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「暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけでなく,それ以上のことを行ないなさいものみの塔 1986 | 10月15日
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「暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけでなく,それ以上のことを行ないなさい
「あなた方のうちのだれかが[困窮している兄弟たちに],『安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい』と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それは何の益になりますか。……信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいるのです」― ヤコブ 2:15-17。
1 どんなことがあったため,ナイジェリアの一兄弟は困窮するようになりましたか。
レベキ・オクワラオカは1880年よりも前に生まれたとされているので,優に百歳は超えています。ナイジェリア人の両親のジュジュ(呪物の一種)を受け継いで,崇拝していたこの人は,80代になってからエホバの証人と聖書を研究し始め,自分が学んだ事柄を当てはめ,バプテスマを受けました。それで,この兄弟がエホバの証人になってからおよそ30年が過ぎました。つい最近のこと,大豪雨があった後に,会衆の長老たちがこの兄弟と72歳になる英国人の妻を訪問しました。二人は失意のどん底にありました。草ぶき屋根の小屋の床が水に浸されていたばかりか,住まいを備えたり修理を助けてくれたりする親族が一人もいなかったからです。あなたがその場にいたら,どうしたでしょうか。どんなことがあったかを明らかにする前に,聖書の助言を幾らか考慮してみましょう。
2 わたしたちが「りっぱな業」に関心を持つのはなぜですか。
2 キリスト・イエスは「わたしたちのためにご自身を与えてくださいましたが,それは,……ご自分が特別に所有する民,りっぱな業に熱心な民を,ご自身のために清めるためでした」。(テトス 2:14)この業は,命を救う,王国を宣べ伝えることを中心としています。(マルコ 13:10。啓示 7:9,10)しかし,クリスチャンの「りっぱな業」には,肝要な宣べ伝える業以上のものが含まれます。イエスの異父兄弟ヤコブはこう説明しているからです。「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 1:27。
3,4 テモテへの第一の手紙,3章から5章の部分を調べるとき,「りっぱな業」について何を学べますか。そのことからどんな質問が生じますか。
3 西暦1世紀の諸会衆は両方の種類の「りっぱな業」に携わっていました。使徒パウロはテモテへの第一の手紙の3章で,監督と奉仕の僕の資格を略述した後,『生ける神の会衆は真理の柱また支えなのです』と書きました。(テモテ第一 3:1-15)パウロは,そうした忠実な教えを守り続けるクリスチャンなら,自分と自分のことばを聴く人たちとを救うことができるという点を示しました。(テモテ第一 4:16)次にパウロは,「窮苦」にあった忠実なやもめを物質的な面で世話するという「りっぱな業」について論じました。―テモテ第一 5:3-5。
4 したがって,福音宣明の業に加えて,「孤児ややもめをその患難のときに世話する」といった「りっぱな業」にも注意を払っていなければなりません。長老と奉仕の僕は「指導の任に当たっている人」として,この点に関して何を行なえますか。(ヘブライ 13:17)ほかの人たちはこの面でどのように彼らを援助できますか。さらに,この種の「りっぱな業」を行なう面で,わたしたちは個人として何ができますか。
りっぱに指導の任に当たる長老たち
5 パウロはどのように特別な必要を満たしましたか。現代にはそれに相当するどんな事例がありますか。
5 長老であったパウロは,ユダヤで特別な必要が生じた際,救援活動を取り決める点で指導の任に当たりました。そのような指導がなされたために,混乱はすべて最小限にとどめられました。物品を必要に応じて公平に分配できたのです。(コリント第一 16:1-3。使徒 6:1,2)現代の長老たちも,悲惨な洪水,地滑り,津波,たつ巻,地震などが生じたあと,救援活動の指導の任に当たり,「人の益を図って他の人の事にも目を留め」てきました。―フィリピ 2:3,4。
6 米国カリフォルニア州で,ある災害が生じた時,長老たちはそれに応じてどんな行動を取りましたか。
6 「目ざめよ!」誌の1986年10月8日号には,そのようなキリスト教精神が実践された例が一つ掲載されています。米国カリフォルニア州で堤防が決壊して洪水になった時,長老たちはそれに応じた行動を取りました。これら霊的な牧者たちは,だれが行方不明になっているか,だれに医療や食物や宿泊施設が必要かを知るため,羊の群れを直ちに調べました。長老たちはエホバの証人の本部事務所と連絡して活動を調整しました。救援委員会が設けられ,援助のために駆けつけた仲間のエホバの証人は,被害を受けた家の掃除と修理を行なうため,幾つもの作業班に組織されました。長老たちは救援物資の購入と分配をも監督しました。このことは,そうした特別な必要が生じたなら,『弟子たちの各々がそのできるところに応じて,与える[あるいは行なう]ことを決められる』ということを例証していますが,地元の監督たちと相談し,それらの監督たちからの指示を得るのは賢明なことでしょう。―使徒 11:27-30と比較してください。
7 わたしたちは比較的ありふれた,援助の必要などんな事態にもこたえ応じなければなりませんか。
7 災害のあとに大々的な援助の必要が生じ,あなたが(長老であってもなくても)それに応じて行動できる場合が時にありますが,比較的ありふれてはいても,それと同じほど重要な,援助の必要な事態が生じます。それは,ほかでもない,あなたの会衆の中で生じます。これら援助の必要な事態は大災害の場合と違い,世間を騒がせるほどのものではないかもしれず,そのため容易に見過ごされたり,ごくわずかな注意しか払われなかったりするものです。しかし,ヤコブ 2章15節から17節で言及されているのは,まさに地元で生じる必要のことです。そうです,あなたの会衆は,あなたの『信仰に業が伴っているか,あるいはそれ自体死んでいるか』という点に関する挑戦となる最大の問題を提出することがあるのです。
8 会衆での必要を扱う際,監督たちはどのように知恵を示せますか。
8 指導の任に当たる際,長老たちには「知恵と理解力」を示すよう努力しなければなりません。(ヤコブ 3:13)長老たちは知恵を用い,群れを詐欺師から,つまり兄弟から兄弟(または会衆から会衆)を渡り歩き,お金を借りたり“援助”を受けるための作り話をしたりする者たちから守ることができます。監督たちは賢明にも,怠惰な傾向に同情することはありません。「働こうとしない者は食べてはならない」というのが聖書の定めだからです。(テサロニケ第二 3:10-15)それでも長老たちは,「優しい同情の扉を閉じ」たり,兄弟たちに同じようなことをさせたりしようとは思いません。(ヨハネ第一 3:17)長老たちが知恵を示すべき別の理由は,聖書には,援助を困窮している人や苦しんでいる人を世話することに関する長々しい規則が示されていないことです。地域によって,場所によって状況は異なります。
9 (イ)1世紀において,援助を受けるに値するクリスチャンのやもめは,どのように世話されましたか。(ロ)そのような人たちは今日,どのような形の助けから益を得られますか。
9 例えば,パウロはテモテ第一 5章3節から10節で,「窮苦」にある,援助を受けるに値するやもめについて論じています。そのやもめたちを助ける主要な責任を負っているのは,信仰を持つ親族でした。その務めを無視するなら,神のみ前におけるそれら親族の立場は危うくなりかねませんでした。ただし,困窮していて援助を受けるに値するやもめがそうした方法で助けを得られない場合,会衆から何らかの物質的な援助を受けられるよう長老たちが取り決めを設けることは可能でした。最近でも,ある会衆は,会衆内の特に困窮した人たちを助けてきました。しかし今では大体どの国にも,お年寄り,病弱な人,意欲はあっても仕事の見つからない人々のため,税金によって賄われる計画が設けられています。それでもクリスチャンの長老は,別の方法で助けたいと思うかもしれません。極度に困窮していて社会福祉の恩恵にあずかる資格が十分にありながら,申し込み方が分からなかったり,気が弱くて尋ねられなかったりするために,そうした恩恵に浴していない人たちもいます。そのようなわけで,長老たちは政府機関に問い合わせたり,こういう問題について経験を積んでいる証人たちと連絡を取ることができます。次いで,困窮している人が利用できる給付金を受けられるよう,有能な兄弟か姉妹に援助を依頼することができます。―ローマ 13:1,4。
実際的な助けを与えるために組織する
10 長老たちは群れを牧するに当たって,何に注意を払うべきですか。
10 大抵の場合,機敏な長老たちは,苦しみ困窮している人たちが愛ある兄弟姉妹たちの助けを確実に得られるようにするためのかぎを握っています。長老たちは群れのすべての成員を牧するに当たって,霊的また身体的な必要に機敏でなければなりません。当然ながら,長老たちは「祈りとみ言葉の奉仕」を強調します。(使徒 6:4)ですから,群れの中の寝たきりの人や入院中の人が霊的に養われるよう,物事を取り決めようとするでしょう。長老たちは,集会に出席できない人たちのために集会の様子を録音してもらうことができます。自分の番になってテープを届けた長老や奉仕の僕たちは,自分たちの訪問によって,他の霊的な賜物を分け与えることができることに気づきました。(ローマ 1:11,12)それと共に,現在必要とされているものを調べることができます。
11 困窮している姉妹に対する援助をどのように取り決めることができるか,例を挙げて説明してください。
11 長老たちは,だれか姉妹が入浴と着替えを手伝えば,身体に障害のある姉妹や老齢の姉妹でも時々王国会館に来たり,野外奉仕に少しだけ参加できたりすることに気づくかもしれません。(詩編 23:1,2,5と比較してください。)監督たちは自分たちの中の一人を割り当てて,取り決めを作ってもらうこともできます。同様に,苦しんでいる人たちと一緒に移動したり彼らに交通手段を提供したりする自発奉仕者を会衆から募ることもできるでしょう。そのための計画を立てれば,物事はいっそう秩序正しく行なわれるでしょう。
12 病気の人や老齢の人を助ける点で,他の人はどのように監督たちと共に働けますか。
12 長老たちは,別の問題についても助けを差し伸べたり,愛ある取り決めを設けたりできることを観察するかもしれません。例えば,老齢の姉妹や病気の姉妹は以前ほどには家事ができなくなっています。奉仕の僕かだれかがその姉妹に手を貸すことができるでしょうか。芝生を刈ったり,植木の手入れをしたりすれば,姉妹はその家が近所の人たちから非難される理由がなくなったことを知り,気分がよくなることさえあるかもしれません。庭の草取りや水まきが必要でしょうか。食料を買いにゆく姉妹は,その姉妹の様子を見,必要なものを購入する仕事を進んで引き受けてくれるでしょうか。使徒たちがそうした実際的な面に関心を持ち,助けを与えるために会衆内の有能な人々を組織したことを忘れてはなりません。―使徒 6:1-6。
13 長老たちが,先に述べたナイジェリアの兄弟を助けたため,どんな結果が生じましたか。
13 この記事の冒頭に出てきた長老たちは,牧羊訪問をした時にレベキ・オクワラオカとその妻が悲惨な状態にあることを知り,クリスチャンとしてのそうした気遣いを示しました。長老団は直ちに問題を取り上げ,家を建て直すという計画を会衆に知らせました。さまざまな兄弟姉妹たちが物を寄付し,その計画に快く参加しました。そして1週間もしないうちに,金属屋根のしっかりした小さな家を建てました。ナイジェリアからは次のような報告が寄せられています。
「村人たちは驚き,次の豪雨が来るまでに仕事を完成させようと長時間にわたって忙しく働き続ける兄弟姉妹たちに,自発的に食べ物と飲み物を持って来ました。ほかの宗教団体について不平を述べる村人は少なくありませんでした。貧しい人々を助けるどころか,人々から物品を巻き上げたというのです。この建設の仕事はその地域社会の話の種になりました。村人たちは非常に物分かりがよくなり,多くの家庭聖書研究が始まりました」。
この「りっぱな業」においてあなたが行なえる事柄
14 兄弟たちに「りっぱな業」を行なうことに関して,わたしたちはどんな見方をすべきですか。
14 もちろん,お年寄り,病弱な人,入院している人,あるいはほかの面で苦しんでいる周りの人たちの必要に個人的かつ直接にこたえ応じることのできる機会はいくらでもあります。真のキリスト教の精神を表わす方法を理解しているなら,ためらわずに助けを差し伸べてはいかがですか。(使徒 9:36-39)わたしたちの動機づけとなる力は,他の人々からの圧力ではなく,クリスチャン愛です。どんな実際的な助けであろうと,その最も重要な要素となるのは,わたしたちが純粋な関心と同情心を抱いていることです。言うまでもなく,老齢の人々を若返らせたり,奇跡を行なって病人を癒したり,会衆内のあらゆる人々の経済的な立場を同等にしたりすることはだれにもできません。しかし,気遣いを示す与える精神は確かに持たなければなりません。わたしたちがそのような精神を持ち,それに従って行動する時,わたしたちとわたしたちの援助する人たちの間の愛の絆は強められます。パウロとオネシモの場合がそうでした。オネシモは割に新しいクリスチャンでしたが,『パウロが獄につながれている間,パウロに仕え』ました。―フィレモン 10-13。コロサイ 3:12-14; 4:10,11。
15 援助を受けるに値する,極度に困窮している一部の人たちをどのように助けることができますか。
15 匿名で送るにせよ,こっそり手渡すにせよ,わたしたちは時々親切な贈り物によって物質的な必要にこたえ応じることができます。職を失い,代わりの仕事を見つけられないでいる兄弟がいますか。予想外の治療費の支払いを迫られている姉妹がいますか。事故に遭ったり,強盗に襲われたりした姉妹がいますか。わたしたちの周りでそうした状況が生じるかもしれません。わたしたちが「憐れみの施し」をするとき,ひそかに見ておられるわたしたちの父はそれを観察し,是認してくださるでしょう。(マタイ 6:1-4)あるいは,お金を与えるのではなく,ヨブのように衣服を貧しい人たちに,食物や家庭で調理した食事をやもめや父なし子に備えることができるかもしれません。―ヨブ 6:14; 29:12-16; 31:16-22。
16 時々他のどんな実際的な方法で助けを与えることができますか。例を挙げて説明してください。
16 あなたの経験やあなたの知人が実際的な援助の源となる場合もあります。一人の兄弟がW兄弟にお金を貸してほしいと頼みました。W兄弟は,『どうしてお貸しできる余分なお金があると思われるのですか』と親切に応じました。『それは,あなたが上手にお金を管理しておられるからです』という答えです。困窮している人たちに度々お金を貸していたW兄弟は識別力を働かせ,『あなたにとって本当に必要なのは,ご自分のお金の管理の仕方を学ぶための助けではないでしょうか。私の助けをお望みなら,喜んでご援助しましょう』と提案しました。このような助けは,新しい環境に合わせて生活水準に調整を加える必要のある兄弟たち,あまり好まれることのないタイプの仕事も喜んで熱心に行なう兄弟たちから特に感謝されています。もちろん,お金を貸すことが本当に必要なら,あとで問題が生じないように,署名の付された書類を作成するのは良いことでしょう。しかし,借金をする気にならない多くの兄弟たちは,助言,もしくは経験を分かち合うという形の個人的な援助に深く感謝することでしょう。(ローマ 13:8)この点は,西アフリカのエマヌエルの経験にはっきり示されています。
エマヌエルは腕ききの理髪師でしたが,客足が鈍く,自分は生計を立てる能力がないのだとがっかりしていました。そこで,会衆の機敏な一長老がエマヌエルに,別の仕事をする気はないかと尋ねました。エマヌエルは,ある,と答えました。プロとしての誇りに妨げられるつもりはなかったからです。長老は仕事仲間に話を持ち掛け,エマヌエルのために病院の看護人の仕事を見つけました。エマヌエルはこの仕事をりっぱに果たしており,会衆の他の人たちを助けることができました。
17 入院中の兄弟をどのように助けることができるかもしれませんか。(詩編 41:1-3)
17 仲間のクリスチャンが病院や私設の療養所に入るときには,助けを与えるための特別な機会が開けます。その場合も,誠実な関心と気遣いが基盤となります。患者となっている人に,築き上げるキリスト教の文書を読んであげたり,励みとなる経験を話してあげたりすることを進んで行なうなら,そうした特質を示せます。では,あなたが助けを与えることのできる,身体的に援助の必要な人がいますか。地域によっては,医療施設に重税が課され,見舞い客が行なわなければ患者の食事や入浴も思うにまかせないというところがあります。ですから,医師の同意が得られれば,患者の兄弟に栄養豊かな食事を持っていったり,洗髪や入浴を手伝ったりすることができます。体を温めるガウンやスリッパも感謝されるでしょうか。(テモテ第二 4:13)あるいは,その兄弟の心配事の処理を申し出ることができますか。恐らく病気の兄弟は,給料の小切手を現金に換えることや,電気代やガス代の支払いが気になっているかもしれません。家に郵便物がうずたかく積まれていないか,植物に水が与えられているか,ボイラーなどの火は消えているか,それらを確認するような簡単な仕事をすることによっても,安心感を与えて助けになれるかもしれません。
18 あなたは,困窮している兄弟たちに関して何を行なう決意を抱いていますか。
18 わたしたちはみな,ただ「暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言う以上のことを行なうことに関して改善点を見いだせるに違いありません。(ヤコブ 2:16)会衆内の兄弟姉妹のことを考えてみてください。物質的な面で極度に困窮している人,病気の人,身体に障害のある人,寝たきりの人など,援助を受けるに値する人たちがいますか。会衆の最愛の成員を助けるため,実際に即したどんなことを行なえますか。キリストはそれらの人たちのために死なれたのです。このような態度があれば,困難な事態が生じた時にすぐに対応できるよう,よりよく備えるための助けが得られます。
19 (イ)この分野において平衡が非常に重要なのはなぜですか。(ロ)わたしたちが他の人々のために行なえる最大の善とは何ですか。なぜそう言えますか。(詩編 72:4,16)
19 わたしたちは兄弟たちの援助に心を傾けることにより,自分たちの信仰が死んだものではないことを証明します。その同じ信仰はクリスチャンの宣べ伝える業を熱心に行なうようわたしたちを動かします。他の人を物質面で助けることと,クリスチャンの福音宣明の業に定期的にあずかることとの平衡を保つ必要があります。(マタイ 15:3-9; 23:23と比較してください。)マルタとマリアに対するイエスの助言は,その平衡について示しています。物質的な食料と霊的な食物とを比較検討してみると,後者のほうが取り去られることのない「良いもの」である,とイエスは言われました。(ルカ 10:39-42)この事物の体制のもとでは,病気の人と貧しい人は常に存在します。わたしたちはそのような人たちのために良いことを行なうことができ,また行なわなければなりません。(マルコ 14:7)それでも,わたしたちが行なえる最も優れた最も永続的な善は,神の王国について他の人々に教えることです。イエスはそれに専念されました。(ルカ 4:16-19)その王国により,貧しい人,病気の人,苦しむ人たちは恒久的な解放を得ることができるのです。神に希望を託し,「真の命をしっかりとらえる」よう兄弟たちや他の人々を助けるのは,何と大きな喜びなのでしょう。―テモテ第一 6:17-19。
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会衆から気遣いを示される
地方の小さな会衆に移った一組のご夫妻から,次のような考えさせる報告が寄せられています。
『3年前,妻と私は家を売り,遠方の会衆に移動しました。その会衆には幾つか問題があり,慎重な援助が必要とされたのです。私はすぐに四つの責任ある立場を与えられました。私たちは兄弟たちを愛し,兄弟たちと共に働きたいと思いました。何か月かたつうちに会衆の霊は改善され,二人のりっぱな長老が移転してきました。
『妻は健康の問題を抱えるようになり,昨年には大きな手術が必要でした。妻が入院した日に私も肝炎にかかってしまい,2か月後にはその地域の経済事情が非常に悪化したため,解雇されました。お金は底をついてしまいました。私は失業し,二人とも健康の回復に努めていました。地域大会が近づいており,しかもプログラムの割り当てがあったので,気分が沈んでいました。数週間後に控えていた巡回大会でも割り当てがありましたが,お金がなかったので,どうやってそれらの大会に行ったらよいかはもちろんのこと,家族を養う方法すら分かりませんでした。ある朝のこと,妻は野外奉仕に出かけ,私は座って状況を再吟味していました。
『私は窓の外を眺めながら,エホバへの信頼はどうなってしまったのだ,と自問しました。妻には心配しないように言ってありましたが,私の心には疑惑が生じ始めていました。それから私は自分の「少ない信仰」をエホバに言い表わし,助けを請い求めました。祈り終えたとたん,一人の兄弟がドアをノックしました。その兄弟は,一緒にコーヒーを飲みに行きたいと言いました。晩の集会の準備をしなければならないので行けないことを説明してもその兄弟は引き下がらず,ほんの数分しかかからない,と言うのです。それで二人で出かけ,30分ほどして戻ってきました。兄弟の車から降りた時には気分がよくなっていました。
『家に入ったとき,台所の調理台に食料品がうずたかく積まれていることに気づきました。きっと妻が買い物に行ったのだろうと私は考えました。「だが,待てよ,僕たちにはもうお金がないのだから,どうして妻に買い物ができるだろう」。私は一通の封筒があることにも気づきました。封筒の表には,
「兄弟を深く愛している兄弟姉妹たちより。この中のものは決して寄付箱に入れないでください。兄弟の分はもうすませてあります」と書かれていました。
『私は涙を抑えることができませんでした。自分の「少ない信仰」のことを考えると,また涙があふれました。それから妻が家に帰ってきました。私はただ食料品や他の贈り物を指差すだけでした。妻も,一緒に入って来た二人の姉妹たちも泣きくずれました。こんなに多くもらうわけにはゆかないことを説明しようとしましたが,姉妹たちは,だれが何をくださったのかだれにも分からないと言いました。会衆全体が協力し,他の人々に与えるようにと私たちから教えられていたことに気づき,こうすることを望んだのです。それが分かって,さらに涙がこぼれました』。
その後,この兄弟はこの話を書き綴った時点で仕事を見つけ,妻と共に補助開拓奉仕にあずかりました。
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[18ページの囲み記事]
クリスチャン愛の証拠
米国西部のエホバの証人のある会衆は,聖書の中で勧められているクリスチャンの愛を示せる珍しい状況に直面しました。同会衆の区域に,重度の身体障害を抱える脳性麻痺患者の世話を行なう総合施設が国によって開設されたのです。同施設に最初に入った人々の中に25歳のゲリーがいました。家ではもはやゲリーの面倒を見きれなくなったのです。ゲリーの四肢は病気で麻痺し,言語障害も起きていました。
ゲリーはバプテスマを受けた証人になってから7年になります。新しい施設に入ったあとも地元の会衆の集会に出席したいと思いました。両親の住まいからはそれほど離れていなかったので,しばらくの間は両親に集会へ運んでもらいました。しかし両親の年齢のことも考慮して,同会衆の別の兄弟たちが援助を開始しました。ある人はワゴン車を持っていたので,ゲリーを迎えに行くために,集会の始まる45分前には支度を整え,妻と二人の娘を連れて家を出発するようにしました。そして集会後にゲリーを施設まで送り届けるようにしたので,家に着くのはかなり遅くなりました。
しかし,この施設ではある事柄が進展していました。他の脳性麻痺患者たちが聖書の真理に関心を示したのです。すぐに一組の夫婦が聖書研究をすることに同意し,やがて他の人々も関心を示し始めました。これらの人たちを全員どのようにして集会場所まで運べるでしょうか。同会衆の別の家族がワゴン車を1台購入しました。さらに,地元の証人たちがある事業を経営していたので,もう1台ワゴン車が使えるようになって3台になりました。しかしこれらの手段も,時には不十分なこともあり,不便な点もありました。会衆にできることがまだあったでしょうか。
長老たちはこの点について話し合った後,集会に出席する体の不自由な人々を送り迎えするためのワゴン車を購入することを提案しました。会衆はその提案に賛同し,喜んで寄付を行ないました。周辺地域に住む証人たちの中には,この計画のことを伝え聞いて寄付を行なった人もいました。そこでワゴン車が1台購入され,車いすを積み込めるように改造されました。
現在,会衆の書籍研究の各群れが毎月交替で,集会や大会に行くワゴン車の運転を行なっています。同施設から5人の脳性麻痺患者が出席しており,現在そのうちの4人がバプテスマを受けた証人となっています。彼らは大勢の兄弟や姉妹と知り合いになり,愛されるようになりました。そしてそれらの兄弟や姉妹は援助する喜びを経験しています。どのように援助するのでしょうか。集会中に賛美歌の本を持ってあげたり,聖書を見せてあげたりするのです。巡回大会や地域大会では,食事をする手伝いまでして,一人で食事ができない人たちの世話を行なっています。このことを通して,お互いの間に本当に心温まる好意が生まれました。ところでゲリーはどうしているでしょうか。愛のある証拠を示したこの会衆で奉仕の僕として仕えています。―使徒 20:35。
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