西暦32年の過ぎ越しが近づいたころ,イエスはガリラヤで人々を教えて忙しい毎日を過ごしていましたが,律法の規定に従い,過ぎ越しを祝うためエルサレムに向かったようです。ただし,ユダヤ人たちから命を狙われているので用心深く行動します。(ヨハネ 7:1)その後,ガリラヤへ戻ります。
恐らくカペルナウムにいたイエスの所へ,パリサイ派の人たちと律法学者たちがエルサレムからはるばるやって来ます。なぜでしょうか。イエスを宗教上の違反で訴える手掛かりをつかもうとしているのです。それでイエスにこう質問します。「あなたの弟子が父祖たちからの伝統を破っているのはどうしてですか。例えば,食事をする時に手を洗いません」。(マタイ 15:2)しかし,食事の時に「手を肘まで洗[う]」というしきたりは神が命じたものではありません。(マルコ 7:3)それでもパリサイ派の人たちは,そうしないのは重大な違反であると考えています。
イエスはその非難に直接は答えません。むしろ,彼らがどのように神の律法を意図的に破っているかを,次のように指摘します。「あなた方が自分たちの伝統によって神のおきてを破っているのはどうしてですか。例えば,神は,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母に暴言を吐く人は死刑にしなさい』と言いました。ところがあなた方は言います。『父や母に,「私の物でお役に立ちそうな物はどれも神に献納された供え物なのです」と言えば,父を敬わなくてよい』」。(マタイ 15:3-6。出エジプト記 20:12; 21:17)
パリサイ派の人たちは,神に献納された供え物はお金も財産も全て神殿のものであり,他の目的のために用いることはできないと教えています。ところが,献納したはずの供え物をその人自身がまだ持っていることがありました。例えば,ある人が自分のお金や財産は「コルバン」(神や神殿に献納されたもの)である,と言うかもしれません。そして,そうした資産がまだ手元にあり自由に使えたとしても,これは神殿のためだから高齢の貧しい親を助けるために使うことはできない,と主張します。こうして,親に対する責任を逃れるのです。(マルコ 7:11)
パリサイ派の人たちが神の律法をねじ曲げていることに,イエスが怒りを感じたのも当然です。それでこう言います。「自分たちの伝統によって神の言葉を否定しています。偽善者たち,イザヤはあなた方について適切にこう預言しました。『この民は唇で私を敬うが,心は私から遠く離れている。私を崇拝し続けても無駄である。人間の命令を教理として教えるからである』」。イエスからの厳しい非難にパリサイ派の人たちは何も答えられません。イエスは人々を近くに呼んで話を続けます。「聞いて,意味を悟りなさい。口に入るものが人を汚すのではありません。口から出るものが人を汚すのです」。(マタイ 15:6-11。イザヤ 29:13)
その後,弟子たちは家の中でイエスに,「パリサイ派の人たちがあなたの言ったことを聞いて反感を抱いたのを知っていますか」と尋ねます。イエスはこう答えます。「天の父が植えたのでない植物は皆,引き抜かれます。放っておきなさい。あの人たちは目が見えない案内人です。目の見えない人が目の見えない人を案内すれば,2人とも穴に落ちます」。(マタイ 15:12-14)
ペテロから人を汚すものの説明を頼まれ,イエスは驚いたようです。こう言います。「口に入るものは何でも胃を通って下水に排出されるのではありませんか。しかし,口から出るものは何でも心から出てくるのであり,それが人を汚します。例えば,心から,邪悪な考え,殺人,姦淫,性的不道徳,盗み,偽証,冒瀆が出てきます。これらは人を汚します。しかし,手を洗わずに食事をすることは人を汚しません」。(マタイ 15:17-20)
これは,普段の衛生に気を付けなくてもよいとか,調理や食事の前に手を洗わなくてもよいという意味ではありません。イエスは,人間の伝統によって神の律法を無視しようとする宗教指導者たちの偽善を非難していたのです。人を本当に汚すのは,心から出てくる悪い行いです。