-
富の惑わす力ものみの塔 1963 | 3月15日
-
-
11 物質の必要に対してどう考えるのが正しい考え方ですか。
11 しかし信仰をなくして物質的になることなく,家族のために必要なものだけを備えるという考え方をすることもできます。それは正しい考え方です。神に仕えるといいながら,自分の家族を顧みない人は信仰を捨てたのであって,不信者よりも悪いのです。(テモテ前 5:8)同時に,神が日毎の糧を備えて下さるという信仰の祈りを忘れなければ,人は世俗の仕事に費やす時間を少なくして,宣教に多くをささげるでしょう。一般に生活が簡素な国々においては,テレビを見るのに長い時間をついやしたり,土曜日の午後,自動車をみがくのに忙しかったり,家の修理に追わたれりすることがなく,人は生活の中で本当に御国のことを第一にできます。イエスが教えたのは「日ごとの食物」を祈り求めることであって,5年先,10年先の必要を心配することではありません。―マタイ 6:11,新口。
12 イエスはマタ伝 6章24-34節においてどんな良いさとしを与えましたか。
12 イエスは次のように言葉をつづけました。「だれでも,ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。……あなたがたは,神と富とに兼ね仕えることはできない。それだから,あなたがたに言っておく。何を食べようか,何を飲もうかと,自分の命のことで思いわずらい,何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな」。異邦人が物質の富を切に求めているからといって,自分まで信仰のうすい者になる必要はありません。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。だから,あすのことを思いわずらうな。あすのことは,あす自身が思いわずらうであろう」。―マタイ 6:24-34,新口。
13 詩篇37篇は全時間奉仕に対してどんな励ましとなりますか。
13 これは何もしないで待っていれば,神が口の中に食物を入れてくれるという意味ではありません。鳥や動物でさえも,餌をさがします。それで自分のすべき分をはたせば,神は必要なものを備えて下さるという信仰を持つべきです。(詩 37:25,26)エホバほどに信頼のおける与え主はありません。では神への奉仕を生活の中で第一にすべきではありませんか。これは第一にするべきものを第一にする,真心からの奉仕でなければなりません。生命を与えて下さる創造主に奉仕する特権をまず第一に考慮するのは当然です。
14 金持ちが天国にはいることは難しいとイエスはなぜ言われましたか。
14 あるとき一人の若者がイエスに尋ねました,「先生,永遠の生命を得るためには,どんなよいことをしたらいいでしょうか」。まず神の律法を守って,神の戒めに従った生活をせよとイエスは答えました。若者はそのすべてを守ってきたのです。そこでイエスは言われました,「もしあなたが完全になりたいと思うなら,帰ってあなたの持ち物を売り払い,貧しい人々に施しなさい。そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,わたしに従ってきなさい」。しかしこれを聞いた若者は悲しみました。創造主に奉仕するよりも,自分の持つ大きな資産をこころにかけていたからです。ここに見られるように,大きな富を持つ人は多くの場合,金が万事になってしまいます。霊的なつりあいを失った人は,生活の万事につけ,金銭のことで頭がいっぱいになっています。そこでイエスは弟子たちに言われました,「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは,むずかしいものである」。―マタイ 19:16-26,新口。
15 信仰が弱いならば,どのようにして強くすることができますか。
15 霊的なつりあいを保つには,だれでもたゆまずに戦わねばなりません。物質のことを思いわずらって神への奉仕がおろそかになっているとすれば,おそらく信仰を働かせていないのでしょう。解決策はどこにありますか。信仰を強めなさい。神の言葉を学び,集会に出席して下さい。そこで良い交わりをし,神の御霊を十分に受けて信仰をよみがえらせることができるでしょう。家族と聖書を学び,また自分の知る真理を他の人に教えて信仰を表わし,霊的に強くなりなさい。仕事のために,聖書を学ぶ会衆の集会,清い崇拝をささげる大会に欠席してはなりません。信仰の人といえども,他にするべき仕事はありますが,「あなたがたの天の父は,これらのものが,ことごとくあなたがたに必要であることをご存じ」です。人は物質の富を持てば持つほど,聖書の真理を受け入れてそれを行なうことが難しくなります。このような人は,古い世に大きな杭を打ち込んでいるようなもので,杭が大きければそれだけ引き抜くことも困難です。イエスはつぎのようにたとえました,「富んでいる者が神の国にはいるよりは,らくだが針の穴を通る方が,もっとやさしい」。信仰がなければ,このような人はとおり抜けることができません。―マタイ 19:24,新口。
-
-
喜びをもってエホバに奉仕するものみの塔 1962 | 11月15日
-
-
喜びをもってエホバに奉仕する
マーガレット・ダンハムの経験談
詩篇記者はうたいました,「よろこびをいだきてエホバに事へ…感謝しつつその御門にいり,ほめたたえつつその大庭にいれ,感謝してその名をほめたたへよ。エホバはめぐみふかくそのあはれみかぎりなく,その真実よろづ世におよぶべければなり」。(詩 100:2,4,5)この言葉は,「エホバへの全時間奉仕についやした過去37年間が,私にとってどのようであったかを如実に表わしています。これらの年月の間に私は多くの経験をし,いろいろな土地に住みました。そしてエホバの恵みによっていつも喜びがありました。
忘れもません。私が初めてエホバの民と接触したのは,スコットランドのエジンバラにあった祖母の家で夏休みを過ごしていた10歳の子どもの時でした。祖母は日曜日に,創造の映画劇を見に連れて行ってくれました。それは,地球の創造からキリストの千年統治に至るまでの,地球と人類に対する神の御目的を描写した活動写真で,非常に印象的なものでした。それから何年かたって,私たちがエジンバラに来て住むようになってから,祖母はまた私に映画劇を見せるための手はずをしてくれました。それで私は学校友だちと一緒にそれを見に行きました。それでも,聖書研究生が私の母のところに来たのは,祖母が死んだのちのことでした。ほどなくして母も私も聖書研究生の集会に出席するようになりました。
その頃彼らは,キリスト教国の失敗を告げる決議文を配布していたので,私もその配布に参加しました。定期的にきちんと集会に出席するにつれて,エホバの善に関する知識と,被造物に対するその愛に満ちたご親切に対する感謝は徐々に深くなっていきました。エホバに奉仕したいという心の願いは強くなり,1923年の春私はエホバに献身し,水の洗礼によってその献身を表わしました。私の願いは自分の生涯を「喜びをもってエホバに仕える」ことに用いることでした。
エホバの大庭で奉仕することは,なんという量り知れぬ大きな特権なのでしょう! またなんと早く歳月の流れていったことでしょう!
「現在生存する万民は決して死する事なし」という聖書研究の小冊子を配布するために,初めて家のドアをノックしたのはつい2,3年まえのようにしか思えません。恥ずかしく思いましたが,力を与えてくださるようにエホバに祈りながら1度,2度,ノックしました。返事がありません。ほんとうにほっとしました。でも第一歩は踏み出されました。そして間もなく家の人が留守でないことを願うようになりました。
開拓者としての喜び
私の属する会衆の一グループと,スコットランドの北部で,いまでいう休暇開拓者としてふた夏の休みを楽しく過ごしたのに味をしめた私は,文書販売者としてエホバに全時間奉仕をしたいと考えました。そういうわけで,このグループの中のひとり,ジャネット・トムソンをパートナーにして,最初の任命地,スコットランドのミドロシアンに向けて出発したのは1925年のことでした。良いおとずれの開拓者であった7年間の私たちの主要な交通機関は自転車でした。私たちにはこの世の持物はたくさんありませんでしたが,大きな喜びをもっていました。宣教に心を打ち込んでいた私たちは,エホバが必要なものを備えてくださることを信じて疑いませんでした。そしてまたこれがいかに真実であるかが証明されました。詩篇記者が言ったとおりです,「わたしは,むかし年若かった時も,年老いた今も,正しい人が捨てられ,あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない」。―詩 37:25,新口。
-