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「僕」の試された忠誠は報われる世の苦難からの人間の救いは近い!
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かくかれ聖所と集会の幕屋と壇のために贖罪をなしてかの生ける山羊をひききたるべし 然る時アロンその生ける山羊の頭に両手をおきイスラエルの子孫のもろもろの悪事とそのもろもろのもとれる罪をことごとくその上にいひあらはしてこれを山羊の頭に載せ 選びおける人の手をもてこれを野におくるべし その山羊 彼らの諸悪を人なき地におひゆくべきなり すなはちその山羊を野におくるべし。―レビ 16:5-10,20-22,〔欽定訳〕。
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「僕」の試された忠誠は報われる世の苦難からの人間の救いは近い!
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5 イザヤ書 53章4,5節(新)の言葉遣いは,エホバの「僕」が対型的な「身代わりのやぎ」として仕えることをどのように示唆していますか。
5 イザヤの預言の53章によれば,エホバの「僕」は罪を負う者でした。それは西暦70年にローマ人によってエルサレムの都が滅ぼされるまでエホバの神殿で引き続き守られていた贖罪の日の身代わりのやぎによって,その特色が表わされていました。メシアなる「僕」は対型的な「身代わりのやぎ」として仕えることになっていましたが,預言者イザヤはその点を示して,さらにこう述べています。「誠に,わたしたちの病は彼が携え,わたしたちの痛みは彼がそれを負った。だが,わたしたちは,彼を悩まされ,神に撃たれ,苦しめられている者とみなした。しかし彼は,わたしたちの違犯のために刺し通され,わたしたちの過ちのために砕かれていた。わたしたちの平和のための懲罰が彼に臨み,彼の傷のゆえにわたしたちのための癒しがあった」― イザヤ 53:4,5,新。
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