イエスと弟子たちはエリコを出てベタニヤに着き,そこに3泊します。そして,ニサン10日の月曜日の早朝にエルサレムに向かいます。イエスは空腹だったので,イチジクの木を見つけて近寄ります。実はあったでしょうか。
今は3月の終わりごろで,イチジクが実を付けるのは6月以降です。でも,この木は普通よりも早く葉を付けています。ですからイエスは,季節外れの食べ頃の実がなっているのではないかと思います。しかし,期待は外れました。葉が出ていたので実はあるはずなのに,一つもなかったのです。それでイエスは,「もう二度と実がならないように」と言います。(マルコ 11:14)すると,イチジクの木はすぐに枯れ始めます。その意味は次の日の朝に明らかになります。
しばらくして,イエスと弟子たちはエルサレムに到着します。イエスは前の日の午後,神殿をあちこち見て回りましたが,今度はそれだけでは終わりません。3年前の西暦30年の過ぎ越しの時と同じような行動を取ったのです。(ヨハネ 2:14-16)「神殿で売り買いしている人たち」を追い出し,「両替屋の台と,ハトを売る人の腰掛けを倒」します。(マルコ 11:15)物を運ぶために近道して神殿の中庭を通ることも,許しません。
神殿で両替したり売り買いしたりしている人たちにイエスがこれほどの行動を取ったのはなぜですか。イエスは言います。「『私の家は全ての国の人々のための祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに,あなた方はそれを強盗の洞窟としました」。(マルコ 11:17)イエスは彼らを強盗と呼びました。彼らが,犠牲用の動物を買う必要のある人たちに途方もなく高額の料金を請求していたからです。イエスはそういうやり方を,ゆすりや強盗と考えています。
祭司長,律法学者,民の主立った人たちは,イエスが行ったことを聞いて,イエスを殺す決意をますます固めます。しかし,1つ問題がありました。どうしたらイエスを殺せるか,その方法が分かりません。イエスの周りには,話を聞こうとして人だかりができているからです。
過ぎ越しの祭りには,ユダヤ人だけでなく改宗者,つまりユダヤ教の信者になった人たちもやって来ます。その中にはギリシャ人たちもいて,フィリポを通してイエスに面会を申し込みます。フィリポというギリシャ名が気に入ったのかもしれません。しかしフィリポは,彼らをイエスに会わせてよいかどうか判断がつかなかったようです。それでアンデレに相談し,2人でイエスに知らせに行きます。イエスはまだ神殿にいるはずです。
イエスは自分が数日後に死ぬことを知っています。ですから,今は人々の好奇心を満足させたり人気集めをしたりする時ではありません。それでフィリポとアンデレに例えを使って,こう答えます。「人の子が栄光を受ける時が来ました。はっきり言っておきます。1粒の小麦は地面に落ちて死なない限り,ただ1粒のままです。しかし,死ぬなら,多くの実を結びます」。(ヨハネ 12:23,24)
1粒の小麦はわずかな価値しかないように見えます。それでも,種が土に落ちて「死ぬ」なら,芽を出して成長し,やがて多くの実を結びます。完全であったイエスも1人の人間ですが,神に忠実を保って死ぬなら,多くの人に命を与える経路となります。イエスのように進んで自分を差し出す人たちに,永遠の命を与えることができるのです。それでイエスはこう語ります。「自分の命に執着する人はそれを失いますが,この世で自分の命を惜しまない人は,それを保って永遠の命を得ます」。(ヨハネ 12:25)
イエスは自分のことだけを考えて話していたのではありません。こう言ったからです。「私に仕えようと思う人は,私の後に従いなさい。私がいる所にその人もいることになります。私に仕えようと思う人は,天の父に尊ばれます」。(ヨハネ 12:26)素晴らしい報いです。天の父に尊ばれる人は,王国でキリストの仲間となるのです。
イエスは,間もなく経験する大きな苦しみと死について考え,「今私の心は騒ぎます。何と言えばよいのでしょう。父よ,私をこの事態から救い出してください」と祈ります。でもイエスは,逃げたがっているのではありません。それで,「しかしやはり,私はまさにこのために来たのです」と言います。(ヨハネ 12:27)イエスは,神の目的全てに同意しており,自分が犠牲の死を遂げることも受け入れています。