三位一体
定義: キリスト教世界の諸宗教組織の中心的な教義。アタナシウス信経によれば,神聖な三者(父,子,聖霊)が存在し,各々は永遠で,全能であり,いずれも他より偉大でもなければ,小さいわけでもなく,各々が神であり,しかも一緒になってひとりの神として存在していると言われています。この教義に関する他の説明では,これら三“者”は異なった別個の存在ではなく,神の本質が内在する三つの様式であることが強調されています。ですから,イエス・キリストは神である,あるいはイエスと聖霊はエホバであるという信条を強調する三位一体論者もいます。聖書の教えではありません。
三位一体の教理にはどんな起源がありますか
新ブリタニカ百科事典はこう述べています。「三位一体という言葉も,このような組織立てられた教理も新約聖書の中には出ておらず,またイエスやその追随者たちも旧約聖書の中の,『イスラエルよ聞け。我々の神,主は唯一の主である』というシェマー(英文,Shema)に異議を唱えようとはしなかった(申命 6:4)……この教理は数世紀にわたり,幾多の論争を経て徐々に発展した。……4世紀の終わりまでに……三位一体の教理は実質的にその形を整え,以来その形を保持してきた」―(1976年版),小項目事典,第10巻,126ページ。
新カトリック百科事典はこう述べています。「『三つの位格における唯一の神』という定式は4世紀の終わり以前にはしっかり定着してはおらず,確かにクリスチャンの生活や信仰告白には十分取り入れられていなかった。しかし,三位一体の教義という名称で最初に呼ばれてしかるべきなのは,まさしくこの定式である。使徒後教父の間には,こうした思考法もしくは観点にわずかでも近づくような事柄とされるものは一つもない」―(1967年版),第14巻,299ページ。
アメリカーナ百科事典にはこう記されています。「キリスト教はユダヤ教から派生しており,ユダヤ教は[神は唯一の実在者であることを信ずる]厳密な意味での一神論であった。エルサレムからニケアまでの道はおよそまっすぐな道ではなかった。4世紀の三位一体論は神の性質に関する初期キリスト教の教えを正確に反映したものではなかった。それどころか,その教えから逸脱したものであった」―(1956年版),第27巻,294ページ左欄。
新世界事典によれば,「古代の諸民族の時代にまでさかのぼる古い三位一体説の単なる改作にすぎないプラトンの三位一体論は,合理主義の哲学に基づく属性の三位一体論であったらしく,キリスト教会が教える三つの基質もしくは神聖な位格はこれから生まれたものである。……このギリシャの哲学者[西暦前4世紀のプラトン]の聖三位一体の概念は……古代のあらゆる[異教の]宗教のうちに見いだすことができる」―(パリ,1865-1870年),M・ラカトレ編,第2巻,1467ページ,フランス語。
イエズス会のジョン・L・マッケンジーは自分が編さんした「聖書辞典」の中でこう述べています。「本質の一体性のうちに位格を有する三位一体は,ギリシャの哲学用語である『位格』および『本質』という語を用いて定義されている。実際,これらの語は聖書には出ていない。三位一体に関する種々の定義は多年にわたる論争の結果として生まれたもので,一部の神学者はその論争において,これらの語や,『本質』や『実体』その他の語を誤って神に適用したのである」―(ニューヨーク,1965年),899ページ。
三位一体論者が認めるとおり,「三位一体」という語や,三位一体の教義について述べた言葉は聖書に出ていなくても,この教義に具体的に表現されている概念は聖書の中にありますか
聖書は「聖霊」が人格的なものであることを教えていますか
聖霊に言及している幾つかの個々の聖句は,それが人格的存在であることを示しているように思えるかもしれません。例えば,聖霊は,教えたり,証ししたり,話したり,聞いたりする助け手(ギリシャ語: パラクレートス; 「慰め主」,欽定; 「助け主」,口語,新改; 「弁護者」,エルサレム,新英,共同,フランシスコ,バルバロ)と呼ばれています。(ヨハネ 14:16,17,26; 15:26; 16:13)しかし,他の聖句は,人々が聖霊で「満たされ」たり,ある人々は聖霊で『バプテスマを施され』たり,あるいは「油そそがれ」たりしたことを述べています。(ルカ 1:41。マタイ 3:11。使徒 10:38)聖霊に言及しているこれら後者の場合の表現は,確かに人格的なものと合致しません。聖書全体が教えている事柄を理解するためには,これらの聖句をすべて考慮しなければなりません。どんな結論が道理にかなっていますか。聖書では知恵,罪,死,水,血などが擬人化されているように,この節の初めに参照されている聖句では,神の聖霊,つまりその活動する力を擬人的に表わした比喩的表現が用いられているということです。(また,主要な見出し,「霊」の431,432ページの項も参照。)
聖書は父ご自身の名,つまりエホバについて述べ,み子はイエス・キリストであることを教えています。しかし,聖霊に対して用いられる,聖霊そのものの名は聖書のどこにもありません。
使徒 7章55,56節によると,ステファノは天の幻を与えられましたが,その幻の中で彼は,「イエスが神の右に立っておられる」のを見ました。しかし,聖霊を見たとは述べていません。(また,啓示 7:10; 22:1,3も参照。)
新カトリック百科事典は次の点を認めています。「新約[聖書]の聖句の大部分は,神の霊のことを,ある者としてではなく,あるものとして示している。このことは霊と神の力とが平行関係にある対句の中では特にそうである」。(1967年版,第13巻,575ページ)同事典はさらにこう述べています。「護教論者[2世紀のギリシャ人のキリスト教著述家]の霊についての説明は非常にためらいがちなものであった。幾分か直観的な先入観をもっている人ならば,非人格的なものに傾きすぎていると言うかもしれない」― 第14巻,296ページ。
父と子は異なった別個の存在ではないと説く人たちの考えは,聖書の述べる事柄と一致しますか
マタイ 26:39,口語: 「[イエス・キリストは]少し進んで行き,うつぶしになり,祈って言われた,『わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい』」。(もし,父と子がそれぞれ異なる別個の存在でなかったならば,このような祈りは無意味だったでしょう。イエスは自分自身に向かって祈っていたことになり,またイエスの意志は必然的にみ父のご意志だったことになります。)
ヨハネ 8:17,18,口語: 「[イエスはユダヤ人のパリサイ人に答えて言われた。]あなたがたの律法には,ふたりによる証言は真実だと,書いてある。わたし自身のことをあかしするのは,わたしであるし,わたしをつかわされた父も,わたしのことをあかしして下さるのである」。(それで,イエスは確かにご自分のことを父とは別個の異なった存在として話されました。)
また,「エホバ」の項の93,94ページも参照。
聖書は,三位一体の一部をなすと言われている者はみな永遠に存在し,いずれも初めがないと教えていますか
コロサイ 1:15,16,口語: 「御子[イエス・キリスト]は,見えない神のかたちであって,すべての造られたものに先だって生れたかた[「全創造物の初子」,新世]である。万物は,天にあるものも地にあるものも,……みな御子にあって造られたからである」。イエス・キリストはどのような意味で「すべての造られたものに先だって生れたかた」ですか。(1)三位一体論者は,この箇所の「先だって生れた」という言葉は,最も重要な,最も卓越した,最も顕著なという意味であると言います。ゆえに,キリストは創造物の一部ではなく,創造されたものとの関係において最も顕著な方であると考えられています。もしそうであれば,またもし三位一体の教理が真実ならば,父や聖霊も,すべての造られたものに先だって生まれた方であると言われていないのはなぜですか。しかし,聖書ではこの表現はみ子だけに用いられています。「先だって生れた」,または「初子」という言葉の通常の意味にしたがえば,これはイエスがエホバの子たちの家族の最年長者であることを示唆しています。(2)聖書にはコロサイ 1章15節までに,「先だって生れたかた」という表現が,基本的には同じ意味の「長子」あるいは「初子」という形と共に30回以上出ており,生きた被造物に用いられている場合にはいつでも,同じ意味が当てはまります。つまり,先だって生まれたもの,あるいは長子もしくは初子はそのグループの一員であるという意味です。「イスラエルの長子」はイスラエルの子らのうちの一人で,「パロのういご」はパロの家族の一員です。「家畜のういご」はそれ自体家畜です。では,どうしてある人々はコロサイ 1章15節のこの言葉を別の意味に取っているのでしょうか。それは聖書の語法ですか。それとも,それはすでに抱いている信条で,その証拠となるものを求めているのでしょうか。(3)コロサイ 1章16,17節(口語)には,「万物は……みな御子にあって造られた……これらいっさいのものは,御子によって造られ,御子のために造られた」と記されていますが,これはイエスが創造されたものではないことを示していますか。この箇所で「万物」あるいは「いっさいのもの」と訳されているギリシャ語は,パースの変化形であるパンタです。ルカ 13章2節でこの語はそれぞれ,「他のすべての」(改標,口語),「ほかのどの」(エルサレム,新改),「すべてのほかの」(新英)と訳されています。(また,新英訳のルカ 21章29節とエルサレム聖書のフィリピ 2章21節も参照。)聖書がみ子に関して述べているほかのあらゆる事柄と調和して,新世界訳はコロサイ 1章16,17節のパンタという言葉を同じ意味に解し,その箇所を一部次のように訳しています。「他のすべてのものは……彼によって創造され……他のすべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです」。ですから,み子は創造された実在者で,神の創造物の一部であることが示されています。
啓示 1:1; 3:14,前田: 「イエス・キリストの黙示。それは神が彼に与えて……ラオデキアの集会の天使に書け。『こういいたもうのはアーメンのもの,忠実で真実の証人,神の創造のはじめのもの[ギリシャ語,アルケー]』」。(「初めたる者」,欽定,ドウェー; 「初めである者」,新世; その他の訳も同様。)この訳し方は正確ですか。この箇所はみ子が『神の創造の開始者』であった,つまりみ子は創造の『根源』であったことを意味しているという見方を取る人たちもいます。しかし,1968年のオックスフォード版,リデルとスコット共編,希英辞典の252ページには,アルケーの第一義として「初め」という語が挙げられています。したがって,啓示 3章14節で指摘されている方は一創造物,つまり神の創造物の最初の者であり,その方には初めがあったというのが論理的な結論ということになります。箴言 8章22節と比べてください。そこでは,多くの聖書注解者も認めているように,み子が擬人化された知恵として言及されています。改標,新英,エルサレム,文語,口語などの翻訳によれば,この箴言 8章の話者は「造られた」者とされています。
メシアについての預言であるミカ 5章2節(文語)には,「その出る事は古昔より永遠の日よりなり」と記されています。新改はこう訳しています。「その出ることは,昔から,永遠の昔からの定めである」。このことから,メシアは神と同一であると言えますか。ここで「永遠の昔」と訳されているヘブライ語を改訂標準訳と口語訳は「いにしえの日」と訳し,エルサレム聖書とバルバロ訳(5:1)は「昔の日々」,新世界訳は「定めのない昔」と訳しているのは注目に値します。前節で取り上げた啓示 3章14節に照らして考えれば,ミカ 5章2節はイエスに初めがないことを証明してはいません。
聖書は,三位一体に含まれると言われている者がいずれも他より偉大でもなければ劣ってもおらず,いずれも同等で,いずれも全能であると教えていますか
マルコ 13:32,口語: 「その日,その時は,だれも知らない。天にいる御使たちも,また子も知らない,ただ父だけが知っておられる」。(もし父と子と聖霊が同等であって,ひとりの神を構成しているのであれば,もちろんそうは言えないでしょう。また,ある人々が示唆するように,もし,み子がその人性ゆえに知ることに限度があったとしても,なぜ聖霊は知らないのかという疑問が残ります。)
マタイ 20:20-23,口語: 「ゼベダイの子らの母が……[イエスに]言った,『わたしのこのふたりのむすこが,あなたの御国で,ひとりはあなたの右に,ひとりは左にすわれるように,お言葉をください』。イエスは答えて言われた……『あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし,わたしの右,左にすわらせることは,わたしのすることではなく,わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである』」。(もし,ある人々が主張するように,イエスが神であるとしたら,これは何と奇妙な言葉でしょう。イエスはここでその「人性」にしたがって答えておられたにすぎないのですか。三位一体論者が言うように,もしイエスが本当に「神人」であって,神であると同時に人間であり,そのいずれか一方の存在でなかったとすれば,そのような説明の仕方は本当に首尾一貫しているでしょうか。むしろ,マタイ 20章23節は,子が父とは同等でないこと,また父はある特権をご自身のために保持しておられることを示していませんか。)
マタイ 12:31,32,口語: 「人には,その犯すすべての罪も神を汚す言葉も,ゆるされる。しかし,聖霊を汚す言葉は,ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は,ゆるされるであろう。しかし,聖霊に対して言い逆らう者は,この世でも,きたるべき世でも,ゆるされることはない」。(もし聖霊が人格的なもので,神であるとするならば,この句は三位一体の教理をきっぱりと否定していることになります。なぜなら,それは聖霊がある点でみ子よりも偉大であることを示しているからです。それとは逆に,イエスが言われた事は,「聖霊」の所有者である父は,人の子であるイエスよりも偉大な方であることを示しています。)
ヨハネ 14:28,口語: 「[イエスは言われた。]もしわたしを愛しているなら,わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである」。
コリント第一 11:3,口語: 「あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神である」。(ですから,明らかにキリストは神ではなく,神はキリストよりも上位の方です。また,この言葉はイエスが天に戻られてから22年ほどたった西暦55年ごろに書き記されたことにも注意すべきでしょう。それで,ここで述べられている真理は,天におられる神とキリストの関係に当てはまります。)
コリント第一 15:27,28,口語: 「『神は万物を彼[イエス]の足もとに従わせた』。……ところが,万物を従わせたと言われる時,万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは,明らかである。そして,万物が神に従う時には,御子自身もまた,万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは,神がすべての者にあって,すべてとなられるためである」。
ヘブライ語のシャッダイとギリシャ語のパントクラトールはいずれも「全能者」と訳されています。原語のこれらの言葉は両方とも父なるエホバを指して繰り返し用いられています。(出エジプト 6:3。啓示 19:6)どちらの表現も,み子や聖霊には一度も用いられていません。
聖書は,三位一体を構成すると言われている者が各々神であると教えていますか
イエスは祈りの中でこう言われました。「父よ……永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。(ヨハネ 17:1-3,口語; 下線は追加。)(大抵の翻訳はここでみ父を指して『唯一のまことの神』というような表現を用いています。新英訳聖書は,「ただひとりまことに神であられる」方と訳しています。もし,父と同程度の神がほかに二人いるならば,父は『唯一まことの神』,「ただひとりまことに神であられる」方ではあり得ないのではありませんか。「神々」と呼ばれる他の者はすべて,偽りの神か,まことの神を単に反映している者のいずれかに違いありません。)
コリント第一 8:5,6,口語: 「たとい神々といわれるものが,あるいは天に,あるいは地にあるとしても,そして,多くの神,多くの主があるようではあるが,わたしたちには,父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て,わたしたちもこの神に帰する。また,唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により,わたしたちもこの主によっている」。(ここで,父はクリスチャンの「唯一の神」で,イエス・キリストとは異なった部類の存在として示されています。)
ペテロ第一 1:3,口語: 「ほむべきかな,わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」。(イエスが昇天された後でさえ,聖書の中では父のことが繰り返しイエス・キリストの「神」と呼ばれています。ヨハネ 20章17節では,復活後,イエスご自身がご自分の父のことを「わたしの神」と言われました。後日,天におられたイエスは,啓示 3章12節に記されているとおり,その同じ表現を再びお用いになりました。しかし,聖書では,父がみ子のことを「わたしの神」と呼ばれたとは一度も言われていませんし,また父も子も聖霊のことを「わたしの神」と呼ばれたことはありません。)
キリストが神であることを証明しようとして,ある人々が用いる聖句に関する注解については,「イエス・キリスト」の見出しの53-58ページの項参照。
「神学研究」と題する文献の中で,イエズス会士,カール・ラーナーは次のことを認めています。「[聖]霊に関してはテオス[神(God)]はやはり一度も用いられていない」。「プニューマ ハギオン[聖霊]について述べるのに,新約聖書ではホ テオス[字義,神(the God)]は一度も用いられていない」―(メリーランド州ボルチモア,1961年),ドイツ語からの英訳,第1巻,138,143ページ。
三位一体論者がその信条の裏付けとして用いる聖句には,その教義の確かな根拠となるものがありますか
神に関する真理を本当に知ろうとしている人は,自分のすでに信じている事柄と合っているように読み取れる聖句が見つかることを期待して聖書を調べようなどとはしません。むしろ,神の言葉そのものが何と述べているか知りたいと思います。中には,二通り以上の読み方ができるような聖句が見つかるかもしれませんが,同じ問題について聖書がほかの所で述べている事柄と比べてみると,そのような聖句の意味は明らかになります。まず最初に,三位一体を支持する“証拠”として用いられる聖句のほとんどは実際には,三者ではなく,ただ二者について述べているにすぎないという点に注目しなければなりません。ですから,たとえそれらの聖句に関する三位一体論者の説明が正確であっても,それらの聖句は聖書が三位一体を教えていることを証明するものとはなりません。では,以下の事柄を考えてみてください。
(特に注記がない限り,以下の箇所に引用されている聖句はすべて口語訳からの引用です。)
エホバに属する称号がイエス・キリストに当てはめられている,あるいはイエスに当てはまると考えられている聖句
アルパとオメガ: この称号は正しくはだれのものですか。(1)黙示録 1章8節では,その所有者は全能者なる神であると言われています。欽定訳によれば11節では,その称号は,この箇所から後の描写でイエス・キリストと分かる方に当てはめられています。しかし,学者たちは11節のアルパとオメガに言及している箇所が偽筆であることを認めています。ですから,それは改訂標準訳,新英訳聖書,エルサレム聖書,新アメリカ聖書,ドウェー訳,そしてほとんどの邦訳聖書にも出ていません。(2)黙示録の多数のヘブライ語訳は,8節で描写されている方がエホバであることを認めています。ですから,それらヘブライ語訳のその8節には神ご自身の名が復元されています。1985年版,参照資料付き新世界訳を参照。(3)黙示録 21章6,7節は,霊的な意味で勝利を得る者であるクリスチャンが,アルパおよびオメガとして知られる方の「子」となることを示唆しています。しかし,霊によって油そそがれたクリスチャンとイエス・キリストとの関係については,決してそのように言われていません。イエスはそのようなクリスチャンのことをご自分の「兄弟」と言われました。(ヘブライ 2:11。マタイ 12:50; 25:40)しかし,イエスのそのような「兄弟」たちは「神の子」と呼ばれています。(ガラテア 3:26; 4:6)(4)黙示録 22章12節(今英)にはイエスの名が挿入されているため,13節で言及されているアルパとオメガはイエスに当てはまるように見えます。しかし,イエスの名はギリシャ語ではそこに出ていないので,他の翻訳にはその名は含まれていません。(5)黙示録 22章13節では,このアルパとオメガはまた,「最初の者であり,最後の者である」と言われていますが,この表現は黙示録 1章17,18節でイエスに当てはめられています。同様に,「使徒」という表現もイエス・キリストとその追随者たちのある人々の両方に当てはめられています。しかし,これはその両者が同一の者であるとか,その地位が同等であることを証明してはいません。(ヘブライ 3:1,文語,フランシスコ)ですから,証拠は,「アルパであり,オメガである」という称号はみ子にではなく,父である全能の神に当てはまることを示しています。
救い主(もしくは,救う者): 聖書は再三,神のことを救い主あるいは救う者と呼んでいます。イザヤ 43章11節で神は,「わたしのほかに救う者はいない」とさえ言っておられます。イエスもまた救い主と呼ばれていますから,神とイエスは同じ方ですか。決してそうではありません。テトス 1章3,4節は「わたしたちの救主なる神」に言及し,次いで「父なる神とわたしたちの救主キリスト・イエス」のおふたりにも言及しています。ですから,このお二方は共に救い主です。ユダ 25節はその関係を示し,「わたしたちの救主なる……神に……わたしたちの主イエス・キリストによって」と言っています。(下線は追加。)(また,使徒 13:23も参照。)士師記 3章9節では,イザヤ 43章11節で用いられている同じヘブライ語の言葉(モーシーア,「救う者」「救い手」あるいは「救い主」,もしくは「救出者」あるいは「救助者」と訳される)がイスラエルの裁き人の一人であったオテニエルを指して用いられていますが,だからといって決してオテニエルがエホバになったわけではありません。イザヤ 43章1-12節を一読すれば,11節はエホバだけがイスラエルのために救い,つまり救出をもたらした方であることを意味していることが分かります。その救いは周囲の諸国民のどの神がもたらしたのでもありませんでした。
神: イザヤ 43章10節でエホバは,「わたしより前に造られた神はなく,わたしより後にもない」と述べておられます。ということは,イザヤ 9章6節でイエス・キリストのことが預言的な意味で「大能の神」と呼ばれているゆえに,イエスはエホバでなければならないことを意味していますか。ここでもやはり,文脈は,否と答えます! 偶像崇拝を行なった異邦の国民でエホバよりも前に神(a god)を形造った国民はいませんでした。なぜなら,エホバよりも前にはだれもいなかったからです。またそれ以後の時代にも,諸国民は預言できる,実在する,生きた神(god)を造ったことがありません。(イザヤ 46:9,10)しかしこれは,正しく神(a god)と呼ばれる者をエホバが決して存在させなかったという意味ではありません。(詩編 82:1,6; ヨハネ 1:1,新世)イザヤ 10章21節でエホバは,イエスがイザヤ 9章6節で呼ばれているとおり,「大能の神(God)」と呼ばれています。しかし,これまでに「全能の神(God)」と呼ばれているのはエホバだけです。―創世 17:1。
特定の称号や叙述的な句が聖書の中で何度か出て来る場合,それはいつも同一の存在を指しているに違いないと性急に結論すべきではありません。そのように考えるとすれば,ネブカドネザルはイエス・キリストであるという結論に達する場合もあるでしょう。なぜなら,二人とも「王の王」(新世)と呼ばれたからです。(ダニエル 2:37。啓示 17:14)また,イエスの弟子たちは実際にはイエス・キリストだったことになるでしょう。なぜなら,その両者とも「世の光」と呼ばれたからです。(マタイ 5:14。ヨハネ 8:12)同じ表現が出て来る聖書の他のどんな箇所でも,常に文脈を考慮すべきです。
霊感を受けた聖書の筆者たちが,ヘブライ語聖書の中で明らかにエホバに当てはまる箇所をイエス・キリストに当てはめている例
イザヤ 40章3節では明らかにエホバの前に道を備えることが述べられているのに,なぜヨハネ 1章23節ではイザヤ 40章3節が引用されて,バプテスマを施す人ヨハネがイエス・キリストのために道を備える際に行なった事柄に当てはめられているのですか。なぜなら,イエスは父を代表しておられたからです。イエスは父の名によって来て,父が常に共にいてくださるという保証をお持ちでした。なぜなら,イエスは父を喜ばせることを行なわれたからです。―ヨハネ 5:43; 8:29。
詩編 102編25-27節はこの言葉が神に向かって語りかけられていることを示しているのに,どうしてこの句がヘブライ 1章10-12節に引用されて,み子に当てはめられているのでしょうか。なぜなら,詩編作者がこの句の中で描写している創造の業は,神がみ子を通して行なわれたものだからです。(コロサイ 1:15,16; 箴言 8:22,27-30参照。)ヘブライ 1章5節後半にサムエル第二 7章14節の一部が引用され,神のみ子に当てはめられていることにも注目しなければなりません。この句は最初ソロモンに当てはめられ,後にイエス・キリストに当てはめられたからといって,ソロモンとイエスが同一人物であることを意味してはいません。イエスは『ソロモンより偉大な』方で,ソロモンによって予表された業を遂行しておられます。―ルカ 11:31。
父と子と聖霊のことを一緒に述べている聖句
マタイ 28章19節やコリント第二 13章14節はその例です。これらの聖句はいずれも,父と子と聖霊が同等,もしくは等しく永遠であるとか,そのすべてが神であるとは述べていません。162-167ページですでに述べた聖書に基づく証拠は,これらの聖句からそのような考えは読み取れないことを示しています。
マクリントクとストロング共編,「聖書・神学・教会文献事典」は,三位一体の教理を擁護しながらも,マタイ 28章18-20節に関し次のことを認めています。「しかしこの聖句は,それだけを取り上げたのでは,三者の人格性も,同等性や神性のいずれをも決定的に証明するものとはならないであろう」。(1981年再版,第10巻,552ページ,英文)さらに,その三者のことを一緒に述べているほかの聖句に関して同事典は,聖句だけを取り上げたのでは,三位一体を証明するには「不十分」であることを認めています。(神とキリストとみ使いたちのことが一緒に述べられているテモテ第一 5章21節と比較。)
ヘブライ語聖書で名詞の複数形が神に適用されている聖句
創世記 1章1節の「神」という称号は,複数形のヘブライ語エローヒームを訳したものです。三位一体論者はこの言葉が三位一体を示唆していると解釈します。さらに,申命記 6章4節には,「われわれの神[エローヒームの訳],主は唯一の主である」とあるので,これは三位一体を成す三者の一体性を示唆していると説明します。
この句のヘブライ語の名詞の複数形は威厳あるいは卓越の複数です。(新ア,聖ヨセフ版,聖書辞典,330ページ; また,新カトリック百科事典,1967年,第5巻,287ページ参照。)これは一なる神における複数の位格という考えを表わすものではありません。同様に,偽りの神ダゴンに言及している裁き人 16章23節でもエローヒームという称号が用いられています。この名詞に伴う動詞は単数形で,その名称はひとりの神であるダゴンだけを指していることを示しています。創世記 42章30節ではヨセフのことがエジプトの「主」(アドーネー,卓越の複数)と呼ばれています。
ギリシャ語には“威厳もしくは卓越の複数”がありません。ですから,七十人訳の翻訳者たちは創世記 1章1節でエローヒームに対応する言葉としてホ テオス(神,単数)を用いました。申命記 6章4節を引用されたイエスの答えが述べられているマルコ 12章29節でも,同様にギリシャ語の単数形ホ テオスが用いられています。
申命記 6章4節のヘブライ語本文には四文字語<テトラグラマトン>が2回出て来ますから,この箇所をもっと正しく読むとすれば,「わたしたちの神エホバはただひとりのエホバである」(新世)となるはずです。そのように話されたイスラエル国民は,三位一体を信じていませんでした。バビロニア人やエジプト人は三つ組の神々を崇拝していましたが,エホバはそれとは異なっておられることがイスラエル人にははっきりと示されました。
聖書の翻訳によっては,二通り以上の結論が引き出せるような聖句
ある箇所が文法的には二通り以上に翻訳できる場合,どれが正しい訳ですか。それは聖書のほかの箇所と一致した訳です。もし,聖書のほかの部分を無視し,自分の好きな訳の特定の節を中心にして自分の信条を組み立てるなら,その人の信じている事柄は実際には神の言葉ではなくて,自分自身の考えか,もしかすると別の不完全な人間の考えを表わすものとなります。
改訂標準訳のその句は次のとおりです。「初めに言葉がおり,言葉は神[God]と共におり,言葉は神[God]であった。この方は初めに神[God]と共にいた」。(欽定訳,ドウェー訳,エルサレム訳,新アメリカ訳も同様の表現を用いています。)しかし新世界訳はこうなっています。「初めに言葉がおり,言葉は神[God]と共におり,言葉は神[a god]であった。この方は初めに神[God]と共にいた」。
ヨハネ 1章1,2節のどの訳文が文脈と一致していますか。ヨハネ 1章18節は,「神を見た者はまだひとりもいない」と述べています。14節は,「言は肉体となり,わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た」と,はっきり述べています。また,1,2節は,その方が初めに「神[God,欽定]と共に」おられたと述べています。ある方と共にいると同時に,その方であるということは可能ですか。ヨハネ 17章3節でイエスはみ父に向かって「唯一まことの神[God]」(新世)と呼びかけておられます。ですから,イエスは「神[a god]」としてみ父の神聖な特質を反映しておられるにすぎません。―ヘブライ 1:3。
「神[a god]」という訳し方は,ギリシャ語文法の規則と調和していますか。中には,問題のギリシャ語本文を,「言葉は神[God]であった」と訳さなければならないと強く主張する参考書もあります。しかし,すべての参考書がこの点で一致しているわけではありません。フィリップ・B・ハーナーは,「限定詞としての無冠詞叙述名詞:マルコ 15章39節およびヨハネ 1章1節」と題する自分の論文の中で次のように述べています。ヨハネ 1章1節にあるような,「無冠詞の述語が動詞に先行している[文節]は主として限定詞的意味を持つ。これは,ロゴスがテオスの特質を有していることを示しているのである」。そして,「恐らく,その節は,『言葉は神と同様の性質を有していた』と訳せる」ことを示唆しました。(「聖書文献ジャーナル」誌,1973年,85,87ページ)ですから,この句の中で,二度目に出て来るテオスという言葉に定冠詞(ホ)が付されておらず,その言葉がギリシャ語の文の中で動詞の前に置かれているのは意味深いことです。興味深いことに,ヨハネ 1章1節を「言葉は神[God]であった」と訳すべきだと主張する翻訳者たちは,単数の無冠詞叙述名詞が動詞に先行している他の節を英訳する際,英語の不定冠詞(a,an)をためらわずに使っています。ですから,エルサレム聖書や欽定訳聖書は共に,ヨハネ 6章70節でユダ・イスカリオテのことを「悪魔」(英文,a devil)と呼び,ヨハネ 9章17節ではイエスのことを「預言者」(a prophet)と述べています。
「聖書辞典」の中で編者であるイエズス会士,ジョン・L・マッケンジーはこう述べています。「ヨハネ 1章1節は厳密に訳せば,『言葉は神[God] [= 父]と共におり,言葉は神性を備えた存在であった』となるであろう」―(2番目の角かっこ[ ]は編者による挿入部分。印刷出版許可を取得のうえ発行。)(ニューヨーク,1965年),317ページ,英文。
前述の事柄と調和して,英訳聖書はこの箇所を次のように読んでいます。聖ア,「言葉は神性を備えていた」; モファット,「ロゴスは神性を備えていた」; 改新,「言葉は神[a god]であった」。ルードウィッヒ・シンメはそのドイツ語訳の中でこの句を,「言葉は一種の神[God]であった」というふうに表わしています。言葉(イエス・キリストとなった方)を「神[a god]」と呼ぶことは,聖書の他の箇所に見られるこの語の用法と一致しています。例えば,詩編 82編1-6節ではイスラエルの人間の裁き人たちが「神々[gods]」(ヘブライ語,エローヒーム; ギリシャ語,テオイ,ヨハネ 10:34)と呼ばれています。なぜなら,そのような人たちはエホバの代表者であって,エホバの律法について語ることになっていたからです。
また,1985年版,参照資料付き新世界訳の付録,1771ページも参照。
改訂標準訳ではこうなっています。「イエスは彼らに言われた,『ほんとうに,ほんとうに,あなたがたに言っておく。アブラハムのいる前から,わたしはある[ギリシャ語,エゴー エイミ; 英語,I am]』」。(新英,欽定,今英,エルサレム,新アはすべて「わたしはある[英語,I am]」となっており,中にはこれが称号であるという考えを表わそうとして,大文字を用いている英訳さえあります。こうして,これらの英訳では,その表現を出エジプト記 3章14節と結び付けようとする努力が払われています。それら英訳の訳し方によれば,神はご自身のことをその句の中で「わたしはある[英語,I Am]」という称号で呼んでおられるとされています。)しかし,新世界訳ではヨハネ 8章58節の後半の箇所は次のとおりです。「アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。(聖ア,モファット,民衆,簡英などの英訳もこの同じ考えを同様の表現で表わしています。)
どの訳し方が文脈と一致していますか。イエスがお答えになったユダヤ人の質問(57節)は,イエスの実体ではなくて,年齢を取り上げたものでした。ですから当然,イエスはその答えの中でご自分の年齢,つまりご自分が存在してこられた期間を取り扱われました。興味深いことに,エゴー エイミという言葉を一つの称号として聖霊に当てはめようとする試みは一度もなされていません。
A・T・ロバートソンの著わした,「歴史上の研究から考察したギリシャ語新約聖書の文法」と題する本はこう述べています。「動詞[エイミ]……時には[エゴー エイミ]の場合のように,他のすべての動詞と同様,述語として確かに存在を表わすことがある(ヨハネ 8:58)」― テネシー州ナッシュビル,1934年,394ページ,英文。
また,1985年版,参照資料付き新世界訳の付録,1774,1775ページも参照。
フランシスコ: 「あなたがたは,自分自身に気をつけ,また,群れのすべてに心を配りなさい。聖霊は,神がご自身の血であがないとられた神の教会を牧させるために,あなたがたをその群れの監督者にお定めになったのです」。(エルサレム,欽定,新アも同様の表現を用いています。)しかし,新世界訳のこの節の後半の一部は,「[神]がご自身の[み子]の血」となっています。(今英も同様です。改標,1953年版は「ご自身の血で」となっていますが,1971年版は「ご自身のみ子の血で」となっています。ロザハムとダービーは単に「ご自身の血」としています。)
どの訳し方が,「[神の]御子イエスの血が,すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と記されているヨハネ第一 1章7節と一致していますか。(また,啓示 1:4-6も参照。)ヨハネ 3章16節で述べられているように,神がご自分の独り子を遣わされたのですか。それとも,神ご自身が人間として来て,わたしたちが命を持つことができるようにされたのですか。注がれたのは神の血ではなくて,神のみ子の血でした。
また,1985年版,参照資料付き新世界訳の付録,1772ページも参照。
バルバロ: 「太祖らも彼らのものであり,人間としてはキリストも彼らから出られた。キリストは万物の上にあって世々に賛美せられる神である。アメン」。(エルサレム,欽定も同様です。)しかし,新世界訳のこの節の後半は次のとおりです。「キリストも,肉によれば,彼らから出たのです。すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられますように。アーメン」。(改標,新英,今英,新ア,モファットはすべて新世と同様の表現を用いています。)
この節は,キリストが「万物の上に」,または「すべてのものの上に」おられ,またそれゆえにキリストは神であると述べているのですか。それとも,異なった別個の存在としての神とキリストとに言及し,神が「すべてのもの」の上におられると述べているのですか。ローマ 9章5節のどちらの訳し方がローマ 15章5,6節と一致しますか。この句はまず神とキリスト・イエスとを区別し,次いで,「わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえる」ことを読者に勧めています。(また,コリント第二 1:3とエフェソス 1:3も参照。)ローマ 9章のつづきの部分を考慮してみてください。6-13節までの箇所は,神の目的が肉による相続ではなく,神のご意志に基づいて成し遂げられることを示しています。14-18節は,出エジプト記 9章16節に記されているファラオに対する神の音信に言及し,神が万物の上に,つまりすべてのものの上におられることを強調しています。19-24節では,陶器師と陶器師が作る粘土の器を用いた類推によって神の優位性がさらに例証されています。ですから,5節の「すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられますように。アーメン」という表現は何と適切なのでしょう。―新世。
「新約聖書神学新国際辞典」はこう述べています。「ローマ 9:5は論議を呼んでいる。……この表現はキリストを指していると見るのは容易であり,また言語学的にも全く可能である。そう読むとすれば,この節は,『万物の上におられる神であるキリストは,永久にほめたたえられるように。アーメン』ということになるであろう。それでも,キリストは神と完全に同等であるということにはならず,ただ神の性質を備えた存在として描写されているにすぎないということになろう。というのは,テオスという語には冠詞が付されていないからである。……この言葉は神に対する頌栄であるというほうがずっと妥当な説明のようである」―(ミシガン州グランドラピッズ,1976年),ドイツ語からの英訳,第2巻,80ページ。
また,1985年版,参照資料付き新世界訳の付録,1772,1773ページも参照。
口語: 「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを,あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは,神のかたちであられたが,神と等しくあることを固守すべき事[「神と同等であることは奪い取ることである」,欽定]とは思わず」。(ドウェーも同様。共同,「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」; エルサレムも同様。)しかし,新世界訳はこの箇所の後半をこう訳しています。「彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること[ギリシャ語,ハルパグモン],つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした」。(改標,新英,今英,新アも同様の考えを表わしています。)
どの考えが文脈と一致しますか。5節は,ここで論じられている事柄の点でキリストに見倣うことをクリスチャンに勧めています。クリスチャンは「神と同等であること」を『奪い取ることではなく』て,自分たちの権利であるとみなすように勧告されたと考えられるでしょうか。決してそうではありません! しかし,クリスチャンは『自分が神と同等であるようにということなどは考えなかった』方を見倣うことができます。(新世)(創世記 3:5と比較。)また,この訳文は,「父はわたしより偉大な方(です)」と言われたイエス・キリストご自身の言葉と一致します。―ヨハネ 14:28。
「解説者のギリシャ語新約聖書」はこう述べています。「[ハルパゾー]もしくはその派生形[ハルパグモンを含む]のいずれかが『所有している』,『保持している』という意味を持っている箇所は一つも見いだせない。その語は決まって,『捕む』あるいは『乱暴に奪い去る』という意味を表わしているように思われる。したがって,『捕らえる』というその本来の意味をそれとは全く異なった『固守する』という意味にすり替えることは許されない」―(ミシガン州グランドラピッズ,1967年),W・ロバートソン・ニコル編,第3巻,436,437ページ,英文。
フランシスコ: 「実に,神[「神格」,欽定; ギリシャ語,テオテートス]のうちに満ちているものすべては,キリストのうちに形をとって宿って(いるのです)」。(新英,改標,エルサレム,新ア,ドウェーの訳文も同様の考えを表わしています。)しかし新世界訳はこうなっています。「キリストの中にこそ,神の特質の満ち満ちたさまが形を取って余すところなく宿ってい(ま)す」。(聖ア,現新および平英は「神格」とせず,「神の性質」としています。ペテロ第二 1章4節と比較。)
すべての翻訳がコロサイ 2章9節に関し同じ解釈を示しているのでないことは明らかです。しかし,どんな解釈が霊感を受けて記されたコロサイ人への手紙の残りの部分と一致しますか。キリストは三位一体の一部を成す神であるがゆえにご自分のものとなっている何ものかを,ご自身のうちに持っておられたのですか。それとも,ご自身のうちに宿っている「満ち満ちたさま」は,他者の決定でご自分のものとなったのですか。コロサイ 1章19節(欽定,ドウェー)によれば,満ちているものすべてがキリストのうちに宿ったのは,そうなることが「み父を喜ばせるもの」だからでした。新英訳によれば,それは『神ご自身の選びによる』事柄でした。
コロサイ 2章9節の直前の文脈を考えてみてください。読者は8節(新世)で,哲学や人間の伝統を唱道する者たちに惑わされないように警告されています。また,「知恵と知識のすべての宝は……キリストの中に隠されている」ことが指摘され,さらに「キリストに結ばれた者として生活し」,「キリストのうちに根を下ろし,自分を築きあげ,信仰を固め」るように勧められています。(3,6,7節,フランシスコ)その貴重な「満ちているもの」はキリストのうちに宿っているのであって,人間の哲学を考え出した者やそれを教える者たちのうちに宿っているのではありません。その句の中で使徒パウロは,キリストのうちにあった「満ちているもの」のゆえにキリストは神そのものになったと言っていますか。コロサイ 3章1節(フランシスコ)によれば,そうではありません。そこでは,キリストは「神の右の座に着いて」おられると言われているからです。―欽定,ドウェー,今英,新改参照。
リデルとスコット共編の希英辞典によれば,テオテース(この語形は主格で,テオテートスはその派生形)は「神性,神の性質」を意味します。(オックスフォード,1968年,792ページ,英文)本当に「神性」もしくは「神の性質」を有しているからといって,神の子としてのイエスが父と同等で,父と共に永遠に存在する方になるわけではありません。それは,すべての人間が共に「人間性」あるいは「人性」を有しているからといって,みな同等に,あるいはみな同じ年の者になるのではないのと同じです。
新改訳はこうなっています。「祝福された望み,すなわち,大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むように」。(改標,新英,エルサレム,フランシスコにも同様の言葉遣いが見られます。)しかし,新世界訳はこうなっています。「わたしたちは,幸福な希望と,偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです」。(新アも同様の訳し方をしています。)
どの翻訳が,「父なる神とわたしたちの救主キリスト・イエス」に言及しているテトス 1章4節と一致しますか。聖書はまた,神のことを救い主とも呼んではいますが,この句は明らかに神と,神が救いをもたらす手だてとしておられるキリスト・イエスとを区別しています。
テトス 2章13節は,キリストが神であると同時に救い主でもあることを示していると主張する人もいます。興味深いことに,改訂標準訳,新英訳聖書,エルサレム聖書,フランシスコ会訳はテトス 2章13節でそのような見方ができそうな訳し方をしていますが,テサロニケ第二 1章12節を訳す際にはこの同じ規則にしたがっていません。ヘンリー・アルフォードは「ギリシャ語新約聖書」の中で次のように述べています。「わたしの考えでは,[テトス 2章13節では神とキリストをはっきり区別する訳し方]のほうがこの文の文法的要求をすべて満足させるものであり,構文の点でも文脈の点でもより確実であり,また使徒の文体に一層合致するものであると思う」―(ボストン,1877年),第3巻,421ページ,英文。
また,1985年版,参照資料付き新世界訳の付録,1773,1774ページも参照。
改訂標準訳はこうなっています。「御子については,『神よ,なんじの王座はとわに続(く)』」。(欽定,新英,ドウェー,エルサレム,口語,フランシスコも同様の訳し方をしています。)しかし,新世界訳はこう訳しています。「しかしみ子についてはこうです。『神は限りなく永久にあなたの王座(である)』」。(聖ア,モファット,二十新,バイイングトンも同様の考えを表わしています。)
どの訳し方が文脈と調和していますか。この句の前の幾つかの節は,神が話しておられるのであって,語りかけられているのではないことを示しています。また,この句の次の節は「神,あなたの神は」(口語)という表現を用いて,至高の神に語りかけているのではなく,その神の崇拝者に語りかけていることを示しています。ヘブライ 1章8節には詩編 45編6節が引用されていますが,その言葉はもともとイスラエルのある人間の王に語りかけた言葉です。この詩編を書いた聖書筆者は,その人間の王が全能の神であると考えていなかったことは明らかです。むしろ,詩編 45編6節(改標)は,「神からのあなたの王座」となっています。(新英,「あなたの王座は神の王座のようである」。ユダヤ[7節],「神から賜ったなんじの王座」; 口語も同様。)もともと詩編 45編の中で語りかけられている王と考えられるソロモンは,「エホバの王座に」座したと言われています。(歴代第一 29:23,新世)神が「王座」,つまりキリストの王権の源で,その王権を支える方であるという事実と調和して,ダニエル 7章13,14節とルカ 1章32節は,神がそのような権威をキリストにお授けになることを示しています。
ヘブライ 1章8,9節には詩編 45編6,7節が引用されていますが,この詩編の句に関して聖書学者B・F・ウェストコットは次のように述べています。「七十人訳からは二通りの訳し方が考えられる。両方共[ホ テオス]は呼格(神よなんじの王座は,……それゆえに,神よ,なんじの神は……)と取ることもできれば,最初の場合には主語(あるいは述語)(神はなんじの王座,あるいはなんじの王座は神……)と取ることもでき,2番目の場合では[ホ テオス スー]と同格(それゆえに,神,すなわちなんじの神……)と取ることもできる。……原語の[エローヒーム]を用いて王に語りかけることができるとはまず考えられない。ゆえに,七十人訳では[ホ テオス]が呼格であるという考え方は妥当ではないと思われる。ゆえに,あらゆる点から見て,最初の句は,神はなんじの王座(あるいは,なんじの王座は神)と訳すのが最善であると思われる。これはすなわち,『なんじの王国は神,つまり不動の岩に基が据えられている』という意味である」―「ヘブライ人への書簡」(ロンドン,1889年),25,26ページ,英文。
欽定訳はこうなっています。「天において記録を有するもの三つあり。御父と御言葉と御霊なればなり。この三つは一つなり。また,地において証するものは三つ,霊と水と血となり。この三つ合いて一つとなる」。(ドウェーにも三位一体論者の用いる箇所が含まれています。)しかし新世界訳には,「天において……御父と御言葉と御霊(なり)。この三つは一つなり。また,地において証するものは三つ」という言葉は入っていません。(改標,新英,今英,エルサレム,共同もやはり三位一体論者の用いるこの箇所を省いています。)
本文批評家,F・H・A・スクリブナーは三位一体に関するこの箇所に関して次のように書きました。「論議を呼んだその言葉は聖ヨハネによって書かれたものではないという確信を表明することをためらう必要はない。これは8節に関する宗教的かつ正統的な注釈として欄外に書かれていたものが,最初アフリカでラテン語の写しの中に書き入れられたのである。そして,ラテン語の写しの中から後代の二,三のギリシャ語写本にいつの間にか挿入され,それから印刷されたギリシャ語本文に入ったが,その箇所はこの語句が入るべきところではない」―「平易な新約聖書本文批評入門」(ケンブリッジ,1883年,第3巻),654ページ,英文。
また,エルサレム聖書のこれらの節の脚注や,1985年版,参照資料付き新世界訳の付録,1772ページも参照。
三位一体論者によればその教義の原理を言い表わしているとされる他の聖句
その最初の聖句はただ子だけに言及しており,もう一つの聖句は父と子の両方に言及していますが,どちらも父と子と聖霊には言及しておらず,その三者がただひとりの神を構成しているとも述べていないことに注目してください。
イエスがこの箇所で述べた事柄は,ご自分が自分自身を死人の中から復活させることを意味していましたか。使徒 2章32節には,「このイエスを,神はよみがえらせた」とあるので,イエスの言われた事は,イエスが神であることを意味していますか。決してそうではありません。そのような見方は,イエスの復活を子によるものではなく,父によるものとしているガラテア 1章1節とは相いれません。ルカ 8章48節では,イエスが同様の表現形式を用いてある女に語られた,「あなたの信仰があなたをよくならせました」という言葉が記されています。その婦人は自分自身をいやしましたか。そうではありません。その人は信仰を持っていたゆえに,神からの力がキリストを通してその人をいやしたのです。(ルカ 8:46。使徒 10:38)同様に,イエスが人間として示された完全な従順は,父がイエスを死人の中からよみがえらせて,イエスを子として承認できる倫理的な根拠となりました。イエスは生涯忠実に歩まれたので,ご自分の復活に対してイエスご自身責任があると言うことができたのは当然です。
A・T・ロバートソンは「新約聖書の絵画的表現」の中で,こう述べています。「イエスが,『そうしたら,わたしは三日でそれを立てます』と言われた[ヨハネ]2章19節のことを思い起こしてもらいたい。イエスは動因としての父から独立してご自身を死人の中からよみがえらせることを意味してはいなかった(ローマ 8:11)」―(ニューヨーク,1932年),第5巻,183ページ,英文。
「わたしと父とは一つである」と言われたイエスは,おふたりが同等であることを意味しておられましたか。三位一体論者の中には,イエスがそういう意味で言われたのだと言う人もいます。しかし,ヨハネ 17章21,22節でイエスはご自分の追随者たちに関して祈り,「それは……彼らも一つになるためであります」と言われ,さらに,「わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです」と言われました。イエスはこれらすべての箇所で「一つ」を意味する同じギリシャ語(ヘン)をお用いになりました。イエスの弟子たちがみな三位一体の一部になるのでないことは明らかです。しかし,イエスの弟子たちは確かに,目的において父と子との一致にあずかるようになります。それは神とキリストが結ばれているのと同様の一致です。
三位一体を信じてそれに固執する人はどんな立場に立つことになりますか
非常に危険な立場に立たされます。三位一体の教義が聖書にないことや,聖書の教える事柄と調和しないことを示す証拠は議論の余地がありません。(この項の前述の資料参照。)この教理はまことの神のことを甚だしく誤り伝えるものです。しかしイエス・キリストはこう言われました。「ほんとうの礼拝者たちが,聖霊と真理に導かれて父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら,父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから,神を礼拝する者は,霊と真理とをもって礼拝しなければならない」。(ヨハネ 4:23,24,共同,改標)ですから,イエスは,『真理をもって』,つまり神ご自身のみ言葉の中に述べられている真理と調和した仕方で神を礼拝しない人は「ほんとうの礼拝者」ではないということを明らかにされました。イエスは1世紀のユダヤ人の宗教指導者たちに向かってこう言われました。「あなたがたは,自分たちの言い伝えのために,神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが,まさにそのとおりです。『この民は,口先ではわたしを敬うが,その心は,わたしから遠く離れている。彼らが,わたしを拝んでも,むだなことである。人間の教えを,教えとして教えるだけだから。』」(マタイ 15:6-9,新改)この言葉は,聖書の明白な真理よりもむしろ人間の言い伝え,つまり伝承を擁護する今日のキリスト教世界の人々に全く同様に当てはまります。
アタナシウス信経(英訳)は三位一体に関して,その三者は「理解することができない」事柄であると述べています。この教理について教える人は,多くの場合,それは「秘義」であると言います。このような三位一体の神は,「わたしたちは,自分の知っているものを礼拝している」と言われた時のイエスの念頭にあった神でないことは明らかです。(ヨハネ 4:22,フランシスコ,改標)あなたはご自分の崇拝している神を本当にご存じですか。
わたしたちは各々次のような重大な質問に直面します。わたしたちは真理を誠実に愛しているでしょうか。神との是認された関係を本当に願っているでしょうか。すべての人が真理を純粋に愛するわけではありません。真理に対する愛や神に対する愛よりも,親族や同僚から認めてもらうことを大切にした人は少なくありません。(テサロニケ第二 2:9-12。ヨハネ 5:39-44)しかし,イエスが天のみ父にささげた熱烈な祈りの中で言われたように,「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3,新世)そして,詩編 144編15節は事実に即して,「エホバをその神とする民は幸いだ!」と述べています。―新世。
こう言われたなら ―
『あなたは三位一体を信じていますか』
こう答えられます: 『それは今日,たいへん広く受け入れられている信仰ですね。しかし,それはイエスやイエスの弟子たちが教えた事柄ではなかったことをご存じですか。ですから,私たちは,イエスが崇拝しなさいと言われた神を崇拝しています』。それから,こう付け加えられます: (1)『イエスが教えておられた時,最大のおきてであると言われたおきてがここにこう書かれています。……(マルコ 12:28-30)』(2)『イエスはご自分が神と同等であると主張なさったことは一度もありませんでした。イエスはこう言われました。……(ヨハネ 14:28)』(3)『では,三位一体の教理にはどんな起源があるのでしょうか。有名な百科事典がそれについて述べていることを,ちょっとご覧ください。(160,161ページ参照。)』
あるいは,こう言えます: 『いいえ,信じてはおりません。と言いますのは,そのような信仰とどうしても合わない聖句があるのです。その一つがここにあります。(マタイ 24:36)説明していただけるでしょうか』。それから,こう付け加えられます: (1)『もし,子が父と同等でしたら,どうして父は子が知らない事柄をご存じなのでしょうか』。それはただイエスの人間性に関してのみそう言えたのだと相手の人が答えるなら,こう尋ねられます: (2)『しかし,聖霊はなぜそれを知らないのでしょうか』。(もしその人が真理に対する誠実な関心を示すなら,聖書が確かに神について述べている事柄を示せます。―詩編 83:18。ヨハネ 4:23,24)
こうも言えます: 『私たちは確かにイエス・キリストを信じておりますが,三位一体は信じておりません。どうしてでしょうか。私たちは使徒ペテロがキリストについて信じていた事柄を信じているからです。ペテロが述べたことをちょっとご覧ください……(マタイ 16:15-17)』。
ほかの提案: 『三位一体のことを持ち出される方でも,みなさんが同じ事柄を考えていらっしゃるわけではないようですね。どういう意味でそうおっしゃるのか話していただければ,もっとよくお答えできるかもしれないのですが』。それから,こう付け加えられます: 『ご説明いただき,ありがとうございます。しかし,私が信じている事柄は聖書が教えている事柄だけなのです。「三位一体」という言葉を聖書の中でご覧になったことがありますか。……(自分の聖書の用語索引を引き合いに出す。)では,聖書はキリストのことを述べているでしょうか。……述べていますね。ですから,私たちはキリストを信じております。この用語索引の「キリスト」の項のここに参照聖句の一つとしてマタイ 16章16節があります。(読む。)これが私の信じていることなのです』。
あるいは,こうも答えられます(相手の人が特にヨハネ 1章1節に注目する場合): 『その節のことはよく存じております。聖書の翻訳によっては,この句がイエスは「神(God)」であるとなっていますが,イエスは「神(a god)」であるとなっているものもあります。これはどうしてでしょうか』。(1)『それは,次の節がイエスは「神(God)と共に」おられたと述べているからでしょうか』。(2)『それはまた,このヨハネ 1章18節でこう述べられているからでしょうか』。(3)『イエスご自身だれか他の方を神として崇拝しておられるかどうかお考えになったことはありませんか。(ヨハネ 20:17)』
『あなたはキリストの神性を信じていますか』
こう答えられます: 『はい,信じております。しかし,あなたのおっしゃる「キリストの神性」と私の考えている神性とは同じではないように思います』。それから,こう付け加えられます: (1)『どうしてかと言いますと,イザヤ 9章6節でイエス・キリストのことが「力ある神」と言われていますが,聖書の中で全能の神と呼ばれているのはただみ父だけなのです』。(2)『また,イエスはヨハネ 17章3節でみ父のことを「唯一まことの神」と言っておられますね。ですから,イエスはいわばまことの神を反映している方と言えるでしょう』。(3)『神を喜ばせるにはわたしたちに何が求められているでしょうか。(ヨハネ 4:23,24)』