今もユダヤで教えているイエスは,人々がイメージしやすい羊と羊の囲いの話をします。話を聞いたユダヤ人たちは,ダビデが語った,「エホバは私の牧者。私は何も不足しない。導かれて青々とした牧草地に寝そべ[る]」という言葉を思い出したでしょう。(詩編 23:1,2)ダビデは「詩編」の別の編でも国民全体に対し,こう呼び掛けています。「さあ,崇拝し,ひれ伏そう。私たちを造ったエホバの前でひざまずこう。この方は私たちの神。私たちは神の牧草地の民」。(詩編 95:6,7)これらの聖句から分かる通り,律法下のイスラエル人はこれまでずっと羊の群れに例えられてきました。
“羊”であるイスラエル人はモーセの律法契約という“羊の囲い”の中で生まれました。律法は柵のようになり,律法契約の下にいない人々の汚れた慣行からイスラエル人を保護しました。しかし,彼らの中には神の羊の群れを優しく扱わない人たちもいました。それでイエスはこう言います。「はっきり言っておきます。羊の囲いに,戸口を通ってではなくほかの所を乗り越えて入る人は,泥棒や強盗です。一方,羊飼いは戸口を通って入ります」。(ヨハネ 10:1,2)
人々は,メシアつまりキリストを自称する人たちのことを思い浮かべたでしょう。そうした人たちは泥棒や強盗のようです。人々はそのようなペテン師にではなく,イエスが語る次のような「羊飼い」に付いていくべきです。
「戸口番は羊飼いに対して戸口を開け,羊は彼の声を聞きます。羊飼いは自分の羊の名前を呼んで連れ出します。自分の羊を皆外に出すと,その先頭を行きます。羊は後に付いていきます。羊飼いの声を知っているからです。よその人には決して付いていかず,むしろ逃げます。その人たちの声を知らないからです」。(ヨハネ 10:3-5)
バプテストのヨハネは戸口番のような役割を果たし,「羊」が付いていくべきなのはイエスであることを明らかにしました。また,ガリラヤでもここユダヤでも,ある人々はイエスの声を聞き分けました。では,イエスは彼らをどこに「連れ出」しますか。イエスに付いていくとどんな結果になりますか。例えを聞いていたある人たちはそうした点を疑問に思ったようです。「イエスが言っている事を理解できなかった」からです。(ヨハネ 10:6)
イエスはこう説明します。「はっきり言っておきますが,私は羊が通る戸口です。私のふりをして来た人は皆,泥棒や強盗です。しかし羊は彼らの言うことを聞きませんでした。私は戸口です。私を通って入るなら救われ,出入りして牧草地を見つけます」。(ヨハネ 10:7-9)
この時,イエスは新しいことを教えていました。人々はイエスが律法契約への戸口でないことを知っています。その契約は何世紀も存在してきたからです。イエスは,自分が「連れ出」す羊は別の囲いに入ることになると話していたのです。では,その羊たちはどうなりますか。
イエスは自分の役割をさらに説明します。「私は,羊が命を得て生き続けるために来ました。私は立派な羊飼いです。立派な羊飼いは羊のために命をなげうちます」。(ヨハネ 10:10,11)「羊飼い」であるイエスは少し前に弟子たちに,「恐れることはありません,小さな群れよ。天の父は,あなたたちに王国を与えることをよしとしました」と言って励ましていました。(ルカ 12:32)ですから,「小さな群れ」を構成する人たちとは,イエスが新しい囲いに連れていく人たちのことです。そして,彼らは「命を得て生き続ける」ことになります。その群れの一員となるのは何という祝福なのでしょう。
イエスの話には続きがあります。「私にはほかの羊がいますが,この囲いのものではありません。私はその羊たちも連れてこなければならず,それらも私の声を聞きます。こうして,1つの群れ,1人の羊飼いとなります」。(ヨハネ 10:16)「ほかの羊」は「この囲いのものではありません」。王国を受け継ぐ「小さな群れ」とは別の囲いにいます。これら2つの囲いの羊に約束されている将来は違っているのです。しかし,どちらの囲いの羊にとってもイエスの役割は重要です。イエスはこう言います。「父は私を愛してくださいます。私が命をなげうつからです」。(ヨハネ 10:17)
群衆の多くは,「彼は邪悪な天使に取りつかれ,頭がおかしくなっている」と言います。しかし,イエスの話に引き付けられ,立派な羊飼いに付いていきたいと考える人たちもいます。そして,「あのような話は邪悪な天使に取りつかれた人にはできない。邪悪な天使が盲人の目を開けられるはずがない」と話します。(ヨハネ 10:20,21)生まれつき盲目だった男性をイエスが癒やした時のことを言っているのでしょう。