イエスは神殿で過ごす最後の日に,律法学者たちとパリサイ派の人たちのことをはっきり偽善者と呼び,彼らの態度を非難します。比喩表現を用いて,こう言います。「あなた方は……杯と皿の外側は清めますが,内側は貪欲と放縦に満ちてい[ま]す。目が見えないパリサイ派の人たち,まず杯と皿の内側を清めて,外側も清くなるようにしなさい」。(マタイ 23:25,26)パリサイ派の人たちは,儀式上の清さや自分の外面については大変きちょうめんですが,自分の内面については無関心で,心を清めることができていません。
預言者の墓を建てて飾り付けていることにも,彼らの偽善が表れています。しかしイエスが言う通り,彼らは「預言者を殺害した者たちの子」です。(マタイ 23:31)イエスを殺そうとしていること自体,その証拠です。(ヨハネ 5:18; 7:1,25)
それでイエスは,宗教指導者たちが悔い改めないならどうなるかをこう話します。「蛇よ,マムシのような者たちよ,あなた方はどうしてゲヘナの処罰を逃れられるでしょうか」。(マタイ 23:33)ゲヘナとはヒンノムの谷のことです。そこはごみを燃やす所でした。ですからこの表現は,邪悪な律法学者たちとパリサイ派の人たちに永遠の滅びが待ち受けていることを示しています。
弟子たちは「預言者」,「賢人」,「教師」になります。どんな扱いを受けるでしょうか。イエスは宗教指導者たちにこう言います。「あなた方は[私の弟子]の中のある人を殺し,杭に掛け,ある人を会堂でむち打ち,あちこちの町で迫害します。こうして,正しい人アベルの血から……ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された正しい人の血全てがあなた方に降り掛かります」。そしてこう警告します。「はっきり言いますが,その全てがこの世代に降り掛かります」。(マタイ 23:34-36)この言葉は,西暦70年にローマ軍がエルサレムを滅ぼし,何十万ものユダヤ人を殺害した時に実現しました。
イエスはその時の恐ろしい状況を考えて心を痛め,悲しみを込めてこう言います。「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,遣わされた人々を石打ちにする者よ,私はめんどりが翼の下にひなを集めるようにあなた方を集めたいと何度思ったことでしょう。しかし,あなた方はそれを望みませんでした。聞きなさい,あなた方の家は見捨てられます」。(マタイ 23:37,38)これを聞いた人たちは,イエスが言った「家」とは何のことだろうと思ったに違いありません。神の保護があるように思える,エルサレムの立派な神殿のことでしょうか。
イエスの次の言葉はこうです。「あなた方に言いますが,あなた方は今後,『エホバの名によって来る方が祝福されますように!』と言う時まで,決して私を見ることはありません」。(マタイ 23:39)イエスは,詩編 118編26節の,「エホバの名によって来る方が祝福されますように。私たちはエホバの家であなたたちのために祝福を願う」という言葉から引用しています。この聖句の「エホバの家」とは神殿のことです。神殿が滅ぼされると,誰もそこに神の名によって来ることはできません。
次にイエスは,神殿の寄付箱が見える場所に移動します。その箱の上部には小さな口があり,そこから寄付を入れる仕組みになっています。イエスは人々が寄付をする様子を見ています。裕福な人たちは「たくさんの硬貨を入れて」います。イエスは「ごく小額の小さな硬貨2つ」を寄付した,1人の貧しいやもめに注目します。(マルコ 12:41,42)イエスは,そのやもめの寄付が神に喜ばれることを知っています。
イエスは弟子たちを呼ぶと,「はっきり言いますが,この貧しいやもめは,寄付箱にお金を入れたほかの人たち全てよりたくさん入れました」と話します。なぜそう言えるのでしょうか。イエスは,「彼らは皆,余っている中から入れましたが,この女性は乏しい中から自分が持つ全て,生活に必要な全てのものを入れたからです」と説明します。(マルコ 12:43,44)この女性は内面も行動も,宗教指導者たちとは全く違っていたのです。
ニサン11日も過ぎていき,イエスは神殿を後にします。すると1人の弟子が,「先生,見てください。何と見事な石と建物なのでしょう」と叫びます。(マルコ 13:1)神殿の壁に使われていた石の中にはとてつもなく大きなものがあったため,建物は強固で不動な印象を与えました。ところがイエスは不思議なことを言います。「この立派な建物を見ているのですか。石がこのまま石の上に残って崩されないでいることは決してありません」。(マルコ 13:2)
そう言ってから,イエスは使徒たちとキデロンの谷を渡り,オリーブ山に登ります。そして,4人の使徒ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネと一緒になります。その場所からは壮麗な神殿が見えます。