イエスと弟子たちは南のエルサレムを目指してペレアを旅してきました。その旅の終わりごろ,エリコ近辺のヨルダン川を渡ります。西暦33年の過ぎ越しを祝うため彼らと一緒に旅行する人たちもいます。
イエスは過ぎ越しの日までにエルサレムに着けるよう,しっかりした足取りで弟子たちの先頭を歩いています。しかし,弟子たちは不安です。少し前,ラザロが死んでイエスがペレアからユダヤに入ろうとした時,トマスは仲間の弟子たちに,「私たちも行こう。共に死ぬのだ」と言いました。(ヨハネ 11:16,47-53)エルサレムに行くのは危険です。弟子たちの気持ちはよく分かります。
イエスはこれから起こる事柄に備えさせるため,使徒たちを脇に連れていき,こう言います。「私たちはエルサレムに上っていきます。人の子は祭司長と律法学者たちに引き渡され,死に値すると断罪されて異国の人々に引き渡されます。人の子はあざけられ,むち打たれ,杭に掛けられて死にます。そして3日目に生き返ります」。(マタイ 20:18,19)
イエスが自分の死と復活について弟子たちに語るのはこれが3度目です。(マタイ 16:21; 17:22,23)でもこの時イエスは,自分は杭に掛けられて死ぬ,と言いました。弟子たちは聞いても意味が分かりません。恐らく,イスラエルの王国が地上に回復されるのを期待していたのでしょう。キリストと共に地上の王国で栄光と栄誉を受けたいのです。
使徒であるヤコブとヨハネの母親(サロメと思われる)も一緒に旅行していました。イエスはそれら2人の使徒たちに「雷の子たち」を意味する名前を与えました。2人の気性が激しかったからでしょう。(マルコ 3:17。ルカ 9:54)この使徒たちは以前から,キリストの王国で目立った立場を得たいという野心を抱いていました。母親はそのことを知り,息子たちの代わりにイエスに近づき,身をかがめてイエスに頼み事をします。イエスが「願いは何ですか」と聞くと,母親は,「この息子たちがあなたの王国で1人はあなたの右に,1人は左に座れるようにしてください」と答えます。(マタイ 20:20,21)
実際のところ,これはヤコブとヨハネの願いでした。イエスはすでに,自分がこれから恥をかかされつらい経験をすると語っていました。それで2人に,「あなたたちは,自分が何を求めているか分かっていません。私が飲もうとしている杯から飲むことができますか」と質問します。2人は,「できます」と答えます。(マタイ 20:22)まだ自分の言っていることの意味が分かっていないようです。
それでも,イエスはこう言います。「確かに,あなたたちは私の杯から飲むでしょう。しかし,私の右また左に座ることは,私が決めることではありません。その場所は,そこに座る者たちのために,天にいる私の父によって用意されています」。(マタイ 20:23)
ヤコブとヨハネの願いを聞いて,他の10人の使徒たちは怒ります。以前に使徒たちの間で誰が一番偉いのかという口論があった時,思ったことをずばずば言ったのはヤコブとヨハネだったのかもしれません。(ルカ 9:46-48)それはともかく,この出来事から,より小さな者として行動するようにというイエスの教えを12使徒が当てはめていなかったことが明らかになりました。目立った立場を得たいという欲求は根深いものでした。
イエスは弟子たちの口論とその結果生じた険悪な雰囲気を解決するために行動します。12人を呼び集め,愛を込めてこう助言します。「あなたたちは,諸国の支配者と見なされている人たちが威張り,偉い人たちが権威を振るうことを知っています。あなたたちの間ではそうであってはなりません。偉くなりたい人は奉仕者でなければならず,1番でありたい人は皆の奴隷でなければなりません」。(マルコ 10:42-44)
イエスは素晴らしい手本を残しました。それでこう言います。「ちょうど人の子が,仕えてもらうためではなく,仕えるため,また自分の命を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」。(マタイ 20:28)3年以上にわたり,イエスは他の人に仕えてきました。そして人類全体のために死ぬことまでするのです。弟子たちもキリストに倣い,仕えてもらうよりも仕えたい,目立った立場を求めるのではなく,より小さな者になりたいという気持ちを持たなければならないのです。