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正確な知識は生命に通ずるものみの塔 1964 | 6月1日
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しかしこれは聖書の正しい解釈ですか。イエスは「わたしと父とは一つである」と言われました。(ヨハネ 10:30)しかしこれは,イエスが神であることを意味するのではなく,また三位一体のいわゆる3分の1の位格のどれかを指すのでもありません。イエスはヨハネ福音書の17章で,これは目的において一つであること,すなわち一致を意味すると説明されてはいませんか。あなたご自身でそこをお読みください。父と子が同一であり得ますか。イエスは神の子です。父が子よりも偉大であることは子供でもわかります。イエスもご自分で言われました。「父はわたしより大きいかたである」。(ヨハネ 14:28)しかし宗教家はこの簡明な真理をすっかり暗くしてしまったので,一部の聖書の読者はもはやその真理を信じません。しかしほんとうにけんそんな人なら,イエスの次の言葉から,この教理にかんする正しい結論を引き出すのは容易なことです。「わたしは自分からは何もせず,ただ父が教えて下さったままを話していたことが,わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは,わたしと一緒におられる。わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしているから,わたしをひとり置きざりになさることはない」。(ヨハネ 8:28,29)クリスチャンの使徒パウロは正しい解釈をしていました。なぜなら彼はのちに,「キリストのかしらは神である」と書いているからです。(コリント前 11:3)それで牧師は,神とキリストと聖霊は同等でみな一つの神だと教えるかも知れません。が,それにかんする簡明な真理とは,その三つは同等でも同一でもなく,キリストは神の子で神より劣り,聖霊は神の活動力で,したがって神に従属するということです。
それにしても高い教育を受けた牧師がなぜ,そのように明確な聖書の真理を理解することも,教えることもしないのですか。なぜなら彼らは,文字に書かれた神のことばよりも,伝統や人間の哲学を好むからです。エホバのことばを退ける人にどんな知恵がありますか。神の知恵をもたないことはたしかです。なぜならエホバの御霊を持たないからです。それどころか「この世の神」悪魔は,その人の心をくらまして,「〔神ではなく〕神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを,見えなくして」しまうでしょう。―コリント後 4:4。コロサイ 2:8。エレミヤ 8:9。
ですから,聖書から間違った結論を引き出すこと,また人にそれをしてもらうことは危険です。自分が聖書から直接正しい知識を得ないでいて神のご要求を満たそうとするのは,地図も明りも持たずに夜のやみの中を旅行するのと同じです。それでは四つ辻に来るたびに硬貨を投げて方向を決めるのと同じことです。そんなことをすればすぐに道に迷ってしまうでしょう。
道はたくさんあります。しかし命に至る道は一つしかありません。聖書はその唯一の「命にいたる……道」を教えています。(マタイ 7:14)命に至るその道を進むときあなたは,神のみことばの正確な知識により,「すべてのものを識別」することができます。(テサロニケ前 5:21)神のみことばは,この暗い世にあってあなたの足のともしび,あなたの道の光となります。(詩 119:105)神にかんする正確な知識は,この組織制度の終りを通過して,まもなくたてられる神の約束の新秩序の下における生命に至ります。エホバの証者は,あなたのご都合のよい時にお宅にお伺いし,週に1時間無報酬で,あなたが聖書からこの重要な知識を得られるのを喜んでお手伝いいたします。
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皇帝の友人ものみの塔 1964 | 9月1日
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皇帝の友人
◆ 使徒行伝 18章12-16節は,コリント滞在中の使徒パウロが,「アカヤ総督」ガリオの前に引き出された時の模様を記しています。この時パウロが前に立ったと思われる裁判席は,考古学者により発見されました。また,「私の友人にして,アカヤの総督ルシウス・ジュニアス・ガリオの書いたごとく」との一文を載せた,ローマ皇帝クラウデオの手紙も発見されています。しかも,その手紙によると,ガリオがコリントに来たのは西暦51年ごろであり,聖書から推察できるパウロのコリント滞在の年代と一致します。
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