イエスは都からあまり遠くない所にある処刑場所へ連れていかれます。他の2人の強盗もそこで処刑されることになっています。そこはゴルゴタ,つまりどくろの場所とも呼ばれており,「離れた所」からもよく見えます。(マルコ 15:40)
有罪とされた3人は服を脱がされます。それから,鎮痛剤として没薬と胆汁を混ぜたぶどう酒が与えられます。エルサレムの女性たちが準備したようで,ローマ人の兵士もそれが与えられるのを止めません。でもイエスは少し味見した後,それ以上飲もうとしません。なぜでしょうか。重要な試練の間,感覚を鈍らせることなく,死ぬまで意識をはっきりと保って忠実でありたいと思っているのです。
イエスは杭の上に寝かされます。(マルコ 15:25)兵士たちがイエスの手と足にくぎを打ち込みます。くぎは肉と靱帯を貫通し,イエスの体に激痛が走ります。杭が垂直に起こされると,傷口が体の重みで裂けるため,痛みはもっと耐え難いものになります。しかし,イエスは兵士たちを大声でののしることなく,こう祈ります。「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」。(ルカ 23:34)
ローマ人には犯罪者の罪状を掲げる習慣があります。それでピラトは,「ナザレ人イエス,ユダヤ人の王」と書いたものを掲げます。大勢の人が読めるよう,ヘブライ語,ラテン語,ギリシャ語で書かれています。イエスを殺すよう強く求めたユダヤ人をピラトがいかに軽蔑していたかが分かります。罪状を見て動揺した祭司長たちは,「『ユダヤ人の王』とではなく,『自称ユダヤ人の王』と書いてください」と抗議します。ところが今回,ピラトは言いなりにならず,「私が書いたことだ」と答えます。(ヨハネ 19:19-22)
怒った祭司長たちはサンヘドリンでの裁判でしたのと同じ,うその証言を繰り返します。それで通行人たちも頭を振ってあざけり,次のような暴言を吐きます。「おやおや,神殿を壊して3日で建てる者よ,苦しみの杭から下りてきて自分を救ってみろ」。祭司長たちや律法学者たちも,「イスラエルの王キリストに,いま苦しみの杭から下りてきてもらおうではないか。そうしたら信じよう」と言います。(マルコ 15:29-32)イエスの両脇で杭に付けられている犯罪者たちまでが,ただ1人無実であるイエスのことを非難し始めます。
ローマの4人の兵士たちもイエスをからかいます。彼らは恐らくぶどう酒を飲んでいたのでしょう。それでイエスにも飲ませるまねをします。さらに,イエスの頭上にある罪状を見てばかにし,「ユダヤ人の王なら,自分を救ってみろ」と言います。(ルカ 23:36,37)考えてもみてください。道,真理,命である方が,不当な虐待と侮辱全てにじっと耐えているのです。自分を見ているユダヤ人たち,ばかにしてくるローマの兵士たち,両脇にいる犯罪者たちを非難することは決してありません。
4人の兵士はイエスの外衣を取り,4つに分けます。そして,くじを引いて分配します。しかし内衣は「縫い目がなく,上から下まで織った」上等のものでした。それで彼らは,「これは裂かないで,誰のものにするかをくじで決めよう」と言います。そのようにして,次の預言が実現します。「彼らは私の外衣を自分たちの間で分け,私の衣服のためにくじを引いた」。(ヨハネ 19:23,24。詩編 22:18)
しばらくすると,犯罪者の1人がイエスは本当に王であると認めるようになります。その人はもう1人の犯罪者を叱ってこう言います。「神を少しも畏れないのか。同じ処罰を受けているのに。われわれの場合は当然だ。自分がした事の報いを受けているのだから。しかしこの人は何も悪い事はしていない」。それから,「イエスよ,王国に入る時に私を思い出してください」と言います。(ルカ 23:40-42)
するとイエスは,「今日あなたに言います。あなたは私と共にパラダイスにいることになります」と言います。王国ではなくパラダイスです。(ルカ 23:43)これは,王国でイエスと一緒に王座に座るという使徒たちに対する約束とは違います。(マタイ 19:28。ルカ 22:29,30)とはいえこのユダヤ人の犯罪者は,エホバがアダムとエバに与えた地上のパラダイスについては聞いたことがあったでしょう。それで,この男性は死ぬ前に,地上のパラダイスで生きるという希望を抱くことができました。