともそのゲシュタポは ― 何も見つけたくはなかったような印象を受けました。また,その突撃隊員は家宅捜査が十分徹底的に行なわれたとは思えなかったので,その捜査を続けたかったようでした。ところが,ゲシュタポはその突撃隊員を叱りつけて,それ以上捜査することを差し止めたのです。そして彼は家を去った後,すぐさま独りで戻って来て,ポディク姉妹にこうささやきました。「ポディクさん,私の言うことを聞きなさい。当局はお子さんたちを連れ去ろうとしています。それはお子さんたちがヒトラー青年隊に入っていないためです。見せかけのためだけでもよいから,お子さんを送り出しなさい」。「こうしてその二人が去った後,私たちはオランダから届いた郵便物を静かに読むことができ,読んで知った多くの新しい事柄や郵便物の中にまたもや入っていた『ものみの塔』誌に対してエホバに感謝しました」と,ポディク兄弟は書いています。
裏をかかれる官憲
もち論,ゲシュタポの官憲が捜査を行なっている際に突然盲目状態にされたり,兄弟たちの電光石火の早わざでしばしば裏をかかれたりした例が数多くありますが,それはエホバの保護やみ使いの助けがあったことをはっきりと示しています。
マルクトレドゥィツ出身のコルネリウス姉妹は次のような経験を述べています。「ある日,もう一人の警官が家を調べるために現われました。私たちは謄写版刷りの『ものみの塔』誌を含め,数冊の印刷物を持っていました。とっさに私は,たまたまテーブルの上にあった,からのコーヒー・ポットにそれらの印刷物を全部突っ込みました。それ以外に隠す方法はなかったからです。しかし,警官があらゆるものを調べ終えてしまえば,それら印刷物を隠した場所が見破られるのは単に時間の問題に過ぎませんでした。すると,丁度その時に私の肉身の妹が何の前触れもなくアパートに入って来ました。私は何ら前置きの言葉も言わずに妹にこう言いました。『ここにあるあなたのコーヒーを持って行ってね』。妹は最初ちょっとけげんそうな顔をしましたが,しかし私の言った言葉の意味を理解し,すぐにそのコーヒー・ポットを取って出て行きました。こうして,それらの文書は難を免れましたが,官憲たちは裏をかかれたことに気づきませんでした」。
コルネリウス兄弟姉妹は5歳になる息子のジーグフリードに関するおもしろい話を述べました。その息子は当時まだ学齢期前だったので,「ドイツ式敬礼」その他同様の問題は何もありませんでした。しかし両親は真理に従ってその息子を育てましたし,親は読み終えると必ず文書類を隠していたので,その子はそれらの文書が非常に大切なものであって,ゲシュタポに見つかるようなことがあってはならないということを知っていました。ある日,二人の官憲が庭を通って,両親のいる所にやって来るのを見つけたその息子は,隠されている文書を見つけるために官憲がやって来たことに直ちに気づき,またそれらの文書を官憲に見つけられないようにする方法をすぐ考え出しました。まだ学齢期前でしたが,学校に通っている兄の鞄を取って,その中のものを全部取り出してからにし,文書類を全部詰め込んで,その鞄を背負って道路に出て行き,官憲が何も捜し出せずに帰って行くまで外で待ちました。その後,家に戻って来て,それらの文書を自分が見つけた元の場所に再び隠しました。
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第2部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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第2部 ― ドイツ
刑務所で見いだされた「羊」
兄弟たちは刑務所にいる際,あらゆる種類の人々に接したので,当然のことながら,自分たちの希望についてそうした人々にもできるかぎり話しました。仲間の囚人の一人が真理を受け入れたとき,兄弟たちはどんなに喜んだか知れません! ヴィリ・レーンベカーはそうした経験についてこう述べています。彼は他の何人かの囚人と一緒にある部屋に監禁されましたが,そこでは喫煙が許されていました。
「私の寝台は上段でしたが,下段に休んでいた囚人があまりたばこを吸うので,私は息を吸うのもやっとでした。他の囚人が皆寝静まった後,私は人類に対する神の目的についてその囚人に聖書から証言することができました。彼は私の話を注意深く聞いてくれました。その青年は政治活動を活発に行ない,不法な雑誌を配布したかどで監禁されていました。私たちは,もしなお生き長らえて再び自由の身となったなら,お互いに訪ね合うことにしようと約束し合いました。ところが,それとは違った仕方で会うことになりました。1948年のこと,私はある巡回大会で彼と再びめぐり会ったのです。彼はすぐに私を見てそれと知り,喜びにあふれながら私にあいさつし,それからその後のいきさつを話してくれました。彼は刑期を終えて釈放された後,徴兵を受けてソ連国境で軍務に従事し,そのとき,かつて私から聞いた事柄すべてを思いめぐらす機会を得ました。……そして最後に彼は私にこう言いました。『今日,私はあなたの兄弟になりました』。そのとき私がどんなに感動させられ,またどんなに嬉しく思ったかを想像していただけるでしょうか」。
ヘルマン・シュレマーも同様の経験をしました。これも同様に巡回大会でのことでしたが,ある兄弟が近づいて来て彼に尋ねました,「私を覚えておられますか」。シュレマー兄弟は答えました。「お顔は見覚えがありますが,あなたがだれかはわかりません」。すると,その兄弟は,フランクフルト-プロインゲシャイム刑務所で5年間服役していたシュレマー兄弟を扱ったかつての看守であると言って自己紹介をしました。シュレマー兄弟は真理に関する非常に多くの事柄をその看守に話したのです。同兄弟はまた,聖書を1冊求めて欲しいと刑務所の牧師に頼んだところ,その願いを退けられたので,その看守に依頼しました。すると,その看守は人情のある人だったので,シュレマー兄弟のために聖書を1冊求めてくれました。また,独房に監禁されている同兄弟に何か手仕事を行なえるようにするため,家族のストッキングを持って来て繕わせたりもしました。そうです,この場合,エホバのみ言葉が肥沃な土の上に落ちたことを知ったシュレマー兄弟には,確かに歓喜するに足る十分のいわれがありました。
霊的な食物が欠乏する
ドイツにおける霊的な料理は減少し続けました。組織との連絡を断たれ,霊的な食物を得る機会にもはやあずかれなくなることが,グループはもとより個人個人にとってどんなに危険かについてハインリヒ・フィーケルはこう報告しています。
「ナチ党が政権を握った当時,私たちの会衆には30人ないし40人ほどの伝道者がいました。この体制が挑戦的な様相を呈するようになると,ほどなくして多くの兄弟たちはいわば『陰に回る』ようにして不活発になり,伝道者の約半数の人々はもはや姿を見せなくなりました。このことは,私たちがそれら退いて行った人々に会う場合,あいさつは交しますが,手もとに雑誌があっても彼らには供給しないようにし,非常に慎重な仕方でそれらの人を扱わねばならないということを意味しました。ある話し合いのさい,約14人を除いて兄弟たちは皆,ある選挙が行なわれたとき投票したことがわかりました」。
当然のことですが,単にエホバの組織から退いたのではなかろうかという疑いを他の人に抱かせるような状況が生じたためにある兄弟たちが霊的な食物にあずかれなくなるという危険性もありました。シュテッチンに住むグレーテ・クラインとその母親の身の上に生じたのはそのことでした。彼女の話を聞きましょう。
「私たちは色々の兄弟たちの家で小さなグループになって集まり合いました。私たちの会衆の監督は『ものみの塔』誌を私に与えたので,私は謄写版刷りのための原紙を切ることができました。ところが,それもほんの短期間に過ぎず,その後,私がそれほど大事にしていたその特権は終わってしまいました。兄弟たちは私の父が真理に反対しているということを知った後,たいへん恐れ,自分たちが見つかりはしないかと心配したのです。そして,母と私は『ものみの塔』誌を1冊も入手できなくなりました。実際のところ,兄弟たちはあまりにも恐れたため,道で私たちに会っても,あいさつさえしなくなりました。私たち二人は組織から完全に切り断たれてしまいました。シュテッチンの聖書研究者の会衆は消滅しました。なぜなら,わざは禁じられてはいなかったのに,私たちは指導者を失い,また霊的な食物も得られなくなったからです。……
「立ち止まっているということは,実際には後退していることを意味しています。ほどなくして私たちはそのことを自分たちの霊的な態度のうちに見いだしました。戦争が始まった後,私は強制収容所にいる私の霊的な兄弟たちのために祈り続けましたが,やがて私はまた,ロシアやギリシャで文字どおりの武器を取って戦っていた私の肉親の兄弟たちのためにも祈っていたのです。その時には,自分のしている事が間違っているということさえわかりませんでした。そして,神の王国のもとで新秩序が建てられるのは果たして可能だろうかという疑念がしばしば浮かんできました。
「私のほかにも,シュテッチン会衆には,自分がどんな立場に立っているのかを知らない若い人たちが大勢いました。グンター・ブラウン,クルト,アルトル・ヴィースマンなど幾人かの青年は肉の武器を取って兵役に参加しました。しかも,クルト・ヴィースマンは戦死してしまいました。私たちが消極的な立場を取るようになった重要な理由の一つは確かに,シュテッチン会衆の指導部が人間に対する恐れの犠牲になったことでした。……
「一方,その当時弱くなったそれら兄弟たちはエホバの辛抱強さと愛と寛容を示す実例となっています。というのは,後日私は,わざが再開された後,それらの人たちの何人かが自分たちの行動を誠実に悔い改めて,エホバの好意を受ける立場に回復されたのを見たからです。その中のある人たちは今日なお全時間奉仕に携わっています。たとえば,シュテッチンの以前の会衆の監督もその一人です。彼は人間に対する恐れのために私と私の母との関係を一切断ち,その妻と一緒に別の場所に移り,完全に消息を断ってしまいました。しかし,私がベテルで奉仕し始めたころ,私はウィースバーデンでその二人に会い,どんなに嬉しく思ったかしれません。そして私は,その二人が高齢になるまで全時間奉仕を続けるのを見ることができました。その人の行動のために,ある兄弟たちは強制収容所や刑務所でたいへんな苦しみを受けました。また,彼を許すのに苦労した人は少なくありませんでした。しかし,エホバの憐みに助けられてそれらの人々は彼を許しました。エホバの憐みは,それらの人にとってすばらしい模範となったのです」。
マクデブルクその他の場所で生じた不穏な事態
ヒトラーが首相になった1933年当時の記録にさかのぼってみると,ドイツ政府がマクデブルクの協会の建物やそこにある高価な印刷機類をねらっているということにラザフォード兄弟が早くも気づいていたことがわかります。そして,要職にある役人に対し,ドイツのものみの塔聖書冊子協会はペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の付属団体であることを証明する強力な努力が払われました。というのは,マクデブルクの協会の土地や建物は相当の程度までアメリカからの贈与物でしたから,それらは実際には米国法人の資産でした。そうした事情のもとでは,ドイツ国民だったバルツェライト兄弟は,米国法人の資産返還の戦いをするにはとても不利でした。そこでラザフォード兄弟はスイスの支部の監督ハルベク兄弟にその米国人としての市民権を利用してこの論争に介入するよう求めました。
安全を求めてチェコスロバキアに移る道を選んだバルツェライト兄弟は今や,自分の権威が制限されていると感じ,自尊心を傷つけられました。それでも,ドイツに戻って,協会の資産の所有権を保持するために進められていた折衝を自ら指揮し,信仰のために戦う兄弟たちを支持したいという願いを少しも示しませんでした。同時に,バルツェライト兄弟と,論争に関して同兄弟に味方した数人の兄弟たちは,ハルベク兄弟をドイツにおける協会の関心事を世話する点で怠慢だったとして非難するとともに,他の人々はバルツェライトのためにラザフォード兄弟に電報を打つほどになりました。
ラザフォード兄弟はバルツェライトに対して次のように答えました。「マクデブルクに戻ってそこに留まり,物事を監督し,できるだけのことをしてください。但し,すべての事に関してハルベク兄弟に知らせてください。……実際のところ,あなたがドイツに戻る許可を求める必要はなかったはずです。というのは,私に関するかぎり,またあなたも承知のとおり,そもそも最初からドイツに留まろうと思えば留まれたからです。しかしあなたは,国外に避難しなければ身の安全はおぼつかないことを私に信じさせようとしたのです」。
1933年は,定期的に集会を開くこと,また宣べ伝えるわざを続行することに関して何ら意見の一致を見ないうちに終わりに近づきました。ポディク兄弟は当時の事情をこう述べています。「二つのグループが現われました。恐れを抱いた人たちは,私たちは不従順で,彼らとエホバのわざの両方を危うくしていると主張しました」。1933年の8月にハルベク兄弟の記した1通の手紙がドイツの兄弟たちの間に広く配られたところ,それら恐れを抱いた人たちはその手紙を自分たちの立場の正しさを示す証拠として自分たちの論議に利用しました。そのうちに協会は,「彼らを恐れてはならない」と題する記事を「ものみの塔」誌に掲げましたが,その記事は,増大する迫害や虐待にもめげず良心の声に従って小グループになって集まり合い,地下に潜って宣べ伝えるわざを続行していた人たちの行動を支持しました。彼らの行動は神の意志と一致するものであることが示されたのです。
ところで,マクデブルクの協会の資産の返還を求める交渉は失敗に終わったため,ラザフォード兄弟は1934年1月5日付でハルベク兄弟に宛てて次のように書き送りました。「どう見てもドイツ政府から何かを取り戻せるとはほとんど期待できません。サタンの組織のこの派の勢力は,主が事態に介入するまで引き続き私たちの民を圧迫するものと思われます」。
そのうちに,ドイツの兄弟たちから何通かの手紙がラザフォード兄弟のもとに届き,同兄弟はそれらの手紙を通して,ドイツにおけるわざの事情や,兄弟たちの霊的な態度についてももっと正確に知るようになりました。それらの手紙の中には,「彼らを恐れてはならない」と題する「ものみの塔」誌の記事を取り扱った,ポディク兄弟からの手紙がありましたが,一部の兄弟たちは「時に及びて与えられる食物」としての同誌を受け入れようとはしなかったことを,その手紙は述べています。中には,兄弟たちが地下に潜って宣べ伝えるわざを続行しようとするのを妨げようとさえした人たちもいました。ラザフォード兄弟からの返書はあらゆる場所の兄弟たちに回されましたが,その手紙は一部次のように述べています。「12月1日号の『ものみの塔』誌に掲げられた『彼らを恐れてはならない』と題する記事は,特にドイツにいる私たちの兄弟たちの益のために書かれました。主に関して証をする機会を見いだそうと考えている人たちに反対する者が兄弟たちの中にいるとすればそれは驚くべきことです。……前述の記事は地上の他のいかなる所にでも当てはまるのと全く同様,ドイツにも当てはまります。個々の成員はどこにいるにしても,それは特に残れる者の成員に当てはまります。……これは,何をすべきかをあなたがたに命じたり,あるいは入手できるこうした文書をあなたがたに供給するのを拒んだりする権利は,文書のしもべ,奉仕の指揮者,収穫のわざの指導者にも,またその他のだれにもないことを意味しています。主の奉仕におけるあなたがたの活動は違法ではありません。なぜなら,皆さんは主の命令に従ってそれを行なっているからです。……」。
一致団結した行動を起こす計画がバーゼルで立てられる
さて,1934年9月7日から9日までスイスのバーゼルで大会が開催されることになりました。ラザフォード兄弟は,ドイツからその大会に出席する兄弟たちの多くに会って,それらの兄弟たちからドイツの実情について直接聞きたいと願っていました。非常な逆境のもとにあったにもかかわらず,ほとんど一千人もの兄弟たちがドイツからその大会に出席することができました。それらの兄弟たちが後日伝えるところによれば,ドイツの兄弟たちが既にどれほどの苦しみを強いられたかについて直接話を聞いたときのラザフォード兄弟の苦悩はそれは大変なものだったとのことです。
一方,ラザフォード兄弟は,居合わせた旅行する監督たちでさえ宣べ伝えるわざに関して同一の考え方をしてはいないことを認めざるを得ませんでした。そこで,大会後,ドイツで講ずべき処置について兄弟たちに話し,一致団結した行動を起こす計画が立てられました。
1934年10月7日は,その日のできごとに加わる特権にあずかった人たちすべてにとってその記憶に永く残る特別の日となりました。その日,ヒトラーとその政府は ― 彼の目にばかげた少数者と映った ― エホバの証人の恐れを知らぬ行動に直面したのです。
詳細はラザフォード兄弟からの一通の手紙に順々と説明されており,その写しは特別の使者によってドイツ内のあらゆる会衆に届けられることになっていました。同時に,それらの使者は,その特別の日にドイツの至る所で開かれる予定の集会のための準備をするよう指示を与えられました。ラザフォード兄弟の手紙には一部次のように記されていました。
「ドイツのエホバの証人のあらゆるグループは,1934年10月7日,日曜日,午前9時に,それぞれの住んでいる町の都合のよい場所に集合し,出席者全員に対してのこの手紙を読み,次いで私たちの頭で王なるキリスト・イエスを通して一緒にエホバに祈り,その導きと保護と救出と祝福とを求めてください。その後直ちにドイツ政府の役人に手紙を送ってください。その文面はそれまでに用意され,その時までに入手できるようにされます。また,数分の時間をさいてマタイ 10章16-24節を討議し,その句の述べるところを行なうことによりあなたがたは『自分の命を守るために立ち』上がっているのだということを銘記してください。(エステル 8:11)それから集まりを閉じ,近隣の人々のもとに出かけて行って,エホバのみ名について,また私たちの神とキリスト・イエスの治める神の王国とについて証言してください。
「その同じ時に,世界中の皆さんの兄弟たちも皆さんのことを考え,同様の祈りをエホバに捧げます」。
神に従う決意を表明した共同宣言
もち論,そのための準備は完全に秘密裏に行なわねばならず,その準備に何らかの関係を持っていた兄弟たちはみな,10月7日に行なう予定の事柄については自分の妻あるいは家族の他の者にさえ口外しないことに同意するよう要求されました。そうした予防手段が講じられたにもかかわらず,いよいよという時になって,ある事態が生じました。もし,エホバの強力な腕により保護が差し伸べられなかったなら,恐ろしい結果が生じていたことでしょう。マインツで起きた事柄についてコンラド・フランケはこう報告しています。
「私は最初,1933年の初めごろ逮捕されて強制収容所に入れられたので,その後釈放されてからもしばしばゲシュタポの前に出なければなりませんでした。そして,そのたびに私はこの町でのわざを組織するよう指導しているのではないかと責められました。逮捕件数が増え続けたことは,宣べ伝える運動が組織的に続行されていることを証明していたからです。ですから私は,私宛の郵便物は私たちの地区の奉仕の指導者フランズ・メルク兄弟の知っている偽装住所に郵送してもらうことにしていました。ところが,どういう訳かわかりませんが,同兄弟は,必要な指示を添えたラザフォード兄弟の手紙を,バーゼルで決めたとおり私に直接届くようにはせずに,その手紙を郵便で,しかも私の通常の住所に,それも文字どおり『いよいよという時になって』送ってよこしたのです。幸い私は,密接な関係を持って仕事をしていたアルベルト・バンドレス兄弟から話を聞き,この運動に注目していたので,その手紙に記されている詳細はよく知っていました。10月7日までの日数はたちまち少なくなって行きましたが,メルク兄弟からのその重要な情報はなお届かなかったので,私は同兄弟の助けを得ぬまま事を進め,マインツ郊外のある兄弟の家で集会を開く取決めを設けました。その集まりには約20人ほどの人々が招かれました。
「ところが,その集まりを開く2日前になって,急に場所を変えなければならなくなりました。私たちの集まる予定にしていた家が危険な場所であることがわかったからです。しかし,新しい集合場所の住所が兄弟姉妹たち全員に知らされた後,突然,その家に住むある家族もまた,それまでにひどい敵意を示しており,もしエホバの証人とわかったなら,それがだれであれ,今後一歩でもその家に入ったなら,直ちに通報して逮捕させることにすると言って脅していたことがわかりました。そのアパートで翌朝集まりを開く予定だったので,その家を所有していた兄弟たちは,どこか別の家で集まりを開くよう求めました。このような訳で,10月6日に再び兄弟たち全員を訪ねて,翌朝9時に集まりを開くための三度目の場所を知らせなければならなくなりました。しかし,どこで集まるのですか。集まれそうな場所はほかにはありませんでした。祈りをこめて考えた末,危険ではありましたが,開拓者である私の狭いアパートに兄弟たちを招くことに決めました。
「10月6日の晩,疲れ切って帰宅した私は,妻から一通の手紙を受け取りました。その手紙は通常の郵便配達時間外の晩の遅い時刻に配達されていたのです。しかも,その手紙は速達便ではなく,単なる普通便でしたから,郵便局の責任者がそれをその時刻に配達しなければならなかったに違いありませんでした。開けてみると,それはラザフォード兄弟の手紙でした。恐らくメルク兄弟は時間に間に合うようそれを直接私のもとに届けさせることができなかったので私に郵送したようでした。
「しかし,その配達方法は次のことを証拠だてるものでした。つまり,その手紙はまず最初 ― 私の私信すべてがそうであったように ― ゲシュタポの手に渡り,次いで明らかにゲシュタポは私がその運動について何も知らないと考えて,その手紙を私のもとに配達させたのです。そうすれば,私はその手紙の内容に従ってその夜のうちに必要な取決めを設ける訳だから,翌朝になれば,私たちすべてを一挙に見つけて苦もなく逮捕できるだろうと彼らは考えました。実際,ドイツ中の役人に警告を出す十分の時間がありましたから,翌朝,方々の都市で集合するエホバの証人を全部逮捕するのは容易な事だったでしょう。
「私はどうすべきでしょうか。私のアパートは居酒屋をも含む建物の中にあったので安全な場所どころではありませんでした。その建物の持ち主で,私たちのアパートの隣の寝室にいる姉妹を除けば,その家に住んでいる人々はすべてひどい反対者たちでした。一方,ほかには私たちの集まり得る場所はどこにもありませんでした。私はエホバの助けを信じて,これ以上変更をしたり,兄弟姉妹たちをひどく興奮させたりはすまいと決心しました。それら兄弟姉妹たちの大半は分裂した家庭の人たちでしたし,その集まりの目的については何も知らなかったからです。しかし私は内心再び逮捕される覚悟をしていました。
「10月7日の朝,7時には既に最初の何人かの兄弟たちが到着していました。あまり目立たないようにするため,皆が2時間余の間におのおの別々にやって来るよう取り決められていたのです。兄弟たちはひとりずつ現われましたが,皆どんなことが起こるのか非常な期待を抱いていました。とはいえ,指示どおり,集まりを開く真の理由は兄弟たちには知らされてはいませんでした。しかし,それが実に重大な意義を持つ日になろうとしていることを感じない人はその中には一人もいませんでした。たいてい反対する夫を持ち,またそのほとんどが世話のいる幼い子供をかかえている姉妹たちを含め,出席者すべてはエホバのみ名の立証のためであれば,求められるどんな事でも断固として喜んで行なう決意を抱いているという印象を私は受けました。
「午前9時10分前までには,私たち開拓者のただ一室のアパートに全員が集まりました。私はゲシュタポがきっと今にも大型車で乗りつけて,私たち全員を逮捕するものと待ち受けていました。そのような訳で,私は事情を兄弟たちに説明し,もし起こり得る結果を恐れる人がいるとすれば,その集まりに参加するのをやめる機会を与えねばならないと感じました。そこで,兄弟たちにこう述べました。『こうした事情ですから,これから10分以内に私たちは全員逮捕される恐れがあります。私はこうした深刻な事情を知らせずに皆さんをこのような事態に陥れたとして,あとで皆さんのうちのだれかから非難されるようなことがないようにしたいと思っています。ですから,皆さんの聖書の申命記 20章を開いていただきたいと思います』。そして私は8節を読みました。「誰か恐れて心に臆する者あるか その人は家に帰りゆくべし 恐らくはその兄弟たちの心これが心のごとく挫けん」。居合わせた人たちにこの言葉を読んだ後,私は言いました,『事情があまりにも危険だと感ずる方はどなたでも,今この機会に,この集まりに参加するのをやめることができます』。
「しかし,だれひとりとして,それも反対する夫や小さな子供を持つ姉妹たちさえ,恐れて退くことなど考えませんでした。さて,それに続いて起きた事は,言葉ではとても言い表わせるものではありません。9時までの残る数分の間,部屋には快い静けさが漂いました。明らかに出席者はみな,無言の祈りのうちに事態をエホバの保護の手に委ねていました。時刻は9時になりました。『ゲシュタポが今すぐ庭に乗り込んで来る』という考えが脳裏に浮かぼうとするのを抑えながら,私は祈りをもって集会を始めました。すると突然,私たちはみな,危険に頻しているドイツの兄弟たちだけでなく,指示どおり時を同じくして多くの国々で集まり合い,これまた同様に当然のこととして祈りをもって集会を始めた世界中の兄弟たちを含め,皆が強力な保護の輪で囲まれているのを感じました。世界中の兄弟たちの集会はすべて,ドイツにいる仲間の兄弟たちに対する非人道的な取扱いをやめるようヒトラーに抗議するために行なわれたのです。
「その後,私は兄弟たちに話をし,ラザフォード兄弟がドイツの兄弟たちを励ますためにバーゼルで行なった注目すべき講演の主要な考えを繰り返して述べました。その講演では,事情が変わったからといって,私たちはエホバのみ言葉を研究したり,エホバを賛美したりするために定期的に集まり合うというエホバのみ前における責任から解放されてはおらず,またエホバの証人として仕えてその王国を公に知らせる義務を免除されている訳でもないことを示す聖書の証拠が提出されました」。
ドイツの至る所でエホバの証人が取っていた行動と一致して,そのグループの人たちは全員熱意をこめて,次のような手紙をその日,書留めで政府に送ることに同意しました。
「政府の役員各位へ:
「聖書中に明示されているとおり,エホバ神のみ言葉は最高の律法であり,また私たちは自らを神に捧げてキリスト・イエスの真の誠実な追随者になったゆえに,み言葉は私たちにとって唯一の指導原理です。
「過去一年の間,あなたがたは神の律法に反対し,私たちの権利を侵害して,私たちがエホバの証人として神のみ言葉を研究し,神を崇拝し,神に仕えるために集い合うことを禁じてきました。神はそのみ言葉の中で,集まり合うことをやめてはならないと命じておられます。(ヘブライ 10:25)エホバは私たちに,『汝らは,私が神であることを証する証人である。行って,私の音信を人々に告げよ』と命じておられます。(イザヤ 43:10,12; 6:9。マタイ 24:14)あなたがたの法律と神の律法とは真向から対立していますから,私たちは忠実な使徒たちの例に習って,『人に従はんよりは神に従ふべき』であり,また私たちはそうするつもりです。(使徒 5:29,文語)ゆえに私たちは,いかなる犠牲を払おうとも,神のおきてに従い,そのみ言葉を研究するために一緒に集まり,神の命令どおり神を崇拝し,神に仕えるつもりであることをあなたがたにお知らせします。私たちが神に従っているという理由で,もしあなたがたの政府や官憲が私たちに暴力を揮うなら,私たちの血の責任はあなたがたにありますし,あなたがたは全能の神から責任を問われることになります。
「私たちは政治上の事柄に対しては一切関心を持ってはおらず,神の立てた王なるキリストの治める神の王国の事柄だけに専念しています。私たちはだれに対しても危害を加えることはしません。私たちは平和に暮らすことを喜びとし,機会のあるかぎりすべての人に善を行ないたいと考えているにもかかわらず,あなたがたの政府とその官憲は私たちを強制して宇宙最高の律法に背かせようとする努力を続けているゆえに,私たちはエホバ神の恵みを受けてエホバに従うつもりであり,またあらゆる圧迫や圧迫者たちからエホバが私たちを救い出してくださることを本当に信じている旨いまあなたがたに知らせざるを得ません」。
ドイツの仲間の兄弟たちを全面的に支持すべく,10月7日に全地のエホバの証人はそれぞれ集まって,一致してエホバに祈りをささげた後,ヒトラー政府に次のように警告した電報を送りました。
「エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱しめています。エホバの証人をこれ以上迫害するのをやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。
驚くべきことですが,ゲシュタポは ― どたん場になってからであれ ― 何が行なわれようとしていたかを知ってはいましたが,その日逮捕されたのは少数の兄弟たちだけでした。フランケ兄弟の報告にまた戻ってみましょう。
「その集まりを祈りをもって閉じてから1時間以上経ったにもかかわらず,依然としてゲシュタポは一人も現われませんでした。今や最初の人たちが再び,前のように間隔を置いて去り始めました。その手紙を郵便局の当局者に直接手渡すため,私は自転車に乗って隣の町ウィースバーデンに向かって家を出たとき,部屋にはなお8人の兄弟たちがいました。その手紙は前夜のうちにしたためられ,ウィースバーデンに預けられていました。私はきっと逮捕されるに違いないと予想していたので,そうなったなら,兄弟たちがその手紙を郵送することになっていました。私が庭の門を通り過ぎようとしたとき,ゲシュタポがひとり自転車に乗って現われましたが,私を見てもそれとは気づきませんでした。8人の他の兄弟たちは危険を知らされ,その家の持ち主だった隣室のダルムスタット姉妹の部屋に逃れました。私たちのアパートを調べたそのゲシュタポが私の妻に質問した事柄からすれば,ゲシュタポは私たちの集まりについてすべて知っていたということがわかりました。にもかかわらず,私も他の兄弟たちもその日には逮捕されませんでした。その数か月後,私はゲシュタポに逮捕されて初めて,彼らがラザフォード兄弟の手紙を入手していたことをゲシュタポから聞かされました」。
その集会の直後,一部の兄弟たちが近隣の人々を忙しく訪問して人々の注意を神の王国に向けさせていたとき,ドイツ以外の土地の多くの郵便局は非常な驚愕に見舞われました。特にヨーロッパ大陸では多くの場所の郵便当局者はその電報の受付けを拒否しました。ブタベストでもそうでした。同地での集まりに出席し,その電文を郵便局に持って行くよう依頼されたマルチン・ペツィンガーはこう伝えています。「電文は受理されましたが,翌日,中央郵便局に直接出頭するよう同郵便局から通知を受けました。出頭すれば,私はゲシュタポに捕えられ,国外に追放され,そうなれば私の活動は終わってしまうだろうと私たち皆は考えました。……ところが,そういうことは起こりませんでした。私はただ,ハンガリーの郵便局はその電報を打つわけにはゆかないと告げられて電報料金を返されただけでした」。亡命したドイツ皇帝ウィルヘルム二世の住んでいたドルン(オランダ)では,郵便局側は最初,問題の電報を打つのを拒みましたが,あとで,その電報を提出したハンス・トーマスに,電報は打電され,ベルリンに届いたことが確認された旨伝えて来ました。
それらの手紙,それも特に電報がヒトラーにどんな影響をもたらしたかは,1947年11月13日,フランクフルト(マイン)の公証人によって証明された,カール・R・ウィティグの記した次のような報告からもわかります。
「宣言 ― 1934年10月7日,かねて呼び出しを受けていた私は,ベルリンのケーニクスプラツ6番地にあったドイツ内務省本館に行き,当時ドイツとプロシアの内務大臣であったウィルヘルム・フリク博士を訪ねた。というのは,私はルーデンドルフ将軍の全権大使だったからである。私は,ルーデンドルフ将軍にナチ政体に対する反対をやめさせるよう説得することを目的とした内容の書信を受け取ることになっていた。私がフリク博士と話し合っていると,突然ヒトラーが現われ,私たちの会話に加わり始めた。そして,必然的に私たちの話し合いの中で,ドイツの国際聖書研究者協会[エホバの証人]に反対してそれまで講じられてきた処置のことが取り上げられたところ,フリク博士は聖書研究者に対する第三帝国の迫害に抗議する多数の電報をヒトラーに示して,『もしこれら聖書研究者が直ちに我々に従わなければ,我々は最も強力な手段を講じて彼らに反対してみせる』と述べた。その後,ヒトラーは急に立ち上がるなり,両のこぶしを握り締めてヒステリックな声で,『このやからをドイツから抹殺させてやる!』と絶叫した。その話し合いをしてから4年経った後,私はザクセンハウゼン,フロッセンブルクまたマウトハウゼンのナチ強制収容所の地獄のような場所で保護拘禁された7年間にわたり ― 私は連合軍の手で解放されるまで監禁されていたが ― 自ら観察した事柄によって,ヒトラーの爆発させた怒りは単なるむなしい脅しではなかったということを確信できた。前述の強制収容所の囚人のグループの中で,聖書研究者たちが受けたような仕方で親衛隊の残虐な仕打ちにさらされたグループは一つもなかった。それは絶えまない身体的また精神的拷問の連続で特徴づけられた残忍な仕打ちであり,この世の言葉をもってしては言い表わしようのないものであった」。
私たちがヒトラーに手紙を送った後,各地で兄弟たちが相次いで逮捕されました。一番激しい攻撃を受けたのはハンブルクで,10月7日以後のほんの2,3日のうちにゲシュタポは142人もの兄弟たちを逮捕しました。
地下活動が組織される
今や私たちは,10月7日付の手紙の中で,たとえ政府により活動を禁じられようと,専ら神の命令に従い続ける旨ヒトラーに通告したので,喜んで働く勇敢な兄弟姉妹たちすべてをそれぞれ円熟した一人の兄弟の指揮する小さなグループに編成することに努めました。指揮する兄弟の努めは,心をこめて主の羊を世話し,牧することでした。
国全体は13の地区に分割され,羊を牧する優れた特質を持つひとりの兄弟がおのおのの地区に任命され,当時の呼び方によれば地区の奉仕指導者として奉仕しました。それらの兄弟たちは,いかなる危険をも物ともせずに喜んで小グループとの連絡を取り,霊的な食物を供給したり,宣べ伝えるわざの点でグループを支持したり,それぞれのグループ内の人々を信仰の面で強めたりする人たちでなければなりませんでした。ほんの2,3の立場を除けば,それらの立場はそれまで兄弟たちに全然知られていないしもべたちによって満たされました。しかし彼らは,ヒトラーが政権の座について以来,王国の関心事のために自分の私的な関心事を喜んで二次的なものにする人であることを実証しました。
「ものみの塔」誌を謄写版で印刷して配る
兄弟たちはドイツ中の至る所のさまざまな場所で,謄写版を使って「ものみの塔」誌を印刷して配りました。例えば,ハンブルクではヘルムト・ブレンバハが妻と一緒に夜,写しを作っては,シュレスウィヒ・ホルシュタインとハンブルクの兄弟たちに供給し続けました。ブレンバハ姉妹は夫とともにあずかった数多くの経験の一つを次のように述べています。
「昼前のこと,突然ベルがいつもよりずっと高い音をたてて鳴りました。玄関のドアを開けてみると,そこに3人の男が立っていました。私は,何者だろうかといぶかっていると,そのうちの一人が,『ゲシュタポだ』と言い終えるか終えないうちに既にその3人の男はアパートに踏み込んで来ました。家の中に隠されているものすべてのことを考えた私は,心臓がのどもとまで踊り上がるように感じました。内心恐れに震えながら,私はエホバに祈りました。
「人間的な見地からすれば,荷造りした『ものみの塔』誌や,それらを作るのに用いた印刷道具全部を見つけるのは造作ないことだったでしょう。私たちの家には二人の警察官の家族を含め数世帯が生活していたので何かを隠せるような場所はありませんでした。印刷に必要なもの ― 紙,謄写版,タイプライター,インクそれに梱包用資材 ― はみなかさばるものばかりですからなおのことです。それらのものを ― 私たちは2週間目ごとに必要としていた ― 局外者の目に触れないよう隠す方法がなかったので,それを全部じゃがいもの貯蔵室に詰め込むことにしました。その貯蔵室は地下室の中央にあって,この家の住人はだれでもその中に入れました。私たちは『ものみの塔』の写しを作り終えるたびに,一切のものをその貯蔵室に注意深く詰め込んで,空の俵で覆い,その上にトマトの空き箱を天井に届くほど積み重ねました。そうしておけば,たとえ最悪の事態が生じて,だれかが何かを捜し出そうとしても,それとは気づかずに済むかもしれず,あるいはじゃがいもの貯蔵室にうず高く積み重ねられたものを全部取りのけてまで調べるのは厄介なので見つけられずに済むかもしれないと考えて,私たちはエホバに頼りました。ほかにはなすすべがありませんでした。
「官憲は発禁処分にされた文書が家の中にあるかどうかを私に尋ねたので,私はうそを言うのを避けて,『よろしければご自分で中をお調べください』と言いました。彼らはアパートの中を調べ,戸棚の扉も開けましたが,その開き具合の関係で,そこにあったタイプライターに気づきませんでした。私たちはそのタイプライターをじゃがいもの貯蔵室にしまい忘れていたのです。もしそれが見つけられていたなら,『ものみの塔』の写しを作るのに必要な道具であることが見破られていたことでしょう。しかし,エホバは彼らの目をくらませたのです。アパートの中で何も見いだせなかった彼らは,地下室も調べたいと言いました。私はもうこれで,印刷資材や書類が見つかるのは必至だと感じました。私は努めて恐れの気持ちを顔に表わすまいとしましたが,心臓の鼓動はいよいよ高まりました。しかも,なお悪いことに,夫が翌日携えて旅行するつもりでいた,謄写版刷りの『ものみの塔』誌のぎっしり詰まったスーツケースが1個その貯蔵室の真後ろに置いてあったのです。しかし,どうしたのでしょう。3人の官憲はその部屋の真中に立ったのですが,おわかりのとおり,まさしくそこには貯蔵室があり,その後ろには『ものみの塔』誌のぎっしり詰まったスーツケースがあったのに,3人ともそれに気づかないようでした。まるで彼らは目をくらまされたかのようでした。3人のうちのだれも貯蔵室の中をのぞいて見ようともせず,そのスーツケースの中を調べようとさえしませんでした。最後に,ひとりの官憲が屋根裏部屋のことを尋ね,そこで数冊の古い出版物を見つけ,それで満足したかの様子を示し,それから去って行きました。しかし,感謝すべきことに,エホバとそのみ使いたちの助けで,最も大切なものは彼らの目から隠されて守られたのです」。
同様の例はほかにもたくさんありますが,それはエホバの導きのお蔭でそうした謄写版による印刷の仕事が長期間にわたって守られ,そのようにしてエホバの民に文書類が供給されたことを示しています。
宣べ伝えるわざを組織する
当時,私たちと交わっていた人たちはすべてが宣べ伝えるわざに携わっていた訳ではありません。それとは逆に,わずか半数ほどの人たちしか従事していない会衆もありました。例えば,ドレスデンではある時期に会衆の伝道者はおよそ1,200人の最高数に達しましたが,わざが禁じられた後,たちまち500人に減りました。それにしても,ドイツ全土には,どんな危険にもめげず喜んで宣べ伝えるわざを行なうとの志を表明した人たちは少なくとも1万人ほどいたと考えられています。
最初はたいてい聖書だけを使って働きましたが,再訪問のさいには,ゲシュタポの手を免れた古い小冊子や書籍を配布しました。証言用のカードを作った人たちもいましたし,ある特別の行事を利用して知人に手紙を書く人もいました。大きな危険を伴ったにもかかわらず,戸別訪問の活動は続けられました。ドアを開ける家の人が突撃隊員か親衛隊員であったりする恐れはいつもつきまとっていました。たいてい伝道者たちは一つの戸口を訪ねた後,あとは飛ばして別のアパートに行ったり,あるいは特に危険な場合には別の街路の区域の家に移ったりしました。
少なくとも最初の2年ほどの間は ― 場所によってはさらにもっと長い期間 ― 戸別訪問による宣べ伝えるわざはドイツのほとんどすべての場所で行なえました。しかしそれは確かにエホバの特別の保護があったからこそできたのです。
宣べ伝えるわざに使用できる文書は少量しかなかったので,すぐ用い尽くされてしまいました。それで私たちは,外国から文書を入手できるかどうかを調べました。ブレスラウ出身のエルネスト・ヴィースナーはそれがどのようにしてなされたかに関する興味深い詳しい報告を寄せています。
「文書類はスイスからチェコスロバキア経由で送られてきました。文書類は国境の近くの局外者の家に貯蔵され,次いでそこからリーゼン山脈を越えてドイツに運び込まれました。その仕事は喜んで働く円熟した兄弟たちの一団によって行なわれましたが,この上なく危険で,非常に疲れる仕事でした。私たちは真夜中に国境を越えました。兄弟たちはよく組織されており,それぞれ大きなリュックサックを用意していました。そして,毎週2回この運搬の仕事に携わりましたが,そのうえ毎日自分の仕事もしなければなりませんでした。冬になると,トボガンやスキーを用いました。彼らはあらゆる道筋やわき道を知っていましたし,強力な懐中電灯や双眼鏡を持ち,ハイキング用の靴をはいていました。用心深くあることが最重要な行動原則でした。真夜中にドイツ国境に到着し,国境を越えた後でさえ,長時間だれも一言も口にしませんでした。二人の兄弟が先を進み,だれかに出会うとすぐに懐中電灯で合図を送ります。すると,重いリュックサックを背負って100メートルほど後方からついて来た兄弟たちは道端の木々の茂みの中に隠れ,先行する二人の兄弟たちが戻って来て合い言葉を述べるまで待ちました。そして,その合い言葉は毎週変えられました。
「そうした合図が一夜のうちに数回出されることもありました。そのようにして,再び危険が去ると,兄弟たちは歩き始め,こうしてドイツ側の村のある家に行き,そこでその夜のうちに,あるいは翌朝早く書籍類を小さな袋に入れて宛て先を書き,次いで自転車でヒルシュベルクその他近くの町々の郵便局に運びました。こうしてドイツの至る所の兄弟たちは文書類を受け取りました。……熱心で,非常に熟練した兄弟たちのこの一団は捕えられることなく2年間にわたり相当の量の文書をドイツに運び込むことができ,そのようにしてドイツ全土の多くの兄弟たちを強めました」。また,フランス,ザール地方,スイスまたオランダなどの国境でも同様の取決めが利用されました。
この点で興味深いのは,ある姉妹の記した一部次のような手紙です。「年鑑に載せられているドイツからの報告を読む人は,発禁処分を受けたのにどうしてそんなに多くの文書を配布できたのだろうかといぶかるでしょうが,私たちも同じことを自問しています。もしエホバがわたしたちとともにいてくださらなかったなら,それは不可能だったでしょう。同信の友の多くは家を出る都度警察の監視を受けますが,……エホバはそのことをご存じであり,そうした事情にもかかわらずエホバは,私たちの享受している豊かな食物によってたびたび私たちが強められるようにしてくださるのです」。
また,発禁処分の発表が行なわれる前には,文書類をさまざまの場所に隠す十分の時間がありました。しかし,その後に生じたことを理解するには,兄弟たちは発禁処分のもとで文書類を貯蔵した経験は一度もなかったということを念頭に置くのは大切です。それで,兄弟たちの間に文書を分散させる代わりに,最初は文書を大きな置場に貯蔵する傾向がありました。そのほうがもっと安全だと考えたからです。特に担当者たちは発禁処分が一時的なものに過ぎないと感じたことからすればそれももっともでした。中には,30ないし50トンもの文書類を貯蔵できる広さのある置場もありました。しかし,時経つうちに,ある兄弟たちは,万一そうした大量の文書が敵側に見つけられ,没収されたならどうなるだろうかということを心配し,恐れはじめました。そのため,文書置場の世話をした兄弟たちは,寄付を得て配布できるかどうかにはかかわりなく奉仕のさいに用いるよう書籍を供給し始めました。
迫害が継続すること,また文書の隠されている場所がいよいよ危険になったことがひとたびわかると,兄弟たちは書籍や小冊子をできるだけ多くただで配り始め,野外の奉仕に参加して,人がだれも見ていないと,文書をただドアの内側に置いたり,あるいはドアマット(靴ぬぐい)の下にはさんで置いたりしました。そうすれば,それらの文書が与え得る力や希望を得たいと願う誠実な人々の手に渡るかもしれないと考えたのです。
記念式
私たちはエホバの命令に従って集まり合うことをなおざりにしないよう決意していたので,記念式を祝うことを明らかにこの上なく良心的に考えていました。多くの場合,ゲシュタポはドイツ以外の場所で印刷される出版物,もしくは時おり彼らの手に落ちる謄写版刷りの「ものみの塔」紙から記念式の日付を確認して,当日は特に活発に動きました。ゲシュタポは特に,記念式だけでなく,特別運動に関連して指摘された油そそがれた者たちに怒りを集中しました。彼らは油そそがれた者たちのうちに,その組織を壊滅させるためにはまず最初に砕かれねばならない組織の「かしらたち」がいると考えました。
1935年4月17日の記念式は特にはらはらさせるものでした。ゲシュタポは記念式の日付を数週間前に既に知ったので,管轄下のあらゆる事務所に待機体勢を取らせる十分の時間がありました。1935年4月3日付の秘密回状はこう述べました。
「聖書研究者たちの著名な指導者たちに対して今回開始される奇襲攻撃は相当の成果を上げるものとなろう。成果に関する情報は1935年4月22日までに提出せよ」。
しかし,「成果に関する情報」についてはほとんどうんぬんし得なかったでしょう。というのは,将校たちの大多数は,ドルトムントのある将校のように,聖書研究者協会の指導者と考えられる人たちの家は監視されていたにもかかわらず,集会が開かれていた例は一つもなかったという報告しか提出し得なかったからです。そして,当局をなだめるため,「この地域の聖書研究者の指導的で活発な成員たちは既に拘禁されているため,そうした集会を組織する者は一人も残っていない」と付け加えました。
しかし,秘密警察は考え違いをしていました。というのは,その秘密回状が送られて間もなく,真理の支持者で,そうした秘密情報を入手できるある人から私たちはその写しを受け取ったからです。そこで地区の奉仕指導者は十分前もってすべてのしもべたちに通告し,どうすれば見つからないようにしながらもなお私たちの主また主人の命令を守れるかに関して適切な助言を与えました。
それで,多くの人たちは6時直後に集まりましたが,他の人々はゲシュタポがやって来て帰るまで待ち,それから出かけて行って小グループになって兄弟たちと集い合いましたし,中には真夜中に記念式の祝いを行なった人々もいました。いずれにしても,ゲシュタポの各捜査課はドルトムントから送られたのと同様の報告を送りました。
ヴィリ・クライスレの報告によれば,クレイツリンゲンの兄弟たちは6時きっかりに記念式を始めました。その兄弟たちは建物を出る前に,その同じ建物の中にある店に入るよう指示を受けていました。その商店はある兄弟の所有する店であり,兄弟たちはそこで砂糖やコーヒーその他のものを買い,それから商店のいつもの出入口から外に出ることができました。「こん棒部隊」― クライスレ兄弟がゲシュタポにつけた名称 ― はまさしく現われましたが,それは兄弟たちがみな,その店に入った後のことでしたから,何ら証拠を見つけられませんでした。しかし,ゲシュタポが行なった質問や官憲の述べたさまざまの言葉は,彼らが「ものみの塔」誌を通して記念式の日付に関する情報を得ていたことを明示するものでした。
しかし,兄弟たちはいつも奇襲攻撃に備えていましたが,それは良いことでした。彼らは毎週の集会に出席すること,とりわけ記念式に出席することを当りさわりのない日常の何らかの活動と結びつけるよう努め,そのお蔭でしばしば逮捕を免れました。バンベルク近郊の出身であるフランズ・コールホフェルはこう伝えています。
「その特別の日にはスパイは特に活発に働き,エホバの証人の家を監視し,不法な活動に携わっている証人たちのだれかを見つけて逮捕したいと考えていました。……私たちは数日前に,豚を飼育しているある兄弟の家に集まってその祝いを行なうことに決め,各自じゃがいもの皮その他のくずをかごにいっぱい入れて携えて行くことになりましたが,そのすべてを急いでしなければなりませんでした。なぜなら,ゲシュタポはいつなんどき現われるかわからなかったからです。また,万一の場合のためとして,トランプをも持って行きました。不意に警官が現われたなら,警官の目を欺くことができるようにするためでした。では,何が起きたと思いますか。兄弟が最後の祈りを言い終えた丁度その時,ドアをノックする音がしました。しかし,その時までには私たち4人はテーブルのまわりに腰かけて,当りさわりのないトランプ遊びをしていました。私たちが静かに,悪びれもせず警官を見つめたので,彼らは自分たちの目を疑いました。そして,然るべき時に私たちを見つけることができなかったので,所期の目的を果たさずに立ち去らざるを得ませんでした」。
バプテスマ
この当時真理を学んだ人々の中には,最も困難な事情のもとでバプテスマを受けた人たちが少なくありませんでした。それら新たにバプテスマを受けた人々の多くは刑務所あるいは強制収容所に投げ込まれ,その多くは彼らに良いたよりを伝えた人たち同様命を失いました。
パウル・ブデルは既に1922年当時,「万民」の講演に注意を向けさせられていましたが,1935年のこと,その同じ職場に雇われた若い一女性から「創造」と題する書籍をもらって初めて真理に親しく接するようになりました。もっとも,その女性には注意するよう他の人々から警告されていました。彼はその体験記の中でこう述べています。「その日は1935年5月12日でした。そしてそれこそ私が求めていたものでした。1935年5月19日,私は教会から籍を除き,エホバの証人になりたいという希望をその若い女性に話しました。彼女は非常に喜びました。彼女はそれまでに聖書文書頒布者として罪に問われ,6週間服役していました。次いで私は,フォルスト会衆出身のヴォイテ兄弟姉妹に会いました。その会衆では私はナチのスパイとみなされましたが,そうしたことにめげず,私は小型のルーテル訳聖書を携えて,あらゆる村々で定期的に戸別訪問を行ないました。そして,1936年7月23日,フォルストのナイセ川でヴォイテ兄弟姉妹,それに話をした年長の一兄弟のいる前でバプテスマを受けました」。
バプテスマの集まりはしばしば小グループで個人の家で行なわれましたが,時にはほんの2,3人の,別の時にはもっと多くのバプテスマ希望者のために時々野外でも行なわれました。ハインリヒ・ハルステンベルクはウェーザー川で行なわれたバプテスマについてこう述べています。
「1941年,関心のある多くの人々がバプテスマを受けたいとの希望を表明しました。同様の願いを抱く多くの人が近隣の地方にいることがわかったので,私たちは適当な場所を探すことになり,ウェーザー河畔のデーメにそのような場所を見つけ,あらゆる事柄を十分に考え抜き,計画した後,1941年5月8日にバプテスマを施すことに決めました。その日の午前中,まだ早いうちに兄弟たちやバプテスマ希望者は既にその場所にいました。他の人々にとっては,私たちはまるで水泳を楽しんでいるかに見えました。また,私たちは不意打ちに遭わないよう,ある人々を送り出して見張りを行なわせ,バプテスマの重要性に関する話を行なった後,私たちはエホバに祈りました。次いで,希望者60人がその川でバプテスマを受けました。高齢あるいは病弱などの理由で冷たい水に入れない他の人たちは個人的に浴漕でバプテスマを受け,こうしてその日,合計87人の人々がバプテスマを受けました。
追跡捜査は進む
アルベルト・バンドレスは1934年10月7日以前から既に地区の奉仕指導者の一人として働いていたので,やがて彼の名前はゲシュタポによく知られるようになりましたが,それは特に,彼が働いていたルール地方のいろいろの都市で続々裁判事件が持ち上がったためでした。被告がどこから文書を入手したかに関する質問に対する答えの中で,「バンドレス」という名前がしばしば聞かれたのです。ゲシュタポは彼を拘引すべくあらゆる努力を払いました。しかし,彼は賢明にも,その写真を持っている兄弟たちすべてに写真を返すか,あるいは焼き捨てるかするように頼んでおきました。その結果,ゲシュタポはその名前は知ってはいても,彼がどんな容ぼうの人物か全然わかりませんでした。それで彼はその追跡捜査が3年半行なわれるまで迫害者の手を逃れました。その地下活動の経験の幾つかについてバンドレス兄弟に話してもらいましょう。
「一時,私はジュッセルドルフの数人の兄弟たちと,ある兄弟の経営する食料品店で会合しましたが,閉店少し前に店に出入りするようにすれば,一番人目につかないのではなかろうかと考えました。ある時,私たちが1時間ほど一緒にいたところ,突然ゲシュタポがやって来て,中に入れろと要求しました。私はとっさに,話し合いをしていた物置きから逃げて,ほんの数歩離れた店内に入りました。幸い電気は既に消えていました。次の瞬間,彼らは物置きに押し入って,居合わせた兄弟たち全員を逮捕しました。そして,室内を全部調べ,『ものみの塔』誌のいっぱいはいった私の鞄を見つけると,官憲の一人が大喜びして叫びました。『我々が捜していたのはこれだ! この鞄はだれのものだ』。だれも答えなかったので,彼は店の経営者の居間を教えるよう要求しました。だれかが,『三階です』と答えると,ゲシュタポは,『出ろ!』と叫びました。自分たちの捜し求めていた男をその兄弟のアパート内で見つけられるものと期待してやっきになって追跡するゲシュタポと一緒に,兄弟たちは一斉にアパートの階段をかけ登って行きました。
「次いで,私は再び物置きにしのび込んで上衣と帽子を取り,鞄を拾い上げ,外の路上にだれもいないのを確かめた後,急いでその場を去りました。階上から戻った紳士たちが,かごの鳥を逃がしたことに気づいてくやしがっていたころ,既に私はエルベルフェルト-バーメンに向かっていました」。バンドレス兄弟はこう付け加えています。「これを話すのは実に愉快でおもしろいことですが,実際に経験するのは別問題です」。
バンドレス兄弟はさらにこう続けています。「ある時,私は『準備』と題する書籍のぎっしり詰まった重いスーツケースを2個,ボンとカッセルに運んでいました。それはトリール近くの国境越しに送られてきたものでした。その晩おそくボンに着いた私は,それを会衆のしもべの家の地下室の安全な場所に置きました。翌朝5時30分ごろ,玄関のベルが鳴りました。ゲシュタポがまたもやそのアパートを調べるためにやって来たのです。当時会衆のしもべだったアーサー・ウィンクラー兄弟は私の部屋の戸をノックして,好ましくない客が来ていることに私の注意を引きました。逃れられる可能性は全然なかったので,私たちは事態の成り行きに従うことにしました。私の部屋に入って来た警官は,私が何をしているかを尋ねたので,私はライン川の観光旅行をしているところで,ボン植物園も訪ねたいと考えていると簡単に答えました。警官は私の身分証明書を調べた後,多少怪しみながらも,それを私に返しました。ウィンクラー兄弟は警官とともに警察本部に出頭しなければなりませんでした。それらの警官の一人はその本部で ― 後日ウィンクラー兄弟から聞いたところによると ― 上司にこう話しました。『その家にはもう一人の男がいました』。『その男を連れて来なかったのだな。全く良い連中を遣わしたものだ』。『どうしてですか』と,警官は尋ねました。『戻って行って,つかまえましょうか』。『つかまえるだと? お前が戻るまでその男が待っているとでも思っとるのか』。事実,彼らが家を去るや否や私も,それら(見つからずに済んだ)二つのスーツケースの一方を携えて出発し,それをカッセルに運びました。
「カッセルに着いたところ,会衆のしもべ,ホホクラーフェ兄弟は私にこう言いました。『ここには留まれません。すぐ去らねばなりません。ここ1週間ゲシュタポは毎朝家にやって来ました』。そこで,50メートルほどの間隔を置いて彼が先を歩き,文書を置ける家まで私に道を示すことにしました。そして,美しいカスターニアンアリー(とちの木の並木道)に沿って200メートル余進むか進まないうちに,その会衆のしもべをよく知っているゲシュタポが私たちに近づいて来ました。私は50メートルほど後ろからついて行ったので,ゲシュタポがにやにや笑って嘲るのがわかりましたが,ゲシュタポは彼を引き止めませんでした。その数分後,信仰の面で兄弟たちを強める手だてとなる文書類をまたもや安全な所に運ぶことができました。
「別の時のことですが,私はヴェツラーの近くのブルクソルムスで文書を入れた重いスーツケースを2個運んでいました。それは夜中の11時で,あたりは真暗でした。私はだれにもまず見つけられなかったはずでしたが,それでもだれかに見られているような妙な気持ちがしました。目的地に着いた私は,スーツケースを安全な場所に置くよう兄弟たちに注意しました。翌朝,5時30分ごろ,その町の巡査部長がやって来ました。彼が姉妹のほうを向いて,『昨夜,重いスーツケースを2個持った男がここに来たのだから,お前はまた文書を入手したに違いない。それはどこにあるんだ』と言った時,私は顔を洗いに行こうとして部屋の真中に立っていました。姉妹は答えました。『夫はもう仕事に出ましたし,私は昨晩家を留守にしていましたので,何が起きたか存じませんわ』。すると巡査部長は答えました。『もしそのスーツケースをいさぎよく引き渡さないなら,我々は家宅捜査をしなければならない。市長がいなければ家宅捜査は行なえないので,市長を連れて来るが,我々が戻って来るまで,お前の外出を禁ずる』。この話が交されている間じゅう,私は部屋の真中に立って,その巡査はどうしてあんなにどんよりした目つきをしているのだろうか,またどうして私に話しかけないのだろうかと不思議に思っていました。彼はまるで目をくらまされているとしか考えられませんでした。彼が市長を連れて来るために去った後,私はすぐ出かける用意をしました。私は外に出て,市長と巡査部長が表から家に入って来るまで家の裏で待ちました。彼らが家に入った瞬間,私は裏庭をそっと出ました。たまたまこの様子を見た近所の人々は,私が逃れたのを知って明らかに喜んでいました。それから,林の中で身仕度を整え,次いでできるだけ早く走って次の駅に行き,さらに旅行を続けました」。
他の地区の奉仕の指導者たちも同様の経験をしました。
別の種類の試練
1934年から1936年にかけて忠実な牧者たちはドイツ中の兄弟たちを支持し,集会に出席するよう,また迫害にもめげず,あらゆる奉仕の分野にできるだけ携わるよう激励しました。一方,1935年12月17日にバルツェライト,ドリンガーそのほか「著名な」兄弟たちと見られた他の7人に対する裁判がハレで行なわれましたが,少なくともその半数の人々にとってその裁判は彼らのクリスチャンとしての競走の終わりとなりました。
当時ドイツで行なわれた数多くの裁判に際して大勢の兄弟たちは,困難な事情のもとで王国の関心事を促進させる面で自分たちの行なった事柄を明らさまに認めました。それとは対照的に,ハレで裁判を受けたそれらの人たちは,政府から禁じられた事柄は何一つとして行なったことはないと主張しました。自分のために言うべきことがあるかどうかを委員長から尋ねられたバルツェライトは,ババリア州で活動を禁止する発表がなされるや否や同州でのわざをやめるよう指令を出し,また他のすべての州についても同様に指令を出したと述べました。そして,禁令を無視するように勧める指令は決して出したことがないと述べました。
恒例の記念式の祝いに関して委員長から質問されたバルツェライトは,禁令下にもかかわらず記念式を祝うために兄弟たちが集まる計画を立てていたことを自分も聞いて知っていたと答えました。しかし彼はそのことで兄弟たちに警告していました。彼は警察がその日のために特別の活動を計画していることを知っていたからです。
当然のこととして,当時行なわれた他のすべての裁判の場合と全く同様,兵役に関するバルツェライト被告個人の態度が問題として取り上げられました。すると彼は,総統の説明,すなわち戦争それ自体は罪悪であるが,どの国にも自国の市民の生命を守る権利と義務があるという考えに全く満足しているとの態度を表明しました。
その後ほどなくしてラザフォード兄弟はドイツの兄弟たちに次のような手紙を書きました。
「ドイツにいるエホバの忠実な民の皆さんへ:
「皆さんが恐るべき迫害を被り,また皆さんの土地でサタンの手先が強烈な反対を引き起こしているにもかかわらず,主を信じ,その王国の音信をあくまでもふれ告げようとする何千人もの人々を主があなたがたの国の中で持っておられるということを知るのは大きな喜びです。皆さんが迫害者に抗して忠実に頑張り通し,主に対して誠実を保っていることは,以前ドイツの協会の監督であった人物や彼と提携していた他の人々の取った行動とは著しい対照をなしています。最近,ハレにおけるそれらの人々の裁判の際になされた証言の写しが送られてきましたが,私はそれを読み,その時の裁判に際してそれらの人々がひとりもエホバの御名に対する忠実で真実な証言をしなかったことを知り,愕然とさせられました。あらゆる反対のただ中で主の旗を高々と掲げ,神とその王国を支持する態度を表明することこそ,前監督,バルツェライトの責任でしたが,エホバに全く信頼していることを示す言葉を彼はただの一言も述べませんでした。私は再三,ドイツでいろいろな事柄を行なえるということに彼の注意を向けさせましたが,彼は証言を続けるよう兄弟たちを励ますためにあらゆる努力を払っているので安心してもらいたいと言いました。しかし,裁判の際,彼は何も行なわなかったということを力をこめて述べました。そのことを私がここでこれ以上述べる必要はありません。協会は今後,彼と,あるいはその裁判の際にエホバの御名とその王国のために証言する機会を持ちながら,そうしなかった者たちのだれとも一切関係を持たないとだけ言っておきましょう。協会はたとえ何らかの事を行なう権限を持っているにしても,彼らの釈放を求める努力は一切払いません。
「さて,主を愛する皆さんすべては,エホバとその王に顔を向け,いかなる反対を受けようとも,その王国の側に忠実に留まり,不動の立場を保ってください。……」
この問題は,いかなる事情のもとでもエホバのための忠実な証人でありたいと誠実に願う人たちに対する警告として,1936年7月15日号のドイツ語の「ものみの塔」誌上で取り扱われました。
ドイツの忠実な兄弟たちの多くが5年にまで及ぶ懲役刑を宣告されたのとは対照的に,バルツェライトは2年半,そしてドリンガーは2年の懲役刑をそれぞれ言い渡されました。刑務所で刑期を終えた後,バルツェライトはザクセンハウゼン強制収容所に入れられ,その収容所で不面目この上ない役割を強制的に演じさせられました。彼は既に,兄弟たちとの交わりをやめるという趣旨の宣言書に署名し,兄弟たちとの接触を一切避けていました。そうした行動ゆえに彼は約1年後に釈放されましたが,その間,さまざまの屈辱的な仕打ちを甘んじて受けなければなりませんでした。というのは,基本的に言って親衛隊の官憲もやはり裏切者を憎んでいたからです。「ベエルゼブブ」という名前を彼につけたのはほかならぬ親衛隊員たちでしたし,ある時など,ひとりの親衛隊員が兄弟たち全員の前に彼を立たせ ― その時,収容所にはおよそ300人ほどの兄弟たちがいましたが ― 彼の署名した,エホバの証人との交わりをやめるという趣旨の宣言書を繰り返して読むよう要求しましたが,何と彼はそうしました。
1946年,そのころまでには真理の激しい反対者となっていたバルツェライトは,裁判が行なわれる以前でさえ抱いていた敵意のある態度を示した一通の手紙を更生当局者に書きました。こうして,ドイツにおける神の民の歴史の暗い一章が終わりを告げましたが,その章は1920年代に既に書き始められていたのです。
1936年8月28日 ― ゲシュタポの攻撃開始
熱心な活動の続けられた2年間が過ぎましたが,その間ゲシュタポは,エホバの証人として知られている者すべてを注意深く尾行したにもかかわらず,組織された地下活動に実際に影響を及ぼすことには失敗しました。しかし,時が経つにつれて私たちの活動についてますます多くのことを知り,やがて私たちの行なっていたことを熟知するようになりました。そして,私たちに対する戦いを助けるために,1936年6月24日付のプロイセン秘密国家警察に対する機密通達にしたがって「特別ゲシュタポ司令部」が設置されました。
1936年の前半の期間中に秘密国家警察は,エホバの証人ではないかと疑われる,もしくは少なくとも証人たちに友好的な態度を取っているのではないかと思われる人々の住所を記録した大がかりなファイルを作成しました。そのファイルは家宅捜査の際に没収した「日々の天のマナ」と題する本から見つけた住所にかなりの程度基づいていました。また,ゲシュタポのための特別の教科課程さえ設けられました。ゲシュタポは「ものみの塔」研究の司会の仕方をも教えられましたし,彼らはまた,最新の「ものみの塔」誌の記事を研究しなければなりませんでした。それはあたかも兄弟でもあるかのように質問に対する答えを述べられるようになるためでした。そして,遂には祈り方まで学ばねばなりませんでした。そのすべては,できれば組織のただ中に入って内部から組織を破壊するためでした。
ミュンスター出身のアントン・ケートゲンは,ある「友好的な態度の」婦人に文書を渡した後,さっそく逮捕され,投獄されたことを伝えています。同時に,ケートゲン兄弟はこう述べました。「ゲシュタポは,外の庭にいた私の妻を訪れ,兄弟であると言って自己紹介しましたが,それは単に他の兄弟たちの住所を探り出すために過ぎませんでした。しかし,妻は彼らの計略を見抜き,彼らがゲシュタポであることをあばきました」。とは言え,いずれの場合も時たつうちにゲシュタポだということがわかった訳ではありません。
その間にラザフォード兄弟はスイスに行く旅行を計画し,もしできればドイツからの兄弟たちと話し合いたいと考えていました。そこで,1936年9月4日から7日にかけてルツェルンで大会を開く取決めが作られました。スイスの中央事務所は,ドイツの兄弟たちの逮捕事件,ゲシュタポによる虐待,「ドイツ式敬礼」を拒んだとの理由で職場から解雇された事例,虐待された結果兄弟たちが亡くなった事件その他に関する数多くの報告をドイツじゅうの兄弟たちから入手してまとめるよう私たちに提案しました。そして,それらの報告は大会が始まる前にひそかにスイスに運ばれ,ラザフォード兄弟にそれを調べてもらえるようにすることになりました。
ところが,1936年8月28日,ゲシュタポは突然容赦ない一斉攻撃を加え,エホバの証人を野獣同様に捜して捕える運動を展開しました。エホバの証人を逮捕するため,用い得る官憲すべてを夜も昼も,しかし主に夜動員しました。ゲシュタポがそれまでの何か月間かにわたって収集した情報はすべて,今や彼らにとって大いに有用なものとなりました。エホバの証人だなどとは一度も唱えたことのない一部の人々をも含め,証人かどうかわからない人々も不意に網にかかりました。当然のことですが,それらの人々は自由の身になりたいため,エホバの証人について知っている事を洗いざらい,何らはばかる所なくゲシュタポに告げました。多くの場合,それらの人々の知っている事はほんのわずかだったようですが,そうしたわずかな情報でさえ,ゲシュタポがそれまでに作り上げることのできた心像を補足するのに役だちました。後日の聴問の際,ゲシュタポは,そうした情報が何千人もの人々を逮捕するのに役だったと,しばしば誇らしげに話しましたが,それらの人々の大多数は強制収容所に入れられたのです。
こうしたゲシュタポの運動が遂に全速力で進められるようになった時のことですが,ある大規模な攻撃のさい,当時ドイツ全体のわざを監督していたウィンクラー兄弟と各地区の奉仕の指導者たちの大半がとうとう拘引されてしまいました。それら奉仕の指導者の氏名や管轄区域はたいてい既に知られていました。ゲシュタポはこの「運動」を非常に重大なものと判断したので,全警察網は暗黒社会の犯罪分子を悩まさずに放置して,エホバの証人を攻撃することに関係したほどです。
ゲシュタポは何か月かにわたって詳しく調査した結果,ウィンクラー兄弟とドイツじゅうの責任ある他のしもべたちとの重要な会合がベルリンの動物園で行なわれていることを探知しましたが,それは特に一年のうちでも暖かい時期に行なわれていました。その会合は園内で貸し椅子業を経営していたファルドゥーン兄弟の計らいで,長い間だれにも気づかれずに行なうことができました。彼は到着する兄弟たちに,別の兄弟が待機している動物園内の場所を人に気づかれないような仕方で教え,それから兄弟たちを安全な場所に導くことができました。次いで,兄弟たちは話し合いを行なえたのです。不穏な空気が流れているのを感じたなら,彼はいつでもただ兄弟たちのもとに行って,彼らの「借りた」椅子のための料金を集めさえすれば,危険を知らせることができました。しかし,そのすばらしい取決めも長くは秘密にしておけませんでした。いろいろの方法でその詳細を探知したゲシュタポにとって,その取決めは彼らの巧かつな攻撃計画の面で役だつものとなりました。そのことに関係したクローヘ兄弟は,興奮に満ちたその時期にベルリンで起きた事を次のように述べています。
「私はルツェルン大会を待ち望んでいました。既にスイスのビザもおりたので,その大会に出席できる見込みは十分ありました。しかし,その前に組織上の問題をフロスト兄弟と話し合うためライプチヒに行きたいと考えていました。パウル・グロスマン兄弟が逮捕されて空席が生じたため,私は地区の奉仕指導者としてフロスト兄弟の区域を引き継ぐことになったからです。しかし,フロスト兄弟に会えなかったばかりか,彼に会えると予期していた場所で私はゲシュタポに出会ったのです。最初はただぼう然としてしまいました。こんなに喜ばしい奉仕を始められるようになった矢先に兄弟たちとの交わりを断たれ,ゲシュタポの手でライプチヒに連行される羽目になったからです。[彼はそこからベルリンに連れて行かれた。]
「それまでにゲシュタポは,私たちが動物園に会合する場所を持っていたことを知っていましたし,私たちの組織について他の多くの事柄を探り出していました。恐かつを含め,さまざまの方法でそうした情報を入手していたのです。
「数日後,装填したピストルで武装した5人の将校が突然現われ,平常の服を着るよう私に命じ,ファルドゥーン兄弟が椅子を貸し出していた動物園内の金魚の池の近くに私を連れて行きました。しかし,彼らは同兄弟がエホバの証人の一人だとは考えていませんでした。今や私は,やがて予定の会合に出るため姿を現わす兄弟たちをつかまえるための『えさ』にされたのです。今やゲシュタポはその会合に関する情報を得ていました。
「私が腰をおろすよう命じられていた場所に腰かけるや否やヒルデガルト・メッシ姉妹が私のほうに近づいて来るのが目に入りました。彼女は私が兄弟たちの所に行かないのを不審に思っていました。私はそうするものと予期されていたからです。今や姉妹は私がどうして来ないのかを知りたいと考えました。ところで,ひどく打たれたために化膿していた私の両方の向こうずねが非常に痛んでいたので,彼女が道の反対側を通りかかったその瞬間,私は痛さに顔をしかめて身をかがめ,同時に彼女に目配せして,ゲシュタポが園内にいることを知らせましたが,将校たちは少しも怪しみませんでした。その合図を理解した姉妹は一瞬ためらいましたがファルドゥーン兄弟のところに戻って,その新たな事態を知らせました。その事態は,それから間もなく実際にやって来て,空いている椅子に何も知らずに腰かけたウィンクラー兄弟にとって最大の危険を意味していたのです。そのすぐ後,ファルドゥーン兄弟はウィンクラー兄弟に近寄って,椅子の使用料を求め,同時にゲシュタポが動物園内にいることを同兄弟に知らせました。ウィンクラー兄弟はすぐ立ち上がり,鞄をあとに残したままゲシュタポの官憲の輪をくぐり抜けて逃れ ― たかに見え ― ました。あとでわかったのですが,同夜おそくカッシング兄弟のアパートに現われた彼は,待ち構えていた一群のゲシュタポの手で直ちに拘引されました」。
それから数日のうちに,ドイツの地区の奉仕指導者の少なくとも半数の人たちと何千人もの他の兄弟や支持者たちが逮捕されました。その中の一人,ゲオルク・ベール兄弟はこう伝えています。
「毎晩10時ごろ,幾つかの独房から囚人が連れ出される物音を聞きましたが,その後まもなく階下の地下室で彼らが打たれるのが聞こえました。囚人の叫び声やすすり泣く声が聞こえました。毎晩,独房の扉が開く音を聞くたびに,今度は私の番だと思いました。しかし,最後に四日か五日目の6時ごろに尋問の呼び出しを受けるまで私は何もされませんでした。その時,ひとりの親衛隊員が私をその部屋に連れて行き,腰をおろすよう私に命じ,次いで,『お前はその気になれば話そうと思う以上の事柄を我々に話せるだろう』と言いました。そして立ち上がり,紙くずかごの縁のところで研いだ鉛筆を取り上げて,その短い話を続けて言いました。『そんなにひどい目に会わせはしないからここに来い』。そして,私を彼の机のそばに近寄らせ,タイプで打った数枚の書類を見せて私にそれを読ませました。それはドイツの旅行するしもべ全員の名簿で,私の名前も最下部に記されていました。私は私たちの訪問した会衆の名前とともに諸会衆の兄弟たちの氏名を読みましたし,私たちが注文した文書や蓄音器やレコードの数がはっきりと印刷されているのを読みました。また,私たちが渡した寄付その他のお金も記載されていました。私はとても信じられませんでした。ゲシュタポはそこで私たちの地下組織全体を手中に収めていたのです。私は確かに数分考えてようやく事態を完全に把握することができました。ゲシュタポはこれらの記録をどこから入手することができたのだろうかと私は自問しました。私自身の活動が克明に記載されていなかったなら,私はその記録の真実性を疑ったことでしょう。審問を担当していたドレスデンの親衛隊 ― ゲシュタポのその将校バウホは,思考力を取り戻すための時間を私に与えてくれましたが,のけぞるようにして腰をおろした時の私の顔はかなりまぬけのそれのようだったに違いありません。すると彼はこう言いました。『さて,黙っている理由は実際一つもないじゃないか』。
「私はゲシュタポがどこで私たちの記録を入手できたのだろうかという疑問に何か月も悩まされました。後日わかったのですが,私たちの送った注文書や報告やお金はすべて注意深く目を通して整理され,ベルリンで保管されていました。後にゲシュタポがそれを見つけて押収したのです」。
警察をろうばいさせた大胆な活動
1936年9月4日から7日にかけてルツェルンで開かれるよう慎重に計画された大会は,開催2週間前に生じた大量逮捕事件のため,突然新たな様相を帯びました。ゲシュタポもまたその大会に関する情報を得ていたので,恐らく同大会が私たちに対する彼らの運動の日取りを決める目安になったものと思われます。少なくとも彼らはあらゆる方法を講じてドイツの兄弟たちの出席を阻もうとしました。そのことは秘密国家警察が出した1936年8月21日付の機密回状からもわかります。同回状は,大会に出席するために旅行する兄弟たちに関してこう述べています。「その種の者たちを出国させてはならない。その場合,旅券を没収すべきである」。
事実,その旅行を計画した千人余の人々のうち旅行できたのはわずか300人ほどでした。しかも,その大半は国境の不法横断を行なわねばならず,またその多くは再入国の際に逮捕されました。
もち論,ラザフォード兄弟はその機会を利用して,出席したドイツからのしもべたちとともに彼らの問題について話し合いました。彼は特に兄弟たちを霊的に世話する方法に関心を抱いていました。同席したハインリヒ・ドゥエンガーはさらに話し合われた事柄に関してこう伝えています。
「さて,地区の奉仕指導者たちは提案を述べるよう求められました。彼らは私をドイツに戻すことをラザフォード兄弟に勧めました。私はその提案を自分から述べるよう求められていたのですが,私はプラハに派遣されていたのでそうする訳にはゆかないし,またドイツに戻りたいなどと言う訳にもゆかないと彼らに話しておきました。でないと,私はまるで自分の割当てに不満を抱いてでもいるように思われたことでしょう。そこで,当分の間フロスト兄弟が責任を引き継ぐよう任命されました。次いで,ラザフォード兄弟は尋ねました。『もしあなたが逮捕されたならどうなりますか』。万一フロスト兄弟が逮捕されたなら,ディーチー兄弟がその跡を継ぐよう推薦されました」。
大会では決議が採択され,その決議文二,三千部がヒトラーとドイツ内のその政府の各省に送られました。また,ほかにはローマの教皇にも一部送られました。大会運営部門の指示で1936年9月9日に決議文を送ったベルン出身のフランズ・ヅルヘルは,それがローマのバチカンとベルリンにいるドイツ首相の双方に送付された確認書を受け取りました。タイプライターで打たれた長さ3ページ半ほどのその決議文は次のような趣旨のものでした。
「私たちはローマ・カトリック教階制度およびドイツその他世界のあらゆる場所の同制度の同盟者たちによるエホバの証人に対する残忍な取り扱いに強く反対します。しかし,私たちはこの問題の結果を私たちの神なる主のみ手に全く委ねます。神はそのみ言葉にしたがって存分に報いてくださるのです。……私たちはドイツで迫害されている私たちの同信の友に心からのあいさつを送るとともに,彼らが勇気を保ち,全能の神エホバとキリストの約束に全く信頼するよう願っています。……」。
その大会で採択された決議文を電撃的運動によってドイツの大勢の人々に配る取決めが設けられました。ベルンで印刷された決議文30万部のうち20万部はプラハに送られ,そこからチッタウの近くやリーゼン山脈の他の場所で国境を越えてドイツに運び込まれました。他の10万部はオランダを経てドイツに運び込まれることになりましたが,残念なことにオランダで押収されてしまいました。それで,数人の地区の奉仕指導者たちはベルリンおよび北部ドイツで配布するための決議文を自分たちの手で作らねばなりませんでした。その配布の日取りは1936年12月12日,午後5時から7時までとされていました。
後に寄せられた報告によれば,およそ3,450人の兄弟姉妹がそのわざに参加しました。各人は20部,あるいは多くても40部を携えて行きました。その意図は,割当てられた区域内でできるだけ早く配り終えることでした。それで,ただ郵便箱に入れたり,ドアの下から差し込んだりして配られました。
決議文はおのおの家に1部配られ,大きなアパートの建物でもたいてい3部までしか配られませんでした。次いで,そのちらしを配る人たちは急いで隣りの路に移り,そこでも同様の仕方で配り,できるだけ広範囲に配れるようにしました。
反対者たちに与えた影響は,実に痛烈なものでした。8か月の間ドイツのわざを監督した際プラハの支部事務所と密接な関係を持っていたエーリヒ・フロストはプラハまで何度か旅行しましたが,そのある旅行の際,この運動に関する次のような報告を届けました。
「この決議文を配るわざは政府およびゲシュタポに恐るべき打撃を加えるものとなりました。それは1936年12月12日,突如一斉に配られたのです。その活動はごく細かい点に至るまですべて徹底的に準備され,そのわざが午後5時きっかりに開始される24時間前に忠実な仲間の働き人すべてに通知され,各人にそれぞれの区域と一包みの決議文が与えられました。一時間もしないうちに警官や突撃隊員や秘密警察の官憲が走り回ってパトロールを行ない,勇敢な配布者たちを逮捕しようとしましたが,ごく少数の人々を,つまり全ドイツで12,3人足らずの人々を逮捕したに過ぎませんでした。しかし,翌火曜日,官憲は兄弟たちの多くの家々に現われ,配布のわざに参加したとしてあからさまに責めました。もち論,兄弟たちは何も知らなかったので,逮捕された人はほとんどいませんでした。
「今や,新聞によれば,当局者は私たちの大胆さゆえに恐怖感を伴う怒りを抱いているだけでなく,恐れの気持ちを募らせています。ヒトラー政府による4年間にわたる恐怖政治にもかかわらず,依然としてこれほどの運動をこれほどの秘密を保って,しかもこれほど大規模に行なえることを知って,当局者は完全に仰天させられています。とりわけ,彼らは一般民衆を恐れています。警察に文句を言った人々は少なくありませんでしたが,警官や制服姿の他の役人が家庭を訪ねて回り,そうしたちらしを受け取ったかどうかを住人に尋ねると,彼らは受け取らなかったと答えました。というのは,実際のところ,おのおのの家の中のわずか2世帯,多くとも3世帯しかその決議文を受け取らなかったからです。もち論,警察はそうとは知らず,どの戸口にも1部ずつ配られたものと考えていたのです。
「それで,彼らは一般民衆が私たちの決議文を入手したものと思っていますが,警官の尋問を受けた人々は種々の理由で,受け取ってはいないと主張したため,当局者は非常な困惑と恐怖を感じさせられています」。
ゲシュタポははなはだしく失望させられました。彼らは8月28日に展開した広範な運動で私たちの活動を完全に粉砕したものと考えていたからです。それなのに今度は決議文が配られたのです! しかも,彼らはこの活動を前述の自分たちの運動よりももっとずっと広範にわたるものとみなしましたが,事実そのとおりでした。敵が神の民の隊伍に重大な亀裂を生じさせることに成功したのは否定しがたい事実ですが,わざを完全に停止させることには決して成功しませんでした。ラザフォード兄弟のためにまとめられた,1936年10月1日から12月1日までの期間の,地区の奉仕指導者たちからの報告からもわかるように,兄弟たちは自分たちの使命である宣べ伝えるわざを続行しました。その結果は次のとおりです。(数字はすべて概算です)働いた人3,600人,時間2万1,521時間,聖書300冊,書籍9,624冊,そして小冊子1万9,304冊。これは一連の逮捕が行なわれる前の最後の,次のような月の報告(5月16日から6月15日までの)と比べてさほど劣るものではありませんでした。働いた人5,930人,時間3万8,255時間,聖書962冊,書籍1万7,260冊,そして小冊子5万2,740冊。
「公開状」による暴露
1936年12月12日に決議文が配られた後に行なわれた聴問や裁判ではそのほとんどすべての場合,決議文のことが指摘されました。役人は決議文の陳述は真実ではないし,その主張を裏づける証拠を私たちは提供できないとして,兄弟たちの多くをそれまでよりももっとずっとひどい目に会わせました。そこで責任を持つ兄弟たちは,決議文の場合と同様の,「公開状」を配布する「電撃的運動」をラザフォード兄弟に提案しました。そうすれば,ゲシュタポの主張の偽りを証明する答えを彼らに提供できる訳です。ラザフォード兄弟はその提案に賛成し,「公開状」の作成をスイスのハルベク兄弟に頼みました。同兄弟は1936年に至るまでの収集された迫害に関する資料すべてを利用できる立場にあったからです。
その公開状から引用した次の一節は,敵に対して公に答える際に兄弟たちが容赦ないどんな論法を用いたかをはっきりと示しています。
「私たちはクリスチャンとしての辛抱強さと羞恥心のゆえに,こうした暴虐行為にドイツはもとより他のあらゆる場所の人々の注意を引くことをも今に至るまで長く差し控えてきました。私たちは,エホバの証人が前述の残忍な虐待を被ってきたことを示す圧倒的な量の証拠書類を所有しています。特にこうした虐待に対して著しい責任を負っているのは,ドルトムントのタイスという名の人物およびゲルゼンキルヘンとボホムの秘密警察のテンホフならびにハイマンです。彼らは馬のむちやゴム製の棒を用いて女性を虐待するのをいといませんでした。ドルトムントのタイスとハムの国家警察のある官憲は,クリスチャンの女性を虐待するサディスト的残忍さの点で特に知られています。私たちは,暴行を受けて殺されたエホバの証人の事件およそ18例の犠牲者の氏名および残虐行為の詳細な記録を所有しています。一例を挙げれば,1936年10月初め,ウェストファーレン州ゲルゼンキルヘン市ノイフュラー街に住むペーター・ハイネンという名の一エホバの証人は,同市市役所で秘密警察の役人たちに打ち叩かれて死にました。この悲惨な事件はドイツ首相,アドルフ・ヒトラーに報告されました。同報告書の写しはドイツの大臣ルドルフ・ヘスおよび秘密警察の長官ヒムラーにも送られました」。
「公開状」が作成された後,その全文はベルンでアルミニューム製のステンシルに打たれてプラハに送られました。地下活動でフロスト兄弟と密接な関係を持って働いていたイルゼ・ウンテルデルフェルは,プラハに報告を届け,またそこで情報を受け取って来るよう時々同兄弟から指令を受けました。プラハへそうした旅行をしたある時,ウンテルデルフェル姉妹は,購入したばかりの回転式謄写印刷機で「公開状」を印刷するために用いる予定のそのステンシルを与えられました。1937年3月20日,ウンテルデルフェル姉妹はその大事な包みを持ってベルリンに到着しました。
フロスト兄弟はこう報告しています。「私はその包みを受け取り,次いでその『危険な』品物を別の姉妹に渡しました。そして彼女はそれを安全な場所に隠しました。その晩,私と,その大切なステンシルを運んで来たウンテルデルフェル姉妹とは,留まっていた家で逮捕されました。ナチ独裁政権に残されている存続期間中私たちが自由を失ってしまったという事実を受け入れるのはつらいことでしたが,それでも私たちは新しいパンフレットを用いる運動を無事行なえるよう取り計らえたことを知って嬉しく思いました」。
しかし,フロスト兄弟の考えは間違っていました。留置所に護送される際,警察の車の中で彼は自分のすぐわきに回転式謄写印刷機が置かれているのを知ったからです。ゲシュタポは家宅捜査のさいそれを見つけていたのです。そのうえ,他の機械には用いられない問題のステンシルは紛失したらしく,二度と再び見つかりませんでした。
フロスト兄弟からステンシルを受け取った,その運動の詳細を熟知していたイーダ・ストラウス姉妹も同様に考えていました。彼女はその時のことを思い起こしてこう述べました。「私はアルミニューム製のステンシルを鞄に入れ,その機械の置いてある所に運んでいました。それは夜も遅くなってからのことで,あたりは暗闇でした。と,その家の持ち主で,関心のある人が階段の上に立って声をかけてくれました。『すぐに逃げて,安全な所に隠れなさい。ゲシュタポは機械を没収し,兄弟たちを逮捕し,ほんの少し前まであなたを待ち受けていたのですが,とうとうあきらめたのですよ』。さて,どうなるのでしょう。その後,数日のうちに私は,多くの兄弟たちがその晩逮捕されたことを知りました。それで,兄弟たちの中に組織と何らかの関係を持っている人をひとりも見いだせませんでした。
「そこで今や,私はエホバのわざのために恐れずに身を挺することのできる一人の兄弟と数人の姉妹たちを探し求め始めました。私は自分がゲシュタポのブラックリストに載せられており,いつなんどき逮捕されるかわからないことを知っていました。そして,そのとおりの事態がまさしく生じましたが,そのわざは忠実な人たちの手に引き継がれたので,私は嬉しく思いました」。
「公開状」のステンシルに関するかぎり,ストラウス姉妹の考えもやはり間違っていました。機械は没収されてしまい,別の機械は入手できなかったのですから,ステンシルはもはや使いものにはなりませんでした。
今やフロスト兄弟が逮捕されたので,ルツェルンでラザフォード兄弟との話し合いの際に決定されたとおり,ハインリヒ・ディーチーが仕事を引き継ぎました。彼の最初の目標は,この「公開状」を出すことでした。そこで彼はレムゴでストローマイヤー兄弟と連絡を取りました。ストローマイヤー兄弟とクラックハン兄弟はともに,「1936年の年鑑」を印刷したかどで6か月の服役刑に服し,刑期を終えたばかりでした。しかし,ストローマイヤー兄弟は助力することに応じました。
問題はステンシルをスイスから再び入手することでした。このたびは紙型を受け取ったので,印刷用のプレートを作るために,兄弟たちはまず最初,その紙型に鉛を流して鉛版を作らねばなりませんでした。スイスで「公開状」が20万部印刷された後,ディーチー兄弟は同地から紙型を入手しましたが,それを国境越しにドイツに運び込む企ては失敗してしまいました。
さて,印刷の問題が解決した後,「公開状」は1937年6月20日に「電撃的運動」を行なって配布することになりました。エルフリーデ・レール姉妹はこう伝えています。「ディーチー兄弟はその運動を組織しました。私たちはみな勇気を抱いていましたし,万事見事に取り決められており,おのおのの地区には十分の分量の公開状がありました。私はブレスラウ周辺の区域のための公開状の入った大きなスーツケースを駅で受け取り,リーグニツの兄弟たちのもとに運びました。私もまた自分自身の分を持っており,所定の時刻に他の兄弟たちすべてと同様,それを配布しました」。
「公開状」の配布はゲシュタポに不意打ちを食らわせたに違いありません。なぜなら,彼らは組織を完全に壊滅させたとして何か月もの間豪語していたからです。それで,彼らの興奮は募るばかりでした。それはまるで突然だれかがあり塚を引っかき回したかのようでした。彼らはまるで明確な目標もなく逆上してでもいるかのように,あわてふためいて走り回りましたが,ドルトムントのタイスのような人々は特にそうでした。
しかし,タイスの勝ち誇った時代もその終わりに近づきました。タイスはエホバの証人を扱う場合,憐みをかけてはならないと考えていたので,ある日,ウンチという名のかつての兄弟の所有する家の家宅捜査を行なわせました。ところが,その人は後に真理を捨てて,ヒトラーの空軍の特務曹長として勤務していたのです。ウンチが帰宅したところ,家宅捜査を受けたことを妻から知らされました。彼は直ちにドルトムントのタイスのもとに行き,なぜそうしたのかを問い正しました。空軍の特務曹長が眼前に立っているのを見て驚いたタイスは,口ごもりながら言いました。「あなたは聖書研究者たちの支持者ですか」。ウンチは答えました。「彼らの話は幾らか聞きました。しかし,どこへ行っても,何かは耳に入るものです」。そこで,タイス夫人が話をさえぎりました。と,興奮したタイスが話に割り込んで言いました。「事情を知ってさえいたなら,私は聖書研究者たちを撲滅する試みは決して始めなかったでしょう。これは人を狂気に追いやりかねません。やつらを一人投獄できたと思っていると,突如ほかに十人もの連中が現われて来るのです。そもそもこういう事に手を出したのが間違いでした」。
悪魔の手先となった彼の良心がいつか安らぎを得たとは考えられません。それとは逆に,「キリスト教に対する十字軍」と題する本は,「ガリラヤ人たち,あなたがたは勝利を得ました!」という副見出しの箇所で次のように結んでいます。
「これまで再三指摘されてきたドルトムントのタイスは,ここしばらくの間自分の不法行為のゆえに良心の恐ろしい痛みを経験しており,悪霊たちにより彼は徐々に精神異常に追いやられているとのことである。数か月前のこと,彼は150人のエホバの証人を『引き裂いた』といって豪語した。『エホバよ,私はあなたを永遠にさげすもう。バビロンの王よ,万歳』とごう然と言ってのけたのは,ほかならぬ彼であった。
「ところが今や彼はそれらの人々を調べても,もはや彼らを苦しめたりはしないと約束するようになり,そして恐ろしい処罰を免れ,また彼をさいなんでいる恐るべき精神的責め苦から解放されるためには何をしなければならないかを教えて欲しいと彼らに懇願しているのである。彼は,『虐待せよとの命令を上から』受けたと言っているが,今やそうすることをやめたいと思っている。なぜなら,新しいエホバの証人がいつも次から次に姿を現わすからである。主人を敵に売り渡した後のユダのように,タイスは悔い改めを求めてはいるが,それを見いだせずにいるのである。ゲシュタポの官憲その他の党員で,エホバの証人の確固不動の態度にすっかり動揺させられ,自分たちの行ないの誤りを認めてその仕事をやめた例は少ないとはいえ幾つかあるのである」。
「公開状」の配布はゲシュタポを大いに憂慮させたので,彼らは直ちに捜査網を張りめぐらし,ほんの数日後には手掛りをつかみ,官憲は「公開状」を印刷したレムゴのストローマイヤーとクラックハン両兄弟のもとに直行しました。そして,両兄弟が少なくともそれを6万9,000部印刷していたことを確かめることができました。両兄弟はそれぞれ3年の懲役刑を宣告され,刑期を終えた後,ゲシュタポはその二人を「矯正不能者」と称して保護拘禁処分に付しました。
さて,地区の奉仕指導者たちの大半が逮捕されてしまったため,防御線の裂け目を満たし,ディーチー兄弟と諸会衆との連絡を保つため,姉妹たちの助力が要請されました。その一人はエルフリーデ・レールで,彼女はフロスト兄弟とウンテルデルフェル姉妹の逮捕後,ディーチー兄弟と連絡を取ることに努めました。そして,ウュルテンベルクに旅行し,方々を捜した後,シュツットガルトでディーチー兄弟を見つけました。同兄弟は彼女を一緒に連れて行き,兄弟たちとの連絡を保つさまざまな方法を教えました。同時に,持ち運びできるラジオ送信機をオランダに設置し,1937年の秋ごろ使用するため広範囲にわたる準備もなされていました。ゲシュタポは既にその事をかぎつけ,ディーチー兄弟に対して激しい怒りを抱きましたが,その名前を知っているだけで,同兄弟はかつてのバンドレス兄弟の場合と全く同様,捕えどころのない人物でした。
ディーチー姉妹がゲシュタポに逮捕され,ドルトムントの悪名高い「スタインヴァッヘ」に連れて行かれたのはこの同じ時分だったに違いありません。ゲシュタポは強制的に姉妹に夫がどこに隠れているか話させようとしましたが,彼女は口を割りませんでした。彼女はあまりの虐待を受けたため,以来その一方の足は他方のそれより短くなってしまいました。その上,釈放後は数週間,アルコールに浸した包帯で全身を巻いて治療をしてもらわねばなりませんでした。
1937年パリ大会後の余波
1937年のパリ大会には前年行なわれたルツェルンでの大会同様,ラザフォード兄弟が出席することになっていました。このたびはドイツからその大会に出席できたのはわずかに数人の兄弟たちだけでした。敵は兄弟たちの隊伍に大きな切れ目を作り出していたのです。その大会に出席し得た少数者の一人,リッフェル兄弟は後日,レーラハとその近辺だけでも約40人の兄弟姉妹たちが投獄され,そのうちの10人は紋首刑にされたり,ガス室で殺されたり,銃殺されたり,あるいは餓死したり,強制収容所での「医学実験」のために死んだりしたと伝えています。
パリでも別の決議が採択されましたが,その決議はエホバと,イエス・キリストの支配下にあるその王国とに関する私たちの破れることのない明確な態度をもう一度明らかに述べ,ドイツにおける残忍な迫害に公に注意を喚起し,責任を持つ人々に神の義の裁きについて警告するものでした。
ドイツの最後の地区の奉仕指導者が2週間留守をしている間に色々の事柄が起きました。ディーチー兄弟が奉仕の面の諸問題を話し合うために15人ほどの兄弟姉妹を招いて毎週開いていた集まりにいつも出席していたレール姉妹が逮捕されてしまいました。そのいきさつは次のようなものでした。
その集まりはたいてい朝9時ごろに始まり,しばしば午後5時ごろまで続いたので,兄弟姉妹たちは昼食を一緒に取れないだろうかと尋ねていました。そして,レール姉妹が料理をするよう求められていました。兄弟たちは安全上の理由で会合の場所を毎回変えていたので,食事を用意するのに用いる大きなシチュー用の鍋を一つの場所から次の場所へと運ばねばなりませんでした。最近逮捕された兄弟たちから聞いたのか,それとも他の何らかの方法で知ったのかはわかりませんが,ゲシュタポはパリ大会が開かれる前の最後の集まりの行なわれた場所をつきとめました。ゲシュタポはそのアパートを監視し,次の集まりが開かれる3,4日前レール姉妹がシチュー用の鍋を取りに来るのを見届け,集まりの行なわれる新しい場所まで尾行して直ちに彼女を逮捕しました。ゲシュタポはやがて会合のための新たな場所だけでなく,ディーチー兄弟の秘密の隠れ家をも見つけたことに気づきました。ディーチー兄弟はパリ大会の後,まっすぐベルリンに戻り,何らかの危険が潜んでいるかどうかを確かめずにそのアパートに入ったのです。わなに陥った彼は,その場で逮捕されてしまいました。当然のこととして,旅行するしもべたちの今やさらに小さくなったそのグループの集まりは,時間や場所を変えねばなりませんでした。
ディーチー兄弟は何年もの間,地下活動に携わってたゆまず働き,危険に面してもたじろぐことはありませんでした。彼は懲役4年の刑を宣告されましたが,仲間の兄弟たちの大多数とは異なり,刑を終えた後,強制収容所には入れられませんでした。
1945年,わざが再組織され始めた時,彼は「同信の友のためのしもべ」として諸会衆に奉仕し始めた最初の人たちの一人でした。しかし残念なことに何年かの後,彼は自分自身の理論を展開し始め,エホバの組織から離れ去って行きました。
ところで,1937年に戻りましょう。兄弟たちの隊伍に再び危険な切れ目が作り出された後,バンドレス兄弟はそうした切れ目を,少なくとも一時的にせよ埋め合わせて,兄弟たちに霊的な食物を確保させようとしました。フランケ兄弟が逮捕された後,バンドレス兄弟は彼の区域を引き取りましたが,今や引き継がれていない他の区域に対しても責任を感じたので,バート クロイツナハ出身のアウグステ・シュナイダー姉妹に,バート クロイツナハ,マンハイム,カイゼースラウターン,ルートウィヒスハーフェン,バーデン-バーデンおよびザール地方全体の兄弟たちに霊的な食物を届ける仕事を依頼しました。この非常に困難な時期に旅行しなければならなかった兄弟たちすべての場合のように,彼女には別の名前がつけられ,以後「パウラ」と呼ばれることになりました。
敵が特にザクセン地方で盛んに活動していることに気づいたバンドレス兄弟は,その地方の世話をフライブルク出身のヘルマン・エムターに依頼しました。9月3日,ふたりはドレスデンまで旅行しました。バンドレス兄弟はその地に一度も行ったことがありませんでしたが,ゲシュタポはふたりを待ち受けていたのです。こうして,3年にわたった追跡捜索は遂に終わりました!
9月の半ばごろ,バンドレス兄弟に関連して設けられていた取決めに従って,それとは知らずに「パウラ」は,文書のいっぱい入った二つの大きなスーツケースを持ってビンゲンの駅で待っていました。すると突然ひとりの紳士が近づいて来て彼女に言いました。「今日は,パウラ。アルバートは来れないので,あなたは私について来なければなりません!」この言葉に逆らうのは無駄でした。その見知らぬ男はゲシュタポだったからです。彼はこう言い足しました。「アルバートを待つには及びません。私たちは既に彼を逮捕しましたし,彼の持っていたお金も全部取り上げました。……バンドレスさんは,あなたが二つの大きなスーツケースを持ってここにいることも,またあなたの名前がパウラであるということも話しました!」ゲシュタポがその情報をどこから得たかは今もってなぞとされています。しかし,それは,すなわちある兄弟たちがこうこう言ったと主張して,兄弟たちの間の信頼の念を打ち砕き,そうした「裏切者」から手を引かせようとする方法はゲシュタポの常とう手段でした。
終身拘禁を図る計画
こうした一連の逮捕事件とともにドイツの兄弟たちにとって重要な一時代が終わりました。十分に組織された活動の時期が終わりを告げました。今やあらゆる事柄は,戦いが新たな様相を呈し始めたことを指し示しました。今やゲシュタポは,エホバをあくまでも捨てない勇敢な個々の人々を抹殺して組織を滅ぼすことを目標にしました。
1937年5月12日にジュッセルドルフェルのゲシュタポが出した回状によれば,今後聖書研究者たちは,司法上の逮捕令状がない場合でも,単なるけん疑という理由で強制収容所に入れられることになりました。そして,同様の通告がドイツ中に伝えられました。その上,裁判所が定めた懲役刑を終えた聖書研究者たちは,自動的に強制収容所に入れられることになりました。その決定は1939年の4月には適用をさらに厳しくされ,さらに長期間にわたるものにされました。今後は,エホバとその組織とのいっさいの縁を切るという趣旨の宣言書に署名した人だけが釈放されることになりました。その宣言書に署名するかどうかを決める機会すら与えられなかった兄弟たちも少なくありませんでした。
エッセン出身のハインリヒ・カウフマンは懲役刑を終えて自分の平常の服を身に着けたとき,保護拘禁されることになっていると刑事から聞かされただけでした。しかし,まず最初,1年半見ずに過ごした自分の家に連れて行かれ,こう尋ねられました。「信仰を破棄してヒトラーに従いたくはないか」。同時に,わが家の鍵と9キロあまりの食物の入った包みを示され,それに妻もラベンスブルクの強制収容所から送還されることになるだろうと約束されました。が,カウフマン兄弟はその勧めを退けました。
エルンスト・ヴィースナーが伝えているように,時には兄弟たちをだまそうとする企てがなされました。釈放される予定の少し前のこと,彼は一枚の書類を示されました。文面はあまりにも漠然としたものだったので,注意深く読み通した後,これなら署名できると決心しました。しかし,今や策略に面しました。ヴィースナー兄弟はそのページの一番下の箇所に署名しなければならず,そのページの下半分は余白のままだったのです。ヴィースナー兄弟が明らかな良心を抱いて署名し得ないような内容の事柄を,ゲシュタポは確かにあとで書き足すつもりだったに違いありませんでした。しかし,ゲシュタポがしようとしていた事にすぐ気づいた彼は,署名するのをやめさせられないうちに,タイプライターで打たれた本文のすぐ下に署名しました。その結果,署名したにもかかわらず釈放されず,かえって刑期が満了する3週間前,彼は直ちに強制収容所に移されることになったと秘密警察から知らされました。
強制収容所 ― 大きく口を開いた底知れぬ深い所
「歴史季刊」と題する1962年の2回目の小冊子の中で著者ハンス・ロスフェルスはこう記しています。「敬謙な聖書研究者にとって強制収容所に入れられた事態は,国家社会主義者の支配下で苦しんだ時代の最後の,そして最も困難な段階となった。……」。
その大多数の人たちにとって慰めとなったのは,迫害の熱で鍛錬された忠実な兄弟たちが既に収容所に監禁されていたという事実でした。それらの兄弟たちとともにおり,また彼らの愛ある世話を経験するのは,「新参者」ひとりびとりにとって心を慰め,活気づける事柄でした。
しかし,私たちの兄弟たちが確固不動の態度を示すのを見た当局者がそうした事態を政府に報告すると,政府側はいつも兄弟たちの苦しみを増し加えさせる方法ばかり考えました。それで,しばらくの間,エホバの証人が収容所に着くと,さまざまな方法で拷問を受けるほかに,おきまりの仕打ちとして鋼鉄製のむちで25回打たれるようになりました。彼らの重労働は朝4時30分に始まり,囚人たちは皆,収容所のベルの音で目を覚まさせられました。ベルが鳴るとすぐ,一騒動が起きます。ベッドを整え,顔を洗い,コーヒーを飲み,また点呼が取られますが,そのすべてが大急ぎで行なわれます。何事も普通の速さで行なうことはだれにも許されていません。囚人たちは点呼の行なわれる場所に行進し,次いでそれぞれ進み出てさまざまの作業班に加わります。それに続いて今やまさに劇的事態が生じます。砂利や砂,石や棒,さらにはバラック式の営舎全体をそのまま運ぶ作業が,それも一日中,しかもすべて大急ぎで行なわれるのです。絶えず囚人たちをどなりつけ,忍耐を極限まで強いた工事監督たちは,ヒトラーが提供し得た最悪の人間でした。
彼らはイエスが同様の苦しみに会ったことを思い起こしては,慰めと励みを得,非人道的な虐待を受けながらも,それに耐える力を得ました。
変化を添えるために,時にはこれといった理由がないのに「処罰教練」が行なわれました。兄弟たちはしばしば,食物なしで我慢するよう強制されました。やっと腰をおろして食事を取れるものと思っていた疲れた兄弟が,さらに4,5時間強制的に中庭で気をつけの姿勢のまま立たされるのは,実につらい試練でした。しかもそれが,単にある兄弟の上着のボタンが一つ取れていたとか,あるいは何か他のささいな規則違反をしたとかというただそれだけの理由で行なわれたのです。
そして,最後には寝ることを許されましたが,それも空腹に耐えて眠れればのことでした。しかも,夜は必ずしもただ眠るためだけの時ではありませんでした。しばしば,バラックの悪名高い「ブロックの指導者」が一人,時には数人真夜中に現われては囚人を恐喝しました。時には,空中やバラックのたる木めがけて連発拳銃を乱射してはそうした夜半のできごとを引き起こしたりしました。そうなると,囚人たちは夜着のままバラックの中を逃げ回ったり,バラックの上によじ登ったりせざるを得ませんでした。しかも,「ブロックの指導者」が望むだけそうしていなければならなかったのです。そのような仕打ちを受けて一番ひどく体をいためたのは年長の兄弟たちだったのももっともなことで,そのために命を失った人は少なくありませんでした。
1938年3月には,強制収容所内のエホバの証人に対して文通の全面的禁止が実施されました。その措置は9か月間続きましたが,その間,兄弟たちは親族との連絡を断たれましたし,親族も連絡を取れませんでした。その禁止措置が解除された後でさえ,エホバの証人各人に対して親族あての便りを1か月にわずか5行だけ書くのを許すという制限が3年半ないし4年,ある収容所などではもっと長く続きました。しかも,次のような趣旨の本文が事前に用意されていたのです。「お手紙受け取りました。本当にありがとうございます。私は元気で,健康に恵まれ,達者です……」。しかし,「私は元気で,健康に恵まれ,達者です」という趣旨のその手紙が届く前に死亡通知書が届いた例もありました。また,その本文の下の空白の箇所には,次のような文面のスタンプが押してありました。「この囚人は相変わらず頑迷な聖書研究者であり,また聖書研究者の誤った教えを捨てようとはしていない。それゆえに,通常の文通の特典を与えられていない」。
好敵手に会った「フォアスクエア」
強制収容所での生活は日々不安に満ちたもので,しばしば収容所の司令官のためにそうした事態がもたらされていました。ザクセンハウゼンの司令官は一時,バラノヴスキーという名の男でしたが,そのがっしりした体格のゆえに囚人たちはほどなくして「フォアスクエア」(正方形の意)というあだ名を彼につけました。
彼はたいてい新たに囚人たちが到着するたびに自ら囚人たちに会って,「歓迎の話」をしましたが,その話はたいてい次のような言葉で始まりました。「私は収容所の司令官で,『フォアスクエア』と呼ばれている。さて,皆よく聞いておけ! おれはお前たちの望みのものを何でも,つまり頭にでも,胸にでも,腹にでも一発くらわせることができるんだぞ! お望みなら,お前たちは自分ののどを切り裂けるし,自分の動脈を切り開くこともできるのだ! やりたいなら,電気の通っているへいに走って行ってもよい。ただし,私の部下は上手な射手だということを忘れるな! 彼らはお前たちを即刻天国に行かせるぞ!」 そして,彼は決して機会を逸することなく,エホバを,あるいはその聖なるみ名を愚ろうしました。
ところで,エホバの証人の活動が禁じられた初めのころ,ディンスラーケン出身の23歳くらいの青年が真理を学んでいました。彼はまだバプテスマを受けてはいませんでしたが,ゲシュタポに逮捕されて裁判にかけられました。彼の名前はアウグスト・ディックマンといいました。刑期を終えた後,ゲシュタポの圧力に屈して「宣言書」に署名しました。それは明らかに,それ以上迫害を被らずに済むよう期待してのことでした。にもかかわらず,彼は懲役刑を終えた後,1937年の10月直ちにザクセンハウゼンに送られました。その収容所の兄弟たちはあらゆる機会を捉えては,人を励ます楽しい話し合いを行なっていたので,それら兄弟たちの中にいて彼は,自分が弱さに負けて敵と妥協してしまったことに気づきました。そして,悔い改めた彼は,自分の署名した声明書の取り消しを願い出ました。
そのうちに,彼の肉身の兄弟ハインリヒもやはりザクセンハウゼン収容所に入れられました。そこでアウグストは彼に,問題の声明書に署名したこと,しかしその後,それを取り消してもらうよう要請したことについて話しました。
次いで何週間かがたちまち経過しました。1939年の後半に二度目の世界大戦が勃発するに至って,同収容所の司令官バラノヴスキーは自分の計画を実行し始めました。アウグスト・ディックマンがその妻から,ディンスラーケンの自宅に送られた徴兵伝票を送り届けてもらった時,同司令官は好機が到来したと考えました。大戦が勃発して3日後のこと,ディックマンは「政治部」に出頭するよう命ぜられました。アウグストからそうした新しい事態について知らされたハインリヒは,今や戦争が勃発したからには万一の覚悟をしておかねばならないと,点呼が取られる前にアウグストに警告しました。彼は自分が何をしたいと考えているのかを十分に確信していなければなりませんでした。彼は答えました。「彼らは私に関してしたい事は何でもできます。しかし私は署名しませんし,二度と妥協はしません」。
その日の午後,聴問会が開かれましたが,アウグストは兄弟たちの所には戻りませんでした。あとでわかったのですが,彼は徴兵伝票に署名するのを拒否しただけでなく,立派な証言をも行ないました。収容所の司令官は事件をヒムラーに報告し,兄弟たちはもとより同収容所の囚人全員の面前でディックマンの公開処刑を執行する許可を求めました。その間,彼は地下牢の独房に監禁されました。司令官は,エホバの証人といえども,もし実際に死に直面するなら大勢の者は署名するに違いないと確信していました。それまでは大多数の人々が署名を拒否していましたが,単に脅しを受けたに過ぎなかったのです。ヒムラーは返信の中でディックマンに死刑を宣告し,その執行を命じました。こうして今や,「フォアスクエア」にとっては『大芝居』を打つ道が開かれました。
それは金曜日のことでした。収容所全体には不気味な静けさが垂れ込めていましたが,突如司令部の一群の兵士がやって来て,ほどなくして中庭に射撃場を設けました。もち論,そのためにさまざまな噂が飛びました。仕事をいつもより1時間早く止めるよう命令が出されるに及んで,興奮はいよいよ募りました。パウル・ブデルは仲間の作業班の人々と一緒に行進して戻ってきた時,ある親衛隊員が笑いながら彼に,「今日は昇天祭だ! お前たちのうちの一人が今日天国に行くはずだ」と言った時のことを今でも覚えています。
ハインリヒ・ディックマンが割り当てられていた作業班が入って来たとき,収容所の長老が彼に近寄り,何が行なわれようとしているかを知っているかと彼に尋ねました。知らないと答えると,彼の兄弟アウグストが銃殺されることになったと聞かされました。
しかし,ゆっくり話し合っている時間はありませんでした。囚人全員が行進して広場に出るようにとの命令が出ていたのです。エホバの証人は,狙撃隊が立つ場所の真正面に立たされました。すべての人々の視線はその場所に注がれました。親衛隊の護衛兵が行進して入って来ましたが,いつもより四倍も厳しい警戒処置が講じられました。銃の覆いははずされており,いつ何時でも撃てるよう実弾が装填されていました。また,親衛隊員たちは高い壁の上に立ち,行なわれようとしている事柄を今か今かと待っていましたが,その人数があまりにも多かったので,その流血の惨劇を眺めるよう親衛隊員全員がそこに居合わせることを命じられたように思えるほどでした。正門は太い鉄の棒でできており,強烈な刺激を好む親衛隊員はその前に立ったり,まるでぶどうの房のようにその鉄棒にぶら下がったりしていました。中には,もっとよく見えるよう,横木の上によじ登った者もいました。彼らは好奇心にあふれた目つきをしていただけでなく,血に飢えた目つきをしていました。中には,ある程度の恐れを示す表情も見られました。だれでもまもなく何が起きるかを知っていたからです。
両手を前で縛られたアウグストは,親衛隊の数人の上級将校に付き添われて入って来ました。戦いに既に勝った人のような落ち着き払った穏やかなその態度にすべての人は深い感銘を受けました。約600人ほどの兄弟たちがその場に居合わせ,彼の肉親の兄弟ハインリヒはわずか数メートル離れたところに立っていました。
と,突然,マイクのスイッチが入れられ,拡声機が耳ざわりな音を出しました。すると,皆の耳に「フォアスクエア」の声が聞こえました。「囚人たち,よく聞け!」 直ちにあたりは静まり返りました。彼が話し続ける間,聞こえるものと言えばそれはこの怪物のような男のぜん息気味の息づかいだけでした。
「1910年1月7日生まれ,ディンスラーケン出身の囚人,アウグスト・ディックマンは,自分は『神の王国の市民』であると唱えて軍務に服することを拒否してきた。彼は,人の血を流す者は自分の血を流させられることになると述べ,自らを社会ののけ者にしたので,親衛隊の指導者ヒムラーの命令に従って彼は処刑されることになった」。
あたり一面死んだように静まり返った中庭で,「フォアスクエア」の声だけが流れ続けました。「1時間前に私はディックマンに,彼のみじめな人生が6時に消し去られることを知らせた」。
すると役人の一人が近づいて,囚人が決意を翻して徴兵書類に快く署名するかどうかもう一度聞いてみるべきかどうかと尋ねたところ,「フォアスクエア」は,「それは無駄だろう」と答えました。そして,ディックマンの方を振り向き,「この野郎,後ろを向け」と命令し,次いで射撃を命じました。その時,ディックマンは3人の親衛隊員によって後ろから狙撃されました。その後,親衛隊の上級将校の指揮官が歩み寄って,遺体の頭部を銃で撃ち,その頬に血を流れ落とさせました。そして,親衛隊の下級将校の一人が遺体から手錠をはずした後,4人の兄弟たちが遺体を黒い箱に収めて収容室に運ぶよう命じられました。
さて,他の囚人たちは全員解散してバラックに戻ることが許されましたが,エホバの証人はその場に留まっていなければなりませんでした。今や「フォアスクエア」はその主張を実証する時となりました。彼は大いに語気を強めて,信仰を否認するだけでなく喜んで兵士になる旨記した声明書に今やだれが署名する覚悟があるかと尋ねました。だれも答え応じませんでした。すると,ふたりの人が進み出たのです! しかし,声明書に署名するためではありません。何とその二人は1年ほど前に記した自分たちの署名を取り消してもらいたいと願い出たのです。
さすがの「フォアスクエア」もそれには参ってしまい,激しく憤って中庭を出て行きました。案の上,兄弟たちはその夜,またその後の数日間非常にひどい目に会わされましたが,それでも確固とした立場を保ちました。
その後数日間,ディックマンの処刑のニュースがラジオで数回伝えられましたが,明らかにそれはなお自由の身であった他の証人たちを脅すためでした。
3日後,彼の兄弟ハインリヒは「政治部」に出頭を命じられました。その処刑から彼がどんな影響を受けたかを調べるため,ゲシュタポの二人の高級将校がベルリンから来ていました。彼自身の報告によれば,次のような会話が交されました。
「『お前は自分の兄弟が銃殺されるのを見たか』。『見ました』と私は答えました。『お前はそのことから何を学んだのだ?』『私は今も,また今後いつまでもエホバの証人です』。『それじゃあ,今度はお前が銃殺される番だぞ』。それから私は幾つかの聖書の質問に答えることができましたが,遂に一将校は叫びました。『何と書いてあるかなどは知りたくない。おれが知りたいのは,お前がどう考えているかということだ』。そして,祖国を守る必要があることを私に教えようと努める一方,絶えず次のような言葉をさしはさみました。『今度銃殺されるのはお前だぞ……次に転がるのはお前の頭だ……今度倒れるのはお前だ』。それで遂に別の将校が言いました。『これは無駄だ。記録はここでやめろ』」。
次いでもう一度,署名するようその声明書がディックマン兄弟の前に置かれました。彼は署名を拒んで,こう言いました。「もしこの書面に署名して国と政府の主張を認めるなら,私は自分の兄弟の処刑に同意した旨を示すことになります。それは私にはできません」。すると,「では,お前はあとどれだけ生き長らえられるか数えるがいい」と言われました。
ところで,「フォアスクエア」ほどにエホバを侮り,エホバに挑戦した人間はごくまれにしかいませんが,彼自身はどうなりましたか。その後ほんの数回収容所でその姿を見かけただけで,あとは全然姿を見せませんでした。とはいえ,囚人たちは,アウグスト・ディックマンの処刑後まもなく彼がひどい病気にかかったことを知りました。5か月後,彼はエホバやその証人たちを侮る機会を二度と再び持つことなく死にました。1938年3月20日,「フォアスクエア」は兄弟たちを「隔離作業班」に入れたとき,「おれはエホバを相手にして戦うことにしたのだ。おれか,それともエホバか,どっちが強いか確かめるのだ」と言いました。しかし,勝敗は決まり,「フォアスクエア」は敗れました。私たちの兄弟たちは数か月後,「隔離作業班」から解放され,ある兄弟たちはある程度の救済を受けましたが,一方,「フォアスクエア」は重態に陥り,将校たちがその病床を訪ねると,彼は「聖書研究者たちがおれを祈り殺そうとしている。彼らのひとりをおれが銃殺させたからだ!」と言ってはすすり泣いていたという噂が収容所中に広がってゆきました。また,彼が死んだ後,その娘は父の死因について尋ねられると決まって,「父は聖書研究者たちに祈り殺されました」と答えたというのはやはり事実です。
ダハウ
レーテ出身のフリードリヒ・フレイ兄弟はダハウの「隔離グループ」で被った取扱いについてこう伝えています。「飢えや寒さや苦痛はとても筆舌に尽くせるものではありません。私は一度ある将校に長靴で腹部を蹴られ,ひどい病気になりました。別の時には,繰り返し叩かれたため,鼻柱の形がすっかり変わり,今でも呼吸のさいに困難を感じています。ある時など,ひもじさを和らげたくて作業時間中に乾燥したパンくずを二かけらばかり食べているところを一人の親衛隊員に見つけられ,長靴で腹部を蹴られたうえ,地面になぐり倒されました。さらに罰として,両腕を鎖で後ろ手に縛られ,高さ3メートルほどの棒につるされました。私はそのような異常な姿勢と体重の重圧のため血液の循環を阻まれ,極度の苦痛に襲われました。ある親衛隊員は私の両足をつかんで前後に振りながら叫びました。『お前はまだエホバの証人なのか』。しかし,私は答えることができませんでした。なぜなら,断末魔の苦痛のもたらす汗が額に吹き出ていたからです。以来そのために今に至るまで私は神経のけいれん収縮症に見舞われています。私はその時,私たちの主また主人が両手と両足を釘づけにされて過ごした最後の数時間のことを考えざるを得ませんでした」。
ダハウでは“クリスマス”の少し前,大きなクリスマス・ツリーが立てられ,電気で灯をともすろうそくその他の飾り付けが施されました。百人余のエホバの証人を含め,収容所の4万5,000人の囚人は平穏な2,3日を過ごせるものと期待していました。しかし,何が起きたのでしょう。囚人たちが全員営舎にいたクリスマス・イブの午後8時,突然収容所のサイレンが鳴り響きはじめました。囚人たちはできるだけ早く行進して中庭に出ることになりました。親衛隊の楽隊の演奏が聞こえてきました。完全武装をした親衛隊員5中隊が行進して入って来ました。親衛隊の将校たちを従えた同収容所の司令官は短い話を行ない,彼ら独特の方法でその晩にクリスマスを一緒に祝いたいと囚人たちに告げました。次いで,氏名の一覧表を鞄から取り出し,過去数週間中に処罰を要請された囚人たちの氏名をおよそ1時間もの間読み上げました。そのうちに角材が持ち出されて組み立てられ,最初の囚人がその上に革ひもで縛りつけられました。その後,鋼鉄製のむちを持った二人の親衛隊員がそれぞれ台の左右の所定の位置に立ち,楽隊が「清しこの夜」を演奏する中で,囚人を打ち始めました。囚人たちは全員,その演奏に合わせて歌うよう求められていました。同時に,25回打たれる囚人は,打たれるたびに大声で数を数えるよう強制されました。そして,新たに囚人が台に縛りつけられるたびに,新たに二人の親衛隊員が進み出てその罰を施しました。確かにそれは“キリスト教国”がクリスマスを祝うにふさわしい方法でした。
そうした取扱いに直面した兄弟たちは強固な信仰,神のみことばの注意深い研究によって強められた信仰を必要としていました。ヘルムト・クネラーは,そうした研究を怠るのはどんなに危険なことか,またそのような試みのさいどんなに不用意な状態に陥る恐れがあるかを経験しました。彼にその経験を話してもらいましょう。
「ダハウでの私の最初の日々は非常に困難な時期でした。20歳だった私は新参者の中で最年少でした。私は日曜日にさえ働かねばならない特別作業班に割り当てられました。監督者は特に私をひどくあしらいました。非常に困難な慣れない仕事を大急ぎで行なわねばなりませんでした。何度も倒れた私は,そのたびに腰までの深さの水のある地下室に入れられ,次いで水を頭から浴びせられては意識を取り戻しました。
「私は体力的にほとんど完全に弱り果てるまで酷使されました。そのような事態が毎日毎日続いたので,そうした生活が何週間も,いや何か月も続く恐れがあることを知って絶望寸前の状態に陥りました。……しかし,困難があまりにも大きくなったため,私はとうとう収容所の指導者たちのもとに行き,私はもはや国際聖書研究者とは一切無関係であるという意味の宣言書に署名してしまいました。その宣言書に署名したのは,家庭で十分研究をしなかった必然的な結果でした。両親も研究をほとんどしませんでしたから,私たち子供はなまはんかな教えを二親から受けたにすぎませんでした。……私はそうした宣言書にはためらわずに署名してよいと聞かされていました。というのは,まず第一にそうした宣言書にはエホバの証人については何も述べられてはおらず,ただ聖書研究者について述べられているだけであり,第二にもし私たちが自由の身になって外部でエホバによりよく仕えられるような結果が得られるのであれば,敵を欺くのは悪いことではないという訳でした」。彼は後にザクセンハウゼンで円熟した兄弟たちに助けられて初めて,クリスチャンとしての誠実さの意味を認識し,信仰を確立しました。
マウトハウゼン
ダハウでも多くの人々がガス室で殺されたり,虐待を受けて殺されたりしましたが,やはりマウトハウゼンは本格的なせん滅収容所でした。同収容所の司令官ツィーライスは,死亡証明書を見る以外のことには何ら関心がないと何度も話しました。事実,6年足らずの期間内に同収容所の最新式の二つの火葬炉で21万人の男子が焼却されました。それは1日平均100人の割合でした。
とにかく働かされるとすれば,囚人はたいてい採石場で働かされました。採石場には冷酷な親衛隊員により「パラシュート兵の壁」と呼ばれる絶壁がありました。何百人もの囚人がその絶壁から突き落とされ,動かぬむくろとなって崖の下に横たわりました。落ちて死んだり,雨水を満々とたたえた排水溝に落ちて溺れ死んだりしたのです。失意に陥り,あえて自らその地の底に身を投じた囚人も少なくありませんでした。
もう一つの呼び物は,いわゆる「死の階段」でした。それは高さのさまざまに異なる186個の石材が階段状にゆるく積み重ねられた所で,階段と呼ばれていました。囚人たちが重い石を肩に載せてやっとの思いでその階段の上まで運んだ後,親衛隊員たちはそれら囚人たちを蹴ったり,ライフル銃の台じりで打ったりしてのけぞらせて「階段」から落とさせ,大勢の囚人が群れをなして滑り落ちて行くのを見物して楽しみました。そのために多くの人々が死に,また上から落ちてくる岩石に当たって死者はさらに増えました。フランクフルト出身のヴァレンティン・スタインバハは,朝120人の男子囚人が一緒になっても,晩になってなお生き長らえて戻ったのは多くの場合わずか20人そこそこだったことを覚えています。
女子のための強制収容所
強制収容所は男子のためだけでなく,女子のためにも設けられていました。ハノーフェルの近くのモーリンゲンに設けられたそうした収容所の一つは早くも1935年に運営されました。エホバの証人に対する弾圧がいっそう厳しくなった1937年にはモーリンゲンの収容所から囚人が立ち退かされ始め,12月には多数の姉妹たちを含め,およそ600人の囚人がリヒテンブルクの収容所に移されました。それら姉妹たちを説得して確固不動の立場を変えさせようとする努力が失敗したため,「処罰班」が組織されました。監督者たちは食べ物を姉妹たちにほとんど与えないで,処罰を加える理由を見つけようとしました。収容所の司令官は姉妹たちに向かって,「生き長らえたいと思うなら,おれのところに来て署名しろ」と言いました。
姉妹たちの誠実さを破らせようとして講じられた一つの方法についてイルゼ・ウンテルデルフェルはこう伝えています。「ある日,ケムニツ出身のエリザベス・ランゲ姉妹は主事のもとに呼び出されました。姉妹は宣言書に署名することを断固として拒んだところ,そのためにそこの古城の地下室の独房に連れて行かれました。そうした古城や地下牢について知っている人ならだれでも想像できることですが,それは非常につらいことでした。それら独房は横桟のある小さな窓が一つある暗い穴でした。ベッドは石造りで,たいてい囚人はわらの俵さえも与えられずにその冷たい固い『ベッド』の上に横たわらねばなりませんでした。ランゲ姉妹は地下室のその穴の独房で半年を過ごし,身体的には苦しめられましたが,忠実を守る決意はゆらぎませんでした。
姉妹たちの確固不動の態度をくじかせようとして講じられた別の方法は,苦しい肉体労働でした。そのために多数の姉妹たちはラベンスブルックに連れて行かれました。最初のグループが到着したのは1939年5月15日でしたが,そのすぐ後に他の姉妹たちも到着しました。同収容所の女子囚人はたちまち950人に増えました。そのうちおよそ400人ほどがエホバの証人でした。それら囚人はすべて,普通なら男子にしか要求されないような非常に困難な建設や清掃作業などの仕事をするよう呼び出されました。残忍さの点では特に知られていた,同収容所の新任の司令官は,苦しい肉体労働を行なわせるなら,姉妹たちを弱らせることができるだろうと考えました。
そうした取扱いを受けた結果,当然のこととして多くの人々が死にました。それに,女子囚人たちの幾つものグループが,マウトハウゼンの場合のように特に大量殺人の設備の整ったアウシュヴィッツに送られました。老齢だったり,不健康だったりした女性や,「優秀な民族」を生み出せる女子に関する親衛隊員の定めた規準にかなわなかった女性は死に面しました。同収容所で起きた事柄についてベルタ・マウエラーはこう述べています。
「私たちは,選別を行なう委員たちの前に裸のまま立たされました。それからすぐ後に最初のグループはアウシュヴィッツに送られました。その中には多数の姉妹たちもいましたが,それら囚人たちはもっと楽な収容所に連れて行かれるのだと思い込まされていました。とはいえ,だれでもアウシュヴィッツはもっとずっと耐えがたい所だということを知っていました。二番目のグループに入れられた人たちにも同様のことが告げられました。その中には,からだの弱い,病気がちの姉妹たちが多数いました。その後まもなく,それら姉妹たちの親族はその姉妹たちの死亡通知を受け取りました。そして,たいていの場合,循環系統の疾患が死因として掲げられていました。
姉妹たちにとって試練をもたらす恐れがあった別の事柄についてバート クロイツナハ出身のアウグステ・シュナイダーはこう伝えています。
「ある日,一囚人が私のところに来てこう言いました。『シュナイダーさん,私はここを出ることになったのよ!』どこに行くのかと尋ねたところ,彼女は答えて言いました。『ここには男が非常に多いので,囚人たちのための売春宿が作られるんですって。私たちは招かれたので,およそ2,30人ほどの女子が自発的に応じたわ。私たちはきれいな服をもらって着飾れるのよ!』 それがどこで行なわれるのかを尋ねると,彼女は答えました。『男子の収容所の中よ』。
「そこで行なわれた事柄は言葉ではとても言い表わせるものではありません。しかし,ある日,親衛隊の一指揮官が私に次のように語りました。『シュナイダー,男子の収容所で起きていることを聞かせてやろう。エホバの証人はひとりも関係していないということをお前にどうしても知らせておきたいからだ!』」。
ラベンスブルックは女子のための強制収容所の中でも一番悪名高い所として広く知られるようになりました。第二次大戦が勃発したとき,同収容所の姉妹たちの人数はおよそ500人に増えました。
ある日,数人の姉妹たちが突然,独房から出て建物全体をきれいにする仕事を命じられました。というのは,ヒムラーが視察に来るということをほのめかしていたからです。ところが,その日が過ぎても彼は姿を現わしませんでした。さて,姉妹たちは既に寝る用意をしていました。つまり,靴を脱ぎ,それを枕がわりに用い,寒いので服を着たままで寝るのでした。また,からだを暖めるため互いにできるだけぴったりと寄り合って横たわり,また時々位置を変えて,各人が一度は外側の,つまり当然もっと寒い場所に横たわるようにしていました。と,突然,廊下で大きな物音が起こり,方々の独房の扉が開かれ始めました。今や姉妹たちは,ドイツで人々の生死を決める男の前に立たされたのです。あら捜しをするような仕方で姉妹たちを調べたヒムラーは幾つかの質問をしましたが,姉妹たちには譲歩する意志が全然ないことにいや応なく気づかされました。
その同じ晩,ヒムラーと随行員たちが去った後,相当数の囚人たちが呼び出され,そして悲鳴を上げるのを他の囚人たちは聞かされることになりました。ヒムラーは女子に対しても「強化された」処罰方法を導入していたのです。それで,女子の囚人たちは裸にされ,鋼鉄製のむちででん部を25回打たれました。
ある姉妹は,多くの人びとが問題に勇敢に直面したことについてこう語りました。「私のいたブロックには,真理を受け入れていたユダヤ人のひとりの女性がいましたが,ある夜,彼女も呼び起こされました。彼女が起き上がったので,その物音を聞いた私は,彼女に慰めの言葉をかけようとしたところ,彼女はこう言いました。『何が私を待ち受けているかを私は知っているわ。でも,私はすばらしい復活の希望を知ったので幸せなの。私は静かに死を待っているのよ』。そして彼女は,雄々しく歩いて出て行きました」。
苦しみを増し加えさせた分裂
外部の兄弟たちとの連絡を断たれた,収容所内の兄弟たちは,霊的な食物に対する激しい渇望を感じました。兄弟たちは「ものみの塔」誌上に発表された事柄を知ろうとして,新たに収容所に着いた人たちにいろいろ尋ねました。その情報は時には正確に伝えられましたが,時にはそうではありませんでした。また,中には聖書を用いて,自分たちが救い出される日時を定めようとした兄弟たちもいました。その論議は説得力のないものでしたが,もしかしたらという気持ちから「わら」をもつかむ思いでそうした考えに飛びついた人々もいました。
このような時期に,特別優れた記憶力を持つある兄弟がブッヒェンワルトの収容所に入れられました。最初,学んだ事柄を思い起こして他の人たちと分かち合う優れた能力を持つ彼は,兄弟たちに励みを与える源でした。ところが,やがて彼は「ブッヒェンワルトの不思議」と呼ばれる人気者になり,その述べる言葉,彼個人の意見さえもが決定的なものとみなされるようになりました。1937年の12月から1940年までの間に彼は毎晩話を行ない,合計約一千回も話し,謄写版で印刷できるよう,その話の多くは速記で記録されました。収容所には講演を行なえる年長の兄弟たちが多数いましたが,話をしたのはその兄弟だけでした。そして,彼の考えに全面的に同意しない人はみな,「忠実な者たち」の避けるべき「王国の敵」また「アカンの族」と呼ばれました。およそ400人ほどの兄弟たちがだいたい快くそうした申合わせに従ってしまいました。
しかし,こうして「敵」のレッテルを付された兄弟たちもやはり,力のかぎり王国の関心事を促進させるために喜んで生命の危険を冒して努力してきた兄弟たちだったのです。彼らもまた,自分たちの誠実さを死に至るまでも実証する決意のゆえに収容所に入れられていました。確かに中には聖書の原則を十分適用してはいない人々もいました。ところが,それらの人々が責任ある人たちとの接触を確立し,ブッヒェンワルトで入手できるようになった霊的な食物の益に自分たちもあずかろうとしたとき,責任ある人たちはそうした事柄について話し合うことを「自分たちの体面にかかわること」とみなしたのです。
今もなおエホバに仕えている,ディンスラーケン出身のウィルヘルム・バーテンは,彼自身どのような影響を受けたかをこう述べています。「自分もやはり排斥されたことを知ったとき,霊的にあまりにも動揺させられ,気落ちしてしまい,どうしてこのようなことがあり得るのだろうかと自問し……私はしばしばひざまずいて,しるしを与えてくださいと,エホバに祈りました。私はもしこの事態に対して自分に責むべきところがあるとしたら,私はエホバから排斥されたのだろうかと自問しました。私は聖書を1冊持っていたので,薄暗い光の中でそれを読んでは,この事態は試練として私に臨んでいること,さもなければ私は既に殺されてしまっていたはずだと考えて,本当に大きな慰めを見いだしました。兄弟たちから切り離されるということは,実に大きな苦しみでした」。
このようなわけで,人間的不完全さや自分を重要視する大げさな見方は神の民の間に分裂を引き起こし,ある人たちに厳しい試練をもたらす結果を招きました。
「生き残りたい」と考えるあまりしくじる
収容所に入れられた人たちの中には,妥協すまいと決意してはいたものの,後になって,生き残りたいと考えるあまり,エホバと仲間の兄弟たちに対する愛を薄れさせた人々もいます。もし収容所の機構内である責任の地位につくことができ,何らかの活動分野を監督する務めを委ねられると,その人はもはや重労働をして体力をすり減らさなくても済むようになります。しかし,それは危険なことでした。それには多くの場合,親衛隊と密接な関係を持って働き,囚人たちをかり立てて急いで働かせ,また囚人たち ― 自分の仲間の兄弟たち ― のことをさえ報告して処罰を受けさせねばなりませんでした。
マルテンスという名の兄弟は,ヴェヴェルスブルクの収容所にいた時,そうした地位につきました。彼は最初250人の聖書研究者を監督しました。彼は絶えず親衛隊員の目に非常に立派な「収容所の長老」と映るよう努力しました。やがて,政治犯その他の多数の囚人がその収容所に加えられました。マルテンスは自分の地位を失いたくなかったので,親衛隊の関心事を擁護し,彼らの方法を取り入れざるを得ませんでした。
ほどなくして彼は兄弟たちが日々の聖句を考慮したり,あるいは一緒に祈ったりするのを禁ずるようになり,まもなく上衣の上からさわって兄弟たちを調べ,日々の聖句の写しを見つけると,それを持っている兄弟たちをゴムホースで打ちました。ある朝のこと,数人の兄弟たちが一緒に祈っていたところ,彼がその中に飛び込んで来て,その集いを中断させてこう言いました。「あなたがたは収容所の規則を知らないのですか。単にあなたがたのために私が厄介な問題をかかえたいとでも思っているのですか」。こうして,自分の目標を見失ったごく少数の者たちは多数の忠実な兄弟たちに多くの余分の苦しみをもたらしました。
空腹の問題
第二次大戦が始まった後,入手できる食物は戦地に送られたので,収容所での食事はおもに,普通なら家畜の飼料としてしか用いられないかぶらでした。食べる物もすべてあまりにも愛のない仕方で用意されたため,こんな食べ物は豚でさえ食わないだろうと,しばしば囚人たちの話すのが聞かれました。しかし問題はうまそうな食べ物を入手することではなく,生き残れるかどうかということだけが問題だったのです。多くの人々が餓死しました。クルト・ヘデル兄弟はその当時のことをこう述べています。「私の最大の試練は空腹でした。私は身長188センチで,普通体重は104キロほどあります。しかし,1939年から1940年にかけての冬のころ,私の体重はわずか40キロ,いえそれ以下にさえ減り,私はまるで骨と皮だけになりました。からだが大きいからといって自分より小柄な人よりも多く食べ物を与えられた訳ではありません。祈りのうちに自分の問題をエホバに述べて,苦しみに耐える助けをエホバに願い求めるよう,円熟したある兄弟から忠告されるまでは,私はしばしば両のこぶしで腹部を突いては自ら痛みを求めていました。その後まもなく,私はそうした状況のもとで祈りがどんなに助けになるかを知りました」。別の兄弟は激しい空腹感と戦うため,しばしば砂を口に入れたのを覚えています。
そうした状況のもとでは兄弟としての交わりはどんなにか慰めをもたらすものだったでしょう。そうです,自らも死ぬべき運命にある兄弟たちが,配給の乏しいパンの一部を,自分たちよりももっとひどい目に会わされた人たちに分け与えるのを見るのは本当に胸を打つものでした。それはしばしばごくわずかのパンのかけらでしたが,兄弟たちはそれを,何らかの理由で食べ物を何も与えられずに,また衣服らしいものもほとんどまとわぬまま厳寒の中庭に強制的に立たされた人たちの枕の下にそっと隠して置きました。敵の手でほとんど打ちのめされた人たちにとって,円熟した兄弟の口から出る励ましの言葉は何と気持ちを和らげるものだったのでしょう。それは傷口に滴り落ちる油のようでしたし,自分たちの状況にもはや耐えられないと感じた時にも新たな力を与えるものでした。それに,一緒に捧げた祈りは何と強力なものだったのでしょう。しばしば晩になって,バラックの錠が下ろされ,宿舎内が静まり返ると,兄弟たちは一緒になってエホバに祈りをささげ,問題をエホバに申し上げました。それはしばしば兄弟たち全員に関係のある問題でしたが,やはりそれは多くの場合個々の兄弟たちの直面した問題でした。そして,エホバが ― 実に多くの場合そうしてくださいましたが ― 事態のより良い変化を直ちにもたらしてくださった時はいつもその翌日,そうした事態は皆で一緒に感謝の祈りをささげる理由となりました。自分独りの力では克服できなかったような問題に直面したとき,兄弟たちは再び,「自分たちは決して独りぼっちではない」ということを知りました。
妥協した人々はどうなったか
親衛隊員たちはしばしばきわめて卑劣な策略を用いて宣言書に署名させようとしましたが,ひとたびだれかが署名すると,興味深いことに親衛隊員たちはそうした人々に嫌悪を抱き,それ以後は以前にもましてそのような人々をひどく苦しめました。カール・キルシトはそのことを次のように確証しています。「強制収容所ではエホバの証人は他のだれよりもごまかしの手だての犠牲とされました。そうした方法を取れば,宣言書に署名するよう証人たちを説き伏せることができると考えられました。私たちは署名するよう再三要求されました。確かにある人々は署名しましたが,それでもたいていの場合,釈放されるまでには1年余待たねばなりませんでした。その間,親衛隊員により偽善者また臆病者としてしばしば公にののしられ,また収容所を去る前には,いわゆる“名誉の散歩”と称して仲間の兄弟たちの前でその周囲を歩き回らされました」。
ある兄弟はその妻と娘が訪ねて来たとき,宣言書に署名しましたが,署名したことを兄弟たちには話しませんでした。ウィルヘルム・レーゲルはその兄弟のことを思い起こしてこう述べています。「数週間後,彼は出所する用意をするよう知らされました。(そのような人たちはたいてい自分の名前が呼ばれるまで門のそばに立たねばならなかった。)この兄弟は一日中門のそばに立ち,その晩になってもなお立ち続けていたので,バラック内の兄弟たちのもとに戻らねばならなくなりました。人々からひどく恐れられたクニットラーという名の隊長による晩の点呼が行なわれた後,その兄弟はバラックから踏台を持って来るよう命じられ,それから中庭で行進して入って来る兄弟たちの面前でその踏台の上に立たされました。さて,クニットラーはその兄弟に皆を注目させ,私たちすべてに厳しい顔つきを示してこう言いました。『この臆病者を見ろ。こいつはお前たちのだれにも何も言わずに署名したのだ!』 実際のところ,親衛隊は私たち全員に署名させたがっていました。しかし,ひとたびだれかが署名すると,彼らが私たちに対してひそかに抱いていた尊敬の念は失われました」。
ディートリヒカイト姉妹は,宣言書に署名したふたりの姉妹のことを覚えています。戻って来たそれら二人の姉妹たちは,餓死するのを恐れたため署名したと,ディートリヒカイト姉妹に話しました。そして,親衛隊員から,「お前たちはお前たちの神エホバを否認した今,どんな神に仕えるんだ?」と問われたことを隠さずに述べました。そのふたりの姉妹はほどなく釈放されましたが,ソ連軍が進攻してきた時,何かの理由でふたりとも再び逮捕され,ソ連軍の手で投獄され,刑務所の中で実際に餓死してしまいました。別の例では,署名したある姉妹は戦争の最後の数日間にロシア人たちに強姦されたうえ殺害されました。
宣言書に署名した兄弟たちの相当数の者は徴兵に取られて戦地に連れて行かれ,たいてい命を失いました。
署名をしたそうした兄弟たちは,そうすることによってエホバの保護を受けられる立場から自ら離れ去ったのは確かに明らかなことですが,たいていの場合それらの人が「裏切者」だったとは言えません。理解のある円熟した兄弟たちに助けられて,自分たちのしたことが何だったかをひとたび知った多くの人々は,釈放される前に自分たちの署名を取り消してもらいました。自らの非を悔い改め,忠実を実証する別の機会を与えていただきたいとエホバに願い求めたそれらの人々の多くは,ヒトラー政権の崩壊後,自発的に伝道者の隊伍に加わり,会衆の伝道者として,またやがて開拓者,監督,旅行する監督にさえなって,エホバの王国の関心事を模範的な仕方で推し進め始めました。多くの人たちは,ペテロの経験から慰められました。ペテロもやはり彼の主であり,主人である方を否認しましたが,その好意に浴せる立場に戻されたのです。―マタイ 26:69-75。ヨハネ 21:15-19。
反逆
中には用いられたこうかつな方法のために,あるいは人間的な弱さのゆえに一時霊的に平衡を失った人たちもいましたが,裏切者になって,仲間の兄弟たちに相当の苦しみをもたらした人もいました。
1937年か1938年に「ドレスデンからベルンのベテルにやって来て,伝えられるところによれば,『数多くの兄弟たちが逮捕された後のドイツで地下組織を再建する』目標を抱いてドイツ内の兄弟たちと連絡を取ろうとしたハンス・ミュラーという兄弟についてユリウス・リッフェルはこう伝えています。
「当然のこととして私は,他の数人の兄弟たちと同様,喜んで協力したいと述べました。残念なことに,当時私たちは,このミュラー“兄弟”がドイツのゲシュタポに組みして活動しているとは知るよしもありませんでした。私たちは疑いを抱くこともなくベルンで計画を立てて仕事を始めました。私はバーデン-ウュルテンベルク地区を引き受けることになりました。1938年の2月,私は国境を越えてドイツに入り,依然自由の身を保っていた兄弟たちと接触して活動を再組織しようとしました。2週間後,私は逮捕されました。……ゲシュタポは私たちの活動を細部にわたって一部始終知っていました。それは地下活動の再建を助けておきながら,あとでゲシュタポに密告したこの偽兄弟を通して知っていたのです。この“兄弟”は1年後にオランダでも,またチェコスロバキアでも同じ事をしました。……
「1939年,私は刑務所のトラックでコブレンツに連れて行かれ,そこで,以前シュツットガルトで地下活動で一緒に働いた3人の姉妹たちの裁判にさいし証言することになりました。そこで,ゲシュタポが私たちの活動の詳細,つまり組織の構造はもとより,見せかけの住所や別名のような事柄についてどのようにして知ったかをあるゲシュタポ官憲が裁判所のある役人に話しているのを私は直接聞きました。一度は外の廊下で待っていたときのこと,その同じゲシュタポの官憲は,もし私たちの隊伍にろくでなしがいなかったなら,私たちの活動の内幕をそれほど容易にはつかめなかっただろうと私に話しました。残念でしたが,私はそのようなろくでなしがいたことを否定し得ませんでした。私は時々その裏切者の『兄弟』について刑務所から兄弟たちに警告することができましたが,ハルベク兄弟は単に信じられないとの理由で私の警告を無視しました。何百人もの兄弟たちを投獄させた責任はこのミュラーにあると私は考えています」。
霊的な糧は流れ続ける
敵は神の民の隊伍に再三再四新たな切れ目を作り出し,なお自由の身でいる人々の多くを倒しはしたものの,霊的な食物を兄弟たちに供給する必要性を認める人たちがいつもほかにいました。それらの人々は自分の命の危険を冒してまでもそのわざに従事したのです。ミュラーがその卑劣な仕事をドレスデンで続けていたとき,兄弟たちの間で「ものみの塔」誌を配る組織的な方式を再び確立した兄弟の一人に,ルートウィヒ・キラネクという人がいました。彼はそのわざに従事したため遂に逮捕され,2年の懲役刑を宣告されました。次いで,キラネク兄弟は刑務所を出るや否や直ちにその仕事に戻りました。
いっそう厳しくなった戦時下の法律によると,もし逮捕されれば命を失う恐れがあることを知りながらも,多くの姉妹たちは,兄弟たちが次々に逮捕されて生じた空いた立場を喜んで満たしました。「ものみの塔」誌を配るために用いられた人たちの中には,たとえばホルツガーリンゲンのノイフェルト姉妹,シュツットガルトのフィステラー姉妹そしてマインツのフランケ姉妹がいました。キラネク兄弟は当たりさわりのない内容の手紙をそれらの姉妹たちに書き送りました。姉妹たちはその手紙にアイロンをかけると,「ものみの塔」誌をどこへ何冊持って行くかを指示した,レモン汁を用いて書き込まれた秘密の知らせを読み取ることができました。
キラネク兄弟は時々シュツットガルトに赴き,そこではマリア・ホンバハが彼の秘書として働きました。同兄弟はドイツにおけるわざに関する報告を彼女に書き取らせ,次いで彼はそれをオランダにいるアーサー・ウィンクラーに送りました。ウィンクラーはドイツとオーストリアのわざを世話していました。ホンバハ姉妹もまたそれらの手紙をレモン汁で書き,重要な情報がそれを知る権限のない者の手に陥らないようにしました。
この地下活動が少なくとも1年間機能を果たせたのは,ひとえにエホバの導きによるものと言わねばなりません。エホバはしばしばご自分の民が不思議な方法で導かれ,然るべき時に霊的な食物が供給されるように取り計らわれました。やがてミュラーは,組織化されたこの団体をそっくりゲシュタポに売り渡す好機が到来したと考えました。数日のうちに関係者は全員逮捕されました。ドレスデンにおける裁判ではキラネク兄弟は死刑を宣告され,また他の人たちは長期間にわたる懲役刑を受けました。1941年7月3日,処刑されるほんの数時間前,彼は親族にあてて次のような手紙を書きました。
「愛する兄,義姉妹,両親および他の兄弟たちすべてへ:
「神を恐れ,神に誉れを帰してください! 私は,皆さんがこの手紙を受け取るとき自分はもはや生きてはいないという悲痛な知らせを書かねばなりませんが,どうかあまり悲しまないでください。全能の神が私を死人の中からよみがえらせるのは簡単なことです。そのことを忘れないでください。そうです,神は一切の事を行なえるのですから,もし私がこの苦杯を飲むことを神が許されるのでしたら,それは確かにある目的にかなうことなのです。おわかりのように私は弱いながらも神に仕えることに努めましたが,神が最後までともにいてくださったことを私は十分に確信し,自分のすべてを神に委ねています。この最後の数時間,私は愛するあなた方に思いを馳せてきました。あなた方の心がくじかれませんように。むしろ,落ち着きを保ってください。そのほうが,刑務所で私が苦しんでいるのを知って私のことを絶えず心配するよりもずっと勝っているからです。さて,私の愛する父上と母上,お二人が私のためにしてくださったすべての良い事に対して感謝を述べさせてくださいませんか。しかし私は,お二人に対して,ありがとうございました,という拙い言葉をただ一言口ごもりながら述べることしかできません。お二人がなさった事に対してエホバが報いてくださり,エホバがお二人を守り,祝福してくださいますよう私は祈っています。エホバの祝福だけが人を富ませるからです。愛するトニー,あなたは私を“ライオンの穴”から救い出そうとして,ありとあらゆることをしてくださったと私は本当に信じていますが,それもむなしくなりました。恩赦の請願は却下され,明朝私の刑が執行されるとの知らせを私は今夜受け取りました。私は一切嘆願しませんでしたし,また人間の手などに慈悲を求めはしませんでしたが,私を助けようとするあなたの善意には感謝しています。また,ルイーゼやあなたから受けたすべての良いものにも心底から感謝します。同情のこもったお便りは有益なものでした。皆さんすべてにあいさつと私のくちづけとを送ります。私は特にカールのことを心にとめています。私たちが再び会える時まで神があなたがたとともにいてくださいますように。別れに際して私は両の腕をあなたがたの身に回します。[署名] ルートウィヒ・キラネク」。
ブルックザールでフレイ姉妹と一緒に「ものみの塔」誌の謄写版印刷を行なったユリウス・エンゲルハルトは,ドイツの南部でキラネク兄弟と密接な関係を持って働いていました。キラネク兄弟が万一逮捕されたなら,彼がその仕事を続行することになっていました。しかし残念にも,ミュラーは彼のこともゲシュタポに密告したため,ゲシュタポはその郷里カールスルーエにある彼の隠れ家を見つけました。しかし,エンゲルハルト兄弟は,『私たちの首以上のものは何も失う訳ではありません』と言っては常に姉妹たちを励ましていました。彼は考え得るかぎりの最高の代償をもって自分の自由を売る決意をしていたのです。彼はゲシュタポの官憲の手で既に拘禁されていましたが,突然逃げて階段をかけ降り,取り押えようとする警官をしりめに素早く路上の群衆の中にまぎれ込んで姿を消してしまいました。「1933年から1945年にわたるエッセンにおける反対と迫害」と題する本の中で一般の歴史家がゲシュタポのファイルから資料を得てエンゲルハルトの活動について次のように述べているのは興味深いことです。
「キラネクおよびノエルンハイムその他の人々が逮捕されたからといって,不法な出版物の配布は決して中止されなかった。というのは,最初南西部で活動していたエンゲルハルトが,以前の根拠地であったカールスルーエで逮捕の危険にさらされた1940年にルール地方に逃亡を余儀なくされていたからである。エッセンに短期間留まった後,彼はオベルハウゼン-ステルクラーデで違法の住まいを見つけ,そこで1941年の初頭から1943年4月までに『ものみの塔』誌の27の別々の号をそれぞれ240部,後には360部作成した。そして,ルール地方から,ザクセン州のフライベルクはもとよりミュンヘン,マンハイム,シュパイヤー,ドレスデンにそれぞれ根拠地を設け,全国の活動の会計係を勤めた。……1944年9月18日,集会を開き,エンゲルハルトの活動に関連して『ものみの塔』誌を定期的に配っていたエッセンのグループの成員に対してハムの上級裁判所は厳しい懲役刑を言い渡した。……多くの人々は死刑に処された」。
クリスティネ・ヘトカンプも,エンゲルハルト兄弟の活動について次のような励みになる報告を寄せています。「私の夫はバプテスマを受けてはいましたが,悪意に満ちた反対者になりました。……私は母の家,私の家そして兄の家で交互に行なわれていた集会をどれも欠かしませんでした。夫は月曜日に家を出て土曜日までその姉の家に滞在していたので,私は自分の家で集会を持てました。その姉は町から少し離れた所に住んでいました。彼女の家族は熱烈なナチの支持者だったので私の夫はその家に避難所を見いだしたのです。というのは,夫はもはや私たちの精神には我慢できなかったからですが,それももっともなことでした。それで,夫の留守の間,私の家でほとんど3年間『ものみの塔』の印刷が行なわれました。3年間,私たちと一緒に住んだある兄弟(エンゲルハルト兄弟)がまず最初タイプライターで原紙を切り,次いでその原紙を用いて『ものみの塔』の謄写版印刷を行ないました。その後,彼は私の母と一緒にベルリンやマインツ,マンハイムその他に旅行しては,信頼の置ける人たちに雑誌を届け,次いでそれらの人たちはその雑誌をさらに別の人々に配りました。エンゲルハルト兄弟と私の母はこの取決めの全体の責任を持ち,一方私は料理や洗濯を引き受けました。私の母が投獄されてからは,『ものみの塔』誌をマインツやマンハイムに届ける仕事を私が引き継ぎました。……1943年4月,私の母は再び逮捕され,このたびは二度と再び出所できませんでした。その後ほどなくして,それまでずいぶん長い間地下活動の責任を担い,そのわざを指導してきたエンゲルハルト兄弟もやはり逮捕されました」。
その後,ヘトカンプ姉妹の娘,彼女の義兄,姉,義姉そしておばも逮捕されました。1944年6月2日,これらの人たちは全員裁判にかけられました。エンゲルハルト兄弟と,ヘトカンプ姉妹の母親を含め,他の7人の被告は死刑の宣告を受け,その後まもなく全員打ち首に処されました。
その時期以後,ドイツの事情はいよいよ混乱の度を増すばかりで,「ものみの塔」誌の謄写版印刷がどこで行なわれていたかを確認することはもはや不可能になりましたが,その後も同誌の謄写版刷りは作成されていました。
死に至るまで忠実を保つ
第三帝国の支配期間中に執行されたおびただしい件数の処刑は,迫害の歴史の中でも特異な位置を占めています。不完全な報告からまとめたものですが,少なくとも203人の兄弟姉妹が打ち首か銃殺に処されました。この人数には,飢餓や病気その他虐待のために亡くなった人たちは含まれてはいません。
死刑の宣告を受けたある兄弟についてベール兄弟はこう伝えています。「囚人たちは皆,それに刑務所の役人たちも彼のことで驚かされました。彼は錠前製造人だったので,刑務所じゅうの錠前の修理の仕事をしました。彼は失意や悲しみの様子を全然示さず毎日仕事に取りかかりました。それどころか,忙しく働きながら,エホバへの賛美の歌を歌っていました」。ある日のお昼ごろ,彼は仕事場から連れて行かれ,その晩殺されました。
ベール兄弟はその報告をさらにこう続けています。「ある時,私の妻はポツダムの刑務所で一姉妹を見かけました。妻はその姉妹を知らなかったので,刑務所の中庭で彼女のそばを歩いて過ぎようとしたとき,姉妹は私の妻を見て,手錠をかけられた両腕を挙げて喜びにあふれた表情であいさつの合図をしました。死刑の宣告を受けていながら,彼女のまなざしには苦痛や悲しみの様子はみじんもありませんでした」。死刑の宣告を受けた,私たちの兄弟や姉妹たちが独房の中で耐え忍ばねばならなかった事柄を想い起こすと,それら兄弟姉妹たちが外に表わした穏やかさと安らかさは,なおいっそう価値あるものとなってきます。
私たちの兄弟や姉妹たちは確固とした態度で忍従し,事実,時には困難な事態に直面させられても喜びをさえ表わしましたが,一方エホバの証人ではない他の人々はしばしばくずおれたり,あるいは死を恐れるあまり大声で泣き叫んで遂には強制的に静かにさせられたりしました。
しかし,ウルム出身のヨナタン・スタークはそうした恐れに負けませんでした。事実,ゲシュタポに逮捕され,法律上の手続きを講じられることもなくザクセンハウゼンに送られ,その収容所の死のバラックに入れられたとき,彼はわずか17歳の若者でした。どんな罪に問われたのですか。予備兵役の勤めを拒んだのです。ベルリン出身のエミル・ハルトマンはヨナタンがそのバラックに監禁されたことを聞きました。見つかると厳しい処罰を受ける恐れがありましたが,ハルトマン兄弟はそのバラックにしのび込み,この若い兄弟と話をしては彼を強めることができました。少しの時間行なわれたそうした訪問はその二人にとって非常に励みを与えるものでした。ヨナタンはいつも非常に幸福でした。死に直面していながらも,彼はすばらしい復活の希望をもって母親を慰めました。到着してわずか2週間後,収容所の指令官により処刑場に連れて行かれた時,ヨナタンは,「エホバのため,ギデオンのためです」という最後の言葉を残しました。(ギデオンはエホバの忠実なしもべで,イエス・キリストを予示していた。)― 士師 7:18。
ウィルヘルムスハーフェン出身のエリーゼ・ハルムスは,刑を宣告された夫が考えを改めるよう7回勧められ,夫がその勧めを拒んだところ,何とかして夫の気持ちを変えさせるよう努力するという条件でなら夫を訪ねてもよいとの許しを与えられた時のことを覚えています。しかし,彼女はとてもそうすることはできませんでした。夫が打ち首にされたとき,彼女は夫がエホバに対して忠実を保ち,また忠実を破らせようとする圧力をもはや受けずに済むようになったことを喜びました。その間に彼の父,マルチン・ハルムスは三度目の逮捕に遭い,ザクセンハウゼンに入れられていました。1940年11月9日に処刑される少し前,父親に宛ててしたためたその息子の次のような手紙は深く胸を打つものがあります。
「愛するお父さん,
「12月3日までにはなお3週間ほど残っています。私たちが互いに会ったのは2年前のその日が最後でしたね。お父さんは刑務所の地下室で働いておられ,私は刑務所の中庭を歩いていましたが,あの時のお父さんの笑顔を私は今でも目に浮かべることができます。その日の午前中の初めごろ私たちは,私の愛するリーシェン(彼の妻)と私が当日の午後釈放されようとは考えてもいませんでしたし,愛するお父さん,あなたがその同じ日に痛ましいことにベヒタに送られ,後日ザクセンハウゼンに送られようとは知るよしもありませんでした。オルデンブルクの刑務所の面会室に私たちだけがいて,私が腕をあなたの体に回しながら,お母さんとあなたを私の力の及ぶかぎりお世話しますと言って約束したあの最後の一時のことは今もなおありありと記憶に残っています。私は最後に,『愛するお父さん,忠実を保ってください!』と言いましたね。『自由な奴隷の身分』で過ごした最後の1年9か月の間,私はその約束を守りました。そして,9月3日に拘禁された時,私はその責任をあなたの他の子供たちに委ねました。私はこれまであなたのことを誇りに思い,またあなたが主に対して忠実を保ちながらご自分の重荷を負ってこられたことに驚嘆してきましたが,今や私にも,死に至るまで,そうです,単に死に至るまでだけでなく,たとえ死んでもなお忠実を保つほどに主に対する自分の忠実さを実証できる機会を与えられました。私の死刑の宣告は既に下され,私は昼も夜も鎖につながれています。この(紙面の上の)跡は手錠のそれです。しかし,私はなお完全に征服した訳ではありません。忠実を保つのはエホバの証人にとって容易なことではありません。私には自分の地的な命を救う機会がなお残されています。しかし,そうするなら,真の命を失う結果に終わるにすぎません。そうです,エホバの証人には,たとえ絞首台が見えていても,自分の契約を破る機会が与えられているのです。ですから,私はなお戦いのさなかにいますので,『私は戦いをりっぱに戦い,信仰を守り通しました。義の冠が私のために用意されています。義の審判者であられる神が,それを私に授けてくださるのです』と言い得るようになるまで私はなおも勝利を収めねばなりません。この戦いは疑いなく困難なものですが,死に直面して今に至るまでしっかり立つのに必要な力を主は私に授けてくださっただけでなく,私の愛する人たちすべてと分かち合いたいと願っているこの喜びをも私に与えてくださったことを私は心から主に感謝しています。
「愛するお父さん,あなたもやはり依然として囚人ですから,この手紙が果たしてあなたに届くかどうか私にはわかりません。しかし,もしあなたがいつか自由の身になられるなら,今あなたがそうであられるとおり,忠実を保ってください。ご承知のように,だれでもすきに手をつけてから後ろを見る者は神の王国にふさわしくないからです。……
「愛するお父さん,再び家に戻られたなら,その時は特に,私の愛するリーシェンをどうかよろしく世話してください。愛する夫が帰っては来ないことを知る彼女には特につらい思いをさせることになるからです。お父さんがそうしてくださることを私は知っていますので,私は事前にあなたに感謝します。愛するお父さん,私は心の中であなたをお呼びします。私が忠実を保とうと努めているように,忠実を保ってください。そうすれば,私たちは再び互いに会えるのです。私は最期のその時まであなたのことを思い続けてゆきます。
「あなたの息子ヨハネスより
「さようなら!」
外部の人たちに対する激励の言葉
外部にいる兄弟たちによって励まされたのは,単に死を甘んじて待つ人たちだけではありませんでした。自由の身でいる外部の人たちはしばしばそれ以上に刑務所内の兄弟たちによって励まされました。ケンプテン出身のアウシュナー姉妹はそのことを確証しています。彼女は21歳の息子から1941年2月28日付の手紙を受け取りましたが,それは18歳半になる弟にあてた次のような短い手紙でした。「愛する弟へ。前の手紙の中で兄さんはある本にあなたの注意を引きましたが,私の言った事を心にとめて欲しいと願っています。それだけがあなたに益をもたらし得るものだからです」。それから2年半の後,アウシュナー姉妹はその一番年下の息子から別れの手紙を受け取りました。彼はその兄から書き送られてきた事柄を心にとめて,忠実に兄に従って死を遂げたのです。
東プロイセン,シュトゥーム出身のエルンストとハンス・レーワルトのふたりの兄弟も同様の仕方で互いに助け合いました。軍法会議にかけられて死刑の宣告を受けたエルンストは,その死の独房からシュトゥームの刑務所にいる弟のハンスに次のような手紙を書き送りました。「愛するハンス,万一同様のことがあなたの身の上に起きたなら,その時は祈りの力を思い起こしなさい。私は少しも恐れを感じてはいません。神の平安が私の心の内に宿っているからです」。その後ほどなくして彼の弟も同様の立場に立たされ,わずか19歳の若さで処刑されました。
配偶者に対する忠節の試練
親しい親族が,誠実さの面で動揺しないよう,自分の愛する人をどのように励ましたかを知るのは胸を打つ事柄でした。フランクフルト・アン・ドル・オーデル出身のヘーネ姉妹はそのひとりで,彼女は徴兵令状を受けた夫を鉄道の駅まで送って行きましたが,夫とは二度と再び会えませんでした。「忠実であってくださいね」と語った彼女の最後の言葉を,ヘーネ兄弟は死に至るまで心に留めていました。
多くの場合,それらの兄弟たちは結婚して間もない人たちで,エホバとキリスト・イエスに対する愛もそれほど強いものではなかったので,愛する妻との便りのきずなが断ち切られるのは確かに耐え難いことだったに違いありません。これまで32年間未亡人として過ごしてきた二人の姉妹たちは,動乱に満ちた当時を回顧し,エホバから差し伸べられた助けに感謝しています。シュパイヤーの近くのノイロシェイム出身のビューラーとバルライヒ姉妹はともに,禁令下の初めごろ結婚し,その同じころ真理を学びました。そして1940年,姉妹たちの夫は両方とも徴兵命令を受けましたが,兵役を拒否したため逮捕されました。
バルライヒ姉妹はマンハイムの地方の徴兵役人の所に行き,それら二人の兄弟たちが軍法会議に出頭するためウィースバーデンに送られたことを知りました。バルライム姉妹は,夫の気持ちを変えさせるよう説得を試みるという条件で夫を訪ねる許可を得ました。ビューラー姉妹も同様の条件で夫を訪ねる許可を与えられました。二人の姉妹たちは直ちにウィースバーデンに行きました。ビューラー姉妹はその時のことをこう伝えています。
「その再会がどんなに悲しいものだったか,私はとても言葉では言い表わせません。夫はこう尋ねました。『どうして来たのだね?』 私は夫の気持ちを動かすよう試みることになっている旨答えました。しかし,夫は私を慰めて聖書の助言を述べ,希望のない他の人々のように悲しんではならず,私たちの偉大な神エホバに全幅の信頼を置くようにと話してくれました。……私たちは同行して刑務所に来た若い廷吏から,火曜日までウィースバーデンに留まるよう勧められました。それは審理が行なわれる予定の日だったのです。もしその町に留まっているなら,その裁判の傍聴人として出席する許しをもらえるのは確かなことでした。そこで私たちは火曜日まで留まりました。そして,実弾を装填した銃で武装した二人の兵士に付き添われた夫が本物の犯罪者のように道路を通って連れて行かれるまで私たちは外の路上で待ちました。確かにそれは人々とみ使いたちに対する見世物でした。バルライヒ姉妹と私は歩いてついて行きました。私たちは裁判に出席できましたが,裁判は1時間足らずで済み,何の罪もない勇敢なその二人の男子に死刑の宣告を下して幕を閉じたのです。その後,私たちは一階のある部屋で夫とともに2時間ほど過ごせましたが,そのあとで裁判所を出た私たちは,道に迷った二頭の羊のようにウィースバーデンの街頭をとぼとぼと歩きました」。
その後ほどなくして,それら二人の若い姉妹たちは,1940年6月25日にその夫たちが「エホバよ,永遠に!」という最後の言葉を残して銃殺されたとの知らせを受け取りました。
エホバを第一にした両親と子供たち
パーデルボルン出身のクゼローという二人の兄弟の事件は,法廷や地方検事や弁護人だけでなく一般の人々の注目の的となりました。その二人の兄弟は家庭でエホバの道を十分に教えられていたので,恐れることなく喜んで命を捨てることができました。しかも,その母親は息子たちの死に面して,さらにその機会を捉えて近隣の他の人々に復活の希望について語りました。3か月後,三番目の兄弟も逮捕され,強制収容所に入れられました。彼は釈放されてから4週間後に亡くなりました。この家族の成員は13人でしたが,そのうち12人が刑務所に入れられ,合計65年の懲役刑を言い渡され,そのうち46年の刑期を終えました。
ジューデルブラルプ出身のアペル家族も,両親だけでなく子供たちも自分自身のことより王国の関心事を優先させたクゼロー家族の場合と同様でした。この家族はその町で小さな印刷会社を経営していました。どんな事が起きたのか,アペル姉妹に話してもらいましょう。
「ドイツ中で一斉検挙が行なわれていた1937年の10月15日の夜遅く,夫と私は四人の子供から引き離されてしまいました。その夜,8人の官憲(ゲシュタポと警官)が私たちの家に踏み込み,地下室から屋根裏部屋までくまなく家宅捜索し,次いで私たちを連れ去りました。……私たちは刑を宣告された後,夫はノイミュンスターに連れて行かれ,私はキールの女子刑務所に入れられました。……1938年,一連の大赦が行なわれた後,私たちは釈放されました。……しかし,第二次大戦が勃発したとき,私たちは自分たちがどうなるかを知っていました。というのは,夫は中立の立場を守る決意でいたからです。私たちは子供たちに事情を全部話し,迫害に関する聖書の見解に子供たちの注意を向けさせました。
「私たちは,衣類の面で困らないよう子供たちにできるだけ十分の衣服を持たせました。夫は戦争に参加できない聖書上の理由を徴兵当局の役人に話した後,あとの個人的な事柄を整理しました。私たちは毎日の祈りの中で私たちの問題すべてをエホバに申し上げました。1941年3月9日,午前8時,二人の兵士が私の夫を連行するためにやって来て,玄関のベルを鳴らしました。彼らは,家族と別れの言葉を交すための15分間の猶予を夫に与えて外で待ちました。息子のウォルターは既に登校したあとでした。他の3人の子供たちと,私たちの印刷所で働いていたヘレネ・グリーン姉妹は直ちにアパートに来るようにと言われました。夫は最後に,『忠実な人,忠節な人は,その魂を恐れに引き渡さない』という歌を歌ってほしいと私たちに求めました。言葉がのどにつかえて出ませんでしたが私たちは歌いました。そして,祈りをささげ終わった時,兵士たちが入って来て夫を連れて行きました。子供たちが父親を見たのは遂にそれが最後でした。夫はリューベックに連れて行かれ,そこである高官が慈父のような口ぶりで長々と話をし,夫を説得して軍服をつけさせようと試みました。しかし,エホバの不変の律法が夫の心の中にしっかりと据えられていたので,引き返す余地はありませんでした。……
「1941年7月1日の早朝のこと,私は警察の当局者たちから一通の書状を示されました……それは私たちの車が共産主義者の資産として没収され,印刷会社は警察の手で閉鎖されることになった旨私に通告するものでした。次いで当局者は,『1941年7月3日の朝,衣類や靴を携えて子供たちを市役所に連れて来るように』と記されたもう一通の手紙を私に手渡しました。それは強烈な打撃でした。
「それで7月3日の朝,二つの少年院の監督官がやって来て私の子供たちを連れて行きました。私の15歳と10歳になる娘,クリスタとワァルトラウトを監督した婦人は私にこう言いました。『私は数週間前に,私がお宅のお子さんを連れて行くことになったのを知りました。でも,たいへんよく整った家庭からお子さんを連れ去ることを知った私は,それ以来夜はよく眠れなくなりました。しかし,私はそうしなければならないのです』。
「近所の人々の中にはこうした処置に対する反感を表わさずにはおれない人もいましたが,まもなく当局者たちは,『アペル家の事柄についてうんぬんする者は皆,国家的扇動を犯した者とみなす!』という警告を記した文書を回しました。そして,手違いが生じないようにするただそれだけのために警察の3人の当局者が派遣され,その監視のもとで子供たちが連れ去られて行きました。……当然ながら,夫はその会社と子供たちに関して講じられた処置について当局者側から知らされました。当局者はそうした処置のために夫の抵抗が弱まるのを期待していました。夫は家族を窮地に置き去りにしたという点で不誠実で無節操だとして非難されました。しかし夫は,その翌日の朝非常に早く起きてひざまずいて祈りをささげ,その祈りの中で家族の世話をエホバに委ねた旨をしたためた深い愛のこもった手紙を書き送ってくれました。……
「子供たちを取り上げられたその同じ日,私はベルリンのシャルロッテンブルク区の軍法会議から出頭するようにとの通知を受け取りました。そして,主任検察官の前に出された私は,夫を動かして軍服をつけさせるよう試みることを依頼されました。そうすることができない聖書上の理由を私が述べると,検察官はかんかんに怒って,『それじゃあ,彼の首は吹っ飛んじまうぞ!』とどなりました。それにもめげず,私は夫と話をする許可を求めました。検察官はそれには答えずにベルを押して一人の兵士を呼び,私はその兵士に連れられて一階に行きました。そこで私は数人の士官たちから冷たい目でにらみつけられ,非難のことばを受けました。私がそこを出たとき,士官たちの一人が私のあとについて来て,私の手を取ってこう言いました。『アペルさん,今あなたが保っているように常に堅く立ちつづけてください。あなたは正しい事を行なっているのです』。私は本当に驚きました。しかし,重要なのは,私が夫と話し合えたということです。
「私がベルリンにいる間に,ナチ当局は私たちの会社を既に売り渡してしまいました。そして私はその売却証書に強制的に署名させられました。なぜなら,もしそうしないと,私は強制収容所に入れられることになると言われたからです。
「私はベルリンにいる夫を数回訪ねましたが,その後夫は死刑の宣告を受けました。夫の『弁護』を行なった弁護人はこう述べました。『ご主人にはそのような宣告を免れる絶好の機会が与えられたのですが,彼はそれを利用することを拒みました』。その機会に面したとき,夫はこう答えました。『私はエホバとその王国を支持することに決定しましたから,これで問題は決まりました』。
「1941年10月11日,夫は打ち首にされました。処刑されるほんの数時間前に書くことを許された最後の手紙の中で夫はこう述べています。『私の愛するマリアと私の四人の子供たち,クリスタとワルターそしてワルトラウトとウォルフガング,あなたがたがこの手紙を受け取る時には既に万事が終わっており,私はイエス・キリストを通して勝利を収めているはずです。また,征服者になっていることと願っています。私はあなたがたがエホバの王国に入る祝福にあずかるよう心から望んでいます。忠実を保ってください! 明朝私が歩むのと同じ道を歩むことになっている3人の若い兄弟たちがこの私のそばにいますが,彼らの目は輝いています!』
「その後ほどなくして私はジューデルブラルプの家を強制的に立ちのかさせられ,家具は5箇所の別々の所に保管され,私自身は無一文になって母の所にたどり着きました。
「息子のワルターは少年院側の手で学校から出され,ハンブルクに連れて行かれ,その町で印刷見習い工の仕事につきました。1944年に息子はわずか17歳でしたが徴兵されました。しかしそれ以前に,たいへん驚くべき仕方で『神の竪琴』と題する書籍を入手し,当時空襲を受けていたハンブルクのとある家の狭い屋根裏部屋で夜その本を読んで多くの事柄を学んでいました。息子の願いはエホバに献身することでした。それでさまざまの困難を経た後,1943年の大晦日から1944年の元旦にかけてマレンテに行くことができ,その町のとある暗い洗濯場で一兄弟からひそかにバプテスマを受けました。……
「息子はひそかに私と連絡を取ることができ,息子がやって来るまで私はハンブルクの路上で数時間待ちました。というのは,私はどんな事情のもとでも子供たちと会うことは禁じられていたからです。
「私は,私たちの巡り合わせについて聞いたザクセンハウゼンの兄弟たちから一通の手紙を受け取ったことを息子に話して励ますことができました。エルンスト・ゼリガー兄弟は,夜になって収容所内が静まり返った後,いろいろの国から来た数百人の兄弟たちがひざまずいてエホバに祈り,その祈りの中で私たちのことを述べていたと書き送ってきたのです。その後,息子は東プロイセンの部隊に割り当てられ,強制的に連れて行かれました。息子は凍りつくような寒さの中で衣服を脱がされ,その足もとに軍服を置かれましたが,それを着るのを拒みました。暖かい食べ物を何か口にすることができたのはそれから二日後のことでした。しかし,息子は忠実を保ちました。
「私たちはハンブルクで互いに別れの言葉を交しました。息子は父の歩んだ道を歩むことになるだろうと私に話しました。それからおよそ7か月の後,息子の書類は不正に書き変えられて息子はもっと年上に見えるようにされたうえ,ただの一度も裁判を受けぬまま実際に打ち首にされました。法律によれば,息子はなお未成年者であり,未成年者としての司法上の取扱いを受けるべき立場にあったのです。
「ジューデルブラルプのある警察官が私を訪ね,東プロイセンの警察から送られた報告を私に読んで聞かせました。私自身は何一つ知らせを受けませんでした。私はわが子が父と同様の道を歩まねばならなくなるとは実際考えてはいませんでした。息子はとても若かったうえ,終戦が非常に近づいていたからです。それで大きな苦しみを味わわされましたが,それでも私はエホバに感謝の祈りをささげました。今こそ私は,『エホバよ,息子はあなたのために戦場で倒れたのですから,私はあなたに感謝いたします』と言うことができました。
「次いで1945年の大変動が起こりました。私は残された3人の子供たちを喜びにあふれて迎え,再びわが子を胸に抱くことができました。一番年少の二人の子供は少年院から出されて,最後の3年間は労働事務所の所長と一緒に生活し,そこで国家社会主義の考えに従って養育されることになりました。私は14か月にただ1回だけ子供を訪ね,子供たちと数時間,それも必ずだれかほかの人の居合わせる所で話すことが許されただけでした。それでも,二人の娘は一度,小型の新約聖書を注意深く隠して持っていると私にささやくことができました。娘たちは二人だけになると,一人がドアのそばに立って外の物音に耳を澄ませ,人がやって来る気配のないことを確かめ,他方の娘が数節を読むことにしていたのです。私はどんなに嬉しく思ったかしれません。
「さて,1945年,忠実な兄弟たちが投獄されていた所から戻り始めました。おもに東部からの大勢の兄弟姉妹を乗せた船がフレンスブルクに到着しました。そのころ,強烈な活動の行なわれる時期が始まりました。その町で私は,私の現在の夫,ヨーゼフ・シャルナー兄弟と知り合いました。彼もまた,9年間自由を奪われていました。確かに私たちは二人とも困難な時代を切り抜けて来ましたし,また二人とも自分たちの残りの歳月を費やして力のかぎりエホバに仕えたいとの同じ願いを抱いておりました」。
死の独房の中でさえ弟子を作る
死の独房の中でさえ弟子を作ることができるとは信じ難いことのように思えますが,マソールス兄弟はその妻に宛てて1943年9月3日付でしたためた手紙の中でそうした経験を伝えています。
「私はプラハで1928年,1930年そして1932年に開拓奉仕をしました。講演が何度か行なわれ,プラハの町は文書で覆われました。そのころ,私は政府から送られた政治問題の講演者でアントン・リンクラーという人に会いました。私は長い時間彼と話し合いました。彼は聖書と数冊の書籍を求めましたが,家族を顧み,生計を立てなければならないので,そういう問題を研究する時間はないと述べました。しかし,彼の親族はみな,教会には行かないが宗教に深い関心を抱いていると彼は言いました。
「それは確か1940年か41年だったと思いますが,当時しばしば行なわれていたように,新しい同室者が私の独房に入れられました。だれでも最初はそうですが,彼も非常に気落ちしていました。独房の扉が後ろでぴしゃりと閉められて初めて囚人は突然,自分がどこにいるのかを悟るのです。その新しい同室者は私にこう言いました。『私はプラハ出身で,名前はアントン・リンクラーといいます』。私はすぐ彼のことを思い出したので,『アントン,そうです,アントン,私を覚えていませんか』と言いました。『そうですね,見覚えはあるのですが,しかし……』。それからすぐ彼は,私が1930年か32年ごろ彼のもとを訪ねたとき,聖書と数冊の書籍を私から求めたことを思い出しました。アントンは言いました。『何ですって! あなたはご自分の信仰のゆえにここにいるのですか。それは私には理解できません。そのような牧師は一人もいませんよ。実際,あなたはどんな事を信じているのですか』。彼はそれを知ろうとしていたのです。
「そして,こう尋ねました。『しかし,牧師はどうしてこういう事柄を私たちに話さないのでしょうか。これこそ真理です。私がなぜこの刑務所に来なければならなかったのかが今わかりました。フランズさん,私はどうしても話しておきたいのですが,この独房に入る前に私は信仰の厚い人の所に入れていただきたいと神に祈りました。さもなければ,自殺をする考えでいました。……』
「何週間そして何か月かが過ぎてからのことですが,アントンは私にこう言いました。『私がこの世を去る前に,妻と子供たちが真理を見いだせるよう神に助けていただけるなら,私は安らかな気持ちで去って行けます』。……すると,ある日,彼は妻から次のような一通の手紙を受け取りました。
「『……もしあなたが何年か前にあのドイツ人からお求めになった聖書と書籍類をお読みにさえなれるなら,私たちはどんなにか幸せなことでしょう。万事がそれらの書籍の言うとおりになりました。私たちはそのために決して時間をさきませんでしたが,これこそ真理です』」。
[175ページの図版]
一群の裸の入所者のいるマウトハウゼン強制収容所入口の中庭
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第3部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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第3部 ― ドイツ
強制収容所における霊的食物
兄弟たち,とりわけ強制収容所内で兄弟たちが「孤立させられ」ていた何年かの間,聖書あるいは他の出版物を入手する機会にはほとんど恵まれませんでした。ただ,中庭に何時間も立たねばならなかったりした時,あるいはバラックの中で晩の少しの静かな一時を過ごしたりする時,「ものみの塔」誌の重要な記事の内容を思い起こすために相当の努力が払われました。何らかの方法で聖書を入手できた時の兄弟たちの喜びは特に大きなものでした。
エホバは時には,興味深い方法を用いてご自分のしもべたちに聖書を入手させてくださいました。レンヒュン(シュワルツワルト)出身のフランズ・ビルクは,ブッヒェンワルトである日,この世の一囚人から聖書を1冊入手したいかどうかを尋ねられた時のことを覚えています。囚人は自分の働いていた紙の工場で聖書を1冊見つけていたのです。もち論,ビルク兄弟は感謝してその提供物を受け取りました。
また,1943年のことですが,単に当時の時代の圧力に動かされて親衛隊の組織に加わった年配のある親衛隊員が休日に聖書を求めて何人かの牧師を訪ねたのをフランケ兄弟も覚えています。牧師たちは皆,残念ながら聖書はもはや手もとにはないと述べましたが,その晩,彼は遂にある牧師を見つけました。特別の理由があってルーテル訳の小型の聖書を取って置いたと述べたその牧師は,親衛隊員が聖書に関心を示すのを見て大いに喜んだものの,その聖書をもらって行くと告げられました。翌朝,この白髪まじりの親衛隊員はその聖書をフランケ兄弟に与えましたが,自分の監視している囚人の一人にその贈物を与えることができたので明らかに喜んでいました。
時が経つにつれて新しい「ものみの塔」誌の記事を強制収容所にひそかに持ち込むことができるようになりました。ビルケンフェルトの強制収容所では次のようにして持ち込まれました。囚人たちの中に,建築に通じていたため,エホバの証人に好意を持つある民間人と一緒に働くようになった兄弟がいました。彼はその親切な人を通して収容所の外部の兄弟たちと連絡を取り,兄弟たちはまもなく最新の雑誌をその人に供給したのです。
ノイエンガム収容所の兄弟たちも同様の機会を捉えました。同収容所のおよそ70人の兄弟たちのほとんどは空襲後のハンブルク市内で焼け跡をかたづける仕事をさせられました。そのハンブルク市内で兄弟たちは聖書を入手し,ある時など,ほんの数分のうちに3冊見つけることもできました。自らそのことを経験したウィリー・カルガーはこう述べています。「デーベルン出身のある姉妹が私たちにもたらした別の霊的食物についてお話ししましょう。その事が決して忘れられませんように。彼女の兄,ハンス・イェガーはハンブルクの近くのベルゲドルフの作業班に所属しており,グルンツ鉄工所で働かされました。私たちは厳重な監視下で重労働をさせられることになりました。それにもかかわらず,イェガー兄弟はひそかに手紙を持ち出させ,昼の時間中の彼の居場所を妹に知らせることに成功しました。彼の妹は汽車でハンブルクに着き,そこからは『慎重に行動して』私たちの働いている場所に注意しながらやって来ました。彼女は求められた雑誌を私たちの手に渡すことに成功し,こうして親衛隊の監視下にもかかわらず,エホバの監督のお蔭で貴重な雑誌が見つけられることなく収容所にもたらされました。
皆がさまざまの違った方法を考え出したので,時が経つにつれて収容所には多数の聖書が持ち込まれました。ある兄弟はダンチヒにいる妻に宛てた手紙の中で『エルベルフェルトのしょうが入りケーキ』を食べたいと書いたところ,次に送られてきた(当時その収容所では兄弟たちが受け取ることのできた)食糧袋からは焼いたしょうが入りケーキの中に注意深く入れられていたエルベルフェルト聖書を入手しました。ある兄弟たちは火葬場で働く囚人と接触を持っていました。それら囚人たちは火葬場でたくさんの本や雑誌が焼かれているということを話したので,兄弟たちは自分たちの貯えていた食物の一部と引き替えに聖書や雑誌を入手する取決めをひそかに設けました。
ザクセンハウゼンでは依然「隔離施設」にいる兄弟たちも聖書を何冊か入手しました。不思議に思えるかもしれませんが,隔離施設はこの場合,ある程度の保護をもたらすものとなりました。ある兄弟は隔離施設に通ずる入口を見張るよう割り当てられただけでなく,戸の鍵をも持っており,入口に鍵をかけたり,その鍵をあけたりしなければならなかったからです。室内には大きなテーブルが七つあり,56人の兄弟たちがその回りに腰かけました。しばらくの間,一人の兄弟が聖句を取り上げて15分間注解を述べ,その間に他の兄弟たちは朝食を取りました。これはそれぞれのテーブル,またその回りに腰かける兄弟たちの間で交替で行なわれました。中庭に何時間も強制的に立たされた時,兄弟たちはその注解を会話の主体にしました。
1939年から40年にかけての厳寒の冬の間,証人たちはこの文書の問題で祈りのうちにエホバに嘆願したところ,ご覧なさい,奇跡です! エホバはある兄弟に保護の手を差し伸べられたので,彼は厳重な検査を受けたにもかかわらず,木製の義足の内側に「ものみの塔」誌を3冊入れて,ひそかに「隔離施設」に持ち込むことができました。兄弟たちはベッドの下にもぐり込んで懐中電燈の光を頼りにそれを読み,他の人たちはその左右に立って見張りをしなければならなかったとはいえ,それはエホバの驚くべき導きがあったことの証拠です。良い牧者であられるエホバはその民を見捨てることはなさいません。
兄弟たちが「隔離施設」から解放された1941年から42年にかけての冬には,ダニエル書 11および12章を扱った「ものみの塔」誌7冊,初めてミカ書を論じた雑誌,「キリスト教に対する十字軍」と題する書籍そして「会報」(現在の「王国奉仕」)のすべてが一度に届きました。それは本当に天からの贈物でした。彼らは今や他の国々の兄弟たちとともに,「北の王」と「南の王」に関する明確な理解を得ることができたからです。
「隔離施設」以外の囚人たちには日曜日の午後には自由時間が与えられたうえ,その午後になると,ブロックの政治上の監督は他のバラックにいる友人に会いに行ったので,幸いにも兄弟たちは数か月の間,毎週日曜日に「ものみの塔」研究を開くことができました。平均220人ないし250人の兄弟たちがその研究に参加する一方,6,70人の兄弟たちが収容所の入口に至るまで見張りを行ない,危険な事態が生じたならすぐ特定の合図を出すことにしていました。ですから,研究中に親衛隊員に不意をつかれたことは一度もありませんでした。1942年に行なわれた研究は,出席した人たちにとって忘れ難い思い出になりました。ダニエル書 11,12章の預言に関するすばらしい説明に非常に深い感銘を受けた兄弟たちは,研究の終わりに,王国の歌を所々に挿入した民謡を喜びにあふれた行進曲風の調子で歌いました。それで,バラックから数メートル離れた監視塔にいる番兵には怪しまれずに済ました。むしろ,番兵は美しい歌声を聞いて楽しみました。ちょっと想像してみてください。投獄されているとはいえ,250人の男子が現実には声を合わせ,魂をこめてエホバを賛美する歌を自由に歌っているのです。何という背景でしょう。天のみ使いたちもともどもに声を和したのではないでしょうか。
強制収容所内の人たちに対する圧力は緩和される
エホバの忠実な証人たちの血は,ナチ政権が完全に崩壊する時までナチの処刑センターで流され続けましたが,それでも,エホバの証人は火葬場の煙突を通る以外絶対に強制収容所を出ることはできないと再三断言していた者たちの武器の威力は衰え始めました。また,戦争が提起した問題もありました。それで特に1942ないし43年以降,エホバの証人は比較的に平穏な状態に置かれる時期がありました。
戦争は今や全面戦争と化し,事態は利用できる諸勢力すべてを総動員するまでに変化しました。そのため,1942年に政府は国の経済に資する生産計画にできるだけ囚人を加わらせ始めました。この点に関連して,親衛隊隊長ポールが「強制収容所の状態」について彼の上司であるヒムラーに伝えた所見は興味深いものです。
「戦争は強制収容所の機構に明白な変化をもたらし,囚人の使用に関して収容所の機能を根本的に変化させるものとなった。
「単に安全や教育もしくは犯罪予防上の理由ゆえに囚人を監禁することはもはや主要な事柄ではなくなった[大量虐殺のことは触れられてさえいない]。事態は一変して物事の経済面が強調されるようになったのである。全囚人をまず第一に戦争に関係した仕事(軍需生産の増強)に,次いで第二に平和に関係のある事柄のために総動員することが,いよいよ支配的な要素となっている。
「目下講じられている必要な措置は,強制収容所の以前の偏ぱな政治的企画を徐々に変更し,収容所を経済上の必要にかなう組織に変えなければならないというこうした認識の結果である」。
もち論,そうした転換を行なうためには,囚人をもっと有効に用いて仕事をさせねばならず,それにはもっと良い食べ物を囚人に与えることが必要でした。そのために兄弟たちの苦しみはいっそう緩和されることになりました。役人たちはまた,ごく少数の例外を除いて実に利口だったので,兄弟たちを軍需関係の工場に入れようとはせず,むしろそれぞれの職業技能に応じて兄弟たちを色々の仕事場で用いました。
その間にエホバはご自分の分を尽くされました。エホバは人間の心を ― 敵の心をさえ ― 水の流れのように動かすことができるからです。その著しい実例はヒムラーです。何年もの間,彼はエホバの忠実なしもべたちの生命に関しては自分だけが決定を下せると考えていましたが,「聖書研究者」に関するその考えを突然変え始めました。彼の主治医であったフィンランド人のケルステンという医師が重要な役割を果たしたのです。
マッサージ師ケルステンは,いつもかなり病気がちだったヒムラーに強力な影響を及ぼし始めました。エホバの証人が残忍な迫害を受けていることを聞いた彼は,ある日,ベルリンの北およそ70キロの所にあるハルツワルデの自分の屋敷で使うため何人かの女性を与えるようヒムラーに要求しました。ヒムラーはためらいはしたもののその求めに応じ,後日ケルステンの再度の要請を認め,強制収容所からある姉妹を釈放したので,彼女はスウェーデンにあるケルステンの別の家で働くことができました。ケルステンが強制収容所の状態や何年もの間とくにエホバの証人が被ってきた筆紙に尽くせない苦しみに関する真相を初めて聞かされたのはそれらの姉妹たちからでした。自分の施したマッサージのためにその極悪な男が殺人の仕事を遂行するに足る十分の健康を再三取り戻す結果になったのを知って仰天した彼は,自分の影響力を行使してそれら囚人すべての苦しみを少なくともある程度軽減させてやりたいと決心しました。そのようなわけで,特に終戦までの時期に何万人もの囚人がせん滅されずに済んだのは彼の影響力のせいだったと言うことができます。とりわけエホバの証人にとって彼の影響力は非常に有益なものとなりました。それはヒムラーがその最も親しい同僚であった親衛隊の最高指導者,ポールとミュラーに書き送った手紙からもわかります。「機密」というスタンプの押されたその手紙には一部次のように記されています。
「同封の報告は,私の主治医の農場で働いている十人の聖書研究者たちに関するものである。私は敬謙な聖書研究者の問題をあらゆる角度から研究する機会を得た。ケルステン夫人は非常に良い提案をしてくれた。彼女はそれら十人の女性ほどに善良で,進んで働く,忠実で,従順な職員をかつて一度も用いたことがないと述べた。これらの人々は愛と親切の気持ちから多くの事を行なっている。……それらの女性の一人はある時,客からチップとして5マルクもらったが,彼女はその家に非難を招きたくはなかったのでお金は受け取ったものの,収容所ではお金を持つことが禁じられていると言ってそれをケルステン夫人に渡したのである。それらの女性は要求された仕事は何でも自発的に行なった。晩には編み物をし,日曜日にはほかの仕事を忙しく行なった。また,夏の間は機を逸さず,いつもより2時間早く起きては幾つかのかごに一杯きのこを取ってきた。しかも,1日に10時間,11時間または12時間働くよう要求されていたのである。こうした事実により聖書研究者に関する私の心像は完全に描き出された。彼らは信じ難いまでに熱狂的で,喜んで働き,進んで自らを犠牲にする人々である。もし彼らの熱狂的行為をドイツのために生かす,あるいはそれほどの熱狂的行為をわが国民に浸透させることができれば,われわれは今日以上に強い国民になれるであろう。もち論,彼らは戦争を否認するゆえにその教えはきわめて有害であるため,それを認めようものなら,わが国は最大の損害を被らずには済まないであろう。……
「彼らを処罰したところで何も達成されない。受けた処罰について後日彼らは熱意を込めて語るだけだからである。……受けた処罰は皆,あの世のための功績として役だつのである。真の聖書研究者はすべてためらうことなく処刑に臨むのはそのためである。……地下牢への監禁,飢えの苦しみ,寒さに凍えることはすべて功績,処罰も殴打もすべてエホバに関しては功績なのである。
「今後収容所で聖書研究者に関係する問題が生じた場合,私は収容所の司令官が処罰を申し渡すことを一切禁ずる。そのような事件は事情に関する簡単な説明を添えて私に報告しなければならない。これから私は正反対の処置を講じ,当事者各自に対して,『お前は一切働いてはならない。お前にはほかの者よりも良い食べ物を与えるが何もしてはならない』と命ずる予定である。
「というのは,そうなれば,これら温厚な精神異常者の信仰によると功績は絶え,それどころか逆に以前の功績はエホバにより減らされることになるのである。
「さて,私の提案は,聖書研究者全員を仕事に ― たとえば,戦争とそのすべての狂気ざたに全く関係のない畑仕事などに従事させることである。仕事を正しく割り当てたなら,監視せずに放置しておいてもよい。彼らは逃げ去りはしない。彼らには自由な仕事を与えてよい。彼らは最良の管理者で,最良の労働者であることを示すであろう。
「ケルステン夫人の提案した,彼らを使用する別の方法として,われわれは聖書研究者を『レーベンスボルンハイメ』(最優秀民族を生み出すために親衛隊員の手で養育される子供たちのための家)で看護婦としてではなく,むしろ料理人や家政婦として,あるいは洗濯その他の仕事に用いることができる。門衛として依然男子を用いている場合は,がっしりした聖書研究者の女子を用いることができよう。たいていの場合,彼らに関してはほとんど問題は生じないと私は確信している。
「私はまた,聖書研究者を大家族に割り当てるという提案にも賛成である。必要な能力を備えた,資格のある聖書研究者たちを探して私に報告してもらいたい。そうすれば,私が直接それらの者を大家族に割り当てることができる。それらの家では囚人服ではなく,民間人の服を着用すべきであり,ハルツワルデで自由な住み込み実習者として働いている聖書研究者たちの場合と同様の仕方で滞在すべきである。
「囚人たちを半ば自由の身としてそうした仕事に割り当てる場合はすべて,記録書類や署名を避けて,ただ握手だけを交してそうした協約を結びたいと考えている。
「この処置を始めるに当たり,貴下の推薦状とそれに関する報告を送ってもらいたい」。
それで推薦状が送られ,短期間のうちにかなり多くの姉妹たちが親衛隊員の家庭や野菜栽培場,屋敷そして「レーベンスボルンハイメ」に送られて働きました。
しかし,親衛隊員がエホバの証人を喜んで自分たちの家に迎え入れた理由はほかにもありました。親衛隊員は一般の人々の間に暗に憎しみが増大しており,自分たちが単にひそかに笑いものにされているのではないことに気づいていたのです。彼らの多くは自分たちの女中をさえ信用せず,女中が食べ物の中に毒を入れはしまいか,あるいは何らかの方法で自分たちが殺されはしまいかと恐れていました。時が経つにつれて親衛隊の幹部将校は,のどを切られはしまいかと恐れて普通の理髪店にさえ行こうとしなくなり,マックス・シュレールとパウル・ワウエルが定期的に彼らの顔をそる仕事を割り当てられました。エホバの証人なら決して復讐したり,敵の人間を殺したりしないことを知っていたからです。
収容所の外で働くことになったそれらの兄弟姉妹たちは親族の訪問を受けたり,自ら親族を訪問したりすることさえ許され,中にはそのための数週間の休暇を与えられた人もいました。その結果,やがて兄弟姉妹たちはさらに多くの食物を入手でき,彼らの健康状態は急速に改善され,飢えや虐待による死亡者数は減少するようになりました。
強制収容所の当局者の態度がエホバの証人にどれほど有利に変化したかは,ラインホルト・ルューリングの経験からもわかります。1944年2月のこと,ある作業班にいた彼は突然呼び出しを受け,収容所の事務所に出頭するよう求められました。その事務所こそ,大勢の人々が虐待され,エホバに対する信仰を放棄するよう説得するためのさまざまの試みがなされた所でした。向かい合って腰かけた将校たちから,ある屋敷を管理し,そこの仕事や労働者たちを正しく指導してもらえまいかと依頼されたとき,ルューリング兄弟はどんなにか驚いたことでしょう。彼らの質問にすべてはいと答えた同兄弟は後日,他の15人の兄弟たちと一緒にチェコスロバキアに送られ,ヘイドリヒ夫人の屋敷を管理することになりました。
全員優れた職工である42人の兄弟たちで成るある作業班は,親衛隊のある幹部将校の家を建てるためにオーストリアのウォルフガング湖畔に送られました。山腹での仕事は容易ではありませんでしたが,その他の点では兄弟たちはずっと楽な生活をしました。たとえば,その一団に属していたエーリヒ・フロストは自分の家からアコーディオンを取り寄せる許可を得ました。それが送られて来た後,彼と他の兄弟たちはしばしば晩になると湖畔に出る許可を得,湖の岸で民謡やコンサート用の小曲を演奏し,兄弟たちだけでなく,兄弟たちの仕事を監督していた親衛隊員を含め,湖畔に住む人たちもその演奏を楽しみました。
また,強制収容所内の兄弟たちに霊的な食物を供給することも引き続きさらに容易になりました。この点ではケルステン博士の演じた役割は決して小さなものではありませんでした。彼はしばしばスウェーデンの自宅とハルツワルデの屋敷の間を往き来していたからです。彼はいつも,その屋敷とスウェーデンの自宅で働くようヒムラーから与えられた姉妹たちにスーツケースに荷物を詰めさせることにしていました。その両者の間には暗黙の了解があって,スウェーデンの姉妹はケルステンのスーツケースに荷物を詰める際,何冊かの「ものみの塔」をその中に入れました。ハルツワルデに着くと彼は,そこで自分のために働いている姉妹を呼んで,いつもその姉妹だけにスーツケースを開かせました。姉妹たちはそうして得た「ものみの塔」誌を注意深く研究した後,それらを近くの強制収容所に回していました。
ハルツワルデにあるケルステン氏の屋敷は,ラベンスブリュックの女子収容所の南約35キロ,ザクセンハウゼンの男子収容所の北約30キロの格好な場所にありました。同地からはその両方の収容所に物品が絶えず輸送されていたので,それら収容所の兄弟姉妹のもとに霊的な食物をひそかに送り込むのは難しいことではありませんでした。
こうして,各地の収容所と,姉妹たちが親衛隊員の家族のために働くよう割り当てられた隊員個人の家との間にはたいへん密接な連絡が保たれました。この興味深い時期のことについてイルゼ・ウンテルデルフェルはこう伝えています。
「私たちの働いた場所ではかなりの自由に恵まれ,検閲を受けずに親族に手紙を送ることに成功しました。私たちはまた,収容所の外で働いていた兄弟たち,あるいは親衛隊員のために働く,責任のある立場につけられ,いっそう自由に恵まれた兄弟たちと連絡を取ることもできました。そうです,自由の身で生活していた兄弟たちと接触して,『ものみの塔』誌を入手することにさえ成功しました。以前学んだ事柄や新たに入って来た人たちから聞いた新たな真理を基にして何年間も生活してきた後だけに,『ものみの塔』を再び直接読めるようになった時には驚くほど気持ちがさわやかにされました。私は親衛隊将校ポールの管轄下にあったラベンスブリュックの近くのある親衛隊員の農場に割り当てられ,囚人管理者として姉妹たちの仕事を監督する責任を与えられました。私たちのうち何人かはその農場で眠り,もはや収容所に行く必要さえ全然ありませんでした。こうして私は,ある姉妹から渡された手紙に記された取決めに従って,ベルリンから来たフランズ・フリッチェと連絡を取り,ある晩農場の森の中で彼に会うことができました。彼はいつも私に何冊かの『ものみの塔』誌を供給してくれました。そのうえ,私たちはまた別の方法で霊的な食物を受け取りました。ある工場で働いていたふたりの姉妹がやはり『ものみの塔』誌を何冊か収容所に持ち込んだのです。こうしてエホバはたいへん危急な時に愛をもって私たちを世話してくださいました」。
霊的な食物をより容易に入手できたので,それを他の人々にも得させようと努力した兄弟たちはエホバから祝福されましたが,そのことはフランク・ビルクの寄せた記録からもわかります。彼はハルツワルデの屋敷に連れて行かれた人たちの一人でした。彼らはまもなく,ある兵隊の監督下で働く,投獄された他の兄弟たちが10キロほど離れた森の中で建物の建築に従事しているということを聞きました。ハルツワルデの屋敷の兄弟たちは既にある程度の自由を享受していたので,その森にいる兄弟たちに会う機会を求めました。
ビルク兄弟はこう伝えています。「ある日曜日の朝,クレマー兄弟と私は自転車に乗ってそれらの兄弟たちを捜しに出かけました。森に入ると間もなく,切り開かれた土地に建築中の新しい建物が立っているのを見つけました。その空き地をひとりの囚人が横切るのが見えたので,私たちが手を振ると,彼は森を通って私たちの方にやって来ました。やがて上衣に薄紫色の三角形のバッジが見えたので,彼が兄弟であることを私たちは知りました。私たちはハルツワルデの作業班の者であることを述べると,彼は私たちをその新しい建物に案内しました。私たちは新しい『ものみの塔』誌を持っていたので,腰をおろして研究を始めました。その後,私たちは毎週日曜日にその兄弟たちを訪ねました。彼らはフライブルク出身のある特務曹長の監視下にありましたが,同曹長は兄弟たちに対して親切でした。クリスマスの少し前,私は彼に,『あなたや私の兄弟たちが今度の祝日にハルツワルデの屋敷を訪ねてはいかがでしょうか』と尋ねてみました。彼は考え深げに,自分の作業班の者たちをどこかへ連れていって散髪をさせてやりたいと思っていると答えました。ハルツワルデの私たちのところに理髪師が一人いると聞くと,彼はすぐ勧めに応じました。それでクリスマスの日の早朝,兄弟たちはその将校に伴われて農場にやって来ました。台所で働いていたベルリン出身のシュルゼ姉妹は特にその将校を丁重にもてなし,私たちの互いの交わりが妨害されないようにしました。兄弟たちはその晩,一緒に楽しんだ祝福された集いの喜びに満たされて家に帰りました。ちょっと考えてみてください,私たちの敵のただ中でそうした事が起きたのです!」
やがて全強制収容所に霊的な食物を持ち込める可能性が増大しました。アウシュヴィッツに拘禁されたゲルトルド・オッツと他の18人の姉妹たちは,親衛隊員の家族の住んでいるホテルに送られて働きました。他の人々もそのホテルに来て食べたり飲んだりしていたので,ほどなくして,なお自由の身であった姉妹たちは,投獄中の仲間の姉妹たちが窓ふきをしているのを見つけました。そして,そばを通り,上を見上げずに小声で,「私たちも姉妹なのよ」とつぶやきました。3週間後,姉妹たちはトイレで会うよう取り決めました。それ以後,その姉妹たちは定期的に外からやって来ては,ホテルで働く姉妹たちに「ものみの塔」誌や他の出版物を渡し,ついでそれら文書はラベンスブリュックに送られました。
1942年の12月初めのこと,ウェヴェルスブルクに残っていた約40人の兄弟たちは,そこで特別の仕事に携わるすばらしい機会を得ました。依然収容所として扱われてはいましたが,彼らはある程度の自由に恵まれました。というのは,もはや彼らを収容所内に留まらせておく電流の通った有刺鉄線もなければ,見張りもいなかったからです。
当時,なお自由の身だったエンゲルハルト兄弟は,同収容所の近くに住んでいる兄弟たちに「ものみの塔」誌を収容所内に送り込む方法を見つけるよう指示しました。幾つかの問題を克服した後,ヘルフォルト出身のサンドル・バイエルとレムゴ出身のマルタ・チュンケルは,若い夫婦のような格好でその地区をただ散歩しながら通って様子を探りました。二人はまもなく兄弟たちと接触し,その後定期的に「ものみの塔」誌を兄弟たちに供給しました。まず最初,ふたりは墓地の特定の墓石のそばで兄弟たちと会い,次は麦わらの山の中に雑誌を隠しておいたり,あるいは前もって決めておいた場所で真夜中に雑誌を直接兄弟たちに手渡したりしました。またそのたびに,次に会う新たな場所を決めました。雑誌を生産し,配っていたエンゲルハルト兄弟や姉妹たちが逮捕されてからは,なお自由の身であった人たちにどうすれば霊的な食物を供給できるかが問題になりました。
今度はウェヴェルスブルクにいる兄弟たちが自ら解決策を見いだすよう努力しました。兄弟たちはタイプライターを1台入手することができ,ひとりの兄弟はそれを使って原紙を切りました。別の兄弟は板材を利用して簡単な謄写版印刷機を組み立てました。兄弟たちとなお接触していた外部の姉妹たちは謄写版印刷に必要な資材を兄弟たちに届けました。そして遂には,北部ドイツのかなり広い地域に供給するに足るほどの非常に多くの量の「ものみの塔」誌がそこで生産されるようになりました。エリザベス・エルンスティングは自分の受け持っていた区域に供給するため,いつも「ものみの塔」誌を50冊受け取っていたことを覚えています。こうして,ナチ政権が1945年に崩壊するまでのほとんど2年間,ウェストファーレンその他の地域に住む兄弟たちに「ものみの塔」誌を供することができたのです。
強制収容所内の兄弟姉妹のための霊的な食物の供給量は大いに改善されたため,ザクセンハウゼンにおける1942年までのそれは小川の流れに例え得るほどでした。ナチ政権崩壊直前に死刑を宣告されながら処刑を免れたベルリン出身のフリッチェ兄弟は,1年半余の期間にわたって新しい雑誌すべてを供給できただけでなく,その間に発表された書籍や小冊子すべてはもとより数多くの古い号の雑誌をも供給できました。兄弟たちはあたかも豊かな牧場に導かれたかのようでした。兄弟たちは皆,協会の出版物を1冊持っていて毎晩研究できたからです。何という変化でしょう。しかも,それがすべてではありませんでした。組織が非常によく運営されたので,フリッチェ兄弟は仲間の兄弟たちの親族に宛てて,あるいは他の収容所内の兄弟たちや外国の支部に手紙を出すことができました。こうして,1年半の間に150通ほどの手紙をひそかに送り出したり,ほとんどそれと同数の手紙を収容所にこっそり持ち込んだりすることができました。送り出された数々の手紙は,兄弟たちが霊的に優れた状態を保っていたことを証するものでした。そうした手紙のコピーが数多く作られたのももっともなことでした。中には謄写版で刷られた手紙さえありましたが,それは外部の兄弟たちに,とりわけ投獄されている人たちの親族に励みを与えるものとなりました。
収容所内で大胆に宣言された神権的一致
フリッチェ兄弟が逮捕された1943年の秋までの約1年半の間,万事順調に進みました。ところが,各地での家宅捜索にさいしてザクセンハウゼンに関する報告が見つかり,同兄弟に注意が向けられるようになりました。警察は彼が所有していた「ものみの塔」誌その他の出版物だけでなく,彼が届けようとしていた兄弟たちからの何通かの手紙をも発見しました。手紙による通信連絡がほとんど国際的な規模で行なわれていることを知った警察は,収容所の指導者たちの責任遂行能力もしくは意欲のほどを疑うようになりました。そこでヒムラーは,疑わしい収容所すべてを直ちに調査するよう命じました。
その運動は4月の終わりに開始されました。ある朝,秘密警察の何人かの役人がザクセンハウゼンにやって来ました。兄弟たちに対するその突然の攻撃は十分に計画された処置でした。収容所内で働いていた人たちはそれぞれの作業場から呼び出され,中庭に立つよう命じられ,そこで日々の聖句について尋問され,また衣服の上からさわって調べられました。そして,何冊かの出版物が見つけられ,所持者はみないつものむち打ちの罰を受けました。しかし,ゲシュタポは兄弟たちをおじけさせることはできませんでした。それはエホバが敵のただ中で兄弟たちを豊かに養っておられたからです。兄弟たちは自分たちの使命をはっきりと理解しており,恐れることなく一致団結して神権的支配を支持する立場を取りました。
エルンスト・ゼリンガーはフリッチェ兄弟と連絡を取っていることが知られたため,特に「注目」されました。同兄弟は身体面の傷だけでなく,霊的な面の傷をも包んで癒すことに努め,その謙遜な,慈父のような態度はこの収容所の兄弟たちの享受した一致した関係に大きく貢献しました。しかし彼は,最初に受けた尋問の結果を非常に憂慮し,彼はそれを「敗北」とみなし,それを勝利に変えていただきたいとエホバに祈り求めました。しかし,それはただ一人の人の試練として終わるものではありませんでした。ヒルデン出身のウィルヘルム・レガーはその事情を,「今やそれは,『一人が身代わりになるか,それとも全員が滅びるか』のどちらかでした」と説明しています。互いに励まし合うため日々の聖句を自分が回していたと自供したゼリンガー兄弟の声明書がそのとおりであることを兄弟たちは全員認めました。また,ゼリンガー兄弟が収容所に持ち込んだ文書を読んでいたこと,そして今後も互いに励まし合い,将来に対する自分たちの希望について語り続けるつもりであることをも認めました。
四日間が過ぎました。そして日曜日の朝,ゼリンガー兄弟は収容所の管理部に出頭しました。それは当局者が調書を取るためでした。彼はその経験をこう述べています。「最初,私は三つの病室[彼が助手として働いていた場所]で証言しました。……次いで私は喜びにあふれながらライオンの穴に入りました。私たちが非合法な仕方で収容所から送り出した手紙類を一人の医師と一人の薬剤師が調べていました。それから2時間にわたる激しい論争が続きました。そして,調書を取り終わる時になって,尋問を行なった将校がこう言いました。『ゼリンガー,お前はこれから何をするつもりだ。これからも日々の聖句を書いて,お前の兄弟たちを励ますつもりか。この収容所の囚人たちの間で伝道を続けるつもりなのか』。『はい,全くそのとおりです。私だけではなく,私の兄弟たちも全員そうするつもりでいます!』……尋問は2時に終わり,兄弟たち全員の名において記された宣言書が当局者側に提出されました。それで兄弟たちは皆」― 収容所のバラック内での「宣べ伝えるわざに喜んで出かけて行きました」。
1934年10月7日,エホバの証人はヒトラーに手紙を送って,自分たちはたとえ脅しを受けても集まり合うことや宣べ伝えることをやめる訳にはゆかないと知らせて以来,およそ10年経ったことを兄弟たちは思い起こしました。ほとんど10年を経た今,収容所の内外を問わず,神の民の闘志はなおも打ち砕かれてはいないことをゲシュタポは思い知らされました。種々の手紙はそのことを裏づけるものでした。
今やゲシュタポは他の収容所を調べて,盛んにふれ告げられていた『神権的一致』なるものが広まっているかどうかを確かめることにしました。次の収容所は,ザクセンハウゼンから分かれた収容所であるリヒテルフェルデでした。これら二つの収容所の間の連絡係を勤めたパウル・グロスマン兄弟は後日その調査の模様を次のように述べました。
「1944年4月26日,ゲシュタポは新たな打撃を加えました。その日の午前10時,二人のゲシュタポ将校がリヒテルフェルデにやって来て,ザクセンハウゼンとリヒテルフェルデの間の連絡係をしていた私を徹底的に調べました。彼らは私がベルリンの兄弟たちに書き送った2通の手紙を見せました。それらの手紙は私たちの活動方法を明らかに示していました。[そのような情報を手紙に記すのはいかに無分別かがわかる。なぜなら,当局者が逮捕や捜査を行なえば,当然それは遅かれ早かれ見つけられるから。] こうして当局者は組織の詳細をことごとく知り,そのうえ,私たちが私たちの『母』から定期的に食物を受け取っていたことをも知りました。
「彼らはあらゆるものをひっくり返して調べましたが,『ものみの塔』誌を1冊見つけただけでした。私は他の兄弟たちが仕事から戻って来た時,門のそばで立たされていました。兄弟たちもやはり調べられ,門のわきに立たされました。警察によるそのような大々的な手入れは久しくなかったので,それには本当に驚かされました。尋問中にはかなり打たれたり,ののしられたりしたうえ,数冊の『ものみの塔』誌と幾つかの聖句が見つかりました。また,ザクセンハウゼンの経験に関する詳しい報告,聖書1冊その他の書類が没収されました。兄弟たちは神権政治の関心事のために活発に働いていたこと,また『ものみの塔』誌を読んでいたことを隠したりはしませんでした。その夜,私たちは11時まで門のそばに立たされました。その間に首謀者12人をザクセンハウゼンに移すため警察のトラックが到着しました。それは彼らが絞首刑に処されることを意味しました。彼らは自分たちのスプーンや皿その他を返さねばなりませんでした。ところが,その移動は実現しませんでした。親族に対する死亡告知書は既に作成されていましたが,翌日も何事も起きませんでした。三日目には驚いたことに,それら12人の兄弟たちは処刑されるどころか,仕事に戻されました」。
次いで,リヒテルフェルデの兄弟たちは次のような宣言書に署名するよう要求されました。「_____以来,当収容所にいるエホバの証人の一人である私,_____は,ザクセンハウゼン強制収容所に存在する『神権的一致』集団の者であることを認めます。私は日々の聖句や文書類を受け取って読み,それらを他の者に回してきました」。兄弟たちはみな,大喜びして署名しました。
警察による同様の手入れは他の収容所でも行なわれ,同じような結果が見られました。一例としてラベンスブリュックでは1944年5月4日に調べられました。同収容所とザクセンハウゼンとの間でも連絡が取られていることが種々の手紙から明らかにされたからです。その収容所の『首謀者たち』に対しては厳しい処置が取られましたが,ここでもまた,種々の部門の責任者たちの要請で,それらの姉妹たちは前の仕事に戻されました。これは当時までに圧制者の力がかなり衰えていたことをさらに裏づける証拠となりました。
ドイツ軍は1944年に東部戦線の各地で敗北をこうむり,非常に多くの人命を失ったため,老齢者やヒトラー青年隊の青少年が戦闘に投入されただけでなく,囚人たちにさえ東部戦線に出陣する機会が与えられました。そのために委員たちが収容所にやって来て,格下げされたディルレワンゲル将軍の師団に加わる機会を政治犯に提供しました。もし彼らが出陣するなら,自由なドイツ国民とみなされることになりました。しかし興味深いことに,そうした機会を他の囚人に提供する前に,薄紫色の三角形のバッジをつけた囚人たちは皆,それぞれのバラックに帰されました。当局者はエホバの証人たちから得る答えを知っていたので,証人たちの希望を聞くのをやめたのです。
大急ぎで行なわれた収容所からの撤退
1945年,米英両空軍が投下した爆弾の雨は夜昼続き,ドイツ軍の退去は遂にはまぎれもない敗走と化し,第二次大戦の終わりが近いことはだれの目にも明らかになりました。親衛隊員は自分たちの権力を誇示しなくなりました。強制収容所の何十万人もの収容者たちがあせりながら解放を待ちわびていた時のことを思い起こせば,親衛隊員たちがうらやましい立場にいなかったことはよくわかります。それら囚人たちの大集団は何を引き起こすか予測し難い,そうです,爆発を起こしかねない材料だったので,多くの親衛隊員は囚人たちを恐れました。しかし,依然総統の命令に従っていたヒムラーは,ダハウとフロゼンビュルクの指令官に次のような電報を送りました。「降服は考えられない。収容所から直ちに撤退せよ。囚人は一人として生きたまま敵の手に渡してはならない。(ハインリヒ・ヒムラーの署名)」。同様の指令が他の収容所にも送られました。
それは収容所に拘禁されている神の忠実なしもべたちの生命を再び危険にさらす最後の悪魔的な企てでした。しかし彼らは過度に心配したりせず,個人個人当面どんな結果に遭おうともそれにはかかわりなくエホバに信頼していました。
囚人たちを片づける任務を受けた親衛隊の将校たちは,解決不能の問題に直面しました。親衛隊の酒保で働くよう割り当てられていたウォルター・ハマン兄弟は,親衛隊の将校たちが交した興味深い会話を立ち聞きしました。彼はこう述べています。「将校たちは囚人をガス室で殺すことについて話していましたが,その施設はあまりにも手狭でしたし,十分の量の毒ガスもありませんでした。次いで私は,焼却炉用の石油の運送に関する電話のやり取りを立ち聞きしましたが,運送はできないとのことでした。次に,収容者ごと収容所を爆破する件が指摘されました。方々のバラック,特に病棟には既にダイナマイトの箱が設置されていました。しかし,その計画も放棄されました。最後に,3万人の囚人を撤退させることに決まりました。囚人たちはもっと大きな収容所 ― それは存在しなかった ― に送られるのだと告げられましたが,実際には当局者は私たちをリューベック湾という集団墓地に連れて行く考えでした。それには毒ガスも石油もダイナマイトも不必要だったのです」。
その間にも,連合軍は東西両方面からいよいよ急速に近づいて来ました。今や親衛隊員はわが身の安全を恐れ始め,ますます困惑するようになりました。収容所を一掃する政府の決定が知られるようになってからは特にそうでした。克服し難い問題に直面した彼らは,囚人たちをただ道路に追い出し,ほんのわずかの食物だけを持たせて進み去らせました。いみじくも「死の行進」と呼ばれたそれらの行進のルートをあとでたどってみれば,だれでも全員同一の目的地に導かれたことがわかるでしょう。当局者の目的は囚人をリューベック湾つまり北方の公海に連れて行き,次いで敵軍が到着しないうちに囚人を船に乗せ,船もろとも囚人たちを海に沈めることでした。
間もなく食べ物はなくなり,時には一滴の水さえもないことがありました。それでもなお,飢えた囚人たちは平均気温わずか摂氏4度の寒さのもと,しのつく雨の中を一日じゅう,それも立て続けに何日間も強制的に行進させられました。夜になると,森の中の,雨でびしょびしょにぬれた地面に横たわることを許されました。定められた速度についてゆけない人たちは後衛の親衛隊員に情け容赦なく頸部を撃たれて殺されました。こうした行進でおびただしい数の人々が命を失いましたが,そのことはザクセンハウゼンの例からもよくわかります。撤退開始時になお生き残っていた2万6,000人の囚人のうち,ザクセンハウゼンからシュウェリンまでの途中で1万700人もの囚人が射殺されたまま置き去りにされました。
マウトハウゼンに残された少数の兄弟たちもまた危険な状態に置かれていました。山腹には巨大なトンネルが掘られていて,その中で人々に恐れられた“V-2号”ロケットが組み立てられていましたが,ある日,そのトンネルの一つが閉鎖され,内部に地雷が仕掛けられました。そして,空襲と見せかけて1万8,000人の囚人をそのトンネルに押し込み,そこを爆破する計画だったのです。しかし,収容所の管理部は,急拠進撃したソ連軍戦車隊に突然占拠されたため,親衛隊員は囚人をほったらかしにしたまま,どうにかしてわが身を救おうとしました。しかし,それは長続きはしませんでした。『おれが見たいのは死亡証明書だけだ』と言ったことで知られていた収容所の指令官は,ほんの2,3日の後,囚人たちに見つけられ,踏み殺されてしまいました。今や政治犯たちは,多大の流血の罪を犯していた収容所の長老やブロックの長老,また工夫長など同僚の囚人に対する復讐を図りました。
ダハウの収容者の死の行進は森林を縫うようにして続けられ,行進について行けない人たちは親衛隊員により射殺されました。彼らの目的地はエーツテラー・アルプスで,最後にその目標地点に着いた者たちはとにかくすべて射殺されることになっていました。兄弟たちは一緒になって歩き,互いに助け合いました。こうして,ある人たちは死なずに済み,遂にバートテルツにたどり着き,そこで解放されました。ワーキルヒェンの森の雪の中で過ごした最後の夜のことをロペリウス兄弟は今も覚えています。夜が明けると,ババリア州の警官がやって来て,兄弟たちは自由の身になったこと,また親衛隊員は逃げてしまったということを知らされました。兄弟たちが道をさらに進んで行ったところ,立ち木に銃が立て掛けてあるのを見つけましたが,親衛隊員は一人もいませんでした。
囚人を全員片づけよとの政府の命令を親衛隊は真に受けました。降伏が行なわれるほんの数日前のことですが,囚人の幾つもの集団がノイエンガムで一緒にされ,貨物船に乗せられ,ノイシュタット湾に停泊していた豪華な客船,『ケープ アルコナ号』に移されることになっていました。全長200メートルの同船には既におよそ7,000人の囚人が入れられていました。親衛隊側はその『ケープ アルコナ号』を公海に航行させたうえ,囚人もろとも沈没させる予定でした。しかし,その船は依然国旗を掲げていたため,1945年5月3日,英軍戦闘機の攻撃を受けて沈没してしまいました。2,000人ないし3,000人の囚人を乗せた貨物船,『ティールベク号』も沈没しました。こうして,およそ9,000人もの囚人がノイシュタット湾の海底の墓場に消えて行ったのです。生存者たちがそのできごとを思い起こしてぞっとするのももっともな話です。ノイシュタット湾の浜辺では海水浴客や土砂を掘る作業に携わる人たちが今だに毎年12ないし17体の死骸を発見しています。
220人の兄弟たちを含め,ザクセンハウゼンの囚人も同様の運命に定められていました。囚人たちは殺人的な行進をさせられ,2週間でおよそ200キロの道のりのところを歩きました。
証人たちは迫り来る危険にいち早く気づき,靴を修理し,からだがひどく弱っている人たちのわずかな所持品を運ぶ数台の小さな荷車を集め,衰弱した人たちを荷物の上に乗せました。そうせずに,全行程を歩かねばならなかったとしたなら,それらの兄弟たちは,1万人余の死者の中に数えられていたことでしょう。しかしこうして,肉体的にあまり弱っていない兄弟たちはそれらの荷車を引くことができました。途中で他の兄弟たちの力が尽きると,それらの兄弟たちは車に乗せられ,2,3日からだを休め,体力を十分取り戻すと再び交替して荷車を引っ張りました。このようなわけで,その死の行進の最中でさえ,兄弟たちは全員一つの大きな家族としていつも一緒に行動し,最後に至るまでエホバの保護を享受しました。
次いで,ある日の午後,撤退する囚人たちのその一団がリューベックまでわずか三日の行程を残すばかりになった時のこと,シュウェリンの近くの森で全員キャンプを張るよう親衛隊員から命じられました。行進の途中,兄弟たちは幾つもの小グループに編成され,自分たちの毛布を利用して間に合わせのテントを作っていました。それで,床を小枝で覆って夜の寒さを防ぎました。その夜,ソ連軍の撃つ銃弾が兄弟たちの頭上をうなり声をたてて飛び,米軍は前進し続け,同地区のドイツ軍の戦線は崩壊してしまいました。突如,真夜中に「われわれは自由だ!」という叫び声が上がり,幾千回となくこだまして響き渡ったとき,そこに居合わせた人々の感慨は言語に絶するものがありました。その時まで囚人たちを指揮していた約2,000人の親衛隊員は,ひそかに自分たちの制服を脱いで民間人を装い,中には自分の正体を隠そうとして囚人服を着た者さえいました。しかし,数時間後にはそれら隊員のある人々は正体を見破られ,容赦なく虐殺されました。
兄弟たちは今や自分たちのもとに到着した米軍将校の勧めに従って,その真夜中に宿営を解くべきでしたか。兄弟たちは問題を祈りのうちに考慮し,日の出まで待つことに決めました。しかし,日の出になってさえ,さらに何時間かそのまま留まりました。というのは,難民の一農夫が90キロほどの豆を兄弟たちに譲ってくれたからです。兄弟たちはそれを煮て,すばらしい食事を取りました。ああ,どんなにか感謝したことでしょう。兄弟たちは行進の途中で茶を摘んで集め,水が手に入ると晩に林の中でわずかのお茶をわかして飲む以外,およそ2週間ほとんど何も食べてはいませんでした。
仲間をだれひとり失わずに済んだことを知った時,兄弟たちはどんなにか感謝したことでしょう。しかし,あとでわかったのですが,エホバに感謝すべきもう一つの理由がほかにもあったのです。一行が北を指して行進していたとき,親衛隊員たちは戦線がいったいどこなのかわからなかったので,数日の間一行をある森の中に留めました。その数日の時間こそ,戦線が最終的に崩壊する以前に一行がリューベックに着くには行進して費やさねばならない時間だったのです。
今や兄弟たちは大急ぎで行進し続ける必要は少しもありませんでした。兄弟たちはシュウェリンの森のほかならぬその場で,兵隊たちが移動式事務所から投げ捨てて行ったタイプライターを使って自分たちの経験に関する報告を作成し始めました。その中には,解放後の数時間の筆紙に尽くし難い感情をこめ,それとともに「ライオンの穴」で過ごした何年にもわたるエホバの保護に対する,きわめて深い感謝の念をもって書き上げた決議文が含まれています。その決議文は次のとおりです。
決議!
「1945年5月3日
「メクレンブルク州シュウェリンの近くの森に集まった六か国からのエホバの証人230人の決議。
「ここに集まった私たちエホバの証人は,全世界のエホバの忠実な契約の民とその仲間の皆さんに,詩篇 33篇1-4節および詩篇 37篇9節の言葉に基づく心からのあいさつを送ります。エホバというみ名を持っておられる私たちの偉大な神が,ご自分の民に対するみ言葉を,とりわけ北の王の領土において成就されたことを知っていただきたいと思います。長い苦しい試練の時期は過去のものとなり,生き長らえらされ,あたかも火の燃える炉からのごとくに危く救い出された者たちの身には火のにおいすらついていません。(ダニエル 3:27を見てください。)逆に,彼らはエホバから与えられた強さと力にあふれており,神権的な関心事を促進させるための王からの新たな命令を切に待ち望んでいます。働きたいという私たちの決意と意欲は,イザヤ書 6章8節およびエレミヤ記 20章11節(メンゲ訳)に言い表わされています。敵はまさに中世の異端審問所の仕打ち同然の幾千もの方法を講じて身心両面で私たちを責めさいなみ,数々の甘言や誘惑を駆使しただけでなく,悪魔的なまでに凶悪な数知れぬたくらみを弄して私たちの誠実さをくつがえさせようとしましたが,主の助けとその情け深い支援のおかげで私たちは耐え忍び,敵のそうした企ては失敗しました。それらさまざまの経験を書き綴れば数多くの書物を作れますが,そのすべてはコリント第二 6章4-10節また同 11章26,27節の使徒パウロの言葉,とりわけ詩篇 124篇(エルベルフェルダー訳)の言葉の中に簡潔に述べられています。サタンと,悪霊に取りつかれたその手先きはうそつきであることがもう一度明らかに示されました。(ヨハネ 8:44)大論争はまたもやエホバに利する仕方で結着を見,エホバに誉れが帰されました。―ヨブ 1:9-11。
「私たちにとっても,皆さんにとっても喜ばしいこととして,主なるエホバは豊かな分取り物,つまり36人の善意の人々をもって私たちを祝福してくださったことをお知らせします。それらの人たちは私たちがザクセンハウゼンを去る時……自発的にこう宣言しました。『私たちはあなたがたと一緒に行きます。私たちは神があなたがたとともにおられると聞いたからです』。ゼカリヤ書 8章23節の言葉はまさしく成就しました! 私たちは大急ぎで退去したため,神権政府を支持する多くの友は私たちに加われませんでしたが,彼らがやがて私たちのもとに戻る道を見いだせるようエホバは物事を取り計らってくださるでしょう。
「私たち,エホバの証人は,エホバに対して全き信仰を抱き,その神権政府に全く献身している者であることを改めて宣言いたします。
「私たちはただ一つの願い,すなわちライオンの穴に留まっていた期間中,エホバが驚くべき仕方で私たちを数知れぬさまざまの困難,闘争そして苦悩から救い出し,生き長らえさせてくださったことを示す数限りない一連の証拠に対する深い感謝のゆえに,永遠にわたって心から喜び勇んでエホバとその偉大な王,キリスト・イエスに仕えさせていただきたいとの願いを抱いている者であることを厳かに誓約いたします。そのように仕えること自体,私たちにとっては最大の報いです。
「私たちは近い将来再会できることを確信して喜びを抱きつつ,詩篇 48篇の言葉をもってこの決議文を結びます。
「エホバの聖なるみ名のための,あなた方の仲間のしもべたち」。
こうして,エホバの過分の親切とその保護に対して,また今や回復された自分たちの自由に対してまず第一にエホバに感謝の意を表した後,兄弟たちは宿営を解きました。自由を取り戻したその最初の夜,900人ないし1,000人もの囚人が死にましたが,兄弟たちは全く無傷でシュウェリンに着きました。しかし,エルベ川の方々の橋が破壊されていたため,2,3か月その地を去ることはできませんでした。兄弟たちは軍隊のバラックの馬小屋に泊れる場所を見つけ,またその兵舎で「ものみの塔」を謄写版で印刷し,前途のわざに対して霊的に備えるため毎朝「ものみの塔」研究を行ないました。同時に,事情が事情だけに囚人服のままでしたが,野外での奉仕の務めにも再び携わりました。そして遂に,西方に向かって旅行を続けることができ,また再び親族と連絡を取り,王国のわざを再組織するにはどうすればよいかを考えることができました。
誠実さに関する記録
この報告はエホバの民の現代史の重要な一面の再構成を試みるものですが,ドイツの兄弟姉妹たちが国家社会主義の恐怖政治のもとで経験した興味深い事柄のほんの一部を紹介できるにすぎません。それら証人たちが真の崇拝を固守し,エホバのみ名を擁護したがゆえに生じた事柄すべてを報告するとすれば,おびただしい数の本を著わさねばならないでしょう。これまでに述べた個々の経験は,これまた取り立てて述べるに値する多くの経験を代表するものとなり,その結果人間ではなくて,むしろエホバが賛美され,エホバに誉れが帰されますように。その聖なるみ名のために彼らの多くが命を捨てるのをエホバはお許しになったとはいえ,エホバこそその民を一つの集団として救い出すべく,ちょうどよい時に処置を講じられたのです。
1945年に圧制から解放された人たちと話し合った人ならだれでも,彼らがいかにしばしば一緒になって詩篇 124篇の言葉をもってエホバを賛美したかを思い起こします。彼らは迫害の始めごろに出た「ものみの塔」誌のすばらしい記事を熟考しました。エホバはそれらの記事をもって当時の苦難の時代に対処するよう彼らを備えさせておられたのです。今や彼らは,からだを殺し得る者どもを恐れてはならないと語ったイエスの言葉の意味を理解しました。また,火の燃える炉に,あるいはダニエルのようにライオンの穴に投げ込まれるとはどういうことかを知りました。しかし,エホバはより強力な方であって,彼らの額を敵のそれよりも堅くしてくださる方であることをも悟りました。局外者さえそのことを認めており,ドイツの歴史のこの部分に言及するさい,歴史家はしばしばその点を強調しています。たとえば,1969年の「歴史季刊」誌,第2部の中でその筆者,ミヒャエル・H・カーターはこう述べています。
「『第三帝国』は内部的抵抗に残忍な暴力をもって対処する方法しか知らなかったが,それでもドイツ民族内部の反抗勢力を克服できず,また1933年から1945年にかけては敬謙な聖書研究者の問題を征服することもできなかった。1945年,迫害の時期を脱したエホバの証人たちは,弱ってはいたが,その精神は損なわれてはいなかった」。
また,「ドイツの諸教会の戦い」と題する本の書評の中でフリードリヒ・ジッフェルはこう記しています。
「強制収容所の問題を分析した研究書や回顧録で,敬謙な聖書研究者の強固な信仰,勤勉さ,有用さ,また熱狂的殉教の死について述べないものはほとんどない。これはエホバの証人が投獄される以前に戦いに携わっていた時よりもさらに前に著わされた反対派の文献で,証人たちのことを全然,もしくはほんのついでに述べたものとは対照的である。しかしながら,それら聖書研究者の活動や迫害は非常に奇異な事例である。この小さな宗教団体の成員はその97%が国家社会主義政府の迫害の犠牲者となり,その三分の一は処刑その他の暴力行為によって殺されたり,飢えや病気あるいは奴隷労働のために死んだりしたのである。彼らが被った厳しい仕打ちは類例のないものであり,それは国家社会主義の理念に合致させることのできない断固たる信仰の結果であった」。
敗北したドイツ帝国の総統は今や大いに卑しめられました! 1944年12月31日,ゲーベルスは同総統について次のように言いました。「総統が語りたい,また世界に与えたいと考えている事および自国民と人類全体に対する総統の深い愛のほどを,もし世の人々が知ったなら,彼らは直ちに偽りの神々を捨てて総統を賛美するであろう。……彼の目的はその国民を救い出すことにあるのである。……偽りの言葉や低劣な考えが彼のくちびるからもれたことは決してなかった。彼は真理そのものである」。ところが,神であろうとしたその人間は自殺を遂げました。
同総統を信頼した人たちもまた,どんなにか卑しめられたことでしょう。その一例は,これまたヒトラーを神性を持つ者とみなしたヒムラーで,彼は破廉恥なことにヒトラーの命令を遂行しました。エホバの忠実なしもべたちの生活を長年にわたって困難をきわめるものにしたのはヒムラーでした。彼は流された実におびただしい血に対して責任を負わねばなりません。1937年のこと,彼はリヒテンブルクの姉妹たちに誇らしげにこう語りました。「お前たちもやはり降伏することになるのだ。お前たちがどんなにちっぽけな者かを思い知らせてやろう。我々のほうがお前らよりももっと長く持ちこたえられるのだ!」 ナチ政権崩壊後,逃亡中,ハルツワルデでリューブケ兄弟に会い,「聖書研究者の君に聞くが,これからどうなるのかね」と尋ねたヒムラーは,どんなにか意気消沈していたことでしょう。リューブケ兄弟は彼にあますところなく証言し,またエホバの証人はナチ政権の崩壊と自分たちが救い出されることとを常に考慮に入れていたということを説明しました。一言も述べずに立ち去ったヒムラーは,その後まもなく服毒自殺を遂げました。
しかし,困難な状態にもかかわらず,エホバを崇拝した人たちはどんなにか歓喜したことでしょう。彼らは宇宙のいと高き支配者に対する自分たちの誠実さを実証する特権にあずかったのです。ヒトラーの支配した期間中,それらの人々のうち1,687人が職を失い,284人は事業を,735人が家をそれぞれ失い,また457人がその職業につくことを許されませんでした。資産を没収された例は129件に達し,826人が恩給の給付を拒否され,ほかに329人が個人的損失を被りました。親のもとから奪い去られた子供は860人にのぼりました。政府当局者からの圧力のために婚姻を解消させられた事例は30件を数え,真理に反対する配偶者の要請が認められて成立した離婚は108件に達しました。合計6,019人が逮捕され,中には二回,三回あるいはさらに何回も逮捕された人々もいるので,記録された逮捕件数は8,917件に達しました。彼らに宣告された懲役年数は合計1万3,924年と2か月にのぼりました。これはアダムが創造された時以来経た期間の2倍と四分の一のそれに相当します。また,2,000人の兄弟姉妹が強制収容所に入れられ,それらの収容所で合計8,078年と6か月を,また平均4年間を過ごしました。さらに,合計635人が刑務所で死に,253人が死刑の宣告を受け,そのうち203人が実際に処刑されました。誠実さに関する何という記録でしょう。
再建のわざを開始する
戦後直ちにドイツの兄弟たちと連絡を取ったのは,スイスのベテルの兄弟たちだけでした。彼らは,兄弟たちが収容所から解放された後でも多くの会衆に存在したある種の好ましくない傾向について聞いたので,次のような回状を諸会衆に送りました。
「ドイツにいる愛する仲間のしもべである皆さんすべてへ
キリストにある愛する同信の友なる皆さん,
「遂に皆さんはナチのくびきから自由にされました! 皆さんの中のある人々は刑務所か強制収容所で,あるいは他の形での迫害により何年間も苦しんできました。……
「しかし,主のみ名のために特別の苦しみを受けるにふさわしい者とみなされた人はだれも,そのことでうぬぼれたり,殉教者に付される栄光を受けたり,あるいは刑務所や強制収容所に入らなかった他の人々よりも自らを高めたりするようなことはないはずです。だれも自分の被った苦しみについて同胞の人たちに自慢すべきではありません。家に残った同信の友の多くもやはりさまざまの問題をかかえ,厳しい圧力を受けたことを忘れてはなりません。クリスチャンは自分の受ける苦しみを選ぶことはできません。主がそれを決める,あるいはむしろそれを許されるのです。
「愛する同信の友の皆さん,それゆえ,公正さを欠いて組をつくったりせず,また妥協した人,あるいはあえて妥協しようとした人を自分の考え方に従って非難しないようにしましょう。主は私たちの心を裁かれます。主のみ前にあって私たちは開かれた書のような者なのです。……
「ライプチヒ出身のエーリヒ・フロスト兄弟は皆さんの区域の事柄を管理する権限を受けました。しかしながら,会長からの指示によ ば,この取決めは単に一時的な性格のものです。フロスト兄弟は伝道のわざの進歩に関してできるかぎり定期的に会長に報告することになりました。
「協会の新会長,ネイサン・ホーマー・ノア兄弟の指揮のもとで,宣べ伝えるわざはかつてないほどいっそう徹底的に組織され,大いに進展しています!……
「ベルンの聖書の家の家族 Fr・ズルヒャー(署名)」
フロスト,シュワフェルト,ワゥエル,ゼリンガー,ハイニケその他の兄弟たちは解放後直ちに協会の建物および地所を取り戻すことに努めました。そこから再びわざを指導できるものと考えたからです。ところが後に,ソ連当局が反対の態度を示したため,そうすることは不可能になりました。
その間,支部の監督として任命されていたフロスト兄弟はザールブリュッケン出身のウィリ・マコー,ウィースバーデン出身のヘルマン・シュレーマーとアルベルト・バンドレスおよびマインツ出身のフランケ兄弟たちに,禁令下の時期に彼らが地区の奉仕指導者として働いていた西ドイツのそれらの地方の諸会衆を組織し,その世話をするよう要請しました。
同時にフランケ兄弟は「ものみの塔」誌を少部数印刷するための紙をシュツットガルトの近くで購入するよう努力を払っていました。同時に,シュツットガルト,フランクフルトおよびザールブリュッケンからラジオを通じて話を行ない,一般の人々の注意を王国の音信に向けさせる取決めを設けました。最後にフランケ兄弟はウィースバーデンで二つの事務室を借り,1週間後,その同じ家のある小さな部屋を居間として借りました。
1945年の終わりにフロスト兄弟はマクデブルクからシュツットガルトに赴き,旅行するしもべとしての全時間奉仕あるいはベテルでの仕事を喜んで始めようとしていた忠実な兄弟たちと組織上の問題を話し合いました。協会は東ドイツのマクデブルクで登録されていたので,西ドイツのシュツットガルトに支部事務所を開設する必要があるように思われました。
間もなくフロスト兄弟は,ノア兄弟に会って初めて直接話し合うためオランダに向かいました。その途中,ウィースバーデンで下車した彼は,借りた二つの事務室をフランケ兄弟から見せてもらった後,シュツットガルトに支部を置く計画を直ちに取りやめ,ウィースバーデンに事務所を設置することに決めました。こうして,その二つの事務所とフランケ兄弟の小さな居間がベテルの家となり,やがて20人の兄弟姉妹がそこで仕事をしたり,食事をしたりすることになりました。
約1年後,フランケ兄弟は禁令下で監禁の身にされたため,ウィースバーデン市当局からウィルヘルミンネン街42番地の二間の部屋のアパートを与えられました。それで,フランケ兄弟だけでなく,ベテルもそこに移り,二つの部屋のうち大きい方がベテルの家となりました。また,エホバの過分の親切によって,ある姉妹の所有していたその同じ家の中の別の部屋も借りることができ,そこが事務所となりました。ノア兄弟がドイツの兄弟たちに会うため初めて訪問したのはその事務所でした。
それまで兄弟たちは再三市長を訪問し,市長は幾つかの部屋を,そうです,ある家をそっくり与える約束をしていましたが,その約束はまだ何一つ果たされてはいませんでした。今や兄弟たちはものみの塔聖書冊子協会の会長の訪問の好機を利用し,然るべき当局者たちすべてを,それも特に市長を対象にして会長の訪問を強い調子で発表し,自分たちの責任を遂行するための事務所としてどんな場所が提供されたかについて,米国人である協会の会長から尋ねられた場合,市長のどんな考えを会長に伝えればよいのか市長に尋ねました。兄弟たちはヒトラー治下の禁令や自分たちが多年投獄されてきたことを利用して,証人たちに強制的に課された不当な処置に対する償いを行なうため当局者が自発的に引き受けた責任を当局側に指摘しました。市長から次のように言われた時,兄弟たちはどんなにか驚いたことでしょう。「では,コールヘクの建物の西側の張り出しの部分を使ってはいかがでしょうか」。それは空軍の兵舎として建造されていたのですが,戦争が終わる前に完成しなかったので使用されませんでした。その建物こそ実は兄弟たちが目をつけていたもので,それを入手する試みは数回なされたのですが,成功しませんでした。
その知らせを聞いて喜んだ兄弟たちは,興奮しながらノア兄弟の訪問を待ち望みました。そして,その訪問中,契約書が作成され,ものみの塔聖書冊子協会の会長である同兄弟が正式に署名する運びとなったのです。
ニュルンベルクの大会
兄弟たちは会衆を再組織し,紙不足にもめげず霊的な食物を諸会衆に供給しようと忙しく努力し続ける一方,大規模な大会を開きたいという願いが高まりました。しかし,当時は食糧事情はひっ迫し,宿泊施設は少なかったばかりか,ドイツは軍事上四つの地区に分轄されていたため,一つの地区から別の地区に旅行するのは非常に困難だったので,そのような大会を組織するには多くの問題を解決しなければなりませんでした。それにもめげず,フロスト兄弟は,おのおのの占領地区で少なくとも一つの地域大会を,そしてできれば米軍地区にあるニュルンベルクでそのうちの一つの大会を催す取決めを設けるようフランケ兄弟に要請しました。
最初の試みが失敗した後,ある兄弟がニュルンベルクの当局者たちの所に直接行って,遂に同市で大会を開けるということを確認し,9月28日と29日が日取りとして取り決められました。軍事政府が遂にニュルンベルクのゼッペリンウィーゼを使うよう申し出たとの知らせが発表されると,兄弟たちの不安はいよいよ募りました。
この当時,ニュルンベルクではいわゆる“戦犯”の裁判が進行中で,9月23日に判決が下されることになっていました。その日付は何週間も前に定められ,世界中に知らされていました。
ニュルンベルクで大会を開くことが可能になった後,兄弟たちはいよいよという時になって大会を9月30日,月曜日に終わるよう1日延長させることに決めました。そして,大会のその三日目のために特別列車を再び組織し,他のすべての取決めを設けた後,突然,ニュルンベルクの軍事裁判で下される判決は9月30日まで公表されないことになったとの知らせがラジオや新聞で全世界に伝えられました。このために問題が起こりました。というのは,米軍事政府はニュルンベルクでデモが起こりはしまいかと恐れて,夜間外出禁止令を出したからです。つまり,同市の市民はだれも月曜日の公開講演に出席する訳にはゆかなくなりました。それで,フロスト兄弟は「試練のるつぼに入れられたクリスチャン」と題する講演を行なうよう日曜日の晩の7時30分に予定が変更されました。出席した6,000人の兄弟たちがほかにニュルンベルクから3,000人もの人々が出席してその講演を聞いたということを知らされたときの喜びは,筆紙に尽くせるものではありませんでした。
米軍事政府の当局者は最初,その大会の三日目の予定を中止させようとしました。その同じ日に戦犯に対する判決が下される予定だったからです。しかし,兄弟たちは問題を切り抜けました。長時間にわたる交渉の末,軍政当局者は自分たちの要求を撤回しました。今や裁判を受ける身となった人たちに何年間も抵抗してきたエホバの証人がその大会を何ものにも妨げられることなく平安のうちに終えるのを,いったいどうして当局者は阻むことができたでしょう。
こうして月曜日の午前中,「戦後の時期に勇敢に臨む」という標語を掲げたその大会に出席した兄弟たちは,「世の陰謀に面しても恐れない」と題する講演が行なわれた時,もう一つの印象的な事柄を経験しました。
エホバがいかに巧みに物事を動かしてこられたかをはっきり悟った時,それら集まった6,000人の兄弟たちがどう感じたかをいったいだれが言い表わせるでしょうか。考えてもみてください。ナチ政権崩壊後,かつてヒトラーの軍隊の閲兵場だったその広場で最初に集まることを許されたのは,人類に対する真の平和の音信を携えているエホバの証人だったのです。それに,エホバの証人の撲滅を図ろうとしたあの残忍きわまりない体制を代表する者たちに対して,この大会のほかならぬその三日目に死刑の宣告が下されたという事実を考えた時の兄弟たちの反応を,果たして私たちは想像できるでしょうか。大会の司会者はこう言いました。「ハルマゲドンの戦いで神の民がその敵に対して収める勝利の単なる予告編にすぎないこの日を経験できただけでも,強制収容所に9年間抑留されたかいがありました」。司会者のこの言葉は新聞紙上に取り上げられて世界じゅうに伝えられました。
海外から差し伸べられた救援の手
1947年,ノア,ヘンシェルおよびカビントン兄弟たちはドイツの兄弟たちを訪ねることができました。その訪問中,5月31日の土曜日と6月1日の日曜日シュツットガルトで大会を開く取決めが設けられました。爆撃で一切のものを破壊された同市には使用できるホールが一つもなかったので,郊外の隣接地に大会のための場所が設けられ,およそ7,000人の人々が出席しました。
その訪問中,食糧や衣類などの救援物資を協会は引き続き送り届けるべきであるということをノア兄弟ははっきりと知るようになりました。それまではスイスの兄弟たちが非常な窮境にあったドイツの兄弟たちを助けるため,食べ物や衣類の形で多くの物資を贈り,兄弟愛を示していました。しかし,ドイツの兄弟たちのことを非常に気の毒に思ったノア兄弟は,彼らの窮状について数週間のうちにロサンゼルスの大会に集まることになっていた兄弟たちに伝え,食糧や衣類を寄付するよう励ますことに決めました。しかし,ドイツの兄弟たちは自分たちの窮状を特に意識していた訳ではなく,エホバがその霊的な宴を備えてくださり,またその最高潮をなすものとしてノア兄弟を自分たちのただ中に迎え得たので大いに喜び,感謝の気持ちにあふれていました。
ノア兄弟がドイツで観察した事柄についてアメリカの兄弟たちに語り,食糧を寄付するよう励ましたところ,兄弟たちは総額14万ドル(約4,200万円)を自発的に寄付したので,大型の食料袋2万2,000袋相当の食糧がケア協会から購入されてドイツに送られました。そのうえ,兄弟たちは男女子供のためのスーツやドレス,下着や靴など衣類その他を220トン分寄付しました。
救援物資が発送されたとの発表がなされるや否や,ベテルではそれをじん速,かつ円滑に分配する準備が行なわれました。兄弟たちはウィースバーデンの郊外のとあるガストハウス(旅館)の一室を借りて,そこで衣類を分類し,分配しました。そして,野外の奉仕の務めに6か月間携わった伝道者 ― 言い替えれば,単にケア袋目あてに報告したのではない人たち ― すべてが登録されました。というのは,貴重な食糧の入った大きな袋が一つずつそれらの伝道者各人を待ち受けていたからです。
それらの物資の分配が始まるか始まらないうちに,感謝の意を表わした兄弟たちの手紙が支部事務所に山のように寄せられました。兄弟たちが深い感謝の念を抱いてそれらの贈物を受け取り,エホバと寄付者つまりアメリカの兄弟たちに対する深い感謝の祈りをささげたいという気持ちに打たれているのを見るのは実に感動的なことでした。それらの手紙に目を通した人はしばしば仕事の手を休めては沸き出る涙を懸命に拭いました。たとえば,ある父親は袋を開いてその中に入っているものを見た後,12歳の息子と一緒にひざまずいて,兄弟たちからのその愛ある贈物に対する感謝の祈りをエホバに捧げました。
ノア兄弟はまた,「神を真とすべし」「新しい世」および「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」と題する書籍類を150万冊贈物としてドイツに送るよう取り計らいました。それらの書籍を配布して回収される資金は,支部事務所の仕事を遂行する基金として積み立てられることになりました。こうしてエホバは,ドイツにおけるわざを新たに開始できるよう,必要なものすべてを世話してくださいました。
戦後の困難な事態にもめげず前進する
1948年には,ドイツの南部およびルール地方ではひどい食糧事情に抗議する一連のストライキが始まりました。肉や食用油の配給量はいっそう減少していました。国際連合機構は,一日2,620カロリーの食料を配給しなければならないと宣言していましたが,場所によってはそれよりはるかに低カロリー,つまりわずか1,000,もしかすると700カロリーほどの食糧しか入手できませんでした。ほとんどすべての人が空腹を感じており,しかも事態は悪化の一途をたどり,その結果一般の人々は苦々しい感情を抱くようになりました。
それにもかかわらず,エホバの民は熱意と感激にあふれて新しい年のわざを開始しました。1月1日には各会衆で特別の集会が開かれ,合計3万8,682名の人々が出席し,またその1月中,前の月よりも2,183人も多い2万7,056人が野外奉仕を報告しました。それは例年の「ものみの塔」運動を開始する時でしたが,ここドイツで私たちが実際に必要としていたのは,私たち個人個人が用いる「ものみの塔」誌でした。紙不足に加えて他のさまざまの困難な問題すべてがもたらした悲惨な事情からすれば,それは特に問題だったのです。しかし,ノア兄弟は相当量の「ものみの塔」誌をスイスで印刷してドイツに送るよう取り計らったので,1月中伝道者はすべて各自自分の「ものみの塔」誌を入手しただけでなく,各会衆にはそれ以上の多くの雑誌が供給されたので,「ものみの塔」研究に定期的に出席している他の多くの人々もそれぞれ「ものみの塔」誌を手にすることができました。それで私たちには霊的な食物が備えられました。
その当時,ドイツのたいていの都市は瓦れきの山以外の何ものでもありませんでした。カッセルも同様で,ほとんど完全に破壊されており,廃虚を片づける作業を行なうために設けられた都市計画委員会が最初に発表した推定では,同市の瓦れきを取り除くだけで23年を要するだろうとのことでした。その町で私たちは大会を開く計画を立てました。同市が私たちの大会のために提供し得たものといえば,爆弾が破裂してできた50余りの巨大な弾孔のあるカールスウィーゼという広大な牧草地くらいのものでした。しかし,当局者が懐疑的な言葉を再三再四述べたにもかかわらず,強制収容所での経験を持つ兄弟たちは喜んで仕事に取りかかりました。原始的な方法を用いて,兄弟たちは破壊された近所の家々のおよそ1万立方メートル分の石材や瓦れきを荷車で運んで弾孔をふさぎましたが,それにはおよそ4週間かかりました。
その4週間は試練の時であることがわかりました。というのは,兄弟たちが仕事を始めるや否や雨が降り始め,遂に大会が始まるまで降りやまなかったからです。兄弟たちはずぶ濡れになりながらも重労働や雨のために意気阻喪させられるようなことはありませんでした。そのような天候のもとではカールスウィーゼでそうした大会を開くのは不可能ではないかと人々から言われたとき,兄弟たちは,ひとたび大会を開いたなら良い天気になるでしょう,と楽観的な態度で答えました。
大会の準備の仕事が急速に進められていた真最中のこと,通貨改革処置が発表され,たいへん不愉快な不都合な事態が生ずるものと考えられました。新通貨は6月21日に流通し始め,西側の三つの地区の市民は各自,60旧帝国マルクにつき新通貨40マルクを受け取り,1か月後さらに20ドイツマルクを受け取りました。また,それまでの帝国マルクによる銀行預金は十分の一に切り下げられ,たいてい一時的に凍結させられました。
新通貨の価値はまもなく明らかになりました。集積されていた物資が突然売り出されるようになり,何年もの間手に入らなかった多くの必需品が今や店頭で買えるようになりました。しかし,兄弟たちは霊的な必要を意識しており,大会に出席するために喜んで自分たちのドイツマルクを投じました。費用をまかなうためにカメラその他の貴重品を売り払った人も少なくありませんでした。王国の関心事を第一にする人たちを助けるのにエホバのみ手は短すぎるということはありませんでした。たとえば,ミュンヘン出身のノイペルト姉妹はこう伝えています。「私の飼育していたみつばちの集団は危険にさらされました。というのは,手もとには砂糖がありませんでしたし,私には砂糖を購入する余裕もなかったからです。しかし,私にとってはカッセルの集まりのほうがもっと重要なことでした。しかも,私は失望させられはしませんでした。家に戻ってみると,みつばちは非常に熱心に働いていたので,その年はおよそ1,000キロのはち蜜を収穫できました」。
カッセルに到着した支部事務所からの責任のある兄弟たちは,イザヤ書 12章3節(口語)から取られた「あなたがたは喜びをもって……水をくむ」という言葉をもって迎えられました。兄弟たちはその言葉を幕に書き,それを牧草地の入口の上方に張っておきました。地面をもっと早く乾燥させるため,残りの弾孔からなおも忙しく水をくみ出していた他の人々は,その聖句をもじって,『私たちはおけをもって……水をくみます』と言ってそれらの兄弟たちにあいさつの言葉を述べました。
カッセルには各地から特別列車が17本送り込まれるとともに,何週間も激しく降り続いた雨が上がり,金曜日の朝,青々と晴れ渡った空から1万5,000人余の出席者の上に陽光が降り注ぎました。出席者数は二日目には1万7,000人に増え,公開集会に際して場内整理係の計算では2万3,150人の最高数に達しました。しかもそれには,大会場の周囲の路上に立って話を聞いたおびただしい数のカッセル市民は含まれてはいませんでした。同市の各新聞は「カール牧草地に集まった2万5,000ないし3万人の出席者」について報じました。
市長さえその大会に出席し,兄弟たちに短い演説を行ないましたが,市長は兄弟たちの働きに大いに感心させられました。良い天気に恵まれたので,二日目に大会会場を訪れたカトリック信者のある警察署長はその視察中,兄弟たちにこう言いました。「あなたがたは天上の神さまと本当に良い関係をお持ちのようだね」。それからちょっと間を置いてこう付け加えました。「私たちのそれよりももっと良い関係のようですな」。
この大会の数多くの印象的なできごとの一つは,出席者各人が「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」と題する書籍1冊と,「すべての人々の喜び」という小冊子を2冊それぞれ無料で与えられたことでした。別の印象的な事柄は,野外奉仕でした。兄弟たちは特別列車に分乗して近くの町々すべてに行き,遠くパーダーボルンにまで赴いて働いたので,司教の住む同市はたった1日で完全に網羅されました。この大会では1,200人の新しい兄弟姉妹が誕生しました。
エホバの民が霊的な関心事を喜んで第一にした結果,平安と一致と増加がもたらされました。大会の月である7月中,3万3,741名の伝道者が奉仕を報告し,8月になるとその人数は3万6,526人に増え,同奉仕年度は83%の増加をもって終わりを告げました。会衆の数も増え,10月15日付で巡回区の新たな分割が行なわれ,今や巡回区の数は70になりました。
また,1948年にはウィースバーデンのベテルに初めて何台かの平版印刷機が設置されました。同時にブルックリンからの贈物である大量の紙の積荷が届いたので,大規模な印刷を開始することができました。長い間,2台の印刷機が昼夜兼行で運転されていましたが,多くの外部の人々は私たちがどうしてそれら2台の機械を入手できたのか不思議がっていました。当時,そのような印刷機を製作できる会社は一つもなかったからです。その印刷機はかつてのある大富豪のものでしたが,ダルムシュタットの爆撃のさいに相当の損傷を被りました。1945年になって,それらの機械の鉄製の部分がその富豪と彼の事務所の経営者の手で瓦れきの中から掘り出され,最初にその機械が製作されたライン河畔のヨハニスブルクの工場に運ばれました。仕事の材料を与えられて喜んだ従業員は,それらの機械を完全に修復しました。その間に,かつてのこの金持ちの印刷業者の秘書が彼の妻となり,次いで真理を学び,自分の影響力を利用して夫に働きかけたので,彼はそれらの機械を信じられないような安い値段で協会に売却しました。
それ以前でさえ兄弟たちはカールスルーエの小さな印刷所で1年半ほどの間毎月約4,000ないし6,000部の雑誌を生産することができました。それは国家社会主義政府所有の印刷工場でしたが,進駐米軍に接収され,ナチ政権による迫害を被った人々の手に任されることになりました。ベテルの成員はそうしたグループに属していたので,その小さな印刷所は,経営一切を自分たちで引き継ぐという条件で兄弟たちに引き渡され,使用されることになりました。エルウィン・シュウァフェルトはその印刷所を経営する責任を与えられ,私たちが自分たちの印刷工場で印刷の仕事を続けられるようになるまでその印刷所で「ものみの塔」誌の印刷を監督することになりました。
ただ一つの特別の問題は,どのように分配するかということでした。伝道者は月々増加しましたが,軍事政府当局はさらに多量の紙を私たちに与えることはできませんでした。そこで私たちは毎月新たな分配計画を立てねばなりませんでした。そうすることによって,伝道者は6人ないし7人につき1冊の割合で「ものみの塔」誌を入手しました。これもまた,ノア兄弟が当協会をアメリカ,ペンシルバニヤのものみの塔聖書冊子協会の支部組織としてウィースバーデンで正式に設立させるためあらゆる努力を払った理由の一つでした。そうすれば,研究資料に対する兄弟たちの増大の一途をたどる需要に答え応ずるためドイツ以外の場所から紙を早く供給できるのです。しかし,兄弟たちはまた,戸別訪問のわざに用いる文書をも必要としていました。1948年までは兄弟たちの入手できる出版物はごくわずかしかなく,それも主に小冊子類で,それらは1,2週間ずつ貸し出されていました。
1949年には紙の供給量が増大したので,印刷部数を相当増加させることができました。1949年1月1日号の「ものみの塔」誌は4万部印刷されましたが,その部数は増大し,4月15日号は8万部,5月1日号は10万部,そして5月15日号は15万部印刷されました。
ドイツの四つの地区全部で1947年の記念式の出席者数は合計3万5,840人でしたが,翌年は4万8,120人に増え,1949年の記念式の出席者数は6万4,537人に達しました。この面でも時には解決しなければならない問題が生じました。たとえば,ゲッピンゲンの近くのホルツハイムでは1948年の記念式の祝いは警察の「保護」を受けて行なわれました。どうしてそういうことが生じましたか。オイゲン・ミューライス兄弟はこう説明しています。「福音教会の牧師はその地方でチフスが発生したため,晩さんの祝いを執り行なうことを禁じられていました。今や,私たちが記念式を開く予定にしていた学校の主事は,記念式を中止させようとしました。保健課は集会を開く許可を私たちに与えてはいましたが,伝染病が広まるのを防止するため守るべき幾つかの制限を定めていました。それで,ある警官が派遣されて私たちの記念式の祝いに出席し,それらの制限が守られているかどうかを確かめました」。
1949年の初めにはウィースバーデンの印刷所は拡大され,8台の印刷機が使用され,そのうちの2台は昼夜兼行で運転されました。同年中にはやがて製本された書籍がおよそ150万冊ブルックリンから送られ,それらの書籍が配布された結果,新しい再訪問や聖書研究をより広範囲にわたって行なう基盤が据えられました。伝道者の隊伍は月々増大し,1949年の8月には4万3,820人が報告し,同奉仕年度中伝道者は33%の増加を遂げました。
共産圏の東ドイツにおける反対
第二次世界大戦の終わりにソ連軍によって占領され,ソ連軍政当局によって統治された東ドイツとベルリンの東部地区におけるわざの進展状況は,かなり異なったものでした。ソ連軍の将校の多くは,エホバの証人については,証人たちがナチによる残忍な迫害を耐え忍んだということ以外あまり多くを知りませんでした。最初は比較的に言ってほとんど干渉を受けませんでしたが,各地で会衆が繁栄し始め,多くの人々が王国の音信に関心を示し始めるにつれ,ソ連軍政当局にとって私たちのわざは手に負えないもののように思えたため,軍当局は私たちのわざに疑惑を抱くようになりました。軍政当局により助長された共産党の政治集会よりも私たちの公開集会にもっと大勢の群衆が詰めかけることがしばしばありました。
地方のソ連当局者は諸会衆および個々の伝道者の活動を公然と制限し始めました。キリスト教世界の牧師の中には,自分たちが共産主義者の良い友であることを示す機会を見つけた者もいました。それらの牧師たちは兄弟たちのことを当局に反対する者として,また神の王国を人類の唯一の希望として宣べ伝えることにより人々を動かし,東ドイツの荒廃した経済の回復を図る軍政側の努力に対する一種の消極的な抵抗を行なわせようとしているとして偽って中傷しました。
マクデブルクの協会の事務所で働く兄弟たちはそうした干渉を受ける事態に迫られたので,東ベルリンにあるソ連軍政部の本部と交渉することになりました。最初,兄弟たちの努力は,「一切の事柄を禁ずるか,さもなければ一切を許す」という普通に実施されている原則に基づいてあしらわれました。しかし,遂に兄弟たちは,エホバの証人は合法的な活動を行なっているということを認めた証明書を軍政本部から取得することに成功しました。そして,干渉を受ける事態が生じた場所ではその書類を呈示して問題の解決に役だった例が幾つかありました。しかし,他の役人たちは,本部は縁遠い存在で,自分たちこそ主人公なのだと考えているようでした。
終戦後,ドイツ帝国のかつての首都ベルリンは,四つの戦争国の連合軍により,半ば独立し,半ば相互関係を持つ行政管理の行なわれる四つの地区に分割されました。1948年に経済改革が始められた後,ソ連側がベルリンの西側地区の封鎖を強行するに至って,連合国側の不和は激化しました。西側の連合国は制御処置の及ばない空路の使用権を利用して封鎖線を突破し,“空中輸送路”を確立することによって,西側三地区内の住民に生活必需物資を供給しました。東西の合意が得られてソ連側が封鎖を解除した時までには,ベルリンは,共産主義支配下の東ベルリンとドイツ連邦共和国とある種の結び付きを持つ西ベルリンの二つに明確に分割された都市と化していました。
1948年にはライプチヒで地域大会が開かれる予定でしたが,ソ連軍事当局者は許可を出しませんでした。次いで,ベルリンの英国地区の美しい場所にあるワルトビューネ(森のステージの意)を使う計画が立てられました。しかし,大会に関連して困難な問題はとめどなく続きました。それは通貨改革や悪天候だけではありません。最も重大な問題は,東ドイツ全土の何千人もの人々がどうしたら封鎖されたベルリン市に入れるかということでした。しかし最後に私たちは特別列車を同市に送り込む許可を得たので,危機的な政治情勢にもかかわらず,初日にはほとんど1万4,000人もの人々が集まりました。三日目には1万6,000人余の人々が出席し,日曜日の午後の公開講演には2万5,000人以上の人々が出席しました。バプテスマによって献身を象徴した新しい伝道者は1,069人を数えました。諸国家の二つのブロックの間の闘争のまさに焦点を成す場所で,エホバはご自分の民のために肥えたものを食卓に供する情け深い主人役を勤めてくださいました。
共産主義支配下の東ドイツ,マクデブルクの協会の建物と地所はどうなりましたか。ワヒトルム(ものみの塔)街17-19番地の建物は1945年,戦後直ちに返還され,既に95%修復されており,またライプチヒ街16番地の建物は約90%修理されていました。兄弟たちは報酬を求めることなく自発的に奉仕して,破壊された建造物を建て直しました。1949年6月24日に行なわれたザクセン州政府の決定に基づき,フヒスベルク5-7番地およびワヒトルム街1-3番地の残りの建造物も協会に返還されました。同月,マクデブルクの支部事務所の世話を受けていた東ドイツの伝道者は合計1万6,960人に達しました。
聖書の真理に対する需要には相当のものがありました。旅行する監督たちからの報告によれば,伝道者がわずか3,40人の諸会衆の公開集会にしばしば100名ないし150名もの人々が出席しました。大都市での講演のさいの出席者数はしばしば1,000人を越えました。数多くの聖書研究が始められ,ある会衆では伝道者の聖書研究の平均は3.8に達しました。旅行する監督たちはいつも容易な時を過ごした訳ではありません。中には,借りた古い自転車に乗って旅行した人もいますし,そうした自転車の中には,ゴムのタイヤのない,鉄わくだけの車の自転車もありました。また,長距離の旅行をしなければなりませんでしたし,それに配給券の問題などもありました。ある巡回監督の報告によれば,労働事務所の発行した同兄弟の“説教者”としての身分証明書は期限を延長してもらえなかったとのことです。つまり,配給券をもらえなくなったのです。
別の巡回監督はこう伝えています。「講演のさいにはいつも数人のスパイが出席していました。ある時,兄弟たちは,私服を着て現われたある男の人がいったいだれなのかよくわかりませんでした。講演が始まる前に私はその人に近づいて,『お巡りさん,すみませんが,正確な時間を教えていただけませんか』と尋ねました。すると,彼は時間を教えてくれました。私からそのように呼びかけられても驚いた様子を見せなかったので,私たちは彼が私服警官であることを知りました」。
ソ連側とドイツの共産主義政府の役人の敵意は増大し続けました。1949年7月29日から31日にかけてベルリンのワルトビューネでは,東ドイツに住む兄弟たちのための地域大会がもう一度開かれることになりました。この大会は迫害の暗雲がしだいに募って暗い影を落とす中で行なわれましたが,それは全き心を抱いてエホバに仕え続ける兄弟たちの決意を示すものでした。大会の準備はできるだけ宣伝を控えて静かに行なわれました。それまでには既に東ドイツでは信教の自由に対する共産主義者の攻撃が何度か行なわれていました。たとえば,ザクセン州でのある巡回大会は最後のどたんばで中止させられ,暴力がふるわれたため何人かの証人たちが傷つけられました。
私たちは特別列車を8本取り決めることができました。およそ8,000人もの人たちは乗車券を得るために既に10万独-マルクを支払いましたが,出発するほんの数時間前になって特別列車は取り消されてしまいました。鉄道側は2週間経過するまで乗車券の代金の払い戻しを拒みました。何千人もの証人たちはまるで特別列車が中止されたことを聞くために駅で待っていたようなものでした。警察はベルリンに通ずるすべての道路を封鎖し,乗用車,バス,トラックなどあらゆる車を調べて,大会に行く人を捜しました。しかし,大会の最初の晩には少なくとも1万6,000人もの人々が出席し,日曜日の公開講演には3万3,000人余の人々が出席しました。敵はまるで我が身に不利な証言を自ら大々的に行なうために激しい攻撃や妨害工作をしたようなものでした。
私たちに対して取られた独裁的な処置はほどなくして知られるようになり,新聞社には招待状は出されませんでしたが,大勢の新聞記者が姿を見せ,共産主義者側が証人たちをベルリンに行かせまいとしたいきさつについて世間をあっと言わせるような記事を書きました。土曜日の晩,支部の監督エーリヒ・フロストは集まった何千人もの聴衆に向かって決議文を読みました。決議文はその同じ晩,ベルリンにあるアメリカのラジオ放送,RIASを通じて伝えられました。フロスト兄弟は次のような言葉で証人たちの勇敢な態度を要約しました。「ボルシェビズムは他の諸制度よりも優れていますか。共産主義者はヒトラーが始めたことを自分たちがし終えねばならないと信じているのでしょうか。私たちはナチを恐れなかったのと全く同様,共産主義者を恐れる者ではありません!」
ベルリンの地域大会で採択された決議には,民主主義および憲法に反する禁止措置と,ザクセン州における礼拝の集いに対する制限およびそのために用いる集会場の接収に対する鋭い抗議の言葉も含まれていました。この決議文は8月3日付の手紙を添えて,ベルリンにあるドイツのソ連軍政最高指導部に送られました。また,その写しは公職にある要人あるいは新聞,ラジオ放送局,ニュース機関その他と関係を持つ人々など4,176名の著名人にも送られました。それで,あらゆる人々が共産主義者の動向と真のクリスチャンの確固不動の立場に注意を向けるよう促されました。その大会から1か月経った後の8月には東ドイツのエホバの証人は,それまでの報告よりさらに568人も多い伝道者の新最高数に達しました!
エホバの証人の活動を阻止しようとする運動は高まり続け,いよいよその規模は大きくなってゆきました。信教の自由はますます制限され,聖書研究の司会を禁ずる禁令が出され,警官は礼拝の集いを解散させ,また兄弟たちはその信仰のゆえに公務員の職あるいは市役所の職場から解雇されました。1950年2月18日には真の信教の自由の保障を要請する請願書がドイツ民主共和国政府に提出されましたが,その結果,さらに多くの礼拝の集いが解散させられ,さらに多くの文書が没収され,主だった奉仕者数人が逮捕されるという事態が生じました。1950年6月27日,東ドイツのエホバの証人はオットー・グローテヴォール大統領に宛てたもう一通の請願書を政府に送りました。次いで,共産主義者による残忍な攻撃が加えられました。
1950年8月30日の早朝のこと,2人のソ連軍将校の指揮する共産主義政府の一群の警察官が私たちのマクデブルク・ベテルになだれ込みました。警官はある兄弟を“管理人”として留まらせただけで,他の兄弟たち全員を逮捕しました。マクデブルクのものみの塔協会に対してその活動を禁止する旨通達した内務省からの手紙は8月31日付になっていましたが,警察は“管理人”としてただ独りあとに残された兄弟に9月3日になるまでその手紙を提出しませんでした。
ベテルにいた姉妹たちが目撃証人として寄せた報告は,8月30日のその朝のできごとをこう述べています。「朝5時ごろ警報器が鳴りました。私はすばやく服を着ました。……私はドアを開けて階下に走って行こうとしたところ,二人の警官が私の前に立ちはだかり,部屋の中に留まっているようにと言いました。次いで,警官の一人が中に入って来て衣装戸だなを開くよう命じました。私は彼が身分証明書を見せるまでそうすることを拒みました。彼らはあらゆるものを破りました。……」。警官はどのようにしてベテル・ホームに侵入したのでしょうか。別の姉妹はこう述べています。「私は23号室の窓から外を見ましたが,一人の警官が門をよじ登っているのが目に入りました。他の警官は既に中に入っていました。夜警は彼らのために門を開けるのを拒否しました。私の推定では少なくとも25人から30人の警官が一団となっていましたが,だれも制服をつけてはいませんでした」。
当時マクデブルクのベテルで奉仕し,今もなお忠実にウィースバーデンのベテルで奉仕しているベンダー姉妹は,彼女の経験についてこう述べています。「1950年8月30日の朝,4時から5時の間に東ドイツの警官がベテル・ホームにやって来ました。全員自分の部屋に留まっていなければなりませんでした。午前10時ごろ私は一階のバルコニーの非常階段を降り,ベテルの建物と隣の建造物の間のへいをよじ登って越え,警官に見つからないようにしてベテルを脱出しました。路上には警官の立っているのが見えましたが,私は素知らぬふりをして隣の建物から外に出て,協会の書類の幾らかを預かっているある兄弟の家に行きました。そして,それらの書類を受け取った私は,ある兄弟の車に乗ってベルリンに向かいました」。こうして,ある記録類を無事に運び出すことができました。
文書はすべて没収され,協会のトラックごと運び去られました。台所に貯蔵してあった食糧も同様に運び去られました。ただ姉妹たちは配給券を所持することが許されました。ある目撃証人はこう伝えています。「その間に警察は ― 私たちが見ていると ― 兄弟たちを二人ずつ静かに連れ去って行きました。……」。
迫害の波は既に打ち寄せ始めていました。警官がある兄弟を逮捕するためにやって来たところ,何とその兄弟はかつてナチの収容所で強制的に着せられた「縞馬模様の縞のある囚人服」を着て,それらの警官を迎えました。そして,こっけいなまねごとの裁判が行なわれ,エホバの証人のわざは再び地下に追いやられました。
1950年に長い懲役刑の宣告を受けた兄弟たちの一人,ロター・ワグナーは,7年間にわたる独房監禁中,どのようにして誠実さを保つことができたかを次のように鮮かに説明しています。
「1950年8月30日,私はメクレンブルク州プラウで逮捕され,1950年10月4日,ベルリンのドイツ民主共和国の高等裁判所で懲役15年の刑を宣告されました。その後1956年のハンガリー動乱により私の懲役刑は10年に減刑されました。
「その10年の歳月(と,取調べを受けるために拘禁され,実刑から差し引かれなかった6週間を)私はブランデンブルク-ゲールデンの連邦刑務所で過ごしました。そして,1960年10月3日,同刑務所で釈放されました。
「その間,私は独房で7年間を過ごしました。最初の3年間,外の世界と接触できた唯一の方法は,毎月1回書いたり,受け取ったりするのを許された,タイプ用紙の半分ほどの大きさの紙に15行だけ書ける一通の手紙だけでした。―それも警察が文面を調べて許可した場合の話です。1958年までは仕事は特典とみなされていました。ですから私は働くことを許されませんでした。1958年以後は仕事は罰とみなされたので,私は働かねばなりませんでした。
「何年間も独房に監禁される人は,さまざまの苦しみと戦わねばなりませんが,中でも主要な敵の一つは時間です。時間を征服しなければなりません。
「私はこの時間という問題を次のようにして解決しました。一貫性は人を強めます。このことは時間についても当てはまります。合計15年という投獄期間全体を一単位とみなすと,その膨大な時間のために人はほとんど打ちひしがれてしまいます。なぜなら,それはまさに想像に絶するものがありますし,その計り知れないほどの長い時間はまるで怪物のように立ちはだかるからです。それで,時間を制し,時間を従わせるよう努めねばなりません。この世の支配者たちは従え得ないほどの大勢の人々を支配しようとする場合,しばしば,分割して支配せよ!という原則に従います。
「時間に関して私はこの原則を適用しました。私は時間を分けました。それを年や月,そうです,週や日でさえ数えず,むしろ,せいぜい何時間かの単位で数えました。朝,たとえば7時に私は,今日は何をしようか,ではなく,9時まで私は何をしようかと自問しました。
「すると突然,万事が異なって見え,1,2時間ほどの時間は恐ろしいものではなくなり,その程度の時間なら容易に制することができました。しかしなお別の問題がありました。それは何を行なって時間を費やせばよいかという問題です。紙や鉛筆は入手できませんし,現実の唯一の仕事は,独房をきれいにしたり食事を取ったりすることだけでした。たとえその両方を徹底的に,またできるだけゆっくり行なったところで,それだけでは一日全部を費やせるものではありません。当然のこととして,個人研究から国際大会,また戸別訪問の奉仕から公開講演に至るまで神権的な奉仕のあらゆる分野の事柄を想像して頭の中でできるかぎりそうした事柄にあずかりましたが,たとえありとあらゆることをしたところで,一日のうちにはしばしば,何もすることがない1,2時間の時間がありました。それは最も危険な時間でした。なぜなら,うっかりすると,あるいは失望したり意気消沈したりすると,1日がかりで苦労して順々に整えたものを容易に覆しかねないからです。
「ある日,私は『時計』を発見しました。それは私にとって何年もの間,そうした非生産的で危険な時間を有効に用いるのに役だちました。私は夕食までになお2時間残っていることを知ったのです。それで,独房の中を前後に5歩ずつ歩いて往復しながら王国の歌をうたいました。30番目の歌をうたい終わったとき,戸が開いて,食事が出されました。私は歌詞に注意を集中していたので,それだけの時間が経ったことにさえ気づきませんでした。このことを発見したおかげで私は何年もの間,単調で,意気消沈させられる事態を経験せずに済みました。それから数週間というものは,王国の歌を思い起こしてその全部を記憶することに専念しました。歌詞が正確にわからない場合には一,二節をとにかく自分で作りました。また,自分の好きなこの世の歌の曲を利用し,それに合わせて神権的な歌詞を考え出し,王国の歌を作りました。こうして遂には,王国の歌を100曲まとめて記憶し,それぞれに番号を付して歌えるようにしました。それらの歌はおのおの歌うのに正確に4分かかったので,ある長さの時間を過ごすには何曲歌わねばならないかを正確に割り出すことができました。何年もの期間を通して私は毎日少なくとも2時間,つまり王国の歌を30曲歌いました。このような訳で,時には,何もしたくないような場合,朝から晩まで一日じゅう歌っていることもできました。王国の歌には何と人を励まし,強める考えが収められているのでしょう。おのおのの歌の歌詞を筋書として用いれば,それぞれの歌を基にして容易に講演を行なうことができます。これも,霊的に打撃を被らずに時間を費やせる別の手だてとなります。確かに王国の歌は時に応じて供される食物と言うことができます。
「私はエホバの組織から切り離されていたその10年間,エホバの霊の助けを得たおかげで霊的強さを保ち得たことをエホバに深く感謝しています。私は私たちに与えられる霊的な食物すべてに対する正しい認識を表わすようあらゆる人に勧めたいと思います。というのは,それがいつか私たちにとってどのような形で価値あるものとなるかはわからないからです。時に応じて供される霊的な食物を定期的に摂取しているなら,私たちが非常に危険な時期に自分独りで立つ場合,そうした食物は私たちがエホバに信頼を置き,エホバの側に堅く立って耐え忍ぶのに役だちます」。
1955年9月1日から1961年8月31日まで協会は西ベルリンで美しい支部事務所を維持していました。その事務所を持っていたため協会は,分割された同市の特殊な事情により良い注意を払うことができましたし,同支部はまた,西ベルリンと東ドイツの間で組織上の密接なきずなを維持する優れた取決めでした。
東ドイツと東西両ベルリンに住むエホバの証人の間のそうしたきずなは,1961年に急に生じた,証人たち個人にとってはどうすることもできない一連のできごとのために不利な影響を被りました。戦後まもなく多くの人々が,たいていは東ドイツ政府の政策に不満を抱き,東ドイツを捨てて西ベルリンや西ドイツに去り,以来そうした難民の流出は増加の一途をたどりました。東ドイツ政府当局は国民の国外への旅行を許さなかったので,人々は難民としてひそかに「緑の国境」を越えて亡命しました。当局者は同「共和国からの逃亡」を禁ずる法律をいっそう厳しいものにするだけでなく,国境の取締りを強化し,列車内の乗客や路上の通行人を調べたりして難民のそうした流出を食い止める対抗策を講ずることに努めました。国境を越えて西ベルリンに入るのに比較的便利な方法は,ベルリンの東部地区から入る方法でした。1961年の前半の時期までには難民の流出は月に2万人に増え,7月には3万人を越えました。合計300万人の住民,つまり総人口の六分の一もの人々が財産や所有物を東ドイツに残したまま難民として西ベルリンや西ドイツに逃れ去ったのです。
さらに多くの人々が自国の領土から逃亡するのを阻止するため,共産主義政府当局は厳重な処置を講じました。1961年8月13日の早朝,当局は,平坦な「死の通路」や自動警報器を備え,いつでも狙撃できる見張りの監視する壁をセメントや有刺鉄線を用いて構築し始めました。その壁はベルリン西側の三地区と東ドイツとの全長120キロにわたる国境はもとより,同市の東西両地区の長さ50キロの境界線に沿って構築されました。そのために西ベルリンを囲む輪は締めつけられ,それまでの取締りにもめげず同市の二つの地区の間になお見られていた激しい交通は突如しゃ断されました。東ドイツに住むエホバの証人は西ベルリンへ旅行して文書を入手したり,同市にある支部事務所と通信連絡を取ったりすることはもはやできなくなりましたし,西ドイツで開かれる大会に出席することもできなくなりました。
もち論,文書を入手することはそれ以前でさえ容易ではありませんでした。東ドイツに文書類を持ち込むことは共産主義政府当局により禁じられていたので,そうすれば処罰の対象とされました。国境で取調べを受ける際,兄弟たちが協会の聖書関係の文書類を携行していることが見つかった場合には,長期間にわたる懲役刑を予期しなければなりませんでした。ですから,そうした旅行をするには,強い信仰とエホバに対する全き信頼が必要でした。
1950年に迫害が始まってから,1961年に「ベルリンの壁」が構築されるまでに東ドイツ当局は,2,897人のエホバの証人を逮捕しました。そのうち,674人の姉妹を含め,2,202人のエホバの証人が法廷に引き出され,合計1万2,013年に及ぶ懲役刑を,つまり一人平均5年半の服役刑を宣告されました。そして,投獄中に虐待,病気,栄養失調,老齢などのために37人の兄弟と13人の姉妹たちが亡くなりました。12人の兄弟たちは最初終身刑を課されましたが,後に15年の懲役刑に減刑されました。
東ドイツの兄弟たちは「ベルリンの壁」のもたらした新たな事態に早速適応しました。兄弟たちは必要な霊的な食物を供給する他の方法を採用し,たいへんな熱意をいだいてクリスチャンの奉仕の務めを続行しました。共産主義政府当局は明らかにそのようなことを予期してはいませんでした。当局者はスパイを組織に潜入させることに努め,それらスパイは,エホバの証人として知られている人々を訪ね,自分たちは変化した事情にわざを順応させるのを助けるべく協会から派遣された兄弟たちであると唱えました。しかし,兄弟たちはよく訓練されていたので,スパイとして潜入した人を直ちにそれと見破りました。
その後何年かのうちに,逮捕されて刑を宣告される兄弟たちの数は著しく減少しました。エホバの証人が新たに逮捕された件数は1963年にはわずか15件,1964年には9件にすぎませんでした。一方,それらの2年間にそれぞれ96人また48人の兄弟たちが長い刑期を終えて釈放されました。1964年の夏,何年間もの懲役刑を受けて投獄されていた4人の兄弟たちは意外な驚くべき事を知らされました。元々終身刑の宣告を受けていたそれらの兄弟たちは突然釈放され,西ドイツに送られたのです。ある大会にちょうど間に合うように西ドイツに着いた彼らは,夢見る心地でした。ほんの数日前までは,東ドイツの寒々とした連邦刑務所の中で,自由の身である兄弟たちと集まり合えることをただ夢見ていたのです。それが今や,心に秘めていたその願いが突然成就されるのを経験することになりました。それら兄弟たちのうちの二人,フリードリヒ・アドラーとウィルヘルム・エンゲルは,マクデブルクのベテルの家族の成員でした。フリードリヒ・アドラーは1950年に,わざが禁じられる2か月前に逮捕,投獄されました。一方,ウィルヘルム・エンゲルは1950年8月30日,ベテルが急襲された時に逮捕された人たちの一人です。エンゲル兄弟は病身だったため,ベルリン地区国境で赤十字当局に引き渡され,直ちに病院に運ばれましたが,数週間後その病院で亡くなりました。これらの兄弟たちは既にヒトラー政権の下で9年近くも投獄されていたので,こうして信仰ゆえに合計23年間にわたる投獄生活を耐え忍んだのです。フリードリヒ・アドラーは再び,このたびはウィースバーデンでベテル奉仕に従事しました。彼は既に1920年代の当時巡回する兄弟として奉仕していましたから,波乱に富んだ全時間奉仕のその長い生涯を回顧することができました。長年の投獄生活でからだをいためた同兄弟は1970年の12月,その地上の歩みを終えました。
1964年11月のこと,共産主義政府当局は東ドイツに住む兄弟たちに新たな打撃を浴びせました。その少し前から国民皆兵制が取り入れられていました。若い兄弟たちは兵役を拒否していましたが,一般的に言って思いやりをもって扱われ,そうした態度は尊重されていました。ところが今や突如として警察は早朝の暗闇に乗じて142名の兄弟たちを逮捕しました。彼らに対する取扱い方のこうした意外な変化は,それら若い兄弟たちの信仰を試すものとなりました。それらの兄弟たちは労働キャンプに入れられました。最初,兵役の代わりに“建設兵”として兄弟たちを働かせようとする試みがなされましたが,兄弟たちは一致結束してその仕事を拒否しました。兄弟たちは処罰をもものともせずに確固とした立場を保ったので,そうした強制的な試みは取り止められました。しかし,兄弟たちは鉄道を建設する重労働に従事し,朝の4時から夜の9時まで働かねばなりませんでした。仕事がない時は,エホバの証人の中の責任のある人々は西側の手先だということを思い込ませようとする教育を受けました。それら若い兄弟たちの大半は,わざが禁止された後に真理を知るようになった人々だったので,当局者は,無神論の共産主義思想が組織的に大規模な仕方で若者たちに教え込まれているにもかかわらず真のキリスト教の原則を恐れずに擁護する若い人々を見いだして仰天しました。
1965年中,治安維持を図る内閣のスパイや秘密機関により兄弟たちが監視され,悩まされる事件は急激に増加しました。多数の家が家宅捜索を受け,また兄弟たちは路上で呼び止められ,尋問されました。自動車や家,はては兄弟たちの寝室にさえ秘密の盗聴設備が据えつけられました。当局者は兄弟たちの挙動がいっさい当局に知られているのだという印象を兄弟たちに与えようと努めました。
もち論,当局は兄弟たちの悪意のない会話を“聞いて”さまざまの細かい事柄を探り出すのに成功しました。審問が行なわれる際には秘密警察は証人たちのわざに関して自分たちが収集した情報を,“資本主義世界”から入手したかのように見せかけることに努め,そのようにしてそれら証人たちがある程度無分別だったことを示唆しようとしました。そうすることによって,統治体や協会の事務所の兄弟たちに関する疑惑や不信の種を蒔くことに努めていたのです。しかし兄弟たちはそのために動揺させられたりはせず,時が経つにつれて自分たちの回りに張られたスパイ網がいかに厳重なものかをいっそうよく知るようになりました。
そのことは特に1965年11月のある日の早朝,東ドイツ全土の兄弟たちの家々が8人の警官の一団によってそれぞれ占拠され,数時間にわたって調べられた時に明らかになりました。そして,「首謀者」とみなされた15人の兄弟たちが逮捕され,9か月ないし13か月留置場に拘禁されたのち,遂に起訴され,裁判所に連れ出されました。1966年,彼らは懲役12年,平均すると7年余の刑を宣告されました。
それらの兄弟たちが危険な犯罪者のように取り扱われていた時,刑を課されたそれらの兄弟たちが行なっていたのと全く同様に良いたよりを宣べ伝え,小さなグループになってともに集まってエホバを崇拝していた他の人々を,秘密警察は捜して捕らえていました。そして,もし兄弟たちが ― 国家の安全のために ― 自分たちの活動に関する報告を提出し,奉仕の務めに携わっている人々の氏名を知らせるなら,引き続き小さなグループに分かれて集まり合ったり,聖書関係の文書類を所持したり,他の国々の兄弟たちとの連絡を保ったりすることができるようにしようと当局者が兄弟たちに申し入れました。しかし,兄弟たちは当局の不誠実な勧めを退けました。ある警官は,「われわれはお前たちの指導者どもを連れ去ったと考えていたのだが,今やお前たちのわざの実態をまんまと見失わされる結果に陥ったに過ぎない」と言って嘆きました。
1969年のこと,時が経つにつれて,1965年の運動で逮捕された15人の兄弟たちのうち14人がおよそ4年にわたる投獄生活を送った後,突然釈放され,大半は西ドイツに送られました。そのグループの最後の一人は,勝手な処置が取られて1970年の9月までもう1年間刑務所に拘留されました。
それ以来,秘密警察は戦術を変え,目下のところ普通の警察その他の国家機関を用いて兄弟たちに対して厄介な事を行なっています。ある地方の警察は,兄弟たちが宣べ伝えるわざを行なったり,集まり合ったりして治安を妨害したとして高額の罰金刑を課しています。しかし,多くの兄弟たちは憲法の保障する信教の自由に基づいて訴えを起こし,個人的に治安を妨害されたとする証人を目の前に出してもらいたいと要求することにより,そうした罰金の支払いを延期させることに成功しました。もち論,そのような証人は存在しませんでした。
他の地方では当局者は,兄弟たちを彼らの家から立ち退かせて標準以下の家に入れたり,低賃金の世俗の仕事に就かせたり,またさまざまの特別な職業訓練を若い兄弟たちに受けさせないようにしたりして兄弟たちに圧力を加えることに努めてきました。
「ベルリンの壁」が構築された1961年に東ドイツにおけるわざは外の世界から封じられましたが,それ以来何千人もの人々が良いたよりを聞き,真理を学んで献身し,バプテスマを受けてきました。それらの人々は,エホバの霊は人間の構築した壁や要さいをもってしても抑制できるものではないことを示す生きた証拠です。このようなわけで,23年余の間禁令下の非常に困難な事情のもとで働き,生活してきた東ドイツのエホバの証人は今やダビデ王とともに,『我わが神によりて垣をおどりこゆ』と言うことができます。―詩 18:29。
功を奏した宣べ伝える特別の運動
その間,西ドイツでの一般の人々は王国の音信に再三再四大いに注目させられていました。1949年の「ものみの塔」運動は,何万人もの人々の家庭に霊的な食物を定期的に届ける基盤を据えるものとなりました。「ものみの塔」研究の出席者も,関心のある人々もすべて,「ものみの塔」誌を予約購読するよう勧められることになりました。私たちは目標を達成したでしょうか。1949奉仕年度には5万9,475件もの予約が得られ,以来その記録はいまだに一度も破られたことがありません!
神の王国の重大な音信を一般の人々の眼前に掲げるもう一つの方法は,雑誌を用いる街頭のわざでした。その活動もまた,牧師たちにとっては苦痛の種でした。カトリックの優勢なババリア州では,法律や交通法規を作って街頭での雑誌のわざを阻止しようとする試みがなされました。ある幾つかの宗教団体が妨害されたと感じていると唱えられたのです。しかし,1954年にババリアとヘッセン両州が警察当局者全員に対し,エホバの証人の行なっている奉仕は法的に制限すべきものではないとの声明書を出すに至って,それら宗教諸団体は沈黙させられてしまいました。
1956年の7,8月の夏の期間,未割当て区域全部に王国の音信を伝える特別の運動が計画されました。兄弟たちは前例を見ないほどの熱意をこめて働き,未割当て区域全体の少なくとも80%を網羅しました。同年,西ドイツで良いたよりの奉仕者の訪問を受けなかった人はまずいませんでした。とは言え,しばしば,それもとりわけ田舎の地方では反対に遭いました。そのことは次のような報告からもよくわかります。「村全体が騒然となりました。若者たちは私たちの跡について来て家々を回り,人々に私たちを即座に追い帰えすように仕向ける魂胆で私たちを紹介しました。その村全体ではただ1冊の書籍さえ配布できませんでした」。
1週間後,その同じ会衆の伝道者たちは,同じ区域の別の村で働きました。伝道者たちは鉄道の駅に集合して日々の聖句を一緒に討議し,次いで証言の際に用いる紹介の言葉について話し合いました。すると,ある男の人が一行に加わって話を聞き始めました。そこで,その男の人に対して,エホバの証人が戸口で行なうような仕方で証言がなされました。兄弟が話し終えたところ,その見知らぬ人は財布を取り出して,「それらの本を求めたいと思います」と言いました。たまたまそうだったのですが,その男の人は,1週前に兄弟たちが書籍をただの1冊も配布しなかった村に住んでいる人でした。牧師が依然としてある程度の影響を村人に及ぼしている田舎の地方では反対を受けたにもかかわらず,それら2か月間に前年の同期の場合よりも書籍は166%,雑誌は60%も多く配布されました。
こうした運動のほかにも,冊子や小冊子を配布する特別の運動がありました。ニューヨークで行なわれた1958年の「神の御心」国際大会では印象的な決議が採択されました。そして,同年の12月にその決議文を全世界で配布する計画が立てられ,50か国語で7,000万部の決議文が印刷され,ドイツでは700万部印刷されました。それらの冊子は,ごく短い紹介の言葉を述べて直接家の人に手渡されました。カトリックの優勢な地方では,配布されている冊子の内容を知った司祭たちが村人に警告を発したりしました。しかし,4週間にわたって熱心な活動を行なった後,兄弟たちは歓喜すべき理由を見いだしました。なぜなら,それは新しい人々が野外の奉仕の務めに初めて携わる良い機会だったので,たいていの会衆は伝道者の10ないし50%の増加を報告でき,西ドイツ全体では11.6%の伝道者の増加がもたらされたからです。
「教えられた者たちの舌」を与えられる
喜んで物事を行なう大勢の働き人がエホバの組織に続々入って来るにつれ,エホバはご自分の『忠実な奴隷』級を通して,老若を問わずそれらの人々すべてに必要な訓練を与える備えを設けられました。その結果として,エホバのしもべたちは,「教えられた者たちの舌」を持てるようになりました。(イザヤ 50:4,新)これは増加に寄与するものとなりました。世の人々もまた,そうした訓練が証人たちにもたらした効果に注目してきました。たとえば,ある新聞は,レクリングハウゼンで行なわれた朗読コンテストで11歳のインゴ・リュッカーが優勝したことを報じ,次のように述べました。「驚いたのは局外者だけであろう。というのは,基本的に言って彼の勝利を阻むものは何もなかったからである。11歳のインゴ・リュッカーは,エホバの証人の宣教学校で,3年間にわたってコンテストに備えて有利な得点を得ていたのである。……彼は,これまた宣教学校に出席している一少女との間で決勝戦に至るまでずっと接戦を演じたとはいえ,ヨゼフ・スクールの最優秀朗読者であった」。レーラハの会衆を訪問した,ある巡回監督はこう書いています。「火曜日の晩のこと,ある特別のことが起こりました。姉妹たちが割当ての語をしましたが,その時,思いがけないことにある高齢の姉妹が演壇に行きました。その姉妹はノートも何も持たず,ただ聖書だけを手にして流ちょうな話し合いを行なっただけでなく,話し方の原則をもすべてよく守って話しました。その姉妹に会ってお年を尋ねたところ,姉妹はほんの2,3週間前に90歳を過ぎたばかりですと答えました」。
こうした漸進的な訓練を施す重要な備えの一環として1960年11月13日には,会衆の監督たちに進んだ訓練を施すため,王国宣教学校の最初のクラスが開かれました。今ではその学校は拡張されて,ウィースバーデン,ハンブルクそしてミュンヘンの三箇所で開かれています。
証しを行なうことに著しく寄与した大会
ドイツでエホバのみ名を知らせ,王国の伝道者を増し加えさせる点で大会は重要な役割を演じてきました。出席者9,000人を迎えてニュルンベルクで開かれた戦後最初の大会や1948年のカッセル大会以来,10万人余の出席者の集う現代の大会が行なわれるようになるまでには数多くの組織上の改変が加えられ,諸問題が解決され,また新しいアイディアが開発されました。
1951年8月24日から26日までフランクフルト・アム・マインで開催された「清い崇拝」大会には24か国から出席者が参集しました。しかし,3万4,542名の出席者が金曜日の朝その大会に出席できるようになるまでには,種々の問題を解決するため,はらはらさせられながら相当の時間を費やす一幕がありました。それはどんな性質の問題でしたか。同市のある大規模な炊事施設で大会の食事の煮炊きが行なわれる約束だったのですが,大会の期日がいよいよ近づくにつれ,その施設の管理者側はそうするのをだんだん渋るようになりました。どうすればよいのでしょうか。そこで協会はガスや石炭それから蒸気用のそれぞれ容量300リットルの大型湯わかし51基を購入し,独自の炊事場を建てました。ところが,それら湯わかし全部をガス用に切り替えるのに必要な資材が入手できなかったため,全部蒸気用に切り替えなければなりませんでした。非常な苦労をして廃品業者から買い入れたパイプ類をつなぎ合わせて溶接するには何日も要りました。湯わかし器の中には金属壁が紙のように薄いものもあったので当てがねをつけなければなりませんでした。次の大問題は,必要な蒸気をどこから入手するかということでした。私たちはフランクフルトの鉄道会社と交渉して,用いられなくなった側線に置かれていた機関車を使用させてもらえるようにしました。しかし,その機関車は低圧の蒸気を出すことはできなかったので,その蒸気の圧力を24分の1に減圧させる方法を見つけなければなりませんでした。こうして遂に問題は解決され,蒸気が入れられると,それら蒸気湯わかし器は15分以内で煮炊きを行なえるようになりました。新聞記者は私たちが行なった事に驚嘆しました。この事に関する新聞報道とあいまって,兄弟たちが熱心に宣べ伝えるわざを行なったこととが貢献して,「宗教は世界の危機に対処できますか」と題するノア兄弟の行なった公開講演に4万7,432人もの聴衆が出席するという成果が得られました。
1953年の大きなできごとは確かに,「新しい世の社会」大会です。ニュルンベルクでは大量宿泊施設のための38の大テントが設置されました。また,一般市民の私室を借りる試みも行なわれましたが,それは同市の牧師たちにとって問題を引き起こすものとなりました。ニュルンベルガー・エバレゲリッシェン・ゲマインデブラット紙は,「エホバの証人の大会に警戒せよ」と題する記事を掲げて,一部次のように報じました。「福音主義教会の一部教会員が,訪問するエホバの証人に対して誠実な気持ちからではあるが無料の宿舎を提供しているため,特別の問題が生じている。宿舎を提供した人々はたいていの場合,そうした招待を取り消すよう教会当局から要求された」。しかしこれはやぶへびに終わりました。というのは,そのためにかえって多くの人々がなおいっそう喜んで私たちに宿舎を提供するようになったからです。
2年後,大規模な「勝利の王国」国際大会が同じニュルンベルク市のゼッペリン牧草地の同じ場所で開かれました。それは非常に印象的な大会でした。その大会には62か国からの出席者が集いました。また,並はずれた堂々たるステージが広大なゼッペリン牧草地を見おろしていました。そのステージの設けられた壇全体は全長300メートルに及ぶ壮大な石造建造物で,上部はその全長300メートルにわたって144本の石柱の林立する通廊となっており,その通廊に達する傾斜面は,ステージのある中央部を除いて全体が75段の階段状に造られていました。
ホテルや個人の家庭から宿舎を求めたほかに,3万7,000人分の膨大な宿舎を供するためのテントを張りめぐらした巨大な都市が設けられ,それぞれ600人の人々が眠れる大型テントが張られ,わらをいっぱい入れた袋が枕として用いられました。
金曜日の午前中に大規模な仕方でバプテスマが行なわれ,4,333人の人々が水の浸礼によって献身を象徴しました。それら新しい兄弟たちの中には東ドイツから来た人たちが何人かいました。というのは4,000人ほどの人々が東ドイツからその大会に来ていたからです。金曜日の晩,大会出席者たちは,共産主義政府の運営するラジオ放送の番組を通じて,ニュルンベルクあるいはベルリンの大会に出席した東ドイツからのエホバの証人はすべて帰国と同時に逮捕されることになろう,という脅迫放送を聞きました。しかし,何千人もの出席者はそのためにおびえたりはしませんでした。
広く宣伝されたノア兄弟の講演にどれほど大勢の人々が出席したでしょうか。8月20日付のノイエ・イルストリールテ誌はこう伝えました。「かつてヒトラーが『エホバの証人』を一掃してみせると断言した,その“ゼッペリン草原”は埋めつくされた」。それもそのはずで,10万7,423人もの聴衆が「間近に迫った,神の王国による世の征服」と題する講演を注意深く聞いたのです。ニュルンベルクからは2万人余の市民が来ていました。そして,会長が閉会の言葉を述べ始めたとたんに雨が降り出し,それもどしゃぶりになりました。しかし聴衆は席を立とうとはしませんでした。そして,ノア兄弟が話し終えた時には雨はやんでいました。次いで,出席していた人たちにとって決して忘れられない事が起こりました。壮大な虹が天空に現われたのです。それはそれは感動的な光景でした! ノア兄弟は別れのあいさつにハンカチを振りました。すると,それに答えて,会場の敷地全体はまるで一面に白い花が波のように揺れ動く草原のような光景に一変しました。多くの人々は目に涙を浮かべていました。そして,信仰の面で強められ,将来の奉仕のためにより良い備えを受けた何千人もの出席者は家路につきました。
次の大規模な国際大会は1961年にドイツ最大の港湾都市ハンブルクで開催されました。少なからぬ数の厄介な問題が解決されました。大きな問題は大会のための場所でした。それはハンブルク市最大の公園内に位置しているただの広大な芝地(広さ8万平方メートル)でした。大会が始まると同時に雨が降り出し,ほどなくして草地は泥の原と化しました。しかも,雨は大会の初日から最後の日に至るまで降り続けたのです! 何万人もの人々が毎日大会場に続々と詰めかけて,かさをさして話に耳を傾けるさまを見るのは感動的なことでした。新聞記者やカメラマンにとっては驚くべきことでしたが,確かにその大会は雨や泥のために重大な影響を受けたりはしませんでした。ハンブルガー・モルゲンポスト紙はこう伝えました。「それら出席者はほとんど皆,泥と雨の中にいてさえ喜びを表わしているのである。人は彼らのこうした良さを認めねばならない。彼らは多彩な服装をしており,その中には驚くほど多くの若い人々がまじっている。……」。ある警察当局者は大会の事務所から派遣された一代表に次のように語りました。「これはハンブルク市でこれまでに開かれた最大の大会ですが,万事順調に行くかどうかについて私たちは少しも心配していません。私たちがいなくても皆さんは容易に仲よくやってゆけるということを私たちは知っています。しかし,私どもの部下にとって良い訓練になると思いますので,皆さんのところに部下を送りますが,このことに賛同していただけるでしょうか」。
東ドイツからの数千人の兄弟たちがこの大会に出席しましたが,彼らにとってこれが大会に出席する最後の機会となりました。その数日後,「ベルリンの壁」が構築され,また鉄のカーテンはいっそう堅く閉ざされたからです。
雨のため,公園の芝生は台なしになりましたが,大会が終わった後,兄弟たちの手でその空地全体に表土が敷かれ,芝生が植え直されました。今や同公園は以前よりもずっと美しくなりましたが,それはハンブルク市の当局者および一般市民のために行なわれたのです。その公園の草原が植え替えられた様子や雨の中で私たちの兄弟たちが辛抱した様子は,ハンブルク市民に深い感銘を与えました。
1963年,世界を一周する「永遠の福音大会」が行なわれたとき,旅行する出席者の一行は,ババリア州の首都ミュンヘンに着きました。このたびはテレジアン草地が私たちの“王国会館”代わりに用いられました。
大会それ自体はもとより大会の準備の仕事は,ミュンヘン市の当局者や実業家を含め,同市の人々に深い感銘を与えました。大会会場で勤務するよう配置された一警官はある兄弟にこう言いました。「私はここにいるのが好きですよ。楽な気持ちでおれますね。私は皆さんの誠実さや率直さが好きです。それは2年前にここで開かれた聖体大会とは正反対です」。率直に意見を述べる正直な観察者はしばしばこの種の比較を行ないました。こうした印象は持続するものです。3年後のことですが,ミュンヘンの一実業家がある兄弟に語ったところによると,ミュンヘンのある大きなデパートのその仲間の従業員は,同市で大規模な大会が開かれると決まって万引きが増えるということに気がついたそうです。それで彼らは私たちの大会の際にもそうした事態を覚悟していたところ,この大会は何らそのような影響を及ぼさなかったので,それらの従業員はたいへん驚きました。彼らにはどうしてもその理由がわかりませんでした。ですから,それ以前の他の大会すべてと同様,この「永遠の福音」大会はエホバのみ名,その目的,またその民のことを知らせるのに貢献するものとなりました。
良いたよりはあらゆる国々の人々に宣べ伝えられなければならない
ドイツは良いたよりが宣べ伝えられなければならない世界的な畑のほんの一部分にすぎません。(マルコ 13:10)ものみの塔ギレアデ聖書学校は,宣教者を訓練し,この世界的な畑のさまざまな部分に派遣する点で非常な成果を収めてきました。ドイツに派遣されたギレアデ第一期生,フィリプ・ホフマンは1949年に到着しました。
その後,1951年にはさらに4人の卒業生がやって来ました。彼らはいま当時を回顧して,自分たちがベテルに姿を見せたとき,フロスト兄弟がどう感じたかを思い起こしてはよく笑っています。同兄弟は仕事を手伝ってもらうためギレアデの卒業生を何人かドイツに送って欲しいとノア兄弟に依頼していました。しかしフロスト兄弟がそれら4人の卒業生を見たとき,彼らは4人とも20代に入ったばかりだったので,同兄弟にとってはまるで少年のように思えたに違いありません。その後何年かの間に結局,合計13人の外国からの宣教者がドイツで働く割当てを受けましたが,そのうち11人が依然幾つかの国で奉仕の務めに全時間従事しており(もう一人の姉妹は20年間忠実に奉仕した後,1972年に任命地で亡くなりました),それら11人のうちの9人は今もなおドイツでベテルの仕事や旅行する奉仕者としての仕事に忙しく従事しています。そのうちの3人は1956年に翻訳部門がベルンからウィースバーデンに移された時,スイスから移って来て今でも翻訳者として奉仕しています。
アリス・ベルナーは長年奉仕してきたしもべたちのそのグループの一人です。では,彼女がどんなに興味深い生涯を送ってきたかについて姉妹に簡単に話してもらいましょう。「私は1924年1月にスイスで開拓者になり,全時間奉仕を始めました。しかし,約6か月後,チューリヒのベテルに呼ばれました。その後まもなく私たちはベルンの新しいベテル・ホームに移りました。そこで私は何年かの間にさまざまの部門の仕事に従事しました。1932年,私は新しい割当てを受けてパリに赴きましたが,フランス当局から永住査証がもらえなかったので,一時フランスを去ってベルギーで開拓奉仕をしなければならなくなったため,フランスでの奉仕はある期間妨げられました。こうして約3年ほどパリに留まりました。1935年,協会はブラッセルで催された国際博覧会に参加したので,私はその博覧会場の文書のスタンドで奉仕する特権を得ました。そこからベルンに呼び戻された私は,その後10年間再びベルンで働き,1946年,第8期生としてギレアデ学校に入学するようにとのすばらしい招待を受けました。その後再びスイスに戻って楽しい奉仕を10年間続け,それから私たち3人は新しい割当てを受けてドイツに移りました。私はエホバへの奉仕を行なって数々のすばらしい機会に恵まれ,幸福で豊かな人生を送れるようにしてくださったエホバのご親切すべてに対してエホバに感謝したいと存じます」。ベルナー姉妹は毎日翻訳の仕事を続けながら,ベテルの家族の成員に今なお励みを与える人として仕えています。
ドイツの多くの兄弟たちは,この国に送られた宣教者たちに刺激され,自分たちもギレアデ学校に入って宣教者としてのわざに携わりたいとの願いを抱くようになりました。今日までにドイツ出身のギレアデ卒業生は183人になりました。そのうち29人は帰国して特別開拓者,旅行する奉仕者あるいはベテルの家族の成員として奉仕しており,他の人々は全地に散在する各地の新しいホームに送られて働いています。
ギレアデ学校に入学したいと考えている人たちのためには,英語に関する知識の向上を図る一助としての特別の取決めが設けられました。1973年の春までにはドイツでは英語を話す会衆が16組織され,伝道者は450人,全時間奉仕者として働くしもべたちは130人に達しました。それでギレアデに入学する準備をしている人たちは,それらの会衆に割り当てられて集会に参加し,英語を話す人々のいる区域に行って野外の奉仕の務めに携われるよう取り計らわれています。1967年に英語を話す会衆が初めてウィースバーデンに組織されて以来,250人ほどの人々がバプテスマを受けました。
過去数年間にドイツからはおよそ95人ほどの特別開拓者がヨーロッパやアフリカの国々に送られ,そこで特別開拓者としての仕事を続けています。中には,必要とする外国語の知識を持ち合わせていないのに,外国の野外で奉仕することに喜んで応じた人々もいます。それにしても,それらの人たちは援助を必要としている国々で奉仕できるよう,喜んで特別の努力を払って新しい言語を学びました。たとえば,4人の特別開拓者はアフリカのチャドに派遣される前に,ウィースバーデンのベテルで1週間のフランス語の特訓を受けました。当然のことながら,その任命地でもフランス語を引き続き勉強しなければなりませんでしたが,やがてフランス語で用が足せるようになり,アフリカのまばゆいばかりの太陽のもとで奉仕の務めに引き続き携わってゆけるようになりました。
また近年,他の土地から大勢の人々がドイツに移って来ました。経済面でにわかに景気がよくなってきたため政府は外国人労働者を導入することに決めたので,提供された相当の額の給料に引かれて大勢の“移住労働者”がやって来ました。1962年にはイタリア,ユーゴスラビア,ギリシャ,トルコ,スペインそしてポルトガルから既に70万人もの労働者がドイツにやって来て就職しましたが,そのほとんどの国では宣べ伝えるわざは非常な困難のもとで行なわれていました。私たちにとってそれは新たな活動分野を供するとともに,その分野は拡大し続けました。1972年9月の統計によれば235万2,392人の外国人労働者がドイツで就職しており,たとえばそのうちの47万4,934人はユーゴスラビアから,また51万1,104人はトルコから来た人々です。
多くの兄弟たちはそれらの人々が王国の音信を聞いて理解するのを助けられるようになるため,喜んで外国語を学びました。それら移住労働者の間の真理に対する渇望は実に大きなものだったので,多くの興味深い経験が得られました。ある巡回監督はスペイン語の文書を少し入手し,比較的短時間のうちに100冊余の小冊子と書籍を6冊配布したことを報告しました。彼はこう述べています。「私が小冊子を提供したスペイン人の大多数は,私が携えていた15種類の小冊子すべてを求めました」。
やがて外国語を用いる会衆が組織され,その最初のものとして1962年5月1日にギリシャ語を話す会衆がミュンヘンで設立されました。1973年5月までには,ギリシャ語を話す1,560人の伝道者は二つの巡回区に分けられました。1964年にスペイン語を話す最初の会衆がフランクフルトに,またイタリア語を用いる最初の会衆がケルンにそれぞれ組織されました。1973年の夏までにはスペイン語を用いる巡回区には660人の伝道者が交わり,またイタリア語を用いる巡回区は1,000人の伝道者に加えて全時間奉仕を行なう45人のしもべを報告しました。また,ドイツにはトルコ語およびユーゴスラビア語を話す人々の群れもあります。それら大勢の人々にとって,それまでドイツで追い求めていた“経済上の楽園”は,それよりもずっと価値のある“霊的な楽園”に変わってしまいました。
それら私たちの新しい兄弟たちの多くは真理を学んだ後,自分たちの親族や近隣の人々に真理を伝えたいとの願いに満たされて故国に戻りました。たとえば,シチリア島出身のある兄弟は1965年10月にケルンでバプテスマを受けましたが,同年12月には自分の家族のもとに行き,当然のことですが家族や親類や知人すべてに真理について話しました。翌1966年4月末に彼は旅券に判を押してもらうためドイツに戻らなければならなくなりました。しかし彼は,真理に非常に深い関心のある人々を4人見いだしたので,それらの人たちとの研究を続けるため直ちに家に帰らなければならないと報告してきました。彼の目標はその郷里で会衆の書籍研究を始めることでした。その村では宣べ伝えるわざがそれまでに一度も行なわれたことがありませんでした。そこから最寄りの一エホバの証人の住んでいる所まではおよそ100キロも隔たっていたのです。
ベテルの家族の目から見た ― 拡大
エホバの証人により宣べ伝えるわざがドイツじゅうで行なわれてきた結果,ウィースバーデンにあるものみの塔協会の支部事務所も絶えず忙しく仕事を進めてきました。兄弟たちの用いる文書類はここから供給されているので,兄弟たちはこの支部事務所に深い関心を抱いており,大勢の人々がベテル・ホームと印刷工場を見学するためにやって来ます。受付けで働いている兄弟に尋ねるなら,特に休日になると,何千人もの訪問者がベテル・ホームや印刷工場内をどのようにして案内され,見学するよう世話されているかについて説明してくれるでしょう。ある時は4,000人余の人々が訪れ,建物の前に51台ものバスが立ち並びました! 外国からの兄弟たちもまた立ち寄っては私たちの所を訪ねて楽しい一時を過ごしてゆきます。何年か前のことですが,ある紳士がベテルを見学し,そのあとで聖書研究を始めるよう励まされました。そして,その紳士とベテルのある兄弟との間で文通が続けられ,後日その人は真理を受け入れ,バプテスマを受けて全時間奉仕を始め,そして今日では巡回監督として奉仕しています。
実際にベテルで生活し,働いている人たちは何年もの間に数多くの祝福を享受してきました。それらの人々は協会の施設の拡大,取り組まれる新たな仕事,特別の準備活動などを見てきましたが,そうした活動すべての中心地にいることは彼らの特権です。時にはやはり他の人々にも助力が要請されてきました。
たとえば,1951年から同52年にかけての冬の時期には支部の施設の拡張を図るため,新たな増築工事が開始されました。そのために兄弟たちは風雨や雪の中でも1日じゅう,時には夜遅くまで忙しく働き続けました。その仕事を助けるために約20人ほどの兄弟たちがベテルに呼ばれました。また,ベテルの家族の成員の多くも通常の仕事を終えた後,晩には建築工事に携わりました。
ベルンにあるスイスの支部事務所から一台の輪転機が到着した時は本当に大喜びしました。ただし,それは単なるありきたりの輪転機ではありません! それは1928年の昔,マクデブルクの支部事務所で書籍を印刷するのに最初に用いられた印刷機だったのです。ナチ政権が禁令を下した後,その印刷機はチェコスロバキアのプラハに運ばれ,次いで数年後そこからベルンに運ばれ,こうしてナチの手に落ちるのを免れました。今やその印刷機はもう一度ドイツの支部事務所に戻り,相当の年月を経たにもかかわらず今日でもなお忙しく書籍を印刷していますが,雑誌なら1時間に7,000部まで印刷できます。
喜びをもたらすもう一つの理由となったのは,1953年1月8日付で32ページの「目ざめよ!」誌がドイツ語で刊行されたことです。その号を皮切りにドイツでも「目ざめよ!」誌が配布され始めました。同誌は雑誌配布のわざに対する兄弟たちの熱意を増し加えさせるのに大きく寄与しました。
ウィースバーデンのベテル・ホームは拡張し続けました。1956年の伝道者最高数は5万530人で,文書はおよそ130万部配布されました。次の奉仕年度の伝道者の最高数は5万6,883人でした。ノア兄弟は1956年11月の末にウィースバーデンに着き,24時間足らずのあわただしい訪問を行ないました。理由ですか? 1957年5月1日号の「ものみの塔」誌英文に発表された報告の中でノア兄弟自らその理由をこう説明しています。「ここでもやはり訪問の目的は拡張問題と取り組むことでした。現行のベテル・ホームと印刷工場は小さ過ぎるので,建築技師である一兄弟を呼びました。私たちはその兄弟と一緒に,もっと大きな工場とベテル・ホームを設計する仕事に一日じゅう取り組みました。協会はウィースバーデン市から幾らかの地所を購入することができ,また相当の話し合いを行なった後,市当局は私たちがある道路の位置を変えることに同意したので,道路を新しい建物の向こう側に移し,現在の建物の真向かいに今度の新しい建物を建てることができるようになりました。……その建物は天井が高いので天井までの垂直空間が十分あるゆえ,目下建造中の数台の新しい印刷機を設置するに足る十分大きな建物となります」。
飲み物を出して執り行なわれる因習的な“棟上げ祝い”(建物の骨組を完成した後になされる祝い)の代わりに,工事現場の労働者や工事関係者のためにおいしい食事が用意され,ベテル・ホームの食堂で出されました。それらの人々は白いテーブルクロスを掛けた食卓につき,ベテルの兄弟たちの給仕を受けました。また彼らは,その建物の目的やエホバの証人の活動の大要に関する話,そしてその建築計画の財政面の問題はどのように取り扱われているかに関する説明を聞きました。ベテル家族の成員は音楽の余興番組をも披露しました。それで,それら招待客のほとんどはエホバの証人とその活動について全く異なった見方を持ちました。出されたたいへんおいしい食べ物やすべての人が平等にもてなされた仕方は,ウィースバーデンの建築工事労働者の間ではその後何年間も語り草となりました。その祝いの終わりには出席者各人に書籍と小冊子が1冊ずつ贈られました。偏見を持っていたためにその夕食に出席しなかった労働者のある人たちは翌日やって来て,贈物の書籍だけでももらえまいかと尋ねました。その食事に出なかったのは彼ら自身が悪かったのですが,贈物の出版物の助けにより霊的食物を取り入れるかどうかは今や彼ら自身が決めるべきことでした。
1959年1月にはいろいろの部門が新しい建物に移り始めました。
その間に,工場の監督,グンター・クンツが述べるとおり,「私たちは書籍や雑誌その他の印刷物を生産する,より優れた施設を引き続き受け取りました。1958年には,以前スイス,ベルンで使用していた製本用の機械を受け取り,1日に5,000冊まで製本できるようになりました。年月が経つうちに,ノア兄弟は,既に約40年間も使用してきたそれらの機械の大半を新しい機械に取り替える許可を与えました」。こうして,1973年までには書籍の生産を大いに増やせるようになりました。
生産管理事務室の兄弟たちが一度行なった計算によれば,1966年末の何か月間かに印刷された「バビロン」の本6万1,622冊,「神が偽ることのできない事柄」の本50万796冊,そして9万8,885冊の年鑑をおのおの積み上げたとすると,高空はるか15キロの高さに達するだろうとのことでした。それは実に感動的な業績でした。必要な文書類を諸会衆に供給するため,生産活動はしばしばフルスピードで行なわれました。1968年の春には「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」と題する本の生産を完了するのを助けるため,22名の特別の働き人が一時的にベテルに呼ばれました。製本部門は二交替で仕事を進め,毎日1万冊の書籍を生産しました。それらの書籍は直ちに諸会衆に発送され,5月の運動期間中その新しい本を野外で用いて,この問題に関する真理を人々に知らせることができるようにされました。そうした苦労は報われました。私たちは13万6,525冊の書籍を配布し,1963年以来の最高数を記録したからです。
1968年にノア兄弟はウィースバーデンに二度訪れました。その最初の訪問は6月に行なわれ,ノア兄弟は1台の新しい輪転機と製本用の新しい機械3台が私たちの工場のために購入されたということを発表して家族の成員を喜ばせました。その後まもなくそれらの機械のうちの2台が据え付けられ,運転されるようになりました。11月の訪問にさいしてはノア兄弟は,印刷工場でそれまで私たちが行なっていた仕事の量を増やす大がかりな取決めを設けました。兄弟たちは二交替で働き始め,約15人から20人の兄弟たちは夜勤をすることになりました。ノア兄弟は霊性を維持することの重要性に私たちの注意を喚起したので,夜勤を行なう兄弟たちの益のため特別の会衆が組織されました。さもなければ,それらの兄弟たちは集会に出席することができなかったでしょう。それら兄弟たちの集会は日中に行なわれました。こうして,書籍の生産はスピードを増したので,私たちはオランダ,デンマーク,ノルウェーそしてスウェーデンの兄弟たちのための書籍の生産を引き受けることができました。また,ほかにも新しい機械が購入されたので,二交替で毎日およそ2万冊の書籍を生産できました。1969年もまた,生産がフルスピードで行なわれ,いまだかつて達成されたことのない数々の最高記録を達成する,これまた忙しい,しかし産出的な一年になるのは必至でした。
「終わりはまだ先のことですか」,これは1969年4月8日号のドイツ語の特別号の「目ざめよ!」誌の表題でした。諸会衆からは注文がひっきりなしに殺到したので,ますます多くの雑誌を印刷しなければなりませんでした。事実,私たちの印刷工場では1,024万1,250冊の雑誌が印刷されました。二交替勤務のどちらの側の兄弟たちも残業をさえ喜んで行ないました。というのは,雑誌のほかにも膨大な量の書籍をも印刷しなければならなかったからです。(1969奉仕年度の終わりまでには,1966年度の場合の6倍に当たる334万3,304冊の書籍が生産されました。)私たちの印刷機械類は実際四六時中働き続けました。数か月の間,私たちは二交替で働き,二交替で食事を取り,また二交替で眠りました。それは非常に忙しい時でしたが,同時に満足のゆく幸福な時でした。
開拓者の係りで働いていた兄弟は,4月に1,959人の正規開拓者のほかに1万1,454人が一時開拓者として活発に奉仕したのを知ったとき,非常な喜びを味わいました。
1969奉仕年度中には,約4,000万冊の文書 ― 雑誌,書籍そして小冊子 ― が生産されました。雑誌や書籍その他さまざまの文書類をおよそ2,000トン発送するには,もち論相当の費用が要ります。それで,そうした費用を切り詰めるため,1959年12月3日から私たちは自分たちのトラックで文書類を配達し始めました。一番最初からこの部門で働いてきたアルベルト・カムはこう述べています。「警官,給油所の要員,税関当局者,私たちがちょっと車を止めて道を尋ねるさいの見知らぬ人など,どこの人々も私たちがトラックに何を積んでいるのかを知りたがります。トラックには『ものみの塔』と『目ざめよ!』誌がぎっしり詰め込まれていると告げると,いつも人々は仰天します。話のついでに,私たちはこのような大型トラックを5台,そしてもう少し小型のを2台持っており,それらのトラック全部に雑誌をいっぱい積んで運んでいるということを話そうものなら,人々は驚き入った表情を示します。そういう時には,しばしば良い証言を行なえます。2週間後に戻ってみると,多くの人々は,『ものみの塔』誌がどうしてまたもや運ばれて来るのか依然納得しかねています」。
ウィースバーデンは中心部に位置しているので,私たちのトラックはドイツ国内の11のルートを走ります。長距離の旅行では,約1,200ないし1,500キロほどの距離を走ります。そして,トラックはそれぞれ1年に約7万ないし8万キロ走破します。ウィースバーデンで印刷される書籍はまた,ルクセンブルク,オランダ,ベルギー,スイスそしてオーストリアにも配達されています。
1969年には印刷工場での仕事がフルスピードで行なわれると同時に,ベテルの建物の改築工事が行なわれ,古い建物の屋根裏の部分が改築されて新しい部屋が13作られました。ベテルの兄弟たちが一時的に自分たちの時間や体力そして能力を用いてその改築の仕事を行ないました。それらの部屋で使うベッドや用だんすその他の家具類はベテルの木工部門で製作されました。
そうした改築工事が行なわれたにもかかわらず,ベテル・ホームはなお小さ過ぎました。1970年5月にノア兄弟とブルックリンの印刷工場の監督ラーソン兄弟が約1週間にわたって私たちの所を訪問しました。ベテル・ホームと印刷工場とを視察調査したノア兄弟は,その施設を拡張することがわざの発展にとって最善の策であるとの決定を下しました。これは1969年の秋に新しい支部の監督として奉仕し始めたリチャード・ケルゼイにとって相当の仕事を意味しました。主要な建築工事の請け負い契約はある建設会社との間で結ばれましたが,内装工事は兄弟たちの手で行なわれることになりました。新しい部屋に設置する家具類の製作は,木工部門のフェルジナント・ライターがその一切を引き受けました。それはライターにとって何も目新しい仕事ではありませんでした。というのは,1947年の昔,彼は既に,現在の古い建物がほんの外郭しかなかった時に窓や戸を取り付ける仕事を助けて完成させた経験があったからです。その間に多少年を取りましたが,80歳になったにもかかわらず(ベテルの家族の中で二番目に高齢ですが),彼はなおいたって達者で,毎日働き,良い模範を示しています。若い兄弟たちは,「フェルジナント兄弟についてゆくのは容易ではありません」とさえ言っています。
こうした拡張はほんとうに必要でした。1971年4月には伝道者は8万9,706人の新最高数に達し,また同年の記念式には14万5,419人もの人々が出席しました。6月には1954年以来の奉仕時間の平均の最善の記録を得ました。そして,1971奉仕年度の終わりまでには聖書や書籍,小冊子や雑誌を合計1,900万冊配布しました。これは西ドイツと西ベルリンの各家庭に聖書研究の手引きを平均1冊配布したことを意味します。
1972年2月11日は記念すべき日となりました。なぜですか。その日の午前10時に「新世界訳聖書」の最初のドイツ語版がブルックリンから届きました。私たちの喜びは何と大きなものだったのでしょう。さっそく5月と6月に聖書運動を行なう手はずが整えられました。諸会衆は新世界訳に関する発表をおのおのの区域内の新聞社に提供しました。こうして掲載された新聞記事は,あらゆる人々の注意を「新世界訳」に向けさせるのに寄与しました。そして,「『新しい聖書翻訳』を求めて殺到する人々」「9万6,000人の奉仕者,『聖書運動』を展開す」「エホバの証人はあらゆる家庭に聖書を1冊持って来る」と言うような見出しの記事が出ました。種々の宗教新聞や宗教雑誌さえ反応を示し,教会員の注意をこの聖書に向けさせるよう独自の仕方で助力しました。たとえば,ウュルテンベルクのエバンゲリッシェ・ゲマインデブラト紙はこう述べました。「異例なことに,そのドイツ語版は100万部印刷されている。ここドイツにおけるルーテル聖書の需要は年間およそ50万部である。確かにエホバの証人は今後何年かにわたる聖書に対する自分たちの需要を満たすことを計画しているのではない。証人たちの勤勉な働きぶりからすれば,この新しい出版物を一度の大規模な運動のために用いるものと予測されている。……その聖書の値段はわずか5独マルクに過ぎないうえ……それを買い求める人は聖書研究を行なうよう勧められ,またその聖書を提供する側は,それを買う人の家庭でなされるそうした研究の司会を申し出るのである」。カソリッシェ・ゾンタクスブラト紙も同様の記事を掲げました。「新世界訳」の発表ならびに配布はほんとうに1972奉仕年度のハイライトとなりました。
1973奉仕年度が始まる時までには,西ドイツおよび西ベルリンで良いたよりをふれ告げる人々の数は9万5,975人に達し,それらの人々の必要に答えるための文書の生産量は最高数を記録しました。同奉仕年度中に17冊の異なった新しい書籍がウィースバーデンの印刷工場で印刷,製本されました。そのあるものはドイツで用いるため,また他のものはスカンジナビア諸国やオランダで用いるための文書でした。わずか1年間で書籍の生産が合計350万冊余に達した時のベテルの家族の感激のほどを想像していただけることと思います!
しかも,それらの出版物を求めた人たちの生活には良い結果が現われてきました。たとえば,12歳になるある少年は,学んだ事柄から非常に深い感動を受け,母親と自分との聖書研究を司会していた証人に野外の奉仕の務めに連れて行って欲しいと願い求めました。もち論,その証人は,そのためにはまず最初に大いなるバビロンから出て教会員の名簿から自分の名前を除いてもらわなければならないことを説明しました。するとその翌日,事の緊急性を感じた少年は学校の休憩時間に市役所に行き,必要な申請書に要件を記入しました。同市役所の職員はその時問題を取り扱う余裕がなかったので,別の時間にもう一度来るよう少年に話しました。その日の午後,授業が終わった後,少年は市役所にまた行きました。すると,職員はまたもや少年の要件の処理を延ばそうとして,申請書には母親が署名しなければならないので,また別の時に来るようにと言いました。ところが少年は,電話で母親を呼んで,すぐ市役所に来るよう伝えて欲しいとしきりに職員に頼みました。職員はその母親を電話で呼び出しましたが,いつか都合の良い時に少年と一緒に市役所に来て問題の手続きをするようにとだけ提案しました。それを聞いた少年はそうした勧めに承服できなかったので,受話器を通して大声で言いました。「そうじゃないんです,お母さん,今すぐ来てください!」母親は年下の息子を連れてさっそくやって来ました。そして,申請書に全部記入し,署名した母親は言いました。「それじゃ,私たちはここにいるのですから,私たちも教会から脱退することにしましょう」。
協会の支部事務所の兄弟たちは同年中寄せられてくる報告を深い関心を抱いて見守りました。西ドイツにおける記念式には合計15万313人,また西ベルリンのそれには7,911人もの人々が出席しました。そして,バプテスマを受ける人々の人数は月々著しい増加を見せ,7月までにはその人数は前年の同期の3,812人に比べて5,209人になりました。1973奉仕年度の終わりまでにはその人数はさらに増え,エホバの側についた人々は合計6,472人に達しました。その時までには,西ドイツと西ベルリンでは合計9万8,551人もの人々が神の王国を人類に希望を与えるものとして公にふれ告げるわざにあずかっていました。
地に平和 ― しかしそれは神の王国によってのみもたらされるもの
1939年の昔,アドルフ・ヒトラーは,彼の率いるナチ党の結成記念日のための標語として「平和」という言葉を選びました。そして,その「ナチ党の平和の日」のための記念硬貨や特別の記念切手が発行されました。しかし,その祝典は大戦勃発のために取り止めになりました。その30年後に当たる1969年の8月,ニュルングベルクの「ゼッペリン草地」,すなわち30年前に「ナチ党の平和の日」が祝われることになっていたその同じ場所で,エホバの証人の「地に平和」国際大会が行なわれたのです。
その大会では合計13万人もの出席者のために何らかの形で宿舎が備えられました。それを可能にするために,1年も前に証人たちは6万平方メートル余のテントを借り入れ,大型テント48基を設置できるようにしました。また,1年半ほど前にニュルンベルク市に依頼して,同市の学校や室内競技場を全部宿舎として使用させてもらうよう手配しました。また,前の年の初秋には簡易食堂の下準備の仕事も進められました。
大会が始まった時,78か国から出席者が集いました。大会のプログラムはドイツ語だけでなく,ギリシャ語,クロチア語,オランダ語,スロベニア語そしてトルコ語で進められました。大会場では地球上のあらゆる場所からの人々が相会し,平和裏にともに住み,クリスチャンの兄弟愛のきずなによって結ばれた暖かい関係を享受しました。
かつてナチ党の指導者たちが立って「千年統治」を夢見た巨大な石造りの壇から,ノア兄弟は15万645人の聴衆を前にして「近づく一千年の平和」と題する公開講演を行ないました。しかし,同兄弟は,人間が行なえると唱える事柄を夢見るよう聴衆を励ましたのではありません。永続する平和を人類にもたらす唯一の方法,すなわち神のみ子,イエス・キリストの治める神の王国のことを指摘していたのです。そして,同兄弟は,平和のその時代の到来が間近に迫ったことを聖書から示したのです!
神の勝利に対して備えをする
エホバの証人は,神があらゆる敵に対する勝利を収める時が眼前に迫っているとの確信を抱いて,「神の勝利」という主題を強調する1973年の一連の国際大会を計画しました。それらの大会の二つがドイツでも開かれ,少なくとも75か国から出席者が参集しました。その大会の最後の日にジュッセルドルフのライン・スタジアムで行なわれた「神の勝利 ― 苦悩する人類にとってそれが意味するもの」と題する講演には6万7,950人が出席しました。ミュンヘンのオリンピア・パークで行なわれた5日間にわたる同様の大会のその同じ講演には7万8,792人が出席しましたから,出席者数は合計14万6,742人に達しました!
ヒトラーが“ビアホール一揆”を起こして政権を獲得しようとしたのは50年前のミュンヘンでのことでしたが,今やヒトラーとそのナチ政体は去りました。しかし,増加の一途をたどるエホバの証人は引き続き確信を抱いて神の王国の勝利をさし示しています。
また,1972年のオリンピックに多くの国々の選手が出場して競争を行なったのもやはりミュンヘンでのことでした。その行事は“平和の祭典”と呼ばれましたが,世の多くの人が当時を回顧してまざまざと思い起こすのは,世の国家主義的闘争を反映させた流血の惨事です。そのことを想起した一記者はミュンヘナー・アンツァイガー紙上でこう述べました。「『神の勝利』大会の始まる前日,同会場のスタジアムの観客のいない階段座席に立って,そこで喜んで働いている(全部で7,000人ほどの)援助者たちの姿に感銘を受けた私は,思わず1972年9月5日のできごとを回想せざるを得なかった。その時,暴力と殺人行為がこの会場に忍び込んだのである。今日,自己の確信する所に従って,善良な,そして気高いことを行なうよう同胞を奮起させているのは,これら忠実な信者たちである」。エホバの証人はそのオリンピア・パークに出席して競争し,自分や自分の国家が他の人々や他の国々よりも優れていることを示そうなどとはしませんでした。むしろ,彼らは「平和を与えてくださる神」『エホバのみ名によって歩んで』います。エホバに対する愛ゆえに彼らは多くの国々からこの大会にやって来たのです。また,彼らはその同じ愛に動かされて,一致団結して神のみ名をあがめ,あらゆる非難が一掃されて神のみ名が立証される日を待ち望んでいるのです。―ローマ 15:33。ミカ 4:5,新。
これらの大会では,私たちは各自,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』ことがいかに肝要かが強調されました。その「日」は神がよこしまな人たちに対する裁きを執行し,ご自分のしもべたちに報いをお与えになる日であり,それは神の勝利の「日」なのです。(ペテロ第二 3:11,12)また,証人たちは,「エホバの日」が到来した時,もし神の恵みを享受するのであれば,イエス・キリストに見倣って,自分が世に対する勝利者であることを個人個人実証しなければならないということをも思い起こさせられました。(ヨハネ 16:33)証人たちは世の人々の仕方に従って物事を行なって世の型にはまって形造られるのを許してはなりませんし,自分の無関心な態度あるいは世の人々の反応に対する恐れのために神の意志を行なうのを差し控えたりしてはなりません。
エホバの証人は,神の勝利が今や間近に迫っているゆえに今は宣べ伝えるわざで手をゆるめるべき時ではないという気持ちをこの大会で強められましたが,証人たちはそうした気持ちを捨てませんでした。それとは逆に,残されている時間を十分に活用するよう激励され,またそれを用いて仕事をする手だてとなるものを供給されました。「人類にとって時は尽きようとしていますか」と題する冊子を国際的な規模で大々的に配布する計画の大要が示されました。また,「神の千年王国は近づいた」という感動的な表題を付した新しい本が備えられました。証人たちはまた,理知あるあらゆる被造物が直面する問題,つまり宇宙主権の大論争に焦点を当てた「真の平和と安全 ― どこから得られるか」と題する本をも入手しました。そして,証人たちは既にそうした情報を他の人々と分かち合っています。エホバの証人はこの混乱した世の中でどんな状態が生じようともそれにはかかわりなく,神の王国の良いたよりを宣べ伝えて,神から与えられた自分たちのわざを急いで行ない続けるとの決意を固めています。
ドイツのエホバの証人は他の場所の証人たちと同様,何年間かにわたって試されてきました。彼らにとってそれは決して意外なことではありませんでした。彼らは自分たちの主であり,主人であるイエス・キリストがよこしまな人々の手から迫害を受けて苦しまれたことを知っているので,同様のことを予期しています。(ヨハネ 15:20)エホバの証人は論争点をはっきり理解しています。証人たちは,悪魔サタンがエホバの主権の正当性を疑って挑戦してきたことを知っています。エホバに仕える人たちは神に対する何らかの愛ゆえにではなく,個人的な利得を目当てにして利己的な考えから仕えているのだと言ってサタンは公然と非難してきました。ひとたび圧力を受けるなら,人間はだれひとりとしてエホバの主権を忠節に擁護することはできないということをサタンはほのめかしてきました。そして,神と人間とに逆らうその敵対者は,彼に屈服する人間を用いて,この論争における自分の言い分の正しさを示そうとしています。―ルカ 22:31。
それとは対照的にエホバの証人は,自分たちの持っているもの,また将来に対する自分たちの希望はすべてエホバの過分の親切によるものであることを認識しています。証人たちは創造者に対する純粋の愛に動かされて,どんな個人的な犠牲を払おうとも,神に対する誠実さを実証することを特権とみなしています。彼らの多くは,不敬虔な世と妥協することを拒むがゆえに職業や家を失う経験をし,中にはわが子や自分の伴侶を失った人もいます。また,ある人々は鋼鉄製のむちで意識を失うまで打たれたり,飢えのために死んだり,銃殺されたりしました。
しかし,そうした事柄すべての結果として,だれが勝利者となりましたか。それは悪魔ではありません。また,その支配下にある世の人々でもありません。それはほかならぬ,唯一真の神とそのみ子に信頼を置いてきたエホバのクリスチャン証人です。使徒ヨハネが書き記したとおりです。『神の子はみな,神を認めない世に勝つ勝利者です。世に勝つ勝利者とはだれでしょう。イエスを神のみ子と信ずる者ではありませんか』。(ヨハネ第一 5:4,5,新英語聖書)確かにある人々は神の敵の手にかかって死にました。しかし,それらの人たちは天の王国でキリストとともに治める共同相続者となる希望を抱いていましたし,キリストの臨在しておられる時代に生きていたのですから,彼らは「一瞬に,またたくまに」復活させられて,不滅の天的な命を受け ― 世に対して勝利を博したのです。(コリント第一 15:51,52)神の新秩序で地的な命を受ける希望を抱く他の人びとは,偽ることのできない神により,その王国の義の支配の下でよみがえらせていただけるとの確信を抱いて,一時的に死の眠りにつきました。さらに幾千人もの人々は神の助けを得て,サタンとその見える手先から浴びせられた残忍な猛攻撃に生き残りました。それらの人たちの多くは今なお生き長らえて,依然良いたよりを宣べ伝えており,エホバに対する忠節さをなおも実証し続けています。しかも,彼らは今後の日々たとえどんな試みに直面しようとも,そうした忠実な歩みを保ち続けることを決意しています。
この報告を読むすべての人々がそれによって忠実に忍耐するよう励まされますように。霊感を受けて記された,使徒パウロの次のような言葉を銘記してください。『患難にあっても歓喜しましょう。患難が忍耐を生じさせることをわたしたちは知っているからです。かわって,忍耐は是認を受けた状態を,是認を受けた状態は希望を生じさせ,その希望が失望に至ることはありません。神の愛が,わたしたちに与えられた聖霊を通して,わたしたちの心の中に注がれているからです』。(ローマ 5:3-5)皆さんが神の愛に答え応じ,そのような気持ちに動かされて,今や間近に迫った神の勝利に対して全き確信を抱きつつ,神の意志を行なうことを生活の中で最も重要なこととされますように。
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