イエスは幕屋(または仮小屋)の祭りのためにエルサレムにいます。そして,「群衆の多くがイエスに信仰を持」ったことを喜んでいます。しかし,宗教指導者たちは違います。イエスを逮捕するために下役たちを遣わします。(ヨハネ 7:31,32)でもイエスは隠れません。
むしろ,イエスはエルサレムで人々を堂々と教え続けます。そして,こう言います。「私は,自分を遣わした方の元に行くまで,もうしばらくあなた方と共にいます。あなた方は私を捜しますが,見つけることができず,私がいる所に来ることができません」。(ヨハネ 7:33,34)でもユダヤ人たちは意味を理解できず,こう話します。「この人はどこへ行って見つからないようにするつもりなのか。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人の所へ行って,ギリシャ人を教えるつもりなのだろうか。『あなた方は私を捜しますが,見つけることができず,私がいる所に来ることができません』というのはどういう意味なのか」。(ヨハネ 7:35,36)この時イエスが言っていたのは,自分の死と天への復活についてでした。敵はイエスを天まで追い掛けることができません。
祭りの7日目になりました。祭りの期間中は毎朝,祭司がシロアムの池からくんだ水を祭壇の上に注ぎ出し,水は祭壇の基部に流れ落ちます。イエスはこの儀式を人々に思い起こさせようとしたようです。それで,大声でこう言います。「喉が渇いている人がいるなら,私の所に来て飲みなさい。私に信仰を持つ人は,聖書にある通り,『その人の奥深くから,生きた水が流れ出ます』」。(ヨハネ 7:37,38)
イエスは,弟子たちが聖霊で油を注がれ天での命の希望を持つようになる時,何が起きるかについて話していました。それが起きるのは,翌年のペンテコステの日です。その日に,聖霊で油を注がれた弟子たちが他の人に真理を伝え始め,命を与える水が流れ始めます。
イエスの話を聞いたある人たちは,「これこそ確かにあの預言者だ」と言います。予告されていた,モーセよりも偉大な預言者のことを言っているようです。また,「これがキリストだ」と言う人もいます。しかし別の人たちは,「キリストがガリラヤから出るはずがない。聖書は,キリストがダビデの子孫で,ダビデがいた村ベツレヘムから出ると言っているではないか」と主張します。(ヨハネ 7:40-42)
人々の間には分裂が生じます。イエスの逮捕を期待している人もいますが,誰もイエスを捕まえようとしません。下役たちがイエスを連れずに戻ると,祭司長とパリサイ派の人たちは,「どうして彼を連れてこなかったのか」と尋ねます。下役たちは,「あのように話した人はこれまでいませんでした」と答えます。すると宗教指導者たちは怒り,あざけってこう言います。「あなたたちまで惑わされたというのか。支配者やパリサイ派の中に彼に信仰を持った人がいるか。律法を知らないあの群衆は神に見放されているのだ」。(ヨハネ 7:45-49)
この時,パリサイ派でサンヘドリンの一員であるニコデモがイエスのために発言します。ニコデモは2年半ほど前に,晩にイエスを訪ね,イエスに対する信仰を言い表しました。ニコデモはこう言います。「私たちの律法では,まず本人の話を聞いて,行っている事を確認してから,裁くのではないか」。それを聞いた他の人たちは,「あなたもガリラヤ出身にでもなったのか。預言者はガリラヤからは現れないことを調べてみなさい」と言い返します。(ヨハネ 7:51,52)
聖書は,預言者がガリラヤから出るとはっきり述べているわけではありません。とはいえ,キリストがそこから出るということは示しています。なぜなら,「大きな光」が「諸国の人々のガリラヤ」で見られるようになると予告しているからです。(イザヤ 9:1,2。マタイ 4:13-17)さらに,イエスは予告通りベツレヘムで生まれ,ダビデの子孫でもあります。しかし,パリサイ派の人たちはそのことに気付いていながら,イエスについての誤解を広めていたようです。