ニサン10日の月曜日,イエスは自分の死が迫っていることについて話します。神の評判に傷が付くことを心配したイエスは,「父よ,お名前を栄光あるものとしてください」とお願いします。すると天から大きな声がして,「私はすでにそれを栄光あるものとし,再び栄光あるものとする」と言います。(ヨハネ 12:27,28)
そばにいた人々は動揺します。雷の音だと考えた人も,「天使が彼に話し掛けたのだ」と言う人もいます。(ヨハネ 12:29)しかし,人々が聞いたのはエホバの声でした。イエスに関して話す神の声を人間が聞いたのは,これが最初ではありません。
その3年半前,バプテストのヨハネも神の声を聞いています。イエスがバプテスマを受けた時に,「これは私の愛する子,私はこの子のことを喜んでいる」という声がしたのです。また,西暦32年の過ぎ越しの後,ヤコブとヨハネとペテロも,目の前でイエスの姿が変わった時に,神がこう言うのを聞きました。「これは私の愛する子,私はこの子のことを喜んでいる。彼の言うことを聞きなさい」。(マタイ 3:17; 17:5)しかし3度目の今回,エホバは大勢の人が聞けるように語っています。
イエスは,「この声がしたのは,私のためではなく,皆さんのためです」と言います。(ヨハネ 12:30)この神の声は,イエスがまさしく神の子,予告されたメシアであることの証拠です。
イエスの忠実な生き方により,人はどう生きるべきかが示されました。また,世の支配者サタンは滅ぼされるべきであることもはっきりしました。イエスは言います。「今,この世の裁きがなされています。もうこの世の支配者は追い出されます」。イエスの死は敗北ではなく勝利です。その理由は,「私の方は,地から上げられたなら,あらゆる人を私に引き寄せます」というイエスの言葉から分かります。(ヨハネ 12:31,32)イエスは杭に掛けられて死ぬことにより,人々を自分に引き寄せ,永遠の命への道を開きます。
人々は,「上げられ[る]」という言葉を聞いてこう尋ねます。「私たちは,キリストが永久にとどまると律法にあるのを聞きました。人の子が上げられなければならないと言うのはなぜですか。人の子とは誰ですか」。(ヨハネ 12:34)イエスが本当に神の子であり,約束されたメシアである証拠はたくさんあります。神の声がしたのもその1つです。でも,ほとんどの人は信じません。
イエスは再び,自分は「光」であると言います。(ヨハネ 8:12; 9:5)そして人々にこう勧めます。「光はもうしばらく皆さんの間にあります。光があるうちに歩きなさい。闇に征服されないためです。……光があるうちに光に信仰を抱きなさい。光の子となるためです」。(ヨハネ 12:35,36)そう言ってから,身を隠します。ニサン10日は死ぬべき日ではないからです。「上げられ[る]」,つまり杭にくぎ付けにされるのは,ニサン14日の過ぎ越しの日でなければなりません。(ガラテア 3:13)
イエスの伝道活動を振り返ると分かりますが,ユダヤ人がイエスに信仰を示さないことによって,預言が実現しています。イザヤの預言によると,人々は目を見えなくされ,心を固くされるので,生き方を変えて癒やされるということがありません。(イザヤ 6:10。ヨハネ 12:40)ほとんどのユダヤ人は頑固で,イエスが約束された救出者であり命の道である証拠を認めないのです。
しかし,ニコデモ,アリマタヤのヨセフ,そして多くの支配者たちがイエスに「信仰を持」ちます。では,その信仰を行動に表しますか。それとも,会堂から追放されることを恐れて,あるいは「人からの称賛を愛し」て,ためらうでしょうか。(ヨハネ 12:42,43)
イエスに信仰を持つとはどういうことか,イエス自身が説明しています。「私に信仰を持つ人は,私だけでなく,私を遣わした方にも信仰を持ちます。また,私を見る人は,私を遣わした方をも見ます」。イエスが神から教えられ,人々に伝えている真理は,非常に大切なものです。ですからイエスはこう語ります。「私を無視して私の言葉を受け入れない人には,その人を断罪するものがあります。私が話した言葉です。それが終わりの日に断罪するのです」。(ヨハネ 12:44,45,48)
それから,こう締めくくります。「私は自分の考えで話したのではなく,私を遣わした天の父が,何を言い何を教えるべきかを命じました。私は,永遠の命を得るには父のおきてに従う必要があることを知っています」。(ヨハネ 12:49,50)イエスは,自分に信仰を抱く人のために,間もなく自分の血を犠牲として注ぎ出すことを知っているのです。(ローマ 5:8,9)