3. 1世 せい 紀 き の旅 たび にはどんな苦 く 労 ろう がありましたか。
3 今 いま は自 じ 動 どう 車 しゃ や飛 ひ 行 こう 機 き などのおかげで,1,2時 じ 間 かん でかなりの距 きょ 離 り を移 い 動 どう できます。でも,1世 せい 紀 き はそうではありませんでした。当 とう 時 じ ,陸 りく 路 ろ の旅 たび は主 おも に徒 と 歩 ほ で,たいていは,起 き 伏 ふく の多 おお い土 と 地 ち を越 こ えていきました。1日 にち 歩 ある いても,進 すす める距 きょ 離 り は30㌔ほどで,体 たい 力 りょく を相 そう 当 とう 消 しょう 耗 もう しました。 バルナバとサウロは新 あたら しい任 にん 務 む をとても楽 たの しみにしていたと思 おも われますが,大 たい 変 へん な旅 たび になることを覚 かく 悟 ご していたはずです。(マタ 16:24 )
陸 りく 路 ろ の 旅 たび
1世 せい 紀 き 当 とう 時 じ ,陸 りく 路 ろ の旅 たび は船 ふな 旅 たび よりも時 じ 間 かん がかかって,かなりの体 たい 力 りょく を要 よう し,おそらく費 ひ 用 よう もかかりました。しかし,徒 と 歩 ほ でしか行 い けない場 ば 所 しょ も多 おお くありました。
徒 と 歩 ほ の場 ば 合 あい ,1日 にち に進 すす めるのは30㌔ほどでした。雨 あめ や強 つよ い日 ひ 差 ざ し,暑 あつ さや寒 さむ さに耐 た えなければならず,盗 とう 賊 ぞく に襲 おそ われる危 き 険 けん もありました。使 し 徒 と パウロは,「何 なん 度 ど も旅 たび をし,川 かわ での危 き 険 けん ,強 ごう 盗 とう の危 き 険 けん 」に遭 あ ったことを書 か いています。(コリ二 に 11:26 )
ローマ帝 てい 国 こく には舗 ほ 装 そう 道 どう 路 ろ が張 は り巡 めぐ らされており,主 しゅ 要 よう な街 かい 道 どう 沿 ぞ いには,1日 にち で歩 ある ける距 きょ 離 り ごとに宿 やど 屋 や がありました。そうした宿 やど 屋 や と宿 やど 屋 や の間 あいだ には,基 き 本 ほん 的 てき な物 ぶっ 品 ぴん が手 て に入 はい る休 きゅう 憩 けい 所 じょ がありました。当 とう 時 じ の著 ちょ 述 じゅつ 家 か によれば,宿 やど 屋 や や休 きゅう 憩 けい 所 じょ は汚 きたな くて人 ひと で混 こ み合 あ い,じめじめしていてノミだらけでした。不 ふ 快 かい な場 ば 所 しょ で,ならず者 もの のたまり場 ば になっていました。宿 やど 屋 や の主 しゅ 人 じん が旅 たび 人 びと の物 もの を盗 ぬす んだり,売 ばい 春 しゅん をあっせんしたりすることも少 すく なくありませんでした。
クリスチャンは,そのような場 ば 所 しょ をできるだけ避 さ けたに違 ちが いありません。とはいえ,親 しん 族 ぞく や友 ゆう 人 じん のいない地 ち 方 ほう を旅 たび するときは,選 せん 択 たく の余 よ 地 ち がなかったでしょう。
4. (ア)バルナバとサウロが選 えら ばれたことには,何 なに が関 かか わっていましたか。ほかの兄 きょう 弟 だい たちは,その任 にん 命 めい をどう受 う け止 と めましたか。(イ)会 かい 衆 しゅう で誰 だれ かが責 せき 任 にん を担 にな うことになったとき,どのようにサポートできますか。
4 神 かみ が聖 せい なる力 ちから によって,バルナバとサウロを「ある活 かつ 動 どう を行 おこな わせるために……選 えら び」なさいと指 し 示 じ したのはどうしてでしょうか。(使 し 徒 と 13:2 )詳 くわ しいことは書 か かれていません。でも,2人 ふたり が選 えら ばれたことに聖 せい なる力 ちから が関 かか わっていたのは確 たし かです。アンティオキアの預 よ 言 げん 者 しゃ や教 おし える人 ひと たちは反 はん 対 たい せず,この任 にん 命 めい を心 こころ から支 し 持 じ しました。兄 きょう 弟 だい たちはねたむことなく,「断 だん 食 じき をして祈 いの ってから,2人 ふたり に手 て を置 お き,送 おく り出 だ し」ました。(使 し 徒 と 13:3 )兄 きょう 弟 だい たちがそうしてくれたので,バルナバとサウロは温 あたた かい気 き 持 も ちになったことでしょう。私 わたし たちもアンティオキアの兄 きょう 弟 だい たちのようでありたいと思 おも います。会 かい 衆 しゅう の長 ちょう 老 ろう に任 にん 命 めい されるなど,誰 だれ かが責 せき 任 にん を担 にな うことになったとき,ねたむのではなく,「よく働 はたら いているその人 ひと たちに愛 あい と深 ふか い思 おも いやりを示 しめ し」ましょう。(テサ一 いち 5:13 )
5. バルナバとサウロはキプロス島 とう でどのように伝 でん 道 どう しましたか。
5 バルナバとサウロはアンティオキアから近 ちか くの港 みなと セレウキアまで歩 ある いて行 い き,そこからキプロス島 とう まで200㌔ほど船 ふね で旅 たび をします。 キプロス島 とう 生 う まれのバルナバは,故 こ 郷 きょう の人 ひと たちに良 よ い知 し らせをぜひ伝 つた えたいと思 おも っているはずです。キプロス島 とう の東 とう 岸 がん の町 まち サラミスに着 つ くと,2人 ふたり はすぐに「ユダヤ人 じん の会 かい 堂 どう で神 かみ の言 こと 葉 ば を広 ひろ め始 はじ め」ます。 (使 し 徒 と 13:5 )2人 ふたり はキプロス島 とう の西 せい 岸 がん まで旅 たび をしながら,おそらく主 おも な町 まち で伝 でん 道 どう したことでしょう。通 とお ったルートによっては,160㌔も歩 ある いた可 か 能 のう 性 せい があります。
ユダヤ 人 じん の 会 かい 堂 どう
「会 かい 堂 どう 」と訳 やく される原 げん 語 ご には,「集 あつ めること」という意 い 味 み があります。この語 ご はユダヤ人 じん の集 しゅう 会 かい や会 かい 衆 しゅう を指 さ し,やがて,集 しゅう 会 かい が開 ひら かれる場 ば 所 しょ や建 たて 物 もの を意 い 味 み するようになりました。
会 かい 堂 どう が設 もう けられるようになったのは,ユダヤ人 じん の70年 ねん 間 かん のバビロン捕 ほ 囚 しゅう の期 き 間 かん 中 ちゅう か,そのすぐ後 あと だと考 かんが えられています。会 かい 堂 どう は,教 きょう 育 いく ,崇 すう 拝 はい ,聖 せい 書 しょ の朗 ろう 読 どく ,講 こう 話 わ のための場 ば 所 しょ でした。1世 せい 紀 き のパレスチナでは,町 まち ごとに会 かい 堂 どう がありました。大 おお きな町 まち には2つ以 い 上 じょう あり,エルサレムにはたくさんありました。
バビロン捕 ほ 囚 しゅう の後 あと ,全 すべ てのユダヤ人 じん がパレスチナに戻 もど ったわけではありません。仕 し 事 ごと のために異 い 国 こく に移 うつ り住 す む人 ひと も多 おお くいました。紀 き 元 げん 前 ぜん 5世 せい 紀 き には,ペルシャ帝 てい 国 こく の127の管 かん 轄 かつ 地 ち 域 いき 全 ぜん 体 たい にユダヤ人 じん コミュニティーがありました。(エス 1:1; 3:8 )時 とき たつうちに,地 ち 中 ちゅう 海 かい 周 しゅう 辺 へん の町 まち 々 まち にもユダヤ人 じん 地 ち 区 く ができました。各 かく 地 ち に散 ち っていたユダヤ人 じん は,ディアスポラつまり離 り 散 さん している人 ひと たちとして知 し られるようになり,定 てい 住 じゅう した先 さき で会 かい 堂 どう を設 もう けました。
会 かい 堂 どう では,安 あん 息 そく 日 び ごとに律 りっ 法 ぽう が朗 ろう 読 どく され,説 せつ 明 めい されました。朗 ろう 読 どく は1段 だん 高 たか くなった演 えん 壇 だん から行 おこな われ,その周 まわ りの3方 ほう 向 こう に座 ざ 席 せき がありました。神 かみ を畏 おそ れるユダヤ人 じん 男 だん 性 せい は誰 だれ でも,朗 ろう 読 どく ,説 せっ 教 きょう ,講 こう 話 わ に参 さん 加 か できました。
6,7. (ア)セルギオ・パウロはどんな人 ひと でしたか。セルギオ・パウロが信 しん 仰 こう を持 も つのを,バルイエスが邪 じゃ 魔 ま したのはどうしてですか。(イ)バルイエスに妨 ぼう 害 がい されたサウロはどうしましたか。
6 1世 せい 紀 き のキプロス島 とう は,間 ま 違 ちが った崇 すう 拝 はい にすっかり染 そ まっていました。バルナバとサウロが着 つ いた西 せい 岸 がん の町 まち パフォスもそうでした。2人 ふたり はそこで「呪 じゅ 術 じゅつ 師 し で偽 にせ 預 よ 言 げん 者 しゃ 」のバルイエスに会 あ います。バルイエスは,「執 しっ 政 せい 官 かん 代 だい 理 り で知 ち 的 てき な人 ひと セルギオ・パウロと一 いっ 緒 しょ に」いました。 1世 せい 紀 き 当 とう 時 じ ,教 きょう 養 よう のあるローマ人 じん は(セルギオ・パウロのような「知 ち 的 てき な人 ひと 」も),重 じゅう 要 よう な決 けっ 定 てい をするときに呪 じゅ 術 じゅつ 師 し や占 せん 星 せい 術 じゅつ 師 し に相 そう 談 だん することがよくありました。それでもセルギオ・パウロは,神 かみ の王 おう 国 こく の良 よ い知 し らせに興 きょう 味 み を引 ひ かれ,「神 かみ の言 こと 葉 ば を聞 き きたが」りました。バルイエスはそのことが面 おも 白 しろ くありません。バルイエスには,エルマ(「呪 じゅ 術 じゅつ 師 し 」という意 い 味 み )という別 べつ 名 めい もありました。(使 し 徒 と 13:6-8 )
7 バルイエスは,神 かみ の王 おう 国 こく の良 よ い知 し らせを聞 き こうとせず,妨 ぼう 害 がい します。セルギオ・パウロの顧 こ 問 もん という地 ち 位 い を守 まも るため,「執 しっ 政 せい 官 かん 代 だい 理 り が信 しん 仰 こう を持 も つのを邪 じゃ 魔 ま しようとし」ます。(使 し 徒 と 13:8 )サウロは黙 だま っていません。呪 じゅ 術 じゅつ 師 し のせいで誠 せい 実 じつ な人 ひと の関 かん 心 しん が失 うしな われるのは許 ゆる せません。どうするでしょうか。こう書 か かれています。「パウロとも呼 よ ばれるサウロは聖 せい なる力 ちから に満 み たされ,エルマをじっと見 み て,こう言 い った。『ああ,あらゆる詐 さ 欺 ぎ と罪 ざい 悪 あく に満 み ちた者 もの ,悪 あく 魔 ま の子 こ ,あらゆる正 ただ しいことの敵 てき よ,エホバの正 ただ しい道 みち をゆがめるのをやめないの ですか。さあ,エホバの手 て があなたの上 うえ にあります。あなたは目 め が見 み えなくなり,しばらく日 ひ の光 ひかり を見 み ません』。たちまちエルマは濃 こ い霧 きり と闇 やみ で目 め が見 み えなくなり,手 て を引 ひ いてくれる人 ひと を探 さが し回 まわ った」。 セルギオ・パウロはどうしたでしょうか。「起 お きたことを見 み た執 しっ 政 せい 官 かん 代 だい 理 り は,エホバの教 おし えにすっかり驚 おどろ いて信 しん 者 じゃ となった」とあります。(使 し 徒 と 13:9-12 )
パウロのように,反 はん 対 たい に遭 あ っても信 しん じていることを勇 ゆう 敢 かん に語 かた る。
8. パウロの勇 ゆう 敢 かん さにどう倣 なら えますか。
8 パウロはバルイエスを恐 おそ れたりしませんでした。私 わたし たちも同 おな じです。誰 だれ かが誠 せい 実 じつ な人 ひと の関 かん 心 しん を台 だい 無 な しにしようとしても,おじけづいたりしません。もちろん,「塩 しお で味 あじ 付 つ けされた快 こころよ い言 こと 葉 ば を語 かた るように心 こころ 掛 が け」ます。(コロ 4:6 )でも,ただ対 たい 立 りつ を避 さ けようとして,関 かん 心 しん のある人 ひと を助 たす けずに終 お わってしまう,ということがないようにしましょう。また,間 ま 違 ちが っているものは間 ま 違 ちが っていると恐 おそ れずに言 い えるようでありたいと思 おも います。バルイエスのように「エホバの正 ただ しい道 みち をゆがめ」ている宗 しゅう 教 きょう があるからです。(使 し 徒 と 13:10 )パウロのように真 しん 実 じつ を勇 ゆう 敢 かん に語 かた り,学 まな ぶ意 い 欲 よく のある人 ひと を助 たす けましょう。パウロの時 とき のような奇 き 跡 せき は起 お こらないとはいえ,良 よ い人 ひと がクリスチャンになれるよう,エホバは聖 せい なる力 ちから で必 かなら ず助 たす けてくれます。(ヨハ 6:44 )