イエスはパリサイ派のある指導者の家で食事をした時に大切なことを教えました。その後もエルサレムへの旅を続けますが,大勢の人が一緒に付いてきます。なぜでしょうか。どんな犠牲を払ってでもイエスの真の弟子になりたいと本当に思っているからでしょうか。
旅の途中でイエスは驚くようなことを言います。「私の元に来て,自分の父親,母親,妻,子供,兄弟,姉妹,さらには自分の命以上に私を愛さないなら,私の弟子になることはできません」。(ルカ 14:26)どういう意味でしょうか。
これは,イエスの弟子になりたい人は家族を愛してはいけないということではありません。家族に対する愛よりもイエスに対する愛が大きくなければならない,という意味です。家族に対する愛が大きくなってしまうと,例え話の中で,結婚を言い訳にして夕食会への招待を断った人のようになってしまうかもしれません。(ルカ 14:20)
弟子となる人は「自分の命」であっても第一にすべきではない,とイエスは言っています。自分を大事にする気持ちよりもイエスへの愛の方が大きくなければならず,場合によってはイエスのために死ぬこともためらわない,という意味です。ですから,キリストの弟子になることには大きな責任が伴います。よく考えず軽い気持ちで決定してはなりません。
弟子になれば,困難や迫害を経験するかもしれません。イエスはこう言っているからです。「自分の苦しみの杭を運びながら私に付いてくる人でなければ,私の弟子になることはできません」。(ルカ 14:27)イエスの本当の弟子はイエスと同じように,つらい経験をしても忍耐しなければなりません。イエスは,自分が敵の手で殺されるとも言いました。
ですから,イエスの話を聞いていた人たちは,キリストの弟子になるということがどういうことかを注意深く考えるべきでした。イエスはその点を例えで強調します。「例えば,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,完成させるだけのものを持っているかどうかを調べるのではないでしょうか。そうしないなら,土台を据えても仕上げられないかもしれず,見ている人たちは皆あざけり始めるでしょう」。(ルカ 14:28,29)人々は,イエスの弟子になる前に,弟子としての責任をしっかり果たすことを固く決意しているべきなのです。イエスは別の例えでそのことを強調します。
「ある王が別の王との戦いに出ていく場合,まず座って,2万の軍勢で攻めてくる相手に1万の軍勢で立ち向かえるかどうかを協議するのではないでしょうか。実際,立ち向かえないなら,相手がまだ遠くにいる間に,使節団を遣わして和平を求めます」。それからイエスは要点を強調し,こう言います。「同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません」。(ルカ 14:31-33)
このイエスの言葉は,一緒に旅をしている人たちだけに当てはまるのではありません。キリストを知るようになる人は皆,ためらうことなくイエスの言葉通りに行動しなければなりません。イエスの弟子であるには,持ち物全て,また自分の命さえも手放す覚悟が必要です。ですから,これは祈って,よく考えるべき事柄です。
次にイエスは,山上の垂訓の中で語った点をもう一度教えます。それは,弟子たちが「地の塩」であるというものです。(マタイ 5:13)その時イエスは,塩が保存料の働きをするように,弟子たちも人々の心を腐敗から守ると教えていたようです。伝道期間が終わりに近づいた今,イエスはこう言います。「確かに塩は良いものです。しかし,塩が塩気を失ったら,何によって塩気を取り戻せるのですか」。(ルカ 14:34)人々は,当時の塩には土のような不純物が混ざっていることがあり,そうした塩が使い物にならないことを知っていました。
イエスは,これまでずっと自分の弟子だった人でも決意を弱めてはならないと教えます。もし弱めてしまうなら,塩気を失った塩のように使い物にならなくなってしまうでしょう。そうなると人々からばかにされるだけでなく,神の恵みを失いかねないのです。神の名が非難されることもあり得ます。イエスはそうした結果にならないよう強く勧め,「聞く耳のある人は聞きなさい」と言います。(ルカ 14:35)