敵対者たちは,イエスの信用を落とすことも,わなに掛けてローマ人に引き渡すこともできませんでした。(ルカ 20:20)それでイエスはニサンの11日,まだ神殿にいる時に形勢を逆転させます。自分が誰かを明らかにし,こう切り出します。「キリストについてどう考えますか。彼は誰の子ですか」。(マタイ 22:42)キリストつまりメシアがダビデの家系から生まれることはよく知られています。それで彼らは,ダビデの子であると答えます。(マタイ 9:27; 12:23。ヨハネ 7:42)
そこでイエスはさらに質問します。「では,どうしてダビデは,聖霊によって彼を主と呼んでいるのですか。こう言っています。『エホバは私の主に言いました。「私があなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,私の右に座っていなさい」』。ダビデが主と呼んでいるのであれば,どうしてダビデの子でしょうか」。(マタイ 22:43-45)
パリサイ派の人たちは黙っています。彼らは,ダビデの家系に生まれる人間がローマの支配から解放してくれると期待しているからです。しかしイエスは,詩編 110編1,2節のダビデの言葉を基に,メシアがただの人間の支配者ではないことを証明します。メシアとはダビデの主であり,神の右に座った後に支配を開始するのです。これを聞いた敵対者たちは沈黙してしまいます。
弟子たちを含め大勢の人が聞いています。そこでイエスは,律法学者やパリサイ派の人たちに関する警告を与えます。彼らは神の律法を教えることによって「モーセの座に座っています」。イエスはこう教えます。「その人たちが告げることは全て行い,守りなさい。しかし,その行いに倣ってはなりません。その人たちは言いはしますが,実行しないからです」。(マタイ 23:2,3)
そして彼らの偽善の例を取り上げ,「お守りとして身に着ける聖句箱を大きく」している,と話します。あるユダヤ人たちは,律法の数節を記したものを小さい箱に入れ,額や腕に着けていました。しかしパリサイ派の人たちは,律法を守ることに熱心であるという印象を与えるため,その箱を大きくしています。さらに,「服の裾を長くしています」。イスラエル人は服の裾に飾りを付けなければなりませんでしたが,パリサイ派の人たちはその飾りをやたらと長くしていました。(民数記 15:38-40)全ては「人に見せるため」でした。(マタイ 23:5)
弟子たちも目立ちたいという考え方の影響を受けていたようです。それでイエスはこう教えます。「あなたたちは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたたちの先生はただひとりであり,あなたたちは皆,兄弟だからです。また,地上の誰をも父と呼んではなりません。あなたたちの父はただひとり,天にいる方だからです。また,指導者と呼ばれてもなりません。あなたたちの指導者はキリストひとりだからです」。では,自分についてどんな見方をし,どう行動すべきなのでしょうか。イエスはこう続けます。「あなたたちの間で一番偉い人は奉仕者でなければなりません。高慢になる人は低く評価され,謙遜になる人は高く評価されるのです」。(マタイ 23:8-12)
次にイエスは,偽善的な律法学者とパリサイ派の人たちが悲惨であることを指摘します。「偽善者である律法学者とパリサイ派の人たち,あなた方は悲惨です! 人の前で天の王国を閉ざすからです。自分自身が入らず,入ろうとする人をも入らせません」。(マタイ 23:13)
イエスは,彼らが神にとって重要なことを全く無視し,自分勝手な区別を設けていることを非難します。例えば彼らは,「神殿に懸けて誓っても,守らなくてよい。しかし,神殿の金に懸けて誓うなら,義務を負う」と言います。彼らは道徳的に盲目です。エホバを崇拝し,エホバに近づくための場所よりも,神殿の金の方を重視しているのです。そのようにして,「律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視して」います。(マタイ 23:16,23。ルカ 11:42)
イエスはパリサイ派の人たちを「目が見えない案内人たち」と呼び,「あなた方は,ブヨはこし取りながらラクダをのみ込んでいます!」と言います。(マタイ 23:24)彼らはぶどう酒からブヨをこし取りますが,それはブヨが儀式上汚れたものだからです。しかし,彼らは律法のより重大な事柄を無視しています。それは,ブヨと同じように儀式上汚れていて,しかももっと大きなラクダをのみ込んでいるようなものです。(レビ記 11:4,21-24)