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「来て,私の弟子になりなさい」
追 第14章 139–149ページ

第14章

「大おお勢ぜいの人ひとが」イエスに引ひき付つけられた

親たちが見守る中,イエスがいろいろな年齢の子供たちを優しく抱き寄せている。

「子こ供どもたちを私わたしの所ところに来こさせなさい」

1-3. 親おやたちが子こ供どもをイエスの所ところに連つれてきた時とき,どんなことがありましたか。イエスについてどんなことが分わかりますか。

イエスの地ち上じょうでの生しょう涯がいの終おわりが迫せまっています。あと数すう週しゅう間かんしかありませんが,行おこなうべきことがまだたくさんあります。イエスは使し徒とたちと一いっ緒しょにヨルダン川がわの東ひがしのペレア地ち域いきで伝でん道どうしながら,南みなみのエルサレムに向むかっています。そこでイエスにとって最さい後ごの過すぎ越こしを祝いわうためです。

2 宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちとのやり取とりの後あと,人ひと々びとが子こ供どもたちをイエスに会あわせようとして連つれてきます。いろいろな年ねん齢れいの子こがいたと思おもわれます。この出で来き事ごとについて記き録ろくするに当あたり,マルコは以い前ぜんに12歳さいの子こを指さして使つかったのと同おなじ言こと葉ばを使つかっていますが,ルカは「幼よう児じたち」を意い味みする言こと葉ばを使つかっているからです。(ルカ 18:15。マルコ 5:41,42; 10:13)子こ供どもたちが集あつまると,たいてい騒さわがしくなるものです。イエスの弟で子したちは,主しゅ人じんは忙いそがしくて子こ供どもに構かまっている暇ひまはないと考かんがえたのか,親おやたちを叱しかりつけます。ではイエスはどうするでしょうか。

3 イエスは憤いきどおります。子こ供どもたちに対たいしてでも親おやたちに対たいしてでもなく,弟で子したちに対たいしてです。そしてこう言いいます。「子こ供どもたちを私わたしの所ところに来こさせなさい。止とめようとしてはなりません。神かみの王おう国こくはこの子こ供どもたちのような人ひとのものだからです。はっきり言いいますが,幼おさない子こ供どものように神かみの王おう国こくを受うけ入いれる人ひとでなければ,決けっしてそこに入はいれません」。それから子こ供どもたちを「抱だき寄よせ」,祝しゅく福ふくがあるようにと願ねがいます。(マルコ 10:13-16)マルコが使つかった表ひょう現げんから,イエスが優やさしく子こ供どもたちを抱だき締しめたことをイメージできます。ある翻ほん訳やくにあるように,赤あかちゃんを「腕うでに抱だ」くこともしたでしょう。子こ供どもが好すきだったことがよく分わかります。さらに分わかることとして,イエスはとても近ちかづきやすい人ひとでした。

4-5. (ア)イエスが近ちかづきやすい人ひとだったことは,どんなことから分わかりますか。(イ)この章しょうではどんなことを考かんがえますか。

4 もしイエスが厳きびしかったり冷つめたかったり高こう慢まんだったりしたら,子こ供どもたちはイエスに近ちか寄よらなかったでしょうし,親おやたちもイエスに会あいに行いこうとは思おもわなかったことでしょう。でもイエスからは優やさしさがにじみ出でていて,神かみと同おなじように子こ供どもを大たい切せつに思おもっていることが伝つたわってきます。親おやたちは,イエスが愛あい情じょう深ぶかく子こ供どもたちに接せっし,祝しゅく福ふくがあるようにと願ねがうのを見みて,本ほん当とうにうれしかったに違ちがいありません。イエスは誰だれよりも重おもい責せき任にんを担になっていましたが,誰だれよりも近ちかづきやすい人ひとでした。

5 ほかにどんな人ひとたちがイエスに引ひき付つけられたでしょうか。イエスがとても近ちかづきやすかったのはどうしてでしょうか。私わたしたちはどうすればイエスのようになれるでしょうか。こうした点てんを考かんがえていきましょう。

どんな人ひとたちがイエスに引ひき付つけられたか

6-8. イエスの周まわりにいたのは大たい抵ていどんな人ひとたちでしたか。宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちとは違ちがって,イエスはその人ひとたちにどのように接せっしましたか。

6 福ふく音いん書しょを読よむと,多おおくの人ひとがイエスのそばにいたいと思おもったことがよく分わかります。「大おお勢ぜいの人ひと」がイエスに会あいに来きたというエピソードが何なん度ども出でてきます。例たとえばこう書かかれています。「大おお勢ぜいの人ひとが来きてイエスの後あとに従したがった」。「大おお勢ぜいの人ひとが集あつまってきた」。「大おお勢ぜいの人ひとが……多おおくの人ひとを連つれてき」た。「大おお勢ぜいの人ひとがイエスと一いっ緒しょに旅たびしていた」。(マタイ 4:25; 13:2; 15:30。ルカ 14:25)イエスはよくたくさんの人ひとに囲かこまれていたのです。

7 イエスの周まわりにいたのは大たい抵てい,宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちから軽けい蔑べつされ,「地ちの民たみ」と呼よばれていた一いっ般ぱんの人ひとたちでした。パリサイ派はの人ひとや祭さい司しはその人ひとたちについて,「律りっ法ぽうを知しらないあの群ぐん衆しゅうは神かみに見み放はなされているのだ」と言いいました。(ヨハネ 7:49)彼かれらのそういう見み方かたは,後こう代だいのラビの著ちょ作さくにも表あらわれています。多おおくの宗しゅう教きょう指し導どう者しゃは一いっ般ぱんの人ひとたちを見み下さげ,彼かれらとの食しょく事じや商しょう取とり引ひきや交こう友ゆうを避さけていました。口く伝でん律りっ法ぽうを知しらないその人ひとたちには復ふっ活かつの希き望ぼうなどないと言いう人ひとたちさえいました。立たち場ばが低ひくい人ひとの多おおくは,そういう宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちに助たすけや導みちびきを求もとめたいとは思おもわなかったことでしょう。でも,イエスには違ちがうものを感かんじました。

8 イエスは分わけ隔へだてなく一いっ般ぱんの人ひとたちに接せっしました。一いっ緒しょに食しょく事じをし,病びょう気きを治なおし,教おしえ,希き望ぼうを与あたえました。もちろん,イエスはほとんどの人ひとがエホバに仕つかえようとしないという現げん実じつを分わかっていました。(マタイ 7:13,14)それでも,どの人ひとも正ただしい生いき方かたをする可か能のう性せいを秘ひめていると考かんがえました。冷つめたくて思おもいやりのない祭さい司しやパリサイ派はの人ひとたちとは全まったく違ちがっていたのです。その祭さい司しやパリサイ派はの人ひとたちの中なかにも,イエスに引ひき付つけられ,生いき方かたを変かえてイエスに従したがうようになった人ひとたちがいました。(使し徒と 6:7; 15:5)一いち部ぶの裕ゆう福ふくな人ひとや権けん力りょく者しゃたちもイエスに引ひき付つけられました。(マルコ 10:17,22)

9. 女じょ性せいたちがイエスに引ひき付つけられたのはどうしてですか。

9 女じょ性せいたちも安あん心しんしてイエスに接せっしました。人ひとを見み下くだす宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちの前まえでは,萎い縮しゅくしてしまうことが多おおかったでしょう。多おおくのラビは,女じょ性せいを教おしえることをよしとしませんでした。女じょ性せいは信しん頼らいできないと考かんがえていたので,裁さい判ばんで証しょう言げんさせませんでした。自じ分ぶんたちが女じょ性せいでないことを祈いのりの中なかで神かみに感かん謝しゃすることさえしました。対たい照しょう的てきに,イエスは女じょ性せいを見み下くだしたりせず,大たい切せつにしました。それを感かんじた多おおくの女じょ性せいがイエスの所ところにやって来きて,イエスから学まなぼうとしました。一いち例れいとして,イエスがラザロと姉し妹まいたちの家いえに行いった時とき,マルタは食しょく事じの支し度たくで忙いそがしく動うごき回まわっていましたが,マリアはイエスの足あし元もとに座すわり,イエスの話はなしに聞きき入いっていました。イエスは,より大だい事じなことを優ゆう先せんしたマリアを褒ほめました。(ルカ 10:39-42)

10. 宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちとは違ちがって,イエスは病びょう気きの人ひとにどのように接せっしましたか。

10 宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちからのけ者ものにされていた病びょう気きの人ひとたちも,イエスの所ところにやって来きました。モーセの律りっ法ぽうでは,重おもい皮ひ膚ふ病びょうの人ひとを衛えい生せい上じょうの理り由ゆうで隔かく離りすることになっていましたが,その病びょう気きの人ひとたちに冷つめたくしてよいということではありませんでした。(レビ記き 13章しょう)ところが,後こう代だいにラビたちが作つくった規き則そくには,その病びょう気きの人ひとは排はいせつ物ぶつと同おなじほど不ふ快かいだと書かかれています。その人ひとたちを遠とおざけるために石いしを投なげつける宗しゅう教きょう指し導どう者しゃもいました。そのような扱あつかいを受うけた人ひとたちは,教きょう師しに会あいに行いこうとは思おもわなかったに違ちがいありませんが,イエスには会あいに行いきました。次つぎのように信しん仰こうを表ひょう明めいした人ひともいます。「主しゅよ,あなたは,お望のぞみになるだけで,私わたしを癒いやすことができます」。(ルカ 5:12)この時ときイエスがどうしたかは次つぎの章しょうで考かんがえますが,ここで注ちゅう目もくしたいのは,病びょう気きの人ひとたちにとってもイエスはとても近ちかづきやすい人ひとだったということです。

11. 罪つみを犯おかして罪ざい悪あく感かんに苦くるしんでいる人ひとがイエスに会あいに行いった,どんな例れいがありますか。イエスのように近ちかづきやすい人ひとになるのが大たい切せつなのはどうしてですか。

11 罪つみを犯おかして罪ざい悪あく感かんに苦くるしんでいる人ひとたちも,イエスに会あいに行いきたいと思おもいました。イエスがパリサイ派はのある人ひとの家いえで食しょく事じをしていた時ときのことを考かんがえましょう。罪つみ人びととして知しられている女じょ性せいが入はいってきて,イエスの足あし元もとにひざまずき,自じ分ぶんの罪つみのことで涙なみだを流ながします。そして,その涙なみだでぬれたイエスの足あしを自じ分ぶんの髪かみの毛けで拭ふきます。イエスを招しょう待たいした人ひとは眉まゆをひそめ,その女じょ性せいを近ちか寄よらせたイエスを心こころの中なかで批ひ判はんしますが,イエスは女じょ性せいが誠せい実じつに悔くい改あらためたことを優やさしく褒ほめ,エホバに許ゆるされていると伝つたえて安あん心しんさせます。(ルカ 7:36-50)現げん代だいではますます多おおくの人ひとが罪ざい悪あく感かんを抱かかえていて,神かみに許ゆるしてもらうために安あん心しんして頼たよれる人ひとを必ひつ要ようとしています。では,イエスがとても近ちかづきやすい人ひとだったのはどうしてかを分ぶん析せきしてみましょう。

イエスが近ちかづきやすい人ひとだったのはなぜか

12. イエスが近ちかづきやすい人ひとだった主おもな理り由ゆうは何なんですか。

12 イエスは愛あいする天てんの父ちちに完かん璧ぺきに見み習ならっていました。(ヨハネ 14:9)聖せい書しょに書かかれている通とおり,エホバは「私わたしたち一人ひとり一人ひとりから遠とおく離はなれてはいません」。(使し徒と 17:27)エホバに忠ちゅう実じつに仕つかえる人ひとや,神かみのことを知しって神かみに仕つかえたいと思おもっている人ひとは皆みな,「祈いのりを聞きく方かた」であるエホバにいつでも話はなし掛かけることができます。(詩し編へん 65:2)エホバは宇う宙ちゅうで最もっとも偉い大だいで力ちからがある方かたですが,誰だれよりも近ちかづきやすいのです。そのエホバと同おなじように,イエスも人ひとを愛あいしています。そのイエスの深ふかい愛あいについてはこの後あとの幾いくつかの章しょうで取とり上あげますが,多おおくの人ひとがイエスに引ひき付つけられたのは主おもに,イエスの愛あいをはっきりと感かんじることができたからです。では,イエスのどんなところに愛あいが表あらわれていたかを考かんがえてみましょう。

13. 親おやはどのようにイエスに見み習ならえますか。

13 イエスは一人ひとり一人ひとりに関かん心しんを払はらい,そのことが相あい手てに伝つたわりました。大たい変へんな時ときにも,人ひとへの気き遣づかいが欠かけることはありませんでした。すでに考かんがえた通とおり,親おやたちが子こ供どもをイエスに会あわせようと連つれてきた時とき,イエスは重じゅう責せきを果はたすために忙いそがしくしていましたが,喜よろこんで子こ供どもたちのために時じ間かんを取とりました。親おやにとって素す晴ばらしい手て本ほんです。今いまの世よの中なかで子こ供どもを育そだてるのは簡かん単たんではありませんが,いつでも親おやに頼たよれると子こ供どもが感かんじられるようにするのは大たい切せつなことです。親おやは忙いそがしくて子こ供どもに構かまっていられないこともあるかもしれませんが,そういうときにもできるだけ早はやく時じ間かんを取とることを子こ供どもに約やく束そくできます。子こ供どもは辛しん抱ぼうすることの大たい切せつさを学まなべるでしょう。そして親おやが約やく束そくを守まもれば,子こ供どもは何なにかあったらいつでも親おやに相そう談だんできると分わかって安あん心しんします。

14-16. (ア)どんなことがあってイエスは最さい初しょの奇き跡せきを行おこないましたか。それがすごい奇き跡せきだったと言いえるのはどうしてですか。(イ)カナでの奇き跡せきからイエスについてどんなことが分わかりますか。親おやはどんなことを学まなべますか。

14 イエスは相あい手ての気きに掛かかっていることをきちんと受うけ止とめました。一いち例れいとして,イエスが行おこなった最さい初しょの奇き跡せきについて考かんがえましょう。ガリラヤのカナという町まちで結けっ婚こんの披ひ露ろう宴えんに出しゅっ席せきしていた時とき,ぶどう酒しゅが足たりなくなるという問もん題だいが起おきました。そのことを母はは親おやのマリアから伝つたえられたイエスは,どうしたでしょうか。給きゅう仕じたちに,大おおきな石いしの水みずがめ6つを水みずでいっぱいにするようにと言いいました。給きゅう仕じたちがそれを少すこしくんで宴えん会かいの幹かん事じの所ところに持もっていくと,なんと上じょう等とうのぶどう酒しゅでした。水みずが「ぶどう酒しゅに変かえられた」のです。(ヨハネ 2:1-11)人にん間げんは昔むかしから,ある物ものを別べつの物ものに変かえられたらいいのにと考かんがえてきました。何なん世せい紀きもの間あいだ,錬れん金きん術じゅつ師しと呼よばれる人ひとたちが鉛なまりを金きんに変かえようと努ど力りょくしましたが,一いち度ども成せい功こうしませんでした。鉛なまりと金きんはかなり似にた元げん素そなのに,うまくいかなかったのです。a では,水みずとぶどう酒しゅはどうでしょうか。水みずは2つの基き本ほん的てきな元げん素そが結けつ合ごうした単たん純じゅんな化か合ごう物ぶつです。一いっ方ぽう,ぶどう酒しゅには1000近ちかい成せい分ぶんがあり,その多おおくが複ふく雑ざつな化か合ごう物ぶつです。では,披ひ露ろう宴えんでぶどう酒しゅが不ふ足そくしたというささいなことのために,イエスはどうしてそれほどの奇き跡せきを行おこなったのでしょうか。

15 新しん郎ろう新しん婦ぷにとっては,それはささいな問もん題だいではありませんでした。古こ代だいの中ちゅう東とうでは,招しょう待たい客きゃくをもてなすことはとても大だい事じなことでした。結けっ婚こんの披ひ露ろう宴えんでぶどう酒しゅを切きらしてしまったら,新しん郎ろう新しん婦ぷは相そう当とう恥はずかしい思おもいをし,結けっ婚こんの日ひが台だい無なしになって,苦にがい思おもい出でを何なん年ねんも引ひきずることになったでしょう。ですから,2人ふたりにとって一いち大だい事じであり,イエスもそのことをよく理り解かいしていて,何なんとかしてあげたいと思おもったのです。イエスは確たしかに,気き掛がかりなことを相そう談だんしたいと誰だれもが思おもうような人ひとでした。

テディベアの腕が取れてしまって泣きそうになっている娘を母親が慰めている。

お子こさんの気き持もちを受うけ止とめ,気きに掛かけていることが伝つたわるようにしましょう

16 イエスのこの手て本ほんからも,親おやは大たい切せつなことを学まなべます。お子こさんが何なにかのことで悩なやんで相そう談だんしに来きたら,あなたはどうしますか。大たいしたことではないと言いって片かた付づけたくなるかもしれません。思おもわず笑わらってしまいそうになることもあるでしょう。自じ分ぶんが抱かかえている問もん題だいに比くらべれば,本ほん当とうにささいなことかもしれません。でも,お子こさんにとっては重じゅう大だいな問もん題だいだということを忘わすれないようにしましょう。愛あいするお子こさんが悩なやんでいるのですから,真しん剣けんに受うけ止とめたいと思おもうのではないでしょうか。あなたが気きに掛かけていることが伝つたわれば,お子こさんは何なんでも話はなしてくれるようになるでしょう。

17. イエスが温おん和わだったことは,どんなことから分わかりますか。温おん和わな人ひとは強つよい人ひとだと言いえるのはどうしてですか。

17 第だい3章しょうで考かんがえたように,イエスは温おん和わで謙けん遜そんでした。(マタイ 11:29)温おん和わな人ひとは魅み力りょく的てきです。温おん和わでいられるのは謙けん遜そんだからこそです。温おん和わは神かみの聖せいなる力ちからが生うみ出だすものの一いち面めんであり,神かみからの知ち恵えと結むすび付ついています。(ガラテア 5:22,23。ヤコブ 3:13)イエスはどんなにひどいことをされても感かん情じょう的てきになったりしませんでした。温おん和わだったからといって,弱よわかったわけではありません。ある学がく者しゃは温おん和わについて,「その物もの柔やわらかさの背はい後ごには鋼こう鉄てつのような強つよさがある」と述のべています。確たしかに,怒いかりを抑おさえて温おん和わに人ひとに接せっするには強つよさが必ひつ要ようです。でもエホバに助たすけてもらいながら努ど力りょくすれば,私わたしたちもイエスに見み習ならって温おん和わで近ちかづきやすい人ひとになることができます。

18. イエスが分ふん別べつのある人ひとだったことがどんな出で来き事ごとから分わかりますか。分ふん別べつのある人ひとが近ちかづきやすいのはどうしてだと思おもいますか。

18 イエスは分ふん別べつのある人ひとでした。イエスがティルスにいた時とき,ある女じょ性せいがイエスの所ところに来きました。娘むすめが「邪じゃ悪あくな天てん使しに取とりつかれ,ひどく苦くるしめられて」いたので,助たすけてほしいと思おもったのです。それに対たいしてイエスは,助たすけるつもりがないことを3回かいにわたって示しめします。まず何なにも答こたえないことによって,次つぎに助たすけるわけにいかない理り由ゆうを説せつ明めいすることによって,最さい後ごにその点てんを例たとえで強きょう調ちょうすることによってです。イエスは冷つめたくあしらっていたのでしょうか。その女じょ性せいのことをずうずうしいと感かんじて黙だまらせようとしていたのでしょうか。そうではありません。女じょ性せいはイエスの温あたたかさを感かんじ取とっていたからこそ,断ことわられてもイエスに頼たのみ続つづけたのです。イエスは女じょ性せいがそれほどまでに強つよい信しん仰こうを持もっているのを見みて,娘むすめを癒いやすことにしました。(マタイ 15:22-28)イエスは分ふん別べつがあり,よく耳みみを傾かたむけ,可か能のうな限かぎり願ねがいを聞きき入いれる人ひとでした。それで人ひと々びとは引ひき付つけられたのです。

あなたは近ちかづきやすい人ひとですか

19. 自じ分ぶんが本ほん当とうに近ちかづきやすい人ひとかどうかは,どんなことから分わかりますか。

19 自じ分ぶんは近ちかづきやすい人ひとだと思おもっている人ひとは少すくなくありません。例たとえば上じょう司しであれば,自じ分ぶんはいつも部ぶ下かに何なんでも遠えん慮りょなく言いうように言いっているから,部ぶ下かから慕したわれている,と自じ負ふしているかもしれません。でも聖せい書しょの次つぎの言こと葉ばには考かんがえさせられます。「自じ分ぶんの揺ゆるぎない愛あいを公こう言げんする人ひとは多おおいが,実じっ際さいに忠ちゅう実じつな人ひとはまれである」。(格かく言げん 20:6)自じ分ぶんは近ちかづきやすい人ひとだと口くちで言いうのは簡かん単たんですが,実じっ際さいにイエスのように愛あい情じょう深ぶかく人ひとに接せっしていなければ本ほん当とうに近ちかづきやすい人ひとだとは言いえません。私わたしたちがそういう人ひとかどうかは,自じ分ぶんで自じ分ぶんをどう見みるかではなく,周まわりの人ひとが私わたしたちをどう見みているかで分わかります。パウロはこう言いっています。「分ふん別べつがあることが全すべての人ひとに知しられるようにしてください」。(フィリピ 4:5)このように考かんがえてみましょう。「私わたしは周まわりの人ひとたちからどう見みられているだろう。どんな人ひととして知しられているだろう」。

年配の長老が,自分に話しに来た兄弟に優しく接している。

近ちかづきやすい人ひとになることは長ちょう老ろうにとって大たい切せつ

20. (ア)長ちょう老ろうたちが近ちかづきやすい人ひとになる必ひつ要ようがあるのはどうしてですか。(イ)どんなことを考かんがえると,会かい衆しゅうの長ちょう老ろうたちに謙けん遜そんに協きょう力りょくできますか。

20 長ちょう老ろうたちは特とくに,近ちかづきやすい人ひとになるよう誠せい実じつに努ど力りょくする必ひつ要ようがあります。イザヤ 32章しょう1,2節せつに書かかれている役やく割わりを果はたすためです。そこにはこうあります。「彼かれらはおのおの,風かぜから逃のがれるための場ば所しょ,暴ぼう風ふう雨うから避ひ難なんするための場ば所しょ,水みずのない土と地ちに流ながれる水みず,乾かわき切きった土と地ちにある大おお岩いわの陰かげのようになる」。この聖せい句くにあるように兄きょう弟だい姉し妹まいを守まもったり,爽さわやかにしたり,安あん心しんさせたりするためには,近ちかづきやすい人ひとであることが欠かかせません。長ちょう老ろうたちはこの大たい変へんな時じ代だいにさまざまな重おもい責せき任にんを担になっていますから,なかなか余よ裕ゆうがないこともあるでしょう。でも,あまりに忙いそがしそうにしていると,兄きょう弟だい姉し妹まいは助たすけを求もとめて近ちかづくのをためらってしまいます。エホバの羊ひつじである兄きょう弟だい姉し妹まいにそう感かんじさせたくはありません。(ペテロ第だい一いち 5:2)会かい衆しゅうの人ひとたちは,努ど力りょくしている長ちょう老ろうたちを批ひ判はんしたりせず,謙けん遜そんに協きょう力りょくすることが大たい切せつです。(ヘブライ 13:17)

21. 親おやはどうすれば子こ供どもにとっていつでも頼たよれる存そん在ざいになれますか。次つぎの章しょうでは何なにについて考かんがえますか。

21 親おやが子こ供どもにとっていつでも頼たよれる存そん在ざいになれるように努ど力りょくすることは,とても大だい事じです。子こ供どもには,お父とうさんやお母かあさんには何なにを話はなしても大だい丈じょう夫ぶだという安あん心しん感かんを持もってほしいものです。それで,子こ供どもが失しっ敗ぱいを打うち明あけたり,聖せい書しょの教おしえと違ちがうことを言いいだしたりしても,感かん情じょう的てきになったりせず,温おん和わさや分ふん別べつを示しめしましょう。子こ供どもの話はなしによく耳みみを傾かたむけながら,辛しん抱ぼう強づよく教おしえます。長ちょう老ろうや親おやに限かぎらず,私わたしたちは皆みな,イエスのような近ちかづきやすい人ひとになりたいと思おもっています。次つぎの章しょうでは,イエスが近ちかづきやすかった理り由ゆうの1つである心こころからの思おもいやりについて詳くわしく考かんがえます。

a 元げん素その周しゅう期き表ひょうで,鉛なまりと金きんは比ひ較かく的てき近ちかくにあります。原げん子し核かくに含ふくまれる陽よう子しの数かずは,鉛なまりが金きんより3つ多おおいだけです。現げん代だいの物ぶつ理り学がく者しゃはごく少しょう量りょうの鉛なまりを金きんに変かえる方ほう法ほうを見みつけましたが,その過か程ていには膨ぼう大だいなエネルギーが必ひつ要ようなので割わりに合あいません。

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • 質しつ問もんをして,相あい手ての言いうことをよく聞きくようにすれば,相あい手てとの距きょ離りが縮ちぢまります。どうしてそう言いえますか。(マタイ 16:13-17)

  • イエスはプライベートな時じ間かんを邪じゃ魔まされても愛あい情じょう深ぶかく人ひとに接せっしました。どんな例れいがありますか。イエスにどのように見み習ならえますか。(マルコ 6:31-34)

  • まだ信しん仰こうがない人ひとたちに対たいしてイエスはどんな見み方かたをしましたか。近ちかづきやすい人ひとになるために,そのバランスの取とれた見み方かたにどのように倣ならえますか。(ルカ 5:29-32)

  • もっと近ちかづきやすい人ひとになる上うえで,イエスのように人ひとの良よいところに注ちゅう目もくすることはどうして大たい切せつですか。(ヨハネ 1:47)

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