いいえ。聖書にも歴史書にも,そのようなバプテスマが行われたことを示す記録はありません。
パウロの時代に死者のための水のバプテスマが行われていたと考える人がいるのは,多くの翻訳聖書の中にそう読める表現があるからです。例えば,このような訳があります。「そうでないとすれば,死者のためにバプテスマを受ける人々は,なぜそれをするのだろうか」。(「口語訳」,日本聖書協会)
しかし,この点について,2人の聖書学者は次のように述べています。グレゴリー・ロックウッド博士は,「死んだ人のために」受けるバプテスマは,「今のところ歴史書にも聖書にも記録がないようなバプテスマ」だ,と言っています。ゴードン・D・フィー教授もこう書いています。「歴史書にも聖書にも,そのようなバプテスマが行われたという記録はない。新約聖書にはその点について何一つ書かれていない。また,その後の数百年において,教会やクリスチャンの間でそのようなことが行われていた,という証拠もない」。
聖書によると,イエスは弟子たちに,「全ての国の人々を弟子としなさい。……バプテスマを施し,私が命令した事柄全てを守るように教えなさい」と命じました。(マタ 28:19,20)人がバプテスマを受けた弟子になるためには,エホバとイエスについて学び,信仰を持ち,エホバとイエスに従う必要があります。すでに死んだ人にはそうしたことはできませんし,生きているクリスチャンが死んだ人のためにそうすることもできません。(伝 9:5,10。ヨハ 4:1。コリ一 1:14-16)
では,パウロは何を言おうとしていたのでしょうか。
コリントのクリスチャンの中には,死者の復活などない,と言う人たちがいました。(コリ一 15:12)パウロはその人たちの考え方が間違っていることを示しました。パウロの説明によると,パウロは「日々,死に面して」いました。いろいろと危険な目に遭っていたのです。それでも,死んだ後,イエスのように天での命に復活させられるということを確信していました。(コリ一 15:30-32,42-44)
コリントのクリスチャンが理解する必要があったのは,天に行くよう選ばれたクリスチャンは日々試練に直面して死に,その後復活させられる,ということでした。「キリスト・イエスへのバプテスマ」を受けることは,「キリストの死へのバプテスマ」を受けることを意味していました。(ロマ 6:3)ですから,このバプテスマを受けた人は,文字通り死に,天に復活させられることになります。
イエスは,水のバプテスマを受けた数年後,2人の使徒たちにこう言いました。「あなたたちは……私が受けているバプテスマを受けるでしょう」。(マル 10:38,39)イエスはこの時,水のバプテスマではなく「死へのバプテスマ」のことを言っていました。自分は神への忠実を保って死ぬことになる,と言っていたのです。パウロは,天に行く人たちが「共に栄光を受けるため,共に苦しむ」ことになる,と書きました。(ロマ 8:16,17。コリ二 4:17)ですから,そうした人たちも天に復活させられるためには死ななければならないのです。
それで,パウロの言葉を正確に伝えようとすると,こうなります。「そうでなければ,死んだ者となるためにバプテスマを受けている人たちは,どうなるでしょうか。死者が生き返らされないのであれば,どうしてそのような者となるためにバプテスマを受けているのでしょうか」。