聖書の45番目の書 ― ローマ人への手紙
筆者: パウロ
書かれた場所: コリント
書き終えられた年代: 西暦56年ごろ
1 パウロはローマ人への手紙の中で何を論じていますか。
「使徒たちの活動」の中で,わたしたちは,ユダヤ人のクリスチャンを激しく迫害したサウロがキリストの熱心な使徒となり,非ユダヤ人の諸国民に遣わされるのを見ました。そして,「ローマ人への手紙」を最初として,かつてはパリサイ人で今や神の忠実な僕となったこの人に聖霊が霊感によって書き記させた,聖書の14冊の書が始まります。「ローマ人への手紙」を書くまでに,パウロは既に2度の長い伝道旅行を終え,3度目の旅行も相当進んでいました。霊感の手紙も既に五つを書き終えていました。それは,テサロニケ第一と第二,ガラテア,およびコリント第一と第二です。しかし,わたしたちの現代の聖書の中で,「ローマ人への手紙」は他のものより前に置かれているのは適切なことと思われます。この書は,パウロが伝道した二つのグループの人々,つまりユダヤ人と非ユダヤ人が新たに平等な立場に立ったことを詳しく論じているからです。この書はご自分の民に対する神の取り計らいの転換について説明し,また,良いたよりが非ユダヤ人にも宣明されることを,霊感を受けたヘブライ語聖書がずっと以前に予告していたことを示しています。
2 (イ)パウロは「ローマ人への手紙」の中でどんな問題を論じていますか。(ロ)この手紙によってどんなことが確立されていますか。
2 パウロはテルテオを秘書として用い,ヘブライ語聖書から驚くほど多くの聖句を引用しつつ,急速な議論展開によって,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でも特に力強い書物をまとめ上げています。1世紀のクリスチャン諸会衆はユダヤ人とギリシャ人の双方から成っており,パウロはそうした時代に起きた種々の問題を極めて美しいことばで論じています。ユダヤ人はアブラハムの子孫であるゆえに何らかの優先権があるのですか。クリスチャンはモーセの律法からは解放されていますが,円熟したクリスチャンは,その自由によって,旧来の習慣をまだ固守している弱いユダヤ人の兄弟をつまずかせてもよいでしょうか。この手紙の中で,パウロは,ユダヤ人と非ユダヤ人が神の前で平等であること,また人はモーセの律法によってではなく,イエス・キリストに対する信仰により,また神の過分のご親切によって,義と宣せられることを確証しています。同時に神は,さまざまな権威のもとに置かれているクリスチャンに対して,そのような権威にふさわしく服従することを要求しておられます。
3 ローマ会衆はどのようにして始まりましたか。パウロがその地の非常に多くの人を知っていることにはどんな理由が考えられますか。
3 ローマ会衆はどのようにして始まったのですか。特にポンペイウスが西暦前63年にエルサレムを攻略してからというもの,ローマにはかなりの規模のユダヤ人社会が形成されていました。使徒 2章10節では,そうしたユダヤ人のある人々が西暦33年のペンテコステのさいにエルサレムに来ていたことを明確に述べています。彼らはそこで良いたよりが伝道されるのを聞きました。とう留していて転向した人たちは,使徒たちから学ぶためにその後もエルサレムに滞在しましたが,それらの人々は後にローマに戻ったに違いありません。その中にはエルサレムで迫害が始まった時に戻った人たちもいたことでしょう。(使徒 2:41-47; 8:1,4)さらに,当時の人々は非常に遠くまで旅行しました。パウロがローマ会衆の多くの人を親しく知っていたのはそれが理由であるかもしれません。そして,その人々の中には,パウロの伝道の結果としてギリシャやアジアで良いたよりを聞いた人たちもいたかもしれません。
4 (イ)「ローマ人への手紙」は同市の会衆についてどんな情報を与えていますか。(ロ)アクラとプリスキラがローマにいたという事実は何を示唆していますか。
4 この会衆に関する最初の信頼できる情報はパウロの手紙の中に見いだされます。その情報から明らかなのは,この会衆がユダヤ人および非ユダヤ人のクリスチャンの双方から成っており,その人々の熱心さが称賛に値するものであった,という点です。パウロは彼らに,「あなた方の信仰のことが世界じゅうで語られている」,また,「あなた方の従順がすべての人の注目するところとなった」と述べています。(ローマ 1:8; 16:19)2世紀に著作活動をしたスエトニウスは,クラウディウス帝の治世(西暦41-54年)にユダヤ人がローマから追放されたことを伝えています。しかし,アクラとプリスキラがローマにいたという事実が示すように,それらのユダヤ人は後に戻りました。パウロがコリントで会ったのはこれら二人のユダヤ人で,この二人はクラウディウスの勅令が出された当時,ローマを去っていましたが,パウロがその地の会衆に手紙を書いた時には,すでにローマに戻っていたのです。―使徒 18:2。ローマ 16:3。
5 どんな事実が「ローマ人への手紙」の信ぴょう性を確証していますか。
5 この手紙の信ぴょう性はりっぱに確証されています。その導入のことばが述べるとおり,それは,『イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召されたパウロから……聖なる者となるために召され,神に愛される者としてローマにいるすべての人たちへ』あてられたものです。(ローマ 1:1,7)この書に関する外的な文書証拠があり,それは,クリスチャン・ギリシャ語聖書に関するものとしては最古の例に属します。ペテロは,恐らく6年から8年後に記されたと思われるその第一の手紙の中で同様の表現を非常に多く使用しており,多くの学者は,彼が「ローマ人への手紙」の写しを既に見ていたものと考えています。この書は,ローマのクレメンス,スミルナのポリュカルポス,アンティオキアのイグナティウスなどにより,パウロが書き記したものの一部として明確に認められ,かつ引用されています。これらの人々はいずれも,西暦1世紀の終わりから2世紀初めの人です。
6 古代のパピルス写本は「ローマ人への手紙」の正典性をどのように証言していますか。
6 「ローマ人への手紙」は,パウロの他の八つの手紙と共に,チェスター・ビーティー・パピルス2(P46)と呼ばれる冊子本の中に含まれています。この初期の冊子本に関して,フレデリック・ケニヨン卿はこう書いています。「したがって,我々はここに,3世紀初頭のころに書かれたと思われる,パウロの書簡のほぼ完全な写本を持っているのである」。a チェスター・ビーティーギリシャ語聖書パピルスは,著名なシナイ写本やバチカン写本1209よりももっと古い写本です。後者はいずれも4世紀ごろのもので,これらの写本にも,「ローマ人への手紙」が含まれています。
7 「ローマ人への手紙」が書かれた時と場所についてどんな証拠がありますか。
7 「ローマ人への手紙」はいつごろ,どこで書かれたのでしょうか。この手紙がギリシャにおいて,そして恐らくはコリントにおいて書かれたという点で,聖書注釈者の間に見解の相違はありません。それは,パウロが3回目の宣教旅行の終わり近くに数か月その地を回った時のこととみなされています。内的な証拠はコリントを指し示しています。パウロは,その地の会衆の成員であったガイオの家でこの手紙を書き,コリントの海港である近くのケンクレアの会衆にいたフォイベという婦人を推薦しています。この手紙をローマに運んだのはフォイベだったようです。(ローマ 16:1,23。コリント第一 1:14)ローマ 15章23節でパウロは,「今はもう,この地方に手のつけられていない区域はありません」と書き,その次の節で,宣教者としての自分の仕事をさらに西方,スペインにまで広げる意図のあることを示しています。彼は,3回目の宣教旅行の終わりごろ,西暦56年の初めにはこのように書くことができたでしょう。
「ローマ人への手紙」の内容
8 (イ)パウロは自分の使命について何と述べますか。(ロ)彼は,ユダヤ人もギリシャ人も共に神の憤りを受けるに価することをどのように示しますか。
8 ユダヤ人と異邦人に対する神の公平さ(1:1-2:29)。霊感を受けたパウロはローマ人に何を告げますか。その冒頭の言葉の中で,パウロは,自分が,諸国民の間で『信仰による従順』を教えるため,キリストによって選ばれた使徒であることを明らかにします。そして,ローマにいる聖なる者たちを訪ね,「相互に励まし合(い)」,『信仰を持つすべての人にとって,救いのための神の力である』良いたよりを彼らの間で宣明したいとの熱烈な願いを言い表わします。ずっと以前に書かれていたとおり,義なる者は「信仰によって生き」ます。(1:5,12,16,17)パウロは,ユダヤ人もギリシャ人も共に神の憤りを受けるに価することを示します。神の『見えない特質は世界の創造以来明らかに見える』ゆえに,人間の側の不敬虔さは言い訳ができません。(1:20)それなのに,諸国民は愚かにも,創造されたものを神としています。しかし,ユダヤ人は諸国民を厳しく裁いてはなりません。ユダヤ人もまた罪があるからです。どちらのグループもその行ないによって裁かれることになります。神は不公平な方ではないからです。肉の割礼の有無は決定の要素ではありません。「内面のユダヤ人がユダヤ人なのであって,その人の割礼は……心の割礼」だからです。―2:29。
9 (イ)どのような点でユダヤ人は勝っていますか。しかし,すべての者が罪のもとにあることを示すためにパウロはどんな聖句を引用しますか。(ロ)では,人はどのようにして義と宣せられますか。どんな例がこの論議を支持していますか。
9 すべての者は信仰によって義と宣せられる(3:1-4:25)。「では,ユダヤ人の勝ったところは何ですか」。大いにあります。ユダヤ人は神の神聖な宣言を託されたからです。しかし,「ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあ(り)」,神の目から見て「義」人はひとりもいません。この点を証明するため,ヘブライ語聖書から合計七つの引用がなされます。(ローマ 3:1,9-18。詩編 14:1-3; 5:9; 140:3; 10:7。箴言 1:16。イザヤ 59:7,8。詩編 36:1)律法は,人間が罪を持つ者であることをはっきり示します。したがって,『律法の業によって肉なる者が義と宣せられることはありません』。しかし,神の過分のご親切と贖いによる釈放により,ユダヤ人もギリシャ人も,「律法の業とは別に,信仰によって」義と宣せられているのです。(ローマ 3:20,28)パウロはこの論議の裏付けとしてアブラハムの場合を例に引きます。彼は,業や割礼のゆえではなく,その模範的な信仰のゆえに義とみなされました。こうしてアブラハムは,ユダヤ人ばかりでなく,「信仰を持つ人すべて」の父となりました。―4:11。
10 (イ)死が王として支配するに至ったしだいを述べなさい。(ロ)キリストの従順の結果として何がもたらされましたか。しかし,罪に関してどんなことが警告されていますか。
10 もはや罪の奴隷ではなく,キリストを通して義の奴隷である(5:1-6:23)。一人の人アダムを通して罪が世に入り,罪が死をもたらし,「こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広が」りました。(5:12)死がアダム以来モーセに至るまで王として支配しました。モーセを通して律法が与えられた時,罪は満ちあふれ,死が引き続き君臨しました。しかし,神の過分のご親切は今やさらに満ちあふれ,キリストの従順を通して多くの者が永遠の命のために義と宣せられています。しかしこれは罪のうちに生活してよいという意味ではありません。キリストへのバプテスマを受けた人は罪に対して死んだ者とならなければなりません。その古い人格は杭につけられ,彼らは神に関連して生きています。罪はもはや彼らを支配せず,彼らは神聖さの見込みを持つ義の奴隷となります。「罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」です。―6:23。
11 (イ)クリスチャンとなったユダヤ人が律法から釈放されることをパウロは例えを使ってどのように説明しますか。(ロ)律法はどんなことを明瞭にしましたか。それで,クリスチャンの中でどんなものが戦い合っていますか。
11 律法に対して死に,キリストと結ばれて霊によって生きる(7:1-8:39)。パウロは,夫が生きているかぎり夫につながれ,夫が死ねば再婚の自由を持つ妻の立場を例にして説明します。クリスチャンとなったユダヤ人はキリストの犠牲を通し律法に対して死んだ者とされ,キリストのものとなって神に対する実を結ぶ自由を得ました。聖なる律法は罪をいよいよ明らかにし,罪は死をもたらしました。わたしたちの肉の体に宿る罪は,わたしたちが抱く善良な意向に対して戦いを挑みます。パウロはこう述べます。「自分の願う良い事柄は行なわず,自分の願わない悪い事柄,それが自分の常に行なうところとなっている」。したがって,「それを生み出しているのはもはやわたしではなく,わたしのうちに宿っている罪です」― 7:19,20。
12 どのようにしてある人々はキリストと共同の相続人となりますか。そのような人はどんな点で全く勝利を収めていますか。
12 人間をこの惨めな状態から救いうるものは何でしょうか。神が,キリストに属する人々をご自分の霊によって生きさせることができます! 彼らは養子として迎えられ,義と宣せられ,神の相続人,またキリストと共同の相続人となり,栄光を受けます。彼らに対してパウロはこう語ります。「もし神がわたしたちの味方であるなら,だれがわたしたちに敵するでしょうか。……だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すでしょうか」。だれもそのようなことはできません! パウロは揚々と宣言します,「わたしたちは,わたしたちを愛してくださった方によって……全く勝利を収めているのです。死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです」。―8:31,35,37-39。
13 (イ)預言によると,神の真のイスラエルの中にだれが含まれますか。これは神のどんな原則によりますか。(ロ)肉のイスラエル人が目ざしていたものに達しえなかったのはなぜですか。しかし,救いのためには何が必要ですか。
13 「イスラエル」は信仰と神の憐れみとによって救われる(9:1-10:21)。パウロは同胞であるイスラエル人に対して「大きな悲嘆」を言い表わしますが,肉のイスラエルがみな真の「イスラエル」ではないことを認めます。神はだれでもご自分の望む時に子たちを選ぶ権威を有しておられるからです。ファラオに対する神のご処置と,陶器師の例えとに示されるとおり,「願う者にでも走る者にでもなく,ただ憐れみを持たれる神にかかっているのです」。(9:2,6,16)ホセアが遠い昔に予告したとおり,神は「ユダヤ人だけでなく,諸国民の中からも」子となる人々を召しておられます。(ホセア 2:23)イスラエルは,『信仰によらず,業によるかのようにして』神の恵みを得ようとしたため,また「とがのもととなる岩塊」であるキリストにつまずいたために,失敗しました。(ローマ 9:24,32,33)彼らは「神に対する熱心さ」を抱いていましたが,「それは正確な知識によるものではありません」でした。義のために信仰を働かせる人々にとってキリストは律法の終わりであり,救いを得るために,人は「イエスは主である」と公に宣言し,「神(が)彼を死人の中からよみがえらせた」という信仰を働かせなければなりません。(10:2,9)あらゆる国の人が聞き,信仰を持ち,エホバの名を呼び求め,こうして救いを得るために,宣べ伝える者たちが遣わされます。
14 パウロはオリーブの木の例えによってどんなことを説明しますか。
14 オリーブの木の例え(11:1-36)。過分のご親切のゆえに生来のイスラエルの残りの者が選ばれていますが,大多数の者がつまずいたために,「諸国の人たちに救いがある」ようになりました。(11:11)パウロはオリーブの木の例えを使い,肉のイスラエルの信仰の欠如のゆえに,非ユダヤ人が接ぎ木されたいきさつを示します。とは言え,非ユダヤ人は,イスラエルが退けられたことを歓ぶべきではありません。神が不忠実であった生来の枝を惜しまれなかったのであれば,諸国民の中から接がれた野生のオリーブの枝を惜しまれることもないからです。
15 生きた犠牲を神にささげることには何が含まれていますか。
15 思いを作り直すこと。上位の権威(12:1-13:14)。自分の体を生きた犠牲として神にささげなさい,とパウロは勧めます。もはや『自分をこの事物の体制に合わせる』のではなく,「思いを作り直すことによって自分を変革し」なければなりません。高慢になってはなりません。キリストの体は,人体と同じように多くの肢体を有しています。その肢体はそれぞれに異なった機能を有していますが,それでも一致して共に働きます。だれに対しても悪に悪を返してはなりません。復しゅうはエホバにゆだねなさい。「善をもって悪を」征服しなさい。―12:2,21。
16 クリスチャンは権威者や他の人々の前でどのように行動すべきですか。
16 上位の権威に服さなければなりません。それは神の取り決めです。善を行ないつづけ,互いに愛することを別にすれば,だれに対しても何一つ負ってはなりません。救いが近づいています。それゆえ,「闇に属する業を捨て去り,光の武器を身に着け」なければなりません。(13:12)良い振る舞いのうちに歩み,肉の欲望のままに歩んではなりません。
17 人を裁いたり,弱い人たちを築き上げたりすることに関して,どんな助言が与えられていますか。
17 裁くことをせずにすべての人を公平に迎え入れなさい(14:1-15:33)。信仰の弱さのためにある種の食物を断ったり,祝祭の日を守ったりする人のことを我慢しなさい。自分の兄弟を裁いてはならず,また自分の飲食によって兄弟をつまずかせてもなりません。神がすべての者を裁かれるからです。平和と,人を築き上げる事柄とを追い求め,他の人の弱いところを担いなさい。
18 (イ)神が非ユダヤ人を受け入れられたことを示すためにパウロはさらにどんなことばを引用しますか。(ロ)パウロ自身は神の過分のご親切をどのように活用しますか。
18 使徒パウロは,「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれた」と記し,神の約束の適用範囲が非ユダヤ人の諸国民に対しても広げられることを,霊感を受けた預言者たちがずっと以前に予告していたことを示す決定的な証拠として,ヘブライ語聖書のことばをさらに四つ引用します。(ローマ 15:4,9-12。詩編 18:49。申命記 32:43。詩編 117:1。イザヤ 11:1,10)そしてパウロはこう訓戒します。「それゆえ,神の栄光となることを目ざしつつ,キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように,あなた方も互いを迎え入れなさい」。(ローマ 15:7)パウロは,神の過分のご親切を受けて諸国民に対する公僕とされ,「神の良いたよりの聖なる業」に携わっていることに対する感謝を言い表わします。また彼は,「ほかの人の土台の上に建てる」代わりに,新しい区域を開くことを常に求めています。そして,彼の務めはまだ終了したのではありません。彼は,寄付をエルサレムに届けたのち,遠いスペインに至るまでのさらに大規模な伝道旅行を計画しているからです。そして,その地に向かう途中で,ローマにいる自分の霊的な兄弟たちに,「キリストからの祝福を十分に」携えて行くことが彼の願いです。―15:16,20,29。
19 どんなあいさつと勧めのことばが手紙の結びとなっていますか。
19 結びのあいさつ(16:1-27)。パウロはローマ会衆の26人,および他の人々に,名指しで個人的なあいさつを送り,また,分裂を生じさせる人々を避け,「良いことについては賢く,よこしまなことについては純真であるように」と説き勧めます。すべての点で,「神に,栄光が,イエス・キリストを通して永久にありますように。アーメン」― 16:19,27。
なぜ有益か
20 (イ)ローマ人への書は,神の存在を信ずるどんな論理的理由を提出していますか。(ロ)神の義と憐れみはどのような例えで説明されていますか。それに基づいてパウロは何と叫びますか。
20 ローマ人への書は,「神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見える」と述べて,神の存在を信ずる論理的な根拠を提出しています。しかし,それだけではありません。この書はさらに神の義を高め,神の深い憐れみと過分のご親切とを知らせています。その点は,生来の枝が切り落とされた後に野生の枝が接がれたという,オリーブの木の例えで美しく描かれています。こうした神の厳しさとそのご親切とを思い見て,パウロはこう叫びます。「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は何とたどりがたいものなのでしょう」。―1:20; 11:33。
21 ローマ人への書は神の神聖な奥義のいっそうの発展をどのように示していますか。
21 また,この点に関連して,ローマ人への書は,神の神聖な奥義のいっそうの発展についても説明しています。クリスチャン会衆内において,ユダヤ人と異邦人の区別はもはやなく,あらゆる国の人が,イエス・キリストを通してエホバの過分のご親切にあずかることができます。「神に不公平はない」のです。「内面のユダヤ人がユダヤ人なのであって,その人の割礼は霊による心の割礼で,書かれた法典によるものではありません」。「ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。すべての者の上に同じ主がおられ,この方はご自分を呼び求めるすべての者に対して豊かなのです」。これらのすべての者が義とみなされるのは,信仰によるのであり,業によるのではありません。―2:11,29; 10:12; 3:28。
22 ローマ人への書は会衆外の人々との関係についてどんな実際的助言を与えていますか。
22 ローマのクリスチャンにあてられたこの手紙に含まれる実際的な助言は,異質の世界で同様の問題に直面する今日のクリスチャンにとっても等しく有益です。クリスチャンは,会衆外の人々を含め,『すべての人に対して平和を求める』ように諭されています。すべての魂は「上位の権威に服」さなければなりません。それは神の取り決めであり,法に従う者ではなく,悪い行ないをする者が恐れるべきものだからです。クリスチャンは法に従ってそれに服すべき立場にあります。それは処罰に対する恐れのためだけではなく,クリスチャンとしての良心のためでもあり,そのゆえにクリスチャンは,税を納め,当然払うべきものを払い,自分の務めを果たし,「互いに愛し合うことのほかは」だれにも何も負わないようにします。愛は律法を全うするものです。―12:17-21; 13:1-10。
23 パウロは公に宣言することの大切さをどのように強調していますか。宣教奉仕のための備えという点で彼はどのような手本を示していますか。
23 パウロは公の証言を強調しています。人が義のために信仰を働かせるのは心においてですが,救いのために公の宣言をするのは口によります。「エホバの名を呼び求める者はみな救われ」ます。しかし,そうなるためには,宣べ伝える者が出かけて行って,「良い事柄についての良いたよりを宣明する」ことが必要です。その宣べ伝える者の音は「人の住む地の果てにまで」達しています。その仲間に加わっているなら,その人は幸福です。(10:13,15,18)そしてわたしたちは,この宣べ伝える業に備えるため,パウロと同じように霊感の聖書に精通する努力を行なえますように。パウロは,この1か所(10:11-21)だけで,ヘブライ語聖書のことばを次から次へと数多く引用しています。(イザヤ 28:16。ヨエル 2:32。イザヤ 52:7; 53:1。詩編 19:4。申命記 32:21。イザヤ 65:1,2)パウロが次のように言えたのももっともです。「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」― ローマ 15:4。
24 熱意や,会衆内の人たちとの幸福な関係を育て上げるために,パウロはどんな忠告を与えていますか。
24 クリスチャン会衆内での人と人との関係について実際的な忠告がすばらしい形で与えられています。以前の国家的,人種的,または社会的背景がどのようなものであるにせよ,すべての人は,「善にして受け入れられる完全なご意志」にしたがって神聖な奉仕を神にささげるため,自分の思いを作り直さなければなりません。(11:17-22; 12:1,2)ローマ 12章3節から16節のパウロの助言全体には,何と実際的な道理にかなった考え方が息づいているのでしょう。そこには確かに,クリスチャン会衆内のすべての人の間に熱意や謙遜さや優しい愛情をはぐくむための優れた訓戒のことばがあります。結びの幾つかの章の中で,パウロは,分裂を引き起こす人々に警戒し,そうした人々を避けるようにと強く訓戒していますが,また,会衆内での清い交わりを通して互いに得る喜びとさわやかさについても述べています。―16:17-19; 15:7,32。
25 (イ)ローマ人への書は,神の王国に関してどんな正しい見方,またいっそうの理解を与えていますか。(ロ)ローマ人への書を研究することはどのような点でわたしたちの益になるはずですか。
25 クリスチャンとして,わたしたちは互いどうしの関係を終始見守らなければなりません。「神の王国は,食べることや飲むことではなく,義と平和と聖霊による喜びとを意味しているからです」。(14:17)この義と平和と喜びは,「キリストと共同の相続人」となり,天の王国でキリストと「共に栄光を受ける」人々が特に受ける分です。また,ローマ人への書が,「平和を与えてくださる神は,まもなくサタンをあなた方の足の下に砕かれるでしょう」と述べて,エデンで与えられた王国に関する約束がどのように実現するかについてさらに詳細な点を指摘していることにも注意してください。(ローマ 8:17; 16:20。創世記 3:15)こうした偉大な真理を信じつつ,わたしたちは引き続きあらゆる喜びと平和で満たされ,希望に満ちあふれますように。そして,わたしたちの決意は,王国の胤と共に最終的に勝利を得ることでありますように。わたしたちは,上の天にあるものも,下の地にあるものも,「またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを」確信しているからです。―ローマ 8:39; 15:13。
[脚注]
a 「我々の聖書と古代の写本」(英文),1958年,188ページ。