-
世ではなく隣人を愛しなさいものみの塔 1961 | 12月1日
-
-
世ではなく隣人を愛しなさい
真冬のことでした。自分の車の事故で困っていた人が通り過ぎて行く自動車にしばらくの間助けを求めていたのですが,だれも助けてくれる人がなかったので,がっかりしていました。遂にトラックの運転手が,その人のありさまを目にとめ,良きサマリヤ人の役目を演じました。しかし,助けてもらった人は,そのことをにがにがしく思いました。なぜでしょうか。その人の言ったことを聞いて下さい。「やれやれ,人もあろうに,とまって助けてくれたのは,ものみの塔の人じゃないか!」つまり,助けたのは,エホバの証者のひとりでした。トラックにはものみの塔という名が書かれており,運転していたのは,その協会のブルックリンのメンバーでした。
これらの人々は,クリスチャンとしての良い行いのゆえに,人々から良く思われています。ブルノー・ベトレヘイム教授は最近発行した本「博識家」(1960年)の中で,ドイツの収容所における自分の経験を語っていますが,そのさい,エホバの証者を「模範的な仲間……他の囚人たちを虐待したり,ひどい目にあわせたりしなかった唯一の囚人のグループ」として描いています。
エホバの証者に対して,反感を持つ人と好感を持つ人があるのはどういうわけですか。このように違った意見がでるのは,なぜですか。その理由はこうです。つまり,エホバの証者がしている区別 ― この世に対する愛と隣人に対する愛の区別 ― をしていない人がいるからです。神の御言葉は,クリスチャンは世を愛すべきでないとはっきり述べており,同じく明確にクリスチャンは隣人を愛すべきだと述べています。
それで,一方では『世を愛してはいけない』という命令があり,他方では次のように警告されています,「世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである」。さらにイエスは,ご自分をはじめとし,その弟子たちや御国も,この世のものでなく,この世のために神に祈らないと言いました。―ヨハネ第一 2:15。ヤコブ 4:4。ヨハネ 17:9,16; 18:36,新口。
しかし,もう一方では,クリスチャンに『自分自身のごとく隣人を愛する』ということと「だれに対しても……善を行」なうということが,要求されています。クリスチャンが隣人を愛し,しかも,いわば隣人で成り立っている世を愛さないということは,一体どうすればできることですか。つまり,「世」,「組織制度」,制度あるいはとりきめと,その組織を構成している個人々々とを区別することによって可能です。―ルカ 10:27。ガラテヤ 6:10,新口。
これを説明するために,ひとつの例をとってみましょう。アメリカには,共和党と民主党という二大政党があります。自分の党に忠実な共和党員なら,民主党のために運動資金を出すということは決してしませんし,民主党に票を投じたり共和党をやりこめる運動に加わって,民主党を助けるということはいたしません。また,民主党が政権をにぎっているとしたなら,政治的な利益を得たいばっかりに,民主党員と親しくしたりしません。自分の党に対する忠誠から,このようなことはどれひとつとして,いたしません。しかし,税務所が民主党の手にあるからといって,税金を払わないというわけではありません。隣りに住んでいる民主党員の家が,火事になった時,その人が民主党員だからといって,助けないわけではありません。またその人と売買して必要な取引きをしないというわけでもありません。もちろん,そういうことはありません! それでこの共和党員は,民主党の政治制度と,その党を構成している個人々々 ― たまたま彼の隣人である ― とを区別しています。
イエスは模範を示した
イエスは,その宣教期間中いつでもはっきりとこのふたつを区別していました。サタンがイエスにこの世,つまりこの世のすべての王国を提供し,もしひざまずいてサタンを拝するならば,それを与えると言った時に,「イエスは,サタンに言った,『サタンよ,しりぞけ!「あなたの神エホバを崇拝し,エホバ神のみに聖なる奉仕をささげねばならない」と書かれている』」。イエスは,使徒パウロが後に述べたように,サタンが「この世の神」であることを認めていました。それでイエスは,サタンが「彼に対して何の力も持たない」ように注意しました」。―マタイ 4:10,新世。コリント後 4:4。ヨハネ 14:30,新口。
しかし,この世がサタンの組織制度であるというのは,ただサタンがその神であるというだけでなくて,この世を牛耳っている要素がサタンの支配下にあり,サタンの言うとおりにしているという事実なのです。この世を牛耳っている要素というのは何ですか。政治,商業,そして偽りの宗教です。イエスは,これら三つのすべてから,離れていました。イエスはその当時の政治に手を出しませんでした。イエスは,ローマ政府の代表者であるヘロデ・アンテパスを「あのきつね」と呼び,ローマ政府と運命を共にすることをこばみました。イエスはカイザルに協力しませんでしたが,「カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返し」ました。イエスは,自分の弟子たちが彼を王にしようとしたのでも,ことわりました。次の記録を読むと分かります。「イエスは人々がきて,自分をとらえて王にしようとしていると知って,ただひとり,また山に退がれた」。―ルカ 13:32; 20:25。ヨハネ 6:15,新口。
また,イエスは富を蓄積して,商業主義にまき込まれたということもありませんでした。イエスは,地ではなく,天に宝をつむようにと弟子たちをさとしました。また,真理をただで与えられたのだから,ただで奉仕をするようにと言いました。全くのところ,財産のことなどイエスの意中にはなかったので「まくらする所がない」ほどでした。―ルカ 9:58,新口。
イエスは,サタンの組織制度の宗教的要素に協力するどころか,その代表者たちに向かって,大胆に,しかりつけました。「偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである」。「あなたがたは自分の父,すなわち,悪魔から出てきた者であって……」。イエスは信仰の合同をよしとされませんでした。イエスの次の言葉からそれが分かります,「だれも,真新しい布ぎれで,古い着物につぎを当てはしない……だれも,新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない」。明らかに,イエスは政治,商業,偽りの宗教でなり立っていたその当時の世を愛しませんでした。―マタイ 23:29。ヨハネ 8:44。マタイ 9:16,17,新口。
しかし,イエスは隣人を何とよく愛したことでしょう!「群衆が飼う者のない羊のように〔サタンの世によって〕弱り果てて,倒れているのをごらんになって,彼らを深くあわれまれた」。イエスは人々に訴えました,「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」。―マタイ 9:36; 11:28-30,新口。
イエスはまず,御父と,その御国の良いたよりについての真理を,人々に伝道することにより,隣人愛を示しました。3年間以上,イエスはパレスチナの地方 ― ガリラヤ,ユダヤ,ペレヤ ― をくまなく歩いて,会堂,エルサレムの宮,人々の家,山腹そして海辺で伝道し教えました。ご自分の語ることに,重みを加えるためイエスは病をいやし,群衆に食物を与え,死人をもよみがえしたりして,さまざまの奇跡を行ないました。イエスの以前にも以後にも,イエスの生涯中に見られるような隣人愛を示した人は,だれもいません。そして最大の隣人愛は,世の生命のために,自分の命を与えたことです。イエスは,その当時の世,あるいは悪しき制度を愛しましたか。いいえ! イエスは隣人を愛しましたか。たしかに愛しました!
世を愛すべきか ― 否!
この雑誌の大部分の読者が住んでいるキリスト教国は,イエスの時代のユダヤ教と入れかわっているということは事実ですが,それでもこの世はイエスの時以来変化していません。サタンは今でも此の世の神です。支配しているのは,今でも政治,商業そして偽りの宗教です。この世の大部分がキリスト教国と呼ばれているからといって,キリスト教的だということにはなりません。神の律法と原則,御心,また御国について知らないなら,キリスト教的だということができますか。イエスはこう言いました,「わたしの味方でない者は,わたしに反対するものであり,わたしと共に集めない者は,散らすものである」。―マタイ 12:30,新口。
市,州そして国の政治が腐敗しきっている時,クリスチャンがその一部になることは,とうていできません。毎日のように汚職が明るみに出されています。「アトランチック」誌の1961年3月号にのせられた「ボストンの汚れた金」という記事は,特に証拠がよくそろっています。宗教的なのを誇っている都会で,汚職をものともしないという傾向がさかんにみられます。「悪い交わりは,良いならわしをそこなう」。―コリント前 15:33,新口。
根本的に不正直で残忍な今日の商業のどこに,クリスチャン的なところがありますか。最近のことですが,アメリカの一流の会社の重役たちは,何百万ドルを政府と他の所からだまし取ったというかどで,投獄されました。大きな事業団体は,利益を得るためならなんでもします。好色的な娯楽や暴力で,青少年を堕落させたり,直接,間接にわいろを使って政治家たちを堕落させたりします。また売春婦を雇って,家族を持っている男を堕落させます。使徒は,それをよく警告しています,「金銭を愛することは,すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため,信仰から迷い出て,多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」。―テモテ前 6:10,新口。
さて,キリスト教国の人気のある宗教はどうでしょうか。それらの宗教が,堕落した政治家や,残忍で不正直な商業と手を結んでいるのを見れば,それだけで十分非難できます。宗教にはいる人の数は非常にふえていますが,社会の道徳は,徐々に低下しています。また,信条は矛盾しており,ますます混乱してきています。神の御言葉によると,キリストは分かれておりませんが,キリスト教国の宗教は分かれています。単に宗派に分かれているだけでなく,ある宗派などはそれがまた,20もの派に分かれており,お互いに一致して仲よくやって行くことができないということを,如実に物語っています。―コリント前 1:13。
それで,神の御心を行なうために献身した,誠実なクリスチャンが,このようなサタンの世の一部になることができないというのは明白です。このようなクリスチャンは,この世の設備を利用し,受けた益に対してお金を支払うという点において,この世を用います。しかし,この世の一部になりませんし,この世の欲望,野心,誘惑,そそのかしに負けません。使徒パウロの同労者のようにはなりません,「デマスはこの世を愛し,わたしを捨てて…」。クリスチャンは,愛されていた弟子の警告に注意します,「世と世にあるものとを,愛してはいけない。もし,世を愛する者があれば,父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父から出たものではなく,世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠にながらえる」。―テモテ後 4:10。ヨハネ第一 2:15-17,新口。
隣人を愛すべきか ― しかり!
しかし,世を愛さないと言っても,今日のクリスチャンが,隣人を愛さなくてよい,あるいは愛さないという意味ではありません。クリスチャンは,サタンの支配下にある組織制度と,サタンに捕えられている人々,つまり友なる人間とを区別しています。そして,自分がしてもらいたいことを隣人に対しても行なって,自分のごとくに隣人を愛します。必要ならばいつでも隣人を助けます。それはちょうどこの記事の最初に出てきた,クリスチャン,つまりトラックの運転手がした通りです。イエスのたとえ話に出てくるサマリヤ人のように,クリスチャンは困っている人を助ける機会をのがさないようにします。機会があるごとに,すべての人,特に友なるクリスチャンに善をなすようにという戒めに,注意します。―ルカ 10:30-37。ガラテヤ 6:10。
しかし,世の友になるということを避けたいばかりに,献身したクリスチャンはこの点でおとることになるかもしれません。クリスチャンの奉仕者として,神の御心を行なうために献身したので,他の人に与え得る助けは,霊的なものだけであると,思う傾向があるかもしれません。しかし,そうではないのです。霊的な援助は一番大切です。しかし,物質的な援助や,手助けを隣人が必要としているばあいがあります。その時には,できる立場にあるなら,援助の手を差しのべるべきです。もちろん,感情的になって,極端なところまでいくということは好ましくありません。
自分のできる範囲で,また他の者の必要に応じて物質的な援助を常に与えるようにするかたわら,クリスチャンは,今日の世界の正義愛好者たちすべてが,霊的な意味で,非常に困っているということを決して忘れないでしょう。そういう人々は,エホバ神について,また,その御名や御言葉,目的についての知識や理解をもたないし,自分たちに対するエホバ神の御心も知りません。このような霊的必要を満たすことにつとめることこそ,クリスチャンが愛を示す最善の道です。なぜなら,「知恵が身を守るのは,金銭が身を守るようである。……知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。これが知識のすぐれた所である」。―伝道 7:12,新口。
示される侮辱とか,無関心などにもめげず,どんな天気の時でも,定期的に家から家へ行き,他の人が永遠の生命という神の御準備を学ぶようにすすめることは,クリスチャンにとって大きな隣人愛を必要とします。同時に,クリスチャンが世を愛していたら,このようなことはすべてしないでしょう。それで,私たちは世を愛すべきですか。いいえ! 隣人を愛すべきですか。そうです!
-
-
ベネズエラのエホバの証者ものみの塔 1961 | 12月1日
-
-
ベネズエラのエホバの証者
ベネズエラでも神の御心が行なわれていて,多くの人々が最愛の御子,イエス・キリストに信仰を働かせ,キリストを通してくる永遠の生命と,宇宙の最高支配者に永遠にわたる真の崇拝をささげるという栄光ある特権を得るよう励んでいます。
ひとりの宣教者は次のような経験を述べています,「新しい区域にある丘の上で働いていた時,最後の道の最後の家で,ひとりの婦人に本を配布しました。再び訪問した時,その婦人はたいして興味はもっていませんでしたが,親しげに,話をよく聞いてくれました。数回訪問してから,聖書研究が始められました。最初のうち,その婦人は勉強に対してあまり真剣でなく時にはほかの事にわずらわされて勉強しない時もありました。しかし,本を半分ぐらいすませた時,彼女は,これが大切なもの,ほかの事と異なるもの ― つまり真理であるということを認め始めました。御国会館まで行くには,長い道のりを歩かねばならなかったのですが,定期的にものみの塔の研究会にも出席しはじめました。毎週彼女の家の近辺で家から家の奉仕を一緒にしました。まもなく他の家族も勉強しはじめ,興味が増し加わるにつれ,隣人や親類の人にも話したので,それらの人も勉強に加わり,今までに9軒の違った家で,26人の人が勉強しています。そのうちの8人は伝道者で,ほかの7人も,まだわずかな期間しか勉強していませんが,私たちと一緒に奉仕に出かけました。彼らは伝道のわざをぜひしたいと考えているので,その仕方を学ぶため私たちについてきたいと思っています。最初に勉強を始めた婦人は,反対していたその夫と息子が勉強するようになり,定期的にものみの塔の研究会に出席しだしたので喜んでいます。今では娘さんも伝道者です。来月,この婦人の家は,丘の群れの奉仕中心地になります。群れの多くの人は,次の大会で洗礼を受けるのを待ち望んでいます。―1961年のエホバの証者の年鑑より
-