聖書の26番目の書 ― エゼキエル書
筆者: エゼキエル
書かれた場所: バビロン
書き終えられた年代: 西暦前591年ごろ
扱われている期間: 西暦前613年-591年ごろ
1 バビロンにいた流刑の民はどんな状況にありましたか。彼らはどんな新しい試練に直面しましたか。
西暦前617年,ユダの王エホヤキンはエルサレムをネブカドネザルに明け渡しました。ネブカドネザルはその地の主立った人々を,エホバの家や王の家の財宝と共にバビロンへ連れ去りました。その捕らわれ人たちの中には,王の家族や君たち,勇敢で力のある者たち,職人や建築者たち,そして祭司ブジの子エゼキエルがいました。(列王第二 24:11-17。エゼキエル 1:1-3)それら流刑に処せられたイスラエル人は,沈んだ心を抱いて,丘や泉や谷のある地から,広大でたんたんとした平原の地への難儀な旅を終えたところでした。今や彼らは強大な帝国の中のケバル川のほとりで,見知らぬ習慣を持つ,異教の崇拝を行なう民に取り囲まれて生活することになりました。ネブカドネザルはイスラエル人が自分の家を持つこと,僕を使うこと,そして仕事に携わることを許しました。(エゼキエル 8:1。エレミヤ 29:5-7。エズラ 2:65)彼らは勤勉に働くなら,繁栄を楽しむこともできました。彼らはバビロンの宗教と物質主義のわなに陥るでしょうか。エホバに反逆し続けるでしょうか。流刑をエホバからの懲らしめとみなすでしょうか。彼らはこの流刑の地で新しい試練を受けようとしていたのです。
2 (イ)エルサレムが滅ぼされる前の危機的な時代に際立った存在となった3人の預言者はだれですか。(ロ)意義深いことに,エゼキエルは何と呼ばれていますか。エゼキエルの名前にはどんな意味がありますか。(ハ)エゼキエルはどんな期間に預言しましたか。彼の生涯と死に関してどんなことが知られていますか。
2 エルサレムの滅びに至るこの危機的な年月の間,エホバはご自分に対してもイスラエル人に対しても,預言者による奉仕の業がなされないままにはされませんでした。エレミヤはエルサレムに,ダニエルはバビロンの宮廷の中にいました。そして,エゼキエルはバビロニアにいるユダヤ人の流刑者たちに対する預言者だったのです。エゼキエルは祭司であり,同時に預言者でもありましたが,同様にこのような栄誉を受けた人としては,エレミヤと,後代のゼカリヤがいます。(エゼキエル 1:3)エゼキエルはその書の中で90回以上,「人の子」と呼ばれており,これは彼の預言の研究において注目すべき点となっています。なぜなら,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,イエスも同様に「人の子」として80回近く言及されているからです。(エゼキエル 2:1。マタイ 8:20)彼の名前エゼキエル(ヘブライ語,エヘズケール)には,「神は強めてくださる」という意味があります。エゼキエルがエホバによって預言者として任命されたのは,エホヤキンの流刑の第5年,すなわち西暦前613年のことでした。その22年後の流刑の第27年にも,彼は依然としてその務めに携わっていたことが記されています。(エゼキエル 1:1,2; 29:17)彼は結婚していましたが,彼の妻はネブカドネザルがエルサレムに対する最後の攻囲を始めた日に死にました。(24:2,18)エゼキエル自身が死んだ日,また彼がどのように死んだかは記されていません。
3 エゼキエルが筆者であること,それにエゼキエル書の正典性と信ぴょう性に関して何と言えますか。
3 エゼキエルが自分の名の付されているこの書を実際に書いたこと,またこの書が聖書の正典の中で正当な位置を占めていることに疑問の余地はありません。それはエズラの時代に正典に入っていましたし,初期クリスチャン時代の目録,特にオリゲネスの正典にも載っています。その信ぴょう性は,この書とエレミヤ書や啓示の書の象徴表現に見られる著しい類似点からも証明されます。―エゼキエル 24:2-12 ― エレミヤ 1:13-15。エゼキエル 23:1-49 ― エレミヤ 3:6-11。エゼキエル 18:2-4 ― エレミヤ 31:29,30。エゼキエル 1:5,10 ― 啓示 4:6,7。エゼキエル 5:17 ― 啓示 6:8。エゼキエル 9:4 ― 啓示 7:3。エゼキエル 2:9; 3:1 ― 啓示 10:2,8-10。エゼキエル 23:22,25,26 ― 啓示 17:16; 18:8。エゼキエル 27:30,36 ― 啓示 18:9,17-19。エゼキエル 37:27 ― 啓示 21:3。エゼキエル 48:30-34 ― 啓示 21:12,13。エゼキエル 47:1,7,12 ― 啓示 22:1,2。
4 エゼキエルの預言はどんな劇的な成就を見ましたか。
4 この書の信ぴょう性をさらに証拠づけるものとして,近隣諸国,例えばティルス,エジプト,エドムなどに関するエゼキエルの預言の劇的な成就を挙げることができます。一例として,エゼキエルはティルスの荒廃を預言しましたが,これはネブカドネザルが13年におよぶ攻囲の後その都市を攻め取った時に部分的な成就を見ました。(エゼキエル 26:2-21)この戦闘はティルスの全面的な終わりを意味するものではありませんでした。しかし,エホバの裁きによると,ティルスは完全に滅ぼされなければなりませんでした。エホバはエゼキエルを通してこのように予告しておられたからです。「わたしは彼女からその塵をこそげて,これを大岩の輝く,むき出しの表面とする。……あなたの石や,木工物や,塵を水の中に置くであろう」。(26:4,12)これは250年以上も後,アレクサンドロス大王がティルスの島の都市に侵攻した時にすべて成就しました。アレクサンドロスの兵士たちは本土の荒廃した都市の残がいをことごとくこそげて海中に投げ入れ,島に建てられた都市に向かって800㍍の突堤を築きました。それから,手の込んだ攻囲柵を用いて高さ約46㍍の城壁をよじ登り,西暦前332年にその都市を攻め取りました。幾千人もの人たちが殺され,さらに多くの人たちが奴隷として売られました。エゼキエルがさらに予告していたように,ティルスは『大岩のむき出しの表面,引き網の干し場』となりました。(26:14)a 約束の地の反対側では,不実なエドム人も滅ぼし尽くされ,エゼキエルの預言の成就となりました。(25:12,13; 35:2-9)b そして言うまでもなく,エルサレムの滅びとイスラエルの回復に関するエゼキエルの預言も正確であることが実証されました。―17:12-21; 36:7-14。
5 ユダヤ人はエゼキエルの初期の預言にどのように応じましたか。
5 エゼキエルは預言者としての活動を始めた初期のころ,神の裁きが不忠実なエルサレムに必ず臨むことをふれ告げ,流刑の民が偶像礼拝に陥ることがないようにと警告を与えました。(14:1-8; 17:12-21)捕らわれの身となっていたユダヤ人は,悔い改めの真実のしるしを少しも示しませんでした。責任のある立場の人たちは,度々エゼキエルに相談はしたものの,彼が伝えるエホバの音信に全く注意を払いませんでした。彼らはそれを意に介せず,偶像礼拝と物質主義的な行ないをやめようとはしませんでした。彼らは自分たちの神殿,聖なる都市,そして王朝を失って大きな衝撃を受けてはいましたが,目ざめて謙遜さと悔い改めを示したのはごくわずかな人たちにすぎませんでした。―詩編 137:1-9。
6 エゼキエルの後期の預言は何を強調していますか。エホバのみ名を神聖なものとすることはどんな重要な位置を占めていますか。
6 エゼキエルの後期の預言は回復の希望を強調しました。その預言はまた,ユダの崩壊を歓喜した近隣の諸国を非難するものでした。彼らが辱めを受け,イスラエルが回復することは,彼らの目の前でエホバを神聖なものとすることになります。捕囚と回復の目的は,『ユダヤ人であれ,諸国民であれ,あなた方はわたしがエホバであることを知らなければならなくなる』ということに要約されます。(エゼキエル 39:7,22)エホバのみ名がこうして神聖なものとされることが,この書全体を通して強調されており,「あなた方[あるいは,彼ら]はわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」という表現が60回以上出てきます。―6:7,脚注。
エゼキエル書の内容
7 エゼキエル書はどのように自然に三つの部分に区分されますか。
7 エゼキエル書は三つの自然な区分に分けられます。最初の部分は1章から24章までで,エルサレムが必ず滅びるという警告を含んでいます。第2部は25章から32章までで,幾つかの異教諸国民の滅びに関する預言を含んでいます。最後の部分は33章から48章までで,回復の預言から成っており,新しい神殿と聖なる都市の幻をもって最高潮に達しています。預言は大部分,年代順に,また題目別に書き記されています。
8 エゼキエルは最初の幻で何を見ますか。
8 エホバはエゼキエルを見張りの者として任命する(1:1-3:27)。西暦前613年の最初の幻で,エゼキエルは,雲塊と震え動く火を伴った激しい風が北から起こるのを見ます。その中から,翼を持ち,人とライオンと雄牛と鷲の顔をした四つの生き物が現われます。その外見は燃える炭火のようです。その各々には,恐ろしいほど丈の高い輪の中にはまった輪のようなものが伴っており,その輪の外縁には目がいっぱいについていました。それらは常に一致を保ちつつ,どんな方向にも進みます。それらの生き物の頭上には大空のようなものがあり,その大空の上には王座があって,『エホバの栄光のようなもの』が座しています。―1:28。
9 エゼキエルの任務には何が関係していますか。
9 エホバは,ひれ伏しているエゼキエルに,「人の子よ,あなたの足で立ち上がれ」と呼びかけます。次いで,イスラエルと周囲の反逆の国々に対する預言者として彼を任命されます。彼らが聴き従うかどうかは問題ではありません。少なくとも,彼らは自分たちの中に主エホバの預言者がいたことを知るでしょう。エホバはエゼキエルに巻き物の書を食べさせます。それは彼の口の中で蜜のように甘く感じられます。エホバは彼にこう告げます。「人の子よ,わたしはあなたをイスラエルの家に対する見張りの者とした」。(2:1; 3:17)エゼキエルは忠実に警告を与えなければなりません。さもなければ,彼は死ぬことになります。
10 イスラエルに対するどんなしるしをエゼキエルは演じますか。
10 エルサレムの攻囲を演じる(4:1-7:27)。エホバは一つのれんがにエルサレムの略図を刻み込むようエゼキエルに告げます。彼はイスラエルに対するしるしとして模擬攻囲を演じなければなりません。要点を印象づけるために,彼はそのれんがの前で左側を下にして390日間,右側を下にして40日間,しかもごく少量の食事を取りながら横たわらなければなりません。エゼキエルがこの場面を実際に演じたことは,彼が料理のための燃料を変えてくださいと訴えていることからも明らかです。―4:9-15。
11 (イ)エゼキエルは攻囲の悲惨な最後をどのように描き出しますか。(ロ)救済の道がないのはなぜですか。
11 エホバはエゼキエルに髪の毛とあごひげをそり落とさせることにより,攻囲の悲惨な最後を描き出させます。彼はその三分の一を焼き,三分の一を剣でたたき切り,残りの三分の一を風に散らさなければなりません。このように,攻囲の終わりにエルサレムの住民のある者たちは飢きんと疫病,また剣によって死に,残りの者たちは諸国民の間に散らされることになるのです。エホバはエルサレムを荒廃させます。なぜですか。その堕落した忌むべき偶像礼拝が甚だしい不快感を催させるからです。富で救済を買うことはできません。エホバの憤怒の日にエルサレムの民は自分たちの銀をちまたに捨てることでしょう。そして「彼らはわたしがエホバであることを知らなければならなく」なります。―7:27。
12 エゼキエルは背教したエルサレムに関する幻の中でどんな忌むべきものを見ますか。
12 背教のエルサレムに関するエゼキエルの幻(8:1-11:25)。時は西暦前612年です。エゼキエルは幻によって,遠く離れたエルサレムに移されます。そして,エホバの神殿で行なわれている忌むべきことを見ます。中庭にはエホバのねたみを引き起こす忌むべき象徴があります。壁に穴を掘り抜いたエゼキエルは,壁に刻まれた忌み嫌うべき獣の彫り物や糞像の前で年長の者70人が崇拝をささげているところを見ます。彼らは,「エホバはわたしたちを見ていない。エホバはこの地を捨てたのだ」と言い訳をします。(8:12)北の門では女たちが異教の神タンムズのために泣いています。それだけではありません。事もあろうに,神殿の入口の所で25人の人たちが神殿に背を向けて,太陽を崇拝しているではありませんか。彼らは面と向かってエホバを冒とくしているのです。エホバは当然,激しい怒りを抱いて行動されるでしょう。
13 亜麻布をまとった人と武器を携えた6人の人はどんな命令を遂行しますか。
13 今度は,打ち砕く武器を手にした6人の者が現われます。彼らと共にいる7番目の人は,亜麻布をまとい,書記官のインク入れを携えています。エホバは亜麻布をまとったその人に都の中を通って行くように,そして,その中で行なわれている忌むべきことのために嘆息し,うめいている者たちの額に印を付けるように告げます。次に,エホバはその6人の者に,都に入って行って,印のない者すべてを,「老人も,若者も,処女も,小さな子供も,女たちも」殺すように命じます。彼らは命令を実行して,家の前にいる老人たちから始めます。亜麻布をまとった人はこう報告します。「わたしはあなたがわたしに命じられた通りに行ないました」。―9:6,11。
14 その幻はエホバの栄光とその裁きに関して最後に何を明らかにしますか。
14 エゼキエルはエホバの栄光がケルブたちの上に上って行くのを再び見ます。ひとりのケルブが車輪の間から炭火を突き出します。そして,亜麻布をまとった人がそれを取り,都の上にまき散らします。イスラエルの散らされた者たちに関して,エホバは彼らを再び集め,彼らに新しい霊を授けると約束されます。しかし,エルサレムにいるこれら邪悪な,偽りの崇拝者たちはどうなりますか。「わたしは彼らの道を彼らの頭に必ずもたらすであろう」とエホバは言われます。(11:21)エホバの栄光が都の上から上って行くのが見えます。その後エゼキエルは,流刑の民にその幻を告げます。
15 エゼキエルはさらにどんな行動によって,エルサレムの住民が必ず捕らわれの身となることを示しますか。
15 エルサレムに関する預言がバビロンでさらに語られる(12:1-19:14)。エゼキエルは別の象徴的な場面で役を演じます。彼は昼間,自分の家から流刑のための荷物を持ち出します。そして夜になって,彼は顔を覆い,壁の穴(多分,自分の住まいの壁)から出て行きます。彼はこれが異兆であることを説明し,「彼らは流刑の身,捕らわれの身となって行く」と言います。(12:11)自分の霊にしたがって歩む愚鈍な預言者たち! 彼らは,平安がないのに,「平安だ!」と叫んでいます。(13:10)たとえノア,ダニエル,ヨブがエルサレムにいたとしても,彼らは自分たち以外のどんな魂をも救い出すことはできないでしょう。
16 エルサレムが全く無価値なものであることはどのように描写されていますか。それなのになぜ回復がありますか。
16 都市エルサレムは無価値なぶどうの木のようです。その木はさおを作るにも,いえ,掛けくぎを作るにも用をなしません。その両端は焼けており,中間も焦げています。全く何の役にも立ちません。エルサレムは何と不忠実な,無価値なものとなってしまったのでしょう。彼女はカナン人の地で生まれましたが,捨て子としてエホバに拾われました。エホバは彼女を養育し,彼女と結婚の契約を結び,彼女を美しくし,「王位にふさわしい者」とされました。(16:13)ところが,彼女は売春婦となり,通りかかる諸国民を頼みとするようになりました。彼女は彼らの像を崇拝し,自分の子らを火の中で焼きました。彼女はそれらの諸国民,すなわち自分の愛人たちの手に掛かって滅ぼされ,最期を迎えます。彼女は自分の姉妹ソドムやサマリアよりも悪い者となりました。それにもかかわらず,憐れみに富む神エホバは,彼女のために贖罪を行ない,ご自分の契約にしたがって彼女を回復させてくださるのです。
17 鷲とぶどうの木のなぞによってエホバは何を示そうとされましたか。
17 エホバは預言者エゼキエルになぞを与え,その解き明かしをされます。それはエルサレムがエジプトに助けを求めて頼ることの無益さを例証するものです。大鷲(ネブカドネザル)が来て,高大な杉の頂(エホヤキン)を摘み取り,これをバビロンに連れて行き,彼の替わりに一つのぶどうの木(ゼデキヤ)を植えます。そのぶどうの木は別の鷲(エジプト)に向かってその枝を伸ばしますが,それは成功するでしょうか。それは根元から引き抜かれます。エホバご自身も高大な杉のこずえから柔らかい小枝を取り,これを高くて高大な山の上に植え替えられます。それはそこで壮大な杉の木となり,「あらゆる翼のすべての鳥」のための休み場となります。すべてのものはエホバがこれを行なわれたことを知らなければならなくなります。―17:23,24。
18 (イ)ユダヤ人の流刑の民を戒める際,エホバはどんな原則を述べられますか。(ロ)どんな裁きがユダの王たちを待ち受けていますか。
18 エホバは,「父たちが熟していないぶどうを食べるのに,子らの歯が浮く」とユダヤの流刑の民が述べる格言的なことばに関して,彼らに戒めを与えます。そうではなく,「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」のです。(18:2,4)義なる者は生きつづけます。エホバは邪悪な者の死を喜ばれません。エホバは,邪悪な者がその悪い道を離れて生きること,それを見ることを喜びとされます。ユダの王たちは,若いライオンのようにエジプトとバビロンによってわなで捕らえられます。彼らの声が「イスラエルの山々の上でもはや聞かれること」はありません。―19:9。
19 (イ)滅びが迫っているにもかかわらず,エゼキエルはどんな希望を明らかにしますか。(ロ)彼はイスラエルとユダの不忠実さとその結果をどのような例えを用いて説明しますか。
19 エルサレムに対する糾弾(20:1-23:49)。時は西暦前611年に移ります。流刑の民の中にいる長老たちがエホバに伺うために再びエゼキエルのもとに来ます。しかし彼らが聞かされることは,イスラエルの反逆と堕落した偶像礼拝の長い歴史に関する詳しい説明,そして,イスラエルに対して裁きを執行するためにエホバが剣を呼び出されたという警告でしかありません。エホバはエルサレムを「破滅,破滅,破滅」とされます。しかし,輝かしい希望もあります。エホバは王権(「冠」)を,「法的権利」を持って到来する者のために保有し,これをその者にお与えになります。(21:26,27)エゼキエルは,「血の罪を負った都市」エルサレムで行なわれた忌むべき事柄をもう一度述べます。イスラエルの家は「浮きかす」のようになりました。彼らはエルサレムに集め入れられ,そこで炉に入れられたかのように溶解させられます。(22:2,18)サマリア(イスラエル)とユダの不忠実さが二人の姉妹の例えによって示されています。オホラという名のサマリアはアッシリア人に対して売春を行ない,自分の愛人たちによって滅ぼされます。オホリバという名のユダは教訓を学ばず,それよりもさらに悪いことを行ない,最初にアッシリアに,次いでバビロンに対して売春を行ないます。彼女は完全に滅ぼされることでしょう。「そしてあなた方はわたしが主権者なる主エホバであることを知らなければならなく」なります。―23:49。
20 攻囲されたエルサレムは何になぞらえられますか。エホバはエルサレムに対するご自分の裁きに関してどんな強力なしるしをお与えになりますか。
20 エルサレムに対する最終的な攻囲が始まる(24:1-27)。時は西暦前609年に移ります。エホバはバビロンの王が第10の月の十日にエルサレムを攻囲したことをエゼキエルに告げます。エホバは城壁に囲まれたこの都市を広口の料理なべになぞらえます。その中に肉として,えり抜きの住民が入っています。それを熱くせよ! 沸騰させ,エルサレムの忌まわしい偶像礼拝の汚れをことごとく除き去れ! その同じ日にエゼキエルの妻は死にます。しかし,エホバに従順を示し,預言者は喪に服するのを控えます。これは,民がエルサレムの滅びの時に喪に服してはならないことのしるしとなります。それはエホバからの裁きであり,エホバがだれであるかを人々が知るためのものだからです。エホバは,「美しいその歓喜の的」の滅びを伝えるために,逃れた一人の人を遣わされます。その人が到着するまで,エゼキエルは流刑の民にもう何も話してはなりません。―24:25。
21 諸国民はエホバとその復しゅうをどのように知らなければならなくなりますか。
21 諸国民に対する預言(25:1-32:32)。エホバは周囲の諸国民がエルサレムの崩壊を見て歓び,それをユダの神をそしる良い機会とすることを予見されます。彼らは処罰を免れられません。アンモンは東洋人に渡されます。同じくモアブもです。エドムは荒れ廃れた場所となり,フィリスティア人に対しては大いなる復しゅうの行為が行なわれます。彼らは皆,「わたしが彼らにわたしの復しゅうをもたらすとき……わたしがエホバであることを知らなければならなくなる」と,エホバは言われます。―25:17。
22 ティルスはどのように特に取り上げられていますか。シドンに関してエホバはどのように神聖なものとされますか。
22 エゼキエル書にはティルスのことが特に取り上げられています。富み栄える交易を誇るティルスは,海洋の中に浮かぶ麗しい船のようです。しかし,それも水の深みの中で打ち砕かれて横たわることになります。「わたしは神である」と,ティルスの指導者は豪語します。(28:9)エホバはご自分の預言者に,ティルスの王に関する次のような哀歌を述べさせます。彼は油そそがれたケルブとして神の園エデンにいた。しかし,エホバは彼を汚れた者としてご自分の山から追い出し,彼は自分の内から出る火によってむさぼり食われる。エホバは,侮べつの態度を取るシドンに滅びをもたらすことによっても,ご自分が人々から神聖なものとされるであろう,と言われます。
23 エジプトは何を知らなければならなくなりますか。それはどのようにして起こりますか。
23 エホバはエゼキエルに,今度は顔をエジプトとそのファラオに向け,彼らに対して預言するようにと告げます。「わたしのナイル川はわたしのもの。わたしが ― わたしが自分のためにこれを作ったのだ」とファラオは自慢します。(29:3)ファラオも,彼を信じているエジプト人も,エホバが神であることを知らなければならなくなります。そしてその教訓は,40年に及ぶ荒廃という形で彼らに与えられます。ここでエゼキエルは,実際にはその時より後の西暦前591年に自分に啓示された情報を挿入しています。エホバはネブカドネザルに,苦労してティルスを破ったその報酬としてエジプトをお与えになります。(ティルス人が自分たちの富のほとんどを携えて島の都市に逃げたため,ネブカドネザルはティルスではほとんど分捕り物を得なかった。)エゼキエルは哀歌の中で,ネブカドネザルがエジプトの誇りを奪略することを知らせています。そして,「彼らもわたしがエホバであることを知らなければならなく」なります。―32:15。
24 (イ)見張りの者としてのエゼキエルの責任は何ですか。(ロ)エルサレムの崩壊の知らせを聞いて,エゼキエルは流刑の民にどんな音信をふれ告げますか。(ハ)34章ではどんな祝福の約束が強調されていますか。
24 流刑の民に対する見張りの者。回復が予告される(33:1-37:28)。エホバはエゼキエルと共に彼の見張りの者としての責任を再確認されます。民は,「エホバの道は正しく調整されていない」と言っています。それゆえ,エゼキエルは彼らがどんなに間違っているかを明らかにしなければなりません。(33:17)しかし,やがて西暦前607年,第10の月の五日となります。c エルサレムから逃げ延びて来た人が到着して,「都は打ち倒されました!」と預言者に告げます。(33:21)再び流刑の民に話すことができるようになったエゼキエルは,彼らがユダを救い出そうとどんな考えを抱いても無駄であることを彼らに告げます。彼らはエホバの言葉を聞くためにエゼキエルのもとにやって来ますが,エゼキエルは彼らにとって,愛の歌を歌う者,上手に弦楽器を奏でる美しい声の持ち主のような者にすぎません。彼らは注意を払いません。しかし,エホバの言葉が真実のものとなる時,彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るでしょう。自らを養うために群れの羊を捨ててしまった偽りの牧者たちをエゼキエルは叱責します。完全な牧者であるエホバは,散らされた羊を集め,彼らをイスラエルの山にある肥えた牧草地に導きます。エホバはそこで彼らの上に一人の牧者を,『すなわち,ご自分の僕ダビデ』を起こされます。(34:23)エホバご自身が彼らの神となられるのです。エホバは平和の契約を結び,彼らの上に祝福の雨を注がれます。
25 (イ)なぜ,またどのようにエホバはイスラエルの地をエデンのようにされますか。(ロ)乾いた骨の幻と二つの棒の幻はそれぞれ何を示していますか。
25 エゼキエルは再びセイル山(エドム)に関して荒廃を預言します。しかし,イスラエルの荒れ廃れた場所は再建されます。エホバがご自分の聖なる名に同情を抱き,諸国民の前でそれを神聖なものとされるからです。エホバはご自分の民に新しい心と新しい霊をお与えになり,彼らの地は再び「エデンの園のように」なります。(36:35)エゼキエルは今度は,乾いた骨に満ちた谷として表わされているイスラエルの幻を見ます。エゼキエルはそれらの骨に対して預言します。それらは奇跡的に再び肉を付け,息をし,命を得るようになります。それと同じく,エホバはバビロンにおける捕囚の埋葬所を開き,イスラエルを自分の地に再び戻されるのです。エゼキエルはイスラエルの二つの家,すなわちユダとエフライムを表わす2本の棒を取ります。それらは彼の手の中で1本の棒になります。このように,エホバがイスラエルを回復される時,彼らはエホバの僕「ダビデ」のもとで平和の契約のうちに結合させられます。―37:24。
26 マゴグのゴグはなぜ攻撃しますか。どんな結果になりますか。
26 マゴグのゴグは回復したイスラエルを攻撃する(38:1-39:29)。次に,別の方面から侵入して来る者がいます。回復したエホバの民の平安と繁栄を見せつけられ,攻撃心に駆られたマゴグのゴグは,狂気のように攻めかかります。彼はエホバの民を呑み込もうとして攻め入ります。これに対して,エホバはご自分の憤怒の火のうちに立ち上がられます。エホバは各人の剣をその兄弟の剣に向かわせ,疫病,血,みなぎりあふれる雹の雨,火と硫黄を彼らの上に降らせます。彼らはエホバが「イスラエルの聖なる者」であることを知って下って行きます。(39:7)そして,エホバの民は敵たちの打ち砕かれた戦いの武器で火をたき,“ゴグの群衆の谷”に骨を埋めます。(39:11)腐肉をついばむ鳥や獣が打ち殺された者たちの肉を食べ,彼らの血を飲みます。それから後は,イスラエルはだれにもおののかされることなく安らかに住み,エホバは彼らの上にご自分の霊を注ぎ出されます。
27 幻によってイスラエルの地に来たエゼキエルは何を見ますか。神の栄光はどのように現われますか。
27 神殿に関するエゼキエルの幻(40:1-48:35)。時は西暦前593年に移ります。それはソロモンの神殿が破壊されてから14年目であり,流刑の民の中の悔い改めた者たちは励ましと希望を必要としていました。エホバはエゼキエルを幻の中でイスラエルの地に移し,非常に高い山の上に彼を下ろされます。そこで,すなわち幻の中で,彼は神殿を,そして「南の方に都市の建造物」を見ます。ひとりのみ使いは,「あなたの見ていることをことごとくイスラエルの家に告げよ」と指示します。(40:2,4)次いで,彼はエゼキエルに神殿とその中庭のすべての詳細を見させ,城壁,門,監視の間,食堂を測り,聖所と至聖所を持つ神殿そのものをも測ります。彼はエゼキエルを東の門に連れて行きます。「すると,見よ,イスラエルの神の栄光が東の方向から来るところであった。その声は広大な水の音のようであった。地はその栄光のゆえに輝いた」。(43:2)み使いはエゼキエルに家(すなわち神殿),祭壇とその犠牲,祭司,レビ人,長たちの権利と義務,および土地の分配に関して詳しい指示を与えます。
28 家から出る水の流れに関してエゼキエルの幻は何を示していますか。都市とその名について何が明らかにされますか。
28 み使いはエゼキエルを家の入口に連れ戻します。預言者はそこで,家の敷居から水が出て東に向かい,祭壇の南側のそばを流れて行くのを見ます。初めは細流ですが,段々と水かさを増し,ついには奔流となります。次いで,それは死海に注ぎ込み,そこで魚が生きたものとなり,漁業が興ります。奔流のどちらの側にも木々があって,民のために食物といやしを与えます。幻は次に,12部族の相続地を示します。外人居留者や長たちも無視されてはいません。そして幻は,各部族の名の付けられた12の門を持つ,南に面した聖なる都市を描写します。その都市は,“エホバ自らそこにおられる”という極めて輝かしい名で呼ばれることになります。―48:35。
なぜ有益か
29 ユダヤ人の流刑の民はエゼキエルの預言からどんな益を受けましたか。
29 エホバがエゼキエルにお与えになった宣告,幻,そして約束は,流刑の地にいたユダヤ人にすべて忠実に伝えられました。多くの人は預言者エゼキエルを嘲笑し,あざけりましたが,彼の話すことを信じる人も少しはいました。それら信じた人たちは大きな益を受けました。彼らは回復の約束によって力づけられました。捕らわれの身となった他の諸国民とは異なり,彼らは国民としての存在を保ち,エホバはご自分の予告どおり,西暦前537年に残りの者たちを帰還させました。(エゼキエル 28:25,26; 39:21-28。エズラ 2:1; 3:1)彼らはエホバの家を再建し,そこで真の崇拝を再開しました。
30 エゼキエル書に述べられているどんな原則は今日のわたしたちにとっても重要ですか。
30 エゼキエル書に述べられている原則もまた,今日のわたしたちにとって非常に重要です。反逆と結び付いた背教と偶像礼拝は,必ずエホバの不興を被ります。(エゼキエル 6:1-7; 12:2-4,11-16)人は各々自分の罪に対して責めを負いますが,自分の悪い道から立ち返る者をエホバは許してくださいます。その者は憐れみを受け,生き続けます。(18:20-22)神の僕たちは,たとえ困難な仕事を割り当てられても,あるいは嘲笑やそしりを受けても,エゼキエルのような忠実な見張りの者でなければなりません。邪悪な者がわたしたちの警告を受けずに死ぬようなことがあってはなりません。そうなれば,彼らの血はわたしたちの頭に帰することになります。(3:17; 33:1-9)神の民の牧者たちは群れを世話する重い責任を負っています。―34:2-10。
31 エゼキエルのどんな預言がメシアの到来を予告していますか。
31 エゼキエル書の中で顕著な点はメシアに関する預言です。メシアはダビデの王座に対する「法的権利を持つ者」として述べられており,それはこの方に与えられなければなりません。彼は2箇所で「わたしの僕ダビデ」として,また「牧者」,「王」,「長」として述べられています。(21:27; 34:23,24; 37:24,25)ダビデはずっと前に死んでいたのですから,ダビデの子,また主である方についてエゼキエルは話していたのです。(詩編 110:1。マタイ 22:42-45)イザヤと同じくエゼキエルも,エホバによって高められる柔らかい小枝の植えられることについて述べています。―エゼキエル 17:22-24。イザヤ 11:1-3。
32 エゼキエルの神殿の幻は「聖なる都市」についての啓示の書の幻とどのように比較されますか。
32 エゼキエルの神殿の幻を「聖なる都市エルサレム」に関する啓示の書の幻と比較するのは興味深いことです。(啓示 21:10)両者には相違が見られます。例えば,エゼキエルの神殿は都市とは別個になっていて,都市の北に位置しています。他方,啓示の書では,エホバご自身が都市の神殿となっています。しかしいずれの場合にも,命の川の流れと,月ごとに実を結び,いやしのための葉をつける木と,エホバの栄光の臨在があります。いずれの幻も,エホバの王権に対する認識と,エホバに神聖な奉仕をささげる者たちのための救いの備えに対する認識を深めるのに役立ちます。―エゼキエル 43:4,5 ― 啓示 21:11。エゼキエル 47:1,8,9,12 ― 啓示 22:1-3。
33 エゼキエルは何を強調していますか。自分の生活の中で今エホバを神聖なものとする人たちはどうなりますか。
33 エゼキエル書はエホバが聖なる方であることを強調しています。その書はエホバのみ名の聖化が何にも増して重要であることを知らせています。「『わたしは……わたしの大いなる名を必ず神聖なものとするであろう。そして諸国民はわたしがエホバであることを知らなければならなくなる』と,主権者なる主エホバはお告げになる」。預言が明らかにしているように,エホバはマゴグのゴグをも含めて,ご自分のみ名を汚すすべての者を滅ぼすことによってそのみ名を神聖なものとされます。受け入れられる崇拝に関する神のご要求を満たし,自分の生活の中で今,エホバを神聖なものとすることこそ,すべての人にとって賢明な道です。そうする人たちは,エホバの神殿から流れ出る川によって,いやしと永遠の命を見いだすことでしょう。“エホバ自らそこにおられる”と呼ばれるこの都市は,何ものにも勝る栄光と,たぐいのない美しさに包まれた都市なのです。―エゼキエル 36:23; 38:16; 48:35。
[脚注]
a 「聖書に対する洞察」(英文),第2巻,531,1136ページ。
b 「聖書に対する洞察」(英文),第1巻,681,682ページ。
c マソラ本文によると,エルサレムから逃げ延びて来た人が到着したのは12年目となっています。しかし,「11年目」となっている写本もあり,ラムサ訳,モファット訳,またアメリカ訳ではそのように訳されています。