4 会衆がきちんと世話されるためには,監督として任命される人たちが,神の言葉の中に示されている資格を満たしていなければなりません。そうであって初めて,聖なる力によって任命されたと言えます。(使徒 20:28)クリスチャンの監督は重い責任を担うので,聖書は監督について高い基準を定めています。とはいえ,エホバを本当に愛していて,エホバに用いていただきたいと思うクリスチャン男子にとって,高すぎる基準ではありません。監督たちは,聖書の助言を日々の生活に当てはめていることが誰の目にも明らかな人たちです。
会衆がきちんと世話されるためには,監督として任命される人たちが,神の言葉の中に示されている資格を満たしていなければならない。
5 使徒パウロは,テモテへの最初の手紙とテトスへの手紙の中で,監督が満たしているべき基本的な条件を挙げました。テモテ第一 3章1-7節にはこう記されています。「監督になろうと努めている人は,立派な仕事を望んでいます。ですから,監督は,とがめられるところがなく,1人の妻の夫で,節度をわきまえ,健全な考え方をし,秩序正しく行動し,人をよくもてなし,教える資格がなければなりません。また,酩酊せず,暴力を振るわず,分別があり,争いを好まず,お金を愛さず,家庭を立派に治め,子供をよくしつけて従わせているべきです。(自分の家庭を治められないのであれば,神の会衆を世話することなどできるでしょうか。)クリスチャンになって間もない人であってはなりません。思い上がって,悪魔と同じように断罪されるようなことにならないためです。さらに,会衆外の人からも良い評判を得ているべきです。人々から非難され,悪魔のわなに陥る,ということがないようにするためです」。
6 パウロはテトスに宛ててこう書きました。「私があなたをクレタに残したのは,私の指示通りに問題を正し,それぞれの町に長老たちを任命してもらうためです。任命される人は,非難されるところがなく,1人の妻の夫でなければなりません。その人の子供も信仰を持っているべきで,堕落しているとか反抗的だと非難されていてはなりません。監督は,神の家の管理人ですから,非難されるところがあってはならず,意地を張らず,すぐに怒らず,酩酊せず,暴力を振るわず,貪欲に不当な利益を得ようとすべきではありません。人をよくもてなし,善いことを愛し,健全な考え方をし,正しいことを行い,神に尽くし,自制心があり,神の信頼できる言葉にしっかり従った教え方をしなければなりません。そうすれば,健全な教えによって励ますことも,逆らう人を戒めることもできるでしょう」。(テト 1:5-9)
7 聖書の条件を満たして監督になるのは,一見とても無理そうに思えるかもしれません。しかし,クリスチャンの男子は,監督になろうと努めるのをためらうべきではありません。監督に求められている,クリスチャンの良い性質を表すなら,会衆の人たちも同じようにしたいと思うことでしょう。パウロによれば,「人々という贈り物」である監督たちは,「聖なる人たちを正し,奉仕し,キリストの体を力づけます。そのおかげで私たちは皆,信仰の一致と,神の子についての正確な知識の一致に達し,十分に成長した人となり,キリストの背丈に達するようになります」。(エフェ 4:8,12,13)
8 監督は,少年でも,クリスチャンになって間もない人でもありません。クリスチャンとして経験を積んでおり,聖書に関する広い知識と深い理解があり,会衆を本当に愛している人です。会衆の中に悪いことを行う人がいたら率直に話して正す勇気があり,人を食い物にする者たちから羊を守ります。(イザ 32:2)クリスチャンとして十分に成長していることが会衆内の誰の目にも明らかで,神の羊の群れを心から気遣います。
9 監督の資格がある人の生活には,聖書に基づく知恵が表れています。妻がいるなら,その人は結婚に関するクリスチャンの基準をしっかり守っていて,1人の妻の夫であり,家庭を立派に治めているはずです。信仰を持つ子供がいる場合,その子がよくしつけられていて親に従っており,堕落しているとか反抗的だと非難されていないなら,会衆の人たちは親であるその監督を信頼し,家族やクリスチャンの生活に関してアドバイスを求めることができるでしょう。監督はまた,とがめられるところも非難されるところもなく,会衆外の人からも良い評判を得ている人です。ですから,不適切な行いを非難されて会衆の評判が損なわれる,ということはないはずです。重大な過ちのために最近戒めを受けた人はふさわしくありません。会衆の人たちは,監督の資格がある人の良い手本に倣うよう動かされ,クリスチャンの牧者としてその人に心から頼れると思うことでしょう。(コリ一 11:1; 16:15,16)
10 そのような資格ある男子は,イスラエルの「賢くて,思慮深く,経験のある」長老たちと同じような役割を担い,クリスチャン会衆に仕えることができます。(申 1:13)クリスチャンの長老は,全く罪がないというわけではありませんが,会衆内でも地域社会でも,神を畏れる正直な人として知られています。神が定めた原則に従って生活していることを,ある期間にわたって実証してきた人です。非難されるところがないので,会衆の前で気後れせずに語ることができます。(ロマ 3:23)
11 監督の資格がある人は,他の人との接し方や習慣の面で節度をわきまえていることを示します。物事に熱狂するような人ではなく,生活全般にバランスや自制が表れています。飲食,レクリエーション,趣味,エンターテインメントなどの面で節度をわきまえています。アルコール飲料を飲み過ぎることもないので,酩酊しているとか酔っぱらいだとか非難されたりはしません。酒類により感覚が鈍った人は,すぐに自制できなくなるので,牧者として会衆を見守ることはできません。
12 会衆を監督する人には,秩序正しく行動することが求められます。良い習慣を持っていることが,身なりや,家の様子や,日常の活動に表れているべきです。その人は物事をぐずぐずと遅らせたりせず,何が求められているかを理解して,それに応じた計画を立てます。そして,神が定めた原則にしっかり従います。
13 監督は分別がある人でなければなりません。会衆の他の長老たちと一致して働き,協力し合える人であるべきです。自分を過大評価したり,他の人を過度に厳しい目で見たりしません。分別がある監督は,自分の意見に固執せず,自分の見方の方が仲間の長老たちの見方よりも優れているとは考えません。ある性質や能力の面で他の人たちの方がずっと勝っていることもあります。長老は,物事を聖書に基づいて判断し,イエス・キリストの手本に倣うよう努めることによって,分別があることを示します。(フィリ 2:2-8)また,争いを好んだり暴力を振るったりせず,人に敬意を払い,自分より他の人の方が上だと考えます。意地を張らず,いつも自分のやり方や見方を押し通そうとはしません。すぐに怒らず,他の人との平和な関係を保つようにします。
14 さらに,会衆で監督として奉仕する資格がある人は,健全な考え方をします。つまり,良識があり,性急な判断を下しません。エホバの種々の原則と,その当てはめ方について,よく理解しています。健全な考え方をする人は,助言や指導を受け入れ,偽善的ではありません。
15 パウロがテトスに思い起こさせたように,監督は善いことを愛し,正しいことを行い,神に尽くしているべきです。そのことは,他の人との接し方や,正しくて善い事柄をしっかり行おうとする姿勢に表れます。エホバへの専心が揺らぐことはなく,常に正しい原則に従います。また,内密の事柄を漏らしません。心から人をよくもてなし,自分自身や持ち物を他の人のために惜しみなく差し出します。(使徒 20:33-35)
16 監督は,務めを十分に果たす上で,教える資格がなければなりません。テトスへのパウロの言葉によれば,「神の信頼できる言葉にしっかり従った教え方をしなければなりません。そうすれば,健全な教えによって励ますことも,逆らう人を戒めることもできる」からです。(テト 1:9)監督は,他の人が納得して信仰を強めることができるように,筋道立てて話し,証拠を示し,反論に答え,聖句を適用します。順調な時にも困難な時にもそのような教え方をします。(テモ二 4:2)また,辛抱強さも身に付けているので,正しくない考え方をしている人を温和な態度で戒めたり,疑念を持つ人を納得させて信仰に基づく良い行いを促したりできます。聴衆の前で,あるいは一対一で上手に教えることができる人は,監督に求められる重要な条件を満たしていると言えます。
17 長老が宣教を熱心に行うことは大切です。その点でもイエスに倣おうと努力していることが明らかであるべきです。イエスは,良い知らせを伝えることをいつも優先しました。また,弟子たちに関心を払い,福音伝道者としての務めを上手に果たせるよう助けました。(マル 1:38。ルカ 8:1)長老が忙しい中でも宣教に時間を費やすように努めるなら,会衆全体も同様の熱意を抱くようになります。また,自分の家族や会衆の人たちと一緒に伝道すれば,「励まし合う」ことができます。(ロマ 1:11,12)
18 以上の事柄からすると,監督として奉仕する人には非常に多くのことが求められているように思えるかもしれません。確かに,聖書に示されている高い基準を完全に満たせる人はいません。しかし,会衆の長老として任命される人は誰も,上記のいずれかの点で著しい不足があってそれが重大な欠点と見なされるようであってはなりません。何かの点で際立っている長老もいれば,別の面で優れている長老もいるでしょう。ですから,長老団は全体として,神の会衆を正しく監督するのに必要な良いものを全て持っていることになります。
19 長老団は,誰かを監督として推薦する際,使徒パウロの次の言葉を心に留めます。「皆さんに言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。各自が神から与えられた信仰に応じて,健全な考え方をしましょう」。(ロマ 12:3)各長老は,自分のことをより小さな者と考えるべきです。他の人の資格を検討する際,誰も「正しさにあまりにこだわっては」なりません。(伝 7:16)長老団は,聖書が示す監督の条件をよく考え,候補に挙がっている兄弟が妥当な範囲で基準を満たしているかどうか判断します。人間の不完全さを考慮に入れ,偏った見方や偽善を避け,エホバの正しい基準を重んじ,会衆のためになるように,推薦を行います。どの兄弟についても祈りつつ熟考し,神の聖なる力の導きに従います。これは長老たちが担う重い責任の1つであり,パウロが助言している通り「誰にも性急に手を置いてはなりません」。(テモ一 5:21,22)