ダビデへの憎しみはサウルの中で激しさを増してゆきました。サウルが狂気に取りつかれ,軍隊を集合させて荒野へと進軍し,一人の罪のない男性を殺そうとしているのを知っても,ヨナタンにはなすすべがありませんでした。(サムエル第一 24:1,2,12-15; 26:20)ヨナタンはその軍隊に加わったのでしょうか。興味深いことに,ヨナタンがこうした間違った軍事行動に加わったという記述は聖書中にありません。エホバ,ダビデ,そして友情の誓いに忠実だったので,そうはできなかったのです。
ダビデに対するヨナタンの気持ちは決して変わりませんでした。やがて,ダビデに再び会う方法を考え出します。「樹木の茂った所」という意味のホレシャで会うことにしたのです。ホレシャはヘブロンから何キロか南東にある荒れ果てた山地です。どうしてヨナタンは逃亡中のダビデにあえて会おうとしたのでしょうか。「神に関して彼[ダビデ]の手を強める」よう助けるためだった,と聖書にはあります。(サムエル第一 23:16)どのようにそうしましたか。
ヨナタンはこう言って力づけます。「恐れてはなりません。わたしの父サウルの手はあなたを見いだすことがないからです」。どうしてそう言えたのでしょうか。エホバの目的は必ず実現するという深い信仰があったからです。そして,「あなたはイスラエルの王とな[る]」と言います。これは預言者サムエルによって何年も前に予告されていたことでした。ヨナタンはエホバの言葉はいつでも信頼できるということを思い起こさせていたのです。ではヨナタンは,自分は将来どうなると考えていましたか。「わたしはあなたに次ぐ者となる」と語ります。すばらしい謙遜さです。30歳も年下のダビデの右腕として喜んで仕えるのです。それからヨナタンは「わたしの父サウルもまた,そうなることを知っているのです」と言います。(サムエル第一 23:17,18)サウル自身も,次の王に定められていたダビデと戦っても,勝てないということを知っていたのです。
その後の年月,ダビデはきっとこの日のことを何度も懐かしく思い返したことでしょう。2人が会ったのはその日が最後でした。残念なことに,ダビデに次ぐ者として仕えるというヨナタンの願いがかなう日は来ませんでした。
ヨナタンは父親と共に,公然とイスラエルに敵するフィリスティア人との戦いに出かけます。父親と一緒に戦うことに良心のとがめを感じません。父親がどんな間違いを犯したとしても,エホバに仕えることを第一にしているからです。ヨナタンは,これまでと同じように勇敢かつ忠実に戦いましたが,イスラエルは劣勢になります。サウルは,律法下では死刑となる心霊術を行なうまでに身を落としていたので,エホバの祝福を得ていませんでした。ヨナタンを含めサウルの3人の息子は戦死しました。サウルは傷を負い,自ら命を絶ちました。(サムエル第一 28:6-14; 31:2-6)
ダビデは悲しみに打ちひしがれます。懐の深いダビデは,自分を惨めで困難な生活に追いやったサウルのためにも嘆きます! そして,サウルとヨナタンのために哀歌を書きます。愛する助言者であり友であったヨナタンに対する次の言葉は,本当に心を打ちます。「わたしの兄弟ヨナタン,わたしはあなたのために苦しんでいる。あなたはわたしにとって非常に快い人だった。あなたの愛はわたしにとって女の愛よりもすばらしかった」。(サムエル第二 1:26)
ダビデはヨナタンとの誓いを決して忘れませんでした。何年か後,ヨナタンの息子で体が不自由だったメピボセテを探し出し,世話をしました。(サムエル第二 9:1-13)ダビデがヨナタンの忠実さ,敬意,犠牲を払っても友に示す揺るぎない愛情から多くのことを学んでいたことは明らかです。わたしたちも教訓を学ぶことができますか。ヨナタンのような友を見つけ,わたしたち自身も固い友情を示すことはできるでしょうか。友がエホバへの信仰を築き強めるよう助け,エホバへの揺るぎない愛を第一にし,自己中心的にならずにエホバと友に対し忠実であるなら,ヨナタンのような友になることができます。その信仰に倣いましょう。