10章
キリスト教 ― イエスは神に通ずる道でしたか
これまでに,ユダヤ教に関する章を除けば,かなりの程度まで神話に基づいている幾つかの主要な宗教を考慮してきました。今度は,人間を一層神に近づけると言われている,もう一つの宗教 ― キリスト教 ― を調べてみましょう。キリスト教の基盤は何ですか。神話,それとも歴史的な事実ですか。
1 (イ)キリスト教世界の歴史はどうしてキリスト教に関する重大な疑問を一部の人々に抱かせますか。(ロ)キリスト教世界とキリスト教との間にはどんな区別が設けられていますか。
戦争,異端審問所,十字軍,および宗教的偽善を伴うキリスト教世界aの歴史は,キリスト教の大目的に寄与してきませんでした。信心深いムスリム(イスラム教徒)や他の人々は,キリスト教を退ける根拠として西洋,つまり“キリスト教”の世界の道徳的腐敗や退廃を指摘します。確かに,いわゆるキリスト教諸国は道徳上の指導原理を失い,いわば不信仰,貪欲,および放縦などの暗礁に乗り上げて難破しています。
2,3 (イ)初期クリスチャンの行ないと現代のキリスト教世界の人々のそれとの間にはどんな対照が見られますか。(ロ)幾つかのどんな疑問に答えなければなりませんか。
2 エレイン・ペイゲルス教授は自著,「アダム,エバ,および蛇」の中で,原初のキリスト教の規準が何でも許容する今日の習俗とは異なっていたことを証明して,「最初の4世紀間の多くのクリスチャンは性的慎み深さを誇りとし,一夫多妻や多くの場合,離婚をも避けたが,ユダヤ教の伝統では離婚は認められていた。また,クリスチャンは同時代の異教徒の間で普通に受け入れられていた結婚関係外の性的慣行,つまり売春や同性愛を含めた慣行を拒んだ」と述べています。
3 ですから,キリスト教世界の歴史と同世界の現代の道徳状態はイエス・キリストの教えを本当に反映しているだろうかと問うのは妥当なことです。イエスとはどんな人でしたか。イエスは人間が神に一層近づくのを助けましたか。イエスはヘブライ人の預言の約束のメシアでしたか。これらの問いはこの章で考慮する疑問の幾つかです。
イエス ― その信用証明書となったのは何か
4 この研究では,キリスト教およびそのルーツと世界の幾つかの主要な宗教との間にはどんな明白な相違があることに注目してきましたか。
4 この本の初めのほうの章では,世界の主要な宗教のほとんどすべての中で神話が演じてきた顕著な役割を考察しました。しかし,前の章でユダヤ教の起源を取り上げた際,神話ではなく,まずアブラハムとその祖先や子孫に関する歴史的な事実から考察し始めました。同様に,キリスト教とその創始者イエスについても,神話ではなく,まず歴史的な一人物のことから考察してみましょう。―237ページの囲み記事をご覧ください。
5 (イ)イエスはご自分がアブラハムの約束の「胤」であることを証明するどんな信用証明書を3通持っておられましたか。(ロ)だれがクリスチャン・ギリシャ語聖書を書き記しましたか。
5 普通,新約聖書として知られるクリスチャン・ギリシャ語聖書(241ページの囲み記事をご覧ください)の最初の節には,「アブラハムの子,ダビデの子,イエス・キリストについての歴史の書」と記されています。(マタイ 1:1)これは,以前,ユダヤ人の収税人で,イエスの伝記を著わした,その直弟子マタイの述べた当てにならない主張ですか。いいえ,そうではありません。続く15節までの箇所には,ヤコブに至るまでのアブラハムの子孫の家系が明確に記されています。そのヤコブは,「マリアの夫ヨセフの父となり,このマリアから,キリストと呼ばれるイエスが生まれ」ました。ですから,イエスは実際,アブラハム,ユダ,およびダビデの子孫でしたし,そのような子孫として,創世記 3章15節の,またアブラハムの「胤」であることを示す信用証明書を3通持っておられました。―創世記 22:18; 49:10。歴代第一 17:11。
6,7 イエスの出生地にはなぜ重大な意義がありましたか。
6 メシアなる胤のもう一通の信用証明書となったのは,その出生地でした。イエスはどこで生まれましたか。マタイは,イエスが「王ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムで生まれた」と語っています。(マタイ 2:1)医師ルカの記述もこの事実を確証しており,イエスの将来の養父となる人について,「ヨセフも,ダビデの家また家族の一員であったので,ナザレの都市を出て,ガリラヤからユダヤに入り,ベツレヘムと呼ばれるダビデの都市に上った。約束どおり彼に嫁ぎ,今は身重になっていたマリアと共に登録をするためであった」と記されています。―ルカ 2:4,5。
7 イエスがナザレその他どこかの町ではなく,ベツレヘムで生まれるのは,どうして重要なことでしたか。それは,ヘブライ人の預言者ミカが西暦前8世紀に述べた次のような預言のゆえでした。「そして,ベツレヘム・エフラタ,ユダの幾千の中に入るには小さすぎる者よ,イスラエルにおいて支配者となる者があなたの中からわたしのために出る。その者の起こりは遠い昔から,定めのない昔の日からである」。(ミカ 5:2)ですから,イエスはご自分の出生地により,ご自身が約束の胤,ならびにメシアであることを示す,もう一通の信用証明書をお持ちでした。―ヨハネ 7:42。
8 イエスが成就なさった預言を幾つか挙げてください。
8 事実,イエスはヘブライ語聖書のさらに多くの預言を成就し,ご自分が約束のメシアであることを示す信用証明書をすべて持っていたことを証明なさいました。読者も聖書のそれらの預言の幾つかを調べることができます。(245ページの囲み記事をご覧ください。)b しかし,今,イエスの音信と宣教について簡単に検討してみましょう。
イエスの生活はその道を指し示す
9 (イ)イエスは公の宣教をどのように開始されましたか。(ロ)イエスが神の是認を得られたことはどうして分かりますか。
9 聖書の記述によれば,イエスは地元の会堂やエルサレムの神殿での集まりに出席したりして,当時のユダヤ人の普通の若者と同じように育てられました。(ルカ 2:41-52)彼は30歳になった時,公の宣教を開始されました。まず,ヨルダン川で悔い改めの象徴としてのバプテスマをユダヤ人に施していた,いとこのヨハネのもとに行きました。ルカの記述はこう告げています。「さて,民が皆バプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった。そして,祈っておられると,天が開け,聖霊がはとのような形をとって彼の上に下り,また天から声があった。『あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した』」― ルカ 3:21-23。ヨハネ 1:32-34。
10,11 (イ)イエスが宣べ伝えたり教えたりする際に用いられた方法の特徴を幾つか挙げてください。(ロ)イエスはみ父の名の重要性をどのように示されましたか。
10 やがて,イエスは神の油そそがれたみ子として宣教に着手されました。そして,ガリラヤやユダヤの至る所へ行って,神の王国の音信を宣べ伝えると共に,病人をいやしたりして数々の奇跡を行なわれました。しかし,報酬を受けたり,富や権力拡大を求めたりはなさいませんでした。実際,受けるよりも与えるほうが幸福であると言われました。また,宣べ伝える方法をご自分の弟子たちに教えられました。―マタイ 8:20; 10:7-13。使徒 20:35。
11 イエスの音信とそれを伝える方法を分析してみると,そのやり方とキリスト教世界の説教師の多くのそれとは明らかに異なっていることが分かります。イエスは安っぽい感情表現や地獄の火などの脅迫手段で一般大衆を操ったりはなさいませんでした。それどころか,人の心や思いに訴えるため,分かりやすい論法や日常生活に基づく,たとえ話や例えを使われました。有名な山上の垂訓はイエスの教えや教え方を示す一つの顕著な実例です。その講話に含まれている模範的な祈りの中で,イエスは神のみ名を神聖なものにすることを第一にして,クリスチャンが優先させるべき事柄の順位を明らかにしておられます。(258,259ページの囲み記事をご覧ください。)― マタイ 5:1-7:29; 13:3-53。ルカ 6:17-49。
12 (イ)イエスはご自分の教えや行動でどのように愛を表わされましたか。(ロ)クリスチャンの愛が本当に実践されたなら,世界はどのように異なった所となるでしょうか。
12 イエスはご自分の追随者や一般大衆を扱う際,愛や同情心を表わされました。(マルコ 6:30-34)そして,神の王国の音信を宣べ伝える際にも,愛と謙遜さを個人的に実際に示されました。ですから,ご自分の生涯の最後の何時間かの間に,弟子たちに次のように言うことがおできになりました。「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:34,35)ゆえに,実際問題としてキリスト教の真髄は,原則に基づく自己犠牲的な愛です。(マタイ 22:37-40)これは,実際上,クリスチャンは自分の敵の悪い業は憎みますが,そのような敵をも愛すべきであるということを意味しています。(ルカ 6:27-31)ちょっと次のことを考えてみてください。もし,すべての人がそのような種類の愛を本当に実践したなら,この世界は何と異なった場所になることでしょう。―ローマ 12:17-21; 13:8-10。
13 イエスの教えはどんな点で孔子や老子や仏陀のそれと異なっていましたか。
13 しかし,イエスの教えた事柄は,孔子や老子の教えた事柄のような倫理,もしくは哲学よりもはるかに勝っていました。その上,イエスは仏陀のように,人は知識や悟りの道によって自己の救いを達成できるなどとは教えませんでした。それどころか,神を救いの源として指し示して,「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を裁くためではなく,世が彼を通して救われるためなのです」と言われました。―ヨハネ 3:16,17。
14 イエスはどうして,「わたしは道であり,真理であり,命です」と言うことがおできになったのでしょうか。
14 イエスはご自分の言葉や行ないの中でみ父の愛を表わすことにより,人々を神に一層引き寄せられました。これは,イエスが次のように言うことがおできになった一つの理由でした。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません。……わたしを見た者は,父をも見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。わたしが父と結びついており,父がわたしと結びついておられることを,あなたは信じていないのですか。わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのです。……わたしは去って行き,そしてまたあなた方のもとに戻って来る,とわたしが言ったのを,あなた方は聞きました。もしわたしを愛するなら,わたしが父のもとに行こうとしていることを歓ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです」。(ヨハネ 14:6-28)確かに,イエスは「道であり,真理であり,命」でした。なぜなら,当時のユダヤ人をご自分のみ父,つまり彼らのまことの神エホバに帰るよう導いておられたからです。ですから,イエスが来られると共に,神を探求する人類の歩みに突如はずみが付けられました。なぜなら,神が最高の愛を示して,人間を父なるご自分に導くため,イエスを光と真理の信号として地に遣わされたからです。―ヨハネ 1:9-14; 6:44; 8:31,32。
15 (イ)神を見いだすには,何をしなければなりませんか。(ロ)この地上には神の愛を示すどんな証拠がありますか。
15 宣教者であったパウロは後日,イエスの宣教とその模範に基づいて,アテネのギリシャ人に次のように言うことができました。「そして,[神は]一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているからで(す)」。(使徒 17:26-28)そうです,もし神を探求しようと進んで努力するなら,人は神を見いだすことができます。(マタイ 7:7,8)神は無限なまでに変化に富んでいるように思える生物を支える地球を備えて,ご自身とご自分の愛とを明らかにされました。また,人が義にかなっているかどうかにかかわりなく,全人類の必要とするものを供給しておられます。神はまた,書き記されたみ言葉,聖書を人類に備えてくださいましたし,人を請け戻すための犠牲としてご自分のみ子を遣わされました。c その上,神はご自分に近づく道を見いだすのを助けるため,人々の必要とする助けを備えておられます。―マタイ 5:43-45。使徒 14:16,17。ローマ 3:23-26。
16,17 真のクリスチャンの愛はどのようにして明らかにされなければなりませんか。
16 もちろん,クリスチャンの愛は単なる言葉ではなく,もっと重要なこととして,行為によって明らかにされなければなりません。そのようなわけで,使徒パウロはこう書きました。「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません」― コリント第一 13:4-8。
17 イエスはまた,天の王国,つまり柔順な人類に対する神の支配についてふれ告げるのがどんなに重要なことかを明らかにされました。―マタイ 10:7。マルコ 13:10。
クリスチャンは皆,福音宣明者
18 (イ)イエスの山上の垂訓の中では,どんなことが強調されましたか。(ロ)クリスチャンには各々どんな責任がありますか。(ハ)イエスはご自分の弟子たちにどのように宣教の備えをさせましたか。彼らはどんな音信を宣べ伝えることになりましたか。
18 イエスは山上の垂訓の中で群衆に対して,自分の言葉と行動によって他の人々に光を照らす責任があることを強調し,次のように言われました。「あなた方は世の光です。都市が山の上にあれば,それは隠されることがありません。人はともしびをともすと,それを量りかごの下ではなく,燭台の上に据え,それは家の中にいるすべての人の上に輝くのです。同じように,あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々があなた方のりっぱな業を見て,天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい」。(マタイ 5:14-16)イエスはご自分の弟子たちが巡歴する奉仕者として旅をする際,宣べ伝えたり教えたりする仕方を知っておくようにするため,彼らを訓練されました。それに,どんな音信を伝えることになりましたか。イエスご自身が宣べ伝えた音信,つまり義をもって地を支配する,神の王国の音信でした。それは,イエスがある時,「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」と説明されたとおりです。(ルカ 4:43; 8:1; 10:1-12)イエスはまた,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と述べて,これが終わりの日を見分けるのに役立つしるしの一部であることを指摘されました。―マタイ 24:3-14。
19,20 (イ)真のキリスト教は常に,宣べ伝える業を伴う,活発な宗教として存在してきましたが,それはなぜですか。(ロ)ここで,どんな基本的な疑問に答えなければなりませんか。
19 西暦33年,復活させられたイエスは最後に昇天する前に,弟子たちにこうお命じになりました。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。(マタイ 28:18-20)キリスト教が実に当初から,神話に根ざしたギリシャやローマの当時の支配的な宗教の信奉者を怒らせたり嫉妬させたりした,改宗を図る,活発な宗教であった理由の一つはここにあります。エフェソスでパウロが受けた迫害は,その事実をはっきりと示した良い例です。―使徒 19:23-41。
20 ここで,次のような疑問が生じます。神の王国の音信は死者に関して何を提供しましたか。キリストは死者のためのどんな希望を宣べ伝えましたか。ご自分の信者たちの“不滅の魂”のために“地獄の火”からの救いの道を差し伸べておられましたか。それとも,何を説かれましたか。―マタイ 4:17。
永遠の命の希望
21,22 (イ)イエスは死んだラザロの状態を何に例えられましたか。(ロ)マルタは亡くなった兄弟のためにどんな希望を抱いていましたか。
21 イエスの友ラザロが死んだ時,イエスが言ったり行なったりされたことを考慮すると,イエスの宣べ伝えた希望に対する恐らく最も明快な洞察が得られるでしょう。その死をイエスはどのようにみなされましたか。ラザロの家に向かって出かける際,イエスは弟子たちに,「わたしたちの友ラザロは休んでいますが,わたしは彼を眠りから覚ましにそこへ行きます」と言われました。(ヨハネ 11:11)イエスはラザロの死んだ状態を眠りに例えられました。熟睡すると,人は何も意識しません。このことは,伝道の書 9章5節の『生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もない』というヘブライ語の表現と合致します。
22 ラザロは死んで四日たっていましたが,ラザロの魂が天,地獄,もしくは煉獄にいるということについてイエスが一言も言われなかったのは,実に注目すべきことです。ベタニヤに着いたイエスをラザロの姉妹マルタが出迎えた時,イエスは彼女に,「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。彼女はどのように答えましたか。ラザロはすでに天にいると言いましたか。マルタは,「彼が終わりの日の復活の際によみがえることは知っております」と答えました。これは明らかに,復活,つまりこの地上で生き返ることが当時のユダヤ人の希望だったことを示しています。―ヨハネ 11:23,24,38,39。
23 イエスはどんな奇跡を行なわれましたか。それを見た人たちはどんな影響を受けましたか。
23 イエスはこうお答えになりました。「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです。そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか」。(ヨハネ 11:25,26)その要点を証明するため,イエスはラザロの遺体が納められていた洞くつに行き,その姉妹のマリアやマルタ,および隣人たちの見ている所で,生きて出て来るよう,ラザロをお呼びになりました。その記述はこう続いています。「それゆえ,マリアのところに来ていて,イエスの行なったことを見たユダヤ人の中の多くの者が彼に信仰を持った。……それで,イエスがラザロを記念の墓から呼び出して死人の中からよみがえらせた時に一緒にいた群衆は,証しをしつづけた」。(ヨハネ 11:45; 12:17)彼らは自らその奇跡を見たので,それが現実に起きたことを信じて,そのことについて証言しました。イエスの宗教上の反対者たちもその出来事を信じていたに違いありません。というのは,その記録によれば,祭司長やパリサイ人たちは,「この人が多くのしるしを行なう」ので,イエスを殺そうとたくらんだからです。―ヨハネ 11:30-53。
24 (イ)ラザロは四日間どこにいましたか。(ロ)聖書は不滅性について何と述べていますか。
24 ラザロは死んでいた四日間,どこへ行きましたか。どこにも行きませんでした。墓の中で無意識で,眠って,復活を待っていました。イエスは彼を奇跡的に死人の中からよみがえらせて祝福されました。しかし,ヨハネの記述によれば,ラザロはその四日間,天,地獄,もしくは煉獄にいたことについては何も言いませんでした。なぜですか。なぜなら,そのような場所に旅することができるような不滅の魂など持っていなかったからにすぎません。d ―ヨブ 36:14。エゼキエル 18:4。
25 (イ)聖書が永遠の命について述べる場合,何を指してそう述べていますか。(ロ)約束された神の王国の到来は何にかかっていますか。
25 ですから,永遠の命について語ったイエスは,ご自分の王国で共に治める不滅の霊の共同支配者に変えられて天で受ける命か,その王国の支配権eのもとで楽園<パラダイス>となる地上で人間として受ける永遠の命のいずれかを指しておられました。(ルカ 23:43。ヨハネ 17:3)神の約束によれば,神は比喩的な仕方で従順な人類と共に地上で住むことにより,この地球には豊かな祝福がもたらされます。もちろん,このすべては,イエスが実際に遣わされて,神によって是認されるかどうかにかかっています。―ルカ 22:28-30。テトス 1:1,2。啓示 21:1-4。
神からの是認 ― 現実に起きたことで,神話ではない
26 弟子ペテロ,ヤコブ,およびヨハネのいるところで,どんな驚くべき事柄が起きましたか。
26 イエスは神の是認をお受けになりましたが,どうしてそれが分かりますか。まず第一に,イエスがバプテスマをお受けになった時,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」という声が天から聞こえてきました。(マタイ 3:17)後日,そのように是認されたことを示す証拠となるものが,他の証人たちの前で与えられました。元,ガリラヤ出身の漁師だった弟子,ペテロ,ヤコブ,およびヨハネはイエスに伴って,ある高い山(多分,標高2,814㍍のヘルモン山)に行きました。すると,そこで,次のような驚くべき事柄が弟子たちの眼前で起きました。「そして[イエスは]彼らの前で変ぼうされ,その顔は太陽のように輝き,その外衣は光のようにまばゆくなった。そして,見よ,モーセとエリヤが彼らに現われ,イエスと語り合っていた。……見よ,明るい雲が彼らを影で覆った。そして,見よ,その雲の中から声があって,『これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい』と言った。これを聞くと,弟子たちはうつ伏して非常に恐れた」― マタイ 17:1-6。ルカ 9:28-36。
27 (イ)その変ぼうは弟子たちにどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)イエスは神話上の人物ではありませんでしたが,どうしてそれが分かりますか。
27 見聞きできる仕方で神からもたらされた,このような証拠は,ペテロの信仰を非常に強めるものとなったので,彼は後に次のように書きました。「そうです,わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなた方に知らせたのは,巧みに考え出された作り話[ギリシャ語,ミュトイス,神話]によったのではなく,その荘厳さの目撃証人となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたし自らこの者を是認した』という言葉が荘厳な栄光によってもたらされた時,イエスは父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼と共に聖なる山にいた時,この言葉が天からもたらされるのを聞きました」。(ペテロ第二 1:16-18)ユダヤ人の弟子であったペテロ,ヤコブ,およびヨハネは実際にイエスの変ぼうの奇跡を見,天からの神の是認の声を聞きました。彼らの信仰は,神話でも,“ユダヤ人のぐう話”でもなく,自分たちの見聞きした事実に基づいていました。(237ページの囲み記事をご覧ください。)― マタイ 17:9。テトス 1:13,14。f
イエスの死ともう一つの奇跡
28 西暦33年にイエスはどのように偽って告発されましたか。
28 西暦33年にイエスは捕縛され,ユダヤ人の宗教上の権威者たちによって審理され,自らを神のみ子と呼んで冒とくしたとして偽って告発されました。(マタイ 26:3,4,59-67)それらのユダヤ人はローマの世俗の当局者がイエスを処刑するほうがよいと考えたようで,彼をピラトのもとに送り,この度はカエサルに対する税の支払いを禁じたり,自分が王であると言ったりしたとして,またもや偽って彼を告発しました。―マルコ 12:14-17。ルカ 23:1-11。ヨハネ 18:28-31。
29 イエスはどのようにして死なれましたか。
29 イエスは支配者たちのもとに次々に回された後,ローマ総督ポンテオ・ピラトは宗教的感情に駆り立てられた暴徒の執ようさに屈して最も安易な方法を取り,イエスに死刑を宣告しました。その結果,イエスは杭に付けられて恥辱の死を遂げ,その遺体は墓に納められました。しかし三日もたたないうちに,ある出来事が起こり,そのためにそれまで悲しみに暮れていたイエスの弟子たちは,喜びにあふれた信者,そして熱心な福音宣明者に一変しました。―ヨハネ 19:16-22。ガラテア 3:13。
30 宗教指導者たちは人をだます企てを阻止するため,どんな処置を講じましたか。
30 イエスの追随者たちが策略を講ずるのではなかろうかと考えた宗教指導者たちは,ピラトのもとに行って,次のように要請しました。「『閣下,わたしどもは,あのかたり者が,まだ生きていた時分に,「三日後にわたしはよみがえらされる」と言ったのを思い出しました。それで,三日目まで墓の守りを固めるように命令してください。弟子たちがやって来て彼を盗み出し,「彼は死人の中からよみがえらされたのだ!」などと民に言いふらすようなことのないためです。この最後のかたりは,最初のものより悪い結果になってしまうでしょう』。ピラトは言った,『あなた方には警備隊がある。行って,あなた方の知る限りの方法で守り固めるがよい』。それで彼らは出かけて行き,石に封印をし,また警備隊を置いて墓の守りを固めた」。(マタイ 27:62-66)墓はどれほどしっかり守り固められていましたか。
31 忠実な婦人たちがイエスの墓に行った時,何が起きましたか。
31 イエスの死後,三日目のこと,3人の婦人が遺体に香油を塗るため,その墓に行きました。彼女たちは何を知りましたか。こう記されています。「そして,週の最初の日の朝とても早く,記念の墓に来た。その時,太陽はすでに昇っていた。そして彼女たちは,『記念の墓の戸口から,だれがわたしたちのために石を転がしのけてくれるでしょうか』と言い合っていた。ところが,見上げると,その石は,非常に大きなものであったのに,すでに転がしのけてあったのである。記念の墓の中に入ると,ひとりの若者が白の長い衣をまとって右側に座っているのが見え,彼女たちはぼう然とした。その者は彼女たちに言った,『ぼう然とすることはありません。あなた方は,杭につけられたナザレ人のイエスを捜しています。彼はよみがえらされました。ここにはいません。見なさい,彼を横たえた場所です。しかし,行って,弟子たちとペテロに,「彼はあなた方に先立ってガリラヤに行きます。彼が話したとおり,あなた方はそこで彼を見るでしょう」と言いなさい』」。(マルコ 16:1-7。ルカ 24:1-12)宗教指導者たちが特別の警備隊を置いたにもかかわらず,イエスはみ父により復活させられていたのです。これは神話,それとも歴史的な事実ですか。
32 どんな確かな理由があったので,パウロはイエスが復活させられたことを信じましたか。
32 この出来事から約22年後,クリスチャンの以前の迫害者だったパウロは,キリストが復活させられたことを信ずるようになったいきさつについて書き,次のように説明しました。「というのは,わたしは,最初の事柄の中で,次のことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,さらに,ケファに現われ,次いで十二人に現われたことです。そののち彼は一度に五百人以上の兄弟に現われました。その多くは現在なおとどまっていますが,死の眠りについた人たちもいます。そののち彼はヤコブに,次いですべての使徒たちに現われました」。(コリント第一 15:3-7)そうです,パウロには復活させられたイエスのために自分の命をかけるだけの事実に基づく根拠がありましたし,その根拠には復活させられたイエスをじかに見た,およそ500人の目撃証人の証言も含まれていました。(ローマ 1:1-4)パウロはイエスが復活させられたことを知っていましたし,またそのように述べるだけのもっと強力な理由さえありました。それは,さらにこう説明しているとおりです。「しかし,すべての者の最後として,あたかも月足らずで生まれた者に対するかのように,わたしにも現われてくださいました」― コリント第一 15:8,9。使徒 9:1-19。
33 初期クリスチャンはどうして自分たちの信仰のために進んで殉教者になれましたか。
33 初期クリスチャンは古代ローマの闘技場で進んで殉教の死を遂げました。それはなぜですか。なぜなら,自分たちの信仰が神話ではなく,歴史的な現実の事柄に基づいていることを知っていたからです。イエスは預言の中で約束されていたキリスト,もしくはメシアであり,また神により地に遣わされて,神の是認を得,忠誠を保つ神のみ子として杭の上で死なれ,死人の中から復活させられたことは,現実の事柄でした。―ペテロ第一 1:3,4。
34 使徒パウロによれば,イエスの復活がクリスチャンの信仰にとってそれほど肝要なのはなぜですか。
34 その復活についてパウロが何を信じていたか,またそれがクリスチャンの信仰にとってなぜ肝要かを理解するために,コリント人にあてたパウロの第一の手紙の15章全体をお読みになるようお勧めいたします。その音信の真髄は次のような言葉の中に表わされています。「しかしながら,今やキリストは死人の中からよみがえらされ,死の眠りについている者たちの初穂となられたのです。死がひとりの人[アダム]を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」― コリント第一 15:20-22。
35 神は地球と人類のためにどんな祝福を約束しておられますか。(イザヤ 65:17-25)
35 ですから,キリスト・イエスの復活には,やがて全人類に益をもたらす,一つの目的があります。g その復活により,イエスがやがてメシアに関する残りの預言を成就する道が開かれました。目に見えない天からなされる,イエスの義にかなった支配は間もなく,清められた地に及ぼされるに違いありません。その時には,聖書で「新しい天と新しい地」として描写されているものが存在しており,神はそこで,「彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」という言葉のとおりになるでしょう。―啓示 21:1-4。
背教と迫害は予期されていた
36 西暦33年のペンテコステの際,何が起きましたか。どんな結果になりましたか。
36 イエスの死と復活の後,間もなく,それら初期クリスチャンの宣べ伝える業に力とはずみを加えるものとなった,もう一つの奇跡が起きました。西暦33年のペンテコステの日に,神はエルサレムで集まっていたおよそ120人のクリスチャンにご自分の聖霊,つまり活動する力を天から注がれました。その結果ですか。「そして,さながら火のような舌が彼らに見えるようになってあちらこちらに配られ,彼ら各々の上に一つずつとどまり,彼らはみな聖霊に満たされ,霊が語らせるままに異なった国語で話し始めた」のです。(使徒 2:3,4)その時,エルサレムにいた,外国語を話すユダヤ人は,それら無知な人々とされていたガリラヤのユダヤ人が外国の言葉で話すのを聞いて驚嘆しました。その結果,多くの人々が信じました。それらユダヤ人の新たな信者が故郷に戻るにつれて,キリスト教の音信は野火のように広まりました。―使徒 2:5-21。
37 あるローマの支配者たちは新しいキリスト教に対してどのように反応しましたか。
37 しかし,ほどなく不穏な形勢が現われました。ローマ人は一見無神論のように思える,偶像のない,この新たな宗教を恐れるようになりました。皇帝ネロを皮切りに,歴代の皇帝は西暦初頭の3世紀の間,クリスチャンに恐ろしい迫害を加えました。h 囚人が野獣に投げ与えられるのを見ようと群がる,血に飢えた暴徒や皇帝の欲望を満足させるため,多くのクリスチャンは大円形演技場で死ぬ定めに追いやられました。
38 初期クリスチャンの会衆を当惑させるどんな状態が預言されていましたか。
38 初期の当時のもう一つの憂慮すべき要素は,使徒たちが預言していた事柄でした。例えば,ペテロはこう述べました。「しかしながら,民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです」。(ペテロ第二 2:1-3)背教です! それは真の崇拝からの離脱,つまりギリシャの哲学や思想の浸透した当時のローマ世界の宗教的な傾向と妥協することでした。それはどのようにして生じましたか。この疑問やこれに関連した種々の疑問に対する答えは次の章で考慮されます。―使徒 20:30。テモテ第二 2:16-18。テサロニケ第二 2:3。
[脚注]
a ここで使われている“キリスト教世界”という言葉は,キリスト教を奉じていると主張する宗教諸団体により支配されている宗派的活動領域を指しており,“キリスト教”という言葉は,イエス・キリストにより教えられた,神を崇拝し,神に近づく方法の原初の形態を指しています。
b ニューヨークの法人 ものみの塔聖書冊子協会が1988年に発行した,「聖書に対する洞察」の第2巻,385-389ページ(英文)の「メシア」の項もご覧ください。
c 贖いとその重要性に関する聖書の教えは,15章で明確に述べられています。
d 「不滅の魂」という表現は聖書のどこにも出て来ません。「不滅」,または「不滅性」と訳されているギリシャ語は3回だけ出て来ますが,いずれも着ける,もしくは取得する,新しい霊の体を指しており,もって生まれたものではありません。それはキリストと,天の王国でキリストと共に共同支配者となる油そそがれたクリスチャンとに当てはまります。―コリント第一 15:53,54。テモテ第一 6:16。ローマ 8:17。エフェソス 3:6。啓示 7:4; 14:1-5。
e この王国の支配権についてもっと詳しく考慮したい方は,15章をご覧ください。
f 幻の中の「モーセ」と「エリヤ」は,イエスのうちに成就した“律法と預言者たち”を象徴していました。変ぼうについてもっと詳しく知りたい方は,1988年発行,「聖書に対する洞察」の第2巻,1120,1121ページ(英文)をご覧ください。
g イエスの復活について詳しく考慮したい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1989年に出版した,「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」と題する本の78-86ページをご覧ください。
h ローマ人の伝記作者スエトニウス(西暦69年ごろ-140年)は,ネロの治世中,「新しい有害な宗教的信条を奉ずる一派であるクリスチャンに……処罰が課せられた」と記録しています。
[237ページの囲み記事/図版]
イエスは神話上の人物でしたか
「キリスト教の創始者の生涯の物語は,人間の悲しみや想像や希望の産物 ― クリシュナ,オシリス,アッティス,アドニス,ディオニュソス,およびミトラなどの伝説に比べられるような神話であろうか」と,歴史家ウィル・デュラントは問いかけて,キリストがかつて実在したという事実を否定するようなことは,「極めて辛らつな異邦人,もしくは草創期のキリスト教の敵対者であったユダヤ人の中でも起きなかったようである」と答えています。―「文明物語: 第3部 ― カエサルとキリスト」。
ローマ人の歴史家スエトニウス(西暦69年ごろ-140年)は自分の著わした史書,「十二皇帝伝」の中で皇帝クラウディウスに関し,「ローマのユダヤ人がクレスツス[キリスト]に唆されて,絶えず騒動を引き起こしたため,皇帝は同市から彼らを追放した」と述べました。これは西暦52年ごろに起きました。(使徒 18:1,2と比較してください。)スエトニウスがキリストの存在に関する疑問を何も表明していないことに注目してください。初期クリスチャンは,事実に即したそのような根拠に基づき,命を危うくする迫害にもめげず,自分たちの信仰について非常に活発に告げ知らせました。神話に基づいて命の危険を冒したとはまず考えられないでしょう。イエスの死と復活は彼らの生涯中に生じており,その一部の人々はそれらの出来事の目撃証人となっていたのです。
歴史家デュラントは次のように結論しています。「二,三人の無学な人々が一世代のうちに,これほど強力で魅力的な人物,これほど高潔な倫理的価値体系,およびこれほど人を鼓舞する人類の兄弟関係に関する見解を考え出すということは,福音書の中のどんな記述よりもはるかに信じ難い奇跡であろう」。
[図版]
イエスは古代パレスチナのこのガリラヤ地方で宣べ伝えて,数々の奇跡を行なわれました
[241ページの囲み記事/図版]
だれが聖書を書きましたか
クリスチャンの聖書は,多くの人々が旧約聖書と呼ぶヘブライ語聖書の39冊の書(220ページの囲み記事をご覧ください)と,多くの場合,新約聖書と呼ばれるクリスチャン・ギリシャ語聖書の27冊の書で成り立っています。i ですから,聖書は,1,600年もの歴史の流れの中で(西暦前1513年から西暦98年まで),およそ40人の人々により書き記された66冊の書でできた小型の書庫です。
ギリシャ語聖書には4冊の福音書,つまりイエスの生涯とイエスの宣べ伝えた良いたよりに関する記述が含まれています。そのうちの2冊の書はキリストと直接交わった追随者,収税人マタイおよび漁師ヨハネにより,また他の2冊は初期の信者,マルコおよび医師ルカにより,それぞれ書き記されました。(コロサイ 4:14)これらの福音書の次に来るのは「使徒たちの活動」の書,つまりルカの編さんした初期クリスチャンの宣教者の活動に関する記述です。次に,個々の様々なクリスチャンや諸会衆あての使徒パウロの14通の手紙があり,さらにヤコブ,ペテロ,ヨハネ,およびユダの手紙が収められています。巻末には,ヨハネの記した「啓示」の書があります。
多種多様な背景を持ち,また時代や文化を異にして生活した,それほど多くの人々が,これほど調和した書物を作り出し得たということは,聖書が単なる人知の所産ではなく,神の霊感による書であることを示す強力な証拠です。聖書それ自体,『聖書全体は神の霊感を受けた[字義,「神が息を吹き込んだ」]もので,教えるのに有益です』と述べています。ですから,聖書は神の聖霊,もしくは活動する力の影響を受けて書き記されたものなのです。―テモテ第二 3:16,17,行間訳。
[図版]
ポンテオ・ピラトの名(第二列,“IVS PILATVS”)がラテン語で刻まれた,この古代ローマの不完全な碑文は,聖書の述べるとおり,彼がパレスチナの有力な人物であったことを確証しています
[脚注]
i カトリックの聖書には,ユダヤ人やプロテスタントの教会員からは正典とみなされない外典を構成する,幾つかの付加的な書が含まれています。
[245ページの囲み記事]
聖書預言の中のメシア
預言 出来事 成就
創世記 49:10 ユダの部族に生まれる マタイ 1:2-16。ルカ 3:23-33
ミカ 5:2 ベツレヘムで生まれる ルカ 2:4-11。ヨハネ 7:42
イザヤ 7:14 処女から生まれる マタイ 1:18-23。ルカ 1:30-35
ホセア 11:1 エジプトから呼び出される マタイ 2:15
イザヤ 61:1,2 任命される ルカ 4:18-21
イザヤ 53:4 わたしたちの病を担う マタイ 8:16,17
詩編 69:9 エホバの家に対して熱心である マタイ 21:12,13。
イザヤ 53:1 人に信じてもらえない ヨハネ 12:37,38。
詩編 41:9; 109:8 一人の使徒が彼を裏切る マタイ 26:47-50。
ゼカリヤ 11:12 銀30枚で裏切られる マタイ 26:15; 27:3-10。
イザヤ 53:8 審理され,有罪とされる マタイ 26:57-68;
イザヤ 53:7 訴える者たちの前で沈黙する マタイ 27:12-14。
詩編 69:4 いわれもなく憎まれる ルカ 23:13-25。
イザヤ 53:12 罪人たちと共に数えられる マタイ 26:55,56; 27:38。
詩編 69:21 酢と胆汁が与えられる マタイ 27:34,48。
詩編 22:1 神に見捨てられる マタイ 27:46。マルコ 15:34
イザヤ 53:9 富んだ人と共に葬られる マタイ 27:57-60。
[258,259ページの囲み記事/図版]
イエスと神のみ名
イエスは弟子たちに祈り方を教えて,こう言われました。「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」― マタイ 6:9,10。
イエスはみ父の名の極めて重要な意味を知っておられ,そのみ名を重視されました。ですから,宗教上の敵に対して次のように言われました。「わたしが父の名において来ているのに,あなた方はわたしを迎えません。だれかほかの者が自らの名において到来すれば,あなた方はその者を迎えるでしょう。……わたしはあなた方に言いましたが,あなた方は信じません。わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします」― ヨハネ 5:43; 10:25。マルコ 12:29,30。
イエスはみ父への祈りの中でこう言われました。「『父よ,み名の栄光をお示しください』。すると,天から声があった,『わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す』」。
その後,ある時,イエスは次のように祈られました。「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみ言葉を守り行ないました。……そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」― ヨハネ 12:28; 17:6,26。
ユダヤ人だったイエスはみ父のエホバ,もしくはヤハウェという名のことをよく知っておられたはずです。というのは,次のような聖句をご存じだったからです。「『あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。……それで,あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『そして,わたしは神である』」― イザヤ 43:10,12。
ですから,ユダヤ人は一国民としてエホバの証人になるよう選ばれました。ユダヤ人であったイエスもやはりエホバの証人でした。―啓示 3:14。
1世紀までに,大方のユダヤ人は明らかにされた神のみ名をもはや発音しなくなったようです。しかし,ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳を使っていた初期のクリスチャンは,ギリシャ語本文に使われていたヘブライ語の四文字語<テトラグラマトン>を見ることができたということを証明する写本があります。それは,宗教およびヘブライ語の教授ジョージ・ハワードが次のように述べているとおりです。「教会が使用したり引用したりしたセプトゥアギンタ訳に神の名のヘブライ語形が含まれていた時,新約聖書の筆者たちは引用箇所に四文字語<テトラグラマトン>を含めたに違いない。しかし,セプトゥアギンタ訳の中で神の名のヘブライ語形が[後に]除去され,ギリシャ語の代用語が好まれるようになると,その名は新約聖書中のセプトゥアギンタ訳の引用箇所からも除去された」。
ですから,1世紀のクリスチャンはイエスがご自分の敵に対してヘブライ語聖書を引用なさったマタイ 22章44節のような聖句の意味をはっきりと理解していたに違いないとハワード教授は論じています。ハワードはこう述べています。「1世紀の教会は,『主はわたしの主に言われた』……という,不正確であるばかりか,あいまいな,後代の訳の読み方ではなく,多分,『ヤハウェはわたしの主に言われた』という読み方をしたであろう」。―詩編 110:1。
イエスが神の名を使われたことは,その死後,何世紀かたってから,もしイエスが奇跡を行なったとすれば,それは「彼が神の“秘密”のみ名を自由に使いこなしたからにほかならない」として非難したユダヤ人の言葉により証明されています。―「ユダヤ人の知識の書」。
イエスは確かに神の特異なみ名をご存じでした。ですから,当時のユダヤ人の伝統をものともせずに,確かにみ名を使っておられたに違いありません。イエスは人間の伝統によって神の律法が左右されるようなことを許されませんでした。―マルコ 7:9-13。ヨハネ 1:1-3,18。コロサイ 1:15,16。
[図版]
ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の聖句の中にヘブライ語の神のみ名が記されていることを示すパピルス写本の断片(西暦前1世紀)
[238ページの図版]
イエスは人々を教える際,中でも,種まき,収穫,漁,真珠を捜すこと,まじった羊,ぶどう園などの様々な例えをお用いになりました(マタイ 13:3-47; 25:32)
[243ページの図版]
イエスは神の力によって,あらしを静めることを含め,数多くの奇跡を行なわれました
[246ページの図版]
四文字語<テトラグラマトン>,つまり英語の四子音文字,YHWH(Jehovah,エホバ)
[251ページの図版]
ラザロが生き返らされたことに関する記述は,彼が不滅の魂を持っていたことを指摘していませんし,示唆してさえいません
[253ページの図版]
ペテロ,ヤコブ,およびヨハネは,神がイエスを是認されたことが神話ではないことを知っていました。彼らは変ぼうの際に,そのことを見聞きしました