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思い煩うのは信仰が欠けているしるしですか目ざめよ! 2004 | 6月8日
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聖書の見方
思い煩うのは信仰が欠けているしるしですか
「思い煩うなかれ」。このような見出しのもとに,20世紀初期のある牧師は,物質上のことをあれこれ思い煩うのは間違いであるだけでなく「非常に重大な罪」でもある,と書きました。最近のこと,ある評論家は心配や不安の克服を話題に取り上げて,「心配するのは,神を信頼していないと公言するのと同じだ」と述べました。
どちらの場合も筆者は,イエスの山上の垂訓からその結論を引き出しています。イエスはその中で,「思い煩うのをやめなさい」と言われました。(マタイ 6:25)思い煩っている人は今日とても多いので,次の疑問が生じるでしょう。クリスチャンは思い煩うことに罪悪感を持つべきでしょうか。思い煩うのは信仰が欠けているしるしですか。
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思い煩うのは信仰が欠けているしるしですか目ざめよ! 2004 | 6月8日
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神はわたしたちが必要とするものを知っておられる
聖書は,一般的な思い煩いと,信仰の欠如という罪とを区別する上で助けになります。日常的な思い煩い,さらには弱さゆえの信仰の一時的な欠如を,神への信頼が全く欠けた状態と混同すべきではありません。全くの不信仰は邪悪で無反応な心から生じるものです。ですからクリスチャンは,ときおり思い煩うことがあるからといって,罪悪感にさいなまれる必要はありません。
とはいえ,思い煩いが大きくなりすぎて,生活を支配してしまうことのないように,注意が必要です。イエスの知恵の言葉はこう述べています。「思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません」。その後イエスは,慰めとなる言葉をこう続けられました。「あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。ですから,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなた方に加えられるのです」。―マタイ 6:25-33。
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