バプテスマ後,イエスは有名になります。多くのユダヤ人がイエスの奇跡を見,イエスの活動についての話は広範囲に伝わっています。今は幕屋(または仮小屋)の祭りの最中で,大勢の人がイエスを捜しています。
イエスについての意見はさまざまです。「彼は善い人だ」と言う人もいれば,「いや,群衆を惑わしている」と言う人もいます。(ヨハネ 7:12)人々は祭りの初めの期間に,こうしたひそひそ話をよくしていました。でも誰もイエスを支持する話を大きな声でする勇気はありません。ユダヤ人の指導者の反応を恐れていたのです。
イエスは祭りが半分を過ぎたころに神殿へ行きます。人々の多くはイエスの教える能力の素晴らしさに驚きます。イエスがラビの学校に行ったことはないと知っているので不思議に思い,「どうしてこの人は,学校で学んだこともないのにこんなに聖書の知識があるのだろう」と言います。(ヨハネ 7:15)
イエスはこう説明します。「私の教えは私のものではなく,私を遣わした神のものです。この方の意志を行いたいと願う人なら,この教えが神からのものか,それとも私が独自の考えで話しているのかが分かります」。(ヨハネ 7:16,17)イエスの教えは神の律法に沿ったものです。ですから,明らかにイエスは自分ではなく神が称賛されるよう願っています。
さらにイエスはこう言います。「モーセが律法を与えたのではありませんか。それなのに,あなた方の誰も律法に従っていません。なぜ私を殺そうとするのですか」。その場にいたある人たちはエルサレム市外から来ていると思われますが,そうした悪巧みについて知りません。イエスのような優れた教師を殺そうとする人がいるとは信じられないのです。それで,そんなことを考えるイエスはどこかおかしいのではないかと思い,「あなたは邪悪な天使に取りつかれています。誰が殺そうとしているのですか」と言います。(ヨハネ 7:19,20)
1年半前にイエスが安息日に男性を癒やした時,ユダヤ人の指導者たちはイエスを殺そうとしました。それでイエスはここで,指導者たちの分別のなさを見事に暴きます。まず,律法の規定について考えさせます。規定によると,男の子は生後8日目に割礼を施さなければならず,その日が安息日でもそれは変わりません。それからイエスはこう言います。「モーセの律法を破らないように安息日に割礼を施すのに,私が安息日に人をすっかり健康にすると,激しく怒るのですか。見掛けで裁くのをやめ,正しい裁きをしなさい」。(ヨハネ 7:23,24)
すると,いきさつを知っているエルサレムの住民はこう言いだします。「これは,支配者たちが殺そうとしている人ではないか。それなのに,公然と話しており,支配者たちは何も言わない。この人がキリストだとはっきり分かったのだろうか」。では,イエスがキリストであるとエルサレムの住民が信じないのはなぜでしょうか。彼らはこう言います。「私たちは,この人がどこから来たのかを知っている。キリストが来る時には,どこから来たのかを誰も知らないはずだ」。(ヨハネ 7:25-27)
そこでイエスはこう答えます。「あなた方は,私が誰でどこから来たのかを知っています。私は自分の考えで来たのではなく,私を遣わした方がいます。あなた方はその方を知りません。私はその方を知っています。私は代理としてその方に遣わされたからです」。(ヨハネ 7:28,29)イエスが自分の立場をはっきり示したため,ある人たちはイエスを捕まえて,牢屋に入れるか殺すかしようとします。しかし,イエスが死ぬ時はまだ来ていなかったため,失敗に終わります。
とはいえ,イエスの強力な行いにより,大勢の人がイエスに信仰を持ちます。水の上を歩き,風を静め,少しのパンと魚で大勢の人に食事をさせました。病気を癒やし,足が不自由な人を歩けるようにし,盲人の視力を回復させ,重い皮膚病の人を癒やしました。死んだ人を復活させることまでしたのです。人々がこう言ったのも当然です。「キリストが来ても,この人が行ったほど多くのしるしは行わないのではないか」。(ヨハネ 7:31)
人々の話を聞いたパリサイ派の人たちは祭司長たちと共に,イエスを逮捕させるため下役たちを派遣します。