「昼の12時」になりました。不気味な闇が「全土に垂れ込めて,午後3時にまで及」びます。(マルコ 15:33)これは日食によるものではありません。日食は新月の時しか生じません。しかし,今は過ぎ越しの時期で満月です。また日食の際の闇は数分しか続きませんが,今回はもっと長く続きます。ですからこの闇は神が生じさせたものです。
イエスをばかにしていた人たちはこの闇を見てどう思ったでしょうか。この時,4人の女性が苦しみの杭のそばに来ます。イエスの母親とサロメ,マリア・マグダレネと使徒の小ヤコブの母親マリアです。
使徒ヨハネは,「苦しみの杭のそば」でイエスの母親マリアと一緒にいます。マリアは自分が生んで育てた息子が杭に掛けられ,もだえ苦しんでいる姿を見つめています。「長い剣」で貫かれているような気持ちだったでしょう。(ヨハネ 19:25。ルカ 2:35)イエスは鋭い痛みがあるにもかかわらず,母親の今後のことを考えています。そして,ヨハネの方を顎で示し,母親に,「見なさい,あなたの子です!」と言います。次に母親の方を顎で示し,ヨハネに,「見なさい,あなたの母親です!」と言います。(ヨハネ 19:26,27)
イエスは,今ではやもめになっている母親の世話を,特別に愛していた使徒に託します。イエスがそうしたのは,自分の異父兄弟たちがまだイエスに信仰を抱いていなかったからです。それで,マリアを身体面で世話し,神への崇拝の面で支えるよう頼んだのです。これは立派な模範です。
午後3時ごろ,イエスは「喉が渇いた」と言います。こうしてイエスは聖書の預言を実現させます。(ヨハネ 19:28。詩編 22:15)イエスは,自分の忠誠を極限まで試すために父が保護を取り去ったと感じます。イエスはアラム語のガリラヤ方言と思われる言葉で,「エリ,エリ,ラマ サバクタニ」と大声で叫びます。これは,「私の神,私の神,なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です。近くに立っていた人たちは勘違いし,「ほら,エリヤを呼んでいる」と言いだします。そのうちの1人が走っていき,酸味の強いぶどう酒を含ませた海綿をアシの先に付けて,イエスに飲ませようとします。他の人たちは,「このまま,エリヤが下ろしに来るかどうかを見よう」と言います。(マルコ 15:34-36)
その後イエスは,「成し遂げられた!」と叫びます。(ヨハネ 19:30)イエスは地上で行うよう父から命じられたこと全てを成し遂げたのです。最後にイエスは,「父よ,私の命をあなたの手に託します」と大きな声で言います。(ルカ 23:46)そして,エホバが自分を復活させてくださるという確信を抱きながら,頭を垂れて息を引き取ります。
その瞬間,強い地震が起き,岩が割れます。揺れが大きかったのでエルサレムの外にある墓が壊れ,死体が投げ出されます。人々はその死体を見て「聖都」つまりエルサレムに入り,起きた事を他の人たちに話します。(マタイ 27:51-53)
イエスが亡くなると,神殿の聖所と至聖所とを仕切っていた長くて重い幕が上から下まで2つに裂けます。この驚くべき出来事は,神の子を殺害した人たちに対する神の大きな怒りを表すものでした。それだけでなく,その時以降,人間が至聖所つまり天に行けるようになったことを示すものでした。(ヘブライ 9:2,3; 10:19,20)
当然ながら,人々はとてもおびえます。処刑に当たった士官は,「確かにこの人は神の子だった」と言います。(マルコ 15:39)士官は,ピラトの前で行われた裁判でイエスが神の子かどうかが話し合われた時,そこにいたのかもしれません。そして今,イエスが正しい人であり,まさに神の子であると確信したのです。
他の人たちも,起きた不思議な出来事に圧倒されて,深い悲しみや恥ずかしさのため「胸をたたきながら」家に帰ります。(ルカ 23:48)離れた所に立って見ていた人々の中には,イエスと一緒に時々旅をしていた大勢の女性の弟子たちもいます。その人たちも,これらの重大な出来事を見て心を大きく動かされます。